明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

邪馬台国の真実

2022-12-09 15:59:00 | 歴史・旅行
先週の火曜日から渡邊徹の「邪馬台国への道」と言う本を読んでいる。この本を読むと「最初に驚愕の事実」にぶち当たるのだ。なんと怡土国は「糸島地方では無い」というのだ。怡土国は糸島地方だと信じて疑わなかった今までの歴史を全て根底から覆す新説に、びっくり刮目してしばし iPad を置き天を仰いだ。これは初めての読み方だが、著者の説明は真面目そのものだ。私はもともと素人で古代史を始めたキッカケも学問とは無縁の人間、どんな説も受け入れる覚悟は出来ている。

そもそもだが、邪馬台国論争は名前の比定からスタートしている。対海国・一大国・末盧国と、お馴染みの国名が続く。そして怡土国が「福岡県糸島地方」だという「名前がそっくり」な地域に比定する考えが、江戸時代から自明の事として言われてきた。その上で東南とある記述を北東に読み替えるという改訂を行って「喧々諤々」の議論が延々続いてきたのである。しかし渡邊徹は「名前にとらわれずに素直に読む」ことを宣言した。その手始めが、「一律数値誇張仮説」というものである。この本で邪馬台国の場所が分かったと言う為には、「新しい仮説」が納得できるかどうかにかかっているのだ。

では一律数値誇張仮説とはどんなものなのか?簡単に説明しよう。それは「仮説に則って出てきた結果が十分信じられるなら、その仮説は妥当である」という理屈だ。これは仮説の優劣を競う話ではないから、結果さえ妥当なら問題ないとも言える。だがいきあたりばったりに仮説を連発しては古代史理論書としては失格である。そこで彼は「里程・日程は一律10倍に誇張した」と考えた。さらに「国の戸数は100倍に誇張」したとするのである。

理由は、作者の陳寿は「何らかの目的で倭国を大きな強大な国に見せたかった」と書いている。勿論陳寿は倭国に来ていないので、「倭国に行った人から又聞き」で書いている。だが海の彼方の僻遠の島国が、強大な国家を形成しているというロマンチックな話は、陳寿にしても大いに想像力を掻き立てたことであろう。ここは素直にこの仮説を受け入れるしか無い、問題は結果である。結果が自分の描く歴史の全体像と合致しているかどうか、それが私の歴史学である。

で、まず怡土国は「東南陸行50里(500里とあるが一律数値誇張仮説により訂正)」だと書いてある。確かにその通りに行くと松浦川沿いに「佐賀平野に抜ける唐津街道」が通っていて、「小城または多久」という集落がある。渡邊は怡土国が福岡県糸島市に比定して来た過去の定説を、種々の理由で「誤った比定」だと喝破する。それは、1. 糸島では方角が北東、2. 間に背振山脈があってとても陸行出来ない、3. 港のある怡土国が邪馬台国へ行く道順にあるなら、わざわざ末盧国に上陸する必要がない、と理路整然と切って捨てる。私もこの理屈に賛成だ。すんなり理屈が通る、これが大切である。

そして弥生時代の海岸線や地形による遺跡の分布などを交えながら、怡土国・奴国を見つけ出していき、十分な説得力をもって「邪馬台国は熊本宮地大地にあった」と結論づけている。これなら道順は「末盧国から真っ直ぐ邪馬台国へ向かっている」のであり、方角と修正距離も正確で、途中の弥生時代の地形と遺跡などの物証の説明も納得させられて、「邪馬台国は間違いなくここだ」と確信させられた。400年の長い論争に決着がついた瞬間である。おお、神よ!

邪馬台国は倭人をまとめていた宗主国であるが、卑弥呼が死んだ後はこれといった事績もなく、歴史の表舞台から消えていった。次に中国の歴史書に出てくるのは「倭の五王」である。だが邪馬台国が時代が下がって倭国になったのでは無いと私は思っている。私の読書歴から形成された古代史の真実は、「日本は熊襲族と天孫族との熾烈な戦いを繰り返していて、久留米・浮羽・日田あたりが激戦区」という認識なのだ。天孫族は仲哀天皇の後に神功皇后が出て一時的に範囲を拡げるが、結局熊襲族が全国統一を果たす、というのが今の私の見解である。だが、600年頃に「日出る処の天子=阿毎多利思北弧」というのが、中国の歴史書に登場する。名前が「阿毎」というのが「悩ましい」ではないか。彼は日本の外交史上で燦然と輝く強気の大王である。彼の王国が「太宰府」に都を構えていたとするなら、彼は天孫族の末裔では無いだろうか?

今回の本では怡土国は佐賀県だから、普通に年代が下がっていけば久留米から浮羽あたりに中心が移っても不思議はない。一方で、天孫族は「後漢の光武帝から金印を貰った」部族で、魏志倭人伝の倭人とは関係ない別の部族ということになる。これが新たな「大いなる謎」である。私が邪馬台国の場所を熊本だと確信できたとしても、4世紀から6世紀の倭国の歴史と阿毎多利思北弧との繋がりや大和地方の蘇我氏から天智天皇・天武天皇との激動の歴史を知るという私のライフワークとは、余り関係が無いのかも知れない。

邪馬台国は古代史上の一大エポックではあるが、「倭国大乱」を収めた卑弥呼という女性巫女の物語として歴史の中で「独立した存在」、と考えるのが妥当じゃないかと私には思えて仕方がない。1世紀に北九州の志賀島にあった倭人の国が、3世紀には末盧国から怡土国・奴国へと変遷し、そして5世紀には太宰府に都を置くまでに覇権を拡大している事実をどう捉えるか。織田信長が天下を取るまでにも「群雄割拠」の状態は日本国中を覆っていた。規模は小さいながらも、当時から「出雲・越・吉備・尾張など」あちこちで発展した国が別々に存在していたのである。古代史を読むとは、その群雄割拠が「一つの強大な政権に収斂していく過程」を紐解くことである。

渡邊徹のお陰でひとまず邪馬台国の謎は解けたわけだが、一層深い古代史の闇の中に放り込まれてしまった。古代史は、まだまだ知らなければいけないことが山ほどあるらしい。私の戦闘意欲は、さらに激しく燃え盛って来た。


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