先週、邪馬台国の前編後編の番組があったのでちょっと見てみた。最近になく珍しいテーマ(ブームは既にさっているが)であったのと、何か新しい知見でも出たのかと興味を掻き立てられたのである。一応の疑問に答える形で3つ程の説明がなされたが、どれも目新しいものではなく失望した。といっても毎度の事で驚くことではない。この邪馬台国論争は、かれこれ300年間も続いているとのことで何故か分からないが考古学上の難題だそうである。私にとっては難題でも何でもなく、答えは「邪馬台国は九州にあった」で終わりなのだが、それなのに性懲りもなく畿内地方のどこそこから何が発見された云々とニュースに出るたんびに、「やっぱり」と言い出す輩がいるから始末に負えない。魏志倭人伝をちゃんと読んだのか?と聞きたい気持ちはやまやまだが、問いただしても「もともと学術的なアプローチではない邪馬台国畿内説論者」などにまともな答えを期待するほうが間違っているのだから、もう何をかいわんやである。邪馬台国畿内大和論者はさっさと荷物をまとめて、どこか遠いところへでも消えてしまうのが世のため人のためというもんだ。
と言い切ってしまっては身も蓋もないから、少しここで問題点お攫いしておこう。
1 韓国から九州
韓国の帯方郡から7000里と書いてあるが、そもそもこの帯方郡の所在地が今のソウル近辺ではなく「平壌のさらに北方だ」という本を昔読んだ記憶があって、割と精密に文献を解読していた本だったと思ったが学会から完全に無視されて全く歯牙にもかけられなかったようなので、私もそれ以上突っ込んで解明しなかった。理由は「邪馬台国が満州の方にあったとしたら、何が変わるのか?」という疑問に対して、答えが「邪馬台国論争は日本史の範囲では無い」であったので、この説はこれ以上読んでもしょうがないと思っただけの事である。それに対馬・壱岐・末盧と言った地名についての説明も無かったので、この案はやむなく没になった。他にもいろいろ説があって所在地が日本以外の説も多いのだが、日本じゃなかったら「日本史でなくなる」ので私的には没である。だって面白くも何とも無いじゃあーりませんか?したがって邪馬台国へ行くには、「まず韓国から九州へ渡る」と思う。
2 上陸地点
対馬・壱岐・末盧と来てから、奴国に行く時に南と書いてあるところを「伊都国・奴国は博多地方であるから」として、南を東北の書き間違いと説明する九州論者が多いのだが、原文の書き間違いとか写し違いと言い始めたのでは文献を正しく読むことからどんどん離れて行ってしまう。ここは南と「原文通り」読まなくてはダメなのだ。伊都国・奴国が博多だと云うのは一見正しいように見えるがそれは現代の知識であり、魏志倭人伝の文脈から考えると使節団は「もっと内陸の方」に向かっているとしか思えない。第一博多の方に邪馬台国があるのなら「わざわざ末盧で陸行する」必要は全くないのではなかろうか。岸沿いに行って博多で陸に上がり、それから陸行すれば良いからである。だから使節団は末盧が最も女王国に近い上陸地点であると考えていることになる。しかし女王国へのルートが「前人の姿が見えない」程の草ボーボーであるなら、「現在交易している国は30国」という文章が意味不明になってしまう。ここの部分についてはもう一度読み返さなくてはならないだろう。
3 旅行日程の説明終了
伊都国が旅の終着点であり、邪馬台国はその南にあると書いてある。どう考えてもそうとしか読めないのだが、世の中の畿内説の論者は馬鹿なのか「邪馬台国は奈良県にある」と言い張っているのだ、それも歴史学の教授や考古学の先生や発掘責任者のお偉方の面々である。邪馬台国は伊都国に隣接しているのである。これは古田説であるが疑問を再挟む余地は無い。但し従来のような博多の南(太宰府の辺り)ではなく、いわゆる吉野ヶ里遺跡の辺りだと考えるのが妥当だと思う。要は魏志倭人伝の本質を読み解けば、魏の皇帝に邪馬台国を紹介する文章である。まず行き方をざっと書き、風俗や政治形態などの特徴を書き、という内容である。だから帯方郡から対馬・壱岐を経て「末盧という所で上陸し」、それから陸行して邪馬台国に至る、そして丁寧に「全部で水行10日・陸行1月」と説明しているのである。今で言えばハワイを経由してサンフランシスコに上陸し、東北に陸行してシカゴを通り「そしてニューヨークに」着く、という説明の仕方である。これは旅行の案内文としては至極当然だ。まともに考えれば奈良県に行くのに「何の関係も無い九州で上陸する理由なんか全然無い」のである。真っ直ぐ瀬戸内海から大阪を経由して飛鳥川を遡れば「放っといても着く」筈じゃないだろうか。途中で上陸する必要なんかどこにもないのは火を見るよりも明らかである。もし途中で瀬戸内のいくつかの場所に寄ったとすれば名前とか説明とかがあってもいい筈なのに、それすらも魏志倭人伝には途中の説明は無い。旅行案内としては「全く不親切である。従って邪馬台国は末盧から上陸してまっすぐの所にある、と思う。或いは末盧が最短距離であるかもしくは「最も安全なルート」である。
4 地理的な環境
伊都国は女王国から一大率が常駐していた、と書いてある。詳しいことはいいとして、女王国の周りには奴国などの大国がいくつもあり、戦争をしていたのを卑弥呼がまとめてようやく平和になったという。つまり相当な数の国が割拠していたというのだ。早くから大陸の稲作技術を導入して多くの人口を抱えていた北九州地方なら分かる話だが、山に囲まれた盆地で小さな部族が精々の奈良地方では、互いに攻伐して云々の状況は余り起こらないのじゃないだろうか。それに生駒山地の西側、つまり河内のほうが海が近くて「中国との交易が内陸の奈良より進んでいる」筈である。そう考えれば「奈良よりも博多の方が先進技術が早く入ってくる」のは当然であり、幼稚園の子供でも分かることである。しかも弥生時代の鉄器の遺跡は殆ど北九州でしか発見されてないのだ!当たり前である。佐賀県・福岡県・大分県などに山のように出てくる弥生時代の鉄や勾玉が、奈良県にはチョボチョボでしかないのある。従って邪馬台国は九州にあると思う。
5 全体としての魏志倭人伝
当時の日本には邪馬台国だけでは無く、吉備地方や出雲地方や尾張地方やその他多くの国々が発生していた。邪馬台国もその内の一つに過ぎないのである。中国に劣らず日本も群雄割拠の状態なのであり、その中でも一歩抜きん出て大陸の先進技術を取り入れ「鏡を貰ってバラ撒いた」のが卑弥呼であり、武力では無く「霊力で治めた」のである。邪馬台国は最大の国ではなく最強の国でも無い、ただ女王国という「貴国」であった。そういう文化の力で他を圧倒するような国というのには、弥生時代の奈良県は余りにも貧しい。巨大な前方後円墳が続々と作られたのは、卑弥呼よりもっと後の古墳時代である。べにバナの花粉が発見された云々といって大騒ぎしているらしいが、それが何の意味があるのだろうか。少なくともべにバナでは無いかもしれないが、「弥生時代の倭錦の発掘品が埋まっていたのは」北九州である。しかも幾つかある。遺跡の分布状況から見ても弥生墓の量から言っても、それに何と言っても中国との交易の歴史から言っても「九州北部}は動かないのである。一つ一つの断片をこじ付ければ「何となくそうかなぁ」という程度の話のタネにはなるかもしれないが、「全体として辻褄が合う」ストーリーには奈良は無理なのである。従って邪馬台国は九州にあったと考えるのが妥当である。
で、邪馬台国が近畿地方にあったという説は、無理も無理の与太話なのだが、未だに「学問的に否定しない学者」が居るのは頭にくる。来週にも後編をやるそうだが、もういい加減ケリをつけたらどうなのか。私的には邪馬台国が九州にあったで「何処と特定出来なくても」構わないし、特定する事が重要だとも思わない。いつまでも近畿地方だと言って憚らないバカ学者を全部クビにすることの方が大事である。今に世界から日本の考古学が「バカにされる」日が来るのは必定であろう。
ちょっと興奮して書き方が下品になってしまったことはお詫びする。私の尊敬する古田教授(故人)の「邪馬台国はなかった」と言う本にはそもそも邪馬壱国というのが文献学的に正しいと書いてあって、本のテーマが名前を中心にして展開されているようだが、50歳台の頃初めて本屋で見つけて「その他の記述に大いに心を動かされた」思い出の書である。私の古代はこの本に始まるといっても過言ではない。肝心の邪馬台国にかんしてだが、一つ挙げれば「魏志倭人伝には阿蘇山の描写と思われる箇所がある」のだそうだが、近畿大和には活火山はないんじゃないかな。女王国の風物を描く説明文に「影も形もない火山の描写など」ありえないではないか?距離計算がどうたらこうたらといつまでも細部の解釈にこだわるのではなく「全体の構成と何を伝えている文章なのか」を考えれば、自ずと答えは最初から見えている筈である。邪馬台国が現実の日本のどこにあったかという近視眼的な興味本位で根掘り葉掘り細部にこだわって全体が見えない議論では、本当の古代は見えてこない。大事なことは邪馬台国の描かれていた3世紀から、最初の実在する天皇と言われている崇神天皇の時代へと動いていった日本史の始まりを解明することである。それが仁徳から雄略・継体・天智・天武へと動いて行く大きな流れを解き明かすことになる。これこそが「私の古代史」である。
追伸:末盧に上陸してから草ボーボーだったという記述については、もう一度原文を読み返して後日書き足したい。
と言い切ってしまっては身も蓋もないから、少しここで問題点お攫いしておこう。
1 韓国から九州
韓国の帯方郡から7000里と書いてあるが、そもそもこの帯方郡の所在地が今のソウル近辺ではなく「平壌のさらに北方だ」という本を昔読んだ記憶があって、割と精密に文献を解読していた本だったと思ったが学会から完全に無視されて全く歯牙にもかけられなかったようなので、私もそれ以上突っ込んで解明しなかった。理由は「邪馬台国が満州の方にあったとしたら、何が変わるのか?」という疑問に対して、答えが「邪馬台国論争は日本史の範囲では無い」であったので、この説はこれ以上読んでもしょうがないと思っただけの事である。それに対馬・壱岐・末盧と言った地名についての説明も無かったので、この案はやむなく没になった。他にもいろいろ説があって所在地が日本以外の説も多いのだが、日本じゃなかったら「日本史でなくなる」ので私的には没である。だって面白くも何とも無いじゃあーりませんか?したがって邪馬台国へ行くには、「まず韓国から九州へ渡る」と思う。
2 上陸地点
対馬・壱岐・末盧と来てから、奴国に行く時に南と書いてあるところを「伊都国・奴国は博多地方であるから」として、南を東北の書き間違いと説明する九州論者が多いのだが、原文の書き間違いとか写し違いと言い始めたのでは文献を正しく読むことからどんどん離れて行ってしまう。ここは南と「原文通り」読まなくてはダメなのだ。伊都国・奴国が博多だと云うのは一見正しいように見えるがそれは現代の知識であり、魏志倭人伝の文脈から考えると使節団は「もっと内陸の方」に向かっているとしか思えない。第一博多の方に邪馬台国があるのなら「わざわざ末盧で陸行する」必要は全くないのではなかろうか。岸沿いに行って博多で陸に上がり、それから陸行すれば良いからである。だから使節団は末盧が最も女王国に近い上陸地点であると考えていることになる。しかし女王国へのルートが「前人の姿が見えない」程の草ボーボーであるなら、「現在交易している国は30国」という文章が意味不明になってしまう。ここの部分についてはもう一度読み返さなくてはならないだろう。
3 旅行日程の説明終了
伊都国が旅の終着点であり、邪馬台国はその南にあると書いてある。どう考えてもそうとしか読めないのだが、世の中の畿内説の論者は馬鹿なのか「邪馬台国は奈良県にある」と言い張っているのだ、それも歴史学の教授や考古学の先生や発掘責任者のお偉方の面々である。邪馬台国は伊都国に隣接しているのである。これは古田説であるが疑問を再挟む余地は無い。但し従来のような博多の南(太宰府の辺り)ではなく、いわゆる吉野ヶ里遺跡の辺りだと考えるのが妥当だと思う。要は魏志倭人伝の本質を読み解けば、魏の皇帝に邪馬台国を紹介する文章である。まず行き方をざっと書き、風俗や政治形態などの特徴を書き、という内容である。だから帯方郡から対馬・壱岐を経て「末盧という所で上陸し」、それから陸行して邪馬台国に至る、そして丁寧に「全部で水行10日・陸行1月」と説明しているのである。今で言えばハワイを経由してサンフランシスコに上陸し、東北に陸行してシカゴを通り「そしてニューヨークに」着く、という説明の仕方である。これは旅行の案内文としては至極当然だ。まともに考えれば奈良県に行くのに「何の関係も無い九州で上陸する理由なんか全然無い」のである。真っ直ぐ瀬戸内海から大阪を経由して飛鳥川を遡れば「放っといても着く」筈じゃないだろうか。途中で上陸する必要なんかどこにもないのは火を見るよりも明らかである。もし途中で瀬戸内のいくつかの場所に寄ったとすれば名前とか説明とかがあってもいい筈なのに、それすらも魏志倭人伝には途中の説明は無い。旅行案内としては「全く不親切である。従って邪馬台国は末盧から上陸してまっすぐの所にある、と思う。或いは末盧が最短距離であるかもしくは「最も安全なルート」である。
4 地理的な環境
伊都国は女王国から一大率が常駐していた、と書いてある。詳しいことはいいとして、女王国の周りには奴国などの大国がいくつもあり、戦争をしていたのを卑弥呼がまとめてようやく平和になったという。つまり相当な数の国が割拠していたというのだ。早くから大陸の稲作技術を導入して多くの人口を抱えていた北九州地方なら分かる話だが、山に囲まれた盆地で小さな部族が精々の奈良地方では、互いに攻伐して云々の状況は余り起こらないのじゃないだろうか。それに生駒山地の西側、つまり河内のほうが海が近くて「中国との交易が内陸の奈良より進んでいる」筈である。そう考えれば「奈良よりも博多の方が先進技術が早く入ってくる」のは当然であり、幼稚園の子供でも分かることである。しかも弥生時代の鉄器の遺跡は殆ど北九州でしか発見されてないのだ!当たり前である。佐賀県・福岡県・大分県などに山のように出てくる弥生時代の鉄や勾玉が、奈良県にはチョボチョボでしかないのある。従って邪馬台国は九州にあると思う。
5 全体としての魏志倭人伝
当時の日本には邪馬台国だけでは無く、吉備地方や出雲地方や尾張地方やその他多くの国々が発生していた。邪馬台国もその内の一つに過ぎないのである。中国に劣らず日本も群雄割拠の状態なのであり、その中でも一歩抜きん出て大陸の先進技術を取り入れ「鏡を貰ってバラ撒いた」のが卑弥呼であり、武力では無く「霊力で治めた」のである。邪馬台国は最大の国ではなく最強の国でも無い、ただ女王国という「貴国」であった。そういう文化の力で他を圧倒するような国というのには、弥生時代の奈良県は余りにも貧しい。巨大な前方後円墳が続々と作られたのは、卑弥呼よりもっと後の古墳時代である。べにバナの花粉が発見された云々といって大騒ぎしているらしいが、それが何の意味があるのだろうか。少なくともべにバナでは無いかもしれないが、「弥生時代の倭錦の発掘品が埋まっていたのは」北九州である。しかも幾つかある。遺跡の分布状況から見ても弥生墓の量から言っても、それに何と言っても中国との交易の歴史から言っても「九州北部}は動かないのである。一つ一つの断片をこじ付ければ「何となくそうかなぁ」という程度の話のタネにはなるかもしれないが、「全体として辻褄が合う」ストーリーには奈良は無理なのである。従って邪馬台国は九州にあったと考えるのが妥当である。
で、邪馬台国が近畿地方にあったという説は、無理も無理の与太話なのだが、未だに「学問的に否定しない学者」が居るのは頭にくる。来週にも後編をやるそうだが、もういい加減ケリをつけたらどうなのか。私的には邪馬台国が九州にあったで「何処と特定出来なくても」構わないし、特定する事が重要だとも思わない。いつまでも近畿地方だと言って憚らないバカ学者を全部クビにすることの方が大事である。今に世界から日本の考古学が「バカにされる」日が来るのは必定であろう。
ちょっと興奮して書き方が下品になってしまったことはお詫びする。私の尊敬する古田教授(故人)の「邪馬台国はなかった」と言う本にはそもそも邪馬壱国というのが文献学的に正しいと書いてあって、本のテーマが名前を中心にして展開されているようだが、50歳台の頃初めて本屋で見つけて「その他の記述に大いに心を動かされた」思い出の書である。私の古代はこの本に始まるといっても過言ではない。肝心の邪馬台国にかんしてだが、一つ挙げれば「魏志倭人伝には阿蘇山の描写と思われる箇所がある」のだそうだが、近畿大和には活火山はないんじゃないかな。女王国の風物を描く説明文に「影も形もない火山の描写など」ありえないではないか?距離計算がどうたらこうたらといつまでも細部の解釈にこだわるのではなく「全体の構成と何を伝えている文章なのか」を考えれば、自ずと答えは最初から見えている筈である。邪馬台国が現実の日本のどこにあったかという近視眼的な興味本位で根掘り葉掘り細部にこだわって全体が見えない議論では、本当の古代は見えてこない。大事なことは邪馬台国の描かれていた3世紀から、最初の実在する天皇と言われている崇神天皇の時代へと動いていった日本史の始まりを解明することである。それが仁徳から雄略・継体・天智・天武へと動いて行く大きな流れを解き明かすことになる。これこそが「私の古代史」である。
追伸:末盧に上陸してから草ボーボーだったという記述については、もう一度原文を読み返して後日書き足したい。
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