明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

考えるヒント(29)初心に戻ってアラカルト

2023-03-05 17:01:00 | 今日の話題

1、国民栄誉賞の国枝慎吾氏は柏の出身!

意外と言えばその通りだけど、柏の人には誇りかも。ただ私はたまたま柏に住んでるが、生まれも育ちも柏はおろか、千葉県ですら全く関係ない。それに茨城生まれでも住んでいたのは5歳まで。その後は大分に引っ越して、自然の中で楽しく小学校時代を過ごした。それからは東京に移り、赤堤・巣鴨・新宿富久町・参宮橋・布田・新宿御苑前・調布・渋谷・金町・北松戸・北千住と転々とした後に、両親が亡くなったのを期にまた調布に戻った。そして運命の脳梗塞を患って狛江の慈恵医大に入院、それから相模大野の介護施設でリハビリ生活を経験する。2016年、ようやく柏にアパートを借りて独り暮らしを始めて現在に至る。以上が、私の引っ越し履歴である。つまり、柏は私にとって「人生の旅の途中」というわけだ。はてさて私の「終の場所」は、一体何処になるんだろう?

というわけで、国枝氏が柏出身と聞いて一瞬「ほう〜!」と思ったが、もともと私は柏という場所にたまたま住んでいるというだけで、「なんの接点も無い」のだからそれ以上の感情が湧いてこなかった。関係無い理由は私の方にあるので、国枝氏の「素晴らしい実績」を称えることには変わりはないのだが、まあ、ただの「通りすがり」に過ぎないってわけである。まあ、もし同じ町の生まれだとしても「関係無い」ことには変わりないけど・・・。

だがこの、有名人と少しでも「共通点」を持ちたがる性(さが)というのは何なんだろう?。無意識ではあっても、何とか「おこぼれ」を貰おうという「さもしい根性」なのは間違い無いだろう。私事だが、醜いねぇ。

2、東大王で漢字問題

こないだテレビでクイズ番組を見ていたら、お馴染みの難読漢字オセロで私にとっては「難読でもなんでもない」漢字がいっぱい出て来たので「へぇ〜」と驚いた。問題は「哩、匁」みたいな誰でも知っているような字から「屯倉、百済、蟄居、行灯」といった、ちょっと本を読めば当たり前に出て来る単語まで、いうなれば私の年代の人なら「クイズにもならない」程度の漢字が、若い人には読めないのは驚きだった。

私は出題された漢字は殆どスラスラ読めたので、さあ難読漢字と身構えた分「拍子抜け」した。いつも出てくる難読漢字というのは、私の人生の73年間に「一度もお目にかかった事がない単語」ばかりが出題されて、まさにクイズというのに相応しい問題だったのに、である。つまりクイズというのは、わざわざ辞書でも引かなきゃ読めないような「誰も知らない漢字が選ばれているものと思っていた。

ところが今回は、当然「誰もが知っていると思っている漢字」が並んでいるのだ。しかも回答者が答えるのに四苦八苦し、MCも「良く分かったねぇ」などと持ち上げるから不思議である。

時代はどんどん変化しているし、我々は日々「過去のもの」になりつつあるようだ(ガックシ・・・)。まあ、いくらクイズが出来ても、「常識」ある人間になるには別の勉強が必要、という良い例かな?

参考までに出題された漢字を列記しておく。あなたは何個読めるかな?

砌・轆轤・袢纏・糸瓜・徒・屯倉
旅籠・行灯・法度・甲虫・倭寇・蟄居
新羅・薬缶・天竺・伝播
鼾・業火・甲冑・灌漑
霊廟・御局 ・叙勲・流鏑馬・煉瓦・夕靄
長官・百済・哩・温泉津・匁・頤

3、子供の偏食を治す

昔、昭和の学校教育では、出されたものは残さず食べるようにと教育された。それに、嫌いな食べ物を残すと先生に叱られて、食べ終わるまで帰らせて貰えなかったものである。これが幼い子供の心にどれだけ傷を負わせたかは人それぞれだが、当時の「悪い教育」の典型だったと言える。つまり、「子供の躾」とは強制的に従わせるのが当たり前で、考えるより体に覚えさせる教育がまかり通っていた時代であった。勿論、今では到底許されない虐待行為である。

では、子供が「学校給食を残してしまう」のを何とか防げないだろうか?。まず基本として、食事の好き嫌いというのは味覚の問題であり、そもそも「治す治さない」の対象ではないと言える。だが、余りにも偏食が多いと、将来何かと生活に困る場合が出てくるだろう。なるべく強制をせずに何でも食べられるようにする方法はないものだろうか?

私は子供にも食べ物についての充分な知識を与え、自分の人生をより良くする機会を与えるべきだと考える。そのためには
① 食品と栄養の知識
② 嫌いな食べ物の代替品の知識
③ 食べ物の市場価格と調理の手間
以上を教える事で「何を食べれば過不足なく正しく栄養が取れるか」を学ぶようにするのである。食べ物によって栄養をきちんと管理しなくては、結局「困るのは自分」なんだと教えるのである。この自分の判断に任せる、というのが最終的には「生徒の自主性」を育てることになる。

私は子供の頃から肉が嫌いだった。特に「鶏の皮のブツブツ」が見るのも嫌で、ある時、出張で泊まった旅館の夕食が「鶏の腿焼き」だったことがあって、その時は夕食抜きで我慢した位である。要するに、嫌いなものを食べるくらいなら「いっそ夕食を抜く」というのが偏食の実態なのだ。私は「くさや」を食べ物だとは思っていないが、あれを美味いと言って喜んで食べる人の「気が知れない」人間である。

食べ物に冒険は要らない。人参が嫌いなら他のもので代用すれば良いのだ。私の先輩に「とにかく野菜が嫌い」な人がいて、まるで野菜を食べないのだが、それでも75歳の今でも元気に生きている。多少は世間が狭くはなるが、生きて行くには何の問題も無い。そのことを知った上で、子供に決めさせよう。全ては自分の為である、

4、日本で一番、歌が上手な歌手は?

私は「八代亜紀」が一番だと思う。まあ歌が上手いというのには色々な要素があって一概には決められないが、声が音の三要素つまり「音の高低と強弱長短と、そして音色」を自在に操るテクニックに限定した場合、特に歌手の個性が出る表情や歌い方や癖などと比べて、音を「楽譜通りにきっちり歌える」力と言う点では、八代亜紀の右に出るものはいないだろうと思う。好き好きがあるのは当然だが、彼女の歌唱力には脱帽するしかない、それ程「見事な歌いっぷり」である。皆さんも一度騙されたと思って「夜の新宿裏通り~」で始まる彼女の名曲「なみだ恋」なぞを聞いてみては如何だろうか。一部の隙もない完璧な歌唱とは、正にこの事だと思う。

ちなみに私は洋楽もクラシックも、さらに日本のフォークも大好きな「雑食音楽ファン」である。嫌いなのはGSとラップだけ。・・・これも時代なのかもね。

5、昭和の純愛は令和のストーカー

昔の歌謡曲には「時代の感覚」が溢れていたと思う。例えば中西保志の「最後の雨」なんて曲を今聞くと、これは完全に「ストーカー心理の描写」では?と言えなくもない。

本気で忘れるくらいなら 泣ける程愛したりしない 誰かに 盗られるくらいなら 強く抱いて 君を壊したい ・・・

これ、最後の雨のリフレインである。まあ、メロディが切なく中西保志の歌声も感極まった表情を見せる熱唱だけに、歌詞の内容がオドロオドロした「異常心理そのまま」であるのは驚くには当たらない。これぞまさしく「昭和の恋」なのだ。作詞の夏目純も「作った当時は」こんな言われ方をするとは思ってないだろう。作曲の都志見隆もロマンチックな風に仕上げているし、歌っている中西保志本人がこの曲をそんな風には思ってないのである。当時はこれが純愛だった。

時代が変われば人間の感情もまた変化する。こないだ博多の繁華街で元彼にしつこくつきまとわれて、とうとう殺されてしまった女性の事を想えば、「一方的な純愛・思い込み」ほど恐ろしいものは無いと言える。いっぺん中西保志にそのへんの事情を聞いてみたい気もするが、まあちょっと可哀そうだから勘弁しておこう。私はこの曲を「学校でストーカー心理の教材」に使ったらいいと思うけど、どうかな?

たまにこの曲が有線なんかでかかることがあるが、聞くたびに私は「昔と今では真逆のいい例」と、反省の材料にしている。



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