待ちに待った新番組、私は期待して見たが次第に或る事に気が付いた。これは主に京都を題材とした旅番組の一つだ。百寺巡礼と言うからには、日本全国に点在する古寺名刹を尋ねる番組であるわけだが、そこには当然テーマがある。今私が毎週見ている番組は、中村橋之助の「京都ぶらり歴史探訪」と船越英一郎の「京都の極み」である。歴史という切り口では、田辺誠一の「にっぽん!歴史鑑定」や片岡愛之助の「解明!歴史捜査」や大谷亮介の「日本の城、見聞録」と、ほぼ毎日のように何処かの局で放送されている。少しずつ中身は違うが、やっていることには殆ど大差ない。要は視聴者の興味をどうほり起こすかである。私が特に気に入っているのは、いとうせいこうとみうらじゅんの「見仏記」と、ドキュメンタリーの「京都国宝浪漫」であるが、これらはちょっと毛色が違うので今回は取り上げない。
中村橋之助と船越英一郎は、アプローチがそれぞれで違っている。中村橋之助は視聴者の興味のありそうな所を順繰りに巡っているが、特に意図があるわけではない。随所に、自分が歌舞伎役者であることを話に出して、彼がメインキャラクターである事を強調している。見る者は中村橋之助という人間が京都という歴史にどう関わって生きているのか、それを映像の中で、細々とした事物の説明と共に追いかけていく。つまり「橋之助の京都」を見て楽しむのである。その点は、「五木寛之の寺」というのと共通するものがある。
船越英一郎の番組では、キャラクター色は極力抑えられている。彼の京都愛は色々な場面で現れるが、特にグルメを紹介するのがお気に入りでもあり、この番組の特徴の一つである。京都の味こそが「英一郎の京都」だと言える。英一郎は、京都をよく知る先輩という立場であろうか。彼の番組は毎回テーマがあって、京都の数多い情報番組の中でも、船越英一郎という「でしゃばらない人柄」が人を惹きつける、いい番組である。
ではその点、五木寛之はどういう切り口を見せてくれるか。それは百寺巡礼というタイトルの通り、あちこち寺を巡りながら「何かを」探し尋ねる番組である。何を探しているのかは五木の口からは語られない。この「漠然とした放浪」が、五木寛之の百寺巡礼という旅である。果たして答えは見つかるのだろうか、その答えを言わずに無視したまま最後まで視聴者を引っ張って行けるかどうかが、百寺巡礼の引き出しであり五木寛之のキャラクターの魅力の奥深さの証明でもある。少なくとも放送一回に一度は「何らかの意味ある語り」を入れないと、彼のキャラクターとカメラワークだけでは通俗京都探訪番組と変わらないものになってしまう。
第一回は、果たして出来はどうだろうか。
(1)三井寺
三井寺は「三井の晩鐘」で知られる歴史ある寺だが、五木寛之は無邪気に鐘を突いてはしゃいでいた。近江八景の伝承は、余り興味がないようである。因みに「石山の秋月」や「勢多の夕照」や「堅田の落雁」など、歌に詠み絵に描けば美しい題材であるが、五木寛之には物語が浅すぎるのかもしれない。彼は子供の頃韓国で育った思い出を話し、新羅の読み方を「しんら」と習ったとエピソード風に何気なく語って次に移って行く。ほとんど月並みの事しか言わないが、彼のキャラクターが表にでるのは「ナレーションと美しいカメラの映像」の時である。
(2)浄瑠璃寺
雨の田舎道を一人傘をさして歩く五木寛之の映像は、もう70を過ぎて人生の終盤にかかっている求道者の面影が重なる。話しかたは、年老いた者にありがちな言葉を選び選び言うたどたどしい所は全くなく、頭脳は驚くほどに若いままである。なにより難しい言葉が全然出ないのには感心した。年を取るとどうしても熟語が多くなる、ましてや物書きの人間ならついつい楽な方に走りたくなるのだが、五木の平易な言葉づかいには、今の仏教の、解脱への回答があるように感じられる。ここが百寺巡礼の一つのアプローチかもしれないなと思った。雨の参道から見た門と三重塔を写す映像が美しい。
阿弥陀堂を見た後の最後に、五木寛之が視聴者に向かって語りかけるシーンがある。日本人は、仏に何を求めていたのか、それを五木は尋ねると言う。寺に参り、多くの事を考えさせられたというが、それは番組の中では明かされない。つまり、寺を巡る彼の姿を追い続けること、その中で視聴者は「何かを感じ取る」ことが求められる番組である。
これは、少しばかり我慢して見続けなければいけないようである。
中村橋之助と船越英一郎は、アプローチがそれぞれで違っている。中村橋之助は視聴者の興味のありそうな所を順繰りに巡っているが、特に意図があるわけではない。随所に、自分が歌舞伎役者であることを話に出して、彼がメインキャラクターである事を強調している。見る者は中村橋之助という人間が京都という歴史にどう関わって生きているのか、それを映像の中で、細々とした事物の説明と共に追いかけていく。つまり「橋之助の京都」を見て楽しむのである。その点は、「五木寛之の寺」というのと共通するものがある。
船越英一郎の番組では、キャラクター色は極力抑えられている。彼の京都愛は色々な場面で現れるが、特にグルメを紹介するのがお気に入りでもあり、この番組の特徴の一つである。京都の味こそが「英一郎の京都」だと言える。英一郎は、京都をよく知る先輩という立場であろうか。彼の番組は毎回テーマがあって、京都の数多い情報番組の中でも、船越英一郎という「でしゃばらない人柄」が人を惹きつける、いい番組である。
ではその点、五木寛之はどういう切り口を見せてくれるか。それは百寺巡礼というタイトルの通り、あちこち寺を巡りながら「何かを」探し尋ねる番組である。何を探しているのかは五木の口からは語られない。この「漠然とした放浪」が、五木寛之の百寺巡礼という旅である。果たして答えは見つかるのだろうか、その答えを言わずに無視したまま最後まで視聴者を引っ張って行けるかどうかが、百寺巡礼の引き出しであり五木寛之のキャラクターの魅力の奥深さの証明でもある。少なくとも放送一回に一度は「何らかの意味ある語り」を入れないと、彼のキャラクターとカメラワークだけでは通俗京都探訪番組と変わらないものになってしまう。
第一回は、果たして出来はどうだろうか。
(1)三井寺
三井寺は「三井の晩鐘」で知られる歴史ある寺だが、五木寛之は無邪気に鐘を突いてはしゃいでいた。近江八景の伝承は、余り興味がないようである。因みに「石山の秋月」や「勢多の夕照」や「堅田の落雁」など、歌に詠み絵に描けば美しい題材であるが、五木寛之には物語が浅すぎるのかもしれない。彼は子供の頃韓国で育った思い出を話し、新羅の読み方を「しんら」と習ったとエピソード風に何気なく語って次に移って行く。ほとんど月並みの事しか言わないが、彼のキャラクターが表にでるのは「ナレーションと美しいカメラの映像」の時である。
(2)浄瑠璃寺
雨の田舎道を一人傘をさして歩く五木寛之の映像は、もう70を過ぎて人生の終盤にかかっている求道者の面影が重なる。話しかたは、年老いた者にありがちな言葉を選び選び言うたどたどしい所は全くなく、頭脳は驚くほどに若いままである。なにより難しい言葉が全然出ないのには感心した。年を取るとどうしても熟語が多くなる、ましてや物書きの人間ならついつい楽な方に走りたくなるのだが、五木の平易な言葉づかいには、今の仏教の、解脱への回答があるように感じられる。ここが百寺巡礼の一つのアプローチかもしれないなと思った。雨の参道から見た門と三重塔を写す映像が美しい。
阿弥陀堂を見た後の最後に、五木寛之が視聴者に向かって語りかけるシーンがある。日本人は、仏に何を求めていたのか、それを五木は尋ねると言う。寺に参り、多くの事を考えさせられたというが、それは番組の中では明かされない。つまり、寺を巡る彼の姿を追い続けること、その中で視聴者は「何かを感じ取る」ことが求められる番組である。
これは、少しばかり我慢して見続けなければいけないようである。
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