私は外に出かける時、いつもBOSEのノイズキャンセラー・ヘッドフォンをBlueToothで聴くようにしている。iPhoneと直接繋ぐと、スマホを操作する時コードが邪魔してうっかりiPhoneを落としたりするので、それを防ぐために切り離している。音質はやや落ちるとは思うが体感上無視してもいいレベルなので、安全性を優先した結果のリスニング・スタイルである。イヤホンは耳が痛くなるのと、持病の耳鳴りがもっとひどくなる気がして好きではない。このヘッドフォンは音質的にどうなるかわからないが、コードを短いものと交換出来るようにして欲しいのと、ノイズキャンセラーをOFFにして直結出来るのと、二つの機能があれば更に良いと思うのだが、どちらも我慢できないほどではない些細な事なので、基本的に気に入っている。特に中高音の艶やかさ、低音の引き締まった切れ、全体の柔らかい広がり、どれを取ってもクラシック好きの私には最高の一台である。ヨドバシで2万8000円くらいしたと思うが確かではない。私は高音が綺麗に出ないスピーカーは好きではないし、特に重低音とカタログで謳っている「迫力のある」タイプのものは絶対買わないようにしているほど低音ブースト嫌いなのである。
音楽は不思議と絵画と似た部分があるように思う。音楽で立体感というとわかりにくいが、和音の中で一つ一つの構成音が見えるのと、全体が混ざり合って一つの和音にしか聞こえないのとでは、作曲家によるのかも知れないが私は前者の方が古典的で好きである。そのせいでもないのだろうが、シンフォニーは余り好きになれず、どちらかと言えばコンチェルトやオペラのファンである。モーツァルトのコンチェルト、特にピアノコンチェルトは大好きである。13番・15番・20番・25番のABM版は超お気に入りだ。全曲ものはイエネ・ヤンドーとデレク・ハンとマルコム・ビルソンなど4~5種類持っている。演奏は好きずきだが、私は余り感情を出すような「もたれる」演奏は嫌いだ。音の綺麗なのは言うまでもないが、リズム感が大事だと思う。モーツァルトはついつい感情を込めて弾きたくなるが、そのためにリズムがもたついては元も子もない。曲が余りにも変化に富み奥行きが深いのでどんどん弾いていくのがためらわれるように思えても、曲の描く現実世界は写真のように止まってはくれないためにリズムを崩すわけにはいかない、それがモーツァルトの人間を超えた天才の所以なのである。
モーツァルトも20番の有名なコンチェルトまでは楽しむための曲作りだったと言われている。だが、私は実は弦楽四重奏のハイドンセットがその転機ではないかと密かに考えている。モーツァルトは人生の中でショッキングな体験を幾つかしているが、母の死はその中で最も悲しい出来事だろうと思う。その事がジワジワと彼の心の中で変化を生み、歳も取ってきて世間の中のいろいろなものを見て、いわゆる成熟してきた時がやって来る。それが一つの答えを見出したのが、ピアノソナタK457のファンタジーだと思う。長年心のわだかまりとなっている不条理な運命へのやり場の無い怒りや取り返しのつかない哀しみののち、一つの「静かな諦め」に到達した。その最後の気持ちが正直に楽曲に出ている。彼はどうしてあんな曲が書けるのかわからないが、喜怒哀楽をピュアにストレートに曲に出来た稀有の人だと言える。モーツァルトは「感情」そのものである。その感情を味わう時間はなくただ追体験するだけ、これが感情を相対的に見る事を聴衆に許さないモーツァルトの極みである。
もちろん凡作も多い。だが傑作の特徴は、モーツァルトは聴衆の側にいるのではなく常に音楽の中に一体化していたという事実である。他の作曲家はどこかで自分の曲を「聞いている」。その絶対的な違いが、モーツァルトが唯一聴き飽きない作曲家と言われるのである。誰かが言っていたが、アフリカの大自然の中で一か月聴き続けても飽きないのはモーツァルトだけだそうだ。そうだと思う。ショパンは感情を作り過ぎていて何故か何度も聴くと疲れてしまう。ブラームスはドラマチック過ぎてせいぜい2回である。バッハはたまに不思議なくらい静かな精神状態をもたらしてくれるが、範囲が狭い。皆んな「特別な感情」を曲にする。モーツァルトだけが、人間のありのままの感情をそのまま楽曲にした。モーツァルトを好きな理由は、その「人間の喜びと、運命の無慈悲な力の相克」がありのままに出ている、つまり人生そのもの、という辺りにあるのかも知れない。
不世出の天才、モーツァルト。彼はオペラ作家としても最高である。ベートーヴェンが成功しなかったのは、人間を表現する事が出来なかったからだと思う。モーツァルト最後のオペラ「皇帝ティトーの慈悲」は良い作品である。フィガロやドン・ジョバンニと比べても見劣りしない傑作で、もっと評価されていいと思う。私のモーツァルト愛はいくら語っても語り尽くせないが、次回は演奏家を比較してみようと思う。ダウンロードをするよりCDを買ったほうが何かと便利なので、私は好きな演奏はCDで持つようにしている。ピアノが好きなのでピアニストを集めているが、次回はバックハウスとゼルキン辺りから始めようと思う。では、また。
音楽は不思議と絵画と似た部分があるように思う。音楽で立体感というとわかりにくいが、和音の中で一つ一つの構成音が見えるのと、全体が混ざり合って一つの和音にしか聞こえないのとでは、作曲家によるのかも知れないが私は前者の方が古典的で好きである。そのせいでもないのだろうが、シンフォニーは余り好きになれず、どちらかと言えばコンチェルトやオペラのファンである。モーツァルトのコンチェルト、特にピアノコンチェルトは大好きである。13番・15番・20番・25番のABM版は超お気に入りだ。全曲ものはイエネ・ヤンドーとデレク・ハンとマルコム・ビルソンなど4~5種類持っている。演奏は好きずきだが、私は余り感情を出すような「もたれる」演奏は嫌いだ。音の綺麗なのは言うまでもないが、リズム感が大事だと思う。モーツァルトはついつい感情を込めて弾きたくなるが、そのためにリズムがもたついては元も子もない。曲が余りにも変化に富み奥行きが深いのでどんどん弾いていくのがためらわれるように思えても、曲の描く現実世界は写真のように止まってはくれないためにリズムを崩すわけにはいかない、それがモーツァルトの人間を超えた天才の所以なのである。
モーツァルトも20番の有名なコンチェルトまでは楽しむための曲作りだったと言われている。だが、私は実は弦楽四重奏のハイドンセットがその転機ではないかと密かに考えている。モーツァルトは人生の中でショッキングな体験を幾つかしているが、母の死はその中で最も悲しい出来事だろうと思う。その事がジワジワと彼の心の中で変化を生み、歳も取ってきて世間の中のいろいろなものを見て、いわゆる成熟してきた時がやって来る。それが一つの答えを見出したのが、ピアノソナタK457のファンタジーだと思う。長年心のわだかまりとなっている不条理な運命へのやり場の無い怒りや取り返しのつかない哀しみののち、一つの「静かな諦め」に到達した。その最後の気持ちが正直に楽曲に出ている。彼はどうしてあんな曲が書けるのかわからないが、喜怒哀楽をピュアにストレートに曲に出来た稀有の人だと言える。モーツァルトは「感情」そのものである。その感情を味わう時間はなくただ追体験するだけ、これが感情を相対的に見る事を聴衆に許さないモーツァルトの極みである。
もちろん凡作も多い。だが傑作の特徴は、モーツァルトは聴衆の側にいるのではなく常に音楽の中に一体化していたという事実である。他の作曲家はどこかで自分の曲を「聞いている」。その絶対的な違いが、モーツァルトが唯一聴き飽きない作曲家と言われるのである。誰かが言っていたが、アフリカの大自然の中で一か月聴き続けても飽きないのはモーツァルトだけだそうだ。そうだと思う。ショパンは感情を作り過ぎていて何故か何度も聴くと疲れてしまう。ブラームスはドラマチック過ぎてせいぜい2回である。バッハはたまに不思議なくらい静かな精神状態をもたらしてくれるが、範囲が狭い。皆んな「特別な感情」を曲にする。モーツァルトだけが、人間のありのままの感情をそのまま楽曲にした。モーツァルトを好きな理由は、その「人間の喜びと、運命の無慈悲な力の相克」がありのままに出ている、つまり人生そのもの、という辺りにあるのかも知れない。
不世出の天才、モーツァルト。彼はオペラ作家としても最高である。ベートーヴェンが成功しなかったのは、人間を表現する事が出来なかったからだと思う。モーツァルト最後のオペラ「皇帝ティトーの慈悲」は良い作品である。フィガロやドン・ジョバンニと比べても見劣りしない傑作で、もっと評価されていいと思う。私のモーツァルト愛はいくら語っても語り尽くせないが、次回は演奏家を比較してみようと思う。ダウンロードをするよりCDを買ったほうが何かと便利なので、私は好きな演奏はCDで持つようにしている。ピアノが好きなのでピアニストを集めているが、次回はバックハウスとゼルキン辺りから始めようと思う。では、また。
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