明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

文庫本片手に空想旅行(7)藤原万葉の古道 ①

2022-05-19 15:30:11 | 歴史・旅行

1、埴安の池

この名前はどこかで聞いたことがあると思うが、何と関連していた文章かは記憶が確かでない。堀内民一が万葉集の「国見の歌」を引き合いに出して、国家行事の際などに歌われる定番の表現だったとのではないか、と書いていた。曰く「大和には群山あれど・・・国原は煙立ち立つ、海原は鷗立ち立つ・・・」というのは有名な舒明天皇の御製歌であるが、この「海原」と言うほど大きな池が当時あった、と考えていたわけだ。

しかし香久山に登っているはずの天皇に「海」が見えていたとは考えられないので、学者の間でも相当問題になった表現である。結局この歌は「実際の風景」を見て歌ったのではなく、想像で類型的に歌ったものだということに有識者の意見は落ち着いているようだ。こういう例は万葉集や日本書紀の多くの箇所で指摘されており(古田武彦氏の本に詳しく出ているので、もし知りたい方は読まれると良いと思います)、私も古田氏の言うことの方が正しいと思う。

古代人が海と湖の区別がつかないとか、ありもしない海をさもあるかのように歌に読んだとか、こう言う考えは実に古代人をバカにした現代人の思い上がった考えである。彼ら古代人は、「目に見えるもの」に感動を覚えてそれを「ストレート」に歌に詠んだ、素直な純粋な心の持ち主だと私は思う。言葉の持つ陰影や感情の起伏を自然に投影して、複雑に意味を込めながら心の戸惑いを表現する「平安後期の歌人の憂い」など、まだまだ先の話である。

つまりは舒明天皇の歌に出てくる場所は「奈良県の天の香久山」ではなく、どこか別の場所=例えば博多とか佐賀とか熊本とか、間違いなく「海の見える場所」で詠まれたもので間違いない。万葉集は、多分それを流用して舒明天皇の歌として載せたのだろう。よくあることである。冒頭部分にある「大和には・・・」という箇所に反応して、これは大和を褒める歌だ、と喜んだのだろう。そこは歴史検証の技術が進んでいない古代のことであるから良くは分からない。

秀吉の時代まで京都との境に「海のような大きな池」があったというのは確かな事実であるから、鷗の飛び交うのも「まるでデタラメ」とは言えないではないか・・・と空想に遊ぶのは皆さんの勝手であるが、私はこの舒明天皇の歌は「奈良県とは関係がない」ことと片付けてしまった。私の愛する奈良というのは、そういう「事実かどうかはっきりしないこと」を全て排除して、「目に見える自然」の姿の中に、当時の人々の「つましいながらも心の豊かな生活」を想像するところにある。

だから「埴安の池」がどこにあったかは知りたいけれど、それはダム建設で沈んでしまった村のことを懐かしむような感覚で知りたいのである。少しでも奈良や飛鳥の事が知りたい、それは言うなれば「郷土愛」なんじゃないか、と思っている(私は茨城県水戸市の生まれだが)。遙か空想の彼方にある幻の奈良。・・・なぜか懐かしい想いに心が和む。

2、古のことは知らぬを、我見ても久しくなりぬ、天の香久山(巻7の1096)

万葉の碩学・武田祐吉博士が堀内民一氏に言ったには、博士は飛鳥川が埴安の池に流れ込んでいたと想定されていたが、平安初期の大荒れで流域が変わってしまい、それで埴安の池が消失したのではないか、それを調べたいということだった。堀内民一氏は博士の願いを忠実に受け継いで、飛鳥川の流域の変遷を調べたようである。甘樫丘の岬あたりから香久山の方に向かって、田畑に水を引く水利権が順次設定されているという。土地が低くなっているのだ。ということは?・・・と彼は考えた。つまりは、博士の想像は当たっていた、と結論したのだ。師の学問に対する真摯な態度を、弟子が受け継いで結論に辿り着く。微笑ましい話ではないか。事の真偽はどうでも良い。そういうエピソードが残っていることに、奈良・飛鳥の本当の魅力がある。

3、哭沢の杜

哭沢の杜というのは香久山の西麓にある木之本という村の神社のことで、住所は「香久山村大字木之本字宮脇114番地鎮座」となっている。正式名称は畝尾都多本神社といい、祭神は「哭沢女命」である。そこから北側の一段低くなった所に「建土安彦の杜」がある。ここに「埴安」が出てくるのは、やはり埴安の池と関係があるんだろうか。住所は「香久山村大字下八釣」、名称は「畝尾坐神社」と言い、祭神は「建土安彦命」である。武埴安彦というのは崇神天皇の時に反乱を起こして、四道将軍の大彦命に鎮圧された人物だ。ちょっと字が違うが、何か関係があるんだろうか。先頭の「建」という字が「武」に変わっているが、こういう珍しい名前や地名が「続々を出てきて」、調べていくとすぐ日本書紀や古事記の話につながる所が奈良の魅力の一つである。こういう歴史的な名称が溢れている土地というのは、他には無い。正に、奈良は「神々の故郷」である。

哭沢女の神というのは「イザナミの命」が火の神を生んで死んでしまった時、その周りを這いつくばって泣いたイザナギの命の「流した涙」から出現した神である。また畝尾という名称は、南の木之本の社と北の下八釣の社と一続きになった森林が、神の本体とされているのだ。だから哭沢女の社は拝殿のみで神殿は無く、石葺きの井泉の正面を神殿として祀っているらしい。哭沢という語は水音のする沢の意で、「湧き出している井泉の水音」からきていると武田博士は説明している、と堀内民一は言う。

藤原の地は、そこかしこに清らかな水の湧き出る里であったのだろうか。文庫本には、伝承に彩られた「素朴な社の白黒写真」が載っている。その物静かに鎮まった佇まいは、古代人の宗教心が仄かに伺えるような気がした。(つづく)


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