明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

お盆で墓参り

2017-08-12 23:00:00 | 今日の話題
お盆にまた水戸へ帰って来た。私の生まれ育った懐かしい場所である。それは戦後まもない昭和の、今からすればまだ明治時代に毛が生えたような田舎の古い生活の中で、小学校に上がるまでの短い期間を過ごしただけだった。思い出すのは、近くの備前堀という用水路の川べりを歩いている自分の姿である。あとは何も覚えていない。三つ子の魂云々というのはウソであろう、悲しいかな記憶がないというのは、楽しい思い出も何も無いと言うことでつまらないことおびただしい。人並みに自伝でも書けたらどんだけ良いかと思うのだが、きっと私の回想録は、3頁ぐらいで終わってしまって「これだけ〜?」なんて言われたりして、実に不甲斐ない。

そんな事をつらつら考えながらお寺に着いてお花とお線香を買い、備え付けの仗露に水を汲んで、クネクネとした細い通路を墓まで歩いて行った。飲み物とお供えを置き、花を両脇に飾って周りを見渡すと、午後3時を過ぎた墓地はシーンとして、お盆なのに私一人である。「今年も来ましたよ」と両親に挨拶をする。今年は早めにお盆の入りに来ることにした、いつも「なか日」に来ていたが、花を飾るのが遅れてしまい、周りの墓が皆綺麗に飾り立てているのに自分のところだけが何も無くて、さぞかし淋しいだろうと思ってのことである。花はお寺で用意しているものを買った。いつもは駅の花屋でちょっと奮発して豪華な花束を用意して行くのだが、ことしは質素な仏花を供えることにした。別に何か意味があってのことではない、ちょっと思いついてやって見ただけである。「お母さん、少し寂しければ、今度来る時はでっかい花束を持ってくるからね」と、一応断っておいた。何も葬式のような一世一代の華麗な儀式ではないのだし、ただ東京から田舎の両親の実家に帰るだけのことである。そんなに気張って美しく飾らなくても気持ちは伝わる、と一人で合点して合掌した。

一段落してまわりを見ると、何々家と立ち並ぶ墓石群の中に、ちらほら新しい形式の墓が混じって建っている。「無」とか「憩」とか「心」とか、如何にもあざとく、私はどうにも好きになれない。また「〇〇家の墓」というのも、よく考えれば変である。墓地に建っていて、見れば墓である事は誰でも分かるのに、わざわざ「〜家の墓」と大書するのは恥ずかしいを通り越してまるで馬鹿みたいである。考えて見ればわかるのだが、自分の家の表札に「〇〇家の家」などと書く人がいるだろうか? 墓石業者も「もうちょっと気を効かせて、それは余りお薦めしておりませんが」とか言ったほうが良いのではないだろうかと、老婆心ながら思う。これは、建てた人の常識の無さが思いっきり出てる「みっともない墓」である。ちなみに我が家の墓は「五輪の塔」である。ちょっぴり自慢げに思って周りを見渡すと、案外「〇〇家の墓」と書かれた墓石が多いのに驚いた。感覚としては半々といったところだろうか、新しいものほどこの形が多いようだ。これも時代の流れなのか、墓石の表に書いてある文字は「単なる所有者を表す標識」でしかないなんて、悲しい時代になったものである。外国の墓は個人墓が主流で、墓石の面には名前と年月日が書いてある。ちょっとした文章が添えてあることもあり、墓自体が故人を表している感じだ。日本では「家」が主体であるが、これは個人を偲ぶというより「先祖崇拝」の習慣から出てきたものであろう。

この前の東北震災で散々に壊れて見る影もなく破片が山積みになっていた場所もようやく修復が済み、今風の真新しい洒落た墓に変わっている。ここは〇〇家である。それだけで何となく親近感が湧く。しかし東北の震災は2011年であるから、6年も墓を倒壊しっぱなしで荒れ放題のまま放置しておくというのはいかがなものか。なにかの事情があるとは思うが、他人事ながらちょっと御先祖様に申し訳ない気がした、大きなお世話だが。それでこの墓を見ていて気がついたのだが、今は皆墓誌を別の石板に書いて建てているのが通例になっているようである。昔は石柱の横面に所狭しと書き連ねていたのだが、今は体裁よく墓石の隣に並べて墓参の参考に供している。それで墓参のたびに会ったこともない御先祖様の名前をずらりと読むことになるのだが、記憶もなければ感情も湧いて来ないので、私にとっては全然意味のない情報になってしまっている。やはり死者と自分との間に何らかの接点がないと、お墓参りも義務を果たすためだけの行事になってしまう。結局は「親子の情というつながり」が、墓参りを支えているのだなと改めて思った。私は独身で子供もいないので墓は弟が見る事になるのだが、家族愛という情愛にやや無関心な性格なだけにちょっと心配になる。

こんな事を言うと、「どうでもえーわ」という母の声が聞こえてくるようで思わず苦笑いしてしまった。私にとって墓参りは、過去の自分に会える場所なのだ。

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