議論というものは上下関係やしがらみがある相手とは、しようと思っても中々出来ないものである。社会に出ても議論をしようとすると、青臭い話はやめろと言われ嫌な顔をされるのがオチである。議論が勝ち敗けを争うゲームであるなら、勝者は栄誉と打ち負かした陶酔感に浸り、敗者は恥辱と敗北感に沈み込む。誰しもそんなリスクは避けようとするし、かりに勝ったとしても相手との間にギクシャクな関係が残ってしまい、いつの日か借りを返そうと逆襲される危険に怯えなくてはならない。つまり、それでは社会においては仕事を上手くやっていくことは出来ない、だから「議論なんて青臭い事を」となるのである。果たしてこれは正しい事だろうか?
私は、それは間違っている、と明言する。議論は「勝ち敗け」ではない、この事を小学校から正しく教えないことが、日本の知的レベルが低いままである第1の理由であると言える。議論する目的は「何が正しいか」を明らかにする事である。Aさんはaが正しいと主張し、Bさんはbが正しいと主張する。それぞれの主張には「その結果、次の主張」が連なり、「主張の連鎖」がその人の「人となり」にまで連なっているために、単純な筈の問題が「ものすごい大きな問題」になってしまうのだ。私は大学の頃プラトンの対話篇を読みふけった結果、議論というのは「問題を解く方法」である事を学んだのだ。aとbのどちらが正しいかは、AさんとBさんとでどちらが偉いかという事と「120%無関係」なのである。また、よく引き合いに出される欧米の「ディベート」というのは、法廷技術の訓練を目的として修練するのであり、真実を追究する為のものではないから「議論とは別物」である。
例として原発問題を議論してみよう。まず議論するテーマを羅列することから始める。
1.試験費用と運転コスト、2.燃料の持続的入手費用、3.設備の建設費とメンテナンス費用、4.安全性と被害時の復旧費用、5.停止コストと施設売却による費用回収、6.営業時の地域対策費、7.燃料残滓の廃棄費用、8.原状復帰の費用、9.施設跡地の転用と売却益、10.新規発電所建設の期間、とまあ思いつくままに並べてみたが、地球温暖化対策としての役割以外は殆ど再生可能エネルギーに勝てないのじやないだろうか。太陽光発電など、止めようと思えば数ヶ月でスーパーやテーマパークや建売住宅に転用販売が可能だと言う。どうにでもなるのである。議論というのは「原発が安全かどうか」ではなく(安全なのはあたりまえだから)、「原発と他のエネルギーと、どちらが安上がりか」である。1つ1つは計算機で答えがでる単純計算である、足し算すれば自ずと答えは出るであろう、それをただ実行するだけで「議論」が出来る。そして、原発と他のエネルギーのどちらが安上がりかの答えは、官僚が出すまでもなくまた学者や専門家がマスコミで説明するまでもなく、とっくに出ているはずである。それが議論だ。
原発がコストの問題じゃなく「別の目的で動かさなければならない」のなら、また別の議論をすれば良いのである。一歩前進。たとえ時間がかかっても、これが一番確実だ。つまり、答えがでるように議題を設定することが大事なのである。全て議題の設定如何で決まる、それをプラトンから私は学んだ。日本人も議論が出来る国民になって欲しい、私の切なる願いである。
私は、それは間違っている、と明言する。議論は「勝ち敗け」ではない、この事を小学校から正しく教えないことが、日本の知的レベルが低いままである第1の理由であると言える。議論する目的は「何が正しいか」を明らかにする事である。Aさんはaが正しいと主張し、Bさんはbが正しいと主張する。それぞれの主張には「その結果、次の主張」が連なり、「主張の連鎖」がその人の「人となり」にまで連なっているために、単純な筈の問題が「ものすごい大きな問題」になってしまうのだ。私は大学の頃プラトンの対話篇を読みふけった結果、議論というのは「問題を解く方法」である事を学んだのだ。aとbのどちらが正しいかは、AさんとBさんとでどちらが偉いかという事と「120%無関係」なのである。また、よく引き合いに出される欧米の「ディベート」というのは、法廷技術の訓練を目的として修練するのであり、真実を追究する為のものではないから「議論とは別物」である。
例として原発問題を議論してみよう。まず議論するテーマを羅列することから始める。
1.試験費用と運転コスト、2.燃料の持続的入手費用、3.設備の建設費とメンテナンス費用、4.安全性と被害時の復旧費用、5.停止コストと施設売却による費用回収、6.営業時の地域対策費、7.燃料残滓の廃棄費用、8.原状復帰の費用、9.施設跡地の転用と売却益、10.新規発電所建設の期間、とまあ思いつくままに並べてみたが、地球温暖化対策としての役割以外は殆ど再生可能エネルギーに勝てないのじやないだろうか。太陽光発電など、止めようと思えば数ヶ月でスーパーやテーマパークや建売住宅に転用販売が可能だと言う。どうにでもなるのである。議論というのは「原発が安全かどうか」ではなく(安全なのはあたりまえだから)、「原発と他のエネルギーと、どちらが安上がりか」である。1つ1つは計算機で答えがでる単純計算である、足し算すれば自ずと答えは出るであろう、それをただ実行するだけで「議論」が出来る。そして、原発と他のエネルギーのどちらが安上がりかの答えは、官僚が出すまでもなくまた学者や専門家がマスコミで説明するまでもなく、とっくに出ているはずである。それが議論だ。
原発がコストの問題じゃなく「別の目的で動かさなければならない」のなら、また別の議論をすれば良いのである。一歩前進。たとえ時間がかかっても、これが一番確実だ。つまり、答えがでるように議題を設定することが大事なのである。全て議題の設定如何で決まる、それをプラトンから私は学んだ。日本人も議論が出来る国民になって欲しい、私の切なる願いである。
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