明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史を散策する(2)天智天皇、天武天皇、そして郭務悰

2016-04-01 20:00:13 | 歴史・旅行
前回、乙巳の変から蘇我蝦夷が自殺した謎についての考察を書くと言ってたが、古田武彦氏の「壬申大乱」という本を読んで興味の中心が壬申の乱に移ってしまった。日本書紀に詳しく書かれている壬申の乱の記述が、九州で起きた事件の大和への焼き直しだというのだ。例のごとく一つ一つ日本書紀の辻褄の合わない記述を解明して行って本題を浮かび上がらせる手法をとるが、教育と学問と全ての歴史家が奈良で起きた日本史始まって以来の大争乱と言っている事件である。いくら古田氏が筆を連ねて立証しても、おいそれとは信じられないのは仕方がないと思った。これは壬申の乱だけでは上手くいかなくて、色々な事実の反証を積み重ねてその上に乗っける形で切り出さなければ、相当難しいと感じたのである。

白村江の戦いがヤマト朝廷の戦争であるなら、その総大将の斉明天皇が崩御した時点で喪に服し軍団は一時的に解体するはずなのに全く影響がないまま戦闘を続行しているように見えるのは妙である。第一に斉明天皇は新羅・唐の連合軍に対して日本から送った応援軍を、編成・閲兵した形跡がないのだ。というか、斉明天皇と中大兄皇子は白村江で新羅・唐連合軍と戦って敗れた百済・日本の船団とは無関係のエピソードに終始している。どうもヤマト朝廷は白村江の戦いの主役ではない、そう結論付けていいようである。そこで問題となるのは近江朝廷である。実は奈良の歴代王宮は飛鳥にあった。それが難波宮で河内に移り、大津の宮で大友皇子が壬申の乱で敗れる一時期を除いて、常に飛鳥の狭いエリアに王宮はあったのである。だが王宮と呼ぶには色々な施設が揃ってないなど不明な点が多い。

蘇我氏を倒してヤマト朝廷の政策を転換させたのは孝徳天皇である。乙巳の変の結果、河内に政権は移った。そして韓半島に戦端が開かれる状況になって政府中枢は奈良に戻った。この時期の歴史は、常に韓半島の政治情勢とリンクさせなければならない。孝徳天皇の左右の大臣を亡き者にし、その息子の有間皇子を謀反の疑いで消した中大兄皇子は、斉明天皇治下のヤマト朝廷を動かして韓半島に積極的に関わっていったのだろうか。親百済派と親新羅派の間に孝徳政権が挟まっているが概ね中大兄皇子は親百済派とみて間違いない、とすれば、白村江の戦いに援軍を送ろうとするのも理屈が立っている。私は皇極天皇つまり宝皇女が大陸系それも百済系の王女ではないかと思っている。 中大兄皇子の息子の大友皇子を養育したのが大友氏で百済系であるのも補強資料である。中大兄皇子は飛鳥の地に古くからある民族の出自と違う大陸系の血が混じっていると考えられるのだ。

そこで天武天皇はどうかというと、天智天皇の娘を四人も娶っている点を考慮すると、天智天皇と同腹の兄弟では無いと思う。天智天皇が宝皇女の実の息子であるなら、天武天皇は舒明天皇の連れ子だった可能性が出てくる。第二次世界大戦の敗戦の後でマッカーサーの占領軍が日本にやって来た時、日本は親米派の政権以外は考えられなかったように、白村江の戦いの敗戦の後で九州政権の残存勢力は親新羅・親唐の派閥が強まり大きく占領軍擁護の意見に傾いていたのでは無いかと思われる。つまり日本は親新羅派一色になったという事である。その中で中大兄皇子は大津に宮を移した。旧百済政権の残党を匿いつつあくまで百済の復興を画策したであろう天智天皇は志半ばで山料の地で亡くなった。そして壬申の乱が起きるのである。

天武天皇は壬申の乱までの事績がほとんど無い。天智天皇の病床に呼ばれて吉野に仏道修行に入ると宣言したと言われているが、古田氏によるとこれは「筑紫の吉野」であるという。ヤマトの吉野は古人大兄王子が殺された例で分かる通り、30人もいれば殺害は充分である。それほどの人員を身辺警護に揃えているわけではなく、身重の鸕野讃良皇女を従えて雨の中を伊賀越えしつつ不破関を目指したあたりの描写は迫真のドラマを見ているごとくであるが、そもそも駅鈴を大和の留守居役に請わしめるという記述がおかしいと古田氏は書いている。この「倭京」とは大宰府であると古田氏は言っているが、この辺りは「壬申の大乱」を読んでいただくとより詳しい。古田氏は自説を立証するために色々な事を並列的に説明するが、これは本題をボヤけさせることになってしまう。やはり本丸である天武天皇がどちら側の人間なのかを明らかにして欲しかったと思うのだが、残念ながら亡くなってしまった。

壬申の乱は大事件であるが、韓半島の政治情勢の変化を受けて対立するグループが起こしたクーデターと考えられる。628年に唐が成立、644年に第1次高句麗征伐があって半島の地図が書き換えられようとしていた。その中で蘇我氏が倒され新しい政治勢力が権力を握る。しかし孝徳天皇は中大兄皇子のカウンタークーデターに敗れ、斉明天皇と中大兄皇子は九州香椎の宮に向かう。そして白村江の戦いで大敗北した日本軍は、唐の劉仁軌や郭務悰らの占領軍に対して恭順の意を示したのか、或いは大津の宮に引きこもって復活の時を待ったのか、はたまた白村江の戦いは戦いとして倭国の政権維持にはさほどの影響がなかったのか、まだまだ不明である。だが天智天皇が亡くなり大友皇子が後を継いだチャンスをねらい、親新羅派が百済系の王権を打ち破って新しく政治の実権を握ったのが壬申の乱であるなら、天武天皇は親新羅派の頭領のはずだ。

671年といえば敗戦処理も進み、四人の捕虜も返還されて唐と日本が新しい関係を築いた頃である。郭務悰が交渉したのは倭国の残存勢力であるとすれば、天智天皇は大津で何をやっていたのか。天智天皇が直接唐と交渉したのであれば、郭務悰は大津に向かっているはずである。しかし大宰府から出た記述はない。郭務悰が日本を後にし贈り物を貰って帰ったのを見計らったように壬申の乱は起こっている。大唐へ使節を送り倭国と日本両国の使節が喧嘩したとの旧唐書の記述は、当時の混乱を物語っているのではないか。情報を整理して親百済派と親新羅派との戦いと唐と郭務悰等の動向を中心に考えなければ、また日本書紀の罠に嵌ってしまう。

倭国と日本国の二つが並立していたのは事実である。問題は、天智天皇と天武天皇のどっちがどっちで、壬申の乱の結果どうなったかという一点である。一つの解答は、倭国を束ねていた親百済派が天智天皇で親新羅派の日本国の天武天皇が勝利した説。もう一つは、倭国の親新羅派が天武天皇で日本国の親百済派の天智天皇を破ってヤマトに本拠を置いたとする説。どちらが正解かを語るには、持統天皇以下の天武系天皇が泉涌寺の歴代天皇扁額から「外されている」という事実を、はっきり説明する必要がある点だ。私はやはり天武天皇は倭国の親新羅派の皇子だと思う。壬申の乱では栗隈王とか大分の君とか九州政権側の人間が天武天皇についているが、これは倭国内部の親新羅派であり天智天皇と対立する勢力と思う。結局、最後は天智天皇系の白壁王が皇統を継ぐ事になるのは、日本の中では「親百済派」が本流だったという事か。或いは民衆が親新羅派の政権を見限ったのかもしれない。まだまだわからない事だらけである。この問題は、歴史の入り口の扉にとてつもない深い闇を覗かせている、つまり、日本国の出自である。(つづく)

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