明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

東京オリンピックと日本人の集団的感覚

2015-09-06 14:45:22 | 今日の話題
(1)集団の論理

誇りと団結と助け合う心、それは、他者に対する自尊心と表裏一体である。国・民族・職業・会社・宗教・境遇、ありとあらゆる個人以外のもの、他者と対比する自分のグループは、この集団の利害に直接関わってくる。そして人間を個人ではなく、所属団体名の一部分として認識する。それは団体に属する側から見れば、個人の不始末は団体の不始末であると同時に、個人の力量不足を団体全体が補ってくれる事にもなるからである。プラスとマイナスを比べれば、プラスの方が圧倒的に大きい。
歴史を紐解けば、個人の属する集団の種類は実はそれ程多くない。儀式にがんじがらめの貴族、忠義に生きる武士、取り立てに阿漕な金貸し、羽振りのいい大店の主人、お馴染みのメンバーだ。食べ物も着るものも考え方すらもが、集団として統一されている。人間は何かの判断をするとき分類という作業を通して対象を認識するが、その分類が分かれば、自分の取るべき行動は社会の仕組みが教えてくれる。今目の前にいる相手が自分の属する集団かそうでないか、はたまた敵対する集団か全く無関係な集団か、それを明らかにする事で、対処の仕方は自然と定まってくる、それが成熟した社会というものである。人は個人としてより集団の一部としての方が、いつの時代でも行動しやすいし悩まなくて済むものなのだ。

(2)行動様式のパターン化

このような人間の集団の一部分としての存在は、江戸・明治はおろか昭和のある時期までは確実に残っていた。世間とか常識とかいうものが、疑問のないものとして定理の如く信じられていた。人は集団の一部分として生きる事に疑問を感じる事はなく、集団として生きる事が使命であった。集団の拡大・躍進が関心の大部分を占めていて、集団の中での自分の位置のほうは付け足しのように考えられていた時代である。私も、日常生活のほとんどが会社の人としての行動から一歩も出ていなかった記憶がある。それでも充分楽しかったが、これは余談である。

(3)ミツバチの組織

ミツバチは一種類の集団構成で運営される生き物である。女王蜂が一匹いて、兵隊・子育て・巣作り・餌集め、役割分担が徹底している。それらが役割を果たす事で一つの生命のサイクルが完結する。種が保存されるのである。いわば全体で一個の生命体である。しかし、こういう言い方はミツバチさんに失礼であろう。種の保存は結果でしかない。彼等は何かの喜びを求めて生きている。あるいは生きている事が喜びであるかもしれない。または、喜びとか悲しみとかも無いのかもしれ無い。しかし、役目に従って強力な敵に無謀にも立ち向かっていく兵隊蜂は、何故生きる事ではなく死ぬ事を選ぶのか。ここには集団に属する個体の行動の不思議があるように思える。個人は、自己の充実した人生よりも集団の拡大・発展の方が大事なのである。まるで、子供の幸せの為に自分の命さえも惜しまない人のように。
もしかしたら、人間は実は集団の一部分として生きるように設計されていて、個人の喜怒哀楽は付け足しじゃ無いのか、そのような疑問が湧いてくる。これは生き方の問題であるとともに国家・民族の問題だ。これからそれを検証してみよう。

(4)ナチス党の躍進とドイツ民族

第一次世界大戦がドイツの敗北で終わり、ドイツはとてつもない賠償金に加えて未曾有のインフレに苦しむ事となる。さらに大恐慌の嵐が吹き荒れた。どうやって乗り越えたのかわからないが、各国の植民地争奪戦の中なかで敗戦国ドイツにあっては、唯一の心の拠り所を民族の栄光に求めた事は間違いではない。ナチス党が躍進した背景には、全てを失ったドイツとドイツ民族があつた。国民の幸せを二の次にして科学の研究と持ち前の勤勉を全部軍備の増強につぎ込んだナチスは、決して広範に国民の支持を得たわけではないが、そのドイツ民族に対する誇りの主張は疲弊した民衆の閉塞感を打ち破るに充分な魅力があったのである。ドイツに課せられたあまりに厳しい賠償金が、民衆に生きる希望を与えヒットラーの全体主義を育てたとも言える。ドイツは民族主義の炎のなかで隣国ポーランドに攻め込んだ。
ヒットラーの構想は「奪う」事である。当時戦争は奪う事だったから、ヒットラーだけが非道・無慈悲なリーダーとは言えない。日本も同じような事をやっていた。ただ「奪う」というコンセプトだけでは泥棒団と変わるところは無い、所詮負ける運命だったとも言える。ユダヤ人はただ単に不運だったのだ。ヨーロッパの社会からのけ者にされ、諸悪の根源と揶揄され、キリスト教者の嫌う金融業を生業としていたために金だけはあったのが不幸の始まりだった。ヒットラーに取っては格好のターゲットである。
ひとつヒットラーを弁護するとしたら、ユダヤ人浄化という行為は、ドイツ民族の純血を保つという単一民族国家の形成の障害を取り除く事と、ユダヤ人の資金を略奪するという二つの事がたまたまの一致したにすぎない。ユダヤ人が唯一責められるべきは、自分たちの国家を持たずに他の集団の中で、自分自身の集団のアイデンティティーだけを保とうとした、その意固地さである。それがホロコーストを生んだ。国家を持っていれば、あんなに無抵抗で殺される事はなかったと思う、後の祭りだが。
とにかくドイツは「奪う事」に夢中になり、全部の組織が盗賊の集団論理で固められ、自滅した。全体主義もその単一の目標が、国民の持続的安定と発展及び近隣諸国との友好に置かれれば、実は素晴らしい国家形態なのである。少なくともミツバチ程度には、持続的である。

(5)太平洋戦争と中国

日本国民は米・英・仏・蘭・ポルトガルの帝国主義列強から身を守り、急激な改革で必死の近代化をなんとか成し遂げ、さらに日清・日露の戦いの中で全体主義に傾いていった。もともと民族的に全体主義的傾向があったのである。ミツバチ的と言っても良い。八紘一宇などという絵空事が好きな民族でもある。世界の中で、血液型のA型が国民の大多数を占める国は、ドイツと日本だけだそうである。中国とインドはB型、アメリカはО型、他のヨーロッパ各国も多少のばらつきはあるがО型だそうだ。ドイツと日本は特殊なのである。戦争に行くのにも日本人は義務と捉えるが、アメリカ人は勇気と捉えるそうだ。血液型の違いだろうか。1億玉砕なんて発想も、A型民族ならではの感がある。後先考えないA型の特徴だ。
韓国を植民地にして日本も帝国列強の仲間入りを果たしたが、朝鮮人を差別していた事は色々な資料に照らして明らかだ。日本という集団に属した人々は、朝鮮という集団に属する人々よりも社会的に上であるとする感覚が当たり前にあったと思う。民族に生来優劣があるとする考えは、今でもオリンピックに端的に表れている。
柳条湖事変から中国に侵攻した関東軍がそのまま勝っていれば、どうなっていただろうか。ヨーロッパ各国がドイツに蹂躙されていて手出しができない間に、中国国民党と手を結んで民衆を清の圧政から解放していれば、今頃中国は日本に感謝こそすれ恨みに思う事はなかったはずだ。日本軍にもう少し先を見る目があったらとは戦争に負けたから言える事なんだろうか。
日本国民に集団の論理が働き、中国人を一段下に見る風潮が無かったか。明治維新の苦労を乗り越えた経験から、当時の中国にアドバイスと支援を惜しまなければどうだったか、歴史のifである。様々あって結果として、日本と中国の「今」がある。集団の論理はむしろ戦前回帰しているが、歴史は繰り返すものかもしれない。

(6)原発

色々あるが金である。金、金、金。どうしてそんなに金が欲しいのだろう。考えてみれば集団の論理というが、所詮は金である。必要な事だけれど金にならない仕事、例えば清掃業、誰もやりたがらない仕事だろう。今ではロボットという選択肢もあり得る。あるいはいつの日か清掃ロボットの反乱なんて事態が起きるかもしれない。だが原発は別だ。1度事故を起こしたら国家滅亡である。鹿児島川内原発は、風向きの関係で大阪までが強烈な放射能汚染の範囲に入るという。福島は、未だに核燃料の落ちた場所すら確認できずに四年が経っていて、しかも放射能は自然減以上には減ってないのである。しかも新宿の汚染度合いが半端じゃないという。海流が少し南下するだけで、東京オリンピックのヨットやカヌー競技など中止になるかもしれない。原子力は人間がコントロール出来るような甘いもんじゃ無い。
どんなに効率が良く温暖化対策で便利か知らないが、国家滅亡のリスクを冒すほどの切羽詰まった大事だとは思わない。国が生きるか死ぬかの瀬戸際だった太平洋戦争だって、十年後にはなんとか希望を持って生きられたのは、焼け跡から雑草のように立ち上がったからだ。しかし原発だけは死のみである。事故の後はチェルノブイリのように、何百年も人が住めない土地になる。気候温暖で風光明媚な福島が、である。なのになんで原発なのか。つまりは金であり、安全性など無関係である。
私は事故が起きたら全額補償できるだけの準備金の積み立てを条件に、許可するのが唯一の方法であると確信する。額は何十兆円かになるであろうが、現金で積み立ててもらう。理にかなっているでは無いか。嫌ならやらなければいい。それだけである。
全ては金である以上、資金は電気代に上乗せすればいい。補助金などで補填するのはルール違反である。事故が起きたら保証金をもらってニューヨークかパリにでも引っ越すだけ、シンプルでは無いか。
必要か必要で無いかは資本主義では意味が無い。要は売れるかどうか、需要があるかどうかである。自然エネルギーはとても高くてというなら、使う量使い方を工夫しよう。化学は進歩するのだから、できるまでは我慢してもいい。GDPが世界30位以下でも構わない。貧困だっていいではないか、日本全国がチェルノブイリや福島みたいになる前に考え直そう、少なくとも金のことしか考えない連中にはわが祖国日本は、売れない。

(7)移民問題

中東からヨーロッパへの移民が止まらない。昔はより良い生活を求めてヨーロッパへ向かった。だが今は移民というより難民である。もう中東には安全な場所はないのだという。何故、武力で民衆を従わせる宗教団体が国家の名を借りて存在し続ける事が可能なのかは別として、永久に移民を受け入れ続けるわけにもいかない。国家の境界線を集団の論理で分かつのは限界にきている。移民から何を守るのか、彼らの求めるものは安全と仕事である。本心は故郷へ帰りたいであろう。国へ帰るという条件で移民を受け入れるというのが、私の考えである。何年何十年かかったとしても、祖国の解放と発展を願わない難民はいないと信じる。
ユーロは人類の未来に向けての実験である。私は応援している。フランスという国は、昔から革新的なアイディアを実行に移すのが好きな国である。フランス革命時には、年月の単位を十進法で計算したくらいである。が、さすがにこれは失敗した。日本もこれぐらいの革新性があってもいいと思うけど。

(8)オリンピック

国と国が、誇りと名誉をかけて競技する。金メダルを獲得した選手は国旗をまとってウイニングランをする事になっているらしいが、果たして国家と金メダルとどれほどの関係があるだろうか。
素晴らしいマラソンランナーがいてぶっちぎりで金メダルを取ったとしよう、国が何処かは別として、そのランナーの能力には感動と賛辞を惜しまないのである。人間の限界に挑戦する、実に楽しいわくわくする話だ。それがそのランナーが仮に日本人だとしても、テレビを見ている貴方には「何の関係もない」はずではないか。何故「日本」が金メダルを取ったら大喜びするのか、私には理解できない。
日本が取ったと聞くと、貴方も嬉しくなる。つまり
1.日本人はすごい、金メダルをとったから。
2.彼も日本人だが、私も同じ日本人だ
3.だから私には金メダルの血が流れている
4.韓国・中国の連中はダメだ
5.つまり、韓国人よりも日本人の方が偉い、だって金メダルなんだから
以上の論理展開で、一つの金メダルが民族優位の証拠になる。これは集団のマジックである。「日本人はすごい」までは許すとしても、それであなたがどうなるものでもない。ダメなあなたはいつまでも駄目である。関係ないのだ。それを無理やり関係あるかのような気分に持って行ってしまう、これが集団の論理である。
でも日本人が一人も出てい無い競技はつまらないかというと、そうでは無い。実はこれこそオリンピック競技観戦の醍醐味である。いまじゃテレビという魔法の箱があるのだから、何も東京でやることはなかったのだ。残念。

(9)ロゴ問題と◯◯委員会

国立競技場の問題でひと悶着あって、なんとか白紙撤回で再スタートしたと思ったのも束の間、今度はロゴマークが盗作だと言う。あれよあれよという間に、これも白紙撤回だと言う。責任者を出せ!と言いたくなるところだが、どちらも責任の所在がはっきりしないらしい。日本だけではないだろうが、血税を何億円もドブに捨てたのである。これは責任の分散という官僚特有の悪弊で、集団の中に入って持ちつ持たれつ助けられた良い例である。日本人は何故かこれを許す習性がある。国民は白紙撤回で一本取ったつもりかも知れないが、余りに奴隷根性が抜けてないとしか思えない。
私の案は、全てを有能なプロダクションにまかせ、きっちりと契約を交わし、実施の遅延や契約不履行の賠償金を決めておく。それぐらい当然ではないか、血税である。無能で無競争の公務員などに国家的プロジェクトを遂行出来るとおもう方がバカげている。オリンピックの開催を民間に任せたロサンゼルス大会は、国威の発揚などという空虚なメッセージに振り回される事なく、その施設は今でも現役だと言う。廃墟の山を残したアテネ大会とはエライ違いだ。日本でも長野オリンピックの悪しき前例がある。東京オリンピックも、あちこち金目当ての輩がワンサカ出てきて、もうそうなりかかっているでは無いか。そもそも誘致の本音が経済活性化だと言うのだからオリンピック精神など吹っ飛んでしまっても不思議は無い。
国民もいい加減何個金メダルを取るかに一喜一憂するのはやめどきじゃ無いのかな。参加することに意義がある、といった人はどこの人だったか、良い言葉である。東京オリンピックは金をばら撒くこと、公共事業だと思っているから国立競技場のように湯水のごとく金を使って天に恥じ無い官僚・政治家が出てくる。それに群がる業者には機会損失になるが、この際原点に戻ろうよ。私の提案である。

(10)日本人の集団的行動

日本人は他人が自分の事をどう見ているかものすごく気にし、人の気持ちになって考えろと上司から叱責され、自分が人にされて嫌な事は人にするなと言われ、とにかく、自分の考えより一般的にどうかという事を考える習慣が身についてきた。香典袋の宛名書きは薄い色で書くのが正式だというが、なんで薄く書くのかと聞けば、皆んなそうしているからとか昔からそうしてるとか、要は説明できない事態に陥るのである。勿論ネットで調べれば直ぐ分かる。だけど真実は「結果的に」薄くなったのであり、それを「真似して」何になるのだろうか。日本人の行動パターンの根本にある外面を見栄え良くする意識は、中身よりも外見を重視する価値観の偏重を生んできた。
その要因は、集団的なものの考え方にある。集団の名誉を重んじるのだ。日本人は何処かの集団の一員であると、安心するようである。考えないことは楽だから。でも楽ばっかりしてると、ボケる。
人間は入れ子構造の幾つも重なった積のような小さい集団に属している。団地の世話人、町内会の役員、PTAの婦人部、電気器具の製造会社社員、組合の連絡員、労働者連合会の事務担当、野党の支持者、中国への輸出振興役員、それを取り仕切る政治家、諸々の顔を持つ。そして一番大きいのが「日本人」というカテゴリーである。日本が世界一と評価されたと聞けば、全く関係ないにも関わらず、何故か「日本てすごいな」と喜ぶ。日本の◯◯会社か◯◯さんかが世界一なんであって、貴方では無いのに、である。

もうそろそろ、この手の集団マジックから脱してはどうだろうか、世界は確実にボーダーレスになって来ている。個人の力で勝負しよう。トヨタが世界一であっても、島根に住むスーパーの店員の貴方には嬉しくとも何ともない。貴方が喜ぶべきは、担当のお酒の「李白」が新酒品評会で金賞をとったことである。トヨタは関係ない。
アフリカのジンバブエ生まれの寿司職人が世界一美味い寿司職人アワード2015にかがやいても何の不思議もない。努力が実を結んだだけだ。勿論、日本の包丁がベトナム製でも構わない。いいものは良いのだ。
しかしだからと言って、日本的なもの歴史的なものまで何でもよいというのは勘違いも甚だしい。美術館の日本刀のコーナーに、ゾリンゲンのカミソリは不要だ。あくまで日本と日本人の歴史的民族的価値を展示している。京都・奈良は、そういう歴史的財産として必要なのだ。絵画・焼物・建造物・景観や土地特有の気候・生活様式・登場人物としての日本人を含めて、日本の歴史は是非残しておきたい。これは集団マジックとは別物である。私はその中には属していないからである。属しているかいないか、ここが分かれ目である。つまり、世界一にならなくても金儲けできなくても、京都は京都、奈良は奈良であり続ける。なにも世界遺産などにならなくていいじゃ無いか、と思う。

世界遺産、これも金儲けに踊らされた集団マジックの一つであろう。皆さんも自分自身を振り返ってみて、自分は本当はなんだろかと問いかけてみてほしい。
自分は漁師だ、と固有の職業名を言い切ることが出来れば、貴方は幸せである。

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