明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(24)斎藤忠の「倭国滅びて日本建つ」を読む・・・その ④ 色々と分かって来た

2021-08-23 15:53:18 | 歴史・旅行

私はこの数年、日本史の謎を解明したいという願いが段々強くなって来ている。簡単に言えば、その1番の夢は、志賀島金印の「委奴国」から魏志倭人伝の邪馬台国を経て、五世紀に大活躍した「倭国」に至るまでの「真実の歴史」を明らかにすることである。そしてその後に起きたであろう、倭国から「やまと」になった「いきさつ」を、一切の先入観なしに完全に解明してみたい・・・。確かに他にも日本史は色々なアプローチがあって、幕末倒幕運動の血湧き肉躍る戦いや、戦国時代の壮大な国取り物語。そして公家から統治権を奪い取り、武士の世を開くまでの平家と源氏の熾烈な争いなど、どれを切り取っても面白い話は無限にあると思う。それはそれで、知れば知るほど大いに楽しめる「英雄の活躍が満載」の物語だ。だが人生は短い。既に私は70を超えていて、あと何年生きられるか・・。そう、私には時間が残されてはいないのである。それで結局私が選んだのは、英雄物語ではなくて「歴史解明ミステリー」だったと言うこと。極々シンプルな謎、それを追求することに的を絞ることにしたのである。あくまで「本当はどうだったのか?」という質問に、明々白々な答えを見つけたい・・・。言わば「相棒」の杉下右京のように、「えーっ、そうだったのか?」という快刀乱麻の答えが欲しいのである。勿論、まだまだ探索の道半ばだが、それでも徐々に「真実」に迫りつつある!、と思いたい。

それにしても倭国の「倭」は、日本語で「何と発音していた」のだろうか?。まさか「やまと」じゃあないだろうと思うけど・・・。

1、神武天皇
新唐書・宋史、共に神武天皇は「筑紫の都」から大和に来た、と書いてあるらしい。日本書紀もそうだ。で、その出発点はというと、現在の宮崎県のどこかだという。ホントかいな?。・・・そもそも日本は太古より群雄割拠の状態が続いていた。大和地方はナガスネヒコが支配していたし、出雲・因幡はオオクニヌシが支配していた(勿論、信濃や関東や岩手などにも支配者はいたであろう)。天照大神がニニギを「葦原中つ国」に降ろして国を作った時、既に何十という氏族が全国にいてお互い争っていたのである(現在の私の認識)。ところが、天孫族ニニギは昔から住んでいる地域を統治・拡大したのではなくて、「他所からやって来て」そこに新規に国を作ったといっている(天照大御神がそう言っている)。つまり、ニニギは九州土着の勢力ではなく、「外部から侵略」してきた勢力ということになるではないか。天孫族の生まれ故郷は九州じゃなく、どこか「別のところ」にある。しかも「天から」降り立ったというのが物語に書いてあるのだ。近くの山を越えて来たとか言うのではない。・・・古代史に燦然と聳える巨人「古田氏」によれば、それが隠岐・対馬を中心とし、朝鮮半島南部をも支配下に含めた「海洋民族天孫族」だという。・・・私はこの説を非常に説得力のあるものと思っているが、この問題はひとまず置いておく。とにかく、ニニギは「九州に上陸」して国を作った。最初に降り立ったところを拠点として、長い時間をかけて次第に周辺地域を侵略・征服し、拡張して行って「ある時」大和に侵攻した。それが神武東征神話の伝える実態である。

で、その出発点がもし宮崎だとすると、地形的に考えて、ニニギは東の「太平洋の方」からやって来たか、あるいは北の方から船でやって来たが、途中の福岡・大分・山口・広島・愛媛などの国々はどう言う理由からか通り過ぎて、宮崎に来て「やっと上陸した」ことになる。どうも天孫降臨神話のイメージからは「程遠い」侵略譚である。もし北から来たというのなら、途中に戦闘の話があってもよさそうだが、それは全然ない。やっぱりニニギの葦原の中つ国は「博多」以外には考えられないと思う。宮崎がたまたま「日向の国」と言われていたからといって、いきなり「神話の里」ってえのはどうでしょう?。まあ、神武天皇がどこから出発したかというのはまだ先の話で、ポイントは新唐書・宋書ともに神武天皇が「筑紫の都」から来た、ということである。筑紫の辺鄙な処からではなくて、「都」から来たとハッキリ書いている。ここが肝心なのだ。つまり大和にやって来た神武が筑紫の都を捨ててきたのでない限り、筑紫には依然として大きな「都」がある、それが新唐書や宋書の言っていることなのだ。当時、大和はナガスネヒコの支配する国である。神武は大和に侵入する前に、瀬戸内海各地を転々として「侵略地を探して」いた。船何隻で行ったのかわからないが、何十隻もの大船団ではなかったみたいだから、結局大和は筑紫と比べると「田舎の農村」みたいなものだろう。縄文の海進という地球規模の天候の変化があって、巨椋池という巨大な内海が今の大阪から南の平城京の北辺り一帯に拡がっていた時代である。奈良盆地はそれほど肥沃な場所でもなかったのではないか。まあ、神武天皇の話は「取り敢えず、歴史の本筋」ではなかった、としておこう。

2、新羅との関係は良かった?
倭の五王までの日本は、中国との関係は良かった筈である。日本が南宋に朝貢して「六国諸軍事」などという役職を貰っていた頃には、当面の敵は「高句麗」だった。百済とは友好国であり、かつ兄貴分だったらしいことは各書の端々に見える。三国志の魏から後継者の晋が滅亡した後、4世紀初め頃から支配下の朝鮮は次々と独立を果たし、南北朝の時代には高句麗・百済・新羅の三国に「ほぼ」まとまりつつあった。九州倭国は「讚」の時代であり、朝鮮に任那という直轄の支配地を持っていて、ガンガン出兵して一定の権力を保持していたようなのだ。それが6世紀初めに「倭武」が没して以来、何だか雲行きが怪しくなる。丁度その頃「磐井の乱」が起きて、敦賀からやって来た継体天皇が物部麁鹿火に「筑紫の君・磐井」を襲わせた。531年に日本天皇・太子・皇子が皆死んだという記事は、「倭国王磐井の死亡記事」ではないか、という説が一部には出ている。倭国王「武」のことは、中国の史書からしか知りえないし、「磐井」の話は書紀からの推測だ。両者にだいぶ温度差があるのは仕方ないが、倭国が百済の代りに直接高句麗を攻めている構図から見ると、朝鮮半島の政治抗争の主体は「高句麗対倭」であり、新羅は最初は大した国では無いようだ。それが「日出ずる国の天子」の登場あたりから朝鮮半島を含めて、東アジア全体が激動の時代に入って来る。

この時中国側は「三国志から南北朝」の戦乱の世を「隋」が統一して、ようやく目を半島の方に向けてきた時期である。任那が新羅に滅ぼされたのは562年となっているが、日本は蘇我氏が権力を奪って地位を固めている時であり、朝鮮半島への出兵は600年の推古天皇の時と、妙に「間が空いている」のだ。朝鮮半島の拠点「任那」を奪われたのであるから、すぐにでも兵を送って奪還するのが普通ではないだろうか。それを40年も経ってからというのは、余りにも変である。どうもこの時、朝鮮半島では北から高句麗・東から新羅に攻められて、百済が孤軍奮闘しているようなのに、日本の反応を見ると「対岸の火事」のように冷たい態度を感じる。書紀の描く大和朝廷では、朝鮮の問題は「どこか他所の出来事」であるかのようだったのではないだろうか。多分、朝鮮問題は「倭国の問題」であったのだと思う。大和朝廷では645年の乙巳の変の時、「板葺の宮」で三韓の使者を召していたことになっている。ちょっと「のんびり」し過ぎじゃないかなぁ。

倭武の後に磐井の乱が起き、それから130年経つ間に「東アジアの政治地図」がどう変わっていったのか。ここが残念ながら「空白なまま」なので、歴史家の間でも「あらゆる説」が横行する。ただ基本的に、高句麗と百済は「同民族」で、新羅は韓族の弱小部族だったというのが私の理解だ(何か調べたわけじゃなく、ただの思い込みです)。百済は高句麗に攻められて475年には首都漢城(ソウル)を落とされている。その後、百済は首都を熊津に移して国力の回復に努めたが、伽耶地方を巡って新羅とも対立する。北から高句麗に攻められ、東から新羅と勢力争いを繰り返して、漢城を奪回したりして頑張ったが、618年に隋から唐に王朝が交代して、642年いよいよ「朝鮮大動乱」の火蓋が切られた。これら各国の動きに対して、日本では余り積極的に介入しようという雰囲気は、書紀を読む限り伝わってはこない。

そんな中で百済は高句麗と協同して新羅を攻め、新羅が唐に助けを求めたことで、一気に「風雲急を告げる」こととなる。これが「乙巳の変前夜」の東アジアの情勢だろうと思っているが、この辺りは「倭国の視点」でもう一度しっかりと検証する必要があると感じている。朝鮮半島情勢を抜きにしては、日本の国内情勢は語れないのだ。その辺がまだ曖昧なままである。しかし今回は、「倭国」から「日本」へと王朝が変わったという事実を調べることに集中したい。

3、大宝律令
少なくとも大宝律令以前に、近江令・飛鳥浄御原令があったことは確かだと思う。続日本紀の大宝元年8月の条には、「大略、浄御原朝廷の制度に準拠したもの」との記述があるそうだ。ところが「威奈真人大村墓誌」という金石文の銘文は、大宝律令を「初めて定められた」と書いている。近江令は天智天皇、浄御原令は天武天皇である。いずれも一代の王朝を開いた帝王だ。そうであれば今回初めて律令を制定した大王も「王朝を開いた」のではないだろうか。つまり、「文武新王朝」である。新律令の施行は、地方区分の再編成を意味する。評制から郡制への転換は、律令の施行と表裏一体なのだ。ところが日本書紀と続日本紀とでは、郡制施行開始時期が異なる。日本書紀では孝徳天皇大化2年施行で、続日本紀では文武2年。これが歴史学会で郡評論争として大いに争っていたのは周知の事実である。しかし長屋親王館跡から木簡が出土して決着が着いたのは有名な話だ。古代史の論争は遺跡の発掘で「片が付く」。卑弥呼もどこかで墓が見つからないかなぁ。それもミイラの胸に「卑弥呼」って書いてある札が下がっているとか・・・。

とにかく日本書紀の大化2年が、実際は文武朝に施行されていたことが分かったのである。これで大化改新という言葉自体がなくなり、代りに「乙巳の変」と呼ぶようになった。じゃあ「大化」という年号はどこかへ行ったのか?、というと「実は九州年号」というのがあって、「大化」という年号は西暦695年に始まったとある。高市皇子の時代だ。孝徳天皇の事績として教わった各種改革はそもそも高市皇子(天皇)の中央集権改革であるという。

他にも続日本紀に和銅元年(709年)初めて銭貨鋳造した話が出ているが、これまた大宝年間より古い遺跡から「銅銭」が続々出土しているのだそうだ。直前の天武朝で流通していたものを「富本銭」という。この富本銭は書紀にも言及されている銭貨なのに、何故続日本紀では和同開珎を「初めて」と堂々と説明しているのか、というと、つまり「新王朝=日本朝廷にとって初めて」だった、ということだろうか。700年頃に「新王朝」が出来たのは諸々の証拠から明らかだが、簡単に言えば、a. 烏形幢、b. 礼服と朝服、c. 新羅国を外臣に、d. 藤原宮、e. 国司が任じられた、f. 位階制度、g. 大宝年号の建元・改元、h. 大宰府の専権事項として諸国の掾以下と郡司らの選考を許した、i. 全国の国造を藤原宮に集めた(出雲果安の例」。神賀事の奏上は服属儀礼で、出雲国造は「代替りごと」に神賀事を述べる、等々(個々の説明は省く)だ。まあ、証拠は色々と上がってはいるが、新王朝の主体は未だ「どのような勢力」か、という点では分からないままである。

4、古事記と日本書紀の漢字の違い
ちなみに書紀=彦・比古に対し古事記=日子・毗古、書紀=尊に対し古事記=命、書紀=神日本磐余彦に対し古事記=神倭伊波礼毘古、となる。古事記の方がぱっと見「難しい漢字」を使っているようにも見える。どうも風土記などの系統を見ると、本州系風土記は「古事記』、九州系風土記は「書紀」に分かれているようだ。本州系が「倭」で九州系が「日本」なのだろうか。ちょっと逆みたいにも思えるが、古事記の方が少し「古い」文字使いなのかも。古事記は「藩王国やまと」の歴史書=やまと風土記であった可能性が高い。なお、続日本紀には実は日本書紀という書物はなくて、「日本紀」という書物があった、としか言及されてないという(だから「続」日本紀という)。そして高市皇子は高市天皇であり、日本紀では「高市紀として朱鳥年号」の記載があったとも言われているそうだ。ますます混沌としてくるではないか。いつから日本紀が日本書紀に変わったのだろうか。・・・意外と江戸時代だったりして(あはは)。

5、大委国は何と読むか
古事記や書紀また正史・六国史から万葉集・風土記に至るまで、大委国を「やまと」と読んだ例は一つもないそうだ。法隆寺資材帳には大委国上宮王とあるが、これを「やまと国じょうぐう王」とは読まないらしい。それに資材帳では「委」の字を使っているが、なぜ大倭国ではないのかも疑問だ。大委国は「たいゐ」と読み、俀国の唐の読み「たい」と近似している。大委国=俀国かも。だが大倭国では「たいゐ国」としか読めなくて、大倭国(やまと国)とは「発音が全然違う」から、別の国だろう。但し、中国では「同じ国」で通ったのではないか。逆に「やまと」を古の委奴国と同一の国に見せるために無理矢理「倭」と書いたのではないか、とも思う(私の思いつきです)。委と倭は文字的に近いから。要するにやまと国は、国内向けでは「やまと国」だったが、遣唐使においては「大倭国」と書いた、というのが真実っぽい。つまり日本(にほん)が外人に JAPAN と自己紹介するようなもんである。

6、聖徳太子は上宮法王とは別人
法隆寺本尊の光背銘文に「法興元32年(622年)2月21日上宮法王登遐す」とあるそうだ。これが実は上宮法王が「厩戸皇子」ではないことの証拠である。厩戸皇子が上宮と呼ばれている理由は、若い頃「池辺南の上之宮」に住んでいたからという。その後、601年に斑鳩の宮に移った。それから20年も住んだ斑鳩なのに、「斑鳩太子」といった呼称はどの資料にも一切無い(勿論、斑鳩が「上宮」と呼ばれたことも無い)。もし彼が後に「法王」と呼ばれるようになったとすれば、それは斑鳩に移ってからなのに、「なぜ昔住んでいた場所が上之宮」だから上宮法王などと、いつまでも昔の名前で呼ばれるのか、不思議である。昔、仙台に住んでたことがあるからといって、今「赤坂」に住んでるのに、わざわざ「仙台法王」なんて呼ばれるようなもんである。「むっちゃ腹立つぅ〜」。そりゃあ「赤坂」のほうが数段良いに決まってるじゃないか。・・・上宮法王とは日いづる国の天子「多利思北孤」のことである。まあ、これは今や「常識」のレベルだけど。

7、九州年号の隠匿
5世紀に倭国は中国南朝から「都督・六国諸軍事」という官職を授かっていた。これは新羅を始め、朝鮮半島諸国に対し軍事指導権を行使できる官職だと言う。新羅は倭国(この時は俀国)を敬仰して536年には年号を建てたと記録されている。この年号を建てるということは、王朝を開くことと同じだそうだ。ところが唐の時代になると唐から譴責を受け、650年に唐の年号に戻したとある。年代から見て「白村江」の前だから、半島情勢の前に仕方なく唐の力に媚びたのだろうか。ちなみに日本があくまで「和暦」にこだわるのも、キリスト暦に対する自負心の反抗と考えられるが考え方が小さいねぇ(私は不便この上ないので、この際「西暦」一本にすべきだと思う)。それはそうと日本では、九州年号が「全国各地で」確認されているらしい。勿論、日本書紀の記事とは一致しない(これは徹底しているようだ)。1604年頃のポルトガル人宣教師ジョアン・ロドリゲスが著した「日本大辞典」にも言及されていたそうだから、相当知られていたのだろう。九州年号群は「522年・善記」で始まり、日本書紀に言及のある「白雉・朱鳥」を含み「大化」まで切れ目なく続いて700年で終わる。これは701年「大宝」による新しい年号群に「取って代わられた」と考えて問題ないだろう。九州年号のことを書き記している「二中歴」には、「以上、百八十四年、年号で31代、ただ人の言で(今に)伝わるのみ。(現王朝は=私の補足説明)大宝より年号を立てることが始まる。」とある。なお、この九州年号について書いている書物には如是院年代記・襲国偽僣考・海東諸国記とあり、皆な522年(善記など)で始まっているが、ただ「二中歴のみが517年・継体」で始まっている。これ、継体天皇の治世と重なるんだけど微妙に一致してないんだよね。しかも年号と同じ名前の天皇なんて「ありえない」と思うんだけど・・・。出土木簡などは700年以前はすべて干支で書かれていて、701年以降はすべて大宝が用いられている。これは養老律令で命じられたからなのだ。

まあ色々と斎藤忠氏の本に書いてあることで、私の読解力で分かったところをメモ的に書き出して見たが、いよいよこれから後半に入ってくる予定である。壬申の乱で政権を奪取した天武天皇は、たった20年足らずで「新王朝」に取って代わられた。一体誰が新王朝の「主」なのか?

(続く)


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