アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

トフラー対談(過去から)その4 永井道雄

2011年10月10日 00時53分03秒 | トフラー対談1982
● トフラー対談4 1982.5.1NHK出版 写真でみる第三の波P.134~ 
生涯教育に向かう多様な社会
永井道雄(国連大学学長特別顧問)
現行教育制度の問題
トフラー 第二の波の産業社会の時期に、先進工業国の多くが大衆教育の制度を導入しました。それらに共通のカリキュラムは時間厳守、服従、それに単調な繰り返し作業に慣れさせるということだったのです。日本やアメリカ、ヨーロッパの学校の多くは、教育工場なわけです。ところが、現在の急激な技術的・社会的変化は、教育についても当然、革命的変化を必要とすると思います。これまで当然と考えられていた教育の前提を、見直す必要が出てきていると思うのです。また、日本では教育制度への不満と批判が高まっていて、永井さんがそのもっとも有力な批判者の1人であるとも聞いておりますが。

永 井  ほかに多くの人がいます。しかし実は、日本では明治の初めに産業革命をやった時、儒教や仏教といったアジア大陸からの影響が強いものと、西洋から入ってきた学校教育とをどのように調和させるか、非常に盛んな議論がありました。ある意味では今もその議論が続いていると言えます。また、昔から大切にされていた日本の家庭での教育を残しておいたらどうかという議論があります。一般社会や学校や家庭において、それぞれどのような教育をやるかという議論があるわけです。
 だいたい日本の文化の潮流は4つぎらいあります。西洋、儒教、仏教、それに古くからの日本文化 - これらをどのように結びつけていくかということを、今まで100年以上も議論してきたわけです。

トフラー 日本では試験地獄があると聞いています。子供の時から東大や大企業に入るために、一生懸命勉強しなければならない。そのため、親は子にプレッシャーをかけることになるわけでしょうが、社会が急激に多様化の方向に変化している現在、現行の画一的な教育制度を子供に押しつける意味があるのでしょうか。

永 井  その原因は今、東京が中心になっているからでしょう。徳川時代には東京に政府があったけれど、京都からみればローカルタウンだった。東京が中心になったのは100年前からです。
 ところが、明治時代になると西欧諸国に対抗して独立を保っていかなければならないし、戦争に負けてからは、もう1度独立しなければならないということになった。早く立ち直らなければいけないということで、東京が重要になったわけですね。日本が後進国で、独立をどうやって達成するかという場合には、東京中心主義もある程度避けがたいことだったと思います。しかし、今では独立してから大分時間がたちましたから、もう1回、徳川時代の地方の時代の形に戻ってもよいように思いますし、その可能性も出てきたと思いますね。

教育の規格化と多様化
トフラー 日本の教育は、規格化されたカリキュラム重点主義から、もっと創造力の向上ということに焦点を合わせた教育に変わるべきだという批判が高まっているようですが、現行の教育制度はいったいいつ変わるのでしょうか。

永 井  これは大変にむずかしい問題です。私が初めてアメリカへ行った時は、ニューヨークの先生の給料が年3000ドル、ミシシッピーの先生は700ドルでした。その後、アメリカで、世界でも有名なHEW(教育保健福祉省)という役所を作って、一種の規格化をはかった。日本にも同様の問題があったわけです。しかし、この規格化と多様化をどのように組み合わせるかは、非常にむずかしい問題です。私はアメリカのHEWの長官と何回か話をしたことがあるんですが、アメリカでは地域差だけではなく、人種のちがいがありますから、平等を国家規模で行なう場合、どうしてもこの問題にぶつかるわけです。日本がいつ教育の規格化をやめるかと言われれば、私は簡単にやめられないと思いますよ。多分、アメリカもなかなかやめられないでしょう。中央政府にひきつづき責任があるでしょうが、これを自由、多様性、創造性という原則と、どのように組み合わせるかという問題です。

トフラー しかし、国の教育制度というものは、その国の特徴を反映すると思うのです。今、技術、エネルギー、あるいはライフスタイルなどがますます多様化の方向に向かっているとすれば、教育制度もこれらの変化に何らかの形で対応すべきであると思うのです。近い将来、教育が教室の外に出るという傾向が現われ始めるのではないでしょうか。例えば、教育の一部がコミュニティ活動と結びついたり、直接家庭に戻るということもあるかと思います。家庭での教育は、多分コンピュータその他の機器の助けをかりて行われることになるでしょう。そこで、この変化を促進するために、日本ではこのようなことができるとお考えでしょうか。

永 井  実は今、生涯教育の研究を、日本のいろいろなところでしているのです。生涯教育を重視するということは、学校が教育の一部に過ぎず、家庭や地域社会、テレビなどが大切になってくるということです。
 今、日本では3000万人が学校に行っており、それは金額でいうと公私の負担を合わせると20兆円使うことになります。そうすると、学校が非常に官僚的になってしまうわけです。ですから、こうした面からも学校以外の教育が必要になってくる。現に日本では学校以外の学校がふえているわけで、テレビとか家庭とかを通した教育が行われることにもなる。日本の場合、儒教は家庭というものが大事であると教えていたわけで、明治以降、その意味では今もあまり変わらない考え方があると思います。

情報に対処する社会システム
トフラー 日本その他の国で同時に起こっている変化は、情報量の膨大な増加です。情報の多様化という傾向は、社会の多様化と関係があると思います。というのは、多様化の進んでいる社会は、多量の情報交換を必要としているからです。しかし、そのために情報公害を受けるということも起こるわけです。しかし、ケーブルテレビやコンピュータなどの新しい技術は、情報を増加させる手段であるばかりでなく、逆に情報を選択する手段として利用するためにも利用できるでしょう。つまり、自分の必要とする情報だけを受けることができるわけです。

永 井  トフラーさんの本にあるように、新しいライフスタイルによって世界は変わると思います。しかし、科学技術による変化が出てきた時、人間がそれに適応できるかという問題があると思います。つまり、人間が意識して社会システムを変えられるかというと、それがなかなかできない。そこでいろいろむずかしい問題が出てくるということがあるのです。
 確かに今、人間社会のシステムを作っておかないと、情報過多になってしまうという問題があります。情報を制御し、積極的に自分の考えを構築するという方向にもっていくためには、私は今の教育のあり方、情報のダイジェストのやり方を検討しなければならないと思います。

トフラー 確かに私たちは、単に技術だけでは解決できない問題に直面しています。これからは、創造性を単に技術的な面に働かせるだけではなく、新しい政治的・社会的機構を生み出すために、創造性を働かせる必要があります。

永 井  学校教育の問題に戻りますが、第三の波が起こった時に、学校がなくなり、自分で勉強すればよいのだということにはならないでしょう。やはり、学校そのものの考え方が変わり、それが外側の組織とどのように協力するかということでしょう。
 情報のシステム化についても、社会・経済全体についての重要なデータベースを作る必要があります。ただし、このデータベースの作り方についても、なるべく大勢の人が参加する必要がある。そうしたシステムを作ってゆく過程で非常に大きなデータベースができ、最終的に国際的なデータベースとなる。そして、それをみんながどのように利用するかということについてのシステムも必要です。多様で自由な使用を確保するものでなければなりません。こういうデータベースを完全に使いこなしうる社会システムをどのように作るか、それは、学校、社会、政府をどう変えていくかと関連しており、もっと意識的な努力が必要だと思います。