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2006.6.7 REVOLUTIONARY WEALTH 富の未来(上)
第5部 知識への信頼 P.190~278
第15章 知識の先端
グエン・ティ・ビンはベトナムの五十代の女性であり、ハノイから百キロほど南にある農村の小さな水田で米を生産している。ビンが水田で米を生産しているとき、他の人が同じ水田で米を作ることはできない。
タチアナ・ラセイキナは二十代の女性で、モスクワの南にあるトリアッティのアフトワズ自動車組み立てラインで、ドア・ハンドルを取り付ける仕事をしている。ベトナムの水田と同様に、ラセイキナが働く組み立てラインが騒音をたてて操業しているとき、他の人が同じ組み立てラインを使うことはできない。
二人の生活と文化は大きく違っている。一方は農業生産を象徴し、他方は工業生産を象徴している。だが共通点もある。農業でも工業でも、主要な資産、資源、製品は経済学でいう「競合財」である。つまり、ある人が使っているときに他の人が使えない性格をもっている。
ほとんどの国は農業か工業を中心にしていたし、いまでもそうした国が多いので、経済学者のほとんどが富の創出の手段のうち競合財に関するデータを集め、分析し、理論化することでキャリアを築いてきたのは、以外だとはいえない。
ところが思いがけず、これまでとは性格が違う富の体制が登場した。この制度では時間と空間との関係が劇的に変化したうえ、基礎的条件の深部にある第三の要因、知識との関係も劇的に変化している。
時代に取り残された経済学者は、新しい富の体制の重要性を無視して何も変わってないかのように研究を続けるか、不適切な方法を使って新しい制度に探りをいれている。そうなる一因はこうだ。米や自動車のドア・ハンドルとは違って、知識は無形であり、知識とは何かを考えていくと、出口のない迷路に迷い込むのが普通なのだ。
幸い、本書の目的には、対立しあう無数の定義をすべて検討していく退屈な作業は不要である。また、きわめて厳密で明確な定義も必要としない。頼りないように思えるかもしれないが、世界の知識基盤がどのように変化しているのか、いまの変化が将来の富にどのように影響を与えるかを明らかにするうえで役立つ実用的な定義があれば十分だ。
(中略)
本書ではこれらの言葉を以上のようにつかうが、「データ、情報、知識」と何度も繰り返せばくどくなるので、この三つを区別する必要がない場合には、「情報」か「知識」という言葉で三つの概念の全体か一部を指すことにする。
以上の区別ではせいぜいのところ、知識の大まかな定義にしかならない。だがこの段階では、新しい富の体制での「知識供給」とでも呼べるものを描いていくには、これで十分である。
これまでに「知識経済」に関して、地球上のあらゆる言語で、無数の文章が書かれ、デジタル化され、無数の発言がなされ、議論されてきた。だが、富の創出に使われる資源や資産のなかで、知識にどれほど大きな性格の違いがあるのかを明確にしたものはほとんどない。そこで、まずは知識の性格がどれほど違うかを、いくつかの点でみていくことにしょう。
第一に、知識はその性格上、非競合財である。(以下略)
第二に、知識は無限である。(以下略)
第三に、知識は線型ではない。(以下略)
第四に、知識は関係性という性格をもっている。(以下略)
第五に、知識は他の知識と関連をもっている。(以下略)
第六に、知識はどの製品よりも移動が簡単である。(以下略)
第七に、知識はシンボルや抽象的な概念に圧縮できる。(以下略)
第八に、知識は蓄積に必要な空間が縮小しつづけている。(以下略)
第九に、知識には、明確に表現されたものも、されないものもある。(以下略)
第十に、知識は秘密にしておくのがむずかしい。かならず広まっていく。
これらを総合すると、経済専門家が扱いなれてきた有形の財とは性格がまるで違うことが明確になる。そこで、経済専門家のほとんどは、たいていの人がそうするように、首をふって自分が知っている世界に安らぎを求める。慣れ親しんだ有形の競合財の世界に戻ろうとする。
だが以上にあげたのは一部でしかない。知識には、有形の財に基づく経済学の既成の概念でとらえきれない性格がまだまだある。
タイヤを蹴ってみる
知識資産には奇妙で逆説的な性格がある。(以下略)
第16章 明日の「石油」
不思議に思えるかもしれないが、「知識経済」がはじまってたっぷり半世紀が経過した現在でも、新しい経済の背景にある「知」については、赤面するほどわずかな点しか分かっていない。知識は明日の経済の「石油」だと主張する人が多いが~(以下略)
使えば使うほど
だが、その際に出発点となるのは、中心的で単純な事実だ。富の基礎的条件の深部にある要因のひとつである知識も、現在の社会環境でとくに急速に変化する部分になっているという事実である。だからこそ、知識は石油にたとえることができない。
(以下略)
経済学は希少な資源の配分に関する科学だといわれてきたが、いまやこの定義は通用しなくなった。知識は無尽蔵なのだから。
(中略)
あらゆる産業、あらゆるセクターが大量生産、大量消費から脱却し、さらに高付加価値で、さらに個々人のニーズにあわせた製品、サービス、体験を提供せざるをえなくなっている。そして何よりも、無秩序とはいえないまでも、複雑さを増していく状況で、はるかに速く、はるかに賢明に意思決定を行う必要に迫られている。
だが、新興の知識経済に関して無数の分析と研究が行なわれてきたにもかかわらず、知識が富の創出に与える影響は過小評価されてきたし、いまでも過小評価されている。
製鉄所と製靴工場
アメリカはいまでも製造業大国だが、製造業で働く人はいまや、労働人口の20パーセント以下になった。~(中略)
~こうした人は「知識労働者」に分類されていないだろうが、やはり知識か、その基礎になるデータと情報を生み出し、加工し、伝えている。事実上、就業時間の一部で知識労働者として働いているのだが、知識労働者には数えられていない。~
要するに、以上をはじめさまざまな理由から、知識は経済専門家に長く軽視されてきた。いまでもそうだ。過去になかったほど軽視されている。このため、明日の経済の核心を見通すには、まず知識に関する知識不足を補う必要がある。
われわれの内部「倉庫」
人はみな、どの時点でも仕事や富に関する知識を個々人でもっている。
これらの知識は基本的に違う二つの方法で蓄積される。知識供給の一部は頭脳に蓄積される。人はみな、知識とその前段階にあたるデータや情報が一杯につまった目に見えない倉庫をもっている。だが、普通の倉庫とは違って脳は作業場であり、人は(もっと正確に言うなら、人の脳にある電気化学反応は)、数やシンボル、言葉、イメージ、記憶をたえず移動し、くわえ、差し引き、まとめ、整理しなおし、感情と組み合わせて新しい考えを生み出している。
総知識供給
だが、世界の知識供給の大部分は、脳以外の場所に蓄積されている。これは人類の長い歴史のなかで、そして現代に積み重ねられてきた知識であり、大昔の洞穴の壁から最新のハードディスクやDVDまで、さまざまなものに蓄積されている。
人類の当初数百年にわたって、知識をひとつの世代からつぎの世代に伝える方法は、ほぼ言い伝えだけにかぎられていた(そして、繰り返し語られるたびに不正確になっていった)。
この「外部頭脳」は信じがたい速度で拡大している。~(略)
この世界的な外部頭脳はまだ幼く、不安定であり、結合がまだ成熟していない。だが人類の歴史には決定的な臨界点があり、それがいつだったかは分からないが、知識の総量のうち、脳の外部に蓄積されている部分の量が、脳の内部に蓄積されている部分の量を上回った。われわれが知識についていかに無知なのかを証明するものがあるとするなら、それは、人類の歴史のなかできわめて重要なこの変化が知られていないか気づかれていない事実である。
(中略)
外部に蓄積され、急増している知識を、65億の脳に蓄積されている知識にくわえてはじめて、人類の知識供給の総量、総知識供給(ASK)とでも呼べるものを算出できる。これが汲めども尽きぬ源泉になっており、革命的な富はこれを活用できる。
ASKが拡大しているだけでなく、それをまとめ、利用し、配付する方法が変わっている。インターネットの検索エンジンは検索の条件を細かく指定できるようになり、さまざまな方法で情報内容を組み合わせ、操作できるようになってきた。また、いままでのところ、欧米流の論理や考え方が知識の圧倒的な部分を占めているが、今後は世界的な知識のメタ・システムが発達し、欧米流以外の論理や多様な体系化の方法がくわわって、知識が豊かになるだろう。
いま、あらゆる種類の富とその基礎的条件の深部にある知識との関係の全体が、過去に例のないほど急速に激烈に根本から変化しており、しかも、やはり基礎的条件の深部にある時間と空間との関係が同時に変化しているのである。この点を認識してはじめて、現在、富の創出をめぐって起こっている激変がどこまでの深さをもつものなのかを理解できる。
アルツハイマー病なんか怖くない
(中略)
実際のところ、人類の歴史のなかで、世界の知識の仕組みが現在ほど根本から変化したことはなかった。この点を理解しないかぎり、将来に関する最善の計画でも失敗するだろう。
この点から、トマトには毒があるとの見方について、子供の頭が埋められているとの見方について考えていきたい。
第17章 死知識の罠
考えることは重要だ。だが、われわれが考えている点の多くは間違っている。われわれが信じている点のうちかなりの部分は、まず確実に馬鹿げている。
(中略)
現在では、仕事に必要な知識は急速に変化しているので、職場内と職場外で新しい知識を学ぶ必要が高まりつづけている。学習は終わりのない継続的な過程となった。このため、考えている点の一部が馬鹿げていても、困惑する必要はないといえる。馬鹿げたことを信じているのは自分だけではないのだ。
その理由はこうだ。知識のすべての部分に結局のところ、賞味期限がある。ある時点で、知識は古くなり、「死知識」とでも呼べるものになる。
過去の真実
プラトンの『国家』やアリストテレスの『詩学』は「知識」の一部なのだろうか。孔子やカントの思想はどうだろう。もちろん、これらの思想を「知恵」と呼ぶことはできる。だが、これらの著書や哲学者の知恵は、それぞれの人が知っていたこと、各人の知識基盤に基づいており、その多くは実際には間違いであった。
(中略)
エミリーおばさんの屋根裏部屋
(中略)
皮肉なもので、先進諸国の企業は自社の「知識管理」「知識資産」「知的財産権」を誇っている。だが、金融工学専門家、エコノミスト、企業、政府は大量の統計を分析しているのに、意思決定の質の低下という形で、死知識のコストがどれほどになっているかは誰も考えていない。個人の投資、企業の利益、経済開発、貧困撲滅計画、そして富の創出の全体に、どれほどの障害になっているのかを考えてみるべきだろう。
(中略)
こうした「思考の道具」のうちとくに重要なものに類推があり、これにある程度まで匹敵するほど重要なものはほとんどない。複数の現象が類似していることを見つけ出し、ひとつの現象について得た結論を他の現象に適用するのが類推である。
人は類推という手段を使わなければ、考えることも話すこともほとんどできなくなる。
(中略)
だが、類推という思考の道具は、使うのがむずかしくなっている。類推はいつの時代にも一筋縄ではいかないものだったが、いまでもますます使いにくくなった。世界は変化しており、以前に似ていたものが似ても似つかぬものになり得る。以前なら適切な類推になったものが、いまではこじつけになる。過去との類似が断ち切られていき、しかも気づかない間に断ち切られていくことが少なくないので、それに基づく結論は誤解を招きかねないものになる。変化が速いほど、類推が役立つ期間が短くなる。
こうして、基礎的条件の深部にある要因のひとつ、時間の変化が、別の要因である知識を得るために使う基礎的な手段に影響を与えている。
要するに、知識経済の専門家の間ですら、「死知識の法則」とでも呼べるmの、「変化が加速すれば、死知識の蓄積も加速する」事実について考え抜いている人はほとんどいない。現代に生きる人たちには、ゆっくりとしか変化しない昨日の社会に生きていた祖先よりも、死知識の負担が重くなっているのである。
このため、いまの時代に生きるわれわれがとくに重視している考えの多くは、何世代かの後には笑いのタネになっているはずだ。
第18章 ケネー要因
現在ではかつてなかったほど、経済学を学んだ人たちの力が世界全体で強まっている。
(中略)ところが、学生のころに学んだ考え方の多くは、「死知識の屋根裏部屋」に納めるか、それよりも死んだ考えの墓地に埋葬すべきものなのだ。
経済学の失敗
(略)
推定の推定
もちろん、エコノミストの失敗は簡単に見つかるが、それをいいたてるのは公平な態度だとはいえない。人間が関係することにはかならず偶然がつきまとうので、意思決定者が要求するほどの確実性をもって将来を予想できる人は誰もいない。
(中略)
それらにこれらの点では、経済学の考え方のうちかなりの部分が意味をもたなくなっているか、誤解を招くものになっている根深い理由を説明できない。
第一に、いまの経済専門家が理解しようと努力している経済は、過去の偉大な経済学者が理解しようとしたものより、はるかに複雑だ。(以下略)
第二に、さらに重要な点だが、いまの経済専門家が理解しようと努力している経済は、過去には考えられなかったほど、取引と変化のペースが速い。(以下略)
第三に、それ以上に大きな問題がある。産業革命初期の経済学者は農業時代の考え方を超えなければならず、通用しなくなった考え方を捨てなければならなかったのだが、いまの経済専門家も同じ課題に直面している。工業時代の考え方を超えて、最新の革命的な富の波がどのように経済を変えているのかを理解しなければならない。
(中略)
二十世紀には経済理論が大きく前進したが、その多くは現実の問題に高等数学を適用した結果である。つまり、ものを計測する点で前進してきた。ここで重視されてきたのは「もの」、それも有形のものである。
しかし革命的な富は無形のものによって生み出され、無形のものを生産するという性格を強めている。革命的な富を理解するには、あらゆる資源のなかでもとくにとらえどころがなく、とくに計測しにくい知識をうまく扱わなければならない。
過去の偉大な経済学者も、無形のものの重要性に気づかなかったわけではない。だが、経済がいまでは、過去になかったほど知識集約型になっているのである。
個別の研究
経済学者が過去半世紀にいくつもの成果を上げてきたことは、認めておかなければならない。
たとえばゲーム論理が生まれた。また、過去には経済システム外とされてきたいわゆる外生要因と、経済システム内とされてきたいわゆる内生要因との間のフィードバックの関係についても理解が深まった。資本資産、オプション、企業負債の価格決定に関するモデルが発達した。これらの強力な分析ツールを開発した経済学者にノーベル経済学賞が与えられた。
(中略)
過去五十年に四つの点で基本的な変化が起こって、経済学専門家と経済分析の新たな課題になり、いまでも課題となっているとアイゼナックは指摘する。
第一は「ネットワーク産業」の成長だ。(以下略)
第二は、前述のように、知識製品に「非競合性」という性格、使っても減らないという性格があることだ。(以下略)
第三は、非マス化と製品のカスタム化が急速に進んでおり、いずれひとつずつ違った製品が作られるようになるとみられることだ。(以下略)
第四は、資本が世界的に移動するようになったことだ。(以下略)
(中略)
未整備の枠組み
このように複雑さを増している新しい問題に対応するために、経済専門家は遅まきながら、心理学、人類学、社会学など、かつて客観性に欠ける(つまり数量化が不十分だ)と切り捨てていた分野の専門家の協力を得るようになっている。(以下略)
知識のうち、他の知識と組み合わせたときにはじめて価値が証明される部分の価値について、非同時化の効果について、富の波がぶつかりあったときに貿易のパターンがどうなっているかについてなど、まだ結論がだされていない問題は多いし、まだまったく研究されていない問題すら残されている。
革命がはじまってから半世紀を経たいまでも、経済発展の現段階の全体像を一貫してとらえる理論は、構築されておらず、人類の歴史がいまどのような段階にあり、今後どの方向に進もうとしているのかを理解するのに、役に立つ理論は生まれていない。
愛人の侍医
現在の革命的な変化の深さを理解できていない経済専門家が多いのは皮肉なことだ。優秀な人が同時に近視眼的であるのは、これがはじめてではない。
(中略)
だが、ケネーの見方はひとつの点で決定的に間違っていた。農業が唯一の富の源泉だと主張した点である。(以下略)
今日でも、優秀な経済学者がケネーと同様に視野の狭い考え方にとらわれている。問題の一部について素晴らしい研究を行いながら、もっと大きな構図を検討しておらず、革命的な富が社会や文化、政治に与える影響を無視している。ケネー要因にとらわれないよう、予防措置を講じておくべき時期がきているのだ。
そのためには、真実と間違いとを見分けられるようにならなければならない。
第19章 真実の見分け方
~知識は富の創出の基礎的条件のなかでも深部の要因のひとつだといえるはずだが、死知識を除外したとしても、金や事業、富についてわれわれが知っている点のうち、さらにいうなら、われわれが知っていることすべてのうち、どれだけがまったく馬鹿げたことなのだろうか。あるいは完全な作り話なのだろうか。教えられたことのうち、どれだけを信用できるのだろうか。どうすれば信用できるかどうかが分かるのだろうか。
真実の試練
(略)
六つのフィルター
企業の生死を左右しかねないほどの決定が、人命を左右しかねないほどの決定すら、時代後れの知識や、誤解を招く知識、不正確な知識、まったく間違った知識に基づいて下されている。
(中略)
何かが真実かどうかを判断する際には、少なくとも六つの競合する基準が使われている。
(中略)
常識
一般に「真実」とされているもののうちかなりの部分は、それが常識だからという理由で正しいとされている。(以下略)
一貫性
この基準は、ある点が真実とみられる事実との間で一貫性がとれていれば、その点も真実であるはずだという想定に基づいている。(以下略)
権威
日常生活で受け入れられている「真実」のかなりの部分は、権威がその根拠になっている。(以下略)
啓示
なかには、神秘的な啓示と考えるものを「真実」の基準とする人もいる。(以下略)
時の試練
この場合、真実かどうかの基準になるのは年数である。(以下略)
自然科学
自然科学は他の五つの基準と違っている。真実の六つの基準のなかで唯一、厳密な検証に基づいている。(以下略)
このような性格から、科学は六つの基準のうち、宗教や政治、民族や人種などに基づく狂信的な熱狂に反対する性格をもっている。迫害、テロ、異端審問、自爆攻撃などを生み出すのは、狂信的な信念である。そして科学は狂信的な信念を否定し、とくにしっかりと確立した科学研究の成果ですら、せいぜいのところ部分的で一時的な真実でしかないという認識を育む。
この考え方、つまり科学的な知識は改善でき否定できるものでなければならず、改善されるか否定されていくべきものだという考え方のために、科学は一頭地を抜くものになっている。この考え方のために、常識、一貫性、権威、啓示、時の試練などの他の基準とは違って、科学だけは自ら誤りを修正できる。
他の五つの基準は有史以来使われており、静的で変化に抵抗する農業社会の性格を反映したものだが、科学は変化への道を切り開くものである。
(中略)
科学的方法が発明されて、人類は真実かどうかを判断する新しい基準、未知のものを調べるためのツールを開発する強力なツールを手に入れ、これがやがて、技術の変化と経済の進歩のための強力なツールにもなった。
前述のように、ある一日に経済で下される決定のうち、「科学的」に下されたといえる部分はごくわずかしかない。だがこのわずかな部分によって、富を生み出し増やす世界の能力が様変わりしてきた。今後もそうなるだろう。自然科学の発展が妨害されなければ、そうなる。
真実の変化
現実にはもちろん、人は誰でも真実かどうかを判断する際に、二つ以上の基準を使い分けている。病気になれば自然科学に頼り、道徳に関する助言では啓示に基づく宗教に頼り、その他の問題では身近な権威や著名な権威に頼る。これらの基準のどれを使うかで揺れ動き、いくつかの基準を組み合わせて使っている。
(中略)
だが、何が真実で何が真実ではないのかについて考えが揺れ動くのは、個人の水準だけではない。文化や社会には「真実輪郭」とでも呼べるものがあり、真実の基準のなかでどれを好むのか、どの組み合わせを好むのかで、それぞれ性格が違っている。
(中略)
将来の経済の姿は、どの真実のフィルターを使うのか、どの真実をみることを選ぶのかに大きく左右される。この点でもわれわれは、富の基礎的条件の深部にある要因との関係を、その結果を予想することなく変化させているのである。その結果、経済の発展をもたらす主要な源泉のひとつが危機に直面している。
科学の将来が危うくなっているのだ。
第20章 研究室の破壊
生きている知識と死んだ知識(死知識)をあわせた人類の知識基盤全体のなかで、自然科学と呼ぶ小さな部分ほど、過去数世紀に人類の平均寿命、食物、健康、富の向上に大きく寄与したものはない。ところが、富の基礎的条件の変化を示す事実の中に、自然科学に対するゲリラ戦の激化がある。(以下略)
剃刀の刃と権利
科学者はこのように社会に寄与しているのだから、アメリカでも世界全体でも尊敬されていると思うかもしれない。過去には確かに尊敬されていたのだから。(中略)
自然科学に反対する運動には、動物の権利を主張する狂信派以外にも、女性解放派、環境保護派、マルクス主義など、進歩的とされる運動のなかの異端派がくわわっている。学界や政界、マスコミでもてはやされる著名人のなかにいる支持者に支えられて、偽善的と考える点から冷酷で犯罪的と考える点まで、じつにさまざまな点で自然科学と科学者に非難を浴びせている。
(中略)
以上から、多様でまとまりのない反科学のゲリラ運動が展開されていることが分かる。その周辺部分には、心霊現象や宇宙人の存在を信ずる人もおり、いうまでもなく、「代替」医療を自称する怪しげな療法を行なう人や、空中浮揚ができると主張する法輪功の信徒もいる。
(以下略)
政治の転換
過去にはヨーロッパでもアメリカでも、自然科学に敵意をもつ人たちは通常、古くからの「右派」か、ときにはファシズムに近い勢力、さらにはナチズムですらあった。これに対して「左派」は通常、科学を支持してきた。マルクス主義は「科学的社会主義」だと主張してきたほどである。
現在ではヘーゲルの弁証法ではないが、反科学の旗印をとくに熱心に掲げているのは「左派」である。(以下略)
男社会と占い
自然科学に対する批判の大部分は、その核心である科学的方法に真正面から挑戦しようとはしていない。(以下略)
模範としてのラスベガス
真実のフィルターとしての自然科学を攻撃する別の勢力に、ポストモダン思想がある。
(中略)
ポストモダン思想はその核心部分で、自然科学の信頼性を否定しようとしているだけではない。その主張を極端にまで推し進めたとき、真実の基準のすべてに打撃を与えるものになる。真実という概念自体に疑問を投げかけるからである。そこまで極端になると、ポストモダンの思想家は紛い物を言葉巧みに売るセールスマンやカルト教団の教祖や詐欺師など、人間のだまされやすさを最大限に利用する人、「そんな話を信ずる理由がどこにあるのか」と聞かされたときにまともに答えられない人と変わらなくなる。
環境の伝道師
科学は前述のように、環境保護運動の一部からも攻撃を受けており、この運動は宗教に近い性格をもつようになっている。
メリーランド大学のロバート・N・ネルソン教授はこう論じている。「20世紀末が近づいた時期、欧米社会では宗教の面で空白状態が生まれていた。・・・こうしたなか、環境運動がこの空白を埋めるようになった。・・・環境保護運動の参加者の多くにとって、魅力を失ったキリスト教の主流や革新主義に代わるものになった」
(中略)
ネルソンによれば、「環境保護運動のメッセージの核心は、人類の幸せで、自然で、罪のない生活から転落した物語であり、エデンの園からの追放の世俗版である」。
ネルソンはこうまとめている。「環境保護運動は外見こそ現代的だが、その内実は原理主義宗教に近い」。
秘密の科学
知識経済の大黒柱である自然科学を脅かしているのが以上だけだとしても、懸念をもつのが当然であろう。
(中略)
だが、真実をめぐる戦いの対象は自然科学だけにかぎられているわけではない。社会のなかのさまざまな集団がさまざまな理由で、人びとの心を操作し、人びとが世界を見る際に使っている真実のフィルター、つまり真実と嘘を見分けるために使っている基準を変えようと試みている。
この戦いは名前がついていない。だが、工業時代の富の体制に代わっていま確立しようとしている革命的な富の体制に、大きな影響を与えるだろう。
第21章 真実の管理者
~洗脳にあたっては、何を考えるかを変えるより、なぜそのように考えるのか、その理由を変える方が効果的である。これは真実かどうかを判断するときに使うフィルターを変えることを意味する。個人の洗脳だけでなく、社会と文化の洗脳の場合にも同じことがいえる。
(中略)
これらの変化のなかでもっとも重要な点は、自然科学の勃興の後、宗教的な権威の地位が低下したことである。宗教的な権威に簡単に無条件にしたがう姿勢は薄れた。新たな問題にぶつかったとき、宗教指導者以外に答えを求める傾向が強まった。神父や牧師は知識を授けてくれる唯一の源泉ではなくなり、最善の源泉でもなくなった。(以下略)
上司を説得する
いままた、真実をめぐって、静かな戦いが繰り広げられている。二十一世紀には、考え方や文化に基づき、富に関する知識に基づいて経済の開発を進める国が増えていくので、信ずる点をなぜ信じているのか、その根拠がこれまでにもまして決定的な意味をもつようになるだろう。
(中略)
だが、自然科学に制限をくわえるか沈黙を強いるようにすれば、未来の富が縮小して貧困の軽減が遅れるだけでなく、人類が身体と精神の両面で暗黒時代に逆戻りすることになろう。
啓蒙の時代が終わった後に暗黒時代がくるようであってはならない。
第22章 結論 - 収斂
過去が過ぎ去っていくペースが加速している。たとえば二十世紀の後半を振り返ったとき、時代を画した出来事の多くが、いまではかつてほどの衝撃力をもたなくなっている。
(中略)
だが、今後数十年に起こるのは主に、半世紀前にはじまった革命、少なくとも十八世紀以降では最大の革命を定着させ、さらに発展させる動きになる。
だから、ここで一息ついて、これまでの章で取り上げてきた主要なテーマをまとめておこう。
第一に、富の革命は技術、株式市場、インフレとデフレと言った点だけにかかわるものではない。社会、文化、政治、さらには国際政治にかかわる動きでもある。これらの幅広い動きと経済の関係を、見落としていると、今後ぶつかる問題をまったく過小評価することになる。
第二に、経済に関する議論や報道ではつねに「基礎的条件」の変動が注目されるが、こうした変動の大部分は、はるかに重要な変化への反応、つまり本書で「基礎的条件の深部」と呼ぶ要因の変化への対応が表面にあらわれたものにすぎない。基礎的条件の深部にある要因は、狩猟採取民族だった太古の時代から、あらゆる経済活動を規定してきた。
(中略)
だが、現在の富の原動力となっている三つの主要な要因、つまり時間、空間、そして何よりも知識という三つの要因との関係でいま起こっている劇的な変化を無視していれば、経営のグルが行なう助言や、提案する戦略が役立つものになりうるだろうか。本書でここまで論じてきたように、これらの富の原動力が中心的な役割を果たしている事実を認識してはじめて、明日に備えることができるのである。
亀の時間
このような理由から、本書では基礎的条件の深部にある三つの要因とそれらが富に与える影響をくわしくみてきた。
たとえば、「非同時化効果」を例にとろう。(以下略)
同時に、時代遅れの亀のように歩みの遅い公共セクターが、やはり内部に非同時性の深刻な問題をかかえながら、裁判や購買手続き、規制上の決定、許認可手続きなど、さまざまな点での遅れによって、企業に巨額の「時間税」をかけている。要するに、システムの一方がアクセルを目一杯踏み込んでいるときに、他方がブレーキを踏んでいるのである。
(中略)
人類が時間と空間の使い方が変化していることを認識するのはむずかしくないが、基礎的条件の深部の要因のうち、いまの時代に決定的な影響を与えている知識が革命的に変化していることは、認識するのがはるかにむずかしい。知識はその性格上、無形で目に見えず、抽象的で、難解で、日常生活からは遠いことだと思える。だが、知識の役割を十分に認識しなければ、富の将来を正しく予想することはできない。
そのため、いくつもの章にわたって、簡略にではあるが、先進国にとって最大の資源である知識の範囲、性格、役割を紹介した。だが、この点でも分析を行なうだけでなく、総合が必要だ。基礎的条件の深部の変化が、それぞれどのように影響しあうのかをみていく必要がある。
たとえば、変化を加速して時間との関係を変えていくとき、知識の一部が時代後れになっていくのは避けられない。そのため、われわれが引きずっている死知識の量が増えていく。
かつては正しかった類推
動きの加速によって時代後れになっていく事実があるだけでなく、考える際に使う主要なツールの一部が役立たなくなる。その好例は類推である。類推に頼らずに考えることは事実上不可能だ。この「思考ツール」では前述のように、複数の現象の間に類推を見つけ出し、ひとつの現象について得られた結論を他の現象にあてはめていく。
(中略)
経済学が現在、破綻していることのほんとうの意味は、自然科学の危機が近づいている点と、あわせて考えたときにはじめて把握できるようになる。この二つの分野は、人類が富を生み出す方法にとくに大きな影響(少なくとも、とくに直接的な影響)を与えている。そしてこの二つの分野がともに、変化しようとしているのである。
知識の地図
しかしこれらの危機すらも、はるかに大きな知識のドラマの一部にすぎない。経済学と自然科学は確かに重要だが、はるかに大きな世界の知識体系のなかの一部にすぎない。そして知識体系全体が、歴史的な大激変の時期に入っている。
知識を新しい方法で切り分け、工業時代の専門分野の壁をぶち壊し、知識体系の深部の構造を再編する動きが進んでいる。知識は構造のなかに位置づけられていなければ、必要な部分を取り出して利用することができなくなり、関連性をもたないばらばらなものになる。このため、どの時代にも、学者は知識を分類してきた。
(中略)
やがて、専門知識が求められる分野の数がどんどん増えていくのは明らかなように思える。知識がそのときの必要に応じて一時的で非階層型の形態へと組織化される結果、永久に続くとも思えた専門分野と階層構造すら消える可能性がある。そうなったとき、「知りうることの地図」は、いくつものパターンがたえず変化しながら点滅しているものになる。
(中略)
強力な新技術を使えば、一時的な課題に取り組む人が、脱着可能で新鮮なモジュールとモデルを利用するのが容易になる。すでにそういう動きがはじまっている。ますます巨大になり、ますます多様になる各種のデータベースを調査し、比較して、これまで分からなかったパターンと関連を探るようになっている。これがいわゆるデータ・マイニングであり、(以下略)
データ・マイニングによって、考えられもしなかった驚くべき発見も生まれている。
(中略)
創造性には無関係だとみられてきた事実、考え方、知識を新鮮な形で組み合わせる必要があるとするなら、データベースの調査と比較は、技術革新の過程の基礎的な部分といえる。
(中略)
成長する有機体としての知識が今後、どのような変わった近道や曲がり道を通っていくのか、最終的にわれわれをどこに導いていくのかは分からない。
時間、空間、知識との関係、さらには基礎的条件の深部にあるその他の要因との関係でいま起こっている変化をすべて認識したとしても、いま起こっている世界的な革命がいかに大きなものなのか、その概要をおおまかにつかむことができるにすぎない。このおおまかな概要を超えて現在の革命を理解するには、目に見える経済だけでなく、いま登場している富の体制の「隠れた半分」に起ころうとしているとてつもない変化を検討する必要がある。
探究をつぎの段階に進めなければ、われわれは個人としても社会としても、いまわれわれがつかんでいる驚くほどの可能性に気づかないまま、 今後の世界で右往左往することになろう。
(第5部 終了)
2006.6.7 REVOLUTIONARY WEALTH 富の未来(上)
第5部 知識への信頼 P.190~278
第15章 知識の先端
グエン・ティ・ビンはベトナムの五十代の女性であり、ハノイから百キロほど南にある農村の小さな水田で米を生産している。ビンが水田で米を生産しているとき、他の人が同じ水田で米を作ることはできない。
タチアナ・ラセイキナは二十代の女性で、モスクワの南にあるトリアッティのアフトワズ自動車組み立てラインで、ドア・ハンドルを取り付ける仕事をしている。ベトナムの水田と同様に、ラセイキナが働く組み立てラインが騒音をたてて操業しているとき、他の人が同じ組み立てラインを使うことはできない。
二人の生活と文化は大きく違っている。一方は農業生産を象徴し、他方は工業生産を象徴している。だが共通点もある。農業でも工業でも、主要な資産、資源、製品は経済学でいう「競合財」である。つまり、ある人が使っているときに他の人が使えない性格をもっている。
ほとんどの国は農業か工業を中心にしていたし、いまでもそうした国が多いので、経済学者のほとんどが富の創出の手段のうち競合財に関するデータを集め、分析し、理論化することでキャリアを築いてきたのは、以外だとはいえない。
ところが思いがけず、これまでとは性格が違う富の体制が登場した。この制度では時間と空間との関係が劇的に変化したうえ、基礎的条件の深部にある第三の要因、知識との関係も劇的に変化している。
時代に取り残された経済学者は、新しい富の体制の重要性を無視して何も変わってないかのように研究を続けるか、不適切な方法を使って新しい制度に探りをいれている。そうなる一因はこうだ。米や自動車のドア・ハンドルとは違って、知識は無形であり、知識とは何かを考えていくと、出口のない迷路に迷い込むのが普通なのだ。
幸い、本書の目的には、対立しあう無数の定義をすべて検討していく退屈な作業は不要である。また、きわめて厳密で明確な定義も必要としない。頼りないように思えるかもしれないが、世界の知識基盤がどのように変化しているのか、いまの変化が将来の富にどのように影響を与えるかを明らかにするうえで役立つ実用的な定義があれば十分だ。
(中略)
本書ではこれらの言葉を以上のようにつかうが、「データ、情報、知識」と何度も繰り返せばくどくなるので、この三つを区別する必要がない場合には、「情報」か「知識」という言葉で三つの概念の全体か一部を指すことにする。
以上の区別ではせいぜいのところ、知識の大まかな定義にしかならない。だがこの段階では、新しい富の体制での「知識供給」とでも呼べるものを描いていくには、これで十分である。
これまでに「知識経済」に関して、地球上のあらゆる言語で、無数の文章が書かれ、デジタル化され、無数の発言がなされ、議論されてきた。だが、富の創出に使われる資源や資産のなかで、知識にどれほど大きな性格の違いがあるのかを明確にしたものはほとんどない。そこで、まずは知識の性格がどれほど違うかを、いくつかの点でみていくことにしょう。
第一に、知識はその性格上、非競合財である。(以下略)
第二に、知識は無限である。(以下略)
第三に、知識は線型ではない。(以下略)
第四に、知識は関係性という性格をもっている。(以下略)
第五に、知識は他の知識と関連をもっている。(以下略)
第六に、知識はどの製品よりも移動が簡単である。(以下略)
第七に、知識はシンボルや抽象的な概念に圧縮できる。(以下略)
第八に、知識は蓄積に必要な空間が縮小しつづけている。(以下略)
第九に、知識には、明確に表現されたものも、されないものもある。(以下略)
第十に、知識は秘密にしておくのがむずかしい。かならず広まっていく。
これらを総合すると、経済専門家が扱いなれてきた有形の財とは性格がまるで違うことが明確になる。そこで、経済専門家のほとんどは、たいていの人がそうするように、首をふって自分が知っている世界に安らぎを求める。慣れ親しんだ有形の競合財の世界に戻ろうとする。
だが以上にあげたのは一部でしかない。知識には、有形の財に基づく経済学の既成の概念でとらえきれない性格がまだまだある。
タイヤを蹴ってみる
知識資産には奇妙で逆説的な性格がある。(以下略)
第16章 明日の「石油」
不思議に思えるかもしれないが、「知識経済」がはじまってたっぷり半世紀が経過した現在でも、新しい経済の背景にある「知」については、赤面するほどわずかな点しか分かっていない。知識は明日の経済の「石油」だと主張する人が多いが~(以下略)
使えば使うほど
だが、その際に出発点となるのは、中心的で単純な事実だ。富の基礎的条件の深部にある要因のひとつである知識も、現在の社会環境でとくに急速に変化する部分になっているという事実である。だからこそ、知識は石油にたとえることができない。
(以下略)
経済学は希少な資源の配分に関する科学だといわれてきたが、いまやこの定義は通用しなくなった。知識は無尽蔵なのだから。
(中略)
あらゆる産業、あらゆるセクターが大量生産、大量消費から脱却し、さらに高付加価値で、さらに個々人のニーズにあわせた製品、サービス、体験を提供せざるをえなくなっている。そして何よりも、無秩序とはいえないまでも、複雑さを増していく状況で、はるかに速く、はるかに賢明に意思決定を行う必要に迫られている。
だが、新興の知識経済に関して無数の分析と研究が行なわれてきたにもかかわらず、知識が富の創出に与える影響は過小評価されてきたし、いまでも過小評価されている。
製鉄所と製靴工場
アメリカはいまでも製造業大国だが、製造業で働く人はいまや、労働人口の20パーセント以下になった。~(中略)
~こうした人は「知識労働者」に分類されていないだろうが、やはり知識か、その基礎になるデータと情報を生み出し、加工し、伝えている。事実上、就業時間の一部で知識労働者として働いているのだが、知識労働者には数えられていない。~
要するに、以上をはじめさまざまな理由から、知識は経済専門家に長く軽視されてきた。いまでもそうだ。過去になかったほど軽視されている。このため、明日の経済の核心を見通すには、まず知識に関する知識不足を補う必要がある。
われわれの内部「倉庫」
人はみな、どの時点でも仕事や富に関する知識を個々人でもっている。
これらの知識は基本的に違う二つの方法で蓄積される。知識供給の一部は頭脳に蓄積される。人はみな、知識とその前段階にあたるデータや情報が一杯につまった目に見えない倉庫をもっている。だが、普通の倉庫とは違って脳は作業場であり、人は(もっと正確に言うなら、人の脳にある電気化学反応は)、数やシンボル、言葉、イメージ、記憶をたえず移動し、くわえ、差し引き、まとめ、整理しなおし、感情と組み合わせて新しい考えを生み出している。
総知識供給
だが、世界の知識供給の大部分は、脳以外の場所に蓄積されている。これは人類の長い歴史のなかで、そして現代に積み重ねられてきた知識であり、大昔の洞穴の壁から最新のハードディスクやDVDまで、さまざまなものに蓄積されている。
人類の当初数百年にわたって、知識をひとつの世代からつぎの世代に伝える方法は、ほぼ言い伝えだけにかぎられていた(そして、繰り返し語られるたびに不正確になっていった)。
この「外部頭脳」は信じがたい速度で拡大している。~(略)
この世界的な外部頭脳はまだ幼く、不安定であり、結合がまだ成熟していない。だが人類の歴史には決定的な臨界点があり、それがいつだったかは分からないが、知識の総量のうち、脳の外部に蓄積されている部分の量が、脳の内部に蓄積されている部分の量を上回った。われわれが知識についていかに無知なのかを証明するものがあるとするなら、それは、人類の歴史のなかできわめて重要なこの変化が知られていないか気づかれていない事実である。
(中略)
外部に蓄積され、急増している知識を、65億の脳に蓄積されている知識にくわえてはじめて、人類の知識供給の総量、総知識供給(ASK)とでも呼べるものを算出できる。これが汲めども尽きぬ源泉になっており、革命的な富はこれを活用できる。
ASKが拡大しているだけでなく、それをまとめ、利用し、配付する方法が変わっている。インターネットの検索エンジンは検索の条件を細かく指定できるようになり、さまざまな方法で情報内容を組み合わせ、操作できるようになってきた。また、いままでのところ、欧米流の論理や考え方が知識の圧倒的な部分を占めているが、今後は世界的な知識のメタ・システムが発達し、欧米流以外の論理や多様な体系化の方法がくわわって、知識が豊かになるだろう。
いま、あらゆる種類の富とその基礎的条件の深部にある知識との関係の全体が、過去に例のないほど急速に激烈に根本から変化しており、しかも、やはり基礎的条件の深部にある時間と空間との関係が同時に変化しているのである。この点を認識してはじめて、現在、富の創出をめぐって起こっている激変がどこまでの深さをもつものなのかを理解できる。
アルツハイマー病なんか怖くない
(中略)
実際のところ、人類の歴史のなかで、世界の知識の仕組みが現在ほど根本から変化したことはなかった。この点を理解しないかぎり、将来に関する最善の計画でも失敗するだろう。
この点から、トマトには毒があるとの見方について、子供の頭が埋められているとの見方について考えていきたい。
第17章 死知識の罠
考えることは重要だ。だが、われわれが考えている点の多くは間違っている。われわれが信じている点のうちかなりの部分は、まず確実に馬鹿げている。
(中略)
現在では、仕事に必要な知識は急速に変化しているので、職場内と職場外で新しい知識を学ぶ必要が高まりつづけている。学習は終わりのない継続的な過程となった。このため、考えている点の一部が馬鹿げていても、困惑する必要はないといえる。馬鹿げたことを信じているのは自分だけではないのだ。
その理由はこうだ。知識のすべての部分に結局のところ、賞味期限がある。ある時点で、知識は古くなり、「死知識」とでも呼べるものになる。
過去の真実
プラトンの『国家』やアリストテレスの『詩学』は「知識」の一部なのだろうか。孔子やカントの思想はどうだろう。もちろん、これらの思想を「知恵」と呼ぶことはできる。だが、これらの著書や哲学者の知恵は、それぞれの人が知っていたこと、各人の知識基盤に基づいており、その多くは実際には間違いであった。
(中略)
エミリーおばさんの屋根裏部屋
(中略)
皮肉なもので、先進諸国の企業は自社の「知識管理」「知識資産」「知的財産権」を誇っている。だが、金融工学専門家、エコノミスト、企業、政府は大量の統計を分析しているのに、意思決定の質の低下という形で、死知識のコストがどれほどになっているかは誰も考えていない。個人の投資、企業の利益、経済開発、貧困撲滅計画、そして富の創出の全体に、どれほどの障害になっているのかを考えてみるべきだろう。
(中略)
こうした「思考の道具」のうちとくに重要なものに類推があり、これにある程度まで匹敵するほど重要なものはほとんどない。複数の現象が類似していることを見つけ出し、ひとつの現象について得た結論を他の現象に適用するのが類推である。
人は類推という手段を使わなければ、考えることも話すこともほとんどできなくなる。
(中略)
だが、類推という思考の道具は、使うのがむずかしくなっている。類推はいつの時代にも一筋縄ではいかないものだったが、いまでもますます使いにくくなった。世界は変化しており、以前に似ていたものが似ても似つかぬものになり得る。以前なら適切な類推になったものが、いまではこじつけになる。過去との類似が断ち切られていき、しかも気づかない間に断ち切られていくことが少なくないので、それに基づく結論は誤解を招きかねないものになる。変化が速いほど、類推が役立つ期間が短くなる。
こうして、基礎的条件の深部にある要因のひとつ、時間の変化が、別の要因である知識を得るために使う基礎的な手段に影響を与えている。
要するに、知識経済の専門家の間ですら、「死知識の法則」とでも呼べるmの、「変化が加速すれば、死知識の蓄積も加速する」事実について考え抜いている人はほとんどいない。現代に生きる人たちには、ゆっくりとしか変化しない昨日の社会に生きていた祖先よりも、死知識の負担が重くなっているのである。
このため、いまの時代に生きるわれわれがとくに重視している考えの多くは、何世代かの後には笑いのタネになっているはずだ。
第18章 ケネー要因
現在ではかつてなかったほど、経済学を学んだ人たちの力が世界全体で強まっている。
(中略)ところが、学生のころに学んだ考え方の多くは、「死知識の屋根裏部屋」に納めるか、それよりも死んだ考えの墓地に埋葬すべきものなのだ。
経済学の失敗
(略)
推定の推定
もちろん、エコノミストの失敗は簡単に見つかるが、それをいいたてるのは公平な態度だとはいえない。人間が関係することにはかならず偶然がつきまとうので、意思決定者が要求するほどの確実性をもって将来を予想できる人は誰もいない。
(中略)
それらにこれらの点では、経済学の考え方のうちかなりの部分が意味をもたなくなっているか、誤解を招くものになっている根深い理由を説明できない。
第一に、いまの経済専門家が理解しようと努力している経済は、過去の偉大な経済学者が理解しようとしたものより、はるかに複雑だ。(以下略)
第二に、さらに重要な点だが、いまの経済専門家が理解しようと努力している経済は、過去には考えられなかったほど、取引と変化のペースが速い。(以下略)
第三に、それ以上に大きな問題がある。産業革命初期の経済学者は農業時代の考え方を超えなければならず、通用しなくなった考え方を捨てなければならなかったのだが、いまの経済専門家も同じ課題に直面している。工業時代の考え方を超えて、最新の革命的な富の波がどのように経済を変えているのかを理解しなければならない。
(中略)
二十世紀には経済理論が大きく前進したが、その多くは現実の問題に高等数学を適用した結果である。つまり、ものを計測する点で前進してきた。ここで重視されてきたのは「もの」、それも有形のものである。
しかし革命的な富は無形のものによって生み出され、無形のものを生産するという性格を強めている。革命的な富を理解するには、あらゆる資源のなかでもとくにとらえどころがなく、とくに計測しにくい知識をうまく扱わなければならない。
過去の偉大な経済学者も、無形のものの重要性に気づかなかったわけではない。だが、経済がいまでは、過去になかったほど知識集約型になっているのである。
個別の研究
経済学者が過去半世紀にいくつもの成果を上げてきたことは、認めておかなければならない。
たとえばゲーム論理が生まれた。また、過去には経済システム外とされてきたいわゆる外生要因と、経済システム内とされてきたいわゆる内生要因との間のフィードバックの関係についても理解が深まった。資本資産、オプション、企業負債の価格決定に関するモデルが発達した。これらの強力な分析ツールを開発した経済学者にノーベル経済学賞が与えられた。
(中略)
過去五十年に四つの点で基本的な変化が起こって、経済学専門家と経済分析の新たな課題になり、いまでも課題となっているとアイゼナックは指摘する。
第一は「ネットワーク産業」の成長だ。(以下略)
第二は、前述のように、知識製品に「非競合性」という性格、使っても減らないという性格があることだ。(以下略)
第三は、非マス化と製品のカスタム化が急速に進んでおり、いずれひとつずつ違った製品が作られるようになるとみられることだ。(以下略)
第四は、資本が世界的に移動するようになったことだ。(以下略)
(中略)
未整備の枠組み
このように複雑さを増している新しい問題に対応するために、経済専門家は遅まきながら、心理学、人類学、社会学など、かつて客観性に欠ける(つまり数量化が不十分だ)と切り捨てていた分野の専門家の協力を得るようになっている。(以下略)
知識のうち、他の知識と組み合わせたときにはじめて価値が証明される部分の価値について、非同時化の効果について、富の波がぶつかりあったときに貿易のパターンがどうなっているかについてなど、まだ結論がだされていない問題は多いし、まだまったく研究されていない問題すら残されている。
革命がはじまってから半世紀を経たいまでも、経済発展の現段階の全体像を一貫してとらえる理論は、構築されておらず、人類の歴史がいまどのような段階にあり、今後どの方向に進もうとしているのかを理解するのに、役に立つ理論は生まれていない。
愛人の侍医
現在の革命的な変化の深さを理解できていない経済専門家が多いのは皮肉なことだ。優秀な人が同時に近視眼的であるのは、これがはじめてではない。
(中略)
だが、ケネーの見方はひとつの点で決定的に間違っていた。農業が唯一の富の源泉だと主張した点である。(以下略)
今日でも、優秀な経済学者がケネーと同様に視野の狭い考え方にとらわれている。問題の一部について素晴らしい研究を行いながら、もっと大きな構図を検討しておらず、革命的な富が社会や文化、政治に与える影響を無視している。ケネー要因にとらわれないよう、予防措置を講じておくべき時期がきているのだ。
そのためには、真実と間違いとを見分けられるようにならなければならない。
第19章 真実の見分け方
~知識は富の創出の基礎的条件のなかでも深部の要因のひとつだといえるはずだが、死知識を除外したとしても、金や事業、富についてわれわれが知っている点のうち、さらにいうなら、われわれが知っていることすべてのうち、どれだけがまったく馬鹿げたことなのだろうか。あるいは完全な作り話なのだろうか。教えられたことのうち、どれだけを信用できるのだろうか。どうすれば信用できるかどうかが分かるのだろうか。
真実の試練
(略)
六つのフィルター
企業の生死を左右しかねないほどの決定が、人命を左右しかねないほどの決定すら、時代後れの知識や、誤解を招く知識、不正確な知識、まったく間違った知識に基づいて下されている。
(中略)
何かが真実かどうかを判断する際には、少なくとも六つの競合する基準が使われている。
(中略)
常識
一般に「真実」とされているもののうちかなりの部分は、それが常識だからという理由で正しいとされている。(以下略)
一貫性
この基準は、ある点が真実とみられる事実との間で一貫性がとれていれば、その点も真実であるはずだという想定に基づいている。(以下略)
権威
日常生活で受け入れられている「真実」のかなりの部分は、権威がその根拠になっている。(以下略)
啓示
なかには、神秘的な啓示と考えるものを「真実」の基準とする人もいる。(以下略)
時の試練
この場合、真実かどうかの基準になるのは年数である。(以下略)
自然科学
自然科学は他の五つの基準と違っている。真実の六つの基準のなかで唯一、厳密な検証に基づいている。(以下略)
このような性格から、科学は六つの基準のうち、宗教や政治、民族や人種などに基づく狂信的な熱狂に反対する性格をもっている。迫害、テロ、異端審問、自爆攻撃などを生み出すのは、狂信的な信念である。そして科学は狂信的な信念を否定し、とくにしっかりと確立した科学研究の成果ですら、せいぜいのところ部分的で一時的な真実でしかないという認識を育む。
この考え方、つまり科学的な知識は改善でき否定できるものでなければならず、改善されるか否定されていくべきものだという考え方のために、科学は一頭地を抜くものになっている。この考え方のために、常識、一貫性、権威、啓示、時の試練などの他の基準とは違って、科学だけは自ら誤りを修正できる。
他の五つの基準は有史以来使われており、静的で変化に抵抗する農業社会の性格を反映したものだが、科学は変化への道を切り開くものである。
(中略)
科学的方法が発明されて、人類は真実かどうかを判断する新しい基準、未知のものを調べるためのツールを開発する強力なツールを手に入れ、これがやがて、技術の変化と経済の進歩のための強力なツールにもなった。
前述のように、ある一日に経済で下される決定のうち、「科学的」に下されたといえる部分はごくわずかしかない。だがこのわずかな部分によって、富を生み出し増やす世界の能力が様変わりしてきた。今後もそうなるだろう。自然科学の発展が妨害されなければ、そうなる。
真実の変化
現実にはもちろん、人は誰でも真実かどうかを判断する際に、二つ以上の基準を使い分けている。病気になれば自然科学に頼り、道徳に関する助言では啓示に基づく宗教に頼り、その他の問題では身近な権威や著名な権威に頼る。これらの基準のどれを使うかで揺れ動き、いくつかの基準を組み合わせて使っている。
(中略)
だが、何が真実で何が真実ではないのかについて考えが揺れ動くのは、個人の水準だけではない。文化や社会には「真実輪郭」とでも呼べるものがあり、真実の基準のなかでどれを好むのか、どの組み合わせを好むのかで、それぞれ性格が違っている。
(中略)
将来の経済の姿は、どの真実のフィルターを使うのか、どの真実をみることを選ぶのかに大きく左右される。この点でもわれわれは、富の基礎的条件の深部にある要因との関係を、その結果を予想することなく変化させているのである。その結果、経済の発展をもたらす主要な源泉のひとつが危機に直面している。
科学の将来が危うくなっているのだ。
第20章 研究室の破壊
生きている知識と死んだ知識(死知識)をあわせた人類の知識基盤全体のなかで、自然科学と呼ぶ小さな部分ほど、過去数世紀に人類の平均寿命、食物、健康、富の向上に大きく寄与したものはない。ところが、富の基礎的条件の変化を示す事実の中に、自然科学に対するゲリラ戦の激化がある。(以下略)
剃刀の刃と権利
科学者はこのように社会に寄与しているのだから、アメリカでも世界全体でも尊敬されていると思うかもしれない。過去には確かに尊敬されていたのだから。(中略)
自然科学に反対する運動には、動物の権利を主張する狂信派以外にも、女性解放派、環境保護派、マルクス主義など、進歩的とされる運動のなかの異端派がくわわっている。学界や政界、マスコミでもてはやされる著名人のなかにいる支持者に支えられて、偽善的と考える点から冷酷で犯罪的と考える点まで、じつにさまざまな点で自然科学と科学者に非難を浴びせている。
(中略)
以上から、多様でまとまりのない反科学のゲリラ運動が展開されていることが分かる。その周辺部分には、心霊現象や宇宙人の存在を信ずる人もおり、いうまでもなく、「代替」医療を自称する怪しげな療法を行なう人や、空中浮揚ができると主張する法輪功の信徒もいる。
(以下略)
政治の転換
過去にはヨーロッパでもアメリカでも、自然科学に敵意をもつ人たちは通常、古くからの「右派」か、ときにはファシズムに近い勢力、さらにはナチズムですらあった。これに対して「左派」は通常、科学を支持してきた。マルクス主義は「科学的社会主義」だと主張してきたほどである。
現在ではヘーゲルの弁証法ではないが、反科学の旗印をとくに熱心に掲げているのは「左派」である。(以下略)
男社会と占い
自然科学に対する批判の大部分は、その核心である科学的方法に真正面から挑戦しようとはしていない。(以下略)
模範としてのラスベガス
真実のフィルターとしての自然科学を攻撃する別の勢力に、ポストモダン思想がある。
(中略)
ポストモダン思想はその核心部分で、自然科学の信頼性を否定しようとしているだけではない。その主張を極端にまで推し進めたとき、真実の基準のすべてに打撃を与えるものになる。真実という概念自体に疑問を投げかけるからである。そこまで極端になると、ポストモダンの思想家は紛い物を言葉巧みに売るセールスマンやカルト教団の教祖や詐欺師など、人間のだまされやすさを最大限に利用する人、「そんな話を信ずる理由がどこにあるのか」と聞かされたときにまともに答えられない人と変わらなくなる。
環境の伝道師
科学は前述のように、環境保護運動の一部からも攻撃を受けており、この運動は宗教に近い性格をもつようになっている。
メリーランド大学のロバート・N・ネルソン教授はこう論じている。「20世紀末が近づいた時期、欧米社会では宗教の面で空白状態が生まれていた。・・・こうしたなか、環境運動がこの空白を埋めるようになった。・・・環境保護運動の参加者の多くにとって、魅力を失ったキリスト教の主流や革新主義に代わるものになった」
(中略)
ネルソンによれば、「環境保護運動のメッセージの核心は、人類の幸せで、自然で、罪のない生活から転落した物語であり、エデンの園からの追放の世俗版である」。
ネルソンはこうまとめている。「環境保護運動は外見こそ現代的だが、その内実は原理主義宗教に近い」。
秘密の科学
知識経済の大黒柱である自然科学を脅かしているのが以上だけだとしても、懸念をもつのが当然であろう。
(中略)
だが、真実をめぐる戦いの対象は自然科学だけにかぎられているわけではない。社会のなかのさまざまな集団がさまざまな理由で、人びとの心を操作し、人びとが世界を見る際に使っている真実のフィルター、つまり真実と嘘を見分けるために使っている基準を変えようと試みている。
この戦いは名前がついていない。だが、工業時代の富の体制に代わっていま確立しようとしている革命的な富の体制に、大きな影響を与えるだろう。
第21章 真実の管理者
~洗脳にあたっては、何を考えるかを変えるより、なぜそのように考えるのか、その理由を変える方が効果的である。これは真実かどうかを判断するときに使うフィルターを変えることを意味する。個人の洗脳だけでなく、社会と文化の洗脳の場合にも同じことがいえる。
(中略)
これらの変化のなかでもっとも重要な点は、自然科学の勃興の後、宗教的な権威の地位が低下したことである。宗教的な権威に簡単に無条件にしたがう姿勢は薄れた。新たな問題にぶつかったとき、宗教指導者以外に答えを求める傾向が強まった。神父や牧師は知識を授けてくれる唯一の源泉ではなくなり、最善の源泉でもなくなった。(以下略)
上司を説得する
いままた、真実をめぐって、静かな戦いが繰り広げられている。二十一世紀には、考え方や文化に基づき、富に関する知識に基づいて経済の開発を進める国が増えていくので、信ずる点をなぜ信じているのか、その根拠がこれまでにもまして決定的な意味をもつようになるだろう。
(中略)
だが、自然科学に制限をくわえるか沈黙を強いるようにすれば、未来の富が縮小して貧困の軽減が遅れるだけでなく、人類が身体と精神の両面で暗黒時代に逆戻りすることになろう。
啓蒙の時代が終わった後に暗黒時代がくるようであってはならない。
第22章 結論 - 収斂
過去が過ぎ去っていくペースが加速している。たとえば二十世紀の後半を振り返ったとき、時代を画した出来事の多くが、いまではかつてほどの衝撃力をもたなくなっている。
(中略)
だが、今後数十年に起こるのは主に、半世紀前にはじまった革命、少なくとも十八世紀以降では最大の革命を定着させ、さらに発展させる動きになる。
だから、ここで一息ついて、これまでの章で取り上げてきた主要なテーマをまとめておこう。
第一に、富の革命は技術、株式市場、インフレとデフレと言った点だけにかかわるものではない。社会、文化、政治、さらには国際政治にかかわる動きでもある。これらの幅広い動きと経済の関係を、見落としていると、今後ぶつかる問題をまったく過小評価することになる。
第二に、経済に関する議論や報道ではつねに「基礎的条件」の変動が注目されるが、こうした変動の大部分は、はるかに重要な変化への反応、つまり本書で「基礎的条件の深部」と呼ぶ要因の変化への対応が表面にあらわれたものにすぎない。基礎的条件の深部にある要因は、狩猟採取民族だった太古の時代から、あらゆる経済活動を規定してきた。
(中略)
だが、現在の富の原動力となっている三つの主要な要因、つまり時間、空間、そして何よりも知識という三つの要因との関係でいま起こっている劇的な変化を無視していれば、経営のグルが行なう助言や、提案する戦略が役立つものになりうるだろうか。本書でここまで論じてきたように、これらの富の原動力が中心的な役割を果たしている事実を認識してはじめて、明日に備えることができるのである。
亀の時間
このような理由から、本書では基礎的条件の深部にある三つの要因とそれらが富に与える影響をくわしくみてきた。
たとえば、「非同時化効果」を例にとろう。(以下略)
同時に、時代遅れの亀のように歩みの遅い公共セクターが、やはり内部に非同時性の深刻な問題をかかえながら、裁判や購買手続き、規制上の決定、許認可手続きなど、さまざまな点での遅れによって、企業に巨額の「時間税」をかけている。要するに、システムの一方がアクセルを目一杯踏み込んでいるときに、他方がブレーキを踏んでいるのである。
(中略)
人類が時間と空間の使い方が変化していることを認識するのはむずかしくないが、基礎的条件の深部の要因のうち、いまの時代に決定的な影響を与えている知識が革命的に変化していることは、認識するのがはるかにむずかしい。知識はその性格上、無形で目に見えず、抽象的で、難解で、日常生活からは遠いことだと思える。だが、知識の役割を十分に認識しなければ、富の将来を正しく予想することはできない。
そのため、いくつもの章にわたって、簡略にではあるが、先進国にとって最大の資源である知識の範囲、性格、役割を紹介した。だが、この点でも分析を行なうだけでなく、総合が必要だ。基礎的条件の深部の変化が、それぞれどのように影響しあうのかをみていく必要がある。
たとえば、変化を加速して時間との関係を変えていくとき、知識の一部が時代後れになっていくのは避けられない。そのため、われわれが引きずっている死知識の量が増えていく。
かつては正しかった類推
動きの加速によって時代後れになっていく事実があるだけでなく、考える際に使う主要なツールの一部が役立たなくなる。その好例は類推である。類推に頼らずに考えることは事実上不可能だ。この「思考ツール」では前述のように、複数の現象の間に類推を見つけ出し、ひとつの現象について得られた結論を他の現象にあてはめていく。
(中略)
経済学が現在、破綻していることのほんとうの意味は、自然科学の危機が近づいている点と、あわせて考えたときにはじめて把握できるようになる。この二つの分野は、人類が富を生み出す方法にとくに大きな影響(少なくとも、とくに直接的な影響)を与えている。そしてこの二つの分野がともに、変化しようとしているのである。
知識の地図
しかしこれらの危機すらも、はるかに大きな知識のドラマの一部にすぎない。経済学と自然科学は確かに重要だが、はるかに大きな世界の知識体系のなかの一部にすぎない。そして知識体系全体が、歴史的な大激変の時期に入っている。
知識を新しい方法で切り分け、工業時代の専門分野の壁をぶち壊し、知識体系の深部の構造を再編する動きが進んでいる。知識は構造のなかに位置づけられていなければ、必要な部分を取り出して利用することができなくなり、関連性をもたないばらばらなものになる。このため、どの時代にも、学者は知識を分類してきた。
(中略)
やがて、専門知識が求められる分野の数がどんどん増えていくのは明らかなように思える。知識がそのときの必要に応じて一時的で非階層型の形態へと組織化される結果、永久に続くとも思えた専門分野と階層構造すら消える可能性がある。そうなったとき、「知りうることの地図」は、いくつものパターンがたえず変化しながら点滅しているものになる。
(中略)
強力な新技術を使えば、一時的な課題に取り組む人が、脱着可能で新鮮なモジュールとモデルを利用するのが容易になる。すでにそういう動きがはじまっている。ますます巨大になり、ますます多様になる各種のデータベースを調査し、比較して、これまで分からなかったパターンと関連を探るようになっている。これがいわゆるデータ・マイニングであり、(以下略)
データ・マイニングによって、考えられもしなかった驚くべき発見も生まれている。
(中略)
創造性には無関係だとみられてきた事実、考え方、知識を新鮮な形で組み合わせる必要があるとするなら、データベースの調査と比較は、技術革新の過程の基礎的な部分といえる。
(中略)
成長する有機体としての知識が今後、どのような変わった近道や曲がり道を通っていくのか、最終的にわれわれをどこに導いていくのかは分からない。
時間、空間、知識との関係、さらには基礎的条件の深部にあるその他の要因との関係でいま起こっている変化をすべて認識したとしても、いま起こっている世界的な革命がいかに大きなものなのか、その概要をおおまかにつかむことができるにすぎない。このおおまかな概要を超えて現在の革命を理解するには、目に見える経済だけでなく、いま登場している富の体制の「隠れた半分」に起ころうとしているとてつもない変化を検討する必要がある。
探究をつぎの段階に進めなければ、われわれは個人としても社会としても、いまわれわれがつかんでいる驚くほどの可能性に気づかないまま、 今後の世界で右往左往することになろう。
(第5部 終了)