富の未来(上巻)の最終章、第6部「生産消費者」を文字数が多くなるために、2回に分けて抜粋紹介します。
まずは、第23章「隠れた半分」~第25章「第三の仕事」まで、最新事例の比較は、その後にまとめます。
2006.6.7 REVOLUTIONARY WEALTH 富の未来(上)
第6部 生産消費者P.279~376
第23章 隠れた半分
一人一日当たりの所得が一ドル以下の人が十億人を超えるという話をよく聞く。一日一ドルを大きく下回る所得でようやく生き延びている人が何億人もいるのだ。それどころか実際には、金銭をまったく使わない人がいまだにかなり多い。世界の金銭経済制度にまったく参加していない。はるか昔の祖先のほとんどがそうしていたように、基本的に自分たちで生産できるものだけを消費して生きているわけだ。これらの貧しい人の多くは、金銭経済に参加するためなら、ほとんどどんなことでもしょうとする。
金銭経済に入るには、「金銭経済への七つのドア」とも呼べるもののうちどれかを通らなければならない。(以下略)
第一のドア
「何か売れるものを作る」。穀物の生産を増やす。似顔絵を描く。サンダルを作る。買い手を見つけ出せば、カギは開く。
第二のドア
「職につく」。働く。その報酬として金銭を得る。これで金銭経済に入れる。目に見える経済に参加できる。
第三のドア
「相続する」。親か親戚から金銭を相続すれば、このドアは開く。金銭経済に入れる。職を探す必要はなくなるかもしれない。
第四のドア
「貰う」。誰でもいいから、誰かから金銭を貰うか、売れば金銭を得られるものを貰う。どのような形でもそうしたものを貰えば、金銭経済に入れる。
第五のドア
「結婚する」。再婚でもいい。七つのドアのどれかを通ってすでに金銭経済に入っている相手を見つけて結婚し、相手がもっている金銭を夫婦で使えるようにする。そうすれば中に入れる。
第六のドア
「福祉の世話になる」。政府がしぶしぶながら給付金を支払ってくれる。金額はわずかだろうが、その分、金銭経済に入れる。
第七のドア
「盗む」。最後に、どの社会、どの時代にも盗むという手がある。犯罪者にとって最初の手段、自暴自棄になった貧乏人にとって最後の手段が盗みである。
もちろん、いくつかの小さな変形がある。たとえば賄賂があり、たまたま見つけた金銭を拾う場合もある。だが以上の七つが過去何世紀にもわたって、金銭経済に入るのに使われてきた主な入口である。
本書で「目に見える経済」と呼ぶ金銭経済は、現在、世界全体で年間の総生産がほぼ五十兆ドルである。この金銭が、地球上で年間に生み出されている経済的価値の総額だとされている。だが、人類が年間に生み出している財とサービスの総額が五十億ドルではなく、百兆ドルに近いとすればどうだろう。五十兆ドル以外に、いうならば「簿外」の五十兆ドルがあるとすればどうだろう。あと五十兆ドルがあると信ずる理由が十分にあり、この見失われている五十兆ドルが次章以降のいくつかの章のテーマである。(以下略)
生産消費者の経済
金銭経済に入るためのドアは七つだが、隠れた経済、「簿外」の経済へのドアは無数にある。そして以下で説明するように、このドアは金銭をもっていようがいまいが、誰に対しても開かれている。この経済に入るのに必要な条件はない。人は誰でも、生まれたときにすでに、この経済に入る資格を与えられている。
目に見えない経済を、いわゆる「地下経済」「ヤミ経済」と混同してはならない。
(中略)
実際には、これ以外に巨大な「隠れた経済」があり、ほとんど調査されず、統計の対象にならず、支払いの対象にならない経済活動が大規模に行なわれている。それは非金銭の生産消費者経済である。
(中略)
人は誰でも生産消費活動に時間を使っており、どの経済にもかならず生産消費部門がある。きわめて個人的なニーズや欲求の多くはそれを満たす財やサービスが市場で供給されていないか、供給できないか、高すぎるからであり、あるいは、生産消費活動がほんとうに楽しいからか、必要不可欠だからである。
金銭経済からいったん目を移し、経済のおしゃべりをあまり聞かないようにすると、驚くべきことが分かる。第一に、生産消費経済は巨大である。第二に、とりわけ重要な点の一部が生産消費経済で行なわれている。第三に、生産消費経済は、大部分の経済専門家にほとんど無視されているが、それがなくなれば十分後には、年に五十兆ドルの金銭経済が機能しなくなる。(中略)~とくに重要な問題である。
最高の母親
生産消費にはフリーウェアの作成、電灯の修理、学校の資金集めのためのクッキー作りなど無数の形態がある。(中略)
家族が行なうこれらの活動は通常、統計の対象にならないが、「同様の活動が市場で行なわれた場合と変わらない」生産活動だとリンジェンは論じる。いいかえれば、「生産消費活動」であり、非金銭活動である。これらの活動のために人を雇えば、請求金額の多さに仰天することになるだろう。
おまるテスト(略)
社会の分裂のコストは
何人もの部外者が過去数十年に、富の創出にあたって生産消費活動が果たす決定的な役割を適切に評価していないと、経済学者を繰り返し非難してきた。(中略)
活動家にも、『地球市民の条件』などのヘイゼル・ヘンダーソン、~主流派経済学がみずから視野を狭めていることを批判してきた人は少なくない。最後におそらくもっとも重要な動きとして、多数の国で無数の非政府組織が同じ批判を行なっている。
だが現在でも、金銭経済とその巨大な影とをつなぐ決定的な相互関係を組織的に調査する努力はほとんど進んでいない。(中略)
生産消費者が家族、地域社会、社会の結合を強める動きをとるとき、それは日常生活の一部なのであって、経済専門家がドル、円、元、ウォン、ユーロー、ボンドなどの単位で社会の結合の価値を示してくれれば。では、無給の労働は全体としてどれだけの価値があるのだろうか。
極度偏向生産統計
1965年に早くも、34歳だったゲーリー・ベッカーが画期的な論文を発表し、こう指摘した。「いまでは、働いていない時間の方が、働いている時間よりも経済的厚生に重要かもしれない。だが経済学者が働いている時間に向ける関心は、働いていない時間に向ける関心とは比較にならないほど大きい」
両者への時間配分を分析するために、学習などの労働以外の活動の価値を計算した。教室で学ぶ時間は有給の労働にあてることができたと想定し、失われた所得の総額を算出した。
ベッカーの論文はこの単純化した紹介から予想されるものよりはるかに複雑であり、経済専門家が敬意を払う数式で表現されていて、経済理論の進歩をもたらす素晴らしい業績である。だが、ベッカーがこの論文を理由の一つとしてノーベル賞を受賞したのは、二十七年後の1992年であった。
(中略)
このように経済専門家は、基礎的条件の深部にある時間、空間、知識という先進国経済にとって決定的に重要な要因をほとんど研究していないだけでなく、「経済的価値」の常識的な定義に固執しているために、急速に迫ってきた根本的な変化に目をつぶる結果となっている。
経済専門家が常識的な定義に固執する一因は、金銭なら簡単に算出でき、数式化とモデル化が容易な点にある。無給の活動ではそうはいかない。このため統計にこだわる経済学の世界では、生産消費は中心的な関心の領域から外れることになる。金銭経済の分析に使われているものに対応する統計を、生産消費を対象に作成する動きはほとんどない。金銭が支払われる経済と支払われない経済とが影響を与えあう多様な経路を組織的に解明しようとする努力は、ほとんど支払われていない。
例外のひとつに、オランダのマーストリヒト大学のリシャブ・アイヤー・ゴッシュによる素晴らしい研究がある。「価値の尺度になる金銭が使われない場合、価値を計測する別の方法を見つけ出す必要があり、価値を根拠づける各種の方法と各方法で表示された価値の交換比率を見つけ出す必要がある」と論じている。しかしゴッシュは全体として、多数の分野でみられる無給の貢献のうち、ソフトウェア生産消費者による無給の仕事に研究対象を絞り込んでいる。
生産消費が確かにごく小さいのであれば、あるいは金銭経済にはほとんど影響を与えないのであれば、生産消費について無知でも問題はないかもしれない。だが、この二つの想定はどちらも違っている。そのため、たとえば国内総生産(GDP)のように、企業や政府が方針や政策の決定の基礎として頻繁に使っている統計が歪んでおり、極度偏向生統計と名付けるのが適切だといえるほどになっている。
(中略)
これらの点がきわめて重要なのは、知識革命がつぎの段階に入るとともに、経済のうち生産消費セクターが目ざましく変化し、歴史的な大転換が起ころうとしているからである。
貧しい国で大量の農民が徐々に金銭経済に組み込まれていく一方、豊かな国では大量の人がまさに逆の動きをしている。世界経済のうち非金銭的な部分、生産消費の部分での活動を急速に拡大しているのである。
(以下略)
第24章 健康の生産消費
今後あらわれる生産消費経済の爆発的成長で、多数の新たな億万長者が生まれるだろう。そうなってはじめて、生産消費経済は株式市場、投資家、経済専門家に「発見」され、「目に見えない経済」ではなくなる。日本、韓国、インド、中国、アメリカなど、先端的な製造業とニッチ・マーケッティングが発達している国、技術力の高い知識労働者が多い国が、真っ先にこの動きを追い風にできるだろう。だがそれだけではない。
生産消費活動によって市場は大変動し、社会のなかの役割分担が変わり、富についての考え方が変化する。健康と医療のあり方も変わるだろう。その理由を理解するには、人口動態、医療コスト、知識と技術がいずれも急速に変化して、一点に収斂していくことをざっとみておく必要がある。
医療の分野は、とくに目ざましく新技術が開発されている一方、医療機関がとりわけ時代遅れで、組織が混乱し、逆効果で、ときには致命的ですらある状況になっている。「致命的」という言葉は大げさすぎると思うのであれば、いくつかの事実をみてみるべきだ。
(中略)
現在では豊かな国で死因の上位を占めるものはもはや、肺炎や結核、インフルエンザといった感染症ではない。心臓病、肺がんなど、食事や運動、アルコール、ドラッグ、喫煙、ストレス、性行動、海外旅行などの生活習慣から大きな影響を受ける病気である。
だがこのような変化が起こったなかでも、医者が「健康の供給者」で患者が「顧客」だという基本的な見方は変わっていない。社会の高齢化によって、この見方を見直す必要に迫られる可能性がある。
百歳まで生きる確率は
人口動態は必然だとする見方もある。そうだとするなら、必然も他のものと同じように変化している。現在、歴史上はじめて、六十歳以上の人口が十億人を超える時期が急速に近づいている。
(中略)
どの国の医療制度も、生活習慣病の増加と社会の高齢化という組み合わせに対応できるようには設計されていない。~ いま必要なのは単なる改革ではない。はるかに劇的な動きである。
パニック状態
~前述のように、GDPは生産消費活動を考慮していないので、極端に歪んでいる。経済専門家が生産消費活動の価値を算出すれば、医療費の総額ははるかに大きくなるだろう。
(中略)
だが、この全体像にはいくつもの欠陥がある。第一にこれらの数値の多くは、これまでの動きを直線的に延ばして予想されている。危機や革命の時期には、この種の予想は誤解を招くものになる場合がある。(略)残念なことに、工業時代の想定に基づいて改革を行なっていけば、意図は正しくても、問題が悪化するだけになる。政治家はコスト削減のために通常、「効率性」を高めようとして、組み立てライン型の医療、標準化された画一的な治療を行う「管理型」システムを追求する。
(中略)
医療制度では今後もコストと非効率性が膨らんでいく。第二の波の方法を超えて、知識経済の到来によって開かれた大きな機会と生産消費型医療の新たな可能性を利用するようになるまで、この危機は解決できない。
画期的な進歩の大波
医療の革命をもたらしうるのは、過去数十年に医療の知識(そして死知識)がすさまじく増加してきた事実だけではない。同時に、知識を管理する方法が変化してきた事実も重要である。
世の中には、過去には入手できなかった医療情報があふれている。患者は医療情報をインターネットで即座に入手できるし、医師が司会をつとめる医療コーナーを設けているニュース番組が多い。
(中略)
処方薬のテレビ広告解禁が間違いなく背景になって、ケーブル・テレビに二十四時間の健康番組専門局、ディスカバリー・ヘルス・チャンネルが生まれた。
(中略)
患者がインターネットで探した論文のプリントアウトや、「医師薬年鑑」の関連ページのコピー、医学雑誌や健康雑誌の切り抜きをもって病院を訪れるようになった。鋭い質問をし、医師の白衣に敬意を払ったりしない。
この点で、基礎的条件の深部にある時間と知識との関係が変わって、医療の現実が抜本的に変化しているのである。
医師は医療サービスを売っており、経済的にみれば「生産者」であることに変わりはない。これに対して患者は「消費者」の立場を超えて積極的な「生産消費者」になり、健康という面での経済の生産にもっと寄与する能力をもつようになった。ときには生産者と生産消費者が協力して働くこともある。ときにはそれぞれが単独で働くこともある。そしてときには、両者が対立することもある。だが、健康と医療に関する一般的な統計と予想はほとんどの場合、医者と患者の役割と関係の急速な変化を無視している。
(中略)
現在、実際の比率がどうなっているかは分からないが、社会の高齢化、医療費の圧力、知識の普及という要因の組み合わせによって、生産消費の比率が劇的に上昇する状況にある。だが、以上ではもっとも重要な変化になりうる点、すなわち将来の技術は考慮していない。この点を考慮するとどうなるかをみていこう。
糖尿病ゲーム
患者の生産消費活動は、運動を増やしたり、タバコを止めたりすることには止まらない。自分の資金を投資して機器を買い、自分や家族の健康をもっと管理できるようにしてもいる。(中略)
いまではインターネットで、アレルギーからエイズ、前立腺ガン、肝炎まで、あらゆる病気を発見するための自己検査用製品を見つけて、購入できるようになった。
(中略)
こうした予想ではつねにそうだが、これらの機器のすべてが日の目を見るわけではなく、安くて実用的で安全な製品が開発できるわけでもない。だが、これらは今後あらわれる技術革新の第一波でしかない。今後の技術革新によって、家庭医療と医療機関の医療双方で経済性が変わるだろう。そして、ほとんど統計のない生産消費経済が金銭経済と関連しあうもうひとつの道になる。
生産消費者は自分の金を投資して資本財を買い、非金銭経済での能力を高められるようにしている。それによって、金銭経済でのコストを引き下げることになる。
生産消費の重要な役割を認識し、医師による産出と患者による産出の比率の変化を認識すれば、医療と健康の「産出高」が全体として増加するのではないだろうか。
人口動態、コスト、知識の量と入手可能性の変化、今後予想される画期的な技術革新のどれをみても、生産消費者が今後の巨大な医療経済でさらに大きな役割を果たすことははっきりしている。
したがって、経済専門家にとって、非金銭経済を重要性が低いものだと片付けるのではなく、金銭経済と非金銭経済が互いに強化しあい、関連しあって富を創出し、健康を維持する全体的な体制を形成していく道筋のうち、とくに重要な部分を組織的に調査すべき時期がきている。
(中略)
~政府が医療に関して行える投資のうちとくに効果が高いもののひとつに、健康の生産消費者としての能力を高めるための知識を学校で教えることがあるとみている。
(中略)
問題はこうだ。相互の結びつきがきわめて密接な知識経済で、医療危機と教育危機を関連したものとみるのではなく、それぞれ独立した問題だとする見方を維持する理由があるのだろうか。両方の分野で考え方と制度を革命的に変えるために想像力を使えないのだろうか。無数の生産消費者がすぐにも力を貸してくれるのだから。
第25章 第三の仕事
ストレス過剰になっていないだろうか。忙しすぎるのではないだろうか。どうしてこれほど時間が不足するのだろうか。金銭経済が超高速で動いているので、「忙しすぎて時間がない」というのがほぼすべての人に共通の怒りのネタになっている。
(中略)
熾烈な競争に急かされて活動が加速し、いくつもの活動を逐次処理していく方法から同時に処理する方法に変化しているのは、基礎的条件の深部にある時間との関係が大きく変化していることを意味し、同時に仕事、友人、家族との関係が大きく変化していることを意味する。
(中略)
だがいまでは、さらに新しい負担がくわわっている。第一の仕事(有給の仕事)と第二の仕事(無給の家庭の仕事)にくわえて、第三の仕事(やはり無給の仕事)までかかえている人が多い。(以下略)
ビュッフェを超えて
これはひとつの銀行だけの動きではない。アメリカでは2002年に、銀行の顧客がATMを140億回近く使っている。これは世界全体の3分の1にあたる。顧客にとって、ATMは窓口で順番を待つ時間を省けるので便利だ。急げ急げのいまの経済では、1分たりとも無駄にできない。
窓口で銀行員が対応すれば、一人平均2分かかると想定しよう。その場合、顧客は合計280億分、つまり約4億7000万時間の仕事をタダでしたことになり、銀行はフルタイムで20万人分の仕事を節約できたことになる。
だが、顧客の側は合計280億分を節約できたわけではない。ATMでもやはり、2~3分かかる。違いは顧客みずからキーをたたき、以前なら銀行の従業員がやっていた仕事の一部を引き受け、そうさせていただくために、往々にして追加手数料まで支払っていることだけである。皮肉なもので、銀行業界の専門家によれば、顧客はキーを叩くなど、何かやっていれば、待ち時間が短いと感じるものなのだという。
(中略)
答えはこうだ。銀行の窓口係の仕事と同じように、有給の従業員から無給の生産消費者に移されるのである。
あらゆる面で、世界各地の抜け目のない企業は「外部化」する巧みな方法をつぎつぎに編み出している。この点で最優秀賞を贈るべきは、貪欲で巨大なアメリカ企業ではなく、お好み焼きチェーンの「道とん掘」かもしれない。ビュッフェ・スタイルで盛り付けを客に任せる方法からはるかに飛躍して、テーブルにある鉄板で客が料理までする仕組みにしているのだから。(以下略)
スーパーの押し付け
顧客に仕事を押し付けるのは新しい現象ではない。以前には、近くの食品店に行くと、商品はカウンターの中にあって、客が頼んだ商品を店員が棚から探し出すようになっていた。セルフ・サービスのスーパーマーケットは1916年、クラレンス・ソーンダーズがこの仕事を客がやってくれるはずだと考え、その仕組みで特許をとったときにはじまった。
新技術によって、外部化を一層進めることで利益を増やせるようになった。何年か前のスーパーの様子をソーンダースがみれば、スキャナーを理解できなかっただろう。だが、当時はまだレジ係が必要だった。いまではいくつかのスーパー・チェーンの店舗で、顧客がハンドヘルドの機械を使って自分が買う缶や箱のバーコードを読み込ませ、クレジット・カードで支払いをする仕組みがとられている。ねえママ、このお店のレジには店員さんがいないよ・・・・。
(中略)
いまの時代に登場してきた新しい現象は、情報技術の発達によって、驚くほど広範囲な活動で消費者を生産消費者にすることが可能になった点だ。その結果、あらゆる種類の企業が美味しいタダ飯の可能性を見つけだしている。
(中略)
もちろん、他人に無給の仕事をする責任を負わせて経費を削減する点で、厚顔無恥大賞を贈られるべきは税務当局である。複雑な簿記と計算の責任をすべて納税者に負わせており、納税者は税金を納めさせていただくために、大量の仕事を無給で行っている。
以上のように、人はみな、金を稼ぐための第一の仕事、生産消費者としての第二の無給の仕事にくわえて。やはり無給の第三の仕事までこなしているのだから、いつも時間に追われているにも不思議ではない。
人びとは、生産、消費、生産消費の間で時間を再配分している。時間との関係が、この点でも変化しているのである。
金銭経済での競争圧力を、社会の高齢化などの人口動態の圧力、知識の進歩と普及、生産消費に使える技術の急激な拡大という要因にくわえれば、今後、生産消費が爆発的に増えると予想する理由は十分にある。
生産消費を増やして労働を外部化しようとする動きはきわめて強く、最近、新聞漫画の『ディルパート』に、経営者が「運が良ければ、顧客を訓練して製造と出荷までやってもらえる日はくるさ」とうそぶいている場面が出てきたほどである。以下でみていくように、これは法螺話ではないのかもしれない。
まずは、第23章「隠れた半分」~第25章「第三の仕事」まで、最新事例の比較は、その後にまとめます。
2006.6.7 REVOLUTIONARY WEALTH 富の未来(上)
第6部 生産消費者P.279~376
第23章 隠れた半分
一人一日当たりの所得が一ドル以下の人が十億人を超えるという話をよく聞く。一日一ドルを大きく下回る所得でようやく生き延びている人が何億人もいるのだ。それどころか実際には、金銭をまったく使わない人がいまだにかなり多い。世界の金銭経済制度にまったく参加していない。はるか昔の祖先のほとんどがそうしていたように、基本的に自分たちで生産できるものだけを消費して生きているわけだ。これらの貧しい人の多くは、金銭経済に参加するためなら、ほとんどどんなことでもしょうとする。
金銭経済に入るには、「金銭経済への七つのドア」とも呼べるもののうちどれかを通らなければならない。(以下略)
第一のドア
「何か売れるものを作る」。穀物の生産を増やす。似顔絵を描く。サンダルを作る。買い手を見つけ出せば、カギは開く。
第二のドア
「職につく」。働く。その報酬として金銭を得る。これで金銭経済に入れる。目に見える経済に参加できる。
第三のドア
「相続する」。親か親戚から金銭を相続すれば、このドアは開く。金銭経済に入れる。職を探す必要はなくなるかもしれない。
第四のドア
「貰う」。誰でもいいから、誰かから金銭を貰うか、売れば金銭を得られるものを貰う。どのような形でもそうしたものを貰えば、金銭経済に入れる。
第五のドア
「結婚する」。再婚でもいい。七つのドアのどれかを通ってすでに金銭経済に入っている相手を見つけて結婚し、相手がもっている金銭を夫婦で使えるようにする。そうすれば中に入れる。
第六のドア
「福祉の世話になる」。政府がしぶしぶながら給付金を支払ってくれる。金額はわずかだろうが、その分、金銭経済に入れる。
第七のドア
「盗む」。最後に、どの社会、どの時代にも盗むという手がある。犯罪者にとって最初の手段、自暴自棄になった貧乏人にとって最後の手段が盗みである。
もちろん、いくつかの小さな変形がある。たとえば賄賂があり、たまたま見つけた金銭を拾う場合もある。だが以上の七つが過去何世紀にもわたって、金銭経済に入るのに使われてきた主な入口である。
本書で「目に見える経済」と呼ぶ金銭経済は、現在、世界全体で年間の総生産がほぼ五十兆ドルである。この金銭が、地球上で年間に生み出されている経済的価値の総額だとされている。だが、人類が年間に生み出している財とサービスの総額が五十億ドルではなく、百兆ドルに近いとすればどうだろう。五十兆ドル以外に、いうならば「簿外」の五十兆ドルがあるとすればどうだろう。あと五十兆ドルがあると信ずる理由が十分にあり、この見失われている五十兆ドルが次章以降のいくつかの章のテーマである。(以下略)
生産消費者の経済
金銭経済に入るためのドアは七つだが、隠れた経済、「簿外」の経済へのドアは無数にある。そして以下で説明するように、このドアは金銭をもっていようがいまいが、誰に対しても開かれている。この経済に入るのに必要な条件はない。人は誰でも、生まれたときにすでに、この経済に入る資格を与えられている。
目に見えない経済を、いわゆる「地下経済」「ヤミ経済」と混同してはならない。
(中略)
実際には、これ以外に巨大な「隠れた経済」があり、ほとんど調査されず、統計の対象にならず、支払いの対象にならない経済活動が大規模に行なわれている。それは非金銭の生産消費者経済である。
(中略)
人は誰でも生産消費活動に時間を使っており、どの経済にもかならず生産消費部門がある。きわめて個人的なニーズや欲求の多くはそれを満たす財やサービスが市場で供給されていないか、供給できないか、高すぎるからであり、あるいは、生産消費活動がほんとうに楽しいからか、必要不可欠だからである。
金銭経済からいったん目を移し、経済のおしゃべりをあまり聞かないようにすると、驚くべきことが分かる。第一に、生産消費経済は巨大である。第二に、とりわけ重要な点の一部が生産消費経済で行なわれている。第三に、生産消費経済は、大部分の経済専門家にほとんど無視されているが、それがなくなれば十分後には、年に五十兆ドルの金銭経済が機能しなくなる。(中略)~とくに重要な問題である。
最高の母親
生産消費にはフリーウェアの作成、電灯の修理、学校の資金集めのためのクッキー作りなど無数の形態がある。(中略)
家族が行なうこれらの活動は通常、統計の対象にならないが、「同様の活動が市場で行なわれた場合と変わらない」生産活動だとリンジェンは論じる。いいかえれば、「生産消費活動」であり、非金銭活動である。これらの活動のために人を雇えば、請求金額の多さに仰天することになるだろう。
おまるテスト(略)
社会の分裂のコストは
何人もの部外者が過去数十年に、富の創出にあたって生産消費活動が果たす決定的な役割を適切に評価していないと、経済学者を繰り返し非難してきた。(中略)
活動家にも、『地球市民の条件』などのヘイゼル・ヘンダーソン、~主流派経済学がみずから視野を狭めていることを批判してきた人は少なくない。最後におそらくもっとも重要な動きとして、多数の国で無数の非政府組織が同じ批判を行なっている。
だが現在でも、金銭経済とその巨大な影とをつなぐ決定的な相互関係を組織的に調査する努力はほとんど進んでいない。(中略)
生産消費者が家族、地域社会、社会の結合を強める動きをとるとき、それは日常生活の一部なのであって、経済専門家がドル、円、元、ウォン、ユーロー、ボンドなどの単位で社会の結合の価値を示してくれれば。では、無給の労働は全体としてどれだけの価値があるのだろうか。
極度偏向生産統計
1965年に早くも、34歳だったゲーリー・ベッカーが画期的な論文を発表し、こう指摘した。「いまでは、働いていない時間の方が、働いている時間よりも経済的厚生に重要かもしれない。だが経済学者が働いている時間に向ける関心は、働いていない時間に向ける関心とは比較にならないほど大きい」
両者への時間配分を分析するために、学習などの労働以外の活動の価値を計算した。教室で学ぶ時間は有給の労働にあてることができたと想定し、失われた所得の総額を算出した。
ベッカーの論文はこの単純化した紹介から予想されるものよりはるかに複雑であり、経済専門家が敬意を払う数式で表現されていて、経済理論の進歩をもたらす素晴らしい業績である。だが、ベッカーがこの論文を理由の一つとしてノーベル賞を受賞したのは、二十七年後の1992年であった。
(中略)
このように経済専門家は、基礎的条件の深部にある時間、空間、知識という先進国経済にとって決定的に重要な要因をほとんど研究していないだけでなく、「経済的価値」の常識的な定義に固執しているために、急速に迫ってきた根本的な変化に目をつぶる結果となっている。
経済専門家が常識的な定義に固執する一因は、金銭なら簡単に算出でき、数式化とモデル化が容易な点にある。無給の活動ではそうはいかない。このため統計にこだわる経済学の世界では、生産消費は中心的な関心の領域から外れることになる。金銭経済の分析に使われているものに対応する統計を、生産消費を対象に作成する動きはほとんどない。金銭が支払われる経済と支払われない経済とが影響を与えあう多様な経路を組織的に解明しようとする努力は、ほとんど支払われていない。
例外のひとつに、オランダのマーストリヒト大学のリシャブ・アイヤー・ゴッシュによる素晴らしい研究がある。「価値の尺度になる金銭が使われない場合、価値を計測する別の方法を見つけ出す必要があり、価値を根拠づける各種の方法と各方法で表示された価値の交換比率を見つけ出す必要がある」と論じている。しかしゴッシュは全体として、多数の分野でみられる無給の貢献のうち、ソフトウェア生産消費者による無給の仕事に研究対象を絞り込んでいる。
生産消費が確かにごく小さいのであれば、あるいは金銭経済にはほとんど影響を与えないのであれば、生産消費について無知でも問題はないかもしれない。だが、この二つの想定はどちらも違っている。そのため、たとえば国内総生産(GDP)のように、企業や政府が方針や政策の決定の基礎として頻繁に使っている統計が歪んでおり、極度偏向生統計と名付けるのが適切だといえるほどになっている。
(中略)
これらの点がきわめて重要なのは、知識革命がつぎの段階に入るとともに、経済のうち生産消費セクターが目ざましく変化し、歴史的な大転換が起ころうとしているからである。
貧しい国で大量の農民が徐々に金銭経済に組み込まれていく一方、豊かな国では大量の人がまさに逆の動きをしている。世界経済のうち非金銭的な部分、生産消費の部分での活動を急速に拡大しているのである。
(以下略)
第24章 健康の生産消費
今後あらわれる生産消費経済の爆発的成長で、多数の新たな億万長者が生まれるだろう。そうなってはじめて、生産消費経済は株式市場、投資家、経済専門家に「発見」され、「目に見えない経済」ではなくなる。日本、韓国、インド、中国、アメリカなど、先端的な製造業とニッチ・マーケッティングが発達している国、技術力の高い知識労働者が多い国が、真っ先にこの動きを追い風にできるだろう。だがそれだけではない。
生産消費活動によって市場は大変動し、社会のなかの役割分担が変わり、富についての考え方が変化する。健康と医療のあり方も変わるだろう。その理由を理解するには、人口動態、医療コスト、知識と技術がいずれも急速に変化して、一点に収斂していくことをざっとみておく必要がある。
医療の分野は、とくに目ざましく新技術が開発されている一方、医療機関がとりわけ時代遅れで、組織が混乱し、逆効果で、ときには致命的ですらある状況になっている。「致命的」という言葉は大げさすぎると思うのであれば、いくつかの事実をみてみるべきだ。
(中略)
現在では豊かな国で死因の上位を占めるものはもはや、肺炎や結核、インフルエンザといった感染症ではない。心臓病、肺がんなど、食事や運動、アルコール、ドラッグ、喫煙、ストレス、性行動、海外旅行などの生活習慣から大きな影響を受ける病気である。
だがこのような変化が起こったなかでも、医者が「健康の供給者」で患者が「顧客」だという基本的な見方は変わっていない。社会の高齢化によって、この見方を見直す必要に迫られる可能性がある。
百歳まで生きる確率は
人口動態は必然だとする見方もある。そうだとするなら、必然も他のものと同じように変化している。現在、歴史上はじめて、六十歳以上の人口が十億人を超える時期が急速に近づいている。
(中略)
どの国の医療制度も、生活習慣病の増加と社会の高齢化という組み合わせに対応できるようには設計されていない。~ いま必要なのは単なる改革ではない。はるかに劇的な動きである。
パニック状態
~前述のように、GDPは生産消費活動を考慮していないので、極端に歪んでいる。経済専門家が生産消費活動の価値を算出すれば、医療費の総額ははるかに大きくなるだろう。
(中略)
だが、この全体像にはいくつもの欠陥がある。第一にこれらの数値の多くは、これまでの動きを直線的に延ばして予想されている。危機や革命の時期には、この種の予想は誤解を招くものになる場合がある。(略)残念なことに、工業時代の想定に基づいて改革を行なっていけば、意図は正しくても、問題が悪化するだけになる。政治家はコスト削減のために通常、「効率性」を高めようとして、組み立てライン型の医療、標準化された画一的な治療を行う「管理型」システムを追求する。
(中略)
医療制度では今後もコストと非効率性が膨らんでいく。第二の波の方法を超えて、知識経済の到来によって開かれた大きな機会と生産消費型医療の新たな可能性を利用するようになるまで、この危機は解決できない。
画期的な進歩の大波
医療の革命をもたらしうるのは、過去数十年に医療の知識(そして死知識)がすさまじく増加してきた事実だけではない。同時に、知識を管理する方法が変化してきた事実も重要である。
世の中には、過去には入手できなかった医療情報があふれている。患者は医療情報をインターネットで即座に入手できるし、医師が司会をつとめる医療コーナーを設けているニュース番組が多い。
(中略)
処方薬のテレビ広告解禁が間違いなく背景になって、ケーブル・テレビに二十四時間の健康番組専門局、ディスカバリー・ヘルス・チャンネルが生まれた。
(中略)
患者がインターネットで探した論文のプリントアウトや、「医師薬年鑑」の関連ページのコピー、医学雑誌や健康雑誌の切り抜きをもって病院を訪れるようになった。鋭い質問をし、医師の白衣に敬意を払ったりしない。
この点で、基礎的条件の深部にある時間と知識との関係が変わって、医療の現実が抜本的に変化しているのである。
医師は医療サービスを売っており、経済的にみれば「生産者」であることに変わりはない。これに対して患者は「消費者」の立場を超えて積極的な「生産消費者」になり、健康という面での経済の生産にもっと寄与する能力をもつようになった。ときには生産者と生産消費者が協力して働くこともある。ときにはそれぞれが単独で働くこともある。そしてときには、両者が対立することもある。だが、健康と医療に関する一般的な統計と予想はほとんどの場合、医者と患者の役割と関係の急速な変化を無視している。
(中略)
現在、実際の比率がどうなっているかは分からないが、社会の高齢化、医療費の圧力、知識の普及という要因の組み合わせによって、生産消費の比率が劇的に上昇する状況にある。だが、以上ではもっとも重要な変化になりうる点、すなわち将来の技術は考慮していない。この点を考慮するとどうなるかをみていこう。
糖尿病ゲーム
患者の生産消費活動は、運動を増やしたり、タバコを止めたりすることには止まらない。自分の資金を投資して機器を買い、自分や家族の健康をもっと管理できるようにしてもいる。(中略)
いまではインターネットで、アレルギーからエイズ、前立腺ガン、肝炎まで、あらゆる病気を発見するための自己検査用製品を見つけて、購入できるようになった。
(中略)
こうした予想ではつねにそうだが、これらの機器のすべてが日の目を見るわけではなく、安くて実用的で安全な製品が開発できるわけでもない。だが、これらは今後あらわれる技術革新の第一波でしかない。今後の技術革新によって、家庭医療と医療機関の医療双方で経済性が変わるだろう。そして、ほとんど統計のない生産消費経済が金銭経済と関連しあうもうひとつの道になる。
生産消費者は自分の金を投資して資本財を買い、非金銭経済での能力を高められるようにしている。それによって、金銭経済でのコストを引き下げることになる。
生産消費の重要な役割を認識し、医師による産出と患者による産出の比率の変化を認識すれば、医療と健康の「産出高」が全体として増加するのではないだろうか。
人口動態、コスト、知識の量と入手可能性の変化、今後予想される画期的な技術革新のどれをみても、生産消費者が今後の巨大な医療経済でさらに大きな役割を果たすことははっきりしている。
したがって、経済専門家にとって、非金銭経済を重要性が低いものだと片付けるのではなく、金銭経済と非金銭経済が互いに強化しあい、関連しあって富を創出し、健康を維持する全体的な体制を形成していく道筋のうち、とくに重要な部分を組織的に調査すべき時期がきている。
(中略)
~政府が医療に関して行える投資のうちとくに効果が高いもののひとつに、健康の生産消費者としての能力を高めるための知識を学校で教えることがあるとみている。
(中略)
問題はこうだ。相互の結びつきがきわめて密接な知識経済で、医療危機と教育危機を関連したものとみるのではなく、それぞれ独立した問題だとする見方を維持する理由があるのだろうか。両方の分野で考え方と制度を革命的に変えるために想像力を使えないのだろうか。無数の生産消費者がすぐにも力を貸してくれるのだから。
第25章 第三の仕事
ストレス過剰になっていないだろうか。忙しすぎるのではないだろうか。どうしてこれほど時間が不足するのだろうか。金銭経済が超高速で動いているので、「忙しすぎて時間がない」というのがほぼすべての人に共通の怒りのネタになっている。
(中略)
熾烈な競争に急かされて活動が加速し、いくつもの活動を逐次処理していく方法から同時に処理する方法に変化しているのは、基礎的条件の深部にある時間との関係が大きく変化していることを意味し、同時に仕事、友人、家族との関係が大きく変化していることを意味する。
(中略)
だがいまでは、さらに新しい負担がくわわっている。第一の仕事(有給の仕事)と第二の仕事(無給の家庭の仕事)にくわえて、第三の仕事(やはり無給の仕事)までかかえている人が多い。(以下略)
ビュッフェを超えて
これはひとつの銀行だけの動きではない。アメリカでは2002年に、銀行の顧客がATMを140億回近く使っている。これは世界全体の3分の1にあたる。顧客にとって、ATMは窓口で順番を待つ時間を省けるので便利だ。急げ急げのいまの経済では、1分たりとも無駄にできない。
窓口で銀行員が対応すれば、一人平均2分かかると想定しよう。その場合、顧客は合計280億分、つまり約4億7000万時間の仕事をタダでしたことになり、銀行はフルタイムで20万人分の仕事を節約できたことになる。
だが、顧客の側は合計280億分を節約できたわけではない。ATMでもやはり、2~3分かかる。違いは顧客みずからキーをたたき、以前なら銀行の従業員がやっていた仕事の一部を引き受け、そうさせていただくために、往々にして追加手数料まで支払っていることだけである。皮肉なもので、銀行業界の専門家によれば、顧客はキーを叩くなど、何かやっていれば、待ち時間が短いと感じるものなのだという。
(中略)
答えはこうだ。銀行の窓口係の仕事と同じように、有給の従業員から無給の生産消費者に移されるのである。
あらゆる面で、世界各地の抜け目のない企業は「外部化」する巧みな方法をつぎつぎに編み出している。この点で最優秀賞を贈るべきは、貪欲で巨大なアメリカ企業ではなく、お好み焼きチェーンの「道とん掘」かもしれない。ビュッフェ・スタイルで盛り付けを客に任せる方法からはるかに飛躍して、テーブルにある鉄板で客が料理までする仕組みにしているのだから。(以下略)
スーパーの押し付け
顧客に仕事を押し付けるのは新しい現象ではない。以前には、近くの食品店に行くと、商品はカウンターの中にあって、客が頼んだ商品を店員が棚から探し出すようになっていた。セルフ・サービスのスーパーマーケットは1916年、クラレンス・ソーンダーズがこの仕事を客がやってくれるはずだと考え、その仕組みで特許をとったときにはじまった。
新技術によって、外部化を一層進めることで利益を増やせるようになった。何年か前のスーパーの様子をソーンダースがみれば、スキャナーを理解できなかっただろう。だが、当時はまだレジ係が必要だった。いまではいくつかのスーパー・チェーンの店舗で、顧客がハンドヘルドの機械を使って自分が買う缶や箱のバーコードを読み込ませ、クレジット・カードで支払いをする仕組みがとられている。ねえママ、このお店のレジには店員さんがいないよ・・・・。
(中略)
いまの時代に登場してきた新しい現象は、情報技術の発達によって、驚くほど広範囲な活動で消費者を生産消費者にすることが可能になった点だ。その結果、あらゆる種類の企業が美味しいタダ飯の可能性を見つけだしている。
(中略)
もちろん、他人に無給の仕事をする責任を負わせて経費を削減する点で、厚顔無恥大賞を贈られるべきは税務当局である。複雑な簿記と計算の責任をすべて納税者に負わせており、納税者は税金を納めさせていただくために、大量の仕事を無給で行っている。
以上のように、人はみな、金を稼ぐための第一の仕事、生産消費者としての第二の無給の仕事にくわえて。やはり無給の第三の仕事までこなしているのだから、いつも時間に追われているにも不思議ではない。
人びとは、生産、消費、生産消費の間で時間を再配分している。時間との関係が、この点でも変化しているのである。
金銭経済での競争圧力を、社会の高齢化などの人口動態の圧力、知識の進歩と普及、生産消費に使える技術の急激な拡大という要因にくわえれば、今後、生産消費が爆発的に増えると予想する理由は十分にある。
生産消費を増やして労働を外部化しようとする動きはきわめて強く、最近、新聞漫画の『ディルパート』に、経営者が「運が良ければ、顧客を訓練して製造と出荷までやってもらえる日はくるさ」とうそぶいている場面が出てきたほどである。以下でみていくように、これは法螺話ではないのかもしれない。