のり巻き のりのり

飾り巻き寿司や料理、己書、読書など日々のあれこれを書いています



父とフィリピン

2016年01月29日 | ファミリーヒストリー
父はフィリピン戦線からの帰還兵でした。

定年後、慰霊の旅に出かけ、現地に行くたびに目にする貧しい子どもたちに心を痛め、やがて何人もの子どもたちに学資支援をするようになりました。

やがて訪比は父のライフワークとなり、体の自由がきかなくなるまで25年以上も続いたでしょうか。

支援した子どもたちは10人以上にのぼります。

父はその間、母、私たち、孫たちを代わる代わる伴って訪比し、自分の気持ちを伝えようとしていました。

私は20年前に一度いっしょに訪れました。マニラで子どもたちとその家族に会い、食事をともにし、励ましの言葉をかけました。

マニラから車で4時間、支援している子どもたちの小学校へも行きました。○○文庫と、父の名前のついた図書コーナーがあり、父の思いが活かされていることを確かめることができました。

その小学校は1000人以上の子どもたちが通っているのですが、狭い敷地で先生の数も足りないので、午前と午後の2回に分けて登校することになっていました。

父が支援していた子どもたちは優秀な成績で、卒業式には壇上で誇らしげにいろいろな賞を受け取っていました。

そのうちの一人は耳が聞こえないうえ、一人きりの母親まで亡くなってしまったのですが、父の支援のおかげで学校が続けられたと感謝の気持ちを伝えてくれました。

できることをしただけだと言う父がとても輝いて見えました。

マニラから船で約2時間、今では観光地になっていますが、アメリカ軍と日本軍の多くが犠牲となったコレヒドール島を訪れました。

小さな島ですが、ここで約1万人の日本人、5千人のアメリカ人が亡くなっています。

今も残る巨大な兵舎跡、砲台跡、トンネル等、島の全部が戦争遺跡です。
 
     


父は次世代に伝えたかったのです。戦争の体験を。父は償いたかったのです。次世代の子どもたちに。

今、天皇皇后両陛下がフィリピンを訪ねておられます。慰霊の際、頭を垂れておられる姿を拝見すると、父を思い出します。

おそらく胸の内は同じではなかっただろうかと。

あれから20年、できればもう一度訪ねてみたいものだと思います。

子どもたちがどのような暮らしをしているか。

それと、もう一度みたいものがあります。マニラ湾の真っ赤な夕焼け、湾を進む船に並んでついてきたトビウオが美しく飛翔する姿を。








最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
立派なお父さんですね (めぐみ)
2016-01-30 17:16:41
フィリピン市街戦では、多くの日本人、アメリカ人、そして
現地の方が犠牲になったんですね。天皇陛下のフィリピン
訪問で初めて知りました。
お父さんがフィリピンの子どもに学費支援をされたと聞き、
感涙にむせんでいます。
返信する
フィリピン (のりのり)
2016-01-30 22:23:37
戦争体験をした世代が亡くなっていきます。
でも歴史はちゃんとつたえていかないといけませんね。
父に子どもの頃から聞かされてはいましたが、今回のご訪問記事で、51万人もの日本人、111万人のフィリピン人が戦争で犠牲になったことを知り、改めて驚きました。
父が無事に帰ることができたからこそ、自分がいるんですよね。
返信する

コメントを投稿