清玩(せいがん)とは、『清らかな鑑賞の対象となるもの』をいう。
東洋において、水墨画はまさに清玩である。雪舟、祥啓、雪村の山水画を考察してみます。
室町の画壇は『応仁の乱』を経て大きく三つの地域に分割形成された。
京都では、同朋衆の能阿弥、芸阿弥、相阿弥、幕府御用絵師の周文から小栗宗湛、宗継、狩野正信、元信。西国では、山口大内氏の庇護のもと、周文に学び明から戻った雪舟とその一門が活躍した。東国では、芸阿弥に学んだ祥啓とその一門が鎌倉五山禅寺を中心に活躍している。
(写真はすべて、ネット画像を借用しています)
【雪舟】
雪舟(1420〜1589) 備中国うまれ
10歳頃から京都相国寺で修行し、画を周文にならう。1467年「明」に渡り、天童山景徳禅寺(禅宗五山第二位)で2年間修行、『四明天童山第一座』(首席)の称号を授かる。
雪舟は、三人の中では唯一、水墨画の本場中国で山河に触れ、中国絵画を実見した。
岡倉天心は『東洋の理想』で雪舟の絵画を高く評価し、「画壇で最高の作品」と称え、画中に見られる厳しさと、一方では、自由さ、洒脱さ、軽妙さは禅宗における重要な側面であり、「余すところなく表現するその筆墨から、彼の気迫と大自然のすべてを存分に楽しんでいることが伺える」と書いている。
雪舟 秋冬山水画 国宝 室町時代
近景、中景、遠景とジグザクに岩山が現れ、じっと見ていると、画中に入り込んでしまいそう。東博でこの絵を見た時の没入感が忘れられない。
【祥啓】
祥啓(しょうけい)15世紀中頃、下野国に生まれる、鎌倉建長寺で修行し、1478年京都で芸阿弥に師事。
生涯を建長寺で送り、『啓書記』(寺の書記係)の身分であったため、尊敬こめて啓書記と呼ばれた。
祥啓 山水画 重要文化財
室町時代
阿弥派の「筆様」(作画法)と夏珪様がよく表れている。
水墨画の『楷、行、草』を「夏珪、牧谿、玉澗」にたとえるが、山水画 は夏珪様の端正で精緻な筆様と上品な淡彩が存分に表されている。
雪舟の抽象的で荒々しく、自己主張の強い表現と比べると上品で控えめな表現が面白い。
祥啓 鍾秀斎図(しょうしゅうさいず) 重要文化財 室町時代
鍾秀斎図とは、『画中の景観が「造化、神秀を鍾(あつ)む」(造物主が神々しいばかりに美しい景観をあつめた)様であることをもって「鍾秀斎図」と名付けたという。』
【雪村】
雪村(1504〜1589)は、常陸国に生まれる、守護大名佐竹氏の一族の長男であるが父親の意向で武家を継がず、幼くして夢窓国師を開山とする正宗寺に入り修行する。
雪村は生涯を画僧として常陸周辺で過ごし、晩年、小田原・鎌倉に滞在し、会津、三春で生涯を終える。
岡倉天心は、『雪村は周、秀何れに属すべきやは大問題にして、雪舟と能阿弥の風あり』日本美術史 に書いている。雪舟に私淑していた雪村であるが、周文、明国に学んだ雪舟、芸阿弥に学んだ祥啓に比べると、雪村が実見できたのはその周辺の画家たちだった。そのことが、雪村の自由で型破りな画風になった。
尾形光琳は雪村を敬愛し、作品を模写したことも知られる。
室町時代
冬図も、祥啓の『鍾秀斎図』の気配を感じる。
【参考】
室町時代
中国の仙人呂洞賓(りょどうひん)、龍の頭に乗った呂洞賓が水瓶から龍を昇らせて天空の龍と対峙させている。
“禅”とともに来日した水墨画は、室町時代の雪舟、祥啓、雪村によって日本独自の発展を遂げた。
雪舟の作家の個性を全面に出した
“表現主義的”ともいえる山水画。祥啓のやわらかな和様の表現。雪村の自由で、軽妙洒脱な味わい。
世阿弥の「能」、夢窓国師の「庭園」、金閣寺、銀閣寺の「建築」、村田珠光の「茶の湯」そして雪舟の「水墨画」は、いずれも室町時代に発祥、成立した文芸であり、先だつ平安の和様と鎌倉の禅が融合した日本独自の文化で、イタリア・ルネサンスにも比すべきものです。
室町の芸術に憧れる