藤島武二 「女の肖像」1926~1927年
藤島武二 「芳惠(ほうけい)」
1926年(昭和元年)
モデルは同一人物で、佐々木カネヨまたの名を「お葉」と呼ばれていた女性です。
佐々木カネヨは、1904年(明治37年)に秋田県に生まれ、12歳で母親とともに上京し、東京美術学校(現東京芸術大学)で絵画モデルの職に就きました。
西洋画科の教授であった藤島武二の知己を得ました。
二枚の絵は、それから10年後、カネヨが22歳の時の作品です。
絵はイタリア初期ルネサンスのフレスコ画に想を得たものです。
赤のビロードが、中国服の刺繍に変えてあるのがおもしろい。
西洋人にまけない横顔の美しさが印象的ですね。
アントニオ・デル・ボッライオーロ
「若い女性の肖像」 1465年
カネヨは、この絵(芳惠)を見て「自分のすべてを描ききられた」と言って、絵画モデルの仕事をやめる契機にしたそうです。
その後、カネヨは医師と再婚し、静かな晩年を過ごし、76歳で逝去しました。
・・・と言うことは、若年のカネヨは波乱の人生だったようです。
12歳で美術大学のモデルになったカネヨは、なんの縁か「責め絵」の画家、伊藤晴雨(当時35歳)のモデルになり愛人になりました。
カネヨにマゾヒズムの性向があったかどうかは分かりませんが、母子の生活のためだった事に疑いありません。
伊藤晴雨の「責め絵」は、月岡芳年などの無惨絵の系統にあると思いますが、晴雨の「女は縛ると美しくなる」というテーゼは無惨絵から離れ、緊縛をエロティシズムの芸術にしたと思います。
月岡芳年 「英名二十八衆句 稲田九蔵新助」 1867年
「責め絵」にはなぜか日本人が惹かれる要素がある。
時代劇にみられる、姫、奥方の緊縛シーンに心を震わせる老若男女は多いのではないでしょうか。
(ネット借用)
松坂慶子
(ネット借用)
まさに竈門禰󠄀豆子(かまどねずこ)です
晴雨とカネヨの関係は2年ほど続きました。
カネヨが15歳になったとき、画家の竹久夢二と出会い、17歳のとき夢二の愛人になりました。
ミューズは芸術家に見つけられるものなんですね。
カネヨは、過去を嫌った夢二により「お葉」と名付けられました。
「お葉」をモデルにした代表作は、
竹久夢二 「黒船屋」1919年
夢二の子供を身ごもり流産したカネヨは、4年の内縁生活を経て離縁しました。
その一年後の1926年(昭和元年)、藤島武二に再会し、名作「芳惠」が誕生しました。
武二は、カネヨをギリシャ神話のデメテルに見立てたようです。
デメテルは大地神母、豊穣の女神ですが、カネヨの繊細な横顔はたよりないですね。
デメテルは、兄弟のゼウス更にポセイドンにまで無理矢理犯されてしまいます。
武二は、カネヨに芸術作品を産ませる、豊穣の女神を見ていたのだろうか。