綿あめプーさん&あるび

綿飴ぷーさんの「けやきの会」(長岡市にある障がい者関連団体)と白馬山麓の実家の話題&アルビッレクスサポ日記

中越地震のときの記憶(青森のユアテック)

2011年04月12日 | ぷーさんのつぶやき
仙台の鳥さんのコメントで、2004年中越地震の時のことを思い出しました。

私の自宅は長岡市の南東方向、全村避難で話題になった山古志村との境に近い位置にありました。

本震から3日目の深夜2時。
少し対策本部の仕事も落ち着いたので、自宅の状況を確認したく思い、会社から10kmの距離にある自宅に向かいました。

地震発生の時には会社にいて、家内と子供2人は近くの公園に避難していました。
テントや寝袋、非常食などの持ち出し品は一式準備してあったので、町内の方々と一緒にテント村を作って元気でいることはメールで確認がとれてました。

自宅は「まだ立ってる」ことは連絡ありましたが、どの程度の被害かが知りたくて、深夜の国道を自宅に向かいました。

さすがに3日目の深夜なので、すれ違う車もありません。
地割れや起伏のついてしまった国道。
停電で街灯も信号も消えている深夜の国道をゆっくり走っていたら、前方に車列が見えました。

私よりもさらに徐行しているので、追いついてみれば、高所作業車の車列です。

青森ナンバーのユアテックの車が5台ほどゆっくり進んでいます。

涙が出ました。

青森からどれだけの時間をかけて走ってきたことでしょうか。

一刻も早く電気を復旧させようと、深夜に被災地に入ってきた車列です。

ありがたかったです。



当時の自宅のそばの画像です。幸い私の自宅は建物は復旧できませんでしたが、地盤は大丈夫だったので、今は建て直して住むことが出来ています。

がんばれ日本
がんばれ東北


がんばろう新潟