「憧憬のまととなれ」渡辺孝(上智大学 法学部 S58年卒)
年間100ラウンドは、当り前だった現役時代。就職して、それが10分の1になっていた。都内の私立女子校で、社会科の教師になり、時々仲間とゴルフをしながら、「体力、有りあまってるんだけどなあ」と、ぼやいていたものだった。就職3年目のある日、理事長でもある校長に、ひとつ頼みがあると呼び出された。「タカシ、お前、うちの中高にゴルフ部を創らないか? お嬢さん学校ってイメージに、ちょっと体育会系の味をつけたいんだ。」校長はオフィシャルハンディ6の腕前だ。
「あの、僕確かに体育会ゴルフ部でしたが上智ですよ。」「分かって言ってるんだ。ちようどいいじゃないか。強くしてくれと言ってるんじゃない。皆が憧れるような人気部活で、しかも、挨拶がしっかりできるようならそれでいい。」 後で振り返ると、この言葉でゴルフ部の基本方針ができあがっていた。エチケットがもっとも重要。次にルール。審判は自分自身である。ゴルフを通して学んで欲しいこと、 それは人の生き方そのものだった。
中1から高3生まで、1人1人手を取って教えた。上手に打てなくても、そんなに悔しがらなくていい、また明日教えてあげるよ。今回は、きちんと挨拶できた、それでいい。 創部から7年間、部員の中には80台でラウンドできる者もちらほら出てきた。このころバブル花盛りなこともあって、ゴルフ部には600人を越える入部希望者がいた。まさに、皆が憧れる人気部活になっていたのだ。しかしゴルフ部のスタイルは少しも変わっていなかった。変ったことは、先輩が後輩を面倒みるシステムができあがったことだった。 そんなある日、中1からゴルフを始めて、もうすぐ中学を卒業する生徒が相談に来た。「先生、武蔵野も高ゴ連(全国高等学校ゴルフ連盟)に入って団体戦に出場しませんか?」 今までも個人戦参加は奨励していたが、高ゴ連に入会しての団体戦には積極的になれない理由があった。これは僕の個人的な見解だが、高ゴ連に限らず政治的な臭いの組織や特権をもつ団体には近づきたくなかった。優秀な選手をもつチームの監督には、必ずといっていいほどスポンサーが出現する。そしてこれは本当に気づかぬ間に、皆が皆、初心をどこかに忘れて来てしまうものらしい。
「今年どこまでやれるか分らないけど、君が高3になるまでに、武蔵野を強くしよう。ただし、僕は監督登録しないぞ。 組織に縛られたくないんだ。皆が憧れるチームを創ろう。」
その子が高1に進級し、団体戦にいよいよ参戦することになった。選手5人のうち、上位4人の合計スコアで競う団体戦は、関東大会を突破して、全国大会(みどりの甲子園) に駒を進めた。もちろん上位には入れなかったが、チームを一層結束させた。
女子高生とはいえ(女子中学生も同じ)、合宿となると2泊3日で、5ラウンドし、しかも最終日は目土をして帰る、 かなりハードな内容だった。夏休み中は、試合の合間に、4クールの合宿をし、試合会場となるゴルフ場については 選手がそれぞれ線習ラウンドの際にデータを集めた。
そして3年後、彼女は高3。チームの主将になっていた。 チームを強くしようと思ってから、約束の3年目だった。関東大会を順調に突破し、全国大会。最終的な戦力分析を全員でした。もちろんチームのメンバーである。選手は5人、登録は6人。そして採用スコアは上位4人分の合計。武蔵野には80を切る実力をもつ7人の優秀な選手がいた。その中から、高校1年生3名、2年生1名、3年生2名を登録メンバーに選んだ。調子のいい者から4人のスコア。目標は平 均77に決めた。試合は2日間。初日のスコアはまさにその 77平均だった。2日目もチームベストの戦いだった。結果は全国2位、準優勝だった。
まさか、ここまでやれると思わなかった。大会期間中、もっとも明るく、もっとも尊敬されたチームだった。そして皆が憧れるチームになっていた。
主将、西川みさと、副将、西川藍、2人は姉妹でも親類でもないが、尊敬し合う先輩と後輩である。昨年、そろっ て女子プロゴルファーの仲間入りをした。勝負は時の運。勝つことよりも、皆が憧れる選手になって欲しい。そうし て、エチケットが一番。次にルール。審判は自分自身であ ることを、忘れないでいて欲しい。
(渡辺孝先生の思い出)4月、5月花粉症の季節には、孝先生はいつも辛そうだった。今頃は孝先生は眼を赤くしている頃かなと思って過ごしていたある日、突然に聞いたのは孝先生の訃報だった。孝先生は現在の日大アメフト部騒動、ボクシング協会の騒動、女子レスリング会の騒動、体操協会の騒動、相撲界の騒動などを予見していたかのように、憧憬の的になるスポーツ選手の育成を目指していた。いつも、彼は周囲を励ましていた「大丈夫だよ」が口癖だった。誰よりも有能なのに威張ることがなかった。孝先生の積んだ陰徳が今この世界に満ち満ちて慈雨として降り注いでいるのを実感している。神は「おまえは自分の使命を全うした。」と、孝先生を自分の身近に呼び寄せてしまった。まだまだこの日本の世界は孝先生を必要としていたのに、あまりも、あまりにも残念だ。
ご葬儀場を後にしても、すぐには帰ることはできず、遠回りして孝先生も見たであろう恩田川の横をずっと一人歩き続けながら、孝先生のことを考えていた。孝先生の「憧憬の的となれ」というメッセージ、私にとっては孝先生こそが「憧憬の的」だった。
東京に戻ってきました。孝先生に会いたかった。孝先生の教え子にも会いました。するとね、「孝先生もきっと天国で私たちの再会を喜んでいますよ。」って言ってくれました。そんな事がいえる生徒を育てていたんですね。「俺、孝先生の弟さん、東京芸術大学を卒業した画家なんだけど、個展があれば、こっそり会いに行こうと思うんだ。横浜で活動しているらしいから、昔、孝先生に電話したら、孝先生と思って話し出すと、『すいません、私は弟なんですよ』って言われたことがあるけど声はそっくりなんだ。面識はないけど、ただ孝先生の面影をたどるために会いに行こうと考えているんだ」って話したら、「行くときには声をかけて私も行きたい」「俺も行くよ」という人が何人かいた!やはり孝先生への思いはみんな別格なのだろう。
As they say whom the gods love die young. It is thanks to you that I was able to come this far.
I saw Takashi's simulacrum in his brother's smile. スィミュレイクラム
狭山での体育最後
箱根レジデンスで過ごした日々、孝先生と一緒に彫刻の森美術館を回った。孝先生がいる場所は居心地がとてもよかった。