京免 史朗氏
なぜ歴史を学ぶのか 世界への影響力を日本人は自覚していなかった
『真実の満洲史【1894-1956】』
「日本は自分たちがしたことについて、まったく自覚がない」
日本がパリ講和会議で出した人種差別撤廃案。それがいかに欧米諸国を困らせたか。日本人は全然理解していない。
アメリカがハワイを併合した。その時、日本は強く抗議した。また日本は、アメリカが長く望んだ支那への進出の大きな障壁となった。アメリカは日本を強く憎んだ。日本人は全然理解していないが、その憎しみは、国際法を無視した通商破壊や無差別爆撃、原爆の投下を見れば明らかである。
ロシアは、日露戦争で満洲や朝鮮への野望を、日本に打ち砕かれた。さらにロシア革命の後、日本はシベリア出兵で革命に干渉した。ロシアがどれだけ日本を憎んだか。日本は自覚していないが、その憎しみは一九四五年の終戦時、満洲で日本人の女性や子供まで虐殺されるほどであった。
ノモンハン事件で、日本は一万九千人もの戦傷病者を出した。しかし、一九九一年のソ連崩壊後に公表された資料によれば、ソ連の戦傷病者数は二万四千人である。さらに、一九四一年に関東軍特殊演習に結集された七十万の日本軍による圧力に、スターリンは恐怖した。終戦間際の弱体化した日本軍に対して、スターリンは百七十四万の軍勢を満洲国境に展開した。
日本人は、日本が世界を大きく変えてしまったことを自覚していない。ロシアやアメリカがどれだけ日本の力を恐れていたかを自覚していない。
日本はあまり搾取もせず、条約も遵守し、国際法規にも触れなかった。それでもアメリカは覇権を求めた。その戦争でアメリカは、日本を叩きすぎた。そのせいで、その後、支那を失い、朝鮮半島やベトナムで戦争をしなければならなくなった。ソ連が強大なライバルになり、長引く冷戦に耐えなければならなくなったのも、そのためである。
さらに、無差別空襲に原爆の投下、日本人を虐殺しまくったその戦争を正当化するために、戦前の日本に‘異常な軍国主義国家’の汚名を着せた。そうまでしなければ、日米戦におけるアメリカの正統性は説明できないものだった。利害が一致する限りにおいて、ソ連の北方領土占領、南京大虐殺や従軍慰安婦の捏造も受け入れた。今も、受け入れつつある。
なぜ、彼らはそこまで日本を憎んだのか。それは日本が、白人支配に対する唯一の抵抗者であったからに他ならない。だからこそ、徹底的にやられた。特攻や硫黄島・沖縄といった命がけの戦いがなければ、また冷戦の萌芽がなければ、日本は地球上から消え去ることになったのではないだろうか。
世界の、日本に対する恐怖は消えたわけではない。だから、事あるごとに日本は苦しめられる。彼らのルールで頑張っても、追いつき追い越そうとする頃には、理不尽なまでにルールを変更される。日本への恐怖は、今でも健在だ。
明治以降の積み重ねは、現代日本人の意識以上に私たちに対する大きな評価につながっている。それを理解した途端、日本人は元気になる。日本の歴史の本当の姿が分かれば、それだけで将来は開ける。
◆日本人が忘れてはいけない歴史
ソ連軍による占領予定には、北海道の約半分までもが計画されていたのです。
占守島の守備隊が時間稼ぎをしてくれた、そのおかげで北海道はロシアに占領されなかった……
日本人が忘れてはいけない歴史
特攻隊や沖縄戦とは違い、なぜかあまり語られることはない、マスコミにも取り上げられる事のない占守島の戦い。
占守島の戦い
終戦を迎えた8月15日から三日経った8月18日の早暁午前1時頃に終戦による武装解除の準備を進めていた千島列島北端の占守島の日本軍守備隊に対し、ソ連軍が突然上陸、攻撃をかけてきた日本軍最後の戦いのことです。
占守島は、北方諸島の最北端にある、面積で言うと琵琶湖程度の小さな島です。海抜200m未満の丘陵と沼地、草原が入り 混じり、樹高1mくらいの 這松や榛の木が群生していて、夏は15度で濃霧が発生し、
冬にはマイナス15度で猛吹雪になる気候。東西20km、南北30kmあまりの小島だが、北はカ ムチャッカ半島、東はアリューシャン列島と交差する要所で、日本領の最北端でした。
日本はアリューシャン列島を西進してくるアメリカ軍の侵攻に備えて、戦車隊を擁する精鋭守備軍2万5000をここに置いていたのですが、すでにアリューシャン列島のアッツ島やキスカ島は、米軍によって陥落していました。
占守島の防衛隊は終戦を知り、日本の敗北に涙したものの、これでやっと帰れる。家族に会えると、その顔は希望に満ちたものになっていました。
そこへ突如、ソ連軍が猛烈な砲撃の下に奇襲上陸を開始し、攻撃を仕掛けてきたのでした。やむなく日本軍は解除準備を始めていた武装を整え直し自衛戦闘を行ったのです。
戦闘は激烈を極め、日本軍の死傷者約600名、ソ連軍の死傷者約3,000名に および、日本軍が有利な状況で上陸部隊を殲滅する体制でしたが、ポツダム宣言受諾後の戦いであり、自衛を目的とした戦闘であったため、札幌の方面軍司令部 から「戦闘を停止し、自衛戦闘に移行」との軍命令が届き、停戦交渉を開始せざるを得なくなった。
しかしソ連軍は停戦軍使を射殺するな ど、一向に攻撃を収める気配が無く、戦闘が続行される中、とうとう札幌より「停戦すべし」との命令がくだり、8月21日に戦闘が終結しました。その時守備隊は泣いて悔しがったと言います。
その後彼らは日本に帰れると騙されてシベリアへ送られ、極寒の地で数年にわたり強制労働を強要され、その数は65万ともそれ以上ともいわれています。
その1割の兵士は故郷へ帰るという望みはかなうことなく多くの人が命を落としました。
ここで重要な事は、日ソ中立条約は1946年4月まで有効であったにも関らず、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄しての侵攻は重大な条約違反であり、これぞまさに侵略行為だ、という事です。これは北方領土を含む千島列島・南樺太などにも当てはまる事ですが・・
そしてようやく抑留から開放され、帰国した彼らを待っていたのは、世間の無関心と反戦平和の風潮で、占守島のことを知る人は全くいなかった。
ちなみにソ連政府機関誌「イズヴェスチャ」は「占守島の戦いは、大陸における戦闘よりはるかに損害は甚大であった。8月18日はソ連人民の悲しみの日である」と述べています。
北海道は今の北方領土と同じよに日本の領土ではなかった可能性があります。
下記の図は、ソ連軍による北海道占領予定線と占守島の図です。
なんと当初のソ連軍による占領予定には、北海道の約半分のまでもが計画されていたのです。スターリンは、ヤルタ会談の密約で参戦の見返りとして、樺太と北方領土を占領する約束をルーズベルトから取り付けていたのですが、
ルーズベルトがこの世を去りトルーマンに北海道北部の占領を反対され、卑劣にも日本の降伏後に大軍を送り込んできたのであります。
もし1日で占守島が没落していたら・・・占守島の日本軍守備隊の功績は計り知れません。
特攻隊や沖縄戦とは違い、なぜかあまり語られることはない、マスコミにも取り上げられる事のない占守島の戦い。
戦争が終わったのに、その三日後に家族に会えるという望みを捨てて終戦後も必死で日本を守る為に戦って戦死した方々、終戦後も不法に長期間にわたってシベリア等の極寒の僻地で強制労働に従事させられた方々、そして多くの人が命を落としたシベリア抑留事件という戦後のソ連の国家犯罪も我々日本人が忘れてはいけない歴史の一つです。
http://yamat00.web.fc2.com/syumusyu.html
◆語り継げるのか「シベリア日本人抑留」 基金解散、慰霊祭中止へ…
2013.8.8 産経ニュース
旧ソ連が第二次世界大戦後、日本人約60万人をシベリアなどに抑留した問題で、慰霊祭などを政府とともに行ってきた財団法人「全国強制抑留者協会」(全抑協)が資金難で存続の危機に直面している。助成してきた国の基金が解散し、行政の支援が停止しているためだ。元抑留者の平均年齢は90歳を超え、多くが他界している。間もなく戦後約70年となる今も、十分に明かされていない抑留の実態をどう解明し、いかに次世代に伝えていくかが問われている。(黒川信雄)
■数年で資金枯渇
「シベリア抑留では60万人もの人間が拉致されたのに、教科書でもあまり触れられていない。歴代内閣は抑留問題に真剣に取り組んでいない」。元抑留者で全抑協会長の相沢英之元衆院議員(94)は政府の取り組みに疑問を投げかける。
抑留経験者らで組織する全抑協は平成元年に発足。慰霊祭のほか、抑留体験の聞き取りや展示会など問題の風化を防ぐ活動を主導してきた。
しかし、活動資金を実質的にまかなってきた総務省所管の「平和祈念事業特別基金」の解散が22年に決まり、23年度から国の助成が一切受けられなくなった。基金は今年4月1日に解散。残る資金を取り崩して活動しているが、「おそらく3年後には資金が完全に枯渇する」(吉田一則事務局次長)。総務省には7月に予算申請したが、前向きな回答は得られていないという。
■ロシアは謝罪
埋葬地調査や遺骨収集事業は厚生労働省が実施しているが、慰霊祭は「政府として実施する予定はない」(総務省大臣官房総務課)としており、全抑協の活動の一部は中止に追い込まれる見通しだ。
全抑協はソ連やロシアに、抑留について文書による公式謝罪と、当時の強制労働に対する賃金補償を求めている。抑留は旧日本兵らの本国帰還を求めたポツダム宣言の規定(第9条)に違反しているため、「補償はロシアが支払うべきだ」との立場からだ。
ロシアのエリツィン大統領(当時)は平成5年に訪日したさい、この問題で謝罪した。また、日ソ共同宣言(昭和31年)では両国とも賠償請求権を放棄しており、「全抑協の要求の実現は困難だ」という意見もある。
しかし、個人の賠償請求権は放棄されておらず、相沢会長は要求実現に向けて「政府、そして与党自民党がこの問題を取り上げなくてはならない」と主張する。
■「補償は区切り」
一方で、賠償請求権は日ソ共同宣言で放棄したとし、ソ連での強制労働の賃金支払いを日本政府に求めてきた団体もある。「全国抑留者補償協議会」だ。
元抑留者への給付金支払いなどを定めた「戦後強制抑留者特別措置法」(シベリア特措法、平成22年6月成立)で、日本政府による国家補償は実現したとし、23年5月に解散した。
これに合わせて同年4月、同協議会の関係者らは抑留実態の調査活動などを続けるとしてNGO「シベリア抑留者支援・記録センター」を設立。シンポジウムや行政への法整備の働きかけなどを行っている。
補償協議会の元事務局長で、現在はセンターの代表世話人を務める有光健氏(62)は、補償協議会はソ連寄りだったのでは、との質問に、「(死亡した抑留者の)名簿や情報を入手するには、ソ連に対し、ある程度友好的な姿勢を取らざるを得なかった」と答えた。補償問題はシベリア特措法で「区切りがついた」とし、「今後は抑留の実態解明への協力をロシアに強く求めていくべきではないか」と主張している。
◇
【日本人抑留問題】 昭和20(1945)年8月、日ソ中立条約を破って対日参戦したソ連軍が日本降伏後、満州や樺太などから日本軍将兵や一般邦人ら約60万人を連行し、シベリアなど旧ソ連各地の収容所に抑留した。2~11年にわたって森林伐採や鉄道敷設などの強制労働を課され、飢えや寒さ、重労働による衰弱で死亡した人数は約5万3千人(厚生労働省推計)にのぼる。ソ連崩壊後、抑留を指示したスターリンの指令文書が発見された。収容所では共産主義を礼賛させ、親ソ派に転向させるための洗脳教育が行われた。抑留体験者には宇野宗佑元首相らがいる。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130808/erp13080810340001-n1.htm
コメント欄
平井 聡一郎氏
このとき,北方を守る第5方面軍司令官兼北部方面軍司令官である樋口季一郎中将を日本人は忘れてはいけない。彼の功績はソ連の侵攻を食い止め,アメリカ軍の北海道進駐までの時間を稼いだことにより,日本の分断占領を防いだこと(結果的に)あるが,それ以上に満州において,ヨーロッパから逃れてきたユダヤ人を満ソ国境の街オポトールで保護した「オポトール事件」を知らしめたい。杉浦千畝氏の「命のビザ」に先立つこと2年のことである。一説では樋口中将の救ったユダヤ人は2万にとも言われ,満州経由でアメリカなど第3国に脱出した。打ち破られたソ連が樋口を戦犯として引き渡しを要求してきたとき,アメリカのユダヤ人が動き,マッカーサーに引き渡しを阻止させたことは,オポトール事件が彼らにとって重要な,生命に関わる事件であったかを物語る。
樋口季一郎中将
ブログの字数制限のためやむなく省きますが、ぜひ『樋口季一郎中将』で検索してください。
◆葛根廟事件
葛根廟事件(かっこんびょうじけん)は、1945年8月14日、満州国興安総省の葛根廟(現在のモンゴル自治区ヒンガン(興安)盟ホルチン右翼前旗葛根廟鎮)において日本人避難民約千数百人(9割以上が婦女子)がソ連軍および中国人暴民によって攻撃され、1,000名以上が虐殺された事件。
1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦を布告し、さらに8月9日未明に満洲国、朝鮮半島、樺太などに侵攻を開始した。
8月10日と11日の両日、興安(別称、興安街ないし王爺廟。現在の内モンゴル自治区ヒンガン盟のウランホト)が爆撃を受け、興安の都市機能はほぼ破壊された。11日午後4時、興安街在住の日本人約千数百人が近郊のウラハタに集結、興安総省参事官浅野良三の指揮の下、行動隊が組織された。
行動隊の当初の目的地は100キロメートル離れたジャライトキだったが、12日からの降雨や興安軍による馬車の略奪などにより計画を変更。興安街の南東約40キロメートルに位置する葛根廟を経由し列車(白阿線)で白城子(現在の吉林省の白城)へ避難、同地で関東軍の保護を受けつつ列車でさらに南下するという計画を立て、徒歩で移動を開始した。
8月14日午前11時40分頃、行動隊が葛根廟丘陵付近まで到達したところで、ソ連軍中型戦車14両とトラック20台に搭乗した歩兵部隊に遭遇したため、浅野参事官は白旗を掲げたが、機関銃で射殺された。ソ連軍は丘の上から行動隊に対し攻撃を開始し、戦車が機関銃で攻撃を加えながら、避難民を轢き殺していった。戦車の後方からは、ひき殺された人々がキャタピラに巻き込まれ宙に舞いだしたという。
ソ連軍戦車は攻撃をある程度続けると、丘に引き返し、何度も避難民めがけて突入しながら攻撃を繰り返した。戦車による襲撃が止むとトラックから降りたソ連兵が生存者を見つけ次第次々と射殺し、銃剣で止めを刺していった。2時間余りの間に非武装の女性、子供を主体とした1,000人以上が殺害され、生存者は百数十名にすぎないとされている。
殺害を免れた者も戦車に轢かれたり、被弾して負傷したものや、家族が殺害されたものがほとんどであり、大勢が自決した。犠牲者のうちの200名近くの児童は、興安街在満国民学校の児童であった[1]。
生存者に対する襲撃も執拗を極めた。生存者は、中国人暴民によって、身につけている下着にいたるまで身ぐるみ全てを剥がされるなどした。また、暴民から逃れようとして川で溺死した者もいた[2]。
ある女性はソビエト兵に子供を殺され、続いて襲ってきた暴民に衣服を全てはぎ取られた上に鎌で乳房を切り落とされている。暴民たちは、生き残った母子を見つけると母親を棒で殴りつけ、子供を奪っていった[2]。親を殺された子供達は、生き残った大人のもとに集まっていたが、暴民たちはその子供たちをも同様に奪っていった[2]。当時は日本人の男児は300円、女児は500円で売買されるのが一般的であった。
8月15日の終戦後も、避難民に対する襲撃は続いた。事件後に10人余りの婦女子の一団に加わった12才の少女の証言によると、少女が加わった女性たちの一団は、暴民に襲われて衣服を奪い取られ暴行を受けるなどしながら、一週間余りをかけて葛根廟駅から10キロのところにある鎮西駅にたどりついた。女性たちは駅から少し離れたところにある畑の空き家に身を寄せることにしたが、夜になるとソビエト兵に発見され、深夜まで暴行が行われた。暴行が終わるとソビエト兵たちは屋外に積まれてあった枯れ草を家の中に投げ入れては火を付け、女性たちを焼き殺そうとした。少女と妹は窓のそばにいたために難を逃れることができたが、他の女性たちは火の周りが早く脱出できなかったようであると証言している。助かった少女はその後、残留孤児として生きてゆくことを余儀なくされた。
一方、中国人、モンゴル人、朝鮮人のなかには生存者に食事を提供する者もおり、中国人のなかには子供を手厚く育てる者もいた。行動隊の生き残った子供は、さまざまな経緯から中国残留孤児となっていた。また、多くの女性が中国残留婦人となることを余儀なくされた。
この事件は戦後、第二次世界大戦におけるソ連の戦争犯罪として取り上げられており、暴民ではなく一国の軍隊の攻撃によって無差別的に大量虐殺されたジェノサイドであり、その点では終戦時に満洲の日本人難民が遭遇した悲劇のなかでも最大のものである。
※[1]終戦時の満洲では、東安省鶏寧県哈達河(現黒龍江省鶏西市)に入植した開拓団1,300名がソ連軍機械化部隊の攻撃を受け、追いつめられた結果、8月12日、麻山(現鶏西市麻山区)付近で約400名の日本人が集団自決した麻山事件が起こっている。
※[2]興安街付近では、東京荏原開拓団が匪賊暴民に襲撃されて約400名が殺害された事件、仁義仏立開拓団がソ連機甲部隊の一斉射撃や暴民の襲撃によって600名以上が殺された事件などもおこっている。
◆牡丹江事件
牡丹江事件(ぼたんこうじけん)は、1945年(昭和20年)8月、満州国東満省(現中華人民共和国黒龍江省)において日本人避難民680人がソ連軍機甲師団と暴民の襲撃により虐殺された事件。生存者は20人とされている。
◆三船殉難事件
三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん)とは、第二次世界大戦末期(日本の降伏文書への調印予告、および軍隊への停戦命令布告後)の1945年(昭和20年)8月22日、北海道留萌沖の海上で樺太からの婦女子を主体とする引揚者を乗せた日本の引揚船3隻(小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸)がソ連軍の潜水艦による攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して1,708名以上が犠牲となった事件を指す[1]。三船遭難事件とも呼ばれる。
1945年(昭和20年)8月15日に、大日本帝国政府はポツダム宣言を受諾し、降伏文書への調印意思を連合国へ通達、翌日には各軍への停戦命令の布告及び武装解除を行った。これに対応しイギリス軍やアメリカ軍は即座に戦闘行為を停止したが、8月9日に対日参戦したソ連軍は、これを無視し、当時大日本帝国領だった樺太に侵攻した。
ソ連軍の攻撃から避難させるため、大津敏男樺太庁長官は、長官命令で、婦女子や老人を優先的に本土に送還させるため大泊港の小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸に分乗させ本土に引き揚げさせようとした。
小笠原丸沈没
1945年(昭和20年)8月20日、引揚船の1隻である逓信省の海底ケーブル敷設船小笠原丸が引揚者1,500名ほどを乗せて大泊から稚内に渡った。日本に到着した事や機雷の危険がある事から下船するよう勧めがあったが、列車の混雑などを理由に約600名の乗客と約100名の船員・軍人を乗せて小樽に向った。その途中の8月22日午前4時20分頃、増毛沖の海上で国籍不明の潜水艦の雷撃により撃沈された。乗員乗客638名が死亡し、生存者は61名だった。
第二号新興丸大破
続いて午前5時13分頃、大泊からの引揚者約3,400名を乗せ小樽へ向っていた特設砲艦第二号新興丸(2,700トン)が留萌沖北西33キロの海上で、国籍不明の潜水艦からの魚雷を右舷船倉にうけ、縦約5m・横約10mの穴があいた。さらにこの直後に浮上した2隻の潜水艦により銃撃を受けたため、やむなくこれに応戦した。同艦は1941年(昭和16年)に海軍に徴用され特設砲艦として宗谷海峡付近で機雷敷設の任務に就いていた艦であるため、12センチ砲4門と25mm対空機銃の装備があった。戦闘後1隻の潜水艦が潜航した後に大量の重油が浮き上がったのが目撃されており、ある程度の損害を受けたものと思われた。
この攻撃によって、第二号新興丸は船体に大きな損害を受けたが、機関に異常はなかったため最寄りの留萌港に入港した。船内で確認された遺体は229体。行方不明者も含めると400名近くが犠牲となった。同艦の反撃によって損傷した1隻の潜水艦はその後、宗谷海峡で沈没したと思われる。事件後、第二号新興丸は修理・改装され1966年(昭和41年)まで国内で商船として使用され、その後パナマに売却された。
泰東丸沈没
同日午前9時52分、同様に大泊からの引揚者を乗せて小樽へ向っていた貨物船泰東丸(880トン)が北海道留萌小平町沖西方25キロの海上において、浮上した国籍不明の潜水艦の砲撃を受ける。同船には武装はなかったため戦時国際法に則り白旗を掲げるも、潜水艦はこれを無視し砲撃は続行され沈没、乗員乗客約780名中、667名が死亡した[2]。
1974年(昭和49年)から5回にわたり厚生省が海上自衛隊に依頼して泰東丸の捜索を行ったが、成果は無く捜索は断念された。事件後遺体が漂着した小平町に「泰東丸の捜索をすすめる会」が出来、1981年(昭和56年)に地元の漁船が泰東丸らしい沈船を発見。1982年(昭和57年)と1983年(昭和58年)の社団法人全国樺太連盟の調査で、バッテリー、銃弾、茶碗などの泰東丸のものと思われる遺品が引き上げられた。
1983年(昭和58年)に、参議院において「泰東丸の捜索と遺骨収集の促進に関する質問主意書」が提出された。これによると「今年の7月から8月にかけて、全国樺太連盟は、泰東丸が沈没したとみられる北海道留萌沖で独自の調査を行った。その結果、泰東丸と思われる船体を発見した。船名の確認までには至らなかったが、機銃弾、時計、バッテリーなど数多くの貴重な遺物を陸上に引きあげ、検討したところ泰東丸であることにほぼ間違いないことを裏づけた」として政府に同船の捜索と遺骨収集を求めた。
これに対し当時の中曽根康弘総理大臣は「泰東丸の捜索に関しては、同船が沈没した海域の沈没船について、1977年(昭和52年)7月に厚生省が防衛庁及び地元関係機関の協力を得て綿密な潜水捜索を実施したが、泰東丸であるとの確認ができなかったという経緯がある。現段階では国の事業として再捜索を行うこと、また、民間団体が自主的に行つた捜索事業に国が資金援助することは困難である」としたうえで「沈没船が泰東丸であるとの確認ができれば、今後、残存遺骨の有無の調査等の対策を検討」すると答弁した。
翌1984年(昭和59年)8月5日から北海道や全国樺太連盟の協力を得て厚生省が再調査を行ったが、遺体は発見されず9月28日に調査を打ち切った。
国籍不明の潜水艦
上記三船を攻撃した潜水艦について公式には今もって「国籍不明」とされているが、当時樺太にはソ連軍が侵攻していた上、アメリカ海軍やイギリス海軍の潜水艦は日本の降伏宣言を受けて国際法に則り軍事活動を停止し、同海域において軍事活動を行っていなかったために、事件直後からソ連の潜水艦であると推測されていた。戦後、当時のソ連海軍の記録から旧ソ連太平洋艦隊第一潜水艦艦隊所属のL-19とL-12の2隻の潜水艦が留萌沖付近の海上で作戦行動に就いていた事が判明した。
2007年(平成19年)、樺太の新聞『ソビエツキー・サハリン』の取材でサハリン州公文書館から公開された資料によると、ソ連は樺太に続き北海道北部を占領するため狙撃部隊2個師団による留萌への上陸作戦計画を立てていた[5]。
この作戦の前哨としてL-19潜水艦(コノネンコ艦長)、L-12潜水艦(シェルガンツェフ艦長)の2隻は上陸予定地である留萌付近海上で偵察と護衛の任務に就いていた。この作戦行動において3隻の船を攻撃、2隻を撃沈したと記録されている。作戦後、L-12潜水艦はウラジオストク軍港に帰還したが、L-19潜水艦は礼文島沖での通信を最後に行方不明となった。旧ソ連軍の公式記録では「L-19潜水艦は1945年8月23日、宗谷海峡にて機雷により沈没、乗員は全員戦死」となっている。樺太南方沖の二丈岩付近で沈没したと思われるが、沈没の原因については第二号新興丸と交戦した時の損害とも言われ判然としない。
戦後、帰還したL-12潜水艦の乗員には勲章が与えられ、行方不明となったL-19潜水艦については無視されてきたが、2005年(平成17年)8月にロシア太平洋艦隊による海底調査が行われ、2007年(平成19年)7月に行われた追悼式典において艦長以下の乗員に勲章が授与された。しかし、停戦意思を通達した国の船舶に対しての攻撃や、白旗提示を行った船舶への攻撃を行うなど、国際法や戦時国際法への明らかな違反行為が行われたこともあり、三船攻撃については外務省の事実確認要請にも関わらず、ロシア政府は公式に認めていない。
※〔1〕事件の犠牲者は1,708名とされているが、引揚げの混乱時であり乗船者名簿等はなく正確な乗船人員は不明。遺体が確認されていない行方不明者も相当数いるため、実際の犠牲者は更に多かった可能性がある。
「能登呂丸」沈没事件
1945年(昭和20年)8月22日、樺太最南端の西能登呂岬南方海上においても、引揚者輸送のため樺太西岸の本斗から大泊に向けて回航中の大阪商船の貨物船「能登呂丸」(1,100トン)がソ連の航空機の雷撃を受け沈没した。
同じ1945年(昭和20年)8月20日に「東春丸」が北海道方面で潜水艦の雷撃で沈没。
同じ1945年(昭和20年)8月24日に「大地丸」が朝鮮半島沿岸で空襲により沈没している。
防衛省の『戦史叢書』によれば死者・行方不明者は1658名とされる。
◆真岡郵便電信局事件
真岡郵便電信局事件(まおかゆうびんでんしんきょくじけん)とは、太平洋戦争末期の樺太の戦いで、真岡郵便局の電話交換手が集団自決した事件である。当時日本領だった樺太では、ソ連軍と日本軍の戦闘が、1945年8月15日の玉音放送後も続いていた。真岡郵便局の電話交換手(当時の郵便局では電信電話も管轄していた)は、疎開(引き揚げ)をせずに業務中だった。8月20日に真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決を図り、9名が死亡した。真岡郵便局事件、また北のひめゆり(事件)とも呼ばれる。
自決した電話交換手以外に残留していた局員や、当日勤務に就いていなかった職員からも、ソ連兵による爆殺、射殺による死者が出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼる。
◆麻山事件
麻山事件(まさんじけん)とは、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月12日、満州国鶏寧県麻生区(現中華人民共和国黒龍江省鶏西市麻山区)において、日本の哈達河開拓団が避難中にソ連軍と満州国軍反乱兵によって攻撃されて集団自決した事件。421人が死亡した。
ソ連対日参戦時、満州国の東安省鶏寧県には約5000人の日本の民間人が在留しており、うち哈達河(ハタホ・こうたつが)には満蒙開拓団の開拓民1300人が入植していた。
根こそぎ動員により1300人のうち成年男子の多くは徴兵され、残留者は女性・子供・高齢者が中心だった。満州国東部国境の防衛を担当する日本の第5軍は、人口20万人(日系6万人)が集まる中心都市牡丹江市の防衛を重視し、主力を国境から80kmも後方に配置していた。
開拓団はもはや包囲された状態と判断し、わずかな男子団員が自衛用に携行していた銃により射殺することで「介錯」し、凄惨な集団自決が行われた。
男性団員の一部はソ連軍に対して夜襲をかけるなどしており、麻山における自決・戦死による団員の死者は421人とされる。
1950年(昭和25年)、国会(参議院)の特別委員会で取り上げられ、国民の知るところとなった。1983年(昭和58年)には、本事件を題材とした中村雪子の著作『麻山事件―満洲の野に婦女子四百余名自決す』(草思社)が大きな反響を呼んだ。
◆敦化事件
敦化事件(とんかじけん)とは1945年8月27日に満洲国吉林省敦化(現吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)でソ連軍によって連日に渡り集団強姦され続けていた日満パルプ製造(王子製紙子会社)敦化工場の女性社員や家族が集団自決した事件。日満パルプ事件とも呼称される。
事件の現場となった日満パルプ製造敦化工場は、1934年に王子製紙が敦化県城南門外牡丹江左岸(敦化郊外5キロ)に設立した工場である。工場に隣接して設置された社宅地は、高さ4.5mの煉瓦壁でおおわれた2万坪の敷地内に壮麗な造りの社宅と福利厚生のためのクラブなどが設けられており、日本人職員とその家族260人が暮らしていた。また、敦化市内には2,000人の関東軍守備隊の駐屯地があり、終戦当時には敦化北部の山地に築城しソ連軍の侵攻を食い止めようと備えていた。
1945年8月9日未明に突如としてソビエト連邦が満洲国に侵攻し、敦化に近い東部国境付近では関東軍・満洲国軍がソ連軍と交戦していたが、工場や敦化市内では満人や朝鮮人の態度も変わることなく治安が保たれたままであった。8月15日に敗戦を迎えた後も工場の満人や朝鮮人従業員は変わることはなかったが、敦化市内では満人や朝鮮人の一部による略奪・放火・日本人女性への暴行が行われるようになった。8月17日、敦化郊外で陣地を築いていた敦化守備隊は工場に資材を取りに来て初めて終戦を知った。8月19日、ソ連軍が敦化市内に進駐してきたため、敦化守備隊は降伏し武装解除された。
8月22日、ソ連軍は日満パルプ製造敦化工場に進駐した。ソ連軍は社宅に侵入すると1時間以内に社宅の一角を引き渡すよう要求した。ソ連兵はすぐにホテル・レストランを兼ねた壮麗な造りのクラブに惹きつけられていった。ソ連兵はクラブ従業員の女性2人を引きずり出すとジープで社宅から連れ去った。数時間後に拉致された女性がぼろぼろになって社宅に帰ってきたが、もう一人の若い娘は強姦された後に牡丹江に流され行方不明となった。
8月25日、ソビエト軍は男性全員を集合させると10キロほど離れたところにある飛行場の近くの湿地に連行し、婦女子は独身寮に集められた。170人ほどの婦女子は15,6人ずつに分けられ監禁されることとなった。夜になると、ソ連兵300人あまりが独身寮に移ってくるとともに、短機関銃を乱射する頻度が夜が更けるにつれて増えていった。女性たちは夜が明けることを祈りながら一晩中恐怖と戦っていた。
8月26日夜明け、酒に酔ったソ連兵たちは短機関銃を空に乱射しながら女性たちが監禁されている各部屋に乱入すると、女性たちの顎をつかみ顔を確認しながら、気に入った女性たちを連れて行こうとした。女性たちは金品を渡したり、許しを懇願したが聞き入れられず、次々に引きずり出されていった。各部屋からは女性たちの悲痛な叫びが溢れたが、ソ連兵は構うことなく短機関銃を乱射し続けていた。このため、女性たちは頭を丸坊主にしたり、顔に墨を塗るなどしたが、ソ連兵による強姦は朝になっても収まることはなく、部屋に乱入すると女性たちの胸部をまさぐるなどして気に入った女性たちを何度も連行していった。社宅と塀を隔てた工場に残されていた男性社員たちは、社宅の異変を察知するとソ連兵の監視を掻い潜り塀を乗り越え社宅に潜入したが、厳重な警戒が布かれている独身寮には近づくことができなかった。ソ連兵たちは狼藉を続けるうちに女性たちの部屋の廊下に監視兵を置くようになったため、御不浄や食事もままならないようになった。女性たちは自身のおかれている状況や絶え間ない銃声から、すでに男性社員たちは皆殺しにあったのではないかと考えるようになった。ソ連兵による女性たちへの昼夜に渡る暴行は8月27日の深夜になっても収まることはなかった。このため、28人の婦女子が集められていた部屋では自決をするべきか議論がなされるようになった。議論中にもソ連兵の乱入があり、隣室からも女性たちの悲鳴や「殺して下さい」などの叫び声が聞こえてきたため、自決することに議論が決した。隠し持っていた青酸カリが配られ全員が自決を図り、23人が死亡、5人が死に切れずに生き残った。他の部屋ではソ連兵に引きずり出されるときに剃刀で自殺を図った女性もいた。
8月27日早朝、ソ連兵が集団自決を発見し、将校に報告されると各部屋にはソ連兵の見張りが付けられ、女性たちは外を見ることを禁じられ、遺体はどこかへ運び去られた。責任を問われることを恐れたソ連軍将校によって、これ以上の暴行は中止されることとなった。
その日のうちに女性たちは男性社員が野宿させられている飛行場のそばの湿地に連行された。その後、8月末までは湿地や飛行場で待機させられ、シベリアに連行される日本軍部隊から密かに食料や毛布などを分けてもらうなどしていたが、牡丹江対岸の熊本県開拓団の小学校に遷されると、毎日のようにソ連軍による略奪が行われ、女性を裸にしてまであらゆるものを奪い去っていった。一切のものを奪われたため、男性社員たちは街に出て材木運びなどの労働に出て僅かな賃金を稼ぐことで命をつなぐこととなった。また、ソ連へ戦利品として工場設備から列車の線路にいたる全てのものを持ち去るための解体作業を昼夜に渡って行わされた。その後、敦化市内の旧軍人会館に移転させられたが、冬が訪れると飢えと寒さと発疹チフスのために87人が死亡した。
(日本人が知らない歴史) 目覚めよニッポン!