浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

歴史を忠実に残せばどうなるのか②

2014-10-27 12:01:16 | 資料

プーチンよ悪は米国に学べ

20世紀始めに米国はフィリピンを酷い手口で植民地支配した。米国に抵抗する者は、膝と肩を一日一発ずつ銃で撃ち、死の恐怖に慄かせてから殺す「週間銃殺刑」や「水責め」がある。水責めは大の字に寝かせ、じょうごで泥水を5ガロンも飲ませる拷問で、膨れた腹に米兵が飛び降りると「土人は6フィートも水を吹きあげて絶命した」

アーサー・マッカーサーが指揮した「フィリピン人殺戮」数は自己申告でで20万人。実際はその数倍と謂われる。

米傀儡政権のケソン大統領は、赴任してきたアーサーの息子ダグラスに媚びたが、ケソンの秘書カルロス・ロムロの諂いは芸術的だった。彼はアジア諸国を歩いて欧米の植民地政策を肯定的に描いて、ピューリッツァー賞を貰った。マッカーサーは直ぐに宣伝担当副官に任命した。

日米開戦し日本軍が上陸するとマッカーサーは豪州に逃げだしたが、その前夜ケソンに謝礼を要求する。ロムロは米国のご主人様の為にフィリピン政府の口座から、マッカーサーの口座へ50万ドルを振り込む作業を助けた。豪州に脱出後のロムロの最大の業績は、たった60キロの「散歩」を「バターン死の行進」に拵えた事だ。

2年後に帰ってきたマッカーサーは、マニラに残る日本軍1万人に、4週間にわたる無差別攻撃を加え、市民10万人が爆撃の巻き添えで死ぬと、ロムロの出番が来た。

彼は米軍報道官として10万人の犠牲者は「本軍が住民を閉じ込めて火をかけ」「水牢に詰め込んで」殺した結果で、この中には「放り上げて銃剣で刺したキリノ(後のフィリピン大統領)の2歳の子供も含まれる」と語る。

迫真の蛮行は米軍がフィリピン人相手にやった行為だが、それは彼等にかつての恐怖を思い出させるには十分だった。そして、米軍に媚びて日本軍いじめに回った。東京裁判のフィリピン人判事は、A級戦犯全員死刑を主張した。

「娘を殺された」事に為っているキリノ大統領も、日本に破格の80億ドルの賠償金を要求し、日本が拒むとモンテンルパに繋がれた戦犯14人を一晩で吊るして、日本に脅しをかけた。

先日の朝日新聞に「赦しの文化に甘えて良いのか」と題するカルロスの嘘そのままの記事が載った。加えて15人目を吊るさなかったキリノを赦しの大統領と称えた。

「プーチンよ悪は米国に学べ」高山正之著より

◆アメリカが日本に対して犯した戦争犯罪 (人種蔑視に基づく残虐行為)

草莽崛起  2008/02/03

 昭和二十年(1945年)四月七日沖縄への海上特攻に赴いた戦艦大和をはじめ巡洋艦矢矧(やはぎ)など二隻、駆逐艦三隻が敵(アメリカ)の空襲を受けて沈没しました。 
「現場の海面で浮遊物につかまり漂流中の無抵抗な乗組員に対して、空母を飛び立ったアメリカ軍戦闘機の群が執拗に来襲しては情け容赦もなく機関銃を撃ちまくり殺戮した。」(矢矧の原艦長の証言) 

「この悲惨な状況をあざ笑うかのように、アメリカ軍機は何時間にもわたって、無抵抗の漂流者に執拗な機銃掃射を加え続けた。」(著書、「伊藤整一」、大和と運命を共にした第二艦隊司令長官) 

同様な残虐行為はニューギニア近海でもおこなわれました。昭和18年3月3日に起きたビスマルク海戦(空襲)の結果、陸軍の兵士を乗せた輸送船八隻と駆逐艦四隻が敵機の攻撃により沈められましたが、沈没した日本の艦船からボートや筏で逃れ、浮遊物につかまり漂流中の千名の兵士達に対して、アメリカとオーストラリア軍の飛行機が低空から機銃掃射をおこない、機関銃の弾を撃ち尽くすと基地に戻り弾を補給し、映画撮影のカメラマンまで乗せて何度も弾の補給に往復しては攻撃を続けました。 

「決して男らしいやり方ではなかった」と第五爆撃隊のある少佐は戦闘記録の中で報告していました。
「隊員の中には気分が悪くなる者もいた」。 
救命ボートやその周辺を文字どおり血の海に変えたその殺戮の様子を、機上から撮影した実写フィルムが十年ほど前にオーストラリアのテレビ局から放映されて、国民に大きなショックを与えました。「我々はフェアーな戦をしたと思っていたのに.....と」。(容赦なき戦い、ジョン・ダワー著) 

ちなみにハーグの陸戦条約第23条では、兵器を捨てた自衛手段を持たない漂流者に対する攻撃を禁止していました。 

アメリカ海兵隊兵士による蛮行

 ルーズベルト大統領の息子で海兵隊大尉のジェームズ・ルーズベルトも加わっていたカールソン襲撃隊は、戦死した日本兵の死体を切り刻み、男根と睾丸とを日本兵の口中に詰め込んだ。
太平洋戦争について熱心な研究者で著書もあり、またテレビの連続番組(戦線、Battle-Line)のプロデューサーであるシャーマン・グリンバーグが、二十年後にカールソン隊員の一人にその時の模様を(テレビで)詳細に語らせている。その隊員は戦友たちのやった蛮行を写真に撮っていた。 
(ジョセフ・ハリントン著の「ヤンキー・サムライ」から) 

(その二) マキン島へ救援に赴いた私(谷浦中尉)は、戦場で妙なことに気が付いた。どういうものか仰向けになった屍体が十五~六あり、しかもすべて下腹部を露出している。死後一週間経っていたため原形は完全に崩れていて、顔の穴という穴はすべて蛆で真っ白である。 どうしてこんな格好をしているのだろう。被弾して苦痛のあまり無意識にズボンをずり下げたのか?。アメリカ兵といえばキリスト教徒であり、日本人以上に文明人とみなされ、しかも選りすぐった精兵とこの種の蛮行を結びつけることなど、遺体収容作業に当たった誰一人として思いつく者はいなかった。 

戦後五十年経って意外な事実を知り、愕然とした。それはマキン襲撃の際に行われた海兵隊の蛮行を物語る、翻訳された出版物を読んだからである。 
(マキン、タラワの戦い、独立陸戦隊、中隊長谷浦英夫著) 
(その三) 作家上坂冬子の著書によれば、硫黄島の洞窟内から戦後米兵により持ち去られた日本兵の頭蓋骨は壱千個にもなる。彼等はそれでロウソク立て、灰皿やペン皿を作ったといわれ、また硫黄島で戦死した日本兵の頭蓋骨と称するものが、ロサンゼルスの骨董店で一個二十五ドルで売られていた。(硫黄島いまだ玉砕せず) 

(その四)、リンドバーグが見たもの 1927年(昭和二年)にチャールズ・リンドバーグはニューヨークからパリへ、史上初の大西洋横断、単独無着陸飛行に成功したが、この偉業は後に「翼よあれが、パリの灯(ひ)だ」の題名で映画化された。彼は1944年(昭和十九年)にニューギニアの米軍基地で陸軍将校として四ヶ月過ごしたが、その体験を日記に記して後に「第二次大戦日記上巻、下巻」として出版した。( この本は私が読んだ後に、どういう理由からか絶版になった ) 

それによると彼は戦場で見たものにショックをうけた。それは兵士が嬉々として敵を殺したからではなく、米兵が日本兵に対して抱く露骨な人種蔑視の念と、それに基づく残虐行為を目のあたりにしての苦悩であった。 
たとえ敵味方に別れて戦い軍服に違いがあるとしても、敵の人間としての勇気は勇気として、兵士の使命は使命として認めなければならないにもかかわらず、太平洋地域の連合軍の中には、そうした感情のカケラもないことを発見した。 

そこでは士官も兵士も日本人に対する人種差別、蔑視から自分達と同じ人間とは考えず、人間以下の単なる動物としか見ていなかった。 

1944年(昭和十九年)六月二十一日の日記には、日本人捕虜にタバコをやり、気がゆるんだところを後ろから押さえ、のどを「真一文字にかき切った」というのを、日本兵捕虜殺害の一例として教えてくれたある将軍との会話を要約している。
残虐行為に対するリンドバーグの異議は、嘲笑と「あわれみ」をもって軽くあしらわれた。 六月二十六日の彼の日記には日本兵捕虜の虐殺、およびパラシュート降下中の日本航空兵の射殺について述べている。
降伏し捕らえられた二千数百人という日本兵捕虜のうち、捕虜収容施設に引き渡されたのは僅か百人か二百人に過ぎなかった。残りの者たちは殺害されたが、事故に遭ったと報告された。 
「仲間が降伏したにもかかわらず機関銃で撃たれたという話が日本兵に広がれば、投降しようという者などまずいなくなるだろう」とリンドバーグは聞かされた。つまり黄色い猿に過ぎない捕虜を取り扱う、余分な手間や面倒がはぶけるという理由からであった。

七月十三日の日記では、「われわれの兵士たちは、日本人捕虜や降伏しようとする兵士を射殺することをなんとも思わない。彼等はジャップに対して、動物以下の関心しか示さない。こうした行為が大目にみられているのだ。」と記されていた。 

八月三十日にリンドバーグは、中部太平洋ギルバート諸島にあるタラワ環礁を訪ねた。そこでは日米の激戦が行われ米軍も甚大な死傷者が出たのだが、日記には、捕虜になった数少ない日本兵を一列に並べ、尋問に英語で答えられる者だけを残し、あとは全て殺させた海軍士官のことが出てくる。 
ある仲間のパイロットから直接聞いた話によれば、後ろ手に縛られた日本人捕虜達を輸送機に乗せて収容施設のある地域に輸送する際に、彼等を飛行中に突き落とす行為がおこなわれた。そして報告書には捕虜全員が自分から飛び降りたと記録された。(以上、第二次大戦日記、チャールズ・リンドバーグ著) 

ニューギニア戦線でのオーストラリア軍やマッカサー指揮下の第四十一師団は、「捕虜を取らない」つまり武器を捨て両手を上に挙げて降伏しようとする日本兵や、既に降伏した日本兵を殺するので有名だった。 

軍事歴史家デニス・ウォーナーは1982年に出版した日本の特攻隊に関する本の中で、ブーゲンビル島での自らの体験を紹介している。そこで彼は、投降しようとした日本の負傷兵を、オーストラリア軍の司令官が射殺するように命じるのを目撃する。 
「しかし彼等は傷つき、おまけに降伏を望んでいます」と、日本軍の大規模攻撃が失敗に終わったあとの戦場で、部下の大佐が司令官に反論した。 「私の言うことが聞こえただろう」と、両手を挙げた日本兵からわすか数ヤード離れただけの少将(司令官)は答えた。「捕虜はいらない。全員射殺してしまえ」。そして彼等は撃たれた。 

日本軍も負傷兵や捕虜に対する連合国側の殺害に関する情報をつかんでいて、戦時中の日本からの対米宣伝放送(東京ローズ)では、第四十一師団のことを「者、Slaughterer」と呼んでいた。 終戦直後ある米陸軍大尉が公表した記事には、第四十一師団、捕虜を取らずという堂々たる見出しが付けられていた。この師団が例外的に日本兵を捕虜にしたのは、軍事情報の収集のために捕虜が必要な場合だけであった。(容赦なき戦争、副題太平洋戦争における人種差別、カリフォルニア大学教授ジョン・ダワー著) 

アメリカ軍の日本の病院に対する爆撃

 昭和十九年(1944年)五月二十四日にブーゲンビル島ラバウル基地にあった第八海軍病院が、米軍機による攻撃を受けて、患者、看護婦、医師ら千四百名が死傷した。病院の屋根には国際法の定めに従い、上空からよく見えるように赤十字の標識を大きく塗装していたにもかかわらず、それを無視して病院の建物に対して爆撃や銃撃を加えるという国際法違反の非人道的攻撃をおこなった。 

日本兵の遺体を損壊する行為

 日本兵を自分達と同じ人間とは見なさない連合国兵士による、死体や死にかけた日本兵から金歯、耳、骨、頭皮、頭蓋骨などを収集し、戦果の証とする堕落した行為が広く行われていたことも、米国民の間で戦時中からよく知られていた。 日本軍との戦いを前にして武勇自慢をし合う若い兵士達の会話を、ジャーナリストのリチャード・トレガキスが記録している。「ジャップは金歯をたくさん入れているそうだが、それを頂いてネックレスでも作るかな」と一人が言う。「おれは奴らの耳を持って帰るよ」ともう一人が宣言する。「塩漬けにしてな」。(ガダルカナル日記、1942年) 

戦後出版された水兵の日記の1944年(昭和十九年)七月の記述に、すでに十七個の金歯を集めた海兵隊員がいて、その最後の金歯はサイパンで負傷してまだ手を動かしている日本兵の頬を、ナイフで切り裂きほじくり出して取ったものだ、と事もなげに述べられている。(容赦なき戦争、ジョン・ダワー著) 

太平洋の激戦地ペリリュー島および沖縄で、日本兵の死体から 手を切り取って戦果のトロフィーとする、金歯をあさる、死体の空いた口を目がけて小便をする、恐れおののく沖縄の老女を撃ち殺し、「みじめな生活から、解放してやっただけだ」 と気にも留めない海兵隊員の様子を目撃した。(E・スレッジ、生物学者、1981年に出版の回想録) 

(その五) フィリピンのラグナラ州カランバには日本兵を収容するルソン第一捕虜収容所があったが、ここはフィヒリピンにおける最大規模の収容所であった。米軍の発表によれば収容された捕虜のうち、戦争が既に終了した昭和二十年(1945年)末までに、栄養失調で死亡した日本兵捕虜は一万二千人にものぼった。 
もし日本側の捕虜収容所がこのような米兵の大量死を起こしていたら、原因や経過はどうであれ、B C 級戦犯裁判に掛けられて多数の責任者、兵隊が絞首刑になったことは間違いない。しかしここの米軍責任者は誰も罪を問われなかった。 
そこには「バターンの死の行進」に対する復讐の意図から、敗戦後も栄養失調状態であった多数の捕虜に対して必要な食糧補給をしなかったからである。(孤島の土となるとも、 B C 級裁判) 

(その六) ベトナム戦争においてもかなりの数のアメリカ軍兵士がベトナム人の頭蓋骨を収集していたが、アジア人がアメリカ人兵士の死体に対してこのようなことをすれば、アメリカではどんな反応が起きるかは、考えてみる価値があるだろう。 
(米英にとっての太平洋戦争、下巻) 

太平洋戦争中の米国による日本人に対する残虐行為は、人種差別に根ざすものだと英国人ジャーナリストのラッセル・スーパーは述べています。 
「アメリカ人は絶望的になっている敵国人を殺戮することに、気がとがめなかった。彼らは太平洋において人種戦争を常に派手に戦ってきた。新聞の大見出しになる種を探しているアメリカの高官連中は公然と、日本人を殺すことはシラミを殺すよりも悪いことではないと言明した。この残虐性は四ヶ月後に広島、長崎でその頂点に達することになる。」 (著書、戦艦大和の運命) 

http://homepage3.nifty.com/yoshihito/genbaku-1a.htm#zangyaku

◆アメリカ軍やオーストラリア軍の蛮行

沖縄本島には千二百隻の艦船に分乗する十七万人のアメリカ軍が来攻した。
わが軍と陸海空において、凄惨な血戦が繰りひろげられた。
―――――――
以下、マックス・ヘイスティングス著(イギリスの歴史作家)
「ネメシス 日本との戦い 1944―45年」
ハーパースプレス社、ロンドンからの引用
―――
一般住民がさまよう戦場では、身の毛がよだつようなことが起こった。
とくに沖縄戦がそうだった。 
クリス・ドナー(アメリカ軍兵士)は、こう記録している。 

地面に十五歳か、十六歳と思われる、少女の美しい死体が横たわっていた。
全裸でうつ伏せになって、両腕を大きく拡げていたが、
やはり両脚を開いて、膝から曲げてあがっていた。
仰向けると、少女の左乳房に銃弾が貫いていたが、
何回にもわたって強姦されていた。日本兵の仕業であるはずがなかった。

しばらく後に、ドナーの分隊の何人かが、
丘の上から敵によって狙撃されて、倒れた。 

その直後だった。赤児を抱きしめている日本女性に、遭遇した。 
兵たちが口々に、
「あのビッチ(女)を撃て! ジャップ・ウーマン(女)を殺せ!」
と、叫んだ。 

兵がいっせいに射撃した。
女は倒れたが、渾身の力を振りしぼって立ち上がると、
手離した赤児のほうへ、よろめきながら進んだ。 
兵たちは、さらに銃弾を浴びせた。女が動かなくなった。

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■オークラ出版「拉致と侵略の真実」『沖縄の受難史』恵隆之助
■小学館「沖縄論」小林よしのり(著)
■沖縄戦関係資料閲覧室 証言集
http://www.okinawa-sen.go.jp/testimony_data/shogen02-05/index.djvu

◆仲地文子さん

羽地でも、真喜屋あたりへ食糧を探しに行く途中で、
米兵に襲われた女性が何人かいた。
だから、米兵の目をごまかすために、女たちはわざと顔に鍋墨を塗り、
薄汚いなりをして歩いたものだった。
また、深夜に突然米兵が現れると
空き缶やバケツなどをガンガン叩いて追っ払ったものである。

◆山里宗富さん

戦前私の近所に照屋松助という頑丈な男がいた。
当時彼は家族と別れて一人で瀬底に避難していたが、
その日はたまたま健堅に戻って来て家族とともにウイバルにいた。
すこし体のぐあいが悪いということで寝ていたのである。
そこへ突然銃を持った二人の米兵が現れ、妻子に乱暴しようとした。
たまりかねた彼は起き上がってきて米兵の前に立ちはだかり、
『私も海軍にいたことがあるが、
君たちのように非道なことをしたことはない、ささっさと帰りたまえ』
と怒鳴りつけた。
言葉は通じなかったもののその場は何事もなく収まり、
米兵らはいったん引き上げたかに見えた。
ところが間もなく米兵らが戻って来て、彼をたたき起こし、
銃をつきつけて前へ歩くように明治、
前の原っぱに連れ出していきなり射殺したのであった。

◆末吉カメさん

普通の米兵はとくに悪いことをするようでもなかったので、
私達は安心していた。
ところがそのなかに、住民から鬼のようにこわがられている者がひとりいた。
やせっぽちのシビリアンと呼ばれていたが、彼はいつも銃を持ち歩き、
男という男はかたっぱしから捕まえてひっぱっていったし、
若い女性には乱暴をはたらくなど、非道のかぎりをつくしていた。
事実彼によって何人かの男たちが殺されてしまった。
そいつが村に入って来るのを見て、すばやく若い女性を逃がしたために、
原っぱに連れ出され、正座を命じられて射殺された男もいた。
米軍は寛容で親切だったなんてことはまったくなかったのです。
自決せず投降して助かった人が幸せだったとはいえないでしょう。
こうした米軍の蛮行を見て戦時中
「米軍は女性を陵辱し、男性は戦車でひき殺される」
というフレーズが思い出す人もおり、自決した友人達を羨んだといいます。

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【サイパン】米兵、婦女子らに残虐行為 
昭和19年7月9日、元陸軍大尉(独立混成第47旅団)の
田中徳裕(のりすけ)氏らが山の中腹の洞窟から眼下の
バナデル飛行場で繰り広げられた惨状を証言
『我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実』田中徳裕著(立風書房 昭和58年)
http://amzn.to/1czuIJ9

昭和19年6月15日午前8時45分、チランカノアの海岸に、
約3個師団と推測される敵兵が上陸してきた。
そこからサイパン島の陸上戦が始まった。

当時はサイパン島には砂糖工場があり日本人も居住していた、
民間人がいたことでかなり悲惨な結果になってしまった。

7月9日、このころには日本軍の組織的な抵抗は無くなり
掃討戦の様相をあらわしてきた。

敵は流ちょうな日本語でジャングル地帯に童謡を流し
投降を促す放送を流し始めた。
日本軍は組織的な抵抗は捨て、
洞窟に、数人、あるいは数十人ぐらいが生き残り潜んでいた。

米軍は日本人に対し、戦争が終わりサイパン島は米軍の手に落ちたこと、
隠れている日本人に投降を勧めました。
「投降すれば、立派な衣服や、美味しい食料も充分に与えます。
もはや犬死にすることはない、
今や死んでも花実は咲きません。みなさんの投降を待っています」

その後に、兎追いしかの山、と続く童謡を流し始めました。
これには潜んでいた日本軍も参ってしまった、
その後、桃太郎、天然の美、荒城の月などが流されたそうです。
「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出て来てください。」

投降を勧める放送は再三繰り返されたが日本軍は、
その放送を頭から否定した。むしろ敵愾心がわいてきたそうです。

投降呼び掛けの放送とはうらはらな、
人道上許し難い残虐な行為をしだした。
日本軍はバナデル飛行場を見下ろせる洞窟にいて、
その距離1キロ位先で展開された。

そこへ、三方から追い込まれた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。
幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。
婦女子が全員、素っ裸にされた。

そして、無理やりトラックに積み込まれた。
そして無理矢理積み込まれた順にトラックは走り出した。
婦女子全員が、トラックの上から
「殺して!」「殺して!」と絶叫している。 

その声がマッピ山にこだまし、
次つぎとトラックは走り出し、彼女たちの声は遠ざかっていた。
なんたることをするのだ、
小銃だけではどうすることもできず、此方の位置も知れてしまう。
この悲劇をただ見守るしかなかった。
(この婦女子はその後一人として生還しなかった)

婦女子が連れ去られたあと、
こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴があがった。
ガソリンがまかれ、火がつけられた。
飛び出してくる老人子供たち。
その悲鳴。

「米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい」
の投降勧告の意味は一体なんだったのか。

常夏の大空をこがさんばかりに燃え上る焔と黒煙。
幼い子供が泣き叫び、絶叫する。断末魔があがる。 
残虐な行為は凄絶をきわめた。

火から逃がれ出ようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、
ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ突き返す。
かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、
再び足で蹴り飛ばしたり、
銃で突き飛ばしては火の海へ投げ込んでいる。 

二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに
置き去られて泣いている赤ん坊を見つけ出し、
両足を持って、真二つに引き裂いて火の中へ投げ込んだ。
「ギャッ」という悲鳴。
人間がまるで蛙のように股さきにされ殺されてゆく。

彼らは、それをやっては大声で笑った。
無気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた。

http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-162.html

◆GHQが国際法を無視して行った占領政策

12月31日 1945年 - GHQが「修身・日本史および地理の授業停止と教科書回収に関する覚書」を提示。

戦勝国が敗戦国の憲法を作る事、新聞・雑誌・放送の検閲は勿論、相手国の歴史を消す事、書物の発禁、禁書も国際法上許されません。

しかし、アメリカは日本占領後新聞・雑誌・放送を検閲し、書物の発禁や禁書を行いました。

相手国の文化を踏みにじる行為は、絶対に許すことの出来ない蛮行です。しかし「自由と平和」を標榜するアメリカは平然と行いました。

昭和20年9月から占領期間中の新聞、雑誌、映画、放送内容、一切の刊行物が「検閲」されたのです。検閲の理由は、日本人にアメリカは正しく日本は悪だったと、日本人を洗脳させる為です。

アメリカは「言論の自由、信書の自由」を公に言っていました。しかし本当は一般市民の手紙でさえ検閲し、アメリカに対する批判は全てもみ消したのです。
日本人の中に「アメリカに自由をもらった」と勘違いしている人がいることは、アメリカが行った、徹底した焚書や検閲、
言論封鎖による操作が理由の一つでしょう。

アメリカのメリーランド州立大学に、長崎で被爆した14歳の石田雅子さんの手記、

「雅子斃れず」が保存されています。これは元々、雅子さんが、親類で回覧する家族新聞に被爆したときのことを書いた文章を、父・壽さんが本にまとめたものでした。

しかし、戦後間もない時期、出版物にはGHQの検閲があり、原爆に関することは特に厳しく制限されていました。検閲当局はこの本が「公共の安寧を害する」と、出版を禁止しました。

アメリカはアメリカが行った国際法違反の民間人大虐殺である原爆投下の書物も検閲し、言論封鎖したのです。

日本が降伏してからサンフランシスコ講和条約が発効されるまでの7年間、アメリカはウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付ける為の宣伝計画)と検閲による「思想」「言論統制」により日本を悪と仕立て上げたのです。

数百年間、白人国家が有色人種の国々を侵略し、搾取していた事実やそれを開放する為に日本が、白人国家と戦った史実は隠されたのです。

http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-5231.html

◆WGIP(ウォー.ギルト.インフォメーション.プログラム)

【祖国を批判する事こそが、正義である】

アメリカ本国がマッカーサー元帥に指令したことは、「日本が未来永劫、アメリカなどの白人国家、そして戦勝国となった中国や韓国に刃向かってこないよう、日本人の精神を徹底して破壊し、永続的な支配体制を確立する」―――これが、占領軍に与えられた役割だったのです。

『憲法』 も 『教育基本法』 もこの目的に沿って作られ、『官僚組織を温存』 し活用することで、日本国民を完璧にコントロール下に置き、『マスコミを飼い馴らす』 ことで、日本国民の意識をアメリカにとって都合の良いものに変え、『教育を支配』 することで、世界で唯一 「祖国を批判することが正義である」 などというとんでもない考え方を日本人に植え付けてしまったのです。

同時に、GHQは明治以降の歴史を改ざんすることで、「白人による植民地支配からのアジア解放」 を目指した 大東亜戦争 に対する罪悪感を日本人に植え付けるとともに、アメリカとの戦いを 「 日本国民 対 日本軍 」 との構図にすり替え、アメリカへの敵愾心を喪失させ、その敵意を旧日本軍 (特に世界有数の軍隊であった陸軍) に向けさせ、挙げ句の果てには、世界が賞賛していた日本人の高い精神文化の根幹をなす、日本古来からの大らかな宗教観 『神道』 を破壊するために、占領後も継続して巧妙な宣伝工作を続けたのです。

このウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムは、大東亜戦争終結後より、連合国軍最高司令官総司令部 (以下GHQと略記) による日本占領管理政策として、自由主義国家建設という名目の陰で、大東亜戦争の2倍の期間、7年もの長きに渡り秘密裏に行われ、日本人を骨抜きにする洗脳工作は、完全なる成功を見たのです。

昭和23年2月6日付、『 ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム 』 との表題の文書がCI&E (民間情報教育局) からG-2 (CIS・参謀第二部民間諜報局) 宛てに発せられた。 

冒頭に 「CIS局長と、CI&E局長、およびその代理者間の最近の会談にもとづき、民間情報教育局は、ここに同局が、日本人の心に国家の罪とその淵源に関する自覚を植えつける目的で、開始しかつこれまでに影響を及ぼして来た民間情報活動の概要を提出するものである」 とある。

ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムについて 江藤淳 (慶応義塾大学教授) は、その嚆矢である太平洋戦争史という宣伝文書を 「日本の 「軍国主義者」 と 「国民」 とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった 「軍国主義者」 と 「国民」 とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている」 と分析。

また、「もしこの架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で錯覚したふりをする日本人が出現すれば、CI&Eのウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラムは、一応所期の目的を達成したといってよい。 つまり、そのとき、日本における伝統的秩序破壊のための、永久革命の図式が成立する。 以後、日本人が大戦のために傾注した夥しいエネルギーは、『 二度と再び米国に向けられることなく 』、もっぱら軍国主義者と旧秩序の破壊に向けられるにちがいないとも指摘している。

また、「 「軍国主義者」 と 「国民」 の対立という架空の図式を導入することによって、「国民」 に対する 「罪」 を犯したのも、「現在および将来の日本の苦難と窮乏」 も、すべて 「軍国主義者」 の責任であって、米国には何らの責任もないという論理が成立可能になる。 大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、「軍国主義者」 が悪かったから起った災厄であって、実際に爆弾を落した米国人には少しも悪いところはない、ということになるのである 」 としている。

ウォーギルト・インフォメーション・プログラムは 「何を伝えさせるか」 という積極的な政策であり、検閲などのような 「何を伝えさせないか」 という消極的な政策と表裏一体の関係であり、後者の例として 「一切を日本国民に知らせることを厳禁とした」 プレスコードが代表的である。

昭和21年11月末には、すでに 「削除または掲載発行禁止の対象となるもの」 として 「SCAP-連合国最高司令官(司令部)に対する批判」 など30項目に及ぶ検閲指針がまとめられていたことが、米国立公文書館分室所在の資料によって明らかである。 プランゲ文庫保存のタイプコピーには、多少の違いがあるが同様の検閲指針として具体的内容が挙げられている。

同12月8日、GHQは新聞社に対し用紙を特配し、日本軍の残虐行為を強調した 「太平洋戰爭史」 を連載させた。

その前書は次の文言で始まる。

「 日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は、枚挙にいとまがないほどであるが、そのうち幾分かは既に公表されているものの、その多くは未だ白日の下に曝されておらず、時のたつに従って次々に動かすことの出来ぬ明瞭な資料によって発表されて行くことにならう。 ( 以下略 ) 」と、日本軍がいかに犯罪行為をしたのか印象的に残す手法を多用し、日本人の記憶に強く働きかけた。

それと平行し、GHQは翌9日からNHKのラジオを利用して 「眞相はかうだ」 の放送を開始した。

番組はその後、「眞相箱」 等へ名称や体裁や伝え方をより効果のある方向へと変えつつ続行された。

昭和23年以降、番組は民間情報教育局 (CIE) の指示によりキャンペーンを行うインフォメーション・アワーへと変った。 (※ 日本国民には、NHKが独自に作った番組の外貌をまとわせ、GHQが創作したことを極秘とした。:筆者注 )

昭和20年12月15日、GHQは、日本人の高い精神性を持ち得た根幹は、すべての宗教と共存できる日本独自の宗教観 『神道』 であると喝破し、ポツダム宣言に違反してでも壊滅に追い込むべく、「神道指令」 を発令した。

以後アメリカGHQは、日本国民に一切を隠した形で行わせた検閲によって、戦争の大義が明確化する 「大東亜戦争」 という文言を強制的に捨てさせ、アメリカとの戦争にすり替え大義を消滅させるべく 「太平洋戦争」 へと書換えさせ、言論を統制した。

終戦当時、米軍検閲官が日本国内で開封した私信(個人の郵便物)は、次のような 「内容の文言」 で埋めつくされていた。

「 突然のことなので驚いております。 政府がいくら最悪の事態になったといっても、聖戦完遂を誓った以上は犬死はしたくありません。 敵は人道主義、国際主義などと唱えていますが、日本人に対してしたあの所業はどうでしょうか。 数知れぬ戦争犠牲者のことを思ってほしいと思います。 憎しみを感じないわけにはいきません 」 (8月16日付)

「 大東亜戦争がみじめな結末を迎えたのは御承知の通りです。 通学の途中にも、他の場所でも、あの憎い米兵の姿を見かけなければならなくなりました。 今日の午後には、米兵が何人か学校の近くの床屋にはいっていました。/ 米兵は学校にもやって来て、教室を見まわって行きました。 何ていやな奴等でしょう!  ぼくたち子供ですら、怒りを感じます。 戦死した兵隊さんがこの光景を見たら、どんな気持がするでしょうか 」 (9月29日付)

江藤は、「 ここで注目すべきは、当時の日本人が戦争と敗戦の悲惨さをもたらしたのが、自らの 「邪悪」 さとは考えていなかったという事実である。 「 数知れぬ戦争犠牲者は、日本の 『邪悪』 さの故に生れたのではなく、 「敵」、つまり米軍の殺戮と破壊の結果生れたのである。 「憎しみ」 を感ずべき相手は日本政府や日本軍であるよりは、先ずもって当の殺戮者、破壊者でなくてはならない。 当時の日本人は、ごく順当にこう考えていた。」 と指摘した。

GHQ文書(月報)には敗戦直後の様子が記されていた。

「 占領軍が東京入りしたとき、日本人の間に戦争に対して贖罪意識は全くといっていいほど存在しなかった。 (中略) 日本の敗北は単に産業と科学の劣性と原爆のゆえであるという信念が行き渡っていた 」

こうした日本人の国民感情はその後もしばらく続き、CIEの文書はG-2(CIS)隷下の民間検閲支隊 (CCD) の情報によれば昭和23年になっても 「依然として日本人の心に、占領者の望むようなかたちで 『ウォー・ギルト』 が定着してなかった」 有力な証拠である。

また、この 「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」 が以後、正確に東京裁判などの節目々々の時期に合わせて展開していった事実は看過できないとも江藤は指摘する。

東京裁判で東條英機による陳述があったその2ヶ月後、民間情報教育局 (CIE) は世論の動向に関して次のような分析を行っている。

「 一部日本人の中には (中略) 東條は確信を持って主張した、彼の勇気を日本国民は称賛すべきだとする感情が高まっている。 これは、東條を処刑する段になると東條の殉教といふところまで拡大する恐れがある 」

「 広島における原子爆弾の使用を 『残虐行為』 と見做す・・・最近の傾向 」 (昭和23年3月3日、CIE局長宛覚書) 

こうした国民の機運の醸成に対しCIE局長は6月19日、民間諜報局 (CIS) の同意を得た上で、プログラムに第3段階を加える手筈を整え、情報宣伝に於ける対抗処置を取った・・・・・

( 『閉された言語空間』 (『文藝春秋・平成元年』より引用。 )


【太平洋戦争史】
昭和20年(1945)12月8~17日の間、日本のすべての日刊新聞は「太平洋戦争史」なる捏造した歴史を毎日掲載させられた。わざわざ開戦の12月8日を選んで全国紙に、一斉に連載を開始させたのだ。この史観のベースとしたのはアメリカの戦時プロパガンダの歴史編集文書「平和と戦争」である。

【平和と戦争】
この歴史の見方が今日本の歴史教科書で教えている「太平洋戦争」の根本に横たわっている。この歴史観というのが、米英の民主主義と日独伊の全体主義、この正義と邪悪の戦争が第二次世界大戦だったという噴飯もの。朝日新聞をはじめとする反日マスコミはいまだにこの歴史観を叫び続けている。

また「太平洋戦争史」では、「南京大虐殺」と「マニラの虐殺」を挙げて、日本軍の悪逆非道を強調した。これによって、それまで「皇軍」だといってきた、あるいは「動議の戦いには負けていない」と考えていた日本人に明らかに道義がないことを刷り込もうとした。

【真相はかうだ】
「太平洋戦争史」をドラマ化したもの。これを昭和20年12月9日~昭和21年2月にかけて、約2ヶ月間、日曜午後のゴールデンアワーにNHK第1、第2で放送され、再び続いて再放送された。この「真相はかうだ」は「真相箱」、さらに「質問箱」と名称を変えて、同種の番組は昭和23年8月まで約3年間続けられる。

【インフォメーション・アワー】
昭和23年1月から毎週「新しい農村」などを放送。

【宣伝映画】
日本の戦争犯罪を告発する宣伝映画が9本もつくられた。「犯罪者は誰か」(大映)、「喜劇は終わりぬ」(松竹)、「わが青春に悔いなし」(東宝)などである。表面は日本人が自主的に作ったように見せかけながら日本人に罪悪感を植えつけようとした。その観客動員は延べ3000万人にも達した。

上記の内容はどれも似たり寄ったりで、次のようなことが延々と教えられた。

大本営は嘘ばっかりで日本国民は軍部に欺かれて侵略戦争に誘導された。日本は戦争中にこんな残酷なことをした。原爆投下は予告を日本の指導者が無視したから落とされた。日本を救うため、100万のアメリカ兵を救うためアメリカは原爆を落とした。広島と長崎は軍事都市だったから原爆投下の目標にされた。

日本国民は過ちを反省すべきである。
日本は悪い国で。
好戦的で。
愚かで。

アメリカの平和への努力を認めないまま戦争に突っ走っていった
ポイントは何かというと、敵はアメリカではない。敵は軍人だ。あなた方の中にいる日本人なのだ。一部の軍国主義者と政治家が侵略戦争に国民を駆り立てたのだ、ということである。

今日、反日日本人が主張している内容とまったく同じである。連中の主張はウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの意図に忠実であった。これらプロパガンダが巧妙だったのは、全部が虚偽ではなく、真実の中に虚偽を混ぜていたことである。戦争に負けていたので体験者は真実を言うことができず、マスコミ、政治家、役人は保身のためGHQに逆らうことはしなかった。

戦後60年経ってもまだマインドコントロールが解けずに、「日本は侵略した」「日本が悪かった」と思い込んでいる日本人が多数いるのはご存知の通り。

この時期に読売新聞は「恥ずべき南京大悪暴行沙汰」なる記事を載せたが、これが虚構の「南京大虐殺」の初出であった。

チェコ出身の作家ミラン・クンデラは次のように語っている。

「一国の人々を抹殺するための最初の段階は、その記憶を失わせることである。その国民の図書、その文化、その歴史を消し去った上で、誰かに新しい本を書かせ、新しい文化をつくらせて新しい歴史を発明することだ。そうすれば間もなく、その国民は、国の現状についてもその過去についても忘れ始めることになるだろう」

まさしくGHQが日本に行なったのはこのことである。

https://www.facebook.com/DaRiBenHuangGuo/posts/448702155230051:0

                       目覚めよ日本!


歴史を忠実に残せばどうなるのか①

2014-10-27 11:26:42 | 資料

原爆投下(一)

1:犠牲者の数 

原爆による死傷者の数については種々の データがあるものの、これまで正確な数は不明でした。昭和 51 年 ( 1976 年 ) に広島市が国連に提出した資料によると、投下直後の推定死者の数は 14 万人 プラス、マイナス 1 万人 となっていました。
また広島県警察本部が昭和 20 年 ( 1945 年 )11 月 30 日に県内各警察署に調査を命じ、12 月中旬にまとめた数によれば、 死者 78,150 、重傷者 9,428 、軽傷 27,997 、行方不明 13,983 、罹災者 17,6987、合計 306,545 でした。

平成 2 年 ( 1990 年 )5 月 16 日の各新聞は、一面 トップで厚生省が実施した原爆死没者の実態調査結果を報道しました。それに依れば当時の広島市の人口 296,000 人のうち、原爆による死没者は 201,990 人 でした。

これは被爆直後に広島に入った海軍の調査団による、 死者約 20 万人 という被害推計とほぼ 一致していました。

原爆死没者の数え方の矛盾

平成 14 年 8 月 6 日には過去 1 年間に死亡したか、又は死亡が確認された 4,977 人 の名簿が新たに原爆慰霊碑に納められましたが、原爆死没者の合計は 226,870 人になるそうです。
しかしその人達が被爆後数年ない 10 数年以内に死亡したのであれば原爆死没者として扱うことに納得できますが、被爆後 57 年間 も生き続けた人が原爆死没者つまり、被爆を原因とする死者として数えられることに私は大きな疑問を持ちます。

現在被爆者の平均年齢は 71 才 で、14 才の時に被爆したことになりますが、被爆者 ( 健康 ) 手帳を持っている人が、仮に 百 才まで生きた としても、死後は 原爆死没者 に数えられるという非常に矛盾した制度なのです。

寿命の差について

被爆しようと、しまいと ガン は昭和 54 年以来、脳卒中を抜いて常に日本人の死亡原因の 第 1 位 になっています。過去数十年間の原爆死没者と称する人のほとんどは、 寿命が尽きたことによる自然死 ( 病死 )として扱うべきなのです。
さらに外国からもこれまで指摘され続けてきた被爆者と、それ以外の者との死亡率 ( 寿命 )の違いも明白にすべきであると考えます。広島市や国の関係機関がそれを公表しない理由は、戦後の 一時期を除き何十年間も 両者に差が見られないからである 、との憶測を呼んでいます。

そのうえ現在も、被爆者健康手帳の申請があとを絶たないという事実があります。被爆当時広島市内とその近郊の村に住んでいたか、投下後 2 週間以内に爆心地から 4 キロ以内に救護活動、親族探しのため立ち入ったという事実があれば、被爆者健康手帳が貰え医療費が全額無料になります。

更に ガン などの病気や治癒率低下の原因が原爆の放射線であって(?)、( 戦後 57 年間治療を続けたという意味ではなく )、現在も治療中であり原爆症と認定されると、 毎月 14 万円 を超える医療特別手当が、死ぬまで 年金とは別に支給されるからです 。

その認定患者数は厚生労働省によると全国では現在でも 2,200 人 です。戦後 57 年も経つというのに、平成 14 年 7 月には 8 都道府県の 76 名 が、新たに被爆者健康手帳の申請をしました。人間の金銭欲には、限りがない証拠です。

2:降伏間近の戦況

昭和 20 年 ( 1945 年 ) 当時の日本は 3 月に硫黄島が占領され、米軍が硫黄島の飛行場から出撃する事により、制海権、制空権を失った日本は連日 B-29 長距離爆撃機及び、空母艦載機による空襲や、敵艦隊からの艦砲射撃を受けるようになりました。
既に石油などの軍需物資の備蓄を使い果たし、昭和 20 年 4 月に沖縄特攻に赴いた戦艦大和の出撃以後は軍艦を動かす燃料も底を尽き、飛行機もほとんど飛べず、軍需工場は破壊され、多くの都市は灰燼に帰し、食糧も底を尽き、すでに近代戦を戦うのに必要な産業基盤や生産能力を失い、降伏間近な状態にありました。

6 月には沖縄をめぐる攻防戦も終了し、ブラッドレー 米国統合参謀本部議長が昭和 20 年 ( 1945 年 ) の 7 月に提出した報告書によれば、

日本は既に事実上敗北しており 、降伏 を準備している
とありました。日本政府がソ連を通じてひそかに和平 ( 降伏 ) 交渉の意志表示をしていることを、アメリカは知っていたのです。スチムソン陸軍長官によれば
1945 年 ( 昭和 20 年 ) 7 月の時点で、すでに日本の海軍、空軍兵力は 事実上存在しない 。残っているのは進攻艦隊に、こうるさく抵抗する程度の戦力である
と述べていました。
敗戦の年 ( 昭和 20 年、1945 年 ) の 9 月に日本を調査に訪れた、前述の ニッツ率いる米国戦略爆撃調査団も、
たとえ原爆が 投下されなかった としても、ソ連が参戦しなかったとしても、本土上陸作戦が行われなくても、日本は非常に高い確率で九州上陸作戦の決行予定日である昭和 20 年 ( 1945 年 ) 11 月 1 日までに、遅くとも同年 12 月 31 日までには 確実に降伏したであろう

という最終報告書を、翌年 ( 昭和 21 年、1946 年 ) 7 月に トルーマン ( 当時 ) 大統領に提出しています。 U.S Strategic Bombing Surbey,Summary Report ( Pacific War ) ,1946、の 26 頁参照

敗戦の年の 10 月中旬に大統領特使として日本を訪れた エドウイン ・ ロックは トルーマン大統領宛の報告書の中で、

今東京にいる米軍将兵たちは、日本があれだけの抵抗ができたことに驚いている。経済的な混乱があまりにひどいのを見て、原爆が敗戦を早めたといってもそれは ほんの数日であり 、実は日本人は戦争から抜け出すために原爆を口実に利用した、と述べた アメリカ人もいるほどである。
と述べていました。
空母機動部隊の指揮官として戦艦武蔵を沈めるなど日本海軍を敗北に導いた ハルゼー提督は、公の席上で

最初の原爆 ( ネバダ州における実験 ) は不必要な実験だった。( 広島、長崎への ) 投下は間違いだった。このような武器を、不必要なときになぜ世界に公開したのか?。原爆は多数の ジャップ を殺した。しかし ジャップはかなり前から ロシアを通じて和平の打診をしていた
と発言しました。

3:原爆投下の理由

アメリカ国立公文書館の資料によれば、
米国政府は原爆完成の 2 年前の 昭和 18 年 ( 1943 年 )5 月 には、日本に対する原爆使用を決めていました。しかし ドイツに対する使用方針を示す記録は存在しません。
昭和 20 年 ( 1945 年 ) 初めから対日投下準備に入り、敗戦間際の日本政府の降伏の動きや、原爆投下に関する事前の警告論は無視され、皇居も投下目標の 一つとして検討されました。
マッカーサーは 「 日本上陸作戦 ( オリンピック作戦 ) を実施した場合も、沖縄戦のような大きな人的損害 ( 米側死傷者 42,000 名 ) が出るとは考えていない 」、とする報告書を国防総省に提出しました。
では日本が降伏間近であることを承知しながら、なぜ米国は原爆を投下したのでしょうか?。

それは以下に述べる理由からですが、当時の金額で 20 億 ドル ( 7 千 2 百億円 ) という巨費を投じて作った原爆で、ニューメキシコ州にある原爆実験場であった トリニテイーサイト の砂漠の砂を、昭和 20 年 ( 1945 年 )7 月 15 日の第 1 回原爆実験に続き、2 度目、3 度目の実験で空中高く無駄に吹き飛ばすよりも、日本の人口密集都市に投下して、そのすさまじい 破壊力を直接人体で実験し、確認するため でもありました。

[ 対 ソ連戦略上の理由から ]

原爆投下は米国にとって第 2次大戦後の国際政治情勢を視野に入れた、ソ連への軍事的優位性を示す為の デモンストレーションであり、核兵器という新しい兵器の実験に過ぎなかったのです。
歴史学者である マーチン ・ シャーマンは

原爆は予期される戦後の対立において、ソ連を打ち負かす最大の切り札であった。 ( 著書、破滅への道、原爆と第 2 次大戦 )
と述べています。 歴史学者 バーンスタインの分析によれば、
 ソ連を威嚇すること が根本理由であり、ソ連の影響力が日本、満州 ( 中国東北部 )、朝鮮、中国に及ぶことを阻止するために、ソ連が アジアでの戦争に全面的に参加する以前に、核兵器の使用によって日本を降伏させる戦術をとった。
としています。
 つまり原爆は日本に対してではなく、 ソ連 ( 当時 )に対する威力誇示 のために使用したのでした。さらに付け加えれば投下した最大の理由は、 日本からの原爆による報復攻撃を受ける可能性が ゼロ だからでした。

4:有色人種に対する蔑視、偏見から

ルーズベルト大統領 ( 当時 ) の主席補佐官 ウイリアム ・ レーヒー提督は、開戦後間もない昭和 17 年 ( 1942 年 ) 1 月に出した覚え書きの中で

日本の野蛮人 と戦う際は、かつて戦争 ルール として認められていたことを全て放棄しなければならい。
という当時米国内で言われていた言葉を引用しました。
[ 原爆投下 決断の理由 ]

トルーマン米大統領は ポツダムにおける対日戦争終結のための会議に出席中に原爆実験成功を知り、それを日本に対して使用することを直ちに決断しましたが、その際の日記に
このことは遺憾であるが必要なことなのだ。なぜなら 日本人は野蛮人であり、無慈悲、残酷、狂信的だから
と記していました。相手を野蛮人と見なせば、又そういう理由にすれば何をしても許されるという、人種差別、蔑視、偏見に基づく 一方的な考え方でした。
1927 年に大西洋単独無着陸横断飛行をした リンドバーグの 「 第 2 次世界大戦日記 」 によれば、

我々には勇敢な行為であっても、彼ら ( 日本兵 ) がそれを示すと 狂信的な行為 ということになる。我々は声を限りに彼らの残虐行為をいちいち数え立てるが、その 一方で 自らの残虐行為 を包み隠し、ただ単なる報復措置として 大目に見ようとする 。
と述べていました。

[ 投下の言い訳 ]

戦争終了後に トルーマン大統領は原爆投下により、非戦闘員を大量虐殺した倫理性を問われて次ぎのように答えました。
日本上陸作戦で失われる 百 万人以上の米軍の犠牲を回避し、戦争を早期に終結させるためであった。
しかし前述の マッカーサー報告書の 「 オリンピック作戦では、沖縄戦以上の損害は出ない 」 とする予想とは大きく食い違っていました。 「 戦争を終わらせる 」 とは美しい言葉に聞こえますが、その実態とは敵に勝つことです。
敵に勝つために 作りたての原爆 ではなく、 同じ理論からすれば 米国が以前から多数所有していた 毒 ガス を使用しても良いことになります。米国は日本の 200 以上もの都市 を空襲しましたが、その際に 「 毒 ガス 」 を使用していたらもっと早期に戦争が終わったはずでした。なぜそうしなかったのかは、第 1 次大戦の際に ヨーロッパ戦線で 「 毒ガス 」 による死者が多数出たため、「 毒 ガスの使用 」は「大量殺人兵器の使用を禁止する」戦争法規に違反し、ヨーロッパ諸国の不評を買うからでした。

「 原爆 」 は大量殺人兵器として 「 毒 ガス 」よりも瞬時に焼き殺す為に、 より人道的な兵器 であるとでもいうのでしょうか ?。実は当時の金で 20 億 ドル( 敗戦後の為替相場で換算すると、7,200 億円 )もの巨費を投じて作り上げた原爆を、日本が降伏する以前に、人間以下とみなされていた 有色人種に試したかった からでした。

( その 1 )
東京裁判の際に オランダの代表判事をつとめた レーリンク ( 後述 )によれば、アメリカが日本に原爆を投下した理由について

ナチス ・ ドイツが ユダヤ人を人間として扱わなかったように 、 米国も 日本人を人間として扱わなかったからだ
さらに 連合国の国民 ( 白人 ) は有色人種を、昔から 人間以下とみなすように教育されてきた 。

有色人種である 日本人 は人間以下の ( 黄色い猿 ) であると、トルーマン大統領をはじめ政府、軍の高官、科学責任者が思っていたからこそ、広島、長崎で 数十万人を 一瞬にして 焼き殺す ことができたのだ---しかも 2 度までも。

と述べています。

( その 2 )
原爆開発を担当していた ロスアラモス研究所から原爆投下作戦を指揮するために、原爆搭載機の発進基地であった テニアン島に呼び寄せられた ウイリアム ・ パーソンズ大佐も、投下後の記者の インタービューに答えて、

ジャップがひどい目に遭うことについて、 特別な感情はなかった
と語っていました。
つまり相手を 自分と同じ人間であるとは全く思っていなかったので、 10 万人~20 万人 の人達を残虐な方法で 一度に焼き殺しても、可哀想だとか罪の意識を全く感じなかったのでした。教育の無い連中ならばともかく、ある程度の教育をうけていながら、当時の政府指導者を含む アメリカ人 ( 白人 )は有色人種に対して、これほどまでの蔑視、差別感情、思い上がりをしていたのでした。

( その 3 )
当時の アメリカの雑誌 タイムの記事によると、

普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、 人間であることを示すような点はどこにもない
とありました。

( その 4 )
第 2 次大戦開始直後から、米国政府は国内に住んでいた 11 万人 を越す日系 アメリカ人を内陸部に設けた 10 ヶ所の強制収容所に収容しましたが、彼等の 三分の 二 は米国生まれの米国育ちで、もちろん 市民権を持つ 者達でした。

同じ敵国でありながら、ドイツ系 アメリカ人、イタリア系 アメリカ人に対しては強制収容の対象としませんでした。これは米国の先住民である インデアンに対して彼等の持つ土地を収奪するため、人里離れた場所に インデアン居留地 ( リザベーション ) を作り 強制隔離した政策 同様、長年の有色人種に対する蔑視、差別政策の延長線上から取られた措置でした。

( その 5 )
駐日 アメリカ大使だった ライシャワー博士の妻 ハル夫人の自叙伝によると、昭和 36 年 ( 1961 年 )に シンガポールを訪れた際に、当時 シンガポールで最も格式の高い ラッフルズホテルに宿泊しようとしたところ、 ホテル側から白人である博士の宿泊はよいが、 日本人である ハル夫人の宿泊は ダメだと断られた ので博士が猛烈に抗議をしたとありました。

戦後 16 年も経ったその当時でさえも、戦前から続く イギリス人の有色人種に対する蔑視、人種差別 はそれ程ひどかったのです。ヨーロッパや米国の 一流 ホテルや レストランでは、その当時たとえ予約をしても チェックインの際に、満室あるいは予約を受けていない等を口実にして、如何に社会的地位が高く、立派な人物でも有色人種である限り宿泊、飲食は断わられるのが普通でした。

( その 6 )
その当時第 3 代目の国連事務総長 ( 1962~1971 年在職 )に選ばれ、ベトナム戦争、中東問題などの重要問題に臨んで国連の威信を高めた、ビルマ人外交官の ウ ・ タント 氏 ( U Thant 、1909~1974 年 ) も人種差別を受けた被害者の 1 人でした。

ある国の国連大使が ニューヨークにある超高級 ホテル ( ウオルドルフ ・ アストリア ・ タワーズ ) で パーテイーを催した際に、ウ ・ タント事務総長が招待状をもらい出席しようとしたところ、ホテル側が 有色人種を理由に彼の入館を 拒否した のでした。

この事件に対して米国政府に抗議の書簡を送ったのに対して、自由、平等を標榜する米国は、ホテルの態度には遺憾に思うが、私企業である ホテルや レストランの運営方針については、政府の権限が及ばない旨の回答を寄せただけでした。( ウ ・ タント回想録 )

( その 7 )
アメリカの唱える自由とは 白人だけの自由 であり、同じく平等とは 白人の間だけの平等 でした。バブティスト派の青年牧師であった マーチン ・ ルーサー ・ キング ( Martin Luther King Jr. ) 牧師 ( 黒人 ) が公民権運動に立ち上がるきっかけとなったのは、選挙権をはじめ長年にわたる黒人に対するすさまじい法律上の人種差別を、 奴隷の子孫 に対する当然の処遇である として、容認してきた米国政府の人種差別政策に反対するためでした。しかし彼は 1968 年 ( 昭和 43 年 ) に、人種差別主義者によって演説中に銃で暗殺されました。

( その 8 )
私自身昭和 32 年 ( 1957 年 )から 2 年間米国の海軍飛行学校に留学し、南部の フロリダ、アラバマ、テキサス州で飛行訓練を受けましたが、その当時鉄道の車内や待合室は勿論、グレイハウンドの長距離 バスの待合室、トイレ、海水浴場の砂浜に至るまで 公共の全ての場所 は、 白人用の、White Only と 黒人 ( 有色人種 ) 用の、 Colored Only とに区別の表示がされ、厳格に分離されていました。

欲望という名の電車 ( The car named desire ) という映画の舞台にもなった、Deep South ( 南部の中の南部 ) といわれる人種差別の強い ルイジアナ州にある ニューオルリンズの市内電車の車内は、前方が白人席で後方が黒人 ( 有色人種 ) 席に分けられていました。その境界には木製の仕切り板があって、両人種の乗客の混雑具合によってその仕切り板を車掌が前後に移動し、スペースを調節することで、 白人黒人分離の原則 を貫いていました。

ローザ・パークス 

バスでは黒人が後方に座り、前方から座る白人の中に立つ客があった場合は、 黒人は白人と一緒に 二人掛けの座席には座ることができず 、誰にいわれなくても立って 白人に席を譲るのが南部社会での 常識 でした。 バス車内の掲示 COLORED SEAT FROM REAR ( 有色人種は後方に座れ ) に注目。

ところがある日、そうしなかった黒人女性が現れましたが、N A A C P ( The National Association for the Advancement of Colored People 、全国黒人向上協会 ) の書記を勤める 42 才の ローザ ・ パークス ( Rosa Parks ) でした。1955 年 ( 昭和 30 年 ) 12 月 1 日の夕方、アラバマ州の州都 モンゴメリーで、バスの中で白人に席を譲らなかったという理由で彼女は警官に逮捕されました。

この事件が契機となり長く全米を揺り動かす黒人による、バス ・ ボイコット運動に発展しました。その結果 1956 年 ( 昭和 31 年 ) 12 月に連邦最高裁から バス会社に対して、 車内での人種隔離禁止命令 が出されて、黒人側の勝利に終わりました。

黒人用水飲み 

しかしその当時、黒人 ( Colored ) は大学を卒業しても知的職業からは閉め出され、肉体労働しか与えられず、黒人の失業率も高く、環境の悪い黒人専用居住地区に住み、黒人専用の レストラン、床屋、商店、教会などを利用していましたが、それが敗戦 ( 1945 年 ) 後の日本人に 自由と平等の国 と教え込まれた アメリカの真の姿でした 。

写真は水飲み場 の様子ですが、白人用 ( WHITE ) には冷水器が設備されていて冷水が飲めるものの、黒人用 ( COLORED ) のものは単なる水道管に直結されたものでしたが、これを見れば有色人種に対する厳しい人種差別の実態がよく分かります。

http://homepage3.nifty.com/yoshihito/genbaku-1.htm

( その 9 )
ジャマイカ移民の子 ( 黒人 )として ニューヨークの貧民街で生まれ、市立大学の夜間部を卒業して軍隊に入り、1990 年の湾岸戦争当時 アメリカ軍人の トップに昇進して統合参謀本部議長を勤め、現在は国務長官である コリン ・ パウエル によれば、1960 年 ( 昭和 35 年 ) 代の人種差別について
軍隊は以前よりも民主的になっていたが、一歩兵舎の外に出ると古い南部の世界に逆戻りした。 ジョージア州 コロンバスにある ウール ワース ( Woolworths ) の スーパーマーケット に行けば欲しい物は何でも買えたが、 有色人種が白人の食堂で何かを食べることは出来なかった 。
ベトナム戦争から帰国した私は、アラバマ州にある フェニックス ・ シティの ハンバーガー ・ ショップで 入店を断られた 。陸軍将校であったにもかかわらず、警察官には 「 小僧 」と呼ばれ、「 町から出ていけ 」とまで言われた。

デパートでは商品を買うことができたが、そこには 有色人種専用の トイレは無く、 黒人は白人専用の トイレを使えなかった 。

繁華街の通りを歩くことはできても、有色人種の男性は白人女性の顔を見るのは御法度だった。教会も遠くにある 黒人専用の教会 にしか行けなかった。

車で旅行する時にはどこの ガソリン ・ スタンドでも白人専用 トイレだけで、われわれ ( 有色人種 )が使用できる トイレが無かった。やむなく道端に車を停めて、木陰で用を足したこともあった。( 自伝、コリン ・ パウエルより )

( その 10 )
アメリカ人が ドイツ人を憎むには、彼等のしたことを学ばなければならないが、 ジャップに対しては 憎しみが自然と湧いてくる 。これはかつて インディアン達と戦った時と同様に、自然な感情だ。( ライフ誌の記事より )

( その 11 )、フランスの人種差別
人種差別は米国だけではありません。血筋、家柄、貧富による社会的階級が今もなお厳然と存在する ヨーロッパにおいて、英国や オランダに比べて人種差別が少ないといわれている フランスでさえも、有色人種に対する差別がおこなわれています。

パリの観光をする日本人もよく利用する セーヌ川の観光遊覧船 バトー ・ ムッシュの ディナー ・ クルーズでは、日本人などの有色人種の客を入り口近くの 「 良くない席 」 に座らせ、白人客は奥の席に案内されます。パリの 四つ星 ホテルなどでは、ホテルの 「 格式を保つ 」 という理由から有色人種の国からの客を、予約の段階で極力制限するのだそうです。
オテル ( ホテル ) ・ ニッコー ( 日航 )ド ・ パリのような日系の ホテルでさえも、日本人客に対する従業員の冷淡な対応 ( 注:1参照 ) から、日本人客を敬遠する営業姿勢が感じられます。

三つ星 レストランでは有色人種の客 ( 日本人が大部分 ) が増えると、店の上品な雰囲気が失われてしまい、 店の格式が下がる のを恐れて日本人の予約を断る店もあります。それ以外の レストランでも通りから見える窓際の良い席や店内の目立つ場所に、有色人種の客を座らせないのは レストランにとって昔からの常識です。

ホテルの フロント係りが部屋を割り当てる際に、同 一料金でも環境の悪い部屋を有色人種に割り当てるなどの行為はよく見うけられますが、日本人は差別に気が付かないか、あるいは気が付いても言葉の障碍から、ホテルの部屋や レストランでの席の変更要求を言わずにいるのが実状です。

フランス語や英語が話せない客 ( 多くの場合非 ヨーロッパ系 )は、「 ここはお前にとってお門違いの場所だ 」 と、一流 レストランや ホテルの従業員からも態度で バカにされます。

注:1)
日本航空が経営する パリの ホテルでのこと、ある日本人旅行者が胸の名札を見て日本人の フロント係りに日本語で尋ねたところ、その男は フランス語で返事をしたそうです。君は日本人なのになぜ日本語で返事をしないのかと文句を言ったところ、 日系の ホテルにもかかわらず フランス語か英語を使うように、上司から指示されている との返事でした。
キリスト教も人種差別に一役

キリスト教の教義に依れば神が自分の姿に似せて人間を作ったとされますが、肌の色が白い白人は、より神に近い存在なのだそうです。それに対して、黒人とは神が奴隷として作り、白人に賜ったものだと考えられていました。

注:)旧約聖書
白人達は神も人種差別を認めているとして、旧約聖書の創世記、9 章の 21 節~27 節を根拠に主張しました。

「 カナン は呪われよ。彼はしもべの下僕 ( しもべ )となって、その兄弟たちに仕える。」また言った。「 セムの神、主はほほえむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。神は ヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ。」
白人聖書学者の解釈によると、セムは イスラエル人の祖、ヤテベは ヨーロッパ人の祖、 ハム は アフリカ系人種の祖となったのだそうです。品性下劣だとして ノアはその子 ハム を嫌いました。 ハムの子 カナン は神のしもべ ( 人間 )の下僕となれとノアは宣告しました。
白人牧師たちは黒人を カナン に見立てて黒人は下僕に生まれついた人間であり、白人は生まれながらにして彼等の主人であると説きました。そして白人達は子供の頃から、親や学校、教会、社会から

有色人種 ( 黒人、黄色人種 ) とは神の創造物の 一つではあるが、人類的尺度から見れば白人よりも かなり下等な生き物 ( Sub Human ) である。故に彼等にはそれに ふさわしい扱い をすべきである
という人種差別肯定説を教わっていたのです。

注:)ジョン万次郎
漂流記で有名な土佐中浜出身の万次郎は 1841 年に 14 才で漁船に乗組み土佐を出航しましたが、嵐に遭い遭難して八丈島の南にある無人島の鳥島に漂着しました。幸運にも アメリカの捕鯨船に助けられて米国に行き、ホイットフィールド船長の好意で家に寄宿させてもらい、学校にも通わせてもらいました。
船長が万次郎を連れて近くの ユニオン派教会に行ったところ、人種的偏見から万次郎の受け入れを教会が拒否しました。そこで船長は万次郎の受け入れを認めてくれる ユニテリアン 派教会に、止むなく所属を変更したという出来事がありました。

その当時から有色人種に対する蔑視、偏見は、 教会を含めて 白人社会に広く行き渡っていました。
米国では 1960 年代に始まった キング牧師などの人種差別撤廃運動、公民権運動の結果から、公共の施設における人種差別を禁止するという公民権法の施行により、 表面的な人種差別 は廃止されたものの、 肌の色や人種に基づく偏見と差別は 、 現在も白人社会の中で依然として根強く残っています。

5:人種蔑視に基づく残虐行為

日本軍のおこなった残虐行為については東京裁判以来耳に タコができるほど聞かされてきましたが、それに対して連合国側の将兵は、戦場において国際法を遵守し立派な行動をとってきたのでしょうか?、決してそうではありません。 彼等は有色人種に対する 蔑視から 、日本兵以上に 残虐行為をしてきた のです。それゆえ以下の事実をしっかりと記憶に留めることこそが、非業の死を遂げた多数の 犠牲者の慰霊 につながります。
勝てば官軍、歴史は勝者によって記される という言葉がありますが、これまで戦勝国にとって都合の悪い事実は全て隠され、残虐行為の犯人が戦争裁判にかけらることもなく、敗戦国の兵士の行為のみが誇張されて報道され、責任を追及されていました。

連合国側がおこなった 非戦闘員の無差別大量虐殺、戦場における 捕虜の虐殺や戦闘能力を失った者に対する虐殺以外にも、 戦死者の遺体に加えた冒涜行為 などは日本人の宗教的感覚とは相容れないものであり、その実態は彼等の残虐行為を戦場で体験し、目撃した者が書いた以下の著作にあります。

その中には米軍兵士の残虐行為を目撃した米国人のものも、数多くありました。

(1)、沈没艦船の兵員の運命

昭和 20 年 ( 1945 年 ) 4 月 7 日沖縄への海上特攻に赴いた戦艦大和をはじめ巡洋艦矢矧 ( やはぎ )など 2 隻、駆逐艦 3 隻が敵の空襲を受けて沈没しました。
「現場の海面で浮遊物につかまり漂流中の無抵抗な乗組員に対して、空母を飛び立った米軍戦闘機の群が 執拗に来襲しては情け容赦もなく機関銃を撃ちまくり殺戮した。」( 矢矧の原艦長の証言 )
「 この悲惨な状況をあざ笑うかのように、 米軍機は何時間にもわたって、無抵抗の漂流者に執拗な機銃掃射を加え続けた 。」( 著書、「 伊藤整一 」、大和と運命を共にした第 2 艦隊司令長官 )
これらの残虐行為は最近映画化され評判になった「 男たちの大和 」には、なぜか描かれていませんでした。

同様な残虐行為は ニューギニア近海でもおこなわれました。昭和 18 年 3 月 3 日に起きた ビスマルク海戦 ( 空襲 )の結果、陸軍の兵士を乗せた輸送船 8 隻と駆逐艦 4 隻が敵機の攻撃により沈められましたが、沈没した日本の艦船から ボートや筏で逃れ、浮遊物につかまり 漂流中の 1 千 名の兵士達に対して 、アメリカと オーストラリア軍の飛行機が低空から機銃掃射をおこない、機関銃の弾を撃ち尽くすと基地に戻り弾を補給し、映画撮影の カメラマンまで乗せて何度も弾の補給に往復しては攻撃を続けました。

「 決して男らしいやり方ではなかった 」 と第 5 爆撃隊のある少佐は戦闘記録の中で報告していました。「 隊員の中には気分が悪くなる者もいた 」。

救命 ボートやその周辺を文字どおり 血の海に変えた その殺戮の様子を、機上から撮影した実写フィルムが 10 年ほど前に オーストラリアの テレビ局から放映されて、国民に大きなショックを与えました。「 我々は フェアーな戦をしたと思っていたのに.....と」。( 容赦なき戦い、ジョン ・ダワー著 )

ちなみにハーグの陸戦条約第 23 条では、兵器を捨てた自衛手段を持たない漂流者に対する攻撃を禁止していました。

( 2 )、米海兵隊兵士による蛮行

昭和 17 年( 1942 年 ) 8 月 17 日の早朝、カールソン中佐率いる海兵隊は、西太平洋の ギルバート諸島の マキン島にある日本軍前哨陣地を攻撃し、守備隊を全滅させました。しかし彼等が戦場で敵の遺体におこなった蛮行は、アメリカ海兵隊の歴史に恥ずべき汚点を書き加えました。
これが手始めとなり、その後の太平洋各地での戦場から ベトナム戦争に至るまで、米軍兵士による敵の遺体を冒涜する行為は、各地で続けられましたが、いずれも人種的偏見、蔑視に基づく行為でした。

( その 1 )
ルーズベルト大統領の息子で海兵隊大尉の ジェームズ ・ ルーズベルトも加わっていた カールソン襲撃隊は、戦死した日本兵の 死体を切り刻み、男根と睾丸とを 日本兵の口中に詰め込んだ 。
太平洋戦争について熱心な研究者で著書もあり、またテレビの連続番組 ( 戦線、Battle-Line ) の プロデューサーである シャーマン ・ グリンバーグが、20 年後に カールソン隊員の 1 人にその時の模様を ( テレビ で) 詳細に語らせている。その隊員は戦友たちのやった蛮行を写真に撮っていた。

( ジョセフ ・ ハリントン著の 「 ヤンキー・サムライ 」 から )

( その 2 )
マキン島へ救援に赴いた私 ( 谷浦中尉 )は、戦場で妙なことに気が付いた。どういうものか仰向けになった屍体が 15~6 あり、しかもすべて下腹部を露出している。死後 1 週間経っていたため原形は完全に崩れていて、顔の穴という穴はすべて蛆で真っ白である。
どうしてこんな格好をしているのだろう。被弾して苦痛のあまり無意識に ズボンをずり下げたのか?。アメリカ兵といえば キリスト教徒であり、日本人以上に文明人とみなされ、しかも選りすぐった精兵とこの種の蛮行を結びつけることなど、遺体収容作業に当たった誰 1 人として思いつく者はいなかった。

戦後 50 年経って意外な事実を知り、愕然とした。それは マキン襲撃の際に行われた 海兵隊の蛮行を物語る、翻訳された出版物を読んだからである 。 
( マキン、タラワの戦い、独立陸戦隊、中隊長谷浦英夫著 )

( その 3 )
作家上坂冬子の著書によれば、硫黄島の洞窟内から戦後米兵により持ち去られた日本兵の頭蓋骨は 1 千個 にもなる。彼等はそれで ロウソク立て、灰皿や ペン皿を作ったといわれ、また硫黄島で戦死した日本兵の頭蓋骨と称するものが、ロサンゼルスの骨董店で 1 個 25 ドル で売られていた。( 硫黄島いまだ玉砕せず )

( その 4 )、リンドバーグが見たもの
1927 年 ( 昭和 2 年 ) に チャールズ ・ リンドバーグは ニューヨークから パリへ、史上初の大西洋横断、単独無着陸飛行に成功したが、この偉業は後に 「 翼よあれが、パリの灯 ( ひ )だ 」の題名で映画化された。彼は 1944 年 ( 昭和 19 年 ) に ニューギニアの米軍基地で陸軍将校として 4 ヶ月過ごしたが、その体験を日記に記して後に「 第 2次大戦日記上巻、下巻 」として出版した。( この本は私が読んだ後に、どういう理由からか絶版になった )

それによると彼は戦場で見たものに ショックをうけた。それは兵士が嬉々として敵を殺したからではなく、 米兵が日本兵に対して抱く露骨な人種蔑視の念と、それに基づく残虐行為を目のあたりにしての苦悩であった。

たとえ敵味方に別れて戦い軍服に違いがあるとしても、敵の人間としての勇気は勇気として、兵士の使命は使命として認めなければならないにもかかわらず、太平洋地域の連合軍の中には、そうした感情の カケラもないことを発見した。

そこでは士官も兵士も日本人に対する人種差別、蔑視から自分達と同じ人間とは考えず、 人間以下の 単なる動物 としか見ていなかった。

さらに ドイツ人が ヨーロッパで ユダヤ人に対して 行ったことを、われわれ アメリカ人は 太平洋で 日本人 に対して行っている と記していましたが、ニューギニア戦線において捕虜となった日本兵の数がなぜ少なかったのか、その理由は以下を読めば納得できます。

Yellow Monkey ( 黄色い猿 )

1944 年 ( 昭和 19 年 ) 6 月 21 日の日記には、日本人捕虜に タバコをやり、気がゆるんだところを後ろから押さえ、のどを 「 真 一文字にかき切った 」というのを、日本兵捕虜殺害の一例として教えてくれたある将軍との会話を要約している。残虐行為に対する リンドバーグの異議は、嘲笑と 「 あわれみ 」をもって軽くあしらわれた。
6 月 26 日の彼の日記には日本兵捕虜の虐殺、および被弾した飛行機から脱出し パラシュート降下中の日本航空兵の射殺について述べている。降伏し捕らえられた 2 千 数百人 という日本兵捕虜のうち、捕虜収容施設に引き渡されたのは僅か 100 人か 200 人に過ぎなかった 。残りの者たちは殺害されたが、事故に遭ったと報告された。

「 仲間が降伏したにもかかわらず機関銃で撃たれたという話が日本兵に広がれば、投降しようという者などまずいなくなるだろう 」と リンドバーグは聞かされた。つまり 黄色い猿 に過ぎない捕虜を取り扱う、余分な手間や面倒がはぶけるという理由からであった 。

7 月 13 日の日記では、

「 われわれの兵士たちは、日本人捕虜や降伏しようとする兵士を射殺することをなんとも思わない。彼等は ジャップに対して、 動物以下の関心しか示さない 。こうした行為が大目にみられているのだ。」
と記されていた。
8 月 30 日に リンドバーグは、中部太平洋 ギルバート諸島にある タラワ環礁を訪ねた。そこでは日米の激戦が行われ米軍も甚大な死傷者が出たのだが、日記には、捕虜になった数少ない日本兵を一列に並べ、尋問に英語で答えられる者だけを残し、あとは全て殺させた海軍士官のことが出てくる。

ある仲間の パイロットから直接聞いた話によれば、後ろ手に縛られた日本人捕虜達を輸送機に乗せて収容施設のある地域に輸送する際に、 彼等を飛行中に突き落とす行為がおこなわれた 。そして報告書には捕虜全員が自分から飛び降りたと記録された。( 以上、第 2 次大戦日記、チャールズ ・ リンドバーグ著 )

捕虜を取らない、とは

ニューギニア戦線での オーストラリア軍や マッカサー指揮下の第 41 師団は、「 捕虜を取らない 」 つまり武器を捨て両手を上に挙げて降伏しようとする日本兵や、既に降伏した日本兵 を殺するので有名だった 。
軍事歴史家 デニス ・ ウォーナーは 1982 年に出版した日本の特攻隊に関する本の中で、ブーゲンビル島での自らの体験を紹介している。そこで彼は、投降しようとした日本の負傷兵を、 オーストラリア軍の司令官が射殺するように命じるのを目撃する。

「 しかし彼等は傷つき、おまけに降伏を望んでいます」と、日本軍の大規模攻撃が失敗に終わったあとの戦場で、部下の大佐が司令官に反論した。
「 私の言うことが聞こえただろう 」 と、両手を挙げた日本兵からわすか数 ヤード離れただけの少将 ( 司令官 )は答えた。「 捕虜はいらない。全員射殺してしまえ 」。そして彼等は撃たれた。

日本軍も負傷兵や捕虜に対する連合国側の殺害に関する情報をつかんでいて、戦時中の日本からの対米宣伝放送 ( 東京 ローズ )では、第 41 師団のことを 「 者、Slaughterer 」と呼んでいた。
終戦直後ある米陸軍大尉が公表した記事には、 第 41 師団、捕虜を取らず という堂々たる見出しが付けられていた。この師団が例外的に日本兵を捕虜にしたのは、軍事情報の収集のために捕虜が必要な場合だけであった。( 容赦なき戦争、副題太平洋戦争における人種差別、カリフォルニア大学教授 ジョン ・ ダワー著 )

病院に対する爆撃

昭和 19 年 ( 1944 年 ) 5 月 24 日に ブーゲンビル島 ラバウル基地にあった第 8 海軍病院が、米軍機による攻撃を受けて、 患者、看護婦、医師ら 1,400 名が死傷した 。病院の屋根には国際法の定めに従い、上空からよく見えるように 赤十字の標識 を大きく塗装していたにもかかわらず、それを無視して病院の建物に対して爆撃や銃撃を加えるという国際法違反の非人道的攻撃をおこなった。
それ以後日本軍は病院施設に対する国際法違反の攻撃を防ぐために、地下壕や洞窟内部に病院を設営することにした。

遺体を損壊する行為

頭骸骨
日本兵を自分達と同じ人間とは見なさない連合国兵士による、死体や死にかけた日本兵から金歯、耳、骨、頭皮、頭蓋骨などを収集し、戦果の証とする堕落した行為が広く行われていたことも、米国民の間で戦時中からよく知られていた。

写真は ニューギニア戦線から アリゾナ州 フェニックスに住む恋人の ナタリー ・ ニッカーソン ( Natalie Nickerson、20 才 ) 宛に送られてきた、 日本兵の頭骸骨ですが、受け取る方も受け取る方で、しかも ナタリーは頭蓋骨を見ながら恋人に ラブレターを書いていました。これを見れば人間ではなく 黄色い猿 に過ぎない 日本兵に対する残虐行為は至極当然であり、有色人種に対する蔑視が納得できます。

日本軍との戦いを前にして武勇自慢をし合う若い兵士達の会話を、ジャーナリストの リチャード ・ トレガキスが記録している。

「 ジャップは金歯をたくさん入れているそうだが、それを頂いて ネックレスでも作るかな 」 と 1 人が言う。
「 おれは奴らの耳を持って帰るよ 」 ともう 1 人が宣言する。「 塩漬けにしてな 」。( ガダルカナル日記、1942 年 )
戦後出版された水兵の日記の 1944 年 ( 昭和 19 年 )7 月の記述に、すでに 17 個の金歯を集めた海兵隊員がいて 、その最後の金歯は サイパン島で負傷してまだ手を動かしている日本兵の頬を、ナイフで切り裂きほじくり出して取ったものだ、と事もなげに述べられている。( 容赦なき戦争、ジョン・ダワー著 )
太平洋の激戦地 ペリリュー島および沖縄で、日本兵の死体から

手を切り取って戦果の トロフィーとする、金歯をあさる、死体の空いた口を目がけて小便をする、恐れおののく 沖縄の老女を撃ち殺し 、 「 みじめな生活から、解放してやっただけだ 」
と気にも留めない海兵隊員の様子を目撃した。( E ・ スレッジ、生物学者、1981 年に出版の回想録 )

( その五 )
フィリピンの ラグナラ州 カランバには日本兵を収容する ルソン第 1 捕虜収容所があったが、ここは フィヒリピンにおける最大規模の収容所であった。 米軍の発表によれば収容された捕虜のうち 、戦争が既に終了した昭和 20 年 ( 1945 年 ) 末までに、 栄養失調で死亡した日本兵捕虜は 1 万 2 千人 にものぼった。

もし日本側の捕虜収容所がこのような米兵の大量死を起こしていたら、原因や経過はどうであれ、B C 級戦犯裁判に掛けられて多数の責任者、兵隊が絞首刑になったことは間違いない。しかしここの米軍責任者は誰も罪を問われなかった。

そこには 「 バターンの死の行進 」 に対する 復讐の意図から 、敗戦後も栄養失調状態であった 多数の捕虜 に対して必要な食糧補給をしなかったからである。( 孤島の土となるとも、 B C 級裁判 )

( その六 )
ベトナム戦争においてもかなりの数の アメリカ軍兵士が ベトナム人の頭蓋骨を収集していたが、アジア人が アメリカ人兵士の死体に対してこのようなことをすれば、アメリカではどんな反応が起きるかは、考えてみる価値があるだろう。
( 米英にとっての太平洋戦争、下巻 )

太平洋戦争中の米国による日本人に対する残虐行為は、 人種差別に根ざすもの だと英国人 ジャーナリストの ラッセル ・ スーパーは述べています。
「 アメリカ人は絶望的になっている敵国人を殺戮することに、 気がとがめなかった 。彼らは太平洋において人種戦争を常に派手に戦ってきた。新聞の大見出しになる種を探している アメリカの高官連中は公然と、日本人を殺すことは シラミ を殺すよりも悪いことではないと言明した。 この残虐性 は 4 ヶ月後に 広島、長崎でその頂点に達する ことになる。」
( 著書、戦艦大和の運命 )

http://homepage3.nifty.com/yoshihito/genbaku-1a.htm#zangyaku


日本の法律、条約、憲法を正しく読み解けば

2014-10-25 05:05:23 | 資料

日本国憲法 第一〇条
 日本国民たる要件は、法律でこれを定める.

占領 憲法26条に教育を受ける権利は「日本国民」のみと書いてある。

◆日本国と大韓民国との間の基本的関係に関する条約(全文)

https://www.youtube.com/watch?v=A0rQztPmGPU

◆[文書名] 日韓条約批准書交換に関する朴正煕韓国大統領談話 
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19651218.S1J.html
[年月日] 1965年12月18日 
[出 典] 日本外交主要文書・年表(2),629-630頁 及「大韓民国外交年表 附主要文献」,
1965年629-630頁 
[備 考] 翻訳 玄大松 [全 文] 大統領談話文(韓日協定批准書交換に際して) 


親愛なる在日僑胞(キョッポ)の皆さん! 

 私は,日本の空の下で韓国同胞たちが再び分裂して相剋することなく,暖い同胞愛の紐帯の中で互いに和睦して親近となり,また幸福な生活を営なむことを希望してやみません。

 これとともに私は,これまで"分別なく故国をすてて日本に密入国"しようとして抑留され祖国のあるべき国民になれなかった同胞に対しても,この機会に新しい韓国民として前非を問わないことをあわせて明らかにしておこうと思います。

 再びこうした分別のない同胞がいなくなることを希望しながら,今日からわれわれは新しい気持と新しい心構えで,栄えあるわが祖国を建設する働き手とならんことを,訴えてやみません。

                                   1965年12月18日   大統領 朴正煕

◆<司法の原則を踏みにじる中韓>米最高裁判所は慰安婦問題で「日本には謝罪も賠償も必要ない」と判決ずみ

Japan In-Depth 7月7日(月)

慰安婦問題をめぐっての日本非難の動きがなお絶えない。

韓国を訪問した中国の習近平主席も朴槿恵大統領と共同で慰安婦問題をまた提起して日本を批判するような言動をみせる。一方、アメリカではなお韓国系勢力による慰安婦漫画展などという日本へのいやがらせも続いている。

しかし、アメリカではこの慰安婦問題は8年以上も前に最高裁判所によって、「日本側の謝罪も賠償ももう必要はない」という判決が出たことは、日本側ではあまり知られていない。司法には国際的に「一事不再理」という大原則がある。一度、裁かれて判決が出た事件や容疑はもう二度とは裁かれない、という原則である。だから日本側は米中韓などの各国に対し、いまこそこのアメリカ最高裁の判決を告げるべきなのだ。

2006年2月21日、アメリカ最高裁は第二次大戦中に日本軍の「従軍慰安婦」にさせられたと主張する中国と韓国の女性15人が日本政府を相手どって起こした訴訟への最終判決を下した。この訴えは在米のこの15人が「ワシントン慰安婦問題連合」という政治活動組織の全面支援を得て、2000年9月に首都ワシントンの連邦地方裁判所に対して起こした。

訴訟の内容は女性たちが日本軍に強制的に徴用され、慰安婦となったため、そのことへの賠償と謝罪を日本政府に求める、という趣旨だった。そんな訴えがアメリカ国内でできるのは、外国の国家や政府による不当とみられる行動はそこに商業的要素があれば、だれでもアメリカの司法当局への訴訟の対象にすることができるという特別な規定のためだった。

訴えられた日本政府は、戦争にからむこの種の案件の賠償や謝罪はすべて1951年のサンフランシスコ対日講和条約での国家間の合意や、1965年の日韓国交正常化での両国間の合意によって解決済みと主張した。ワシントン連邦地裁は2001年10月に日本側のこの主張を全面的に認める形で訴えを却下した。

原告側はワシントン連邦高等裁判所に上訴した。だがここでも訴えは2003年6月に却下された。そして訴訟は最高裁へと持ち込まれ、同様に却下となったのである。

アメリカの政府もこのプロセスで日本政府の主張への同調を示した。 だからアメリカでは司法も行政も、日本の慰安婦問題はすでに解決済みという立場を明確にしたという経緯があるのである。この点を日本は世界に向けて、主張すべきなのだ。

古森義久(ジャーナリスト/国際教養大学 客員教授)

http://japan-indepth.jp/?p=7746

◆【ポツダム宣言受諾は日本の無条件降伏ではない】

(戦後、日本は無条件降伏したと教えられた)

昭和二十年(1945年)七月二十六日、連合国よりポツダム宣言が発せられました。ポツダム宣言はアメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳が、第二次世界大戦に関し、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた、全13か条から成る宣言です。八月十日に日本側は受け入れの旨を連合国側へ通告。最終的には八月十四日、駐スイス及びスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告しました。翌八月十五日に国民に発表されました(玉音放送)。これにおいて大東亜戦争の戦闘は終結。九月二日降伏文書に調印しました。

降伏文書調印の四日後の米国統合参謀本部からマッカーサー宛の通達文書

「・・・われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立っているものではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、その範囲に関しては日本側からの如何なる異論も受け付けない」

とんでもない話です。ポツダム宣言は契約文書でない、日本は無条件降伏したのだから何やってもいいよ、というものです。ポツダム宣言は「日本軍の無条件降伏」を規定しており、日本政府のそれではありません。第五項で述べているように「条件は左の如し」と書かれている通り条件付降伏なのです。

これはアメリカ側も認識しており、米国務省がポツダム宣言と占領政策の比較検討を行っており、その文書に「この宣言は日本国及び日本国政府に対し、降伏条件を提示した文書であって、受諾されれば国際法の一般規範により国際協定をなすものであろう」「国務省の政策は、これまで無条件降伏とは何らの契約的要素も存しない一方的な降伏のことだと考えていた」と、条件付降伏であることを認め、政策の矛盾を指摘しています。

条件付降伏であるにも関わらず、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)はポツダム宣言をたてに憲法の改正を要求しました。ポツダム宣言には憲法改正に相当するようなことは書かれていません。ハーグ陸戦法規では占領軍は占領地の現行法を尊重しなければならず、国際法違反になります。しかも憲法の内容も彼等が作っています。
 
ポツダム宣言では「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確定されるべし」と言っておりますが、検閲、焚書によって徹底的に言論弾圧、思想の自由を侵害したのはGHQであったのは言うまでもありません。

九月十五日、GHQ民間検閲支隊長ドナルド・フーバー大佐が同盟通信社社長、古野伊之助や日本放送協会会長、大橋八郎ほか日本のマスコミを呼び声明を読み上げました。

「・・・同盟通信社は15日正午を期して日本の国家通信社たるの地位を回復する。同社の通信は日本国内に限られ、同社内に常駐する米陸軍代表者によって100%の検閲を受け、電話、ラジオおよび電報によって国内に頒布(はんぷ)される・・・」
シベリア抑留も九項の「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復員し、平和的且つ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」に反しています。

言論空間を押さえたGHQは日本人にポツダム宣言受諾を「日本の無条件降伏」であったように信じ込ませ、GHQの政策を正当化し、マスコミや教育界に日本弱体化、国家解体のイデオロギーを注入していったのです。

◆ 《占領典憲の無効》

【占領憲法の無効理由】

1 改正限界超越による無効
2 「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」違反
3 軍事占領下における典憲改正の無効
4 帝国憲法第75条違反
5 典憲の改正義務の不存在
6 法的連続性の保障声明違反
7 根本規範堅持の宣明
8 改正発議大権の侵害(帝国憲法第73条違反)
9 詔勅違反
10 改正条項の不明確性
11 典憲としての妥当性及び実効性の不存在
12 政治的意志形成の瑕疵
13 帝国議会審議手続の重大な瑕疵

【占領典範の無効理由】

1 改正限界超越による無効
2 「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」違反
3 軍事占領下における典憲改正の無効
4 帝国憲法第75条違反
5 典憲の改正義務の不存在
6 法的連続性の保障声明違反
7 根本規範堅持の宣明
8 改正発議大権の侵害(帝国憲法第73条違反)
9 詔勅違反
10 改正条項の不明確性
11 典憲としての妥当性及び実効性の不存在
12 皇室の自治と自律の干犯
13 法形式の相違
14 規範廃止の無効性
15 成文廃止の無効性
16 廃止禁止規定違反
17 占領典範自体の無効性
18 占領典範自体の矛盾

日本国憲法の制定

帝国議会で、反対者を出席させずに可決したのではなく、軍事占領下において帝国議会の議員全員を食料や仕事などで強迫して出席させて可決させた。

貴族院では時間切れ廃案になるところを議会の時計を止めて、可決させた。

◆【B・C級戦犯裁判という名の報復虐殺】

所謂「A級戦犯」は東京の極東国際軍事法廷で裁かれたが「B・C級」については、アジア太平洋各地の戦勝国側軍事法廷で裁判にかけられた。東京裁判が「平和に対する罪」という事後法をでっち上げ臨んだのに対して、B・C級はジュネーブ・ハーグ条約に定められた、俘虜に対する非人道的処遇、非戦闘員に対する無差別攻撃など“通常”の戦時国際法違反を裁くものだ。

軍事法廷は戦勝国7か国が管轄し、合計49か所に開設された。起訴された者5700名、死刑984名、終身刑475名、有期刑2945名(法務省調査)であった。しかし実際には、刑死者に加え、取り調べ中の虐待や拷問により多数が死亡した。また、支那については記録が残らない数千名の“人民裁判”による刑死者があったと言われる。

なおこの支那とは、台湾に逃避する前の中華民国であり、中共(中華人民共和国)とは別だ。中共は瀋陽と太源に特別軍事法廷を開設、ソ連はハバロフスクで裁判を行った。ソ連は我が帝国軍人約60万人を拉致し、6万人を重労働で死亡させたが、その内約3000名は戦争犯罪人の汚名を着せられて処刑されたとみられる。

戦勝国側は、自国俘虜の事情領収に重点を置いた為に、俘虜収容所関係者で追訴される者が続出した。勝者の立場になった俘虜たちお証言は、有り余る復讐心の為に被害が誇張され、あるいは面通しの上の“犯人指名”でも、人違いが横行した。彼等にとっては、とにかく日本人を処罰、処刑すればよかったのだ。

■虐待、無法審理の横行

B・C級裁判においては、違法な残虐行為が日本軍将兵に加えられた事が、軍事法廷の弁護人報告で赤裸々に述べられている。
「英軍管轄のシンガポールでは、死刑囚への虐待が横行。連日連夜の暴行の結果、顔面が変形したまま絞首台に上る者があった」
「オランダ軍管轄収容所では、日本人が撲殺され、収容所長が『ブタ撃ちに行ってきた』とうそぶいていた」
「暴行、重労働、劣悪な食事、マラニア治療拒否など、日本人への虐待が日常化している」
「法廷での審理は一方的で、半日で5人が裁かれ、その内3人に死刑求刑」
「検察側証拠は殆ど採用されるが、弁護側証拠は無視された」
「同姓の人違いにも拘わらず、被告は死刑の判決を受けた」

多くの軍事法廷で、判事も検事も、終戦前には日本軍の俘虜だった人間がその任に就いたのだから、裁判の不公平さ推して知るべしである。

昭和27年のサンフランシスコ講和条約発効前後から翌年までに、海外各地で服役していた約3000名のB・C級戦犯は、全員が巣鴨刑務所に移送された。しかしこれも日本政府が連合国に替わり、服役させるという事で釈放ではない。B・C級戦犯の最後が釈放されたのは終戦後13年を経た昭和33年である。なお、中共が拘留していた約1000名の帰国は昭和31年である。

フィリピンとオーストラリアでは講和条約前の駆け込み処刑が横行した。条約が発効すれば裁判結果が帳消しになると想定したからだ。フィリピンでは79名が死刑判決を受けたが、昭和26年1月19日に突然14名が処刑された。オーストラリアでも同年に死刑が執行される。

政府の戦犯対策協議会では「フィリピンでの14名執行には、冤罪の疑いのあるケースが含まれる」と報告された。

■陰惨なオランダの復讐

昭和28年に巣鴨遺書編纂会が、刑死者の遺書を『世紀の遺書』として纏めたが、その中で特出すべきはオランダ管轄裁判の不当性だろう。死刑判決数も236名で、7か国中最も多かった。その原因は、蘭国にとっての金の卵・インドネシアを独立に至らしめた日本軍の侵攻だからである。

蘭国は350年に亘ってインドネシアを支配した。しかし、日本軍は一撃で蘭軍を敗北させ、日本が降伏した後、米国の尻馬に乗ってインドネシア支配を復活できると思いきや、残留日本兵が独立戦争を指導し、遂にオランダはインドネシアを失ったのだ。

蘭国はインドネシア内12か所に軍法会議を開設したが、判事、検事の多数は、日本軍の俘虜収容所から解放されたばかりの、復讐心に燃える蘭国軍人であった。

裁判の為の条例がまずもってデタラメである。要約すれば「上官が戦争犯罪に関与していなくても処罰する」というものだ。また「戦争犯罪がある団体の業務に関連した場合にも、訴追は団体全員に対して行う」という規定もある。

ここで言う団体とは、日本の憲兵隊、俘虜収容所、拘留所、刑務所、警察などを指し、全てテロ組織と見做されたのだ、蘭国の日本に対する憎しみの深さと、日本人を真面な人間として扱おうとしない、人種差別の観念さえも窺える。

蘭国戦犯として、刑死以外に死亡した者は、自殺18名、病死26名、射殺12名、撲殺または虐待6名、爆発死4名、その他事故死2名、計68名と『戦犯裁判の実相』にあり、虐待の結果であった。

● 同室中2名が定数外被服を所持していた為、全体責任を問われ、午前10時から午後5時まで、炎天の獄庭に610名が褌一本で不動の姿勢で立たされた。その間、昼食および水抜き。長髪の者は日干しの効果なしとし、髪を切られた。
● 理由なき殴打。雨中に立たせたり、獄庭で駆け足など強制的な体操。
● 4時間に亘り拷問。こん棒で体中を殴られ、キリキリ舞いをさせられ、倒れると頭部を強打。
● 取り調べに対する答弁が気に入らないと、真っ裸で蚊の多い独房に放置。
● クソ壺に首までつけて数時間放置。

■アジア民族への蔑視

英仏の収容所でも、拷問、虐待に耐えかねて自決する日本軍将兵が相次いだ。

仏国のサイゴン軍事法廷主任検事ガルトン少佐は「余は日本人をボルネオ人の原住民以下に取り扱うだろう」とうそぶいたという。体験談の一部だ。

● 真っ裸で三か月間も独房に放り込まれ、毎日殴られ蹴られ責め抜かれた。負傷して前かがみで歩くと後ろから仏兵が鞭で殴りながら追い回した。
● 全裸のまま後ろ手錠をかけられ、三角型の台木の上に正座させられ、苦痛の為に動けばこん棒で殴打された。
● 後ろ手錠、足錠をかけて留置され、四日間、一滴の水も与えられなかった。
● 電気拷問を加えられた。
● 三角台に座らされる拷問で失神すると、棒で足裏を連打され、意識が戻るとまた三角台に座らせる。その拷問の繰り返しを受けた。

英国側の虐待も酷かった。連日、殴打、拷問体操、集団処罰、独房への殴り込み、見世物的市中行進が行われた。囚われの日本軍将兵は、黙って耐えるしかなかった。

● 日本から香港の監獄に移送された某大佐は、暴行を受け続けた結果、松葉つえをついて死刑台に上った。
● 素足のまま、ガラスやブリキの破片を捨てた穴の中を行進させられ、日本兵の足が切れるのを眺めては、英兵が快哉を叫んでいた。
● 移動の際、故意に現地民の密集地域を行進させ、車輪を外したトラックを押させるなど、ありとあらゆる屈辱的場面を現地民に見させ、現地民に怒号と石つぶてを浴びさせた。

■恥ずべき勝者への迎合

占領軍の戦犯追及への恐れから、日本人による恥ずべき密告が相次いだ。

「静岡県内の某警察署に連行される際、逮捕状の呈示もなく、一般囚人と同房に監禁され、重罪人のごとき扱いを受けた」
「巣鴨刑務所に移送途中、静岡県の警察監房に拘禁されたが、厳寒の12月にも拘わらず毛布1枚のみ支給。施縄のまま列車で連行された」
「逃亡先を白状せよと、両親、兄、弟、そして。お産の為に実家に帰っていた妹も生後一か月の赤ん坊と共に、一週間警察に抑留された」
「岐阜県関市警察に逮捕され、捕縄のまま巣鴨刑務所に護送されたが、岐阜駅から東京駅まで乗車賃を支払わされた」等々である。

なお、米軍に引き渡されると、取り調べでは当然のように拷問が行われた。

戦犯の家族もまた、占領軍の宣伝に洗脳され、あるいは勝者に媚びた社会の迫害、白眼視を受けねばならなかった。生活は困窮し、離婚、婚約解消の途をたどる者もあった。

大東亜戦争の意義を考える事もなく、戦犯裁判の不当性に想いを馳せるでもなく、戦犯という名の犠牲者を時代の転換期が生んだ“汚物”のように見捨てた国民も多かったのである。

私たちは忘れまい。南海の涯に、極寒の異国の地に、日本の再生を願って血涙を飲んで死んでいった人々を。

◆GHQが国際法を無視して行った占領政策

12月31日 1945年 - GHQが「修身・日本史および地理の授業停止と教科書回収に関する覚書」を提示。

戦勝国が敗戦国の憲法を作る事、新聞・雑誌・放送の検閲は勿論、相手国の歴史を消す事、書物の発禁、禁書も国際法上許されません。

しかし、アメリカは日本占領後新聞・雑誌・放送を検閲し、書物の発禁や禁書を行いました。

相手国の文化を踏みにじる行為は、絶対に許すことの出来ない蛮行です。しかし「自由と平和」を標榜するアメリカは平然と行いました。

昭和20年9月から占領期間中の新聞、雑誌、映画、放送内容、一切の刊行物が「検閲」されたのです。検閲の理由は、日本人にアメリカは正しく日本は悪だったと、日本人を洗脳させる為です。

アメリカは「言論の自由、信書の自由」を公に言っていました。しかし本当は一般市民の手紙でさえ検閲し、アメリカに対する批判は全てもみ消したのです。
日本人の中に「アメリカに自由をもらった」と勘違いしている人がいることは、アメリカが行った、徹底した焚書や検閲、
言論封鎖による操作が理由の一つでしょう。

アメリカのメリーランド州立大学に、長崎で被爆した14歳の石田雅子さんの手記、

「雅子斃れず」が保存されています。これは元々、雅子さんが、親類で回覧する家族新聞に被爆したときのことを書いた文章を、父・壽さんが本にまとめたものでした。

しかし、戦後間もない時期、出版物にはGHQの検閲があり、原爆に関することは特に厳しく制限されていました。検閲当局はこの本が「公共の安寧を害する」と、出版を禁止しました。

アメリカはアメリカが行った国際法違反の民間人大虐殺である原爆投下の書物も検閲し、言論封鎖したのです。

日本が降伏してからサンフランシスコ講和条約が発効されるまでの7年間、アメリカはウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付ける為の宣伝計画)と検閲による「思想」「言論統制」により日本を悪と仕立て上げたのです。

数百年間、白人国家が有色人種の国々を侵略し、搾取していた事実やそれを開放する為に日本が、白人国家と戦った史実は隠されたのです。

http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-5231.html

◆「サンフランシスコ講和条約」

アメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国(ただし中国は除く)と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約。

1951年(昭和26年)9月8日に全権委員によって署名され、同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された。翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効する。

日本国との平和条約、および日米安全保障条約(旧)の2条約の締結を以って日本は自由主義陣営の一員として国際社会に復帰した。

中華民国との間では、日本国との平和条約の発効日と同じ1952年4月28日に日華平和条約を調印

東京裁判などの戦犯裁判は連合国が戦争行為として遂行したものである。そして講和条約の締結・履行によって戦争行為は一切不問となる。

講和条約を締結した後に、戦争行為について国家間で問題にするのは文明社会の慣習に反する野蛮な行為だ。講和条約を締結した以上、東京裁判他の戦犯裁判という戦争行為についても異議を唱えることが出来ないのは仕方のないこと。
 但しそれは、裁判という既に起った出来事そのものについてであって、それ以上の拘束力がないのは当然である。

つまり、ジャッジメンツを受諾したとは、国際軍事法廷に対して全く無効だからかつての損害賠償をしろと異議を申し立てる立場にはない、ということであり、第11条の効果は、平和条約締結により効力を失う軍事法廷の効力を継続させるものだったということである。

 この解釈は、これまで検証してきた各答弁及び佐藤教授の論文の趣旨とも合致する。 そしてこの各国会答弁で取り上げられた最も注目すべき箇所は、アカデミックな分野、または一般の国民がこれについていろいろな議論、研究をすることもいけないと思っている人たちがいるが、そんなことは全くないということだろう。

サンフランシスコ講和条約第十一条の手 続 き に 基 づ き、関係十一カ国の同意のもと、
「A級戦犯」は昭和三十一年に、
「BC級戦犯」は昭和三十三年までに赦免され釈放された

さらに

1952年 戰犯在所者の釈放等に関する決議

これによって全ての戦争犯罪人とされた人たちは「公務死」と扱われることとなった これは日本政府及びサンフランシスコ講和条約に則った手続き

この決議に真っ向から反対し、今にいたるまで「戦犯」と呼び続けているのが 朝日新聞である。

◆ 警察庁が朝鮮学校無償化の流れを北朝鮮の対日工作と認定
3月14日、警察庁が官報として「昨今の情勢を踏まえた国際テロ対策」焦点第283号を発表した。
資料によれば、「朝鮮総連は依然として北朝鮮に従属する組織である」とした。

また対日諸工作として、高校授業料無償化の対象から朝鮮学校が除外されたことや、朝鮮学校への補助金支給を見送る自治体が増加していることに関して、

その不当性を訴える街頭宣伝や、国会議員、地方議員、自治体等に対する要請行動等を展開し、集会やデモにおいて著名人の参加や支援意見の発表を得るなど、朝鮮総連の活動に対する支援等に向けた働き掛けを展開したとしている。

また日本が北朝鮮に対する物資の輸出入制限を続けている中、中国を経由して不正に北朝鮮へ物資が輸送される外為法違反についても論じている。

北朝鮮による拉致問題に関しては、北朝鮮工作員が拉致された本人に代わり、日本人のふりをして日本国内で工作活動を行っていくことが目的であったとした。

http://hosyusokuhou.jp/archives/36986395.html

警察庁トップページ
http://www.npa.go.jp/index.html

◆集団的自衛権を認めると日本は徴兵制になるという嘘

日本は憲法18条により
徴兵は禁止されております
デマにはご用心

護憲 護憲と言いながら、憲法に何が書かれているか読んだこともないのだろう。

◆日本国憲法 第65条 国家緊急権

「国家緊急権」というのは、法律や命令で規定するものではありません。
国家が、法律以前に本来的に持っている、憲法などの枠組みを超えた権限です。
そしてこれを行使できるのが、日本でいえば、行政府の長である内閣総理大臣です。
簡単にいえば、正当防衛権みたいなものです。
たとえば、日本の自衛隊の飛行機や船舶が、支那やロシアの領土領海に勝手に侵入すれば、拿捕され、あるいは無警告で撃墜されたとしても、文句はいえません。
拳銃を手にして、他人の家に勝手に侵入したら、たとえどのような言い訳をしようと、その家の人に、殺されても文句は言えないのと同じことです。
これは支那やロシアに、迎撃のための法律や憲法があるかないか以前の問題です。

国民の生命の安全がおびやかされた。
その一事をもって、国は、武力の行使が可能となります。
それが「国家緊急権」です。

外国が日本に対してできるということは、あたりまえのことだけれど、日本も外国に対してこの権利を行使できます。
外国の軍船や軍用機が、許可なく日本の領土領海を侵犯し、あるいは竹島のように、勝手に占有したならば、これを実力をもって排除するために、日本の内閣総理大臣は、自衛隊法や、憲法九条等とはいっさい関わりなく「国家緊急権」の行使として、それら武装勢力を実力をもって排除することができます。

憲法があるから国家があるのではないのです。
国家があるから憲法がある。
ですから「国家緊急権」の行使は、憲法以前の権限なのです。

そしてこの「国家緊急権」は、戦後の日本において、実際に行使された事例が3つあります。
昭和23年の「阪神教育事件」、昭和50年の赤軍による「クアラルンプール事件」、昭和52年のダッカ「日航機ハイジャック事件」です。

「阪神教育事件」というのは、昭和23年4月14日から26日にかけて、大阪府と兵庫県で発生した在日朝鮮人と日本共産党による大規模テロ騒乱事件です。
この事件が起きたときは既に日本国憲法が発布施行されていました。

つまり日本は、日本国憲法下にあったわけですが、GHQは、日本国憲法を無視して「非常事態宣言」を布告し、米軍を出動させて銃撃戦を行い、騒乱を起こした在日朝鮮人、共産党員、あわせて約7500人を逮捕しました。

この事件で、在日朝鮮人および共産党員2名が射殺されています。また20名が負傷し、一方米軍側はこれを上回る31名の死傷者を出しています。

暴動鎮圧のために同年4月24日、GHQの兵庫県軍政部は「非常事態宣言」を発令し、県内の全警察官を米軍憲兵司令官の指揮下におきました。また兵庫県知事が監禁され、無理矢理書かされた各種処分撤回の誓約も、強制破棄されています。
つまり、日本国憲法がありながら、国家の非常事態に際して、憲法の規程を無視して、いわばあたまごなしの行政権を行使しているわけです。

昭和50年の「クアラルンプール事件」は、日本赤軍が、マレーシアの首都クアラルンプールにある米国とスエーデン大使館を武力を用いて不法占拠し、大使らを人質に取ったうえ、日本国政府に日本国内で逮捕されている新左翼活動家の釈放を要求したという事件です。

日本政府(首相:三木武夫氏)は要求に応じて国家緊急権に基づく「超法規的措置」として日本赤軍への参加を拒否した2人を除く5人を釈放しました。
ここでは釈放された5人は、通常の法的手続きをまったく無視して釈放となっています。
つまり、内閣総理大臣による、国家緊急権の行使です。

昭和57年のダッカ日航機ハイジャック事件は、インドのボンベイ国際空港を離陸した日本航空機を、日本赤軍がハイジャックし、これをバングラデシュのダッカ国際空港に強制着陸させたうえで、日本国内で逮捕されていた6人の赤軍メンバーの釈放を要求したという事件です。

この事件でも、当時の福田赳夫首相は、やはり国家緊急権に基づく「超法規的措置」として、要求された犯人の釈放に応じただけでなく、600万ドル(いまのお金に換算すると30億円くらい)の身代金を支払いました。

要するに、日本国憲法で想定しない国家の非常事態に際して、日本国政府の行政府の長は、過去三度、国家緊急権を発動しているわけです。

◆新聞などが使う敬称は法律違反

皇室典範という法律は第23条において

「天皇、皇后、太皇太后及び皇太后の敬称は、陛下とする。前項の皇族以外の皇族の敬称は、殿下とする。」
と定めています。
たとえ日本人でなくとも、日本のメディア勤務である以上は、日本の法律に従い正しい日本語を使いましょう。



在日の生きる場所は最早日本には無い

2014-10-20 01:11:21 | 資料

在日終了待った無し

9月11日、韓国の安全行政部は海外で永住権を所有する在外国民に対し2015年1月22日から住民登録証を発給することを発表。

民団はすでに在日同胞の名簿を祖国に渡している。
渡した民団員は、お目こぼしということらしい。

前科持ちも徴兵の対象、女性徴兵制・国籍法改正で帰化していても徴兵義務を果たしていなければ対象となる。

韓国と二重国籍となれば、当然日本帰化は取り消しとなる。

日本政府に「オーバーステイや犯罪者を即座に引き渡せ」と求める。
懲役5年以下の者は韓国が受け入れ恩赦して徴兵に。
在日は入れ墨が有っても特別に徴兵可能となった。

北朝鮮籍でありながら韓国籍と偽って帰化した者も、選別が面倒くさいので一応に韓国で引き取り徴兵に回す。

日本の住民登録の制度はこの韓国の国籍法改正と、徴兵制の改正にリンクしている。
名寄せによる銀行口座、他の資産、海外資産特に米国資産もリンクして、すべて韓国に引き渡される。

米国もこの処置を積極的に要求しているらしい。
日本の浄化作戦が成功しないと日本から米軍全員撤退が出来ないから?

韓国はそれが厭なら、日本国内でテロでも自殺でも勝手にしろという棄民処置のようだ。
事実、暴力団から純日本人がどんどん逃亡しているそうで、来年7月8日までに暴力団は4万人にまで減りそうだと公安はみている。

母国南朝鮮からは

「在日は卑怯卑劣な裏切り者。
奴らの大半は朝鮮戦争で同胞を見殺しにして逃げて、 
日本に密入国して自分たちだけヌクヌク暮らしてた。
在日どもの大半は白丁。」

なんてことを言われてるけど、どうなの? 

事実、南朝鮮に留学しても、南朝鮮では就職出来ないし、南朝鮮国民には配られるIDカードも在日は貰えない。住んでも南朝鮮人とは認めて貰えない。それどころか馬鹿にされ差別され居場所が無い。

日本に住むしかないのに、日本人から嫌われるような犯罪や暴力事件ばかり起こし、嫌われると今度は差別だと騒ぐ。
住まわせて貰っている意識も無ければ、自分たちは強制連行されてきたと大嘘を吐く。
万事すべてに『息を吐くように嘘を吐く。』

その意味からも、在日は『白丁』と言われても仕方が無いのだろう。

★朝鮮において『白丁』は被差別民を指していた差別用語であった。

朝鮮半島で白丁が受けた身分差別は、以下のようなものである。

1. 族譜を持つことの禁止。
2. 屠畜、食肉商、皮革業、骨細工、柳細工以外の職業に就くことの禁止。
3. 常民との通婚の禁止。
4. 日当たりのいい場所や高地に住むことの禁止。
5. 瓦屋根を持つ家に住むことの禁止。
6. 文字を知ること、学校へ行くことの禁止。
7. 他の身分の者に敬語以外の言葉を使うことの禁止。
8. 名前に仁、義、禮、智、信、忠、君の字を使うことの禁止。
9. 姓を持つことの禁止。
10. 公共の場に出入りすることの禁止。
11. 葬式で棺桶を使うことの禁止。
12. 結婚式で桶を使うことの禁止。
13. 墓を常民より高い場所や日当たりのいい場所に作ることの禁止。
14. 墓碑を建てることの禁止。
15. 一般民の前で胸を張って歩くことの禁止。

これらの禁を破れば厳罰を受け、時にはリンチを受けて殺された。その場合、殺害犯はなんの罰も受けなかった。白丁は人間ではないとされていたためである。

日本で偉そうに逆差別をする在日達は、母国南朝鮮からはこのように見られているということを、日本人自身も自覚しなくてはならない。

◆余命3年時事日記より転載

現在に至るまで在留カードへの切り替えをしていない在日は大きな誤解をしています。ひとつは放置しておいても韓国は手が出せないと思っていること。もう一つは万一不法滞在となっても日本は強制送還など絶対にできないと思っていることです。

今回、在留カードへの切り替えが進んでいないことからその案内はがきを送付していますが、その担当は法務省です。その送付住所はすでに総務省管轄の住基台帳に仮登録されすりあわせも行われております。切り換えた者から正規に総務省に移管しているだけです。

2015年7月9日には未登録者の情報も全て法務省から総務省に移管されます。その際の未登録者の扱いは不法滞在者となり逆に法務省に通報されるということになります。

ここで注意すべき点は、日本においては在日全てが把握されているということです。この点を無国籍在日の方はわかっていないようです。

・・・
さてもう一つの切り替えを無視しての不法滞在開き直りですが、強制送還以前に社会住民サービスが停止されます。生活保護なんて瞬間で終わりです。もちろん犯罪者ですね。

不法滞在者の強制送還は法改正により以前と大きく変わりました。滞在資格が何らかの理由で欠格となった場合、総務省は法務省に通報します。これを受けて法務省は強制送還の手続きをとり事務的に執行するだけです。法改正前は法務省の管轄で、不法滞在者にも執行までの期間の滞在許可とか、相談窓口があったのですが、今は全て廃止されました。
・・・

◆運転免許証、通名記載なし。
特別永住者証明書には本名しか記載されないので、
上にあったような、免許証に本名通名併記という話はなくなる。
これは免許証の更新が3年ないし5年なので、切り替え次第なくなる。
通名が記載されるのは住民票になるため、逆の見方をすれば
「これが私の通名です」と証明する手段は住民票のみになる。
ちなみに「通名が廃止になる」と言ってしまうと、この点をもって
「在日の通名が廃止に?住民票に記載されてるよ?」
と論破されてしまうので注意。

◆在日外国人の管理を総務省にした意味。
法務省管轄だったころは多少甘かったらしく、相談窓口もあった。
それが総務省に変わったことで窓口も廃止。不法滞在で住民サービス停止。
つまり2015年7月9日以降、
不法滞在者は「生活そのものが不可能」になる。
永住許可も当然取り消し、あとは事務的に強制送還の手続きをとると。
これまでは汚鮮自治体の裁量で生活保護とか出してきたけど、それもなくなると。
まさに「在日の一括管理」なんだけど、
こういう地味な変更って報道されにくいよな。
そこがまた策士。在日を一致団結させないのも重要な戦略らしい。

◆銀行口座、通名不可は大ダメージ。
1.複数口座を持てなくなる
2.生活保護の振り込み口座も本名に ⇒ 不正受給バレる
3.給与振込口座も本名に ⇒ 経理担当「あっ…察し」
年収何千万のくせに生活保護、というケースは通名複数口座で実現できた。
これが使えないばかりか過去の不正受給もバレて逮捕の恐れも。
で、一番でかいと思われるのが、
このことについて「韓国政府が容認」しているということ。
そりゃザイニチの命より大事なザイニチ財産。むしろ推進してほしいってとこか。
韓国政府の下部組織でしかないゴミンダンが在日同胞を売るのも分かるな。

さて在日のデーターを欲しければあげるよとささやいた経緯です。2012年施行後のカード化、住民登録の進捗を図るための実務者会議でしたが、双方、異例の高官が出席しました。日本はカード化、住民登録を進めることによる社会生活の利便性と、国籍確定、カードへの通名不記載を通じ、資産管理が容易となることをあげ、在日韓国人に関する情報は資産情報を含めて要請があればいつでも提供する用意がある旨を説明、登録の障害となる可能性のある通名対策と、韓国側からの登録への働きかけを要請しました。

これに対して韓国側は、「通名の使用は日本国内法における行政上の各種手続きの利便性の問題であって、韓国が関与することではない。複数の通名による銀行口座の本名への一本化は韓国も歓迎することだ。将来的には韓国も住民登録制度を整えて、また違法な資産洗浄移動防止の観点から資産情報の相互通報制度の構築まで考えたい。登録の働きかけについては、独自に説明会等で対応する。」ということだったそうです。

余命ブログではこの経緯をすべてカットしています。さすがに影響の大きさを考慮したのでしょう。(中略)

この韓国側発言は、通名の事実上廃止容認です。この後も通名問題は、日本国内では犯罪報道をはじめとして論戦が賑やかですが、国レベルでは全く争いがありませんね。このブログでも何回かそれもかなり詳細に通名問題は扱っておりますが、国としての対応には全くふれてきませんでした。そして不思議なことに安倍さんも通名問題はすべて無視しておりました。(後略)
・・・
在留カードに切り換えた場合2015年7月9日からは生活の上で何が変わるのかをみてみましょう。

まず、すぐに影響が出るのが金融口座関係です。生活保護を通名銀行口座振り込みの場合は本名に切り換えなければ振り込みされません。一般的に新規口座開設の場合、以前は在日の身分証明書である外国人登録証を使いました。よって口座名を通名にしても口座情報として国籍と本名は銀行にあるのです。これはクレジットもローンも全く一緒です。いくつも違う通名を使って複数の口座を持っている在日も7月9日以降は名寄せされて本名への切り換え通知が来ます。通名口座は犯罪やマネーロンダリングに使用されるケースが多いため以前から廃止が検討されてきました。住基法、入管法の改正でこれが可能となったのです。

以前、暴力団への融資やその他の癒着で処分を受けたみずほ銀行をはじめ他の銀行も厳格かつ早急に対応することが求められています。韓国国民銀行に対する営業停止処分は明らかに安倍さんの警告ですね。在日の金融口座は一気に本名に統合されるでしょう。

この通名口座対策は本人や金融機関だけではなく、雇用組織、つまり会社にも求められています。通名で勤務し、その通名口座に給与が振り込みされている場合、今後、口座名義の本名への書き換えが義務づけられます。ただし、勤務上の通名の使用は別問題です。
・・・

◆通名で取得した資格も使用不可能に。
余命時事では、具体的な例を出して説明している。
・卒業証書
・資格証明書(商業簿記)
・英検
こういった物を全部通名で取ってしまった場合、
今後はすべて「使用不可能」になってしまう。
住民票に通名記載があるから証明できるのでは?と思いきや
通名がカンタンに変更できるのが仇となっているようで。
本名⇒通名は証明できても、通名⇒本名は証明できないらしい。
つまり、「金子賢」として取った資格は7月9日以降すべて失効。
唯一の頼りの免許証も更新期限が来れば通名が消える。
「金賢」として新しく資格を取り直さなければならないと。
これ弁護士や会計士などの士業は戦々恐々なんじゃ…?

わかりやすい事例として、今回もタクシーを取り上げます。この業界は経営者も従業員、運転手も他業種に比べて在日が多いので有名ですね。7月9日以降、通名や免許証はどうなるのでしょう?

まず会社の対応です。給与振り込みに通名口座は使えませんので、本名に切り替えが必要です。在留カードへの登録で住民票の記載が本名に変わります。よって社会保険や雇用保険の関係も本名に切りかわります。企業基金の登録名義も本名へ変更が必要です。会社が乗務員のデーターを全て本名に切り換えて、乗務員証明書だけを通名のままにしておくことはできません。ただちに、免許証の本名への変更届と乗務員証明書の更新ということになるでしょう。タクシー会社での通名使用はなくなりますね。李さんとか朴さんとかいう乗務員証を表示した運転手が溢れてくるでしょう。

この関連、個人タクシーはどうでしょう。法人と違って個人事業主、かつ免許の管理は自身で行います。しかし法人タクシーの運転手の通名使用ができなくなって個人はOKということにはならないでしょうね。この業界が自主的に動かざるを得ないでしょうし、管轄省庁も放置することはできないでしょう。結局個人タクシーもドアの横の屋号が李とか朴なんて表示しているのが霞ヶ関とか防衛省とかに目立つようになるんでしょうね。

個人タクシーが在日とわかって、お客が乗車拒否なんて話が出てきそうですね。

似たようなケースでは通名でとった資格の問題があります。

「2015年7月9日」ブログから
.....「大卒でいくつも特殊技術の資格を持っている朴さん、就職には不安はなかったのですが、全く各社、音沙汰がありません。よくよく調べてみると卒業証書や各資格証明書はすべて通名である田中某で、そこに朴一は影も形もないのです。現在は(朴一、金田某)であって、以前の通名(田中某、朴一)の証明そのものが困難で、人事担当からは、証書や各資格証明書の発行側から同一人物であるという証明が必要だといわれたそうです」

.....在日の朴Aさん通名、佐藤A子で住民登録されています。佐藤さんは2年前に日本の大学を卒業、資格は商業簿記と、英検をもっているのですが、全く就職の役に立ちません。証書がみな佐藤A子で朴Aと同一人物であることが証明できないからです。簿記も英検も受験の時は通名を使いました。当然、本名は受験票のどこにもありません。住民票では朴A→=佐藤A子は証明できますが佐藤A子→=朴Aの証明はできないのです。
このケースの場合は証明は不可能ですね。

この通名で取得した資格や免許の問題はこれから大きく問題になることは確実です。
教員免許、医師免許、弁護士資格等は厳しく再チェックして、通名使用ならば免許資格の有効性についても厳格な調査が必要でしょう。小中学校では李先生、朴先生なんて名前がぞろぞろ出てきそうですね。
・・・
◆通名を廃止しなかった本当の理由。
これまで見てきたように、もう通名を使っていても意味がない。
それでもザイニチは可能な限り通名を使い続けるだろう。
「まだ何とかなる」「日本人に負けたなんて認めない」って。
それがかえって自分の首を絞めることになる理由がこれ。

◆通名使用=ゲリラ戦闘員認定というリスク。
日韓戦争となった場合、通名在日は「ゲリラ戦闘員」扱い、即死刑。
この場合「独裁だ!!」「この国は人権蹂躙大国だ!」とか言ってもムダ。
だって戦争なんだから。敵国戦闘員は殺せ。仕方ないじゃん。
安倍首相はザイニチのそういった特性もぜーんぶ理解して、
あえて通名を廃止せず骨抜きにするソフトスタイルをとっている。
ザイニチってバカで単純だから扱いやすいんだよな。反日バカってやつ。
だから命拾いしたければ、韓国政府に
「日韓戦争やめて!!!殺されちゃうう!!」って泣きつくしかない。
まあそう言えば「愛国心が足りない。調教ニダ」とか言って掘られると…。
まさに八方塞がり。これもしばき隊男組メンバーの桑田佳祐のせいだな。

....通名
もう廃止しろという声が高まっているにもかかわらず一見何もしておりません。しかし放置の場合は実は有事にテロゲリラ処理ができます。これが一番簡単です。一方で住民票登録に際しての通名、本名の併記を在留者カード、永住者カードでは本名のみに変更しました。したがって今後、通名で受けた証書類は永住者カードでは確認証明ができません。 免許証も通名での発行はできなくなります。正面きって通名廃止なんてやったら大騒ぎするでしょうがこの方法では少し時間がかかりますが静かで確実に通名はなくなります。

....(中略)この通名使用に関連して在日の永住権の問題がある。これは日本国政府の許可であって権利ではない。また永住者の大多数は戦争のような有事に際しても、せいぜい強制収容くらいの扱いですむと考えているようだがこれは大きな間違いだ。よく第二次世界大戦における米国の日系米国人の強制収容が語られるけど、あれは日系の米国人であって、在日は日系でも何でもない、ただの韓国人か朝鮮人だ。この敵国人が通名使用で日本人なりすましとなれば、当然、国際法上ゲリラ扱い、即刻処刑もありうるということだ。余命さんは親切に警告してるよね

日本国憲法 第一〇条
 日本国民たる要件は、法律でこれを定める.

◆「朝鮮」籍の在日朝鮮人が旅先でパスポート(再入国許可証)を紛失したら、どういうことになるか。

パスポートをなくした時、日本政府領事館は何もしてくれない。

「国内では日本人と特別在住者等とでは差別しないと言ってるじゃないか」と抗議しても、堂々と「知りません。何もできません」と答える。領事館は外務省の機関であり外国人登録とは関係ないから「当方の知ったことではない」というわけだ。
パスポートは、日本に再入国するための権利証でもあり、日本政府しか発行できない(当然だ)。朝鮮政府は何もできない。日本政府が知らぬ顔を決め込んだら日本には入国出来ない。

◆あるつぶやき

民主党政権時代に在日リストを韓国に渡しちゃったらしいからな。 
だから、今さら民主党ageができないのよ、在日もマスゴミもw

白チョンクンが渡したって話だよねそれ。

その後急に
「在外韓国同胞の韓国大統領選挙権」とか
「在外韓国同胞の兵役義務」とか言い出した。 

つまり、韓国が在日の尻尾を握ったのは確実。

民団の民主党絶賛支持がぱったりと止み、
あろう事か共産党ageが始まったのも、 
最近、在日が本国批判してるのも、
そのあたりが関係してるのか。

やばいと気づいた在日が
背乗りしようと必死になってる可能性とかあるのかな 
東北のやつとか怖いんだけど

だから最近「背乗り」というキーワードに敏感になってるのだと思う。 
日本人が背乗り被害を受けないようにするには、
まず親戚づきあいを密にすることと、 
自分の戸籍謄本を取り寄せて変な記載が無いか確認する事だな。 

まぁそれにしても、火病して神社に放火して
憂さ晴らしするような在日に協力する政治家なんて 
もう日本に居ないんじゃないか?w

介護施設に身内を預けている人がいるなら 
養子縁組が無いか戸籍点検。 
これも情報拡散!

背乗りは戸籍乗っ取るからね 
ともかく改正原戸籍くらいは保存して所有すべき

※補足 改正原戸籍(かいせいげんこせき) wiki より概略

普通の戸籍謄本
→法改正により必要最低限事項のみ記載された戸籍
改正現戸籍
→法改正される前の、全部が載ったもともとの戸籍

◆在日のつぶやき

自公への政権交代前に高校の同級生の在日が同じ事をいっていたよ。
「民主党は在日に参政権をやる、日本人が在日を差別できないように人権被害救済法を作ってやる、在日が日本と韓国の二重国籍を持てるようにしてやると希望をもたせるようなことをいって、爺さんや親父の世代から散々献金や支援を受けておいて、何もしてくれなかった。あんなやるやる詐欺の政党はない。景気が悪くなって家業の売上が減っただけ。自公の方が10倍よかった」とこんな感じ。

◆上間 明彦氏 ‎KOKUMINnoKOE

自国民が外国に拉致されたら「返せ!」というのは当たり前。
だから日本人は北朝鮮に、拉致被害者を返せ!と怒っています。

ところで、日本国内の在日韓国人、朝鮮人は、
「強制連行されてきた!」とゆうていますね。

当然、韓国や北朝鮮は怒って「在日を返せ!」というはずですね。
あれ?ほぼ60年間、一度もそういう要求がないのはなぜですか?

自国民が強制連行されたんでしょ?それも何万人も。
あらゆることに難癖をつけてくる朝鮮族が、
なぜ「在日を返せ!」とだけは言わないのですか?

「強制連行されてから、長い年月がすぎた。
 今さら帰っても生活基盤がない」

長年拉致されていた同胞が、晴れて帰国するのです。
生活基盤くらい、政府が喜んで用意してくれますよ。

少なくとも日本はそうしますね。
北朝鮮に拉致されていた方が帰国したら、
生活に困らないくらいの手当は喜んでやりますよ。

「帰国するから、生活基盤を用意してくれ」と、
自分の母国に望めば良いではないですか?

要求して叶えられなかったならまだ分かる。
一度たりともそういう要求すらしたことないのはなぜ?

ああ、そういえば、日本政府に対しても、
「我々は帰りたい。祖国に帰らせろ」と一度も言いませんね?
「強制連行された」ならまず「帰らせろ」が普通でしょう。

夢にまでみた母国でしょう?帰りたくてたまらないでしょう?
日本は差別やら弾圧やらヘイトスピーチやらで地獄でしょう。

あれこれ言わずに「夢の母国」に早く帰りましょうよ。
日本からソウルまでなら、飛行機でわずか1時間ですよ。

◆永住外国人は「生活保護法の対象外」 最高裁が初判断

2014.7.18 産経ニュース

 永住資格を持つ中国人女性が、生活保護法に基づく申請を却下した大分市の処分の取り消しなどを求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第2小法廷(千葉勝美裁判長)は18日、「永住外国人は生活保護法の適用対象ではない」との初判断を示した。その上で、永住外国人も生活保護法の対象になると認めた2審福岡高裁判決を破棄、女性側の逆転敗訴を言い渡した。

 4裁判官全員一致の結論。永住外国人らには自治体の裁量で生活保護費が支給されているため、直接的な影響はないとみられる。

 生活保護法は、対象を「国民」に限っているが、旧厚生省は昭和29年、外国人についても国民の取り扱いに準じるよう通知。平成2年には、通知に基づく保護対象を永住外国人らに限定した。

 同小法廷は、受給対象を拡大する法改正が行われていないことなどから、永住外国人は対象にあたらないと判断。「外国人は行政措置による事実上の保護対象にとどまり、同法に基づく受給権はない」とした。

 22年10月の1審大分地裁は請求を退けたが、2審は23年11月、「永住外国人は生活保護を受給できる地位を法的に保護されている」と逆転勝訴を言い渡した。

 ■現状は支給、自治体を圧迫

 永住外国人は生活保護法に基づく保護の対象ではないと判断した18日の最高裁判決。原告の中国籍の80代女性は法的保護の必要性を主張したが、現状でも各自治体は、永住外国人や難民認定された外国人に対し、人道的な観点から行政措置として、すでに生活保護を支給している。外国人の受給世帯は年々増加しており、日本人世帯への支給増と相まって、地方自治体の財政を圧迫する一因ともなっている。

 厚生労働省の最新の調査(平成24年度)によると、生活保護の全体の受給世帯数は月平均155万1707世帯。そのうち外国人世帯は4万5634世帯と全体の3%近くを占めており、10年前と比較すると全体の伸び率を超え、1・8倍以上に増加した。

 国籍別(23年7月時点)では、韓国・朝鮮人が約2万8700世帯と最も多く、フィリピン(約4900世帯)、中国(約4400世帯)と続いている。

 外国人の受給世帯の増加が続く背景には、不景気が長引いたことや高齢化の影響があるという。

 厚労省の担当者は「地方自治体の財政負担増につながり、(受給世帯数は)増えて喜ばしい数字ではない」と指摘。その一方で「外国人でも生活に困窮している人には、人道的見地から支給が必要になることがあると考えられる」とも説明する。

 判決後、原告側の代理人弁護士は東京・霞が関の司法記者クラブで会見。原告の女性が日本で生まれ育ち、仕事を続けてきたことや中国語を話せないことに触れて、「不法入国や観光目的の外国人に認めないのは理解できるが、国籍以外は日本人と変わらず、きちんと生活してきた人には法律上の保護も認めるべきだ」と話した。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140718/trl14071823130007-n1.htm


なぜ日本に在日朝鮮人が寄生しているのか

2014-10-17 11:13:46 | 資料

在日はなぜ帰化しないのか

2014年09月28日 BLOGOS 池田信夫

慰安婦問題はもう終わったが、それを生んだ日韓の歴史問題は解決しない。基本的な事実認識がまだ共有されていないので、補足しておこう。在特会が在日の特別永住資格を「在日特権」と呼ぶのは、それなりに理由があるが、その理由は誤っている。

南朝鮮の公式史観では、大韓民国の建国は1948年ではなく、1919年に上海でできた「大韓民国臨時政府」という亡命政権である。彼らは日韓併合の前から抗日戦争を戦い続けて、1945年の「光復節」で勝利したことになっている。日系ブラジル人の「勝ち組」のようなものだ。

終戦のとき、当時の朝鮮半島は連合国の信託統治になり、1948年に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国ができた。彼らはサンフランシスコ条約のとき、戦勝国に入れろと主張したが、連合国はそれを認めなかった。

彼らは韓国籍か日本国籍を選ぶことができたが、日本国籍を選ばなかった在日は不法滞在という形になった。このため選挙権・被選挙権がないが、それ以外の権利は「特別永住者」として認められるようになった。これを「在日特権」というのはナンセンスだが、彼らに選挙権を与えろという主張もおかしい。帰化すれば、日本国民としての権利は与えられるからである。

なぜ在日は帰化しないのだろうか。「敗戦のとき日本国籍を自動的に与えなかったのは不当だ」というのが彼らの主張だが、サンフランシスコ条約のとき、戦勝国だと思っていた南朝鮮政府は、在日はすべて日本国籍を離脱するのが当然だと主張した。その後、帰国できない在日の人々が「やっぱり日本人のほうがいい」と言い始めたのだ。

だから日韓がいつまでももめる原因は、南朝鮮のゆがんだ歴史観にある。戦時下の朝鮮人は日本人だったので、在日は日本国籍を取ればよかったのだが、南朝鮮は日本国籍を否定したのだ。その後も、在日のコミュニティの中では帰化は裏切り者とみなされ、日本で生活できなくなるため、彼らは帰化しないでコリアタウンに固まって住んできた。

そのあげく、在日はみんな日本軍に「強制連行」されたという神話をつくって在日を被害者に仕立て上げ、それが嘘だとわかると、90年代に「慰安婦」が出てきた。この経緯は複雑で、南朝鮮の歴史には書いてないし、日本人は関心をもっていない。その結果として「在日特権」の批判と「強制連行」への贖罪が対立しているが、どっちも誤りなのだ。

追記:正確にいうと、サンフランシスコ条約ですべての在日が「朝鮮籍」になり、日韓条約で韓国籍になった。彼らの「国籍が剥奪された」というのは誤りで、日韓政府の合意で一律に国籍を喪失した。

http://blogos.com/article/95387/

◆土居 慎也氏 FBより

在日韓国人一世こと特殊武装部隊の悪行。何故、在日一世は後世に伝えなかったのか。

それは恐らく、韓国の文化である「臭いものには蓋をする。」や韓国人の性質である「都合の悪いことは絶対に言わない。」により継承されなかった。
しかし、民団は10月8日、軍人会のメンバーを集め石碑の撤去を行いこう言った。

民団「在日特殊武装部隊の我が身を犠牲にする精神を継承し、救国せよ。」

在日朝鮮人による戦後の悪行、在日朝鮮人の密造酒の取締りをした税務署員に殴る蹴るのリンチして死亡させていた。因みに孫正義氏の父親も密造酒の取締りで摘発を受けていた。

あれ?軍人会の皆さん、特殊武装部隊の英雄の歴史はどこに?

◆【民団新聞】「在日韓国人が戦後に行った酒密造、税務署や警察との武力衝突は犯罪ではなく生活闘争だった」

(2014.8.15 民団新聞) 

69年前の今日、8・15をむかえた同胞は、日本の地でも「ウリヌン ヘバンテッター!
(私たちは解放された)」と村々で叫び合った。 土地を奪われ、徴用や徴兵に従うしかなかった苦しみからようやく解かれたのだ。しかし、それはまた、日本での働き場を失うことをも意味した。

そこで、くず拾いや物品の買出し・売り出し、濁酒(=マッコルリ)づくりをして食いつなぐことになる。
同胞たちからは濁酒の記憶がよく現れ、断片的には語り継がれている。 
また、敗戦直後は日本各地で連日のように濁酒をめぐる事件があり、新聞記事になっている。  

報道では、おそろしい「密造」事件として語られ、同胞が犯罪集団であるかのようなイメージをつくっている。

そこでは先に述べたような、朝鮮人が失業状態に置かれており、 生活の困窮をしのぐためになされた面が抜け落ちているのだ。日本にいた同胞の8割は帰国を希望していた。だが、すでに土地と生活基盤を失い、政治も落ち着く気配がないために、 帰りたくとも帰れなかった。

よって、なんとか日本で生きる道を探ったのだ。 とくに、1947年におきた神奈川県川崎市における濁酒取締りと税務署員の死亡後に、同胞への摘発がすすめられていく。

この日、仕事を終えた税務署員が、帰り道で数名に囲まれて「税務署員か」と問いつめられた。
「そうだ」と答えると暴行を受け、それが致命傷となって3日後に死亡した。  

大蔵省当局はこの事件を、「不逞の報復」として危険視した(「酒類密造摘発に関する態勢確定の件」)。 
その後、強制送還をも視野に入れて、在日同胞を対象とした「密造」の取締りが開始された。  

横須賀(神奈川県)では同胞女性約30人が警察署に押しかけ、「警察に生活権をおびやかされた」と、署長に会わせなければ野宿でもするとすわりこんだ。

大阪では子どもたちがトラックの前に寝転んで検挙隊の進行を阻止し、女性のヘアー・ピンさえも武器にしてタイヤをパンクさせたのだ。

つまり一部の活動家や男性だけではなく、性別や年齢や学歴をも超えた同胞が主体となって広範になされたのが「濁酒闘争」である。 「ヤミ」をめぐっては1946年、椎熊三郎議員は、朝鮮人・台湾人が「あたかも戦勝国民のごとき態度をなし、 (略)その特殊な立場によって警察力の及ばざる点のあるを利用し、闇取引をなし日本の闇取引の根源は正に今日この不逞なる朝鮮人などが中心となっている」と発言した。

しかし実際には、露店商で検挙されるのは同胞より日本人の方が多かった。そして1949年には、吉田茂からマッカーサー宛てに、日本にいる朝鮮人全員の強制送還さえ提案されていた。  

違反をせねば生きていけなかった当時、同胞たちは生活保障もないままバッシングにあい、生きる途が切り縮められていった。 各地の同胞集住地で取締りにあったとき、多くの同胞が必死に抵抗した。

それは、たんに犯罪や違反の事件群なのではなく、 民衆たちが自らの生活と権利をかけて闘った「濁酒闘争」というべき軌跡である。  

これからも1世が生き抜いてきた営為と歴史を掘り起こし、解きほぐされていない偏見や痛ましい過去を克服していきたい。 それは、3世以降の私たち自身がどのような背景をもって生まれ、 どのような人生を切り開いていくべきかを探究することにもなるだろう。

http://www.mindan.org/search_view.php?mode=news&id=19329 (期限切れ?)
 
◆韓国大統領・朴正煕は在日朝鮮人が密航者である事を公式に認める
(日韓条約批准書交換での談話 ) 
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19651218.S1J.html 

[文書名] 日韓条約批准書交換に関する朴正煕韓国大統領談話 
[年月日] 1965年12月18日 
[出 典] 日本外交主要文書・年表(2),629-630頁 及
「大韓民国外交年表 附主要文献」,1965年629-630頁 
[備 考] 翻訳 玄大松 
[全 文] 大統領談話文(韓日協定批准書交換に際して) 

親愛なる在日僑胞の皆さん! 
そうして私は,日本の空の下で韓国同胞たちが再び分裂して相剋することなく, 
暖い同胞愛の紐帯の中で互いに和睦して親近となり,また幸福な生活を営なむことを
希望してやみません。 

これとともに私は,これまで"分別なく故国をすてて日本に密入国"しようとして抑留され, 
祖国のあるべき国民になれなかった同胞に対しても,この機会に新しい韓国民として
前非を問わないことをあわせて明らかにしておこうと思います。 

再びこうした分別のない同胞がいなくなることを希望しながら,今日からわれわれは 
新しい気持と新しい心構えで,栄えあるわが祖国を建設する働き手とならんことを,
訴えてやみません。 

1965年12月18日 
大統領 朴 正 煕 

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19651218.S1J.html
 
◆特別永住資格

当初は、この特別永住資格は在日一世とその子=二世にだけ適用されるはずであった。
在日コリアンは、遅かれ早かれ、その母国に帰ると思われ、またコリアンたち自らもそう宣言していた。
(在日一世たちは、いずれこの国、日本からは出て行くのだから、と年金の掛け金を払いませんでした。ですから、年金を受給する資格がないのは、当然のことです。差別でも、なんでもありません)。
 しかし、朝鮮戦争などの勃発により、コリアンは帰国するどころか、密航してでも日本に来るようになってしまった。

――『産経新聞』1950年6月28日には、
「終戦後、我国に不法入国した朝鮮人の総延人員は約20万から40万と推定され、在日朝鮮人推定80万人の中の半分をしめている」 また『朝日新聞』1955年8月18日
「65万人(警視庁公安三課調べ)の在日朝鮮人のうち密入国者が10万人を超えているといわれ……(後略)」
 さらに『朝日新聞』1959年6月16日
「密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られているが、警視庁は約20万人ともいわれ、実際どのくらいいるかの見方はマチマチだ」――

 要するに、密入国者の実態は分からないのだ。この後、さらにベトナム戦争の時も、徴兵逃れで日本に密入国した者が多くいたようである。

 で、いつものごとく温情主義の日本は、なし崩しに在日二世以降の子孫にも特別永住資格を与えてしまった。おまけに、密航などによって、日本に入国した難民にまで、どさくさに紛れにその資格を与えてしまった。

 そのため、今や在日四世や、在日五世などという訳の分からない存在まで出始めている。帰化したくても帰化できない密入国者の特別永住者も、相当数に上ると推測される。(犯罪者は、一応帰化できないことになっている)。

 帰国もしない。帰化もしない。外国人なのに、子々孫々まで日本に居座るつもり満々の、鵺のような存在。それが在日コリアンである。
 だから、帰化もしないのに、参政権だけ求める、などという頓珍漢なことになる。
 また、そもそも年金の掛け金を払っていないにも関わらず、今になって年金をよこせと言い出す始末。
 まことに、困ったものである。
 とにかく、在日一世の子孫に生まれれば、外国籍のまま日本の永住資格が得られる。
 他の外国人の一般永住者に比べると、夢のような特権である。

 落ちぶれたりとはいえども、日本は、世界第三位の経済大国で、住みやすさはトップクラスだ。綺麗な空気と飲める水、そして安全がほぼ無料、という国はそう多くはあるまい。
 その永住資格なら、みんな喉から手が出るほど欲しいわけだ。

 コリアンではない、普通の外国人の一般永住者は、素行が善良であること、独立して生計が立てられることなどの条件を満たしていなければ、永住資格を獲得できない。(出入国管理及び難民認定法第22条2項)。
 しかし、コリアンには、そんな縛りはない。事実、独立して生計を立てるどころか、コリアンの生活保護受給者は、異様に多いのだ。
 そんな永住資格を、ただ同然で手に入れられるのであるから、むしろ他の外国人に対する、一種の差別ではないかとさえ思われる。

 さて、戦後の混乱期、在日コリアンが、三国人を自称して暴れ回ってきたことは周知の事実である。
 ここに、不思議な資料がある。姜尚中著「日朝関係の克服」p71~72です。日本赤十字の非公式な文書(「在日朝鮮人帰国問題の真相」一九五六年)。

――朝鮮人の場合は、今迄とは打って変わり、戦勝国民となり、治外法権が認められた。それが彼らにとり、どんなに気持ちよかったかは想像にかたくない。単に精神面に於いてのみならず、物質面に於いても、彼等は日本人が住む家なく、着るに衣なく、飢餓にあえいでいる最中、その特権を利用してあらゆるボロ儲けをすることが出来た。換言すれば朝鮮人にとっては、今迄地獄だった日本が突然天国になったようなものである。――

 ま、姜尚中が、コリアンに不利益になるようなことを書くはずがないから、確かなソースなんだろう。
 姜尚中によると「差別的な偏見」のある記述だそうだが、どの辺が差別なのか、さっぱり見当がつかない。
 どうも、コリアンは、一度!)差別!)とか、!)レイシズム!)とか言ってしまうと、そこで思考停止するようである。

http://melma.com/backnumber_45206/ 
 
◆【要拡散】在日朝鮮人が必死で隠す「君が代丸」の史実を広めよう!

テーマ:日本
【要拡散】在日朝鮮人が必死で隠す「君が代丸」の史実を広めよう!なぜ嫌がるのか?強制連行が真っ赤な嘘である動かぬ証拠だからだ!

Wikipediaに削除依頼があるそうです、消される前に拡散しましょう!
少しでもお手伝いになればと思い、一部転載します。
http://www.news-us.jp/article/297414513.html

中国・韓国・在日朝鮮人崩壊ニュースさんより

*****以下一部転載*****

313 :可愛い奥様 :2012/10/12(金) 01:08:49.67 ID:SiC3R6YM0 

●『在日・強制連行の神話』( 鄭大均著 文春新書)より 
「在日の多くは海峡を自らの意志で越えたのだ。
在日は強制連行されてきた人々とその末裔だとする主張がある。
が、一世の証言に丹念にあたれば、それが虚構にすぎないことが分る」

●『これでは困る韓国』呉善花、崔吉城 1997 より 
呉「在日の人たちにしても、植民地時代も自分の意志で
積極的にきた人のほうがずっと多いんじゃないですか。
強制連行で連れてこられた人たちはほとんど帰ってしまったわけですから。」 
崔「そこはいいポイントです。事実はまさしくその通りなんです。」 
朝鮮人によるマスコミへの卑劣な圧力が無かった頃は、
朝日新聞も大量の密入国者がいる事実を報道してました。

●『朝日新聞 1959年6月16日付』
(「世界」 2000年10月号
戦後日本「在日外国人」の虚像と実像 原尻英樹)より
「密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られている」

●『歴史を捏造する韓国 韓国併合と搾取された日本』中川八洋著より 
「GHQは「在日」の朝鮮人の”帰国”に過剰ほどの支援をなして、すべての希望者に帰国のための無料の船便を提供しています。」

徴用を受けた朝鮮人の大半は戦後帰国しました。 
現在日本にいる自称在日朝鮮人のほぼ全てが密航・密入国犯罪者とその子孫です。 
戦前、戦後に密航・密入国してきた凶悪犯罪者なのに、徴用を受けた朝鮮人への特権を詐取するために、 徴用されたと偽る邪悪な朝鮮人密入国犯罪者とその子孫が大勢います。

316 :可愛い奥様 :2012/10/12(金) 01:14:47.20 ID:pRsqZ4ZU0 
>>313に関連して、こんなコピペも… 

【きみがよ丸】 
強制連行がウソであるという動かぬ証拠がきみがよ丸。

在日一世や二世は自分たちのルーツを知っています。 
済州島と大阪を結ぶ定期便の名前が、 【きみがよ丸】だったからです。 
日韓併合時代の済州島民にとってきみがよ丸の名前を知らない人はいなかったでしょう。

この船の名前がおおっぴらになると在日朝鮮人達に何が起こるか。 
強制連行がウソであるという動かぬ証拠がきみがよ丸。 
(この出稼ぎ用の定期航路は大人気で、のちに第二きみがよ丸も就航するほどだった)

・詳しく調べれば、きみがよ丸に乗ってきた 善良な人達はあらかた帰還事業で 帰国したことが解る。

・さらに調べれば、朝鮮戦争当時に日本へ 密入国してきた朝鮮人達がクローズアップされる。 

・もっと調べれば、李 承晩ラインの時に釈放された在日の凶悪犯達のことも 白日の下に晒される。 

・つまり自分たちの先祖達が凶悪犯だらけってのが、実に論理的に判明してしまう。

在日朝鮮人達がなんとしても隠し通したい上記のことを、君が代を聴いたり目にしたりするたびに思い出してしまうから 君が代をあそこまで憎む理由。

在日は君が代のメロディでも歌詞でもなく、 【きみがよ】という4文字を見たり聞いたりするのが何よりもイヤだったのです。 
君が代の出だしを聞くだけで自分たちの祖先が悪人であると思い知らされる。 
それが日本人にばれるんじゃないかと気が気ではない。

318 :可愛い奥様 [sage] :2012/10/12(金) 01:19:08.03 ID:XOsfyrs60 
>>316 
昨日の花時計さんの街宣でもきみがよ丸のこと言ってましたね。
あれはよかったです。 
在日のことをけっこう知ったつもりでいたけど君が代丸のことは知らなかった。 
Wikiに削除依頼出してる人がいることも合点がいくわ。
愛国女性のつどい【花時計】街宣in渋谷 韓国・朝鮮の嘘にご用心! 

(ここからWikipedia「君が代丸」の全文コピペ)

君が代丸
君が代丸(きみがよまる)は、1922年から1945年にかけて日本統治時代の朝鮮の済州島と大阪を結んで尼崎汽船が運航していた貨客船である。
第一君が代丸と第二君が代丸の2代が存在した。
当時、日本と朝鮮半島を結ぶ航路としては、関釜連絡船以外で数少ないものであった。

君が代丸
「第二君が代丸」の船影。

第一君が代丸
「第一君が代丸」は、1891年にオランダで建造された669トンの船「スワールデクールン」(Swaerdecroon)で、尼崎汽船はこの船を1922年(大正11年)に済州航路に投入した。
しかし1925年(大正14年)9月、航行中に台風と遭遇して、人命を優先して済州島に座礁させられた。
1943年(昭和18年)に関西汽船の所有となる。1945年(昭和20年)5月23日大分県姫島付近で、アメリカ軍の飢餓作戦により敷設された機雷に接触して沈没した[1]。

第二君が代丸
「第二君が代丸」は尼崎汽船が座礁した「第一君が代丸」の代船として1925年に購入した、919総トン、全長62.7メートルの船である。
今日「君が代丸」として語られるのはこの「第二君が代丸」である。

第二君が代丸
ロシア帝国軍艦として現役時代の写真。
前身はソビエト連邦政府から購入した軍艦「マンジュール」(ru)で、帝政ロシア時代の1886年に建造された排水量1224トンの砲艦であった。
日露戦争期には太平洋艦隊所属艦として中立の中国にいて、武装解除されていた。
日露戦争後には戦列復帰して、革命後にはソ連海軍でも使用されていた。
なお、仁川沖海戦で沈んだ「コレーエツ」(en)は同型艦。

購入後に大阪で貨客船へと改装し、1926年(大正15年)に大阪-済州島間に就航した。
元軍艦ということで、船首に衝角が突き出した商船としては特異な姿であった。
「第二君が代丸」は既に船齢44年と老朽船の部類に属したが、その後20年間就航した。
昭和20年(1945年)4月、安治川付近にあったところをアメリカ軍の空襲を受け沈没した。
一方、アメリカ海軍の公式年表によると、6月1日の大阪大空襲の際にB-29爆撃機により撃沈となっている[1]。

航海
大阪と済州島の間はおよそ2日の船旅で、大阪を朝出港すると済州島には翌日の夕方に到着するスケジュールであった。
そのまま2日かけて済州島を周回して合計11か所に寄港した。
しかし接岸できる岸壁はなかったため、艀による連絡に頼っていた。

船には甲板上の上等船室と甲板下の下等船室があった。
乗船すると白米の食事が提供され、麦飯を食べるのが普通だった当時の済州島民は驚いたという。
しかし下等船室には多くの旅客と荷物が詰め込まれており、大変不潔な環境であったという。

エピソード
・定員は365人であったが、常に定員の2倍近い人数が乗船したという。

・多くの朝鮮半島からの出稼ぎ者を運んだ。盆・正月には大阪の港は帰省する朝鮮人出稼ぎ者や見送りの家族で溢れたという。

・昭和3年(1928年)4月、済州島住民と運営会社との間で運賃についてトラブルが発生したことがある。
当時「君が代丸」の運賃は12円50銭であり、出稼ぎ女工の日給が1円である時代に「月給の2倍」とも言われた運賃は高額であるとして値下げと船客の待遇改善を要求された。
運営会社側は当初取り合わなかったが[2]、昭和5年(1930年)11月に済州島住人が函館成田商会から「蛟竜丸」を借りて東亜通航組合を設立し、運賃を6円50銭に設定して運航を開始したことから、「君が代丸」もやむなく運賃を3円まで引き下げた。
組合は「蛟竜丸」の賃貸契約終了後は北日本汽船会社から「伏木丸」を購入し運航を開始したが、運賃を低額に設定し過ぎたため赤字が累積し、また既存の定期船に対する営業妨害があまりにも激しかったため警察の取り締まりを受け、昭和8年(1933年)12月1日をもって運航は停止された。

・当時の済州島民にとっては巨大な船に見えたらしく、済州の言葉で大きいことを「君が代丸のようだ」と表現する慣習は第二次世界大戦後も長く残っていた。

脚注
1.^ a b Cressman, Robert. “Chapter VII: 1945”, The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II, Annapolis MD: Naval Institute Press, 1999.
2.^ 「鳥でない以上飛んでいけないし 魚でない以上泳いでいけないだろう」との会社側の発言が残っているが、後日低運賃での運航を開始した東亜通航組合が累積赤字で破綻したことを考えると常識的な回答と言える。

参考文献
辛在卿「についての歴史的考察」、『京都創成大学紀要』第7巻、成美大学、2007年1月、 15-28頁、 NAID 110006487152。

関連書籍
杉原達 『越境する民―近代大阪の朝鮮人史研究』 新幹社、1998年。
金賛汀 『異邦人は君ヶ代丸に乗って―朝鮮人街猪飼野の形成史』 岩波書店〈岩波新書〉、1985年。

関連項目 
・ru:Манчжур (канонерская лодка) - 第二君が代丸の前身の砲艦「マンジュール」についてのロシア語版記事。
・生野コリアンタウン
・血と骨

君が代丸 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3%E4%B8%B8
*****転載以上*****

リンク先にまだまだ貴重な写真がたくさんあります、是非ご覧になってください。

http://www.news-us.jp/article/297414513.html

◆資料発見!在日韓国朝鮮人は戦前から大量密入国をしていた!あの人物の祖父も日本で働いていた!

2013-10-27

在日韓国・朝鮮人による日本密入国は戦後だけの話ではなかった!
貧しい国から富める国に密入国してでも行きたい気持ちは今も変わらない!


 なでしこりんです。在日韓国人は「うそつき」が大変多いと言われています。韓国における「偽証罪」や「誣告罪」は「日本の100倍以上」と言われていますから、韓国人は「うそをつくことに罪悪感を感じていない」ようです。 その点は、在日韓国人もどうやら「血は変えられない」ようですね。今日は、在日韓国・朝鮮人が常日頃から言っている「強制連行」について書きます。

 明治43年(1910年)に「日韓併合」が成り立った直後から、朝鮮人による「日本渡航」が開始されます。最初は「留学」が多かったといいますが、それがやがて「日本なら稼げる」ということで「日本への出稼ぎ」が朝鮮でのブームになります。その背景にあったのが「朝鮮半島での人口増加」です。「日本統治時代35年間」の間に朝鮮半島の人口は「1300万人から2500万人に増加」しましたでしょ。朝鮮半島で朝鮮人が増えると、当然、朝鮮半島での「人余り」が起こりました。 そして、「朝鮮人によるに日本への大量密入国」が始まります。


「以下、戦前のみの密航検挙の記事(一部)」

・『鮮人内地へ密航/発見されて説諭』 大阪朝日 1921/7/15 鮮満 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】

・又も帆船で密航した不逞鮮人四名逮捕さる』 大阪朝日 1922/5/20 〔7/4〕 下関・兵庫 【社会】

・『北鮮から密航の怪鮮人/新羅丸の石炭庫に潜伏』 福岡日日 1922/5/21 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】

・『鮮人十名密航』 大阪朝日 1922/7/2 夕 〔2/1〕 下関・山口 【社会】

・『鮮人十名の密航者/京畿丸に潜伏』 京城日報 1922/7/4 〔4/8〕 下関・山口 【渡航】

・福岡・山口 【渡航】・『密航鮮人発見(遠賀郡芦屋町)』 門司新報 1923/11/7 〔1/5〕 遠賀郡・福岡 【渡航】

・『内地密航と取締』 大阪朝日 1923/12/6 鮮満 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】

・『鮮人の内地密航に警戒の眼が光る/釜山水上署の取締』 京城日報 1923/12/20 〔2/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】

・『発動船で密航/鮮人九名発見』 福岡日日 1924/2/21 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】

・『丗名の鮮人欺されて密航/山口特牛港に』 福岡日日 1924/5/2 〔1/3〕 ・山口 【渡航】

・『五十余名の密航団/難船して露見に及ぶ』 京城日報 1924/5/9 夕 〔2/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】

(資料元 http://ccce.web.fc2.com/zm.html

*在日韓国・朝鮮人や左翼は、こういう「密入国」はすっとぼけますからね!ホントずるい連中ですね!

 当時から日本は、アジアの先進国でしたから、「日本に行けばなんとかなる」、「日本で一旗あげる」と考えた朝鮮人も多かったでしょう。ここにわかりやすい例があります。 北朝鮮の金正恩の母親は大阪生まれの「高山あゆみ」こと「高英姫(コ・ヨンヒ)」ですが、高英姫の父親は高沢(コ・ギョンテク)といいます。高沢は、昭和4年(1929年)、彼が16歳の時に日本に入国し、陸軍管轄の大阪の広田裁縫所に勤務しています。高沢は戦後は、日本と朝鮮半島の間の密航船を運営していて逮捕され強制退去処分になりますが、「娘の出世」のお陰で北朝鮮で86歳の天寿を全うしています。当時の「日本と朝鮮」の関係は「アメリカとメキシコ」の関係ですね。在日が盛んに宣伝している「強制連行」という嘘の実態が見えてきませんか?

 さて、朝鮮半島で「日本へ行こうブーム」は加熱していきます。 あまりの朝鮮人の日本流入に対して、昭和9年(1934年)10月に岡田内閣は、朝鮮人の移入によって治安や失業率が悪化したため、朝鮮人の移入を阻止するために「密航」の取り締まりを強化するための「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定します。「日本に行けばなんとかなる」という漫然と渡来する朝鮮人労働者が激増したため、日本政府も深刻な社会問題として認識していたんですね。以下、資料です。

朝鮮人移住対策ノ件
昭和9年10月30日 閣議決定

朝鮮南部地方ハ人口稠密ニシテ生活窮迫セル者多数存シ之カ為南鮮地方民ノ内地ニ渡航スル者最近極メテ多数ニ上リ啻サヘ甚シキ内地人ノ失業及就職難ヲ一層深刻ナラシムルノミナラス従来ヨリ内地ニ在住セル朝鮮人ノ失業ヲモ益々甚シカラシメツツアリ又之ニ伴ヒ朝鮮人関係ノ各種犯罪、借家紛議其ノ他各般ノ問題ヲ惹起シ内鮮人間ニ事端ヲ繁カラシメ内鮮融和ヲ阻害スルノミナラス治安上ニモ憂慮スヘキ事態を生シツツアリ 

朝鮮南部は人口が密集し、生活に困る者が多数存在し、このため南朝鮮から内地(日本)に渡航する者が最近は多い。ただでさえ、内地での失業や就職難であるのに(朝鮮人の日本への渡航はその状況を)、いっそう深刻化させるのみならず、以前から内地に在住している朝鮮人の失業さえもますますひどくさせている。またこれに伴って、朝鮮人関係の犯罪、借家紛争の他にもさまざまな問題を引き起こし、内地と朝鮮の人間の間での事件も増え、「内鮮融和」を阻害するのみならず治安上でも憂慮すべき事態を生みつつある。

朝鮮人移住対策要目
三、朝鮮人ノ内地渡航ヲ一層減少スルコト (朝鮮人の日本渡航をさらに減少させよ)
(一)朝鮮内ニ於ケル内地渡航熱ヲ抑制スルコト (日本への渡航熱を下げよ)
(二)朝鮮内ニ於ケル地元諭止ヲ一層強化スルコト (地元(朝鮮)で渡航説得を強化せよ)
(三)密航ノ取締ヲ一層厳重ニスルコト (密航の取締りをさらに厳重にせよ)

*全文ハ「国立公文書館所蔵公文別録」ヲ参照ノコト 
http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00103.php

 在日韓国・朝鮮人にとっての「日本近現代史の捏造」はズバリ、「在日韓国朝鮮人の密入国犯罪隠し」であり「出自隠し」ですね。 そして、「日本人に加害者意識」を植え付ければ「金にもなる」わけです。 でも「事実」を見れば、貧しい国の人間が富める国を目指すのは今も変わらぬ「自然の摂理」ですよね。 日本国内ですら失業が多かった時代に「わざわざ日本語も満足できない労働者を強制連行する必要があったのか」という視点に立てば、「在日韓国・朝鮮人の強制連行の嘘」が見えてきませんか?  
By なでしこりん

http://ameblo.jp/fuuko-protector/entry-11651774720.html?fb_action_ids=505715646190903&fb_action_types=og.likes&fb_source=other_multiline&action_object_map=%7B%22505715646190903%22%3A282545638537312%7D&action_type_map=%7B%22505715646190903%22%3A%22og.likes%22%7D&action_ref_map=%5B%5D



朴槿恵が「歴史と向き合わない国に未来はない」と言う。ならばよろしい②

2014-10-17 10:05:54 | 資料

◆南朝鮮の文化 

★新婚初夜覗き 

新婚初夜覗き(しんこんしょやのぞき)とは、新婚初夜の寝室を覗き見する韓国の伝統的な風習である。
南朝鮮語では、シンバンヨッポギ(신방엿보기)という。

シンバン(新房)とは新婚夫婦の初夜の寝室のことで、ヨッポギは覗きという意味である。

南朝鮮では伝統的に、新婚初夜には親戚や近所の人々が
寝室の障子に穴を開けて中を覗き見する習慣があった。 

覗きの習慣が生まれた理由については、早婚が盛んだったため幼い夫婦が失敗しないように見守るためであるとか、新婚夫婦を悪鬼から守るためなどといわれている。

最近では住宅事情の変化などにより、覗きは行われなくなってきている。 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%A9%9A%E5%88%9D%E5%A4%9C%E8%A6%97%E3%81%8D 
★南朝鮮の新郎いじめ 

新郎扱い(しんろうあつかい、신랑다루기)は、新郎を集団でいじめる南朝鮮の伝統的な風習である。 

結婚式の後で新郎が新婦の家に初めて行った時に、新婦の親戚や近所の人達が集団で新郎を取り囲み、肉体的精神的ないじめを行う。

地方によって、いじめ方が違うが、次のようないじめが行われる。

新郎の足首を縛って、逆さ吊りにして、棒で足の裏を殴り続ける。
ひどい場合には、殴られた新郎は歩くのが難しくなることもある。

また、新郎に漢詩を作れと強要し、下手だとケチをつけて馬鹿にする。
新婚夫婦の性的な事を根掘り葉掘り問い詰めたり、あれこれと質問責めにする。

宴会の金を持ってこいと言う。などのいじめが行われる。 
そうするうちに、新婦の家で料理や酒を持ってくると、いじめをやめて宴会となる。
現代では披露宴の会場でいじめが行われることもある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%96%B0%E9%83%8E%E3%81%84%E3%81%98%E3%82%81 

★シバジ 

シバジ(朝鮮語:씨받이)とは、朝鮮半島において、李氏朝鮮中期以来存在した風習の一つで、家の跡継ぎとなる男子を得るために、子供を生むための女性を雇うこと。

また、それに従事する女性をさす。現代においての代理母と似た概念である。
日韓併合後に禁止された。 

씨(シ)が「種」を、받이(パジ)が「受けること(もの)」を意味することから、日本語で「種受け」と訳されることがある。なお、動植物の採種も同じ語で表すことがある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%90%E3%82%B8

★試し腹 

父親が自分の娘が妊娠できるかを確認する為に、性行為をして孕ませる行為。 

昔の朝鮮では 父親の権利が絶対だそうです。
女は女房でも 娘でも奴隷扱いだったそうです。 

嫁に出す娘が、確かに妊娠できる事を証明するために親兄弟で強姦して妊娠した状態で嫁に出す。生まれる子供は奴隷身分。 大人まで生き延びる確率も少ない 

生まれてこなければ良かったとの苦しみの一生を過ごすことになる。 

「女は子を産む道具でしかない」朝鮮では、 「道具(女)が不良品(不妊症等)であってはならない。 

故に、『これこの通り、妊娠できる体でございます』ということを証明するために、 「種男」という男に娘を犯させ、妊娠した状態で輿入れさせる」。 

これを「試し腹」と言います。 

産まれてくる子供は、当然夫の血を引いていないため、妻と同じ奴隷的な身分しかなく、 結婚はおろか大人になるまで成長する者も稀だったと言われています。 

自分の娘を血縁の近い男(兄や叔父)に妊娠させて、妊娠できる女と証明させて 嫁がせる儒教思想が暴走した悪しき習慣だそうです。

★奴隷制度  

は品物のように売買・略奪・相続・譲与・担保の対象になった。  

かれらはただ主人のために存在する主人の財産であるため、主人が殴っても 犯しても売り飛ばしても、果ては首を打ち落としても何ら問題はなかった。 

それこそ赤子の手を捻るように、いとも簡単に主人は碑女たちを性の道具にしたものであった。奥方たちの嫉妬を買った碑女は打ち据えられたり、 ひどい場合は打ち殺されることもあった。  

外観だけは人間であるが主人の事実上の家畜と変わらなかった碑女たちは、 売却・私刑はもちろんのこと、打ち殺されても殺人にならなかったといい、 

韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っかかっている 年頃の娘たちの遺棄死体があったといわれる。 

局部に石や棒切れをさしこまれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に 奥方に殺された不幸な運命の主人公であった。

★李氏朝鮮時代の身分制度 

この時代(1392年―1910年(ただし、1897年からは「大韓帝国」であったが、実体は李氏朝鮮時代))の身分制度も高麗時代のものを継承した。 

身分は、大きく「良民」と「」に分かれる。 

「良民」とは、自由民であり、納税、国役の義務を負い、 さらに「両班(文班、武班)」、「中人(下級役人、技術官など)」、「常民(農民、商人、職人)」に分けられた。 

「」は「奴隷―」と「白丁(ペクチョン)(動物のに従事する者)」、 「才人(広大ともいう)(芸人)」、「官妓(役所に所属する酌婦)」、 「牽令(キュンエン)(牛・馬を引く者)」、「砲手(猟師)」、「水尺(スチョク)(狩猟民)」、「駅卒(駅の使用人)」、「巫女」、「僧侶」など多岐にわたっていた。 

「」は「―国家に所属するもの」と「―個人に所属するもの」に分けられていた。 

さらには「、」「」とも「入役」と「納貢」とがあった。 

「入役」は、国の労役や主人の雑役に従事しなければならないが、 「納貢」は国や主人から独立の生計を営みながら一定の身貢をする義務があった。 

「」は売買、贈与、相続の対象となった。

つまり、財物として扱われていた。 
父母の一方がの場合は、子もとなった。

「両班」が罪を犯し「」になったり、 「」が軍功などで「中人」、「常民」になったりすることもあったが、 極めてまれで身分間の移動はなかった。 

豊臣秀吉の朝鮮征伐
(文禄の役(1592年―朝鮮では壬辰倭乱(イムジンウェラン)・慶長の役(1596年―朝鮮では 丁酉再乱(チョンユウチェラン))のときに、

ソウルの王宮(景福宮)が放火され炎上したが、 これは日本軍のものではなく(朝鮮では日本軍が放火したと捏造している)、が登録簿を滅失させるために行ったものである。

日本の名誉のために当時の文書から引用する。 
「城中を観望すれば、火起こりて煙焔天に漲る。 蓋し乱民先ず、堂隷院刑曹を焚く。
その公の文籍在る所を以ってなり・・・・」 
(朝鮮史第四編第九巻宣王25年4月30日)。 

奴婢制度は、1894年の甲午改革で廃止されるまで続いた。

しかし、なかなかその偏見は収まらず、 現在でも「五姓」といっての子孫とされる「姓」があり、結婚・就職などの障害が見られる。 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
★マリ・ニコル・アントン・ダブリィ主教「韓国事情」 

「半島の両班は、まるで支配者か、暴君のごとくふるまっている。
両班は、金がなくなると、 使者を送って商人や農民を捕えさせる。

その者が手際よく金を出せば釈放されるが、 出さない場合は、両班の家に連行され投獄され、 食物も与えられず、両班が要求する額を支払うまでムチ打たれる。

両班の中で最も正直な者たちも、 多かれ少なかれ、自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、それに欺かれる者は誰もいない。 

なぜなら、両班たちが借用したものを返済したためしが、いまだかつて、ないからである。 

彼らが農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合支払いなしで済ませてしまう。
しかも、 この強盗行為を阻止する守令は一人もいない。」

★スウェーデン人 アーソン・グレブスト 

李氏朝鮮の残酷な死刑や拷問に対して「こんな状況がまだこの地球の片隅に残されていることは、 人間存在そのものへの挑戦である。 

とりわけ、私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは、異教徒の日本人が半島を手中にすれば真っ先にこのような拷問を廃止するだろうということだ」  

★アメリカの鏡・日本 ヘレン・ミアーズ 

「悲劇の朝鮮」 「朝鮮は古くから支那の属国だった。
国を統治する王家はあったが、彼らは支那朝廷に朝貢し、外交政策は中国に指導を仰いでいた。」 

★フランス人宣教師 シャルル・ダレ(韓国事情・平凡社東洋文庫)

1871 年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が半島を襲い、国土は荒廃した。
あまりの酷さに、西海岸の人々のなかには 、娘を支那人の密航業者に1人当たり米1升で売るものもいた。

北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人かの朝鮮人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。

しかし、そんなときでさえ、 半島国王は、支那や日本からの食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。」 

http://sound.jp/sodaigomi/dorei/kankoku/tamesihara.htm

★朝鮮の食糞文化  *閲覧注意
朝鮮の食糞文化とは、親の大便を息子が嘗めることを孝行として褒め称える、
朝鮮民族特有の文化・風習、および、人糞を利用して料理を作りそれを飲食する文化・風習。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E9%A3%9F%E7%B3%9E%E6%96%87%E5%8C%96

★嘗糞(しょうふん) *閲覧注意
嘗糞(しょうふん、サンプン、상분)とは、人間の糞を舐めて、その味が苦ければその人物の体調は良くなっており、甘ければ体調が悪化していると判断する、古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われた民間療法。儒教では孝行の一種とされている。

★朝鮮での嘗糞の実際 
朝鮮では、6年以上父母の糞を嘗めつづけ看病し、病気を治した孝行息子の話などの記録があり、指を切って血を飲ませる「指詰め供養」(断指)や内股の肉を切って捧げる「割股供養」などと共に、親に対する最高の孝行の一つとされた。 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E 

★トンスル *閲覧注意
トンスル(똥술)は、韓国で飲用される人、犬、猫、鶏などの糞に漬け込んだ薬用酒。人糞酒。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%AB 

★朝鮮時代のソウル市内は汚物まみれ、衛生状態が深刻だった=南朝鮮
(サーチナ 2012/10/11 10:38) 
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=1011&f=national_1011_014.shtml 

ソウル大医科大学・シン・ドンフン教授の研究チームは10日、「景福宮の塀、光化門広場の世宗大王銅像の下、市庁舎付近、宗廟広場などソウル四大門の重要なポイントの朝鮮時代の地層から、各種の寄生虫の卵が発見された」と
明らかにした。複数の南朝鮮メディアが報じた。 

★食べ物だけでなく、武器もウンコだった。 

【噴水台】人糞 | Joongang Ilbo | 中央日報 2010年08月20日17時42分 
http://japanese.joins.com/article/303/132303.html 

…朝鮮民兵の武器だった糞砲と金汁がその例だ。 糞砲は器にためておいた糞尿を竹の筒に入れて城の下の敵に噴射した。 金汁は人糞を濾して1年ほど腐らせたもので、毒性が非常に強く臭いが強烈だったという。 

★現代の南朝鮮人は、人糞をまいて意思表示  *閲覧注意

http://i.imgur.com/T5Ty4AP.jpg
http://i.imgur.com/Niknvli.jpg
http://i.imgur.com/0Ev3HRd.jpg
http://i.imgur.com/msadigj.jpg

★【噴水台】人糞 | Joongang Ilbo | ⓒ 中央日報/中央日報日本語版] 
2010年08月20日 
http://japanese.joins.com/article/303/132303.html 

「 人糞を治療用として食べた記録も見られる。 
『東医宝鑑』は、自ずと死んだ鳥や獣の肉を食べて中毒になった時、人糞汁を食べさせればよいと書いている。 毒キノコ中毒になった時、人糞を一升食べさせるという記録もある。 

むちにひどく打たれて重い病気にかかった人に人糞を食べさせる秘方もあった。 
昔の歌歌いがのどを通すために人糞を濾した糞水を飲んだというのはよく知られている話だ。 
最近ではパク・ドンジン、イム・バンウルなどの国楽人もそうだという。」 

何もかも日本を真似て、定着すると朝鮮起源と言い出す泥棒国家。海苔も海苔巻きも朝鮮起源と言うが、海苔や海草類を朝鮮人は消化出来ない。消化出来るのは世界で唯一日本人だけというのが、それを証明している。古代から日本人だけが海草類を食用にしたために、日本人だけが腸に消化バクテリアを持つ。大陸起源の朝鮮人には存在しない。それなのに、日本人は朝鮮人起源という大嘘を吐く。近代の文献すら持たない国の想像力は、周囲の国の歴史を盗むしか満足させられない盲腸のような民族だといえる。切って捨てるしかない。

◆世界史最大のミステリーは李氏朝鮮

・暦が無い
・木の加工技術が無い
・染料が無い
・農耕具も無い
・車輪等の運送技術も無い
・四則演算以上の数学もない
・漁業関係の技術も無い
・商店禁止

こんな状態でどうやって文明を維持したのか意味不明すぎる。

李氏朝鮮時代に染め物の技術が無く、庶民や奴隷は白い布で作られた衣服しか着ていなかった。両班は中国から買った布で作られた色つきの衣装が買えたのだが、貧しい両班もやはり白い布の衣装が多かった。

日本に併合されて染め物の技術や文明的な日用品が入ってきて、日本と同じように、近代的な服を着るように奨励した。

ところが、何もかもが反日的悪意に解釈する韓国人は、この奨励した近代文化を、朝鮮の伝統的な白衣民族の文化を抹殺するために、日帝が強制したと報道している。

【植民支配時代の白衣民族抹殺政策示す1930年代の写真を発見】

http://japanese.joins.com/article/469/66469.html?sectcode=&servcode=200

南朝鮮が起源を語る李朝白磁は560~570年代の北斉(支那)に遡る。北宋時代の定窯で、白磁の名品が多く作られた。
1000年ごろ、景徳鎮にて微量の鉄分を含む釉薬で焼く、青白磁(青影)が盛んに作られ、東アフリカまで輸出されるようになる。

白磁の製造技術が日本に伝来したのは、16世紀ごろと言われ、文禄・慶長の役に際し、朝鮮半島から来た陶工によってもたらされたという定説になっているが、それ以前に各地の窯業地で粗製の白磁の生産が試みられている。
当時の状況として、白磁の技術は、染付の素地としてもっぱら利用されるようになった。

朝鮮が白磁に拘ったのは、衣服の白と同様に、染色や色彩を出す材料などの知識を持たず、単に色を付ける技術が無かっただけ。
朝鮮の伝統的な白衣民族の文化などと言って誇っているが、両班からして色づけの知識も技術も持っていなかった。

李朝時代は、ご存知の通り両班・上人・中人・下人・白丁などの身分制度が厳しく存在していた。

白丁などは日本でいう民かの扱いだった。
両班や上人が歩くと、すれ違うその他の身分の者は道端で叩頭して見送ったのだ。

日本が併合してからは、そのような身分制度を改めさせた。日本国籍を付与された朝鮮人の内で、貧しい暮しをしていた下人・白丁達は差別されてきたその土地を離れて日本に渡ってきた。

済州島の人達も、昔から朝鮮本土から差別されてきたが、日本人になってから大勢の人が渡って来たのである。

今でも在日朝鮮・南朝鮮人は済州等出身者の子孫が最も多いといわれる。

下層民系というのは、以上のような出身者を指していると思われる。両班(ヤンバン)達は金持ちで働かず、下層民からの搾取で楽な暮らしをしていたので、その子弟は上級学校に進むために内地に来る程度であった。日本の医師の資格を取ってそのまま内地で開業・定住する人も多くいた。

土井たか子の祖父なんかもそのケースだと思われる。
戦後の一時期、医者不足が言われた頃に、日本の医師資格を持っている老医師達が南朝鮮から随分渡ってきたことがあったが、戦前にもそのような歴史があった。ドラマ「おしん」でも見られたように、日本の田舎はやはり貧しかったのだ。

しかしながら、実態としては、現在の在日達の殆ども日本併合前は貧民だった人々の子孫だと言えるだろう。

◆「朝鮮」という国名の由来

「朝鮮」の由来は
「朝貢物」の「少ない」国、
という意味アル。 

朝鮮の由来は朝日の鮮やかな国だと
朝鮮人は信じているようアルが、それは違うアル。 

「鮮」(第3声)=古代漢語で「少ない」の意味アル。 
「鮮」(第1声)=「鮮やか」の意味ではないアル。 

中国語の「朝鮮」国の発音は
「Chao(2声)xian(3声)」であり、 
朝貢物が少ない国
=荒れ果てて貢物が何もない国だ、
とつけられた蔑称アル。 

(※「朝の鮮やかな国」の意味であれば
「Chao(2声)xian(1声)」となるアル) 

朝鮮人と呼ばれるのが差別
と言ってるのは 
あながち的外れじゃないわけかw 

http://www.news-us.jp/article/377385632.html

◆朝鮮型精神分裂病の遺伝的要素を発見

2005年01月23日 [ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]

西洋の人にはなく、朝鮮人の精神分裂病患者にのみあらわれる遺伝子の変移が、南朝鮮内の研究陣によって確認された。 

蔚山(ウルサン)医大・ソウル峨山(アサン)病院の宋奎暎(ソン・ギュヨン、生化学科)、金昌潤(キム・チャンウン、精神科)教授らは23日、精神分裂病の患者320人と正常な人379人を対象に、体内のCOMT(カテコール-0-メチル基転移酵素)遺伝子の一塩基変異多型(SNP、特定遺伝子の変移)を調べたところ、72番のアミノ酸が「アラニン」から「リン酸」に変わる場合、精神分裂病の危険性が高まることが分かった、と発表した。 

今回の研究結果は、遺伝体研究分野の米学術誌「ヒューマンジェナティックス」(Human Genetics)の今年1月号に掲載された。

http://japanese.joins.com/article/855/59855.html?sectcode=&servcode=

◆鮮人の遺伝子の特徴について 

米人類学者Cavalii-Sforzaの遺伝子 勾配データによれば、 朝鮮人は世界でも類を見ないほど 
均一なDNA塩基配列の持ち主であり、これは過去において大きな Genetic Drift(少数の人間 
が近親相姦を重ねて今の人口動態を形成)か、あるいは近親相姦を日常的に繰り返す文化の持ち主だった事を 
表します。 
(文献:The Great Human Diasporas: The History of Diversity and Evolution. 
1995.. Luigi Luca Cavalii-Sforza and Francesco Cavalli-Sforza. Addison Wesley Publ. ISBN 0-201-44231-0) 

朝鮮では、昔から若くて綺麗な娘達は中国に献上されていたので、女性が足りず近親相姦が繰り返されてきた。 
遺伝子レベルで見ても「父と娘」「母と息子」が結ばれないと出来ない遺伝子が大多数見つかっている。 

umiushiakaiドイツで人類のゲノム解析やってる大学教授の話 
朝鮮民族は近親相姦の物と思われるゲノム上の痕跡(修正不能)が多すぎて、他の民族では考えられない異常な 
近親相姦を、民族として繰り返してたと思われるあまりにショッキングで常軌を逸した内容なので、そのゲノ 
ムの発表は出来ない。 
また、朝鮮人男性の40%に発症すると言われる統合失調症も、それが原因である可能性が大きい。 
異常な民族と言わざるを得ない。

◆倉山満南朝鮮人の歴史観はすべてファンタジー」

2013.11.11 日刊SPA!

「南朝鮮人の歴史観はすべてファンタジー」と斬り捨てるのは、待望の新刊『嘘だらけの日韓近現代史』を脱稿したばかりの憲政史家・倉山満氏。中でも“最も笑える妄言”を3つ挙げてほしいと乞うたところ、次のようなミもフタもない回答が(笑)。

▼笑止!倉山氏が選ぶ「韓国の妄言」ワースト3

1.独立国だと思っていること

「韓国が自立しようとしたのは、’70年代の朴正煕政権時の1度きりです。現実的な思考ができる軍事政権下でのみ韓国は正気を保てるのですが、文官政権になると元の木阿弥」

2.文明国だと思っていること

「朝鮮国王という特権階級は、漢字が読めない自国民を見下し、話の通じる中華帝国のほうこそ同属と考えていた。そんなヤツらを文明国と呼んでいいものでしょうか」

3.大国だと思っていること

「ワールドカップで4位になったから『世界経済のトップ4になろう』みたいな発想の飛躍はお手の物。スポーツにかこつけて大国を気取る困ったクセがある」


「韓国という国は、2000年の歴史の中で常に『中華帝国の第一の子分である』ということにのみアイデンティティを置き、自助努力で独立しようという意思も能力も見せることがなかった。日韓併合が許せないと言いますが、それでは当時、現実的にどんな選択肢があったのかと聞けば『アメリカの植民地になりたかった!』と力説したりしますからね(笑)。独自の王朝を持ってはいても、独立国家の要件をまるで満たしていない。国というより単なる地名です」

 それゆえに、日本には倭の時代から「中国への通り道」と見なされ、中国からは「単なる一部」扱い。そのコンプレックスが誇大妄想を生み出しているのだ。

「『大国であってほしい』と『大国である』の区別がつかない哀れな人たちなので、言うことにいちいち腹を立てても意味がありません。それに、日本と韓国の仲が悪くなっても中国と北朝鮮を喜ばせるだけ。ネットの嫌韓派には、韓国憎しのあまり『韓国を南朝鮮と呼ぼう』なんて人もいますが、韓国を南朝鮮と呼ぶのは北朝鮮の公式見解。アナタは北の回し者ですか?と問いたいですね」

 とはいえ、厄介な隣人である韓国に事あるごとに難癖をつけられる日々に、いい加減ウンザリしている日本人も多いだろう。このままヤラれっぱなしというのもシャクにさわる。

「『反日』は韓国の国是ですが、戦前、例えば、日韓併合が進んだ昭和19年には、日本の戦勝映画が流れると映画館中が大喜びするほど朝鮮人は親日になっていました。あたり前です。一緒に戦争を戦っていたわけですから。そのために、敗戦後に『反日』を出発点に国づくりを行うしかなかったというジレンマがあるのです」

 韓国人は「反日お国自慢歴史観」で学ぶほど、その矛盾が露呈するという。

「そもそも抗日闘争を建国の理念とすれば、スターリンが指導していた抗日パルチザンである金日成を英雄視するしかありません。テロリズムを賛美し、北朝鮮という敵国の指導者が自分たちを正統に支配する権利を持っていることになる。一方の韓国初代大統領である李承晩はアメリカで独立運動と称してカンパを集めて遊んでいただけです。連合国に参加したわけでも自力で戦ってソウルを解放したわけでない。何ひとつ英雄らしい行動をとっていないのです」

 これこそが「韓国が抱える闇の深奥」である、と新刊『嘘だらけの日韓近現代史』でも指摘されています。

「韓国が反日なのは仕方がありません。そういう人たちだと思って付き合うしかない。しかし、隣国だから仲良くしよう、好きになる努力をしようなんてのも間違い。ASEAN諸国のように、普段は仲が悪くても、中国という共通の敵が現れると『大嫌いなアイツとも手を組まねばならない』と一致できる。韓国が反日である状況を喜ぶ国があることも考えねばなりません」

 格下の韓国を叩くだけの幼稚なナショナリズムに耽溺せず、中国やアメリカにも毅然と立ち向かう――これぞ、真の国士たるものの態度なのかもしれない。 <取材・文/日刊SPA!取材班 撮影/岡戸雅樹>

http://nikkan-spa.jp/534592

 ◆中国・上海に残る史跡「大韓民国臨時政府」 韓国人観光客に人気

2013/08/17  産経新聞 iza

 【上海=河崎真澄】1910年の日韓併合に反発した韓国の独立運動家らが、当時の中国の支援を受け上海市内の旧フランス租界で19年に樹立宣言した「大韓民国臨時政府」の史跡が上海を訪れる韓国人観光客の人気スポットになっている。

 朴槿恵(パク・クネ)大統領が6月の訪中時に、改めて対中関係の強化を打ち出したこともあり、臨時政府の史跡は「このところ韓国人の中国観光の目玉になった」(上海の旅行会社)という。

 30代の女性観光客に感想を聞くと「私はコリアに誇りを持っている」と満足そう。50代の男性は「この大韓民国臨時政府の存在は韓国人なら知らぬ者はいない」と言う。建物は記念館として整備され、当時の資料が展示されている。

 臨時政府は戦況に応じて上海から南京や広州、重慶などに移った。臨時政府が初代の大統領に選出した李承晩(イ・スンマン)(1875~1965年)が朝鮮半島を統治した日本からの解放後も、韓国で48年から60年まで初代大統領を務めた。

 韓国政府は臨時政府の正統性とその継承を主張しているが、臨時政府は当時、国際的承認は得られていなかった。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/china/677347/



「資金集めにヌード写真を売って」大韓民国臨時政府って朝鮮人のポルノ写真の販売団体?



朴槿恵が「歴史と向き合わない国に未来はない」と言う。ならばよろしい①

2014-10-14 21:54:07 | 資料

朝鮮半島古代史

朝鮮南部に日本式古墳がある、半島南部は古代から日本領地なのは世界の常識。朝鮮の前方後円墳は日本人の墓であり日本に存在するものより新しい。

三国史・・・・・・・・・・・朝鮮半島南「狗邪」は「倭国の北限」 

宋書倭国伝・・・・・・・・・朝鮮半島は倭が支配している 

広開土王碑・・・・・・・・・倭国が海を渡り百済と新羅を臣下にした。 

日本書紀・・・・・・・・・「391年 神宮皇后が百済と新羅を日本領土とした。」 

宋書・・・・・・・・・・・・倭国が朝鮮半島南部を領地にした。 

随書・・・・・・・・・・・・倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。百済と新羅は倭国を大国として敬った。

◆南朝鮮の歴史とは何か?

 歴史学は歴史資料の詳細な検討の上でその歴史像を明らかにしていくものであるが、「正しい歴史」なるものが、歴史資料の十分な発掘・収集・検討のないまま一人歩きしている。従って、概説書でなくちょっとした専門書や資料集を読めば、「正しい歴史」に相反する資料が数多く見当たることになる。しかし「正しい歴史」に疑問を呈すると、「おまえは朝鮮を差別する意識があるから真実が見えないのだ」「そんなことでは歴史をやっている意味はない。何のための、誰のための歴史か」と言われたことがある。「正しい歴史」は主観的情緒的な歴史観に基づくもので、実証を軽視したものと言わざるを得ない。この歴史観を有すると、最初から結論のある「歴史」があるのみで、その「歴史」に合わせて資料を恣意的にピックアップしていくことになる。それは歴史学とは程遠いものである。

南朝鮮人が実証的歴史事実の積み重ねでは説得されるつもりがないことは認識しておかないといけない。

日本側の研究者が「資料をご覧になってください」と言うと、南朝鮮側は立ち上がって、「韓国に対する愛情はないのかーっ!」と、怒鳴る。

、「資料をみせてくれ」と言い返すと、「資料はそうだけれど」とブツブツ呟いて、再び「研究者としての良心はあるのかーっ!」と始まるのである。

歴史の実証的研究では南朝鮮に勝ち目はない。事実よりも自分の願望というか、「かくあるべき歴史の物語」を優先させるから。

民族的感情を満足させるストーリーがまずあって、それに都合のいい資料を貼り付けてくるだけなんである。当然、それ以外の様々な資料を検討していくと、矛盾、欠落、誤読がいっぱい出てくる。

これが南朝鮮の大学の歴史研究者である。
これは南朝鮮の伝統的な論争の流儀であり、思考パターンなのだ。李朝時代の両班の儒教論争も、みなこれである。要するに「自分が正しい」というところからすべてが始まる。実はこの「自分が正しい」という命題が実証不可能なのだ。
この思想が突出したものが、北朝鮮の主体思想にほかならない。

実証なき歴史研究―かけ離れる「実証」の意味

南朝鮮や北朝鮮、そして在日活動家に至るまでが、実証のない「正しい歴史」に終始している。これを南朝鮮では「民族史学」と言い、歴史研究の主流となっている。これについて当事者自身から論じているものはないかと探してみたら、姜萬吉「光復30年国史学の反省と方向―“民族史学”論を中心として」という論考があった。そのなかで主なところを紹介する。

解放後30年間の国史学の‥実証的な面の業績は量的にも質的にも相当な水準に達したものと言える。‥‥

解放直後には、いわゆる日帝「植民史学」と「実証史学」的学風の影響のために、「民族史学」が大きくうきぼりにされえなかった。しかし国史学会がおちつくに従って、「植民史学」の毒素をとりのぞく問題、民族主体史観を樹立する問題などと関連して、「民族史学」が国史学界の主流となって行ったのである。
‥‥「実証史学」的学風からの脱皮と「植民史学」の排撃を課題とした解放後の国史学界で、「民族史学」の伝統が強調されてその史観が継承されたのは当然だと思う。
‥‥「民族史学」は、解放前に「実証史学」からは非科学的という批判を受け、「社会経済史学」からは神秘主義、国粋主義的という批判を受けた。しかし解放後の国史学界では民族史学を肯定的に受容しようとする傾向が高まった。それは独立運動の一環としての史学、異民族の侵略のもとで民族精神を鼓吹した史学、植民史学の影響を拒否した主体史学、などと評価されたのである。このような評価は不当なことではない‥‥
歴史学は、どの分野の学問よりも、正しい時代精神をまず把握して、そのための理論を定立することができる時に、その本来の価値が現れるのである。

‥‥近代ナショナリズムがもつこのような意味の変化は、民族の意味にも、また「民族史学」の意味にも適用されて、国民主義的「民族史学」でなく民族主義的「民族史学」へ転換されなければならず、このことこそわが国史学界が当面した最も重要な課題のひとつであり、また方向のひとつだと言えよう。またそのなかから、民族統一のための真正な指導原理が抽出されうるであろう。
(学習院大学東洋文化研究所『調査研究報告№1』1977年3月 1~7頁)

 南朝鮮の「民族史学」は実証主義から離れ、「正しい時代精神」というイデオロギーを主張するものである。彼らにとって「実証」とはイデオロギーを証明するための作業にしか過ぎず、これに反する歴史事実はあってはならないこととなる。彼らの「実証」の意味は、われわれが思うところと余りにもかけ離れている。

日本人がこの「民族史学」に実際に接すると違和感の大きさに驚き、さらに南朝鮮人側の自信に満ちた態度に逡巡するだろう。民族主義を追求する南朝鮮の歴史学と、歴史事実を追求する日本の歴史学との違いはあまりにも大きい。これまで多くの日本人は日韓に波風を立ててはならないと敬して遠ざかり、一部の日本人が日韓の友好のために土下座しつつすり寄った。しかし最近は前節のように真っ向からぶつかろうとする人が出てきている。この方向性はさらに促進・拡大してほしいと願う。

ところで南朝鮮の「民族史学」はこれからどこに向かうのか。実証なき「正しい歴史」研究をいつまでも続けていくのだろうか、実証主義的研究が主流になることはないのだろうか、ひょっとしたら実証のないことでは更に抜きん出た北朝鮮の「革命伝統」という歴史に融合していくのだろうか、‥‥‥興味をもつところである。

http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuuichidai

◆朝鮮人が認められない歴史的事実一覧 

・弥生人が長江流域からやってきた百越系民族であること 
・半島南部の先住民が倭人(=弥生人=百越系民族)であること 
・新羅の建国時の宰相が倭人であり、
 王家の二つが倭人系統であること、
 また始祖の朴赫居世についても倭人説があること 
・百済、新羅が大和朝廷に対し従属的地位にあったこと 
・大和朝廷による伽耶地域の支配
 (半島南部における多数の前方後円墳の存在) 
・半島における文化的独自性の欠落(あらゆる分野での古典の不在) 
・常に某かの国の属国として歩んできた歴史 
・姓が中国文化の影響を受け、みずから改名し、中国語氏名であること 
・朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと
 (李朝の軍は明の将の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われている) 
・朝鮮通信使が実質的に朝貢使節であったこと(琉球の江戸上りと同じ) 
・オンモン(朝鮮文字)がパスパ文字、契丹小字をもとにしたものであり、
 しかもカナより600年遅れて作られたものであること 
・焼肉はモンゴルのパクリで
 焼肉メニューはモンゴル語ばかりであること 
・キムチは秀吉が朝鮮出兵の時に落とした
 唐辛子の種が増殖したのが起源であること 
・テコンドーは日本空手のパクリでそのままだとまずいのでキック特化にしたこと 
・中国の太極図案と五行八卦の中の四卦と陰陽魚が韓国国旗であること 
・大韓民国の国名の民国は中華民国の民国の借用であること 
・大韓民国憲法は、全て1948年に南京で制定された
 中華民国憲法を剽窃したものであること 
・南朝鮮の法律は、台湾の六法全書、
 「憲法、刑法、民法、商法、刑事訴訟法、民事訴訟法」と全く同じであること 
・中国原産の木槿の花を、勝手に改名し、
 無窮花として南朝鮮の国花にしたこと 
・朝鮮という国号は明の永楽帝が下賜したこと 
・南朝鮮国歌「愛国歌」が満州国国歌のパクリであること 
・服も鎧も王権装身具も古墳も宮殿も中国のパクリであること 
・文明も中国のパクリであること(日本は一国一文明の国・朝鮮は中国文明 Samuel Hnatington『文明の衝突』より) 
・古代高句麗人と現代の南朝鮮人は全く違う民族で
 高句麗は古扶余人で東胡の一部であること

127 : マンセー名無しさん [sage] : 投稿日:2010/02/04 18:13:38ID:R1tNf2/E [1/1回] 
韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、 
いわゆる中国領・楽浪郡の
東部地方(日本海沿岸地方)に住んでいたワイ族。 
百済人、高句麗人は
古代の満州地方に住んでいた遊牧民族=フヨ族。
ウィキペディア-朝鮮民族

歴史 

朝鮮半島では4世紀頃までに高句麗、新羅、百済の三国が興り三国時代と呼ばれるが、7世紀に中国の唐が新羅と結んで高句麗、百済を相次いで滅ぼし、さらに新羅が唐の勢力を追放して朝鮮半島を統一した。 
高句麗や百済の支配層は扶余系とみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。 

一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語とされている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられる。

ウィキペディア-新羅 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85

脚註 
なお南朝鮮では、高句麗の滅亡後にその遺民が靺鞨族と共同して満州に建国した渤海を高句麗の後継国家と見なし、新羅・渤海をあわせて南北国時代と呼び、朝鮮民族史の及ぶ地理的範囲を朝鮮半島から満洲・沿海州を含めた領域としている。 

しかしながら、言語的観点から現代の韓国・北朝鮮の祖とされる新羅と、高句麗・渤海とでは、民族的・言語的に隔たりがあり(金芳漢著・大林直樹訳『韓国語の系統』)、 

高句麗・渤海を現在の南朝鮮・北朝鮮へ連続する国家と見なす十全な根拠がないため、高句麗・渤海の故地を領土に含み、また高句麗・渤海と民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国との間に軋轢が生じている(→東北工程)。

129 : マンセー名無しさん [sage] : 投稿日:2010/02/04 18:17:42ID:Birnrwuc [2/3回] 
高句麗=扶余系=満州系なんだわな。 
高句麗の発祥地は中国の東北地方で、
高句麗の数百年の歴史のうちの最初からの半分以上が
中国東北地方にしか版図がなく、
朝鮮半島には存在はしてなかった。 
そして、彼らが滅亡した後は、
ほとんど満州の部族に移行している。
つまり、どう考えても、
高句麗は中国東北系の国なんだわな。

高句麗と朝鮮の関係って
大日本帝国の朝鮮と似たようなもんでしょ。 
朝鮮に日本家屋があることを理由に、
朝鮮人が江戸文明を作ったとか
ぬかすくらいあつかましい主張でしょ。 
何しろ、文明が継承されてないんだもの。 
満州人はきっちり高句麗文明を継承してるけど
朝鮮は100年前は土人文明だもの。 
高句麗はシナと新羅(朝鮮)が連合して
消滅させた異民族の古代国家にすぎない。 
百済も、高句麗の後継国家、渤海も同じ。

なぜ朝鮮人は嘘をつくのか 
Why does the Korean tell a lie?

130 : マンセー名無しさん [sage] : 投稿日:2010/02/04 18:18:26ID:Birnrwuc [3/3回]

朝鮮人とは朝鮮半島の南側に住んでた原住民で、
三韓(馬韓、弁韓、辰韓)人 
それに対して高句麗(※)も百済も
朝鮮人を支配してた扶余(ツングース)民族だな

広辞苑より 
【扶余】
前一世紀から五世紀まで、中国東北地方北部に活動した民族。 
また、その建てた国。ツングース族の一。一~三世紀中頃が全盛期、もと百済の別称。

【高句麗】
紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙(東明王)の建国という。中国東北地方の南東部から朝鮮北部にわたり、四世紀広開土王の時に全盛。都は二○九年より丸都城、四二七年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。高麗(コマ)。

【渤海】
八~一○世紀、中国東北地方の東部および朝鮮半島北部のあたりに起った国。靺鞨(マツカツ)族の首長大祚栄が建国。唐の文化を模倣し高句麗(コウクリ)の旧領地を併せて栄え、七二七年以来しばしばわが国と通交。一五代で契丹に滅ぼされた。

【靺鞨】
(マツカツ)ツングース族の一。有力な部族が七部あり、その一である粟末(ゾクマツ)靺鞨の首長大祚栄は渤海国を起し、また黒水靺鞨は後に女真と称した。

【女真】
中国東北地方の東北部から沿海州方面に住したツングース系の民族。五代の頃より女真と称し1115年完顔(ワンヤン)部の首長阿骨打(アクダ)が金を建国し宋に対抗。後に清朝を興した満州族も同一民族である。

一方朝鮮人は、朝鮮半島の原住民の事です。 
馬韓、弁韓、辰韓の民族ですね。 
なので 
百済≒高句麗≒渤海 ≠ 三韓=朝鮮民族

132 : マンセー名無しさん [sage] : 投稿日:2010/02/04 18:20:36ID:rw0+SN6P [2/3回] 
長い歴史の中で数多くの国や王朝に朝貢し
冊封され支配、統治され 
朝鮮人は混血も重ねています
(大きいところでは中国諸民族、縄文人、倭人、蒙古人、満州人、大日本帝国)

近年南朝鮮で医学界等の遺伝子や血液の分析で
朝鮮のルーツは北方である事 
南部からの流入(日本の縄文人や倭人、倭人王については完全にスルーしてますが)との 
混血である事も徐々に指摘、
新聞でも報道されはじめました

血液分析により民族の移動経路を判明する 東亜日報

韓国 台湾 日本、もっとも単一民族に近いのは日本人 
http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2001010317828

"韓民族は単一民族ではない!" 韓国 朝鮮日報 
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2009/01/09/2009010901296.html

韓国人、違う民族の血40%位まじっている 韓国 朝鮮日報 
http://www.chosun.com/national/news/200604/200604050360.html

顔で見た韓国人、すでに他民族血統…“80%が北方系” 日本版 中央日報 
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=90507&servcode=400

もし日本人、朝鮮人が似てると感じれば、それは激しく混血を重ねた朝鮮人が似てるのであって 日本人が似ているのではないのです

朝鮮はこの通り朝鮮民族だけの物ではありません、 今後は友愛の精神で朝鮮半島は異民族を多く受け入れ多民族多人種社会となり それぞれの民族の国籍を認め韓国朝鮮人と同じ権利を持ってもらい共生すべきです

国連、「韓国の単一民族強調」人権侵害の恐れ 日本版 中央日報 
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=90362&servcode=400

韓国の民族主義を告発、スタンフォード大シン教授(上) 
http://www.chosunonline.com/news/20090623000056

133 : マンセー名無しさん [sage] : 投稿日:2010/02/04 18:21:29ID:rw0+SN6P [3/3回] 
【質問】『「我々韓国人は高句麗人(フヨ族)の子孫だ。高句麗は韓国人が建国した国だ」と主張していますが、 これは事実でしょうか?』

【回答】 完全なウソです。韓国人の作り話です。韓国人と高句麗人はまったく別種の民族です。高句麗人は古代の満州地方に住んでいた 遊牧民族=フヨ族の一派ですが、韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、いわゆる中国領・楽浪郡の東部地方(日本海沿岸地方)に 住んでいたユウロウ族です。狩猟民族=ユウロウ族の子孫が現在の韓国人です。このユウロウ族はシベリア奥地の山岳部から半島東北部に移住してきた民族です。

満州地方に住んでいた遊牧民である高句麗人(フヨ族)とは何の関係もありません。強いて関連付けるならば、一時期、フヨ族がワイ族を支配化に置いていたこと、くらいです。

では、高句麗人の子孫にあたる民族とはどのような民族なのか。それは女真族(満州族)です。高句麗が唐によって滅ぼされた後、高句麗人(フヨ族)は彼らの故郷である『満州』に逃げました。高句麗人はこの地において契丹族や鮮卑族、モンゴル族と混血しました。それによって誕生したのが女真族(満州族)なのです。 この女真族が、1115年に満州地方から中国北部にまで版図を有する『金国』を建国しました。金国が滅びた後、1616年に、 同じく女真族の国である第2次金国=後金国が建てられ、この『後金国』が清国へと発展していきます。

134 : マンセー名無しさん [sage] : 投稿日:2010/02/04 18:22:50ID:wdg3N4+N [1/3回] 
高句麗人(フヨ族)の歴史を図にすると、下記のような流れになります。


〔フヨ国→ 高句麗→ 金国→ 後金国=清国 (高句麗滅亡後に建国された渤海国も『高句麗人の国』という説がある) 〕


見ての通り、高句麗と朝鮮人は何の関係もありません。高句麗人の末裔と呼ぶべき民族は満州族であり、韓国人=朝鮮人ではないのです。 韓国人は高句麗人の子孫ではないだけでなく、高句麗人の歴史を受け継ぐ満州族(女真族)のことを『オランケ』と呼び、蔑んでいました。 オランケとは南朝鮮語で「野蛮人」の意味です。南朝鮮人は、「我々は高句麗人の子孫だ」と自称する一方で、本物の『高句麗人の子孫』である満州族のことを、野蛮人呼ばわりして 見下しているのです。

ところが最近の南朝鮮人は、時と場所によって「満州族と南朝鮮人は兄弟民族だ」と言ったり、「満州族はオランケであり、南朝鮮人と違う民族だ」と、 言ったりしています。まさに『ご都合主義』です。自分たちの都合により、歴史を捏造し歪曲しているのです。 

日本人は倭人の子孫である。
一方、朝鮮人はユウロウ族の子孫である。
この2つの民族は最初から別種なのだ。

http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1772715.html

南朝鮮人の不都合な真実 南朝鮮人のルーツはエベンキ族だった

http://ameblo.jp/nihon-banzai/entry-11144045806.html

◆現在と過去の南朝鮮を理解するするための資料

【両班】

 本によって貴族階級・地主階級・士大夫階級など表現が様々だが、数々の特権を有していたことは確か。李朝末期1858年の記録には、人口の48.6%に達しており(戸数は70.2%)、従来の特権・権威・秩序は崩壊に向かっていた。

【中人】

 科挙の雑科に合格し「雑職」(通訳・陰陽学(天文地理)・医学・法 律・算学・音楽・絵画等の技術系官職)に従事している官吏とその家族。 主に首都中央部在住で世襲だが、一般に従六品(李朝の品階は正一品から従九品まで 18階級ある)までしか昇進できず、世襲の下級官吏である。 両班の庶子もこの身分に含む。

【胥吏】

 軍校・吏属・衙前とも言う。 科挙など正規の官僚任用法によらない、中央・地方の下級役人(下級官吏)。 行政実務担当者で、地方にあっては両班(貴族・官僚・領主・地主)の手先として、身分は世襲のだが、不正蓄財や権力行使もあった。

【常民】

 良民・良人とも言う。 農民・商人・手工業職人などの一般人民。 科挙受験資格はある。 特に農民は常民の人口の圧倒多数を占める。 大部分が小作農。

【】

 七般公賤・八般私賤と呼ばれる程、多様な職業の総称だが、科挙受験資格はない。

1.〔白丁〕

 ・柳器匠などに従事の被差別民。 一般村落に居住することを制限され、特定の職業に固定されて蔑視にさらされるなど、強い差別を受けた。

2.〔芸人〕

 才人(広大とも言う)やサダン(捨堂・寺党。同性愛の男同士の旅芸人集団で、観客への売春も辞さない。 李朝後期に少年のナムサダン(男寺党)が主流となり、1920年代まで続いた。

3.〔巫覡〕

 シャ−マンのこと。 ム−ダン(巫覡。 巫女のこと)とパクス −(博士、卜師。 男巫のこと)があり、更に降神巫とタンゴル(丹骨。 世襲巫のこと。日本の巫女と職能に共通点も多い)に分かれる。 朝鮮の神道の聖職 者だが、李朝が儒教崇拝主義だったので、仏教同様、に置かれた。

4.〔喪輿軍〕

 葬礼の棺かつぎ、墓掘り人夫。

5.〔僧と尼〕

6.〔妓生〕

 朝鮮の芸妓。 官衙(官庁・役所)に所属し、歌舞音曲や売春等 を仕事とし、針線婢・医女(医者)としても官衙に使役された。李朝末期まで、常に2~3万名は存在し、官婢として県に10~20名、郡に30~40名、府 に70~80名程が常時置かれていた。出自は反逆者、罪人の婦女子なので、お家断絶の名家の娘もいたし、良家から売られた者もおり、キ−センの娘もキ−セ ンを務めるのが原則だった。 黄真伊のように、漢詩や時調(朝鮮の短歌)に優れ教養の高い才妓もおり、李朝の恋愛文化や文学にもよく出てくる。両班の愛 人、妾になりその子供を生むことが、彼女たちの最終的栄華の保証であり、一般庶民には高値の花であった。 李朝滅亡後は、朝鮮総督府の平壌妓生養成所と検 番制度によって、日本敗戦後、南は米軍政庁が、北は朝鮮臨時人民委員会が廃止するまで、公娼制度として続いた。

7.〔〕

 で一番多く、全人口の10~数十%いたと推定される。全時 代を通じて、公とも40~50万人ずつ存在したと言う。戦争捕虜・人身売買・債務・刑罰を契機に生み出された。は中央・地方の官衙に所属し、 は両班など私人の所有であり、売買・譲渡・人質・相続の対象であり貴重な財産だった。無償で使役や売春をさせられる意味では、奴隷と近い。ただ子供 の身分が、法的制限を受けるなど様々な制約があったが、常民との結婚は社会的にも法的にも認知されていたし、職業も住居も固定はされず、一般村落の住民と して常民とそれ程差異のない存在であり、白丁などに比べれば差別・蔑視は少ない方だった。しかし当時の西洋人の著書で見る限り、中世の遺物そのものであ る。

韓国の人々が両班の子孫と誇ること自体、階級差別が消えていない証拠である。

   の多くは勢道政治による売位売官・自贖(自分で身分を買い取ること)・逃亡・戸籍虚偽など様々な手段で常民に上昇し、17世紀からは没落両班から 族譜(系図。同族である身分証明)を高値で買ったり盗んだりして両班になる者もおり、両班自体が急増し、逆に李朝末期には人口が急激に減少した(この 異様な両班人口上昇は、特定名門氏族の人口が全て、血筋を引く正当な子孫ではないことも物語っている)。


★百済、高句麗、新羅の時代を記した「同時代の一次史料」は、南朝鮮には存在していないため、南朝鮮の古代史は、すべて支那と日本の史書からの引用が根拠となっている。ただし、支那の資料の多くは文化大革命で消失している。

この事実さえ理解していない人間は、日韓問わず非常に多い。

◆「朝鮮事情」シャルル・ダレ著、金容権訳(平凡社東洋文庫)

  この本は、1874年に編纂された『朝鮮教会史』の序論部分で、開国以前の朝鮮の姿が書かれている貴重な本。現在の韓国ではなく約140年前の朝鮮を書いた本である。

…略

このような不公平な再婚の禁止は、朝鮮`人’のように恐ろしく情熱的な国民にとって、必然的に重大な良浴紊乱を招く結果となる。両班の若い寡婦は、再婚はしないものの、ほとんどすべて公然と、或いは密かに、自分を養ってくれる者の妾になっている。

のみならず、孤閨を守って貞淑に生きることを固守しようとする女性は、非常な危険にさらされている。ときには飲料水に麻酔薬が入れられ、知らないうちに酔ってしまい、目が醒めると眠っているあいだ自分を凌辱し、貞操を奪った悪党の傍にいることに気付いたり、ときには買収された数人の追いはぎに夜中強姦されることもある。

また、いかなる方法であれ、自分を狙う者からひとたび力ずくででも犯されれば、もはやいかなる救いのすべもない。彼女たちは、法と慣習によって、その者の所有物となる。ときには、若い寡婦が、自分の節操をよりよく証し自分の名声と名誉を保つために、夫の葬式が終わるとすぐに後を追って自殺することさえある。

両班は、いつも声を大にしてこのような模範的な夫人を褒め讃え、彼女たちのあっぱれな行為を長く伝える為に、国王に願い出て、碑石や祠堂のような公けの記念碑〔烈女碑〕を建てる。

二 十年前、まもなく内乱が起こるという漠然とした風潮が国内に満ちたとき、キリスト教徒の未亡人たちがやって来て、もしも武装した群集が家に押し入ってきた なら、そのときは自殺を認めてくれるようにと、宣教師に求めたことがあった。神父は、そのような場合でも、自殺は神に対する忌むべき罪であると論じたが、 彼女らを説き伏せるまでには、かなりの努力が必要であった。

・・・中文略・・・

朝鮮`人’は、男女とも、生まれつき非常に情熱的である。しかし、真の愛情は、この国には全く存在しない。彼らの情熱は純粋に肉体的なものであって、そこには何ら真心がない。彼らは、自分自身を満足させるため、手に届く対象には何にでもやたらと飛びつくあの動物的な欲望、獣的本能以外は知らない。

したがって、風紀の腐敗は想像を絶し、「人々の過半数は、自分たちの真の両親を知らない」と、大胆に断言さえできるのである。異 教徒の男に凌辱されようとした瞬間、キリスト教徒の女性は、しばしば次のように言って彼らを思い止まらせた。「私に近づかないで下さい。私はあなた様の娘 なのです」。すると異教徒は、それが真実ではないとしても、少なくとも非常にありそうな事実だと悟って、退くのである。さらにこの国では、いかなる宗教的 拘束も、情熱を抑制することはできない。

風習と物質生活上の必要のゆえに、貧しい人々、すなわち人口の半分がしばしば貞操観念を忘れるように強いられるこの国では、これ以外にどんな方法があるだろうか?

…中文略…

既 婚者であれ独身であれ、男はみな、甲斐性のあるだけ妾を囲うことができる。女性が村にやって来ると、彼女はとにかく身を落ち着けるところをさがす。その女 性の面倒をみるだけの余裕のある者がいないときは、人々は順番にその女性を自分の家に連れて来ては、何日かのあいだ食物を与える。

一人旅をしている女性が旅宿で夜を過ごしたりしたら、見知らぬ者の餌食になる事は間違いない。ときには男の同伴者がいるときでさえ、男がしっかりと武装していなければ、彼女を十分に守ることはできない。

売春が白昼いたるところで行なわれ、男色やその他の自然に反する犯罪が、かなり頻繁にある。街 道筋では、いたるところの村の入り口に身分の低い娼婦が米焼酎の瓶を手にしており、それを旅人に供する。おおかたの男たちが足を留めて、彼女たちに歌をう たわせたり、一緒にふざけあったりする。仮にある男が彼女たちを無視して通り過ぎようとすれば、彼女たちはためらわずに男の服を掴んで道を塞ぐ。

…以下略

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日本の統治時代や慰安婦問題などあれこれ言う前に、欧米人から見た昔の自分達の国の姿を冷静に見つめ直す必要があるのではないか。少なくとも日本には、朝鮮史を捏造する必要も嘘を他国に吹聴する必要もまったく無い。


いよいよ形が見えてきた支那崩壊の序曲

2014-10-08 20:04:33 | 資料

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成26年(2014)10月8日(水曜日)
     通巻第4355号   
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 カリブ海に浮かぶ島々で何が起きているか
  投資移民で市民権取得ができると聞いて中国がごまんとやってきたゾ
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 ヘミングウェイの遺作に『海流のなかの島々』がある。名作である。舞台はカリブ海。
 この島々で、中国は何をやらかすつもりなのか。
カリブ海に浮かぶ有名なリゾート地、ナッソーはバハマ諸島だが、ここに中国国有企業の「中国建設エンジニア」が、バハマに設立した「バハマル」という開発会社を通じて、2011年からハイヤットホテルと並ぶほどの豪華リゾートを建設している.

そのほか、三万平方メートルの敷地内に豪華カジノ、18ホールのゴルフ・コースに加え、有名歌手に設計させたナイトクラブを建設しており、中国企業は4000名の労働者を中国から連れてきて朝から晩まで働かせ、工期を急がせている。

ところが、アンゴラやスリランカなどで工期を早めることができた建設工事も、バハマではついに息切れ、2014年内のオープンは無理となった。

カリブ海のリゾートは冬場が稼ぎ時なのである。「15年夏には間に合わせたい」とバハマルの幹部は発言しているが、ひょっとして中国国内バブル崩壊の影響をもろにうけて、ナッソーの豪華リゾートも「廃墟」と化ける懼れがでてきた(ウォールストリート・ジャーナル、10月1日)。

 第一は現場の労働事情による。バハマ諸島の失業率は公式にも15%、実際は30%近い。にもかかわらず、中国の運んできた巨大プロジェクトからの恩恵に預かれず、地元にちっとも利益還元がなく、労働争議が頻発した。

 第二に世界共通だが、中国人労働者は建設現場内のプレハブなど魬場で寝泊まりし、そこで食事をするため、現地のロッジもレストランは期待はずれだという不満が爆発している。
現地人らは「中国から連れてこられている現場労働者はおそらく囚人だろう」とささやき合っている。
 
 ▼本当の難題は投資移民制度の不法利用

第三に資金難に陥った様相があり、現地下請け企業への支払いが滞りはじめ、契約慣習の違いから現地人との軋轢がすさまじさを増している。
このプロジェクトに中国輸出入銀行は 25億ドルを出資した。現地パートナーが8億五千万ドル、中国建設エンジニアが米国子会社を通じて、1億五千万ドル。合計35億ドル(3850億円)のプロジェクトだ。

胡錦涛時代に鳴り物入りで始めた唐山工業特別区(天津の北方、唐山プロジェクト)は10兆円を投じたが、すでに「廃墟」と化け、いま残骸を晒している。
バハマ諸島でも中国のプロジェクトは挫折し、廃墟が出現する?

 第四に、じつは最大の問題が横たわっている。
 それはカリブ海の島嶼国家が歓迎してきたリゾートマンションや別荘購入と引き替えの「市民権」(パスポート)供与という「投資プログラム」がまったく絵に描いた餅となって、犯罪者やマネーロンダリングに利用され、不正に利用されているという現実が絡むからである。

 最初の投資と交換プログラムによる市民権授与はロシア人、そしてイランなど「政治的にややこしい国々」からの人々が多かった。
というのも、米国の金持ちは飛行機のアクセスがよくて、観光客も多いスポットに豪華ホテルも建てて投資するが、観光インフラが整わない、しかも飛行機便が不便な、たとえばセントルシア、バルバドス、グレナダなどに何ほどの魅力を感じないからだ。

そもそもアメリカ人はカリブ海の島嶼国家の市民権獲得を必要としない。ロシア、イラン、そして中国人はカリブ海の島嶼国家の市民権を得ることが目的なので、長期滞在は稀、投資物件にも住むつもりがない。
最初はロシアのマフィアが資金洗浄に使い、イランは不法手段や脱法行為(たとえば見せ金で実際には投資せず、パスポート取得後は消える)頻発により、開発が停滞した。
そのうえせっかく建てた豪華リゾートに客が寄りつかず、「絵に描いた餅」化していた。
 ここに中国人が現れたのだ。

 ▼先進国の移民規制の余波を利用したつもりだったのだが。。。

 かれらは札束を見せびらかしながらカナダ、豪、ニュージーランドで不動産物件は片っ端から買い占め、交換にパスポートを手にいれた。あまりにも夥しい中国人が移民してきたため、カナダはことし二月から閉め出しに動いた。

 米国は投資プログラムの規制を強化しはじめた。
偽書類などによる不法移民が夥しく、しかも不正書類、マネーロンダリングの手口が目立ち、当局は悲鳴を上げるにいたった。
さすがの中国人も投資交換市民権取得の矛先を変える。目を付けたのがカリブ海に浮かぶセントキッツ、ネービス、アンチグア、グレナダなどである。いずれも40万ドル以上の不動産購入か、ホテルへの投資が条件。

だが、廃墟を作るだけで当てが外れるのは目に見えている。相手が中国人であることを彼らは知らない。
        △◎○   ◇◎ ▽ □◇

http://melma.com/backnumber_45206_6104669/

◆インフラ開発がしっちゃかめっちゃかに、バングラデシュでひんしゅくを買う中国企業

2014.10.07(火) 姫田 小夏 JB PRESS

破格の安値で受注して途中で“降参”

 港、高速道路、橋梁、発電所――。インフラ開発をめぐる“日中激突”が火花を散らしている。インドを取り囲む南アジアの国々でも、中国の影響力が増大している。

 スリランカは2009年に最大の“スポンサー”が日本から中国に取って代わった。一貫して親日国であり続けたパキスタンへも、中国は積極的な財政支援を行っている。

 そして、インドの隣国バングラデシュでも、中国は「最大の援助国」と言われる日本の牙城にどんどん食い込もうとしている。

 バングラデシュにおける中国の台頭は噂には聞いていたが、まさかここまでとは思わなかった。「中国が片っ端から案件を落札」しているのが現状だ。ざっと調べただけでも、中国は以下のような案件を受注(一部は予定)している(日本政府の資金によるプロジェクトを中国企業が受注するケースも含まれる)。

(1)パドマ橋(建設費11億ドル)
(2)パドマ橋建設に付随する河川管理(10億ドル)
(3)チッタゴンのカルナフリ川におけるトンネル工事(10億ドル)
(4)チッタゴンのカルナフリ川にかかる鉄道橋梁の建設
(5)チッタゴンのカルナフリ川における多走行車線のトンネル建設
(6)チッタゴン~コックスバザール(その先はミャンマーに延びる)の鉄道複線化
(7)ダッカ~チッタゴンの鉄道信号プロジェクト
(8)バングラデシュ国内の4つの橋梁建設(3300万ドル)
(9)モヘシカリとポトゥアカリにおける2カ所の石炭火力発電所(1320MW)
(10)ラジシャヒにおけるWASA (Water Supply & Sewerage Authority)の上水プロジェクト
(11)トンギ~バイラブの鉄道複線化
(12)バングラデシュ政府のICTインフラネットワーク構築第3フェーズ

 パドマ橋の建設は、あまたある橋梁プロジェクトの中でも非常に大規模で、長期にわたり計画が練られてきた。ところが発注をめぐり世界銀行の汚職が発覚、協調融資を組むアジア開発銀行(ADB)、日本の国際協力機構(JICA)などがプロジェクトから降りる事態となった。現在、ハシナ首相の「自力で建設を」という掛け声のもと計画は進められているのだが、建設工事を中国企業が受注し「漁夫の利」を得ることになった。

もともと無理な価格で落札

 バングラデシュにとっての喫緊の課題は「インフラ整備」である。川が多いバングラデシュは、物資はおろか人の往来すら困難であり、経済が東西に分断されている。中国から「世界の工場」の座を奪い取るポテンシャルはあるものの、電力供給は不安定である。また、中間層に自動車の購入意欲はあるのだが村には道路がない、というのが実情だ。

 バングラデシュにはこれを自力で解決するほどの資金力がなく、世界銀行やJICAなどに頼るしかない。2国間ODAでは日本が力を発揮し、「日本は全体の75%を占めるトップドナー(資金提供者)」(バングラデシュの現地紙)とも認識されている。

 ところが近年、中国の存在感が急激に高まっている。中国勢にとって巨大事業の落札は決して難しいことではない。その最大の武器と言えるのが「安さ」である。

 バングラデシュの建設業界は、その「驚異の安値」におののいている。ある大手ゼネコン幹部はこう明かす。「中国企業の提示額は、私たちローカル企業よりも3割は安い」

 そして、「それが最悪の事態を生む」と警告を発する。「彼らが入札時に提示するのは『もともと無理な価格』。たとえ落札してもその金額では工事などできないはずだ」(同)

 その典型例が「ダッカ~チッタゴン・ハイウェイ」である。「ダッカ~チッタゴン・ハイウェイ」は道路を4車線に拡張する全長192キロ(総工費1億6800万ドル)にわたるプロジェクトで、「バングラデシュ経済の生命線を担う」とされる重要案件だ。7工区に相当する140キロを、中国のエンジニアリング会社である中国水利水電建設集団(シノハイドロ)が驚異的な安さで落札した。

 当初、建設は順調に進んでいると見られていた。だが、蓋を開けてみるとまったく計画通りには進んでいなかった。入札時に中国勢と競った地元企業はこう振り返る。

 「現地企業である我々に多くの強みがあったが落札したのは中国企業だった。しかし、彼らは低コストの重荷に耐えられなくなり、途中で投げ出してしまった」

 工事は2010年から始まり完工は2013年末とされていた。ところが、工事はいまだに終わっていない。2013年末の時点でも計画の3割ほどしか進んでいなかった。関係者は「完工は2年延期どころでは済まないだろう」と見ている。

 バングラデシュ道路交通省が工事の遅延を「契約違反だ」と批判したが、中国側は設備や原材料、そして予算の不足を理由に「予算増額がない限りは完工できない」と開き直った。ハシナ首相も腹を立て、道路交通省に「会社を替えよ」と伝えるほどだった。

 パドマ橋の建設でも同様の事態が起こっているようだ。現地メディアの報道は、「ハイウェイ建設とパドマ橋建設という2つの重要なプロジェクトが中国企業のお粗末な仕事で危機に瀕している」と懸念を隠さない。

「中国流」への批判が噴出

 近年、バングラデシュはインフラ整備の巨大な市場に中国企業を喜んで迎え入れてきた。だがここに来て、「中国流」がいかなるものであるかをようやく認識するようになった。

 業界の常識を逸脱した低価格での落札、その結果として起こる資金ショートと工期の延期に、今では異議を唱える声の方が多い。バングラデシュの建設業者への取材の席では「中国流のやり方」に批判が噴出した。

 「土壇場になって『この金額ではできない』とバングラデシュ政府に泣きついて、資金不足を補おうとしている」

 「彼らは『完工させること』を目的にはしていない。さらにそこから条件を引き出そうとしているのだ」

 「完工させることを交換条件に、ソナディア深水港の受注を持ち出しているようだ」

 あまりにも強引な受注の仕方と、それがもたらす悪影響は、現地社会で顰蹙を買っている。中国企業による受注はバングラデシュ全体の社会資産にダメージをもたらすことに、バングラデシュの人々は気づき始めている。

 さらにバングラデシュ社会が今、関心の目を向けるのが、中国が主導する「新開発銀行(BRICS開発銀行)」(BRICSの5カ国が運営する発展途上国支援の銀行)の動きだ。現地ゼネコンのトップは言う。「彼らはADBやJICA以上の資金を低金利で融資するだろう。BRICS銀行がバングラデシュの大型案件を総なめにしてもおかしくはない」

 南アジアでは、中国の影響の高まりを懸念する声が出てきた。同時に日本への期待も以前にも増して高まっている。日本はバングラデシュのインフラ開発にどう関わり、今後の経済成長にどう寄与するのか。バングラデシュ社会は日本の一挙手一投足をじっと見守っている。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41873

◆不動産経営者の夜逃げラッシュが招く中国経済の崩壊

2014年10月01日(Wed)  石 平(中国問題・日中問題評論家)

 今年6月27日に掲載した『破滅へ向かう中国経済 四面楚歌の習近平 政治介入する軍』では、中国における不動産バブルの崩壊がすでに始まったことを実例に基づいて克明に記述したが、それ以降の数カ月間で崩壊は確実に進んでいる模様である。

「早く売り捌いた方が良い」

 8月1日の中国指数研究院の発表によれば、今年7月の全国100都市の新築住宅販売価格が前月比で0.81%下落し、4月、5月以来3カ月連続の下落となっているという。そして9月19日に中国国家統計局が公表した数字を見ると、8月に全国の主要都市の70都市のうち、不動産価格が下落したのは68都市にのぼる。

 その中で、たとえば8月25日に新華通信社が配信した記事によると、全国の中小都市では各開発業者による不動産価格引き下げの不毛な競争が既に始まったという。開発業者が競ってなりふり構わず価格競争に走れば、それはすなわち不動産価格総崩れの第一歩であることは誰もが知るところであろう。

 8月23日、山東省済南市にある「恒生望山」という分譲物件が半月内に25%程度の値下げを断行したことで、値下げ以前の購買者が抗議デモを起こした。9月3日には、広東省珠海市のある分譲物件は値段が一夜にして4分の1も急落したとのニュースがあった。そして9月15日、大都会の北京市では一部の不動産物件で30%以上の値下げが断行されたと報じられている。この一連の動きは、「総崩れ」が既に目の前に迫ってきていることの前兆であろう。

 こうした中で、不動産バブルの崩壊は不可避とする声があちこちから聞こえてきた。

 9月3日、新華指数公司首席経済学者の金岩石氏は「中国の9割の都会で不動産バブルが崩壊する」と警告した。また11日には、中国最大の自動車ガラス製造企業・福躍硝子集団のオーナー会長曹徳旺氏は、香港フェニックステレビの番組で「不動産バブルの崩壊は時間の問題だ」と言って投機のために不動産を持った人に「早く売り捌いた方が良い」と薦めた。そして27日、高名な経済学者で北京天則経済研究所理事長の茅于軾氏は、「中国の不動産価格は今後、半分以下に落ちるであろう」と断言した。

 中国国内の実状をよく知る人々のリアリティある発言からも、どうやら史上最大規模の不動産バブルの崩壊はいよいよ、目の前の現実となってきている模様である。

不動産バブル崩壊で中国経済はどうなるか

 不動産バブル崩壊の最大の原因は、今年2月26日に掲載した『既に始まった中国史上最大の不動産バブル崩壊劇』で指摘した通りのものだ。要するに、2000年代に入ってからこの十数年間、中国政府はずっと、お札をバンバン刷って金融緩和を行い、民間の不動産投資の拡大を刺激するような方策で経済の高度成長を支えてきた。しかしこのような節度のない経済政策の結果、市場に流通する貨幣が溢れすぎて「流動性過剰」という現象が生み出された一方、過剰になった貨幣の多くは不動産投資に流れ込んで価格を高騰させてバブルを膨らませた。

 市場に流通している貨幣が溢れすぎると、それが当然インフレの発生=物価の高騰を招くこととなり、食品を中心とした物価の高騰が目の前の現実となると、それが原因で社会的不安が高まることを危惧した中国政府は一転、貨幣の供給を抑制する金融引き締め政策を実施した。

 そして2011年からの金融引き締めの中で、不動産開発業者に対する銀行からの融資が激減する一方、多くの商業銀行は2013年の秋頃から、個人住宅ローンに対する貸し出しを停止するという断固たる措置に踏み切った。

 そこから始まったのがすなわち、不動産物価の販売不振→開発業者の資金繰り難→不動産在庫の値下げ処分→価格の下落という悪循環であるが、そのたどり着くところはすなわち不動産価格の総崩れ、要するに不動産バブルの崩壊である。

 問題は、不動産バフルが崩壊した後に中国経済がどうなるのかであるが、現在、全国の不動産投資のGDP (国内総生産)に対する貢献度が16%にも達しているから、バブル崩壊に伴う不動産投資の激減は当然、GDPの大いなる損失、すなわち経済成長のさらなる減速に繋がるに違いない。しかも、バブル崩壊の中で多くの富裕層・中産階級が財産を失った結果、成長を支える内需はますます冷え込み、経済の凋落によりいっそうの拍車をかけることとなろう。

 しかし問題の深刻さは、それだけにとどまらない。不動産バブルの崩壊に伴ってその次にやってくるのは、全国規模の金融危機の発生なのである。

「邯鄲恐慌」で「経営者夜逃げラッシュ」

 不動産バブルの崩壊に伴う金融危機の発生、それは一体どういうことなのか。実はこの原稿を書いている9月29日現在、中国河北省の邯鄲市という中規模都市で吹き荒れている「邯鄲恐慌」の嵐が、この事情を端的に物語っている。

 今、全国のマスコミを騒がしている「邯鄲恐慌」は、今年7月下旬、邯鄲市内最大の不動産開発業者である「金世紀房地産公司」で起きた経営者の夜逃げ事件から始まった。

 金世紀房地産公司という会社は2000年頃から邯鄲市で不動産の開発を始めて、以来十数年間、オフィスビルや綜合商業施設、分譲マンションなど100件以上の不動産開発を手掛け、邯鄲市最大の不動産開発業者に成長した。一時は資産総額100億元(1800億円相当)の大企業として邯鄲経済界に君臨していた。

 しかし7月下旬、この大企業のオーナー経営者である史虞豹氏が突如、すべての連絡を絶って家族と共に夜逃げした。地元財界を代表する経営者が29億元の負債を踏み倒してのこの逃亡事件は、邯鄲市全体に大きな衝撃を与えた。

 しかし衝撃はそれだけにとどまることはなかった。この夜逃げ事件に誘われるように、それからわずか1カ月の間で、「卓峰地産」、「万聚地産」、「武安銀信集団」、「華北錦魁地産」など、名の知られた不動産開発会社の経営者たちが続々と逃げ出して身をくらませたり、あるいは自らの倒産を宣言したりした。邯鄲市の経済界を揺るがした「経営者夜逃げラッシュ」の発生である。

山ほどの不動産在庫を抱えて

 なぜ邯鄲市の不動産開発業者たちは競うように逃げ出すような事態となったのか。その背景にあるのは当然、本稿の冒頭から記述した不動産バブル崩壊の全国的広がりである。

 邯鄲市というのは人口160万人程度の中規模都市であるが、一時は500軒もの開発業者が群がり不動産の開発を行い、需要をはるかに超える大量の不動産物件を生み出した。しかし今年になってから全国的に不動産が売れなくなり、邯鄲の開発業者たちは山ほどの不動産在庫を抱えるようになった。2013年の1年間、邯鄲市での不動産販売面積は355万平米程度であったが、現在積み上った市内の不動産在庫はその10倍近くの3480万平米に上るという。

 地元の開発業者たちの資金繰りが苦しくなっていることは言うまでもないが、それは結局、彼らの「夜逃げラッシュ」を促した原因の一つとなった。

 しかし、彼らには夜逃げするのではなく別の選択肢もあったはずだ。手持ちの不動産在庫を大幅に値下げして売り捌いて資金を回収すれば生き残る道はあるのではないか――。しかし現実には、この最後の道すら彼らには残されていないのである。

 というのも、今になって判明したことであるが、彼らがこの数年、不動産の開発を進めるために闇金融から驚くべきほどの高い利息で大量のお金を借りていたからである。

 たとえば前述の金世紀房地産公司の場合、抱えている29億元の借金のうち、実は15億元ほどが闇金融からの借金である。それ以外の夜逃げした開発業者たちも多かれ少なかれ、闇金融からカネを借りていた。地元銀行による試算では、彼らの借金総額は約92億元(約1700億円相当)に上っているという。しかも、邯鄲の闇金融では、その年間利息は一律30%という吃驚仰天の高い利息がついているのである。

 開発業者たちがこれほどの高い金利で闇金融から借金しなければならない最大の理由は、やはり前述のように、政府による金融引き締めの中で正規の銀行がリスクの高い不動産開発に融資しなくなったことにある。正規の銀行がカネを貸してくれないため、やむを得ず闇金融に手を出したわけである。

 しかし問題は、闇金融からあれほどの高い金利で資金を借りると、開発業者たちに残される唯一の道はすなわち、不動産価格が暴騰し続け、年間利息30%の借金を返済できるほどの儲けを得ることである。暴利があるうちは何とかやっていけるが、一旦不動産が売れなくなると、巨額の負債を抱えて高い利息の返済に追われる開発業者たちが直ちに悲鳴を上げることなる。その際、たとえば手持ちの不動産在庫を値下げして売り捌いたとしても、闇金融からの借金とその高い利息の返済に足りることはない。だとすれば、いっそのこと、借金そのものを踏み倒して夜逃げするのが最善策となる。

一般市民も抗議行動に

 このように邯鄲市の不動産開発業者の夜逃げラッシュは始まったわけであるが、彼らに大量の資金を貸している闇金融にとって致命的な打撃となろう。しかも、闇金融が融資に使う資金の多くは一般市民から調達したものが多いため、貸し出しのカネが踏み倒されると、闇金融に出資している個人投資家たちはいっせいに財産を失うこととなる。

 たとえば邯鄲の場合、闇金融に出資している民間人は市民の1割以上であるとの試算もある。金世紀公司から始まった開発業者たちの夜逃げラッシュは当然、邯鄲市全体に未曾有の大混乱を引き起こした。一夜にして全財産あるいはその大半を失った一般市民たちは連日のように抗議行動を起こし、市政府を包囲して「金を返せ」を合言葉に暴動寸前の大騒ぎを演じてみせた。邯鄲市そのものは今、世紀末のような騒然とした雰囲気である。

 その一方、夜逃げした開発業者たちが正規の銀行からの借金まで踏み倒しているため、各商業銀行は大変苦しい立場となり、これまでよりいっそうの貸し渋りに走っていることは言うまでもない。そしてそれはまた、不動産市場のいっそうの低迷と開発業者たちのさらなる資金難を招くこととなり、今後夜逃げラッシュはますます盛んになることが予想される。そうすると、正規の金融も闇の金融と共によりいっそうの苦境となって、破綻への道を一直線に走ることになる。

 つまり、不動産バブルの崩壊の後にやってくるのは金融破綻であることを、邯鄲の実例がわれわれに教えているのである。

「影の銀行」の破綻で経済破綻は免れず

 もちろん、邯鄲で起きていることは邯鄲だけの問題ではないはずだ。今年3月26日、中国新華通信社傘下の『経済参考報』は、中国の金融事情に関する記事を掲載した。金融市場で大きなシェアを占める「信託商品」は、今年から来年にかけて返済期のピークに達し、約5兆元(約82兆円)程度の貸し出しが返済期限を迎えることになるという。

 ここでいう「信託商品」とは、正規の金融機関以外の信託会社が個人から資金を預かって企業や開発プロジェクトに投資するものであるが、高い利回りと引き換えに元金の保証はまったくないリスクの高い金融商品。中国の悪名高いシャドーバンキング(影の銀行)の中核的存在をなすのはまさにこれだ。

 問題は、返済期を迎えるこの5兆元規模の信託投資がきちんと返ってくるかどうかである。申銀万国証券研究所という国内大手研究機関が出した数字では、全国の信託投資の約52%が不動産開発業に投じられているという。そう、邯鄲の実例でも示されているように、シャドーバンキングという名の闇金融の主な融資対象の一つは結局不動産開発業者なのである。

 そしてこれこそが、信託投資だけでなく、中国経済全体にとっての致命傷となる問題なのだ。

 本稿の冒頭からも克明に記してきたように、今の中国で、不動産開発業はまさに風前の灯火となっている。バブルが崩壊して多くの不動産開発業者が倒産に追い込まれたり深刻な資金難に陥ったりすると、信託会社が彼らに貸し出している超大規模の信託投資が踏み倒されるのは必至である。邯鄲ですでに起きていることがそれを実証している。

 そして前述のように、信託投資の不動産業への貸し出しはその融資総額の約半分にも達しており、今後広がる不動産開発企業の破産あるいは債務不履行はそのまま、信託投資の破綻を意味する。それはやがて、信託投資をコアとする「影の銀行」全体の破綻を招くこととなろう。

 しかし融資規模が中国の国内総生産の4割以上にも相当する「影の銀行」が破綻すれば、経済全体の破綻はもはや避けられない。中国経済はただでさえ失速している最中であるが、今後において、不動産バブルの崩壊とそれに伴う金融の破綻という二つの致命的な追い打ちがいっせいにかけられると、中国経済は確実に「死期」を迎えることとなろう。

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4255

◆急速に変わってきた米国人の中国観とオバマ外交失敗の原因

2014.10.08 zakzak

 香港で起きている学生らの反政府運動は、「一国二制度」という形で香港の独自性を守るという約束に反して、北京政府が2017年に行われる香港の行政長官選挙に共産党のやり方を強制しようとしたからだ。

 北京政府があらかじめ決めた候補者から行政長官を選ぶという非民主主義的な選挙制度に、将来を考える学生らが激しく反発したのは当然だ。なりゆき次第では、中国の政治の仕組みを揺るがすことになりかねない。

 香港で起きた今回の重大な動きは、米国の保守勢力、国防総省、そして海軍がオバマ大統領の中国一辺倒政策に反抗し、中国との対決姿勢を強化しようとしていることと無関係ではない。

 オバマ大統領は、「空母キラー」と呼ばれる中国のDF21Dミサイルに怯えて、第7艦隊をハワイの東に引き上げようとした。だが、米海軍は大統領の決定に従わず、予定どおり第7艦隊の主力である空母を最新鋭の「ロナルド・レーガン」にするとともに、艦載航空兵力である第5飛行戦隊の基地を東京近郊の厚木から、中国により近い山口県岩国に移すことにした。

 香港のある南シナ海の国々は今、中国海軍の不法な侵略行動に対抗して、米海軍との協力体制を強化したり、軍事力を増強したりしている。シンガポールは、マラッカ海峡の入り口チャンギに第7艦隊のための特別基地を建設した。

 米海軍は今年、南シナ海周辺で延べ150隻の艦艇を送り込んで訓練を実施した。また、ベトナムやマレーシア、それにタイまでが海軍や航空戦力を強化しつつある。

 ハドソン研究所のケン・ワインスタイン所長は、こうした動きの引き金になったのは「日本の集団的自衛権構想」として次のように述べた。

 「あらゆる国が軍事力を拡大する中国に弱気になったとき、日本が集団的自衛権を打ち出した。この構想を進めた安倍晋三首相に、我々は『考えられないことを考えた人』に与えるハーマン・カーン賞を贈呈した」

 友人のジャーナリストは私にこう言った。

 「オバマ外交の失敗は中国と戦わなかったことがすべての原因だ」

 米国人の中国に対する考え方は急速に変わってきている。

 ■日高義樹(ひだか・よしき) 1935年、名古屋市生まれ。東京大学英文科卒。59年NHKに入局し、ワシントン支局長、理事待遇アメリカ総局長を歴任。退職後、ハーバード大学客員教授・同大諮問委員を経て、現在はハドソン研究所首席研究員、全米商工会議所会長顧問。

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20141008/dms1410080830004-n1.htm

◆習近平総書記は武力で相手を脅し、あるいは金を配って懐柔する。
話し合いではなく、一方的かつ強権的に結論を押し付ける。
そんな習近平が関わってきた主な問題を以下に列記する。

①集団的指導体制を破棄し、習近平への権力集中を図った。
②江沢民・曽慶紅の一派等18万人を粛清した。
③今まで聖域とされてきた軍最高幹部の腐敗を摘発し粛清した。
④チベット・ウイグル地域・内モンゴル自治区の抗議デモを軍と武装警察で鎮圧し、住民多数を虐殺あるいは逮捕した。
⑤民主派知識人の影響を削ぐために言論の自由を弾圧し、不当逮捕と形式的裁判で極刑に処した。
⑥メディアから政敵を追放しメディアに対する検閲を強化し、ネット情報の統制を強化した。
⑦東シナ海と南シナ海を実効支配し領土と排他的経済水域の拡大を狙った。
⑧ラオス・カンボジア・タイ・ミャンマー・中央アジアを囲い込むために鉄道と高速道路を建設した。
⑨ミャンマー・スリランカ・モルジブ・パキスタンに軍港を建設し、真珠の首飾り作戦によるインド包囲網を進めた。
⑩韓国や台湾を中華経済圏に組み込み、中国の支配力を強化し属国化を加速させた。
⑪現在、香港人の既得権となっている一国二制度を崩壊させ、香港の本国化を企てている。

1984年9月、英国と中国は香港返還に関する共同声明に仮調印した。
共同声明には「返還後50年間は香港の民主社会を変えないとする一国二制度」が盛りこまれている。
香港返還は1997年だから、一国二制度は2047年まで続くことになる。
しかし、一国二制度は英国と中国の力関係で決められたものだから、両国の力関係が変われば一国二制度の解消時期の前倒しはあり得ることになる。

65年前、毛沢東は蒋介石との内戦に勝利し共産党一党独裁政権を樹立して、中華人民共和国を名乗った。
独裁国家が人民共和国を名乗ったのだから、羊頭狗肉どころの話ではないが、中華人民共和国が名前の通りの人民主権共和国だったなら、香港だけでなく台湾も併合されることに異議はなかったのではないだろうか。
ところが、中国大陸の現実は悲惨である。
13億中国人民には言論や結社の自由がない。
13億中国人民の60%以上が中国で生まれるのは嫌だと嘆いている。
汚職で肥え太った資産家連中は既に家族を米・英・仏・独・豪等に避難させている。
こんな現実を知れば、香港人が「一緒にはならない。一国二制度が永遠に続くことを希望する」と願うのも無理はない。

今年の6月10日、中国国務院は「香港の一国二制度は香港固有のものではない。全て中央政府から与えられたものである」と定義し、8月31日の第12期全人代常務委員会は「2017年からの香港・行政長官の普通選挙については親中派を優遇し、民主派を締め出す」方針を明らかにした。
候補者選任権を握ることで、香港の行政長官の普通選挙を形骸化する狙いは明らかである。
投票前に親中派の当選が決まっているのは共産党一党独裁国家の常識なのだろうが、そんなものは選挙ではない。
これが今回の香港民主化デモの主な動機と言われている。

それにしても、香港民主化の戦いの敵は、東シナ海や南シナ海における日本・フィリピン・ベトナムの戦いの敵であり、インド洋でのインドの戦いの敵であり、中国におけるウイグル・チベット・内モンゴル・法輪功・地下キリスト教会・民主派知識人の戦いの敵であり、耕作地を奪われた中国農民の戦いの敵であり、地下水が工場廃液で汚染され飲料水にも困っている地域住民の戦いの敵である。

彼らの全てが習近平総書記を敵として戦っている。
自分の能力をはるかに超える多数の強力な敵と対峙している習近平に、平穏な夜はあるのだろうか。
(Facebook 吉野 一道氏より)


ウラジーミル・プーチン

2014-10-03 22:16:50 | 資料

ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン 1952年10月7日生

第2代、第4代 ロシア連邦大統領

プーチンは1952年10月7日にレニングラード市の労働者夫婦の家庭に生まれた。
父は車両工場の組立工で、仕事熱心な、真面目で、言葉少なく、ときには厳しい性格の共産党員であり、職場の党組織の書記をしていた。

★2人の兄弟は、プーチン生前に亡くなる。

戦時中、母がドイツ軍に包囲されたレニングラードで食料不足により餓死寸前までいった。その時、兄はジフテリアで死亡した。

★フリガーン(不良少年)と呼ばれた少年時代



記憶力は抜群で頭の回転も速かったが、問題児で悪ふざけを繰り返していたと証言している。プーチン自身も後に幼少時代は相当な悪童であったと告白している。

11歳の頃より柔道とサンボをたしなみ、大学在学中にサンボの全ロシア大学選手権に優勝、1976年には柔道のレニングラード市大会でも優勝した。柔道について「柔道は単なるスポーツではない。柔道は哲学だ」と語っている。

★将来はスパイになりたい。エリートへの道を進む



16歳の時に大きな建物の国家保安委員会(KGB)レニングラード本部へ行き、ここで働きたいと申し出た。出てきた男の人が、ここは希望して入るところではない。自己希望者は採らない。軍隊か、大学・高専などの高等教育機関の卒業者を迎える、と語った。

1975年、プーチンは国立レニングラード大学法学部国際学科を卒業すると、大学の派遣によりKGB職員となった。

★ロシアのスパイ機関「KGB」に所属し、さまざまな諜報活動に従事



外国で諜報活動を行うためにKGB赤旗大学で学び、1985年に東ドイツのドレスデンへと派遣される。東ドイツには1990年まで滞在し、政治関係の情報を集める諜報活動に従事したとプーチン自身は語っている
日本ではKGBは大変評判が悪いが、ソヴェトでは「体制の擁護者」であり、「正義の味方」である。

★観光客になりすまして、米・レーガン大統領に近づくスパイ時代のプーチン



★KGB職員から政界へ。新たな道へと進みだす

1990年、プーチンはKGBに辞表を提出し、レニングラード市ソビエト議長だったサプチャークの国際関係担当顧問となった。またサプチャークの下で陰の実力者として活躍したため、「灰色の枢機卿」と呼ばれた。

★当時の大統領を手助けし、クーデターを未然に防ぐ功績を挙げる



1998年7月にはKGBの後身であるロシア連邦保安庁の長官に就任。この時、ボリス・エリツィン大統領(当時)のマネーロンダリング疑惑を捜査していたユーリ・スクラトフ検事総長を女性スキャンダルで失脚させ、首相だったエフゲニー・プリマコフのエリツィン追い落としクーデターを未然に防いだ。この功績によりプーチンはエリツィンの信頼を得るようになる。

★首相職からロシア連邦大統領へ

1999年に首相に任命されると第二次チェチェン紛争の制圧に辣腕をふるって国民の支持を集め、同年健康理由で引退を宣言したエリツィン大統領によって大統領代行に指名

2000年の大統領選挙でも圧倒的な人気を集めて過半数の得票を受け当選、正式に大統領となった。

★強いロシア再建へ - 国内の財閥団体との対決



石油など資源産業は、ソ連崩壊後に国有企業が民営化される過程で経営権を握った新興資本家「オリガルヒ」たちに握られていた。オリガルヒは儲けた金で政治献金し、エリツィン政権の中枢に座っていた。

KGB出身のプーチンが大統領になると、プーチンは警察・軍出身者のシロヴィキを登用し、財政再建のため 新興財閥オリガルヒの脱税を取り締まり始め、財閥と対決した。

オリガルヒは所有するメディアでプーチンを攻撃したが、プーチンは脱税・横領などの捜査でウラジーミル・グシンスキーやミハイル・ホドルコフスキーといったオリガルヒを逮捕して制圧。

★ロシア再建の為、東欧諸国の企業をマフィア式買収



2000年には、アイルランドのオフショア市場に法人登記されたペーパーカンパニーが、ハンガリーのパイプライン網を所有する大手化学会社ボルソドケム(Borsodchem)の株式の25%を買い集めて買収攻勢をかけるという事件が発生した。

ハンガリー当局が調べたところ、ペーパーカンパニーの所有者はガスプロムの幹部であることが判明し、ロシアが西欧にガスを送るため、ハンガリーのパイプラインを乗っ取ろうとしていることが分かった。
ガスプロムの幹部たちは、プーチンの側近であった。

2003年には、ポーランドの沿岸工業都市グダニスクの精油所の民営化をめぐって、ロシアの諜報機関FSB(KGBの後継機関)の要員がポーランドの大富豪に接近 これらの経済事件は、KGB出身のプーチンの側近たちによって考案されたものに違いない。

★テロリストには「アメとムチ」を使い分ける



2002年のモスクワ劇場占拠事件では、立て籠もるテロリストを鎮圧するために有毒ガスの使用を許可した
この作戦で、テロは鎮圧されたが、人質の市民も巻き添えとなり100名以上の市民が死亡することとなった。

一方、第二次チェチェン紛争時にはイスラム原理主義の浸透に反感を抱くアフマド・カディロフ等の帰順に成功し、彼らの不正規部隊をロシア連邦軍や内務省の指揮下にあるロシア国内軍などの正規軍に編入している。
2007年1月までは、テロリストであろうが投降者には刑事訴追の免除等の恩赦が約束されていた。

★「独裁者」と呼ばれる一面も



プーチン政権は独裁色が強いとロシア国外のメディアで報じられることがある。 プーチン政権を批判していた人物が次々と不審な死を遂げ、ロシア政府による暗殺説が浮上したことも

ロシアでは1999年から2006年までに128人のジャーナリストが死亡・もしくは行方不明となっており、プーチン政権がこれらの事件に関わっているのではないかとの疑惑が浮上している。
しかし、治安が悪化し経済も崩壊していたロシア社会において、この強力な指導力で秩序と安定をもたらしたという声も多々ある。

★数カ国語を熟知し外交を行う。何カ国語を話せるかは不明のまま



KGB時代、東ドイツに派遣されたためドイツ語に堪能であることはよく知られている

07年の国際オリンピック委員会総会で、ソチ冬季五輪の誘致のため、プーチンは英語やフランス語でもスピーチをした。

★外交有利の為なら手段は選ばない。世界でも名の知れた遅刻魔



物事を動かした者こそが有利となり、物事を操られた者が不利となる...??
2003年にエリザベス2世英国女王との出会いに14分遅刻し、2012年にドイツのメルケル首相を40分待たせ、シリア問題の話し合いでケリー米国務長官を3時間待たせた。

朴槿恵(パク・クネ)大統領との首脳会談に向かう途中ですでに時間に遅れているにもかかわらず武術愛好者と語らい、30分遅刻したという例や2012年のウクライナ訪問の際にバイクライダー団体との交流を優先してビクトル・ヤヌコビッチ大統領との会談に4時間遅れるという例など、故意に遅刻をする場合もある。

★プーチンは、今までに5回以上の暗殺未遂を経験



全てを阻止しているロシア軍部・警察組織の力もすごい・・・。
ウクライナ政権は同国訪問中でプーチン大統領の暗殺未遂が行なわれたことをうけ、計画者の容疑者のひとりと見られるイリヤ・ピヤンジンを本国送還した。

プーチンに対しては、明らかになっているだけで過去5度暗殺が試みられたが、いずれも未然に阻止されている。
プーチン氏は、国内の専門家とクジラの生態調査を行った際、「生きることそのものが危険なのだよ」という名言を残した事も...。

●2000年2月24日 - サンクトペテルブルクでのアナトリー・サプチャークの葬式時。ロシア連邦警護庁(FSO)によれば、チェチェン独立派が背後に立つ某組織が計画した。「標準より際立った保安措置」により計画は阻止された。

●2000年8月18日~19日 - ヤルタでの非公式のCISサミット時。国外より情報がもたらされ、チェチェン人4人とアラブ人数人が拘束された。

●2002年1月9日~10日 - アゼルバイジャン、バクーの公式訪問時。アゼルバイジャン国家保安省により阻止。アフガニスタンで訓練を受け、チェチェン独立派と関係を有するイラク人、キャナン・ロスタムが逮捕され、懲役10年を言い渡された。

●2008年3月2日 - モスクワでのロシア大統領選当日。ロシア連邦保安庁(FSB)が察知し、直前に阻止した。現場からはライフル銃やカラシニコフ銃などが発見され、タジク人1名が逮捕された。

●2012年2月27日 - チェチェン共和国などの出身の男2人がイスラム過激派の武装勢力の指導者の指示を受けてウクライナで爆弾の製造など暗殺計画を進めていたところ、ロシアとウクライナの捜査当局による別の爆発事件に関連した調査から発覚。(ただし2012年ロシア大統領選挙に先駆けた時期であることから政府による意図的なリークではないかという見方もある。)

★事実、「大国・ロシア」を復活させた実力者でもある



プーチンには「時の運」があったとも言われている。
8年間のプーチン政権でロシア経済は危機を脱して大きく成長し、ロシア社会から高い支持と評価を受けている。国内総生産(GDP)は6倍に増大(購買力平価説では72%)し、貧困は半分以下に減り、平均月給が80ドルから640ドルに増加し、実質GDPが150%になった。

プーチンの実力は確かだが、運がいいことにプーチン大統領が就任してから、石油価格が大きく上昇した経緯もある。

★独裁的でも国民に支持され続ける - ウラジーミル・プーチン氏



ロシアの経済と自信を回復させた奇才・プーチン。

まさに今のロシアは、経済も政治も、プーチンという「秘密警察出身の経済マフィア」が一人で握っている独裁国家である。だがロシアの世論を見ると、ロシア人は、以前のオリガルヒよりもプーチンの方を、はるかに強く支持している。

プーチンの謀略的な手段は彼の懐を肥やすことが全てではないだろう。本当にロシア国民のためにそういった手段も使っているんだと思う。

少なくとも18年まで大統領を続けることになる。再選すれば、24年まで務めることができる。その間、ソチ五輪(14年)やFIFAワールガカップ(18年)なども予定されている。

http://matome.naver.jp/odai/2139169474631008801

◆【オバマもビビる】ロシア・プーチン大統領の恐ろしい行動まとめ

2014年02月14日 NAVERまとめ

ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン ロシア連邦の政治家。第4代ロシア連邦大統領(2012年5月7日 - )

★「冷酷な紳士」、「有能な元工作員」と呼ばれるその訳は??

元KGBのスパイであり、現在のロシア連邦の政治家であり、その中でも特に大きな影響力を持っている政治家である。

プーチンに対しては、明らかになっているだけで過去5度暗殺が試みられた

無表情を振舞っているが、実は取り留めないほどの冗談好きである。
スパイ時代、上司から「お前のようなおしゃべりはシュピオン(スパイ)には向かない」と言われた事がキッカケで、今の冷酷な接し方を身に付けたとか

★誰もが恐れるプーチンの行動をいくつか紹介したい



★野党から手渡された文書を、プーチンは目の前で切り捨てる



野党の少将は「軍人恩給が少ないから増やして欲しい」と、軍人恩給に関する文書をプーチンに手渡す。



プーチンはその文書に目を通し、少将は文書について話し始めるが・・・



プーチンは、文書を真っ二つに切り捨てる!!



少将しょんぼり...( ;´・ω・`)

どうしようも無く、切り捨てられた文書の説明を続ける...。

http://www.youtube.com/watch?v=7yo7RZX4yAU

▲こちらがその時の映像。プーチンの恐ろしい行動はこれだけに収まらない...

★合意文書に署名をしなかった国内の財閥社長に強制サイン



「デリパスカ君、この合意文書に署名をしたかね?君のサインが見あたらないのだが。今­すぐここに来てサインしなさい」
【おそロシア】プーチン首相、ペン放り出して財閥社長を震え上がらせる



財閥社長は署名へのサインに戸惑う...。



なかなかサインをしない社長の手元を、プーチンが無言で睨みつける。おそれた社長は署名にサイン...

http://www.youtube.com/watch?v=LXHLMdQ-LpM

▲こちらがその様子。そしてプーチンはアメリカ大統領までをも震え上がらさせてしまう...

★米・大統領オバマ氏もプーチンにビビる



朝食会の場、空気を和ませようとオバマと周囲の人たちは笑顔で話掛ける



しかしプーチンは無視し、無言...。



シェフが場を和まそうと、用意していた長靴で調理しはじめる...。



オバマから笑顔が消え、顔が引きつる。



その後もプーチン無言の中、朝食会は続いた...。

http://www.youtube.com/watch?v=4ApW6CPS0z8

▲プーチンとオバマの朝食会映像。

★中世のように、(汚職する者の)手を切り落としてしまえばいい。そうするだけで、賄賂を要求するような手はすぐになくなるさ。

過激な発言だが、それだけ汚職はロシアにとって深刻な問題となっているのだろう。

★謝罪は1回すれば十分だ。

「ロシアはなぜ、モロトフ・リッベントロップ協定(第二次世界大戦の際にソ連とドイツが密約を交わし、ソ連のバルト三国併合を取り決めた)について謝罪しないのですか」との、女性記者の質問に対しての回答

★英国の連中は脳を入れ替える必要がある。
リトビネンコ毒殺事件の容疑者引き渡し要求について。

イギリスがルゴボイ・ロシア連邦保安局元幹部の引渡しを要求した際、「憲法が引き渡しを禁じているのなら改正せよと英国は言う」と述べ、侮辱だと批判した。

★「どんな難しい問題でも友人同士の間では解決できると確信する」

◆プーチンの恐ろしさは世界トップクラス。殺意にあふれるプーチンの画像を紹介


チェチェン武装勢力に関して。
「テロリストは便所に追い詰めて肥溜めにぶち込んでやる。たとえ便所に隠れていても、息の根を止めてやる」


さすが元KGB所属のスパイ。映画007さながらだ


プーチン大統領はスナイパーライフルも使いこなす


ウージーマガジン銃も、プーチン大統領なら使いこなせる


ショットガンもなんのその。大統領に扱えない銃はない


戦闘機とプーチン。映画のワンシーンの様です...。


マフィアのボス・・・ではなく、列記とした一国の大統領である。


プーチンは、子供への指導にも抜かりはない。


大国ロシアの意地、他国の首相に動じることはない。


モスクワ総主教キリル1世にも、まったく動じない。


しかし、女性には動じる・・・。


実は麻生と、ちょっぴり仲良し・・・。


ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン...

彼が居る以上、ロシアの地位は保たれるだろう。

http://matome.naver.jp/odai/2139160622280952901

◆制裁で力増すプーチン大統領の強硬派側近

2014.09.22(月) Financial Times JB PRESS

 ロシアの経済界と経済官僚らは、ロシアの大物実業家の1人、ウラジーミル・エフトゥシェンコフ氏が逮捕されたことにショックを受け、不安を抱いている。

 ロシアの有力経済団体、ロシア産業家企業家連盟(RSPP)のアレクサンドル・ショーヒン会長は、ウラジーミル・プーチン大統領にエフトゥシェンコフ氏を擁護する嘆願書を送った時、直接手渡すよりも宅配便で送った方が賢明だと考えた。

石油・ガス産業の国有化の始まりか

 ロシアで最も裕福な資産家の1人で、複合企業システマの大株主であるエフトゥシェンコフ氏は9月16日、システマの関連会社バシネフチ絡みの事件で、マネーロンダリング(資金洗浄)の容疑で自宅軟禁下に置かれた。バシネフチは国営石油会社ロスネフチが買収しようとしていた企業だ。

 ロシア政府は、これが政治問題であるとの指摘を断固として一切退けているが、実業家や政府内の改革推進派は、この一件はウクライナを巡る地政学的危機と制裁がもたらす圧力がロシアの権力の回廊でいかにゲームの形勢を変えたかを示していると話す。

 「これは地殻構造の変化だ」。ドミトリー・メドベージェフ首相の元アドバイザーで、モスクワのシンクタンク、現代発展研究所(INSOR)の会長を務めるイーゴリ・ユルゲンス氏はこう言う。「これは石油・ガス部門で徐々に進行する国有化の始まりを告げている。それは制裁の直接的な結果であり、安全保障をずっと資源に依存してきた国が出す論理的な答えだ」

 プーチン氏は政権の座にある14年間のほとんどの期間、本能的に国を強くしようとしてきた。大統領就任から1期目と2期目の高支持率は、1990年代にロシアが社会主義から悪徳資本主義に移行した後に国の威信を取り戻し、制度機構を復活させたという認識に大きく由来していた。

 ロスネフチの会長を務めるイーゴリ・セチン氏やロシア鉄道の社長ウラジーミル・ヤクーニン氏など――どちらもプーチン氏と同様、保安局でキャリアをスタートさせた人物――、プーチン氏が最も信頼する友人の多くが国家統制主義的な傾向を強めている。

西側との全面対立で現実主義のアドバイザーが不利に

 だが、彼らの影響力は長い間、テクノクラートや経済アドバイザーたちによって和らげられてきた。メドベージェフ氏や、現実主義の対話者として外国企業に高く評価されているイーゴリ・シュワロフ副首相の影響を受け、プーチン氏は折に触れて民間企業を擁護し、ロシアの投資環境の改善を奨励してきた。

 しかし、ウクライナ危機がロシアと西側との全面的な対立に発展し、欧米の制裁がロシア政府への圧力を強めるにつれ、こうした現実主義的なアドバイザーたちは話を聞いてもらうのに苦労するようになっている。

 「優良な資産、低利融資、簡単に手に入る外国からの投資がないうえに制裁下にあって、彼らには提供するものがほとんどない状態だ」とユルゲンス氏は言う。

 この状況は、西側の各国政府が達成したいと思っていたことと正反対だ。「あなた方(西側の人々)は、制裁がエリート層を分裂させ、プーチン氏に方針転換を迫ると考えているが、それは今起きていることではない」と、ある億万長者の投資家は言う。

 「それどころか、ロシア国内の西側の友人を壊滅させている。シロヴィキ(治安・国防官僚出身者)はかつてないほど強くなっており、今や手に負えなくなっている」

 アレクセイ・ウリュカエフ経済発展相は9月18日、エフトゥシェンコフ氏の一件は資本の流出を加速させ、投資活動を弱める危険があると警告した。だが、同氏はその後すぐに、この一件を元オリガルヒ(新興財閥)のミハイル・ホドルコフスキー氏の事件と比べるのは不適切だと述べた。

「機能不全に陥ったロシアの意思決定システム」

 ホドルコフスキー氏は、プーチン氏と対立した後に10年間投獄され、自身の石油大手ユーコスをロスネフチに奪われた人物だ。そのホドルコフスキー氏は、プーチン氏の意思決定システムは制裁の圧力を受けて機能不全に陥っていると主張する。

 「このシステムはプーチン氏にだけ焦点を合わせており、そのため、プーチン氏が何も言わなければ、物事が全く決まらないか、誰からも権限を与えられておらず、自分勝手な動機を持つ人たちによって物事が決まるかのどちらかだ」。同氏は先日、ロシアのメディアにこう語っている。

 内部の政策議論に精通している人たちは、政治より経済を優先しようとしているメドベージェフ氏もシュワロフ氏も非常にもの静かになったと話す。「彼らはメッセージを発信しているが、非常に控えめで忠実なやり方で行っている」とメドベージェフ氏に近い情報筋は話していた。

 彼らの慎重さは理解できる。クリムリンの指導部は、結束を乱す人たちに対してすでに不寛容な態度を見せるようになっている。先月は、セルゲイ・ベリヤコフ氏がフェイスブックの投稿で年金の積立金を2年連続で予算に流用するという政府の決定を批判したわずか数時間後に経済発展省次官の職を解任された。

By Kathrin Hille in Moscow
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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41773

チェチェンの石油関連施設。近くをバクー油田からのパイプラインも通っていたが、ロシア軍はパイプラインの攻撃だけは避けた(撮影/林克明)

◆ウクライナのパイプラインを巡るロシアの思惑

2014.09.15 日刊SPA!

アメリカのイラク空爆、中国のウイグル自治区弾圧、ウクライナの内乱、イスラエルのガザ地上侵攻など、戦争・紛争のニュースが絶えなかった昨今。一部は停戦も進んでいるが、現在も多くの民間人が戦闘に巻き込まれ、殺されていることに変わりはない。こうした争いは宗教や民族対立などが原因といわれているが、その陰には「カネと資源」の問題が潜んでいた!!

◆「パイプラインだけは壊さないように」破壊し尽くす!?【ロシア】

 旧ソ連内の紛争には、ロシア帝国時に征服された被支配民族が関わっているという共通点がある。歴史・民族・政治などイデオロギーの土台の上に、資源やカネの問題が乗っかっている構造だ。

「典型的なのは、独立を求めてロシアに武力弾圧されたチェチェン紛争と、政治的に独立はしたがロシアの強い影響力から逃れられないウクライナの紛争です」と語るのは、チェチェンやウクライナなど旧ソ連諸国の取材を続けるジャーナリストの林克明氏。

「岩手県より一回り大きい程度のチェチェン共和国の独立を阻止するため、ロシアは大規模な空爆と地上戦で破壊し尽くし、約20万人の犠牲を出しました。ところが、あれだけの攻撃を受けながら、石油パイプラインはほとんど無傷なのを目の当たりにして驚きました」

 チェチェン領内には、世界的大油田のカスピ海から黒海の輸出港に繋がる複数のパイプラインが通っている。ロシア軍はそこを破壊しないよう気をつけながらチェチェンを攻撃したのだ。

「停戦には至ったものの、紛争が長期化したのでで、現在はチェチェンを迂回するパイプラインにシフトしているようですが、チェチェン国内自体も資源は豊富です。旧ソ連時代は軍用車燃料の8割程度をバクーとチェチェンの石油で賄っていた時期もあるといわれています。バクー油田からのパイプラインは、’08年にロシアとの間で激しい戦闘が起きたグルジア内も通過しています」(林氏)

 ロシアにとって、石油・天然ガスなどによる資源ビジネスが最大の産業。その利益と切り離せないのが、ウクライナの動向だ。

「欧州の天然ガス需要は年間4850億立方メートルで、ロシアからの供給は約1600億立方メートルと約3分の1を占める。そしてロシア産天然ガス輸入の半分がウクライナ国内のパイプライン経由で供給されているのです。ロシアにとってウクライナは重要な資源輸出のルートであり、またそのエネルギーを通して欧州への影響力も行使できます。今年3月のウクライナ領クリミア半島併合、東部の親ロシア派による武装闘争など、ロシアがウクライナにこれほど介入する大きな理由の一つはそこにあるのです」(同)



 旧ソ連の国々をめぐる紛争の裏にはカネと資源の問題が多分に横たわっている。しかし、林氏はこう指摘する。

「エネルギー利権は確かに大きいが、ロシアの拡張主義や面子、それに対抗する非ロシア民族の思いと感情が、紛争の根底にあることも忘れてはならないでしょう」

http://nikkan-spa.jp/703587