日本が日本であるためには“朝日新聞が日韓関係を破壊した 慰安婦についての大誤報を、朝日新聞のことばで謝罪することが必要となる。それが事の起こりであり、終結の始まりとなる。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35903
第一次安倍政権のとき、朝日新聞社の中に東京支局を置くニューヨーク・タイムズ紙のノリミツ・オオニシ 大西 哲光支局長が繰り返し慰安婦問題を取り上げて「元慰安婦」の証言を報じ、安倍首相は訪米で謝罪するはめになった。
その要因となったのがこの記事:2007年3月8日 - 日本国内閣総理大臣の安倍晋三を『日本の戦時中の過去を軽く扱うことでのし上って来た国家主義者 "a nationalist who had built his career partly on playing down Japan's wartime past"』と表現し、彼が日本軍が韓国の女性を誘拐して慰安婦にした証拠は存在しないと発言したことに対して、マイク・ホンダと元慰安婦の証言を掲載して、安倍晋三を非難した。
ノリミツ・オオニシ(Norimitsu Onishi, 日本名:大西 哲光)は、日系カナダ人のジャーナリスト。ニューヨーク・タイムズ記者。と名乗っている。
これは、大西哲光が帰化朝鮮人であることを書いた『週刊新朝』の記事。朝鮮人は自分のルーツを隠して海外でもしばしば日本人を詐称する。大西哲光もその一人だが、帰化朝鮮人による白人女性殺害事件を日本人による犯罪と断定し、日本人が白人女性に異常性欲を持っているとまで解説したが、実際に異常性欲を持っていたのは日本人の方ではなく、大西のルーツである朝鮮人の方であった。
http://asahi.kirisute-gomen.com/onishi.html
★朝日新聞・ニューヨークタイムズ・東亜日報は一心同体
驚くべきことに、朝日新聞東京本社と東亜日報東京支社とニューヨークタイムズ東京支局は全く同じ場所に存在している。
朝日新聞東京本社 〒104-8011 東京都中央区築地5丁目3番2号
東亜日報東京支社 〒104-8011 東京都中央区築地5丁目3番2号
ニューヨークタイムズ東京支局 〒104-8011 東京都中央区築地5丁目3番2号
朝日新聞社内に東亜日報東京支社とニューヨークタイムズ東京支局が設けられており、この三社がいかに密接に連携しているかが窺える。
朝日新聞とのマッチポンプで極左妄想記事を書いて、嬉々として反日報道を行っているのが、ニューヨーク・タイムズ東京支局長の大西哲光である。もちろん、その記事は朝日新聞同様、病的な偏向と反日に溢れており、そういう記事を好んで書く性向は、彼が日本人ではなく、実際には朝鮮人であることに由来している。
「日本人と同じ顔の利点は本音が聞けること」
ニューヨーク・タイムズ本社からオオニシが東京に赴任して間もなく、支局の部屋を提供している『朝日新聞』が、オオニシの紹介記事を書いている。それが上の記事だが、この「日本人と同じ顔の利点は本音が聞けること」という一文で、これまでの反日記事がオオニシの出自を現すこととなった。
その他のオオニシの記事
大西 哲光(自称)
1969年生まれ。
千葉県市川市の朝鮮出身の在日朝鮮人。
4歳のときに家族と共にカナダのモントリオールに移住し、カナダ国籍を取得。
現在は日系カナダ人と自称している。
ニューヨークタイムズに入社後、1998年から2002年までコートジボアール支局に勤め、ナイジェリアの民政移管、シエラレオネの内戦を取材。9・11テロの後は、従軍記者としてアフガニスタンに赴任したこともある。
2003年7月からはニューヨークタイムズの東京支局長を務め、東京発の記事を書く傍ら、朝日新聞やソウルタイムズにも寄稿している。
2009年2月からはNYT東京支局長をマーティン・ファックラーと交代し、インドネシアのジャカルタを拠点に同紙東南アジア支局長を務めている。
問題なのは同紙東京特派員N・オオニシのように多くのマスコミ界にも帰化人がいて、日本人の名を使って日本を非難する。こんな輩を排除するには米国と同じにその出自を明らかにし、発言させるべきではないか。そもそもが、日本が外国人に通名の使用を認めていることが大きな問題を引き起こすのであろう。
◆ブログ「プティ“PARIS”モントリオールから」より引用
1973年 韓国旅行 観光とキーセンパーティツアー
(前省略)
さてキーセンパーティですが初日、観光が終りシャワーを浴び、着替えをして確か2班に別れて行動したと思います。バスに乗り込みキーセンパーティ(韓国式宴会)場に到着です。
玄関では全員が靴を脱ぎ、その時に一枚の番号カードが渡され、同じカード番号は靴の中に入れられました。日本と同じようにお座敷にあがり、大きな旅館の宴会場のような広い部屋に案内されました。
そこには座布団が置かれており、一つの座布団の前に小さなテーブルがありました。お箸やお茶碗、小皿など綺麗に整頓されていました。そのテーブルはひとつおきでしたのですぐに隣はきっと芸妓?さんが座ると思いました。
全員が座ったあと、15分ぐらいだろうか、チマチョゴリ(韓国の民族衣装)を纏った韓国女性が裏側に待機しており、韓国人の男性からの番号を呼ばれる、呼ばれた番号を日本男性は確認して"ハイ”という感じで手を上げます、そうすると玄関で男性の靴から番号を選んだ人がその男性の横に座るのでした。
かれこれ、20分ぐらいかかっただろうか?大所帯なのですべて時間がかかる、男性の横に全部の女性が座ると一斉に料理が運ばれて来た、スープ、前菜やら、とにかく沢山の料理だった、そして驚いた事に箸は彼女らが取って我々日本人男性はなにもせず!! そうすると何を食べたいかという感じで すべての物を口に運んでくれるのである、こんなサービス日本のどこへ行ってもないぞ~などと別席の男性からの言葉が出てきた!私もなんとなく変な気持ちで女性のサービスに甘えながら、すべての食物を口運んでもらいました。
食事が始まって15分ぐらいから韓国の民族舞踊や音楽などが始まり、初めて異国情緒の雰囲気を味わうのでした。
1時間もするとお酒の酔いも回ってくる人も出てきて、笑い声がイチオクターブも上がって楽しい時間を過ぎて行くのでした。 そして2時間ぐらいだろうか食事も済んでそろそれ時間が来た感じでした。
するとある人は個人ですでにキーセン会場を出て行く人などあり、自分でホテルへ帰るのかな~などと思っていたが先輩のT氏はちゃんと心得ていて現地の手配業者と連絡等すべておこなっており心配ないとの事だった。
大半の人達は又バスに乗ってホテルに戻りました。 各自部屋に入る前に明日のスケジュールなど確認してその日はお開きとなりました。
私も部屋に入り 夜の10時頃だと思いました、ドアをノックする音がするので英語でどちらさまでしょうかと、てっきり先輩(T氏)かもと思ったのですが女性の声でした。
とりあえず部屋に入れましたが....え!まさか!と心の中で一瞬そうかこれはきっと現地の旅行社が添乗員に特別手配をしたのだな!とわかりました。
彼女は英語を僅かに話すのみ、大半は韓国語・ハングル語で私はヨボセヨ!カムサハムニダ、アンニョン ハシムニカの3つしか話せず、とにかく初めての経験でどのように対応するか、こちらからはアクションはとれず待ちの態勢でした。
彼女は昼はオフィスで働くOLのようでした。とはいっても大会社では無く小さな会社のようでお金が必要のようでした。
そして........わかったようなわからないような会話をしながら彼女は帰るかと思いしや、ここに泊まるというのです...それはいいけどどうしてと聞くのは紳士?の言う事でも無いし...
そうでした韓国は深夜0:00時~朝の4:00まで韓国人は外出出来ない、戒厳令がしかれていたのです。当時は日韓の歩み寄りの政府間のやりとりに反対する韓国国民のデモなどで厳重な態勢をとっておりソウルは1970年代に戒厳令が挽かれていました。
ここでちょっと気になる事がありました。
私の部屋に来た女性はちゃんと韓国政府?が認めた何らかのライセンス(許可証)を持っていたように思います。それはきっとへんな言い方ですが"いたす”為の許可証かと思います。
このころの韓国は外貨獲得の為、一生懸命でした。
日本に追いつけ、追いこせと韓国政府は経済発展の為に当時はこのような方法でも外貨獲得をしたと思います。
そして韓国政府は知っていたのです! 日本からすべてを学べば必ず世界に通用するという事です。
(後略)URL紛失m(_ _)m
◆南朝鮮の妓生(キーセン)の歴史
朝鮮戦争が勃発し、戦火で焼き尽くされた国土の復興には莫大な費用が必要になった。朴正煕大統領は、日本国と韓国との間の基本関係に関する条約で獲得した資金を元に復興を進め、在韓米軍を新たな復興への資金源として見出した。
当時、駐留米軍に対する風俗店は、朝鮮語でヤクザと呼ばれる非合法の犯罪組織が関与しており、莫大な金額が地下に流出していた。これを一斉に摘発し、新たな国営の娼館制度を代わりに据え、外貨獲得を行った。
これが便宜的に国営妓生と呼ばれる制度であり、更なる外貨獲得を目指して、一時はベトナム戦争時など海外にも派遣された。
日本が復興し、海外旅行が再開されると、日本からの観光客に対しても、国営妓生が使われた。1990年代まで、キーセン旅行と呼ばれるほど韓国旅行が風俗旅行と同等の意味を持っていたのはこのためである。
漢江の奇跡を経て、1980年代に韓国経済が軌道に乗り始めると、国営妓生の志望者は減少した。不足を埋める形で成長した民間の妓生では、フィリピンやインドネシアなどの東南アジアから女性を誘致するようになった。ソ連崩壊後は、ロシア人女性も誘致の対象となった。
だが、やがて外国人娼婦に対する違法行為が頻発し、一部で社会問題化する。そして2004年に、韓国の議会は、全ての売春施設を閉鎖し、売春行為を違法とする法改正を行った。これによって、妓生は韓国では事実上廃止された。
ソウルのキーセン・ハウスでは「清雲閣」「大苑閣」「三清閣」の「3閣」が有名だった。伝統的なキーセン・ハウスで唯一残っていた「梧珍庵」(오진암)も、2010年に閉店した。
(注※高麗・李氏朝鮮では片方の親が・の場合その子をとする制度があった。ただし、この制度の対象となるのは男子のみで、女子は原則として、母親同様すべてが妓生となった。)(Wikipedia)
南朝鮮では朝鮮戦争時より、北朝鮮の女性兵士や女性ゲリラの捕虜のほか、北朝鮮・中国側の協力者と判断されたり、逃げ遅れた朝鮮人北朝女性が、まさに強制的な連行によって慰安婦にされ政府自身が駐留米軍に対し国営従軍慰安婦を運営した。
ベトナム戦争時は外貨獲得の為として、海外にも派遣されたのである。
自分たちが国営として慰安婦を戦場にまで派遣したから、きっと大日本帝国軍も「慰安婦」を管理運営しただろうという発想で『従軍慰安婦』の謝罪と賠償としつこく言い立てる。
自らは朝鮮人のみならずベトナムでは強姦の上強制的にベトナム人を慰安婦にし、国内ではフィリピン人やインドネシア人まで狩り集めたではないか。しかも復興後も世界中から妓生(キーセン)パーティーを目玉に観光客を呼び寄せてきた。
自国の外貨獲得のために政府自らが売春を売り物に観光を呼び込むなどとは、南朝鮮以外には考えられない、まさに『売春立国』と呼ぶべき所業であった。
それが現代になっても 、日本に5万人、米国に3万人世界中に10万人もの韓国朝鮮人売春婦が存在すると、政府自身が認めている。
◆ライダイハン
ライダイハン(越:Lai Đại Hàn)とは、韓国がベトナム戦争に派兵した韓国人兵士による現地ベトナム人女性に対する強姦などの性的交渉によりもうけられた子供のこと。
パリ協定による韓国軍の撤退と、その後の南ベトナム政府の崩壊により取り残され、「敵軍の子」として迫害された。
「ライ」はベトナム語で動物を含む「混血雑種」を意味する蔑称で、ダイハンは「大韓」(朝:대한)のベトナム語読みであるが、卑語であることから「ライダイハン」という語そのものがベトナムの公式文書に現れる例は少ない。
韓国では、ベトナム語からの借用語として取り入れられ、「ライタイハン」(朝:라이따이한)のように発音される。
韓国の金大中大統領は98年にベトナムを訪問したさい、「遺憾」の意を表明、2001年8月にはソウルの首脳会談でベトナムのルオン大統領に対し謝罪したが、それは日本の加害責任を問いつづけている手前もあっての外交カードではないかと解釈されている。(会談直後 に、謝罪撤回)
金大中は訪問時に公式謝罪を約束しながら、帰国後は国内の帰還兵団体の圧力に屈して、正式謝罪はしない。
ベトナムは、未来志向であえて追及はしていないが、韓国はベトナムの姿勢を学ぶ気は全くないようだ。
しかし、今でもこの虐殺を受けた村には碑があり、韓国人に対しての怒りは収まっていない。
2000年12月ソウルで開かれたシンポジウムでも、指揮官クラスの人々は「新聞、雑誌は二度と記事を載せるな」「韓国の資本がベトナムヘ入って感謝されている。不幸な過去をとりあげるのは国益に反する。ベトナムから補償要求が出たらどうするのか」と反発した。
元従軍将校や兵士達の中から、事実を認める参戦軍人の証言を掲載したハンギョレ新聞は、退役軍人の集団に襲撃、放火され、社員たちが暴行され傷つけられる事件を起こされている。
それ以後、韓国のメディアは攻撃をおそれ、全く報道もされることなく、学校の教科書でも、「ベトナム戦争に米国とともに参加した」程度の短い文しか触れられず、若者の殆どが、朝鮮戦争のことなど全く知ることはない。
ベトナムと韓国が1992年に経済交流を再開して後に発生した混血児は「新ライダイハン」と呼ばれる。
ベトナムの為にも、日本からライダイハンやベトナムせんそうで南朝鮮人が行った残虐行為など世界に公表するべきではないか。南ベトナムが陥落し記録や資料が失われたことをいいことに、卑怯な韓国は未だに謝罪も賠償も何一つ行っていない。
韓国軍によるベトナム人大虐殺は推定で30万人を超すと言われている。
朝鮮人は信じたいことしか信じない。
見たいものしか見ない。
現実と妄想の区別のつかない民族だ。
ベトナム戦争での韓国軍によるソンミ村虐殺事件も忘れたらしい。
いや問題にしたり騒いだりすると逆に国民から批難を受ける。
だからマスコミも今更取り上げない。
ベトナム人の耳を集めて首飾り。御機嫌の韓国兵。
同胞は同胞を殺さない。
韓国軍は虐殺などしない。
日帝は酷いことをしたに違いない。
彼らの思考回路がそうなっている。
事実などなんの意味もない。
朝鮮戦争で北朝鮮軍に同胞が殺された事実さえ
◆その朝鮮戦争時に北朝鮮の女性兵士や女性ゲリラの捕虜のほか、北朝鮮・中国側の協力者と判断されたり、逃げ遅れた朝鮮人北朝女性が、まさに強制的な連行によって慰安婦にされた、と指摘されている問題がある。
実は、この問題は2002年2月、韓国慶南大学の金貴玉・客員教授が訪日し、京都の立命館大学において開催された国際シンポジウムの席上で明らかにした、まぎれもない歴史上の事実である。
拘束された北朝鮮の女性達
金氏の発言は当時、朝日新聞が報道し、先日「原爆は神の懲罰」とした記事で話題になった韓国の中央日報でも紹介された。
金氏は当時、日本と韓国の慰安婦問題をいずれも「強制連行」と理解して同列に扱っていたようだ。しかし重要なのは、旧日本軍が民間業者を利用しており、誘拐などで女性を集めるような悪質業者を選ばないように配慮していたのに比べ、韓国のそれは、軍が女性兵士や捕虜を強制的に慰安婦にしていたという点で決定的に異なる。
改めて慰安婦問題を振り返ってみると、旧日本軍の問題がクローズアップされたのは1980年代。1990年まで存在した在韓米軍を巻き込む韓国軍の慰安婦の事実が、その後、国際社会で問題とされることを避けたいという心情もあって、それが明るみになる前に、韓国側は意識的に「旧日本軍による慰安婦の強制連行があった」という問題にすり替えた、という推測も成り立つわけだ。
今後、「旧日本軍による慰安婦の強制連行が、歴史のねつ造であった」ことが歴史的事実として確定していく過程で、実は「軍による慰安婦の強制連行の事実が存在していたのはむしろ韓国の方だった」ということが明確になっていけば、国際的な非難を受けるのは韓国側になるはずだ。
ぜひ、日韓のメディアにはこの問題の本質をしっかりと追及し、白日の下に真実をさらしてもらわなければならないと思う。(富)
◆ブログ「イザ!理想国家日本の条件 桜 咲久也 別室」
http://sakuya7.iza.ne.jp/blog/entry/3088939/
【韓国と在日朝鮮人による日本の世論工作】
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=08HT4dD3hoI
このYouTubeは実にとんでもない動画である。
在日朝鮮人の報告をもとに、日本の世論をどう変えていくかという検討会の模様である。
中には、日本のTVでも見た在日の若者の顔があり、日本の現状を得意になって語っている。
内容から推察すると、日本の世論を意図的に誘導をしようと計画していることが分かる。
日本の各メディアに潜り込んだ草がそれを実行し、日本国民の世論を南朝鮮と在日に有利に導こうというのであろう。
さらに「新しい歴史教科書」の採択をめぐり、これを阻止しようと運動していたのは、じつは在日韓国人たちであった、ということがわかる。
もうここまで来ると朝鮮教の宗教と言っても良いのではないかと思うほどである。日本人の名前で日本人のような顔をして、反日を唱える輩は、少なくとも出身地と三代にわたる戸籍を提示させる必要がある。
今度決定されたマイナンバー制のIDカードからは本籍が表示されなくなるとかいうが、国籍表示と通名ではなく本名を必ず表示させていただきたい。
◆在日韓国・朝鮮人
在日韓国・朝鮮人は、日本の外国人のうち、韓国・朝鮮籍の人のことであり、日本国独立行政法人統計センター発表の統計によれば2011年12月末現在、日本に定住(連続90日以上滞在)し韓国・朝鮮籍外国人として外国人登録している者は545,401人、そのうちしばしば「在日」と略称される韓国・朝鮮籍特別永住者は385,232人となっている。
また、韓国に本籍地があっても朝鮮籍のままの者もいるため、北朝鮮地域を本籍地にしている者は2010年末時点で2,589人に過ぎないが、朝鮮籍保持者は3-4万人程度いるとみられている。
長年に亘り日本定住外国人の最大勢力であったが、帰化と死去による特別永住者の減少が続き、2007年度、急増する在日中国人を下回った。
併合時代に朝鮮から内地に渡航し、そのまま日本に定住した者、およびその子孫と、戦後、朝鮮戦争などの戦火から逃れるために、荒廃した朝鮮半島より日本に密航し20万から40万と推定される密航者およびその子孫の多くはその後特別永住資格を付与され、旧日本国籍保持者としての背景から日本の外国人の中で特殊な地位を占めている。
「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府がおこなった強制連行の結果」とする主張があるが、1959年に日本政府が発表し、2010年にも再確認された資料によれば、当時の在日朝鮮人総数61万人のうち徴用労務者はたった245人で、日本に居住している者は「犯罪者を除き、自由意思によって残留したものである」としている。
また、2005年の日韓基本条約関係文書公開に伴う韓国政府に対する補償申請者は、2006年3月の時点で総受理数21万件のうち在日韓国人からは39人に留まっている。
1965年12月18日、韓国政府は在日韓国人の苦労の原因は本国政府の責任となる他ありませんので、これからは最大限に生活を保護し、朝鮮総連に加担したものも本国政府保護下に戻ることを希望し、分別なく故国をすてて日本に密入国しようとしたものについても韓国民として是非を問わないとすることを表明している。
民団統計によると、日本国籍を取得した韓国・朝鮮人の2009年3月末までの累計は296,168人となっている。
(Wikipedia)
☆終戦直後の1945年8月24日、朝鮮人帰還者を乗せ釜山港へと向かった浮島丸が、連合国軍司令部の航行禁止命令により、舞鶴港への入港中、触雷・沈没して乗員約5000名のうち約550人が死亡する浮島丸事件などの事故があった。
朝鮮人の引揚に関しては、GHQと日本政府は引揚希望者を全員帰国させる方針であり、船便による具体的な送出人数に関してもGHQが指示を出している。また、日本国内(内地)の輸送に関しても具体的な指示が出ている。
その後、在日韓国・朝鮮人は戦勝国民でも敗戦国民でもない「第三国人」としてみなされるようになった。
GHQの計画に従い、大部分の人々が終戦後故郷へ帰る選択肢はあったものの、約4分の1が戦後も日本に定住するに至ったことは、後に日本人と在日韓国・朝鮮人双方から「棄民政策」として批判された。従って本国に帰らなかった在日は、すべて本人の意思により日本に住みついた者である。
★坂町事件
1946年(昭和21年)9月22日に、新潟県岩船郡保内村(現・村上市)で発生した事件。
午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。
この日の午後になり、「また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。
金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。
その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。
軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された。
★1946年9月29日には坂町事件を報道した新潟日報が朝鮮人に襲撃される新潟日報社襲撃事件が起きた。
▼1946年11月末までに占領軍は連合国や朝鮮人・中国人についての批判を禁ずるとした検閲の指針を定めた。
検閲指標は 「削除または掲載発行禁止の対象となるもの」として30項目からなる検閲指標が纏められ、連合国批判、東京裁判批判に繋がる一切の言論は封じ込められた。
▼War Guilt Information Program
戦争への罪悪感を日本人の心に植え付けるための、GHQによる洗脳政策が実施された。
▼マッカーサーは日本にある有益な図書7,000冊以上を焚書した。指定図書の研究、回収は、静かに、極秘に行われた。
そこには、日本人の精神をささえてきた歴史の本の数々から、アメリカ研究や資源研究の本、そして、戦略にかかわる本、地政学の書籍もあった。
▼GHQが戦後、日本が軍事国家に戻らないように教育界とメディア界の中心に反日思想の在日朝鮮人を任命し、その体制が未だに続いている。日本人にとって自虐的な教育、偏った報道が行われているのであるから日本人にとって悪影響が非常に大きい。
1946年11月10日、在日朝鮮人生活権擁護委員会を結成すると、朝鮮人に対する生活物資の優先配給を要求し、12月20日に皇居前広場で朝鮮人生活権擁護全国大会を開くと首相官邸を襲撃した。
★行政への脅迫によって米の二重三重配給を受けて密造酒を醸造するものが多く、神奈川税務署員殉職事件、高田ドブロク事件など税務署との衝突が多発し、職員に死傷者が出ることもあった。
この頃ソフトバンクグループ会長孫正義の父は密造酒で稼いだ資金を元にパチンコ店数十店舗を開くなどして財を成している。
また、覚醒剤密造の72%が在日韓国人によって行われた。
★浜松抗争事件
1948年(昭和23年)4月に静岡県浜松市で発生した抗争事件。“浜松大紛争”とも呼ばれた。
戦後、市内の国際マーケットは在日朝鮮人が押さえていたが、闇市は的屋の関東霊岸島桝屋一家分家(服部)が押さえていた。県議会議員となった服部治助の跡を継いでいたのが「小野組」小野近義であった。
在日朝鮮人らは、在日本朝鮮人連盟の威光を背景に、地元の自治体警察であった浜松市警察の介入を許さず、禁制品を公然と売り捌いていた。小野組の方は比較的合法な物品しか売っていなかったため、客足が奪われることになり、小野組は朝鮮人に反感をもっていた。
1948年3月には、浜松市警の巡査が賭博の現行犯で朝鮮人を逮捕しようとしたところ、返り討ちにあって負傷する事件が発生。小野組は、その巡査を救出して近くの病院に収容、病院周辺を警護して朝鮮人の来襲を阻止するなど、一触即発の事態を迎えつつあった。
4月4日夕方、朝鮮人が小野組組長宅を襲撃したことで、朝鮮人・小野組・浜松市警の三つ巴の抗争が勃発した。小野組は直ちに報復すべく会合を開いたが、朝鮮人はその会合場所を襲い銃撃した。浜松市警も抗争を鎮圧するために出動したが、朝鮮人は伝馬町交差点でこれを迎えうち、警察との間で銃撃戦となった。5日以降の数日間の戦闘で死者数人・負傷者約300人を出した。浜松市警は岐阜軍政部にMPの出動を要請し、400人のMPが浜松に派遣されたことで漸く沈静化した。
この事件により、増長していた朝鮮人の評判は地に落ち、逆に小野組は浜松市民有志から50万円の見舞金が送られた。同年8月4日、静岡地方裁判所浜松支部は17人に懲役6ヶ月~4年を言い渡した。
☆1949年4月8日、GHQの意向で在日本朝鮮人連盟が解散させられる。
★1950年5月、在日本朝鮮留学生同盟では、北朝鮮派と韓国派との内部抗争によって死傷者がでる事件が起きた。
★1950年1月、祖国防衛隊が結成される。
1950年1月より、外国人登録証の更新及び未登録者(密入国者等)の強制送還が行われることになり、それに対抗するために結成された。同年4月には、上部組織として「朝鮮祖国防衛委員会中央本部」が設けられた。
★1951年1月、在日朝鮮統一民主戦線が結成される。
★1955年、在日本朝鮮人総聯合会が設立される。
★戦後、「朝鮮人には民族教育が必要である」との主張に基づいて、日本各地に朝鮮人学級が設けられ、続いて朝鮮人学校が設置された。これに対して1948年に、GHQの意向により朝鮮学校閉鎖令が出され、阪神教育事件に発展した。朝鮮人が兵庫県庁に突入して閉鎖令を撤回させるなどしたため、アメリカ軍は非常事態宣言を出して朝鮮人1,700人を逮捕した。王子朝鮮人学校事件など朝鮮人学校をめぐる事件も続発した。
☆1947年5月の外国人登録令で、朝鮮人や台湾人ら在日外国人は、未だ日本国民ではあったが、外国人の入国について定める同令との関係では外国人とみなされるようになる。
☆1952年のサンフランシスコ講和条約発効と併せ、外国人登録法が施行される。
これに合わせて、通達(1952年(昭和27年)4月19日法務府民事局長通達・民事甲第438号「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」)が出され、日本籍を持っていた朝鮮人や台湾人らは日本国籍を有しないこととされた。
1959年に外務省は、朝鮮への国民徴用令適用による朝鮮人徴用は1944年9月から下関-釜山間の運行が止まる1945年3月までの7か月間であり、また、戦時中に徴用労務者として来た朝鮮人の内、そのまま日本に留まった者は1959年時点で245人に過ぎず、日本に在住している朝鮮人は、「大半が自由意志で来日・在留した者」とする調査結果を発表している。
◆戦後の密入国
戦後の大きな朝鮮人の日本移入の起因となった最初のものとして、1948年の済州島四・三事件がある。韓国政府による済州島民への虐殺は日本への難民/密航者を大量に生んだ。
済州島四・三事件の鎮圧を命じられた韓国軍が韓国本土で反乱を起こした麗水・順天事件の際にも日本への密航者が生み出された。
1950年に始まった朝鮮戦争時にも韓国政府による拷問や独裁から逃れるために密航者が生み出された。
また、経済的理由から密航して来るものも多くいた。
例えば、1947年に孫正義の祖父・父ら孫一族は日本に密航船で入国しており、
マルハン韓昌祐会長は「韓国にいても稼げないので密航して来た」と2005年のテレビ番組で発言した。
作家のキム・ギルホは「1973年、食べていくために日本行の密航船に乗った」と証言した。
戦後にまもなくして来日した彼らは戦後の混乱に紛れ、本来は対象者ではなかったが特別永住資格を得た。
日本政府は密入国者の摘発を行ったが、韓国政府は強制送還を拒否するとともに韓国が抑留した日本人の返還条件として密入国者を日本国内に解放するよう要求した。
『産経新聞』1950年6月28日には、「終戦後、我国に不法入国した朝鮮人の総延人員は約20万から40万と推定され、在日朝鮮人推定80万人の中の半分をしめているとさえいわれる」という記事が掲載されている。
★元秀一は、外国人登録証を所持して日本に合法的に居住できる朝鮮人と密航船に乗って不法入国した朝鮮人で在日朝鮮人が形成されており、後者は主に済州島出身であり、これは済州島出自の在日朝鮮人が大阪市生野区を中心に9万人にのぼることと無関係ではなく、また、大阪市生野区を中心に偏在する在日朝鮮人の縁故を頼っての密入国も多く、大規模な密航は、日本統治時代、戦後の済州島四・三事件、ベトナム戦争時の徴兵逃れの三度にわたり、ほか離散家族の再会・同居、思想的に拘束を受けない日本の大学への留学、病気治療なども移住の理由にあるとしている。
★佐藤勝巳は外国人登録証を所持している在日コリアンといえども不正な手段で入手した密入国者が存在し、ある時期、対馬に登録証の製造工場があったといわれ、敗戦直後日本から帰国した在日コリアンが再度日本に手続きなしで入国する場合は、それらの人に登録証が売買され、そのため、ゆうれい登録証が大量に存在することを指摘している。
★朝鮮総連系雑誌において弁護士洪正秀は、「本名、本籍や本当の生年月日が外国人登録と異なることが在日同胞の場合、多々あります」「実は私も朝鮮学校に通っていた時代には「尹(ユン)」という氏を使用していました。戦後、父が密航で日本にやってきて、他人の外国人登録を買ったためでした。そのため、親族と会うときは「洪(ホン)」の氏を使用し、学校では「尹」の氏を使用しました」と記している。
◆日韓基本条約
1965年6月、日本が韓国を朝鮮半島唯一の国家として承認する「日韓基本条約」および在日韓国人の法的地位について定めた「日韓法的地位協定」などの付随協約が結ばれ、韓国籍申請者にはそれまで暫定的に与えられていた在留資格よりも優遇された「協定永住」資格が与えられ、永住が法的に保証された。
条約批准書交換に際し朴正煕韓国大統領は談話を発表し、この中で在日同胞の苦労の原因を韓国政府の責任とし、それまで在日同胞の一部が共産主義に駆り立てられ加担するようになったことも大部分韓国政府が十分保護できなかった責任であるとした。
さらに、朝鮮総連系に加担した者たちの過去の行為を不問に付すとともに、韓国政府による在日同胞の安全と自由についてより積極的に努力し可能な最大限の保護を行うことを約束、また、これまで分別なく故国を捨て日本に密入国を試み抑留され祖国のあるべき国民になれなかった者に対しても、新しい韓国民として前非を問わない姿勢を示し、再びこうした分別のない同胞がいなくなることを希望した。
韓国は民団を通じ朝鮮籍から有利な「協定永住」資格が得られる韓国籍への書き換えを強力に推進、1966年には民団側も日本全国への韓国領事館の設立支援を決議し、1971年1月の申請締め切りまでに350,922人が韓国籍を取得するなど民団は大きく勢力を伸ばした。
この国籍欄書き換えをめぐって、推進する民団とこれを阻止しようとする朝鮮総連の幹部が、大阪市生野区役所などで激突する事態も発生した。
一方北朝鮮は、日本との国交樹立は「二つの朝鮮」「分断の固定化」につながるとして日朝国交樹立に強く反対したため、北朝鮮を支持する在日朝鮮人の法的地位は変わらなかった。
朝鮮は、朝鮮併合に反対する伊藤博文を暗殺して、大日本帝国の一部となった。
なぜ日本が韓国国民を奴隷にしたと非難されるか理解できない。
もし奴隷にしたならば、イギリスは共犯であり、アメリカは少なくとも従犯である。
日本の朝鮮半島での行動は全てイギリスの同盟国として「合法的に」行われたことだ。
国際関係の原則にのっとり、当時の最善の行動基準に従って行われたことである。
しかも原則は日本が作ったものではない。欧米列強が作った原則なのだ。
1910年、日本が韓国を併合したのは、韓国皇帝が「請願」したからだ。
歴史家は、日本は欧米列強から教わった国際関係の規則を、実に細かいところまで几帳面に守っていた、とほめるのである。
ヘレン・ミアーズ氏(GHQメンバー)
それなのに国際的に見ても例外中の例外で
国家賠償から個人補償まで日韓基本条約で最終的かつ完全に解決している。(協定第二条1)
無償、有償あわせて合計8億ドルという額は当時の韓国の国家予算の2.3倍であり、いかに高かったかが分かる。
ちなみにこの賠償額は、朝鮮半島全地域が対象であり、韓国政府が「北朝鮮を統一したら北の人に支払うから北の分もくれ」と言って持って行った額である。
◆国政への関与
日本国では外国人による日本国政治家への献金は公職選挙法第二十二条の五によって禁じているが、民主党政権時、菅直人内閣総理大臣や前原誠司外務大臣などに対して在日韓国人から長年にわたって献金が行われていることが明るみとなり問題が顕在化している。
特に、菅直人内閣総理大臣は東日本大震災の発生直後のどさくさに紛れ、献金者の口封じ工作まで明るみに出た。
彼らは責任も感じず、罪にも問われず、議員辞職もしなかった。
特別在住外国人への地方参政権など以ての外と言わざるを得ない。
日本の国会議員の使命は、国と国民の財産を守り、国民の基本的人権を守る義務がある。それが出来ない議員など、日本国の国会議員となる資格は無い。
◆通名
在日韓国・朝鮮人には、日本式の姓名、「通名(通称名)」を名乗って韓国・朝鮮式の本名を隠す人々が存在し、新聞・TV等のマスコミ報道においては、各社の方針によって通名での報道がなされる場合が多々存在する。このことは、犯罪者にあっては本名隠匿による過擁護と通名の変更による再犯の要因になり得る。
民団の発表では、韓国・朝鮮式の本名で暮らす人は全体では1割強にとどまり、3人に1人は「状況により使い分ける」としていることを明らかにした。
凶悪事件や婦女暴行強姦事件の場合、メディアによっては本名を発表せず、通名のみであたかも日本人の犯行であるかのように発表されるが、その記者や編集者の多くが在日であるとされる。逮捕後社会に出ても、通名を変更してはまた罪を繰り返す。
これでは似非日本人が日本の報道を捏造して混乱に陥れているという由々しき問題となる。
通名の禁止やメディアに携わる所には在日や反日外国人の排除、本名による記事作成が必要ではないか。