友人の誘いで昔懐かしい「東神奈川界隈」に出かけました。
この地域は小学生から高校生のころまで、何気なくなじんだ場所でしたから、ここを訪れるなどとはあまりにも意識から抜けている場所でもありました。
50年ほども前になりますが、自宅から徒歩や自転車で「東神奈川駅」と「京急の仲木戸駅」に挟まれた一角は戦後の掘っ立て小屋のような小さな店店が並び、戦後の景色が色濃く残っていた場所です。
もちろん、小学生の小生には戦後もなにも分からないままに自然な景観でした。
この一角は間口一間ばかりの店が屋根を連ねた和風アーケード〔?〕がありました。中に迷い込めば出てくることが困難なような、恐ろしい一角ですが、この中にある床屋で頭を刈って貰った記憶もありますし、遊んだ記憶もうっすらとあります。
その内の一軒の食堂の名物が「カレー」です。小生も親の使いでこの食堂のカレーを手鍋を持って買いに行かされたことを思い出します。
裏口から店内に声を掛けると窓から若い女性が手鍋にカレーを入れてくれました。
多分サービスをして沢山入れてくれたように感じています。
その若い女性は姉の学友だったからです。
現在はモダンな?レストランになっていました。当時の面影はまったくありません。
その食堂の隣の店が「根岸屋」です。飲み屋ですから当時の私にはまったく興味の無い店でしたけど。
不思議にも、友人に誘われて入った店がその「根岸屋」でした。
常連の客が多い様子です。もっとも年齢からすれば昔の根岸屋時代からの常連の方もいるのでしょうか? と、すれば70過ぎになりますが、、、。
想像するに、当時の看板娘だった方が今の大女将なのでしょう。今は70才くらいの息子さんとお孫さんとで営んでいるそうです。
■東神奈川駅を背中にし村雨橋を渡って徒歩15分程度の湾岸沿いに「スターダスト」があります。村雨橋の右向こうには港未来地区が見えます。
あまりにも有名なバーです。
この地域も小生が幼かった頃は進駐軍〔米軍の基地が…〕駐在していた地域です。
子供の頃は「つれ浚われるから近寄るな」といわれた一角です。
横浜ノースピアと呼ばれ、現在も立ち入り禁止地区となつています。
瑞穂橋がその境界のようです。
その境界の脇に建つのが「スターダスト」です。
もちろん、いまでも夜は人影が少ない地域です。
確か、横浜シティターミナルから羽田空港に向かうリムジンバスもこの地域を通ります。
この地域は小学生から高校生のころまで、何気なくなじんだ場所でしたから、ここを訪れるなどとはあまりにも意識から抜けている場所でもありました。
50年ほども前になりますが、自宅から徒歩や自転車で「東神奈川駅」と「京急の仲木戸駅」に挟まれた一角は戦後の掘っ立て小屋のような小さな店店が並び、戦後の景色が色濃く残っていた場所です。
もちろん、小学生の小生には戦後もなにも分からないままに自然な景観でした。
この一角は間口一間ばかりの店が屋根を連ねた和風アーケード〔?〕がありました。中に迷い込めば出てくることが困難なような、恐ろしい一角ですが、この中にある床屋で頭を刈って貰った記憶もありますし、遊んだ記憶もうっすらとあります。
その内の一軒の食堂の名物が「カレー」です。小生も親の使いでこの食堂のカレーを手鍋を持って買いに行かされたことを思い出します。
裏口から店内に声を掛けると窓から若い女性が手鍋にカレーを入れてくれました。
多分サービスをして沢山入れてくれたように感じています。
その若い女性は姉の学友だったからです。
現在はモダンな?レストランになっていました。当時の面影はまったくありません。
その食堂の隣の店が「根岸屋」です。飲み屋ですから当時の私にはまったく興味の無い店でしたけど。
不思議にも、友人に誘われて入った店がその「根岸屋」でした。
常連の客が多い様子です。もっとも年齢からすれば昔の根岸屋時代からの常連の方もいるのでしょうか? と、すれば70過ぎになりますが、、、。
想像するに、当時の看板娘だった方が今の大女将なのでしょう。今は70才くらいの息子さんとお孫さんとで営んでいるそうです。
■東神奈川駅を背中にし村雨橋を渡って徒歩15分程度の湾岸沿いに「スターダスト」があります。村雨橋の右向こうには港未来地区が見えます。
あまりにも有名なバーです。
この地域も小生が幼かった頃は進駐軍〔米軍の基地が…〕駐在していた地域です。
子供の頃は「つれ浚われるから近寄るな」といわれた一角です。
横浜ノースピアと呼ばれ、現在も立ち入り禁止地区となつています。
瑞穂橋がその境界のようです。
その境界の脇に建つのが「スターダスト」です。
もちろん、いまでも夜は人影が少ない地域です。
確か、横浜シティターミナルから羽田空港に向かうリムジンバスもこの地域を通ります。