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先祖を探して

Vol.5 逸話のある兜岩

当家は1600年当初から宗家の分家になっています。当時長男だった佐久田という人が、実家は家族が多かったため結婚して家を宗家の前に建てて別立てしたため、屋号を前宗と呼んでいたそうです。本家を継いだのは5男の平安統惟次という人です。当家は本家と分家ともに、世ノ主自害後から薩摩藩が島を統治し明治期になるまでは、代々島の大屋子(ふうやく:琉球時代の地方役人のトップ)や与人(よひと:薩摩藩時代の地方や君の市長みたいな役職)という役人をしています。系図や役人として島で活躍した方々のことは、また別記したいと思います。

この時代には名字が無く、屋号で呼んでいたそうです。
前宗家はその後、金城家の上に住んで屋号が上金城、その後は花城家の上に住んだので上花城(島ではワーナスクと読みます)と変わっていますが、居住地はいずれも城跡の近くでした。
 
この地図は明治の土地台帳から所有していたところを記載しています
 
 
 
兜岩の逸話
 
上花城として居住していた当家の土地に置いてあった兜の形をした灯籠岩についての逸話がお爺様の記録にありました。
この岩は当時の家長であった池悦という人の屋敷(上花城家)の庭に築山があって、そこに置いてあったそうです。
この池悦は沖永良部島で与人で、色んな功績が認められ、2重石垣のりっぱな家に住まわれていたそうです。
ある日、鹿児島(1609年から沖永良部島は島津藩の管理下)に薩摩藩に上国のために、航海祈願をこの岩にしたそうです。当時の航海は現代以上に自然の影響が大きく、帆船での航海は命がけであったようです。
その安全祈願の時に岩の下に鎧や刀、錦の旗などを奉納したようです。
沖永良部島の歴史研究家の先田先生の資料によると、それらは岩の三メートルほど下に埋められているとか。
現在この場所は畑と道路になっていて、当時の屋敷などの面影はありません。
 
 
以前に道路工事をするときに、この岩を動かそうとしたそうですが、とてもとても重くてなかなか動かなかったそうです。でも工事が終わりもとに戻そうとしたときには、信じられないくらいに軽くなっていたそうです。
また、この兜岩は珍しい形なので、何度か何者かが持ち帰ったそうですが、いずれも持ち帰った方に不幸が起きたそうで、すぐに元の場所に戻しに来られたそうです。
そんなこんなで、この兜岩はずっとこの場所を守ってくれています。
もしかしたら、宗家の帰りを待ってくれているのかもしれません。このお正月に島に行く計画をしていたのですが、このコロナで行けませんでしたので、状況が良くなればすぐにでも行って、この兜岩に会いたいですね。

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コメント一覧

yononushi
@nettaigyo_1952 そうです! 存在感のある岩ですよね。
nettaigyo_1952
内城にある石ですかね。
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