真の動物福祉牧場を目指して

70.「奇跡の人」と「ジョニー ベリンダ」

「妙なる映画」シリーズのラストは、映画文化勃興期の白黒作品で締めようと思います。

「ジョニー ベリンダ」は前に詳しく紹介したので、今回は「奇跡の人」の引き合いに留めますが、これは私が最近一番感動した映画で、私の父と母が生まれた1948年の作品です。

因みに映画文化の幕開けを飾った傑作として、グリフィスの「イントレランス」(不寛容 1916)が有名ですが、これはサイレント映画で非常に宗教色が強いので、今回はスルーさせて貰います。

少し「宗教」に言及しますと、私は「猿真似の信仰」には反感を覚えるタチで、信仰くらい自由に持つべきだと思います。
「絶対の信仰」なんてモノは認めず、それはちっぽけなヒトには決して到達できないけれど、追い求め続けるコトに価値があると思います。

「奇跡の人」はヘレンケラーの誕生物語ですが、個人的「信仰」を追い求め続けた強い女性の物語でもあります。
物語の舞台は南北戦争直後の「南部」で、「北部」の女性(サリヴァン)が乗り込んで行き、そこの狭隘な「信仰」を打ち破って行きます。

これほど強い女性を描いた映画は他に類がなく、彼女の類い希なる信仰こそが本物であると教えてくれます。
サリヴァンは視覚障害を乗り越えたコトでその独自の信仰に到達し、それは聴覚障害を乗り越えたベリンダと共通します。
ヘレンケラーは視覚と聴覚の両方に障害を持ちますが、サリヴァンの懸命な努力によって「光」に到達します。
「奇跡の人」ではこの「闇」を抜けるまでの最初のステップを描いており、それが一番困難だったコトを強調しております。

一方「ジョニー ベリンダ」では、「言葉」という「光」をベリンダが得るまでにはさして苦労せず、ずっと「闇」に閉ざされていた「知性」が一気にほとばしる「美しさ」を強調しています。

「知る」コトはヒトの本能的な欲求で、全てを「知りたい」と思う心こそが健全かと思います。
しかし残念ながら、日本の子供たちは下らないコトばかりを無理やり「知れ」と命令されて、「知る」コトに対し反感を覚えてしまっているキライがあります。

これは無理やり「絶対の信仰」を押し付けられる様なモノで、そんな教育は子供たちの心を歪めるだけに思えます。
もちろん大人は子供の「知る」べきコトを教え、導く責任がありますが、それを「猿真似の競争」で終わらせないように、大人はそれぞれ独自の「信仰」を磨くべきかと思います。
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