我々はだれもが母親の子供として生まれ、成長し、母親の価値観や思わくを
背負いながら生きる。母親の価値観と、そこからくる子供への期待ーー。こ
の期待を実現しようと努力するとき、子供は「主」である母親に「從」とし
てしたがい、母親は母親で、子供を通して自己を表現していると言えるだろ
う。
それではこの母親の価値観は、どこから来るのか。その時代の風潮からであ
る。どんな価値観・思想にも、時代的な背景がある。「この子には、勇敢な
軍人になってもらいたい」と願う母親の心には、「勇敢な軍人」を国家的英
雄として褒め称える、その時代の軍国主義的な風潮が如実に反映している。
一介の平凡な庶民は、己の時代を超え出ることができない。
ここまでなら、「人の考えは時代に制約され、規定されている」というだけ
であって、そこに宗教的な含蓄は何もない。「思想は時代の下部構造に規定
された上部構造であって、イデオロギーに過ぎない」というマルクス的言説
と大同小異である。
しかし、それでは何かおかしい。ドンピシャリの正解からは、ほど遠いよう
に思えるのだ。これまでの経緯を振り返ってみよう。出発点は、次のような
井上洋治氏の言葉だった。
「私たちの人生というのは、私たちが何かをし、それによって私たち自身を
表現するものではなくて、神がーー神という言葉がお嫌いな方は、私たちを
支えている大自然の生命と受け止めてくださっても結構なのですがーー私た
ちの生涯において己れ自身を表現させるものだということなのであります。
私はここに宗教の世界の核心というものがあるのだと思っております。」
「宗教の世界の核心」について述べたこの井上氏の言葉を、私は理解しよう
としたのだった。この言葉を「うん、なるほど!」と実感し、納得できるも
のにしようとして、私はこれを卑近な例に引きつけ、身近なイメージに変換
したのだった。その結果、私がやったことといえば、宗教的な事柄を限りな
く脱宗教化し、通俗化しただけではないのか、と思えてくるのである。
脱俗(宗教)と通俗(日常)とを橋渡しするような、何かもっと適切な事例
はないものだろうか。ーーそういう問題意識から、私は井上洋治著『人はな
ぜ生きるか』の世界を、さらにさ迷わなければならない。
背負いながら生きる。母親の価値観と、そこからくる子供への期待ーー。こ
の期待を実現しようと努力するとき、子供は「主」である母親に「從」とし
てしたがい、母親は母親で、子供を通して自己を表現していると言えるだろ
う。
それではこの母親の価値観は、どこから来るのか。その時代の風潮からであ
る。どんな価値観・思想にも、時代的な背景がある。「この子には、勇敢な
軍人になってもらいたい」と願う母親の心には、「勇敢な軍人」を国家的英
雄として褒め称える、その時代の軍国主義的な風潮が如実に反映している。
一介の平凡な庶民は、己の時代を超え出ることができない。
ここまでなら、「人の考えは時代に制約され、規定されている」というだけ
であって、そこに宗教的な含蓄は何もない。「思想は時代の下部構造に規定
された上部構造であって、イデオロギーに過ぎない」というマルクス的言説
と大同小異である。
しかし、それでは何かおかしい。ドンピシャリの正解からは、ほど遠いよう
に思えるのだ。これまでの経緯を振り返ってみよう。出発点は、次のような
井上洋治氏の言葉だった。
「私たちの人生というのは、私たちが何かをし、それによって私たち自身を
表現するものではなくて、神がーー神という言葉がお嫌いな方は、私たちを
支えている大自然の生命と受け止めてくださっても結構なのですがーー私た
ちの生涯において己れ自身を表現させるものだということなのであります。
私はここに宗教の世界の核心というものがあるのだと思っております。」
「宗教の世界の核心」について述べたこの井上氏の言葉を、私は理解しよう
としたのだった。この言葉を「うん、なるほど!」と実感し、納得できるも
のにしようとして、私はこれを卑近な例に引きつけ、身近なイメージに変換
したのだった。その結果、私がやったことといえば、宗教的な事柄を限りな
く脱宗教化し、通俗化しただけではないのか、と思えてくるのである。
脱俗(宗教)と通俗(日常)とを橋渡しするような、何かもっと適切な事例
はないものだろうか。ーーそういう問題意識から、私は井上洋治著『人はな
ぜ生きるか』の世界を、さらにさ迷わなければならない。