『ヨブ記』の舞台になった旧約聖書の世界には、二種類の神がいる。一つ
は(1)神秘的・非合理的な体験の中で出会われる神で、これはルドルフ・
オットーの言うヌーメン的な神である。
もう一つは、(2)モーセが創作した演劇空間上の神であり、これは「神を
崇拝する人は、幸福になる」という応報思想を担う神である。
『ヨブ記』の物語は、(1)の神が(2)の神を否定する物語として解釈さ
れることが多い。
ここで注目したいのは、ヨブが(1)の神に出会う、神秘的・非合理的な内
的体験について、井上氏が独自の改変の操作を行っていることである。井上
氏は次のように述べている。
「その時に与えられる喜びと言いますか、安堵感と言いますか、これが最も
大切なことだと思います。
それは、そこにお母さんがいてくれるというだけで子供たちの持つことので
きる 安堵感でしょうか。お母さんのまなざしが注がれているということが、
子供たちのあの安らぎに満ちた生き生きとした眼差しというものを生み出し
ているのだと思います。自分が主なのではなく、主なる方が常に包んでいて
くださる、その感じでしょうか。これがやはり宗教にとって一番基本的な事
柄ではないかと思っているわけであります。」(23−24頁)
「母親」がいることで得られる「安らぎ」と「安堵感」、ーーこれは『ヨブ
記』には見られない言葉だが、この改変は決して余計な操作ではない。井上
氏が付け加えたこの言葉によって、なんと、私の想像は大きく膨らむのであ
る。
どういうことか。私のこれまでの人生の歩みを、「母親」と関連づけて捉え
なおすと、どういうことになるのか。
振り返ってみれば、私は子供の頃から「良い子」であり、どちらかといえば
優等生だった。「勉強しなさい!」という母親の言い付けに背くことなく、
せっせと勉学に励んできた。その努力の甲斐あってか、難関とされる大学
に無事合格し、卒業するまではあれこれ紆余曲折をたどったものの、その
後はおおむねエリートとされる人生行路を歩んできた。
母親が夢に描いた「立身出世」の物語を、私は一応、立派に体現したと言え
るだろう。その意味では、母親は私を通して自己を(「主」として)表現
し、私は「従」として、母親の意思にしたがったと言うことができる。そし
て、私自身、そう感じるとき、えも言われぬ安らぎと安堵感を実感するので
ある。
我々は全員が母親の子供であり、多かれ少なかれ母親の価値観を表現しなが
ら生きている。母親の価値観を表現することで、(なぜかはわからないが)
漠然とした安らぎを感じながら日々を生きている。その安らぎは、母親の
胎内にいるような、「母親に包まれている」という感覚なのかも知れな
い。
井上神父が言いたかったのも、そういうことではないだろうか。私はそう思
うのだが、そうであるとすれば、キリスト教の信者にとっては、「神さま」
が、この母親と同じものとして感じられるのかもしれない。
キリスト教徒でない私はそう解釈するのだが、実感を根拠にしたこの私の解
釈を、キリスト教徒の皆さんはどうお思いになられるだろうか。ぜひご意見
を伺いたいものである。
は(1)神秘的・非合理的な体験の中で出会われる神で、これはルドルフ・
オットーの言うヌーメン的な神である。
もう一つは、(2)モーセが創作した演劇空間上の神であり、これは「神を
崇拝する人は、幸福になる」という応報思想を担う神である。
『ヨブ記』の物語は、(1)の神が(2)の神を否定する物語として解釈さ
れることが多い。
ここで注目したいのは、ヨブが(1)の神に出会う、神秘的・非合理的な内
的体験について、井上氏が独自の改変の操作を行っていることである。井上
氏は次のように述べている。
「その時に与えられる喜びと言いますか、安堵感と言いますか、これが最も
大切なことだと思います。
それは、そこにお母さんがいてくれるというだけで子供たちの持つことので
きる 安堵感でしょうか。お母さんのまなざしが注がれているということが、
子供たちのあの安らぎに満ちた生き生きとした眼差しというものを生み出し
ているのだと思います。自分が主なのではなく、主なる方が常に包んでいて
くださる、その感じでしょうか。これがやはり宗教にとって一番基本的な事
柄ではないかと思っているわけであります。」(23−24頁)
「母親」がいることで得られる「安らぎ」と「安堵感」、ーーこれは『ヨブ
記』には見られない言葉だが、この改変は決して余計な操作ではない。井上
氏が付け加えたこの言葉によって、なんと、私の想像は大きく膨らむのであ
る。
どういうことか。私のこれまでの人生の歩みを、「母親」と関連づけて捉え
なおすと、どういうことになるのか。
振り返ってみれば、私は子供の頃から「良い子」であり、どちらかといえば
優等生だった。「勉強しなさい!」という母親の言い付けに背くことなく、
せっせと勉学に励んできた。その努力の甲斐あってか、難関とされる大学
に無事合格し、卒業するまではあれこれ紆余曲折をたどったものの、その
後はおおむねエリートとされる人生行路を歩んできた。
母親が夢に描いた「立身出世」の物語を、私は一応、立派に体現したと言え
るだろう。その意味では、母親は私を通して自己を(「主」として)表現
し、私は「従」として、母親の意思にしたがったと言うことができる。そし
て、私自身、そう感じるとき、えも言われぬ安らぎと安堵感を実感するので
ある。
我々は全員が母親の子供であり、多かれ少なかれ母親の価値観を表現しなが
ら生きている。母親の価値観を表現することで、(なぜかはわからないが)
漠然とした安らぎを感じながら日々を生きている。その安らぎは、母親の
胎内にいるような、「母親に包まれている」という感覚なのかも知れな
い。
井上神父が言いたかったのも、そういうことではないだろうか。私はそう思
うのだが、そうであるとすれば、キリスト教の信者にとっては、「神さま」
が、この母親と同じものとして感じられるのかもしれない。
キリスト教徒でない私はそう解釈するのだが、実感を根拠にしたこの私の解
釈を、キリスト教徒の皆さんはどうお思いになられるだろうか。ぜひご意見
を伺いたいものである。