ブログ記事をアップしたあとで、書き漏らしに気づき、「しまった!これこ
れについても、書いておけばよかった」と思うことがある。いや、こう書い
たほうが、簡潔な記事になったのではないか、と思うこともある。
たとえば、おとといの《改憲論議をどうする》。夢枕に立った「あのお方」
が、こう述べるくだりである。
「え?なんですって?(憲法の中身を)変えるつもりがないのなら、改憲の
必要もないのではないか、ですって?憲法を改正した名宰相として、歴史に
名を残したいだけじゃないのか、ですって?」
この文章に、次の一文を加えればよかった、と私は思ったのである。
「ことさら改憲論議を盛りあげようとしているのは、モリカケ問題がら国民
の目を逸らすための、一種の目くらましではないのか、ですって?」
こんな疑問が生じたのは、最近、国会審議の場で、モリカケ問題が再燃しつ
つあるからである。一年ほど前、我がアベ首相は北朝鮮のミサイルという
「国難」を、モリカケ問題の目くらましとして利用したが、この「国難」が
去ったかに見える今、「あのお方」は、今度は改憲論議を新たな目くらまし
の方策として利用しようとしているのではないか。
毎日新聞はきょうの社説《逃げの答弁続く安倍政権 質疑の劣化が止まらな
い》で、次のように論じている。
「今度は「森友学園」問題に関して、財務省が決裁文書を改ざんしたのでは
ないかという疑惑が朝日新聞の報道で浮上。2日の参院予算委審議はこの問
題に集中した。(中略)麻生氏や財務省は、司法当局の捜査に影響を与える
可能性があるとの理由で「答えは差し控える」とかわし続け、審議は再三中
断。(中略)予算委員会は予算案を中心に国のさまざまな課題を整理し、国
民と問題意識を共有する場だ。ただし建設的な審議にするためには、政府が
野党側の疑問に対し、その都度きちんと答弁していくのが前提だ。」
野党側の質問には「しっかり丁寧に」答えると言いながら、その姿勢のかけ
らも見せないアベ首相の態度に、国民は怒りを募らせていますぜ。−−私は
「あのお方」に、こう言いたかったのである。
さてもう一つは、きのうアップした記事《銃乱射社会を考える》についてで
ある。銃の乱射事件が頻発するアメリカでは、(A)と(B)と、2つの考え方
の間で熾烈な「闘い」が見られる、とするグルーグマンのコラムを紹介した
が、一方の(B)の考え方(「銃の所持を個人の基本的な自由権として認め、
各人の生存権は各人の努力に任せる」という考え方)について、ふと気づい
たのだ、この考え方は、政治哲学でいう「リバタリアニズム(自由至上主
義)」そのものではないか、と。
リバタリアニズムは税の徴収問題をめぐって、リベラリズムに対立するもの
として論じられることが多いが、アナーキズム(無政府主義)につながる可
能性を持ったこの物騒な考え方、リバタリアニズムが、銃の規制問題にまで
顔を出していたとは、私には新鮮な驚きだった。
(B)の考え方を「リバタリアニズム」と言い換えれば、この記事はもっと簡
潔なものになったのではないか、と思ったのだが、そうすると、今度はこの
「リバタリアニズム」について、長々しい説明が欠かせなくなる。そううま
くはいかない。記事を簡潔にするために、ではどうしたらいいか、いまだに
あれこれ思案している。
れについても、書いておけばよかった」と思うことがある。いや、こう書い
たほうが、簡潔な記事になったのではないか、と思うこともある。
たとえば、おとといの《改憲論議をどうする》。夢枕に立った「あのお方」
が、こう述べるくだりである。
「え?なんですって?(憲法の中身を)変えるつもりがないのなら、改憲の
必要もないのではないか、ですって?憲法を改正した名宰相として、歴史に
名を残したいだけじゃないのか、ですって?」
この文章に、次の一文を加えればよかった、と私は思ったのである。
「ことさら改憲論議を盛りあげようとしているのは、モリカケ問題がら国民
の目を逸らすための、一種の目くらましではないのか、ですって?」
こんな疑問が生じたのは、最近、国会審議の場で、モリカケ問題が再燃しつ
つあるからである。一年ほど前、我がアベ首相は北朝鮮のミサイルという
「国難」を、モリカケ問題の目くらましとして利用したが、この「国難」が
去ったかに見える今、「あのお方」は、今度は改憲論議を新たな目くらまし
の方策として利用しようとしているのではないか。
毎日新聞はきょうの社説《逃げの答弁続く安倍政権 質疑の劣化が止まらな
い》で、次のように論じている。
「今度は「森友学園」問題に関して、財務省が決裁文書を改ざんしたのでは
ないかという疑惑が朝日新聞の報道で浮上。2日の参院予算委審議はこの問
題に集中した。(中略)麻生氏や財務省は、司法当局の捜査に影響を与える
可能性があるとの理由で「答えは差し控える」とかわし続け、審議は再三中
断。(中略)予算委員会は予算案を中心に国のさまざまな課題を整理し、国
民と問題意識を共有する場だ。ただし建設的な審議にするためには、政府が
野党側の疑問に対し、その都度きちんと答弁していくのが前提だ。」
野党側の質問には「しっかり丁寧に」答えると言いながら、その姿勢のかけ
らも見せないアベ首相の態度に、国民は怒りを募らせていますぜ。−−私は
「あのお方」に、こう言いたかったのである。
さてもう一つは、きのうアップした記事《銃乱射社会を考える》についてで
ある。銃の乱射事件が頻発するアメリカでは、(A)と(B)と、2つの考え方
の間で熾烈な「闘い」が見られる、とするグルーグマンのコラムを紹介した
が、一方の(B)の考え方(「銃の所持を個人の基本的な自由権として認め、
各人の生存権は各人の努力に任せる」という考え方)について、ふと気づい
たのだ、この考え方は、政治哲学でいう「リバタリアニズム(自由至上主
義)」そのものではないか、と。
リバタリアニズムは税の徴収問題をめぐって、リベラリズムに対立するもの
として論じられることが多いが、アナーキズム(無政府主義)につながる可
能性を持ったこの物騒な考え方、リバタリアニズムが、銃の規制問題にまで
顔を出していたとは、私には新鮮な驚きだった。
(B)の考え方を「リバタリアニズム」と言い換えれば、この記事はもっと簡
潔なものになったのではないか、と思ったのだが、そうすると、今度はこの
「リバタリアニズム」について、長々しい説明が欠かせなくなる。そううま
くはいかない。記事を簡潔にするために、ではどうしたらいいか、いまだに
あれこれ思案している。