人はどうすれば、大切なものを失ったときの自分を受け入れることができる
ようになれるのかーー。この問いに対して、井上洋治神父は「それは視点の
コペルニクス的転換によってである」と答えている。一体どういうことなの
か。
その部分は、以下のごとくである。フランクル「夜と霧」に描かれた、アウ
シュビッツ収容所の過酷な光景を思い浮かべながら、読んでいただきたい。
「(フランクルの「夜と霧」によれば)どういう苦しみであっても、その苦
しみが何らかの意味を持っていると思えたとき、私たちはそれを担っていく
ことができるのです。私たちの生き甲斐は、つまるところは、自分の生が何
かの役に立っている、あるいは誰かが自分を必要としている、というところ
にあると思います。一番の苦痛は、肉体的なこともさることながら、その人
がもはや何かの役に立っているという実感を持てなくなるという、心の苦し
みなのです。これがやはり老後の一番の重みと苦しみであろうと思います。
(中略)
(フランクルによれば、この苦しみを受け入れるためには)視点を転換する
ことが必要なのだ。これからの苦しみの人生から何を期待できるか、という
視点をやめて、人生がこれからのあなたたちの生涯に何を期待しているのか、
という視点に立つことが肝要なのだ、というのです。大げさに言えば、精神
世界のコペルニクス的転換が必要なのだ、ということです。この視点の転換
をできた人が、死に向かっての苦しみの中にも、なおかつ意味を見つけるこ
とができる人であり、その苦しみを前向きに背負って生きてくことができる
人なのだ、というのです。フランクルがあの真っ暗闇の、飢えと拷問と疲労
と汚物に満ちた夜の収容所の一室で語っていることこそ、まさに宗教の世界
そのものです。」(12−14頁)
自分の苦しみの人生から、何を期待できるか、という視点をやめて、人生が
自分の生涯に何を期待しているのか、という視点に立つこと、ーーこれが
「視点のコペルニクス的転換」について語られたことであるが、この言葉が
具体的に何を意味するのか、私にはまだピンとこない。実感が伴わないのだ。
ここで語りだされた言葉が何を意味するのか、具体的にイメージできない、
というか・・・。
フランクルの「夜と霧」を承けて、井上氏はさらに次のように語っている。
この言葉にこそ、氏の思想の眼目が表明されていると言えるだろう。
「私たちの人生というのは、私たちが何かをし、それによって私たち自身を
表現するものではなくて、神がーー神という言葉がお嫌いな方は、私たちを
支えている大自然の生命と受け止めてくださっても結構なのですがーー私た
ちの生涯において己れ自身を表現させるものだということなのであります。
私はここに宗教の世界の核心というものがあるのだと思っております。」
(15頁)
たしかに、スリリングな言葉ではある。なにか途轍もなく重要なことが語り
だされているような、そんなただならぬ雰囲気が、ここにはただよってい
る。
でも、残念なことに、私にはこれがいまいちピンとこない。ますますピンと
こないのである。深遠な思想は大抵そうだが、抽象度の高い言葉で語られる
分だけ、我々の素朴なイメージ思考から遠ざかってしまい、我々凡俗の胸に
は届かないきらいがある。
けれども、である。イメージから遠く隔たったその思想を、卑近なイメージ
に引き寄せて理解しようとするとき、そこにこそ思想を読み解く試みの醍醐
味があるのではないだろうか。井上氏の思想に関して、そのような読解の作
業を行うこと、ーーそれが今後の課題になるだろう。
ようになれるのかーー。この問いに対して、井上洋治神父は「それは視点の
コペルニクス的転換によってである」と答えている。一体どういうことなの
か。
その部分は、以下のごとくである。フランクル「夜と霧」に描かれた、アウ
シュビッツ収容所の過酷な光景を思い浮かべながら、読んでいただきたい。
「(フランクルの「夜と霧」によれば)どういう苦しみであっても、その苦
しみが何らかの意味を持っていると思えたとき、私たちはそれを担っていく
ことができるのです。私たちの生き甲斐は、つまるところは、自分の生が何
かの役に立っている、あるいは誰かが自分を必要としている、というところ
にあると思います。一番の苦痛は、肉体的なこともさることながら、その人
がもはや何かの役に立っているという実感を持てなくなるという、心の苦し
みなのです。これがやはり老後の一番の重みと苦しみであろうと思います。
(中略)
(フランクルによれば、この苦しみを受け入れるためには)視点を転換する
ことが必要なのだ。これからの苦しみの人生から何を期待できるか、という
視点をやめて、人生がこれからのあなたたちの生涯に何を期待しているのか、
という視点に立つことが肝要なのだ、というのです。大げさに言えば、精神
世界のコペルニクス的転換が必要なのだ、ということです。この視点の転換
をできた人が、死に向かっての苦しみの中にも、なおかつ意味を見つけるこ
とができる人であり、その苦しみを前向きに背負って生きてくことができる
人なのだ、というのです。フランクルがあの真っ暗闇の、飢えと拷問と疲労
と汚物に満ちた夜の収容所の一室で語っていることこそ、まさに宗教の世界
そのものです。」(12−14頁)
自分の苦しみの人生から、何を期待できるか、という視点をやめて、人生が
自分の生涯に何を期待しているのか、という視点に立つこと、ーーこれが
「視点のコペルニクス的転換」について語られたことであるが、この言葉が
具体的に何を意味するのか、私にはまだピンとこない。実感が伴わないのだ。
ここで語りだされた言葉が何を意味するのか、具体的にイメージできない、
というか・・・。
フランクルの「夜と霧」を承けて、井上氏はさらに次のように語っている。
この言葉にこそ、氏の思想の眼目が表明されていると言えるだろう。
「私たちの人生というのは、私たちが何かをし、それによって私たち自身を
表現するものではなくて、神がーー神という言葉がお嫌いな方は、私たちを
支えている大自然の生命と受け止めてくださっても結構なのですがーー私た
ちの生涯において己れ自身を表現させるものだということなのであります。
私はここに宗教の世界の核心というものがあるのだと思っております。」
(15頁)
たしかに、スリリングな言葉ではある。なにか途轍もなく重要なことが語り
だされているような、そんなただならぬ雰囲気が、ここにはただよってい
る。
でも、残念なことに、私にはこれがいまいちピンとこない。ますますピンと
こないのである。深遠な思想は大抵そうだが、抽象度の高い言葉で語られる
分だけ、我々の素朴なイメージ思考から遠ざかってしまい、我々凡俗の胸に
は届かないきらいがある。
けれども、である。イメージから遠く隔たったその思想を、卑近なイメージ
に引き寄せて理解しようとするとき、そこにこそ思想を読み解く試みの醍醐
味があるのではないだろうか。井上氏の思想に関して、そのような読解の作
業を行うこと、ーーそれが今後の課題になるだろう。