ささやんの天邪鬼 ほぼ隔日刊

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

井上洋治とは

2018-03-06 15:44:06 | 日記
井上洋治という人がいたことを知った。毎日早朝、更新を楽しみに読ませて
もらっているブログ『ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)』に、氏の
『余白の旅』の中の言葉が引用・紹介されていたのである。この言葉、目に
した途端、私の胸にじんときた。その件(くだり)を孫引きさせていただこ
う。

生きとし生けるものは、「生きとし生きるものの余白」ともいえるものの力によって
生かされ在らしめられ、それぞれの場をえさしめられているのであって、それぞれの
生命と役割を力一杯生きぬくことによって、己れ自らをではなく、己れ自らをもつつむ
全体を表出していくものなのである。
そしてこの生きとし生けるものの余白の力をこそ、芭蕉や一遍はこれを「風」ということばで
よんだのではなかったか。

この言葉を目にして、私がまず抱いたのは、「これは仏教の他力の思想では
ないか」という思いだった。

このブログの筆者「ゴマメのばーば」さんは、文中で井上洋治氏を「井上神
父さま」と呼んでおられる。どうやら井上氏は、(「ゴマメのばーば」さんと
同様)熱心なキリスト者であるらしい。とすれば、私の胸を打った『余白の旅』
の中の言葉は、キリスト教思想とどう関連しているのか。

このブログで引用・紹介されている言葉を注意深く読み返してみると、「生
きとし生けるものの余白」が「神の愛の息吹」と言い換えられている箇所が
見つかった。キリスト教の「父なる神」は、こんな形で井上神父の思想の中
に姿を現していた。

井上神父の言葉を目にしたとき、私をとらえたのは、懐かしさにも似たある
奇妙な感覚だった。私は長年、西洋由来の哲学思想に親しんできたが、一時
期、私をとらえたスピノザの汎神論や、ライプニッツのモナドロジーと、こ
の井上神父の思想は、似ているようでもあり、また、違っているようにも思
える。

スピノザの汎神論は、無神論のレッテルを貼られ、異端視されたというが、現
代日本の井上神父の場合は、そういうことはなかったのだろうか。

ネットで調べたら、井上洋治著『人はなぜ生きるか』の古本が、123円で売り
に出ていた。井上氏の著書にKindle電子書籍版は無いようなので、まずはこん
なところから読み始めてみようかと考えている。
コメント (2)
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