神保町がこのところ急激に変化しているが、変わらぬ店での同窓会とまだ神保町らしさの残る裏町がある。
9月に大学での1年先輩であるNさんからメールが入った。「11月にP(ロシア語ではエル)の会を開こうと思うが参加できるか?」とのメールだった。私は二つ返事で応諾のメールを打った。それとともに、かれこれ半世紀前の記憶が呼び戻された。そもそも私が1学年上のクラス会に参加するきっかけは、当時の大学の状況だった。1968年はベトナム戦争、大学管理法案、プラハの春の圧殺、安保70改定と既成政党へのプロテストからの運動だった。それなのに我が学部はその既成政党の指導の下自治会は動いていた。その中でPの会のクラスだけがその政党に反対したクラス委員を選出したことから、たまたまそのクラスにサークルの先輩、小学校の時の先輩もいたことから自然と行動を共にしてきた。特にNさんとは校内での泊まり込みや学外でのデモでも行動を共にしてきた。
その後就職して十数年を経過した1980年代に私は大森支店勤務になった。中小企業のダイナミックさと日本経済の動きを見るのが面白かった。そんな折に仕事を通じて知り合った都銀勤務のSさんが、面白い社長がいるとのことでK社長さんを紹介された。都銀勤務のSさんは商売先を紹介したつもりだったが、K社長さんは会うなり「君のところとは取引しないよ、商売が絡むと話がつまらなくなるから」と言われそれ以降、毎日のように9時過ぎると職場に電話がかかり、「いつまで仕事をしているのだ、今大森の****にいるから、すぐ来いよ」と大森のスナックに呼び出されたり、あるときは蒲田の飲み屋だったりでいずれも京浜地区の社長さんがたのたまり場に呼び出され、様々な人を紹介され、そのことが私の仕事にも役に立ったが、いつもその時々の時事問題に「お前はどう思う」と質問された。カラオケは当時から好きではなかったがカラオケも加わり、同席した都銀のSさんと当時は都内のマンション住まいでお互い帰りの方向が同じだったことから、K社長から頂いたタクシーチケットでいつも深夜の帰宅だった。
その後K社長が後継者教育も含め息子さんも交えた定例の勉強会を作りたいから、お前の友人でプロフェッショナルな人間を勉強会のメンバーに入れたいので紹介しろ、という話になり、当時弁護士事務所を独立開業したばかりのN先輩を紹介し、月1の定例会「GS会という勉強会」を発足させた。K社長がなくなられた後も、現在もGS会は継続しているが、私が2度目の癌手術を受け、その後の腎臓機能低下が加わり、このままでは人工透析になるといわれ、食事制限が加わったことから、2012年に休会した。そのために「Pの会」のほうの下級生として引き受けていた幹事もできずにいた。
そんな折にNさんからの「Pの会」の再開案内メールはうれしかった。出席メンバーは8人。うち現職組は大学教授の定年が70歳とあって2名の教授に定年なしの弁護士・司法書士の2名と半分が現役というのもすごい。いづれもが年相応の健康問題を抱えてはいるが、「団塊世代」はまだ生きてはいる。デモから始まった絆だが、安倍ートランプープーチンの三角構造は、地殻変動の予感する時代になった。当時のエネルギーは減少したが、いまの現状を肯定する気にはなれない。
とおもいつつ、「Pの会」はお開きになった。生まれ育った町は様変わりに変化してゆく。唯一これまでは神保町だけは変わらぬ町だったが、2011年3.11以降町の変貌はすさまじい。ビジネスホテル、飲食店のチエンストアーの大量進出、それはみな本屋の跡地中心だ。神保町も、都内の他の町と変わらぬ風景になりつつあるが、大学が残る限りどこかで「神保町」の町の顔を維持してほしいと思うのだが。
それにしても我が母校の地盤沈下はいかんともしがたい現状になっている。「Pの会」も来週開かれる私の本当のクラス会も「母校」の近辺で開かれたことはないのだ。
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