平成最後の年末年始は11月30日、愛猫さくらの腎臓結石で倒れた入院で始まった。そしてクリスマスは私自身の、2019年最後の癌の検査に病院へ。結果は現状維持で変化はなしとの結論にほっとして帰宅。そして、義母のお世話になっている、老人ホームに年末のあいさつを終え、時を同じくして、一命をとりとめた愛猫さくらの自宅療養で慣れぬ手つきで自宅での朝・昼・晩の1日3回の点滴治療を行いながら、正月準備に取り掛かっていた。そして大晦日朝に、老人ホームから、元気であった義母が異変を起こし、「救急搬送を依頼したので、すぐにホームに来てほしい」との電話を受けた。
結局義母は帰らに人となり、ことしの正月は本来ならば結婚した息子夫婦を迎えての新年だったのだが、その準備もすべて流れ、1月26日に先方の家族と我が家族との食事会をもって、年末年始はひとまず終わった。
しかし残務は残り、1月30日に、私は、息子の結婚届のための戸籍謄本と、かみさんの相続がらみでの戸籍謄本を取りに、我が本籍地がさいたま市ゆえに大宮駅下の出張所に出向いた。
下山口駅に下ると、何の撮影か知らぬが、何もない田舎駅前に「撮影クルー」が大勢いた。下山口駅ー西所沢駅ー秋津駅ー北秋津駅ー南浦和駅ー大宮駅と西武狭山線、西武池袋線、JR武蔵野線、JR埼京線と乗り継ぎ大宮駅に着いた。大宮駅へは、我が親の家を処分したことと、昨年は、墓参りの時期にいろいろあって結局墓参りもできなかったことから、大宮に行くこともなかった。
すぐに謄本は取れたが、なぜか氷川神社に参拝に行こうと思った。途中に「清水園」の看板を見た。おぼろげに半世紀前の記憶が呼び戻された。わが祖父は鳶の組頭(のちに会社組織にしたが)をしていた。しかも氷川神社の仕事は何をおいても1番の仕事をしていた。そんなことで初孫だった私をかわいがってくれた。正月も大祭も、いつも祖父に連れられたて行った。したがって私の結婚式は当然「氷川神社」で行うことを望んでいたのだろうが、私は「ロードス島」でカミサンと二人だけの結婚式を挙げた。当時の私には「祖父の気持ち」を思う気がないほどの自己中の生活だったのだ。そんな祖父の気持ちを親父は思ってか、後日「清水園」に夫婦で呼び出された。氷川神社に参拝し祖父の前で改めて結婚の報告をしたのだった。
我が息子も「二人だけの結婚式」を挙げた。国内外を飛び回る息子と、病院の勤務医をする嫁さんの仕事の忙しさは、夏休みぐらいしか、連休が取れないのだそうだ。メールのやり取りからもうかがえるのだが、息子の結婚式と私の場合では包装紙は同じでも中身は違うようだ。親としては、「自分の健康を第一にしろ」と言いたいほどだ。
「ロードス島」での我が結婚は、当時のサラリーマン社会では異例だったようだが、思いもかけないひとから呼び出しを受けた。金融機関で、新人として配属された店の支店長が、本店の部長となりそのあと私も本店に転勤となった。ある日部長室に呼び出された。部長室に入るなり部長は「君はロードス島で結婚式を挙げたそうだね、でロードス島はどうだった。私も学生時代はマルクスは読んだよ、資本論も、ドイツイデオロギーも読んだよ。私もロードス島へは一度は行きたいと思っているんだ」と私は言葉を濁し話題を変えて早々に退席した。「ロードス島で飛べ」とは言えなかった。
氷川神社はさすが、人の姿はまばらだった。とりあえずは、参拝し、車につける交通安全のお守りを買い参道を引き返し、そのまま自宅に戻った。
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