
昨年8月に亡くなった叔父と今年4月に亡くなった親父の新盆法要の案内を東光寺よりいただき今日参加した。、月曜日の道路事情が読めず、首都高の閉鎖ニュースで16号の混雑を予測し所沢を7時に出て16号で大宮に向かった。車での来場禁止とのことで、実家に車を置き母親を拾いタクシーで東光寺へ行った。途中中仙道は混雑で、9時半の開始にかろうじて間に合った。
本堂は人で溢れ500人弱の檀家の人出埋まっていた。お寺の配慮で脚の悪い母に椅子をお借りできた。このところ何度も聴いた曹洞宗の50人の僧侶により読経が始まり法要は続いた。それにしても本堂の中は暑かった。
法要が終わって、お寺から点心を頂き帰った。帰りの16号はスムーズだった。
あまり宗教には関心が無いと言うより、「宗教はアヘン」と思っていたし、親父も宗教は嫌いであった。親父の死で、お寺との付き合いが始まったが読経、ご詠歌、そして僧侶の所作に歴史の重さを感じ、この歴史は否定しようのない美があった。美しいと思った。21世紀は歴史の「美」を作り出せるのだろうか。
本堂は人で溢れ500人弱の檀家の人出埋まっていた。お寺の配慮で脚の悪い母に椅子をお借りできた。このところ何度も聴いた曹洞宗の50人の僧侶により読経が始まり法要は続いた。それにしても本堂の中は暑かった。
法要が終わって、お寺から点心を頂き帰った。帰りの16号はスムーズだった。
あまり宗教には関心が無いと言うより、「宗教はアヘン」と思っていたし、親父も宗教は嫌いであった。親父の死で、お寺との付き合いが始まったが読経、ご詠歌、そして僧侶の所作に歴史の重さを感じ、この歴史は否定しようのない美があった。美しいと思った。21世紀は歴史の「美」を作り出せるのだろうか。
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