おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

二十四時間の情事

2018-01-31 14:51:06 | 映画
アラン・レネ監督作品のポスターを飾ったので。

「二十四時間の情事」 1959年 フランス/日本


監督 アラン・レネ
出演 エマニュエル・リヴァ  岡田英次
   ベルナール・フレッソン
   アナトール・ドーマン

ストーリー
原爆をテーマにした映画に出演するため広島にやって来たフランス人女優(エマニュエル・リヴァ)は、偶然知り合った日本人男性(岡田英次)となぜか気が合い、一晩限りの恋に落ちる。
ともに夫も妻もいる身でありながら二人は心のうちを語り合い、少しずつそれぞれの過去が明らかになっていく。かつて第二次世界大戦中、彼女はフランスを支配していたナチス・ドイツの兵士と恋に落ちた経験があった。
しかし、ドイツの降伏を前にその兵士は殺され、彼女の死んだ恋はフランスの敵となり、彼女自身も非国民として頭を丸刈りにされるという辱めを受けた。
その後、しばらく彼女は父親によって家に閉じ込められていたが、ある夜、正気を取り戻した彼女は両親の許しを得て、故郷ヌーブルの街からパリへと旅立った。
その後、女優となった彼女は広島を訪れ、再び忘れかけていた戦争の記憶を蘇らせることになった。
日本人の建築家もまた家族を原爆によって失うという悲しい記憶をもっており、二人は戦争の重い十字架をお互いに思い起こすことで、より深くつながり、わずか一晩の恋が永遠とも思える深い愛情へと発展していく。
しかし、その愛も彼女の帰郷とともに終わりを迎える。
「愛の終わり」は確実に訪れるが、その記憶は「忘却」のために時間を必要としていた。
二人の愛の終わりもまた戦争の記憶とともに長い忘却のための時を必要とするのかもしれない。
彼女は叫んだ。《私はあなたのこと忘れるわ。もう忘れてしまったわ。私が忘れていくのを見て。私を見て》
明け方の駅前広場ではもうネオンが消えた。

寸評
広島を訪れたフランス女性と日本人男性の恋愛を描きながらも、戦争を背景とした異国文化や価値観を共有できるのかと模索している。
同時に異国文化や価値観を通して体験した戦争経験を忘れることなく語り続けていけるのか、いや、戦争が生み出した悲劇を語り継いでいかねばならないのだと訴えている。

薄闇野中で男女が抱きあう印象深いシーンから映画はスタートする。
女は映画の撮影で広島を訪れていて、平和公園に行き、病院を訪問し、原爆資料館も見学している。
ベッドの中で女は「私、広島で何もかも見たわ」とつぶやくのだが、男は「君は何も見ちゃいない」と答える。
訪問した先々で女は原爆投下の悲惨さを知ったのだろうが、しかしそれはあくまでも第三者の目で見たもので、実際の体験者はもっと悲惨だったのだと男の言葉は言っているのかもしれない。
そんな男も両親を広島で亡くしていても、自分は広島の原爆を体験していない。
しかし多くの日本人がそうであるように、彼は原爆を否定し被爆者の苦しみを共有している。
同じように、フランスもナチス・ドイツに侵略された経験を有している。
そこでは女が経験したようなことも起きたであろう。
若者の気持ちは国家の意思とは別に、純粋な愛をも生み出すが、戦争はそれを引き裂く。
侵略されるということの悲惨さを日本人は分かっていないのかもしれない。
知識で得ることと、経験から得たこととは違うものだろう。
彼等はお互いの肉体を通じて、その思いを共有していく。
男は広島そのものの象徴でもあった。
彼等の過去の経験、特に女の体験がラブ・ロマンスとシンクロしてくることで物語の感性に広がりを見せる。
女には母国に夫がいて子供もいるようだし、男には妻がいて幸せな家庭があるようなので、言って見れば二人の関係はダブル不倫で、男は妻の不在をいいことに女を自宅に連れ込んでいる。
恋愛物語としてはとんでもない状況なのだが、それはこの物語の背景にしか過ぎない。
「私は今夜あの異邦人と共にあなたを裏切ったの。私はあなたを忘れて行く。私を見て」と女は死んだドイツ兵を回顧してつぶやく。
その前には「怖いわ、あれだけの愛情を忘れてしまうのは・・・」とも言っている。
忘却することの怖さを語りながらも、忘れ去ってはいけないのだと強く叫んでいるようにも思える。
どんなに愛した人でも、時間が経てば心の傷を埋め、その人のことは忘れ去っていくものなのだろうが、そん艘体験は忘れ去ってはいけないことなのだ。
僕は戦争を体験していない。
それでもそんな世代の人間に大して、戦争がもたらす悲劇、原爆がもたらした悲惨な状況を語り継いでいく必要が有るのだ。

撮影時の広島の町が見事にとらえられているが、あのころの日本はいたる所があのような風景を生み出していて、大阪駅前だって、一歩路地を入るとあのような雰囲気があった。
懐かしい風景を思いさせてくれるのも、僕がこの映画に親しめる一因となっている。

暗くなるまで待って

2018-01-29 08:51:16 | 映画
所蔵ポスターの中の1作。

「暗くなるまで待って」 1967年 アメリカ

監督  テレンス・ヤング
出演  オードリー・ヘプバーン
    アラン・アーキン
    リチャード・クレンナ
    エフレム・ジンバリスト・Jr
    サマンサ・ジョーンズ
    ジャック・ウェストン

ストーリー
カナダからニューヨークに帰る途中に知り合った女から、夫のサム(エフレム・ジンバリスト・Jr)が人形を預かって来たことで、盲目の妻スージー(オードリー・ヘップバーン)は、思いがけない事件にまきこまれていった。サムもスージーも知らないことだったが人形の中には、ヘロインが縫いこまれていたのだ。
そのヘロインをとり戻すべくマイク(リチャード・クレンナ)、カルリーノ(ジャック・ウェストン)、そして犯罪組織のリーダーであるロート(アラン・アーキン)の3人が、スージーのアパートに集まった。
部屋中探しまわったが、人形は見つからなかった。
そこへスージーが帰宅したが、盲目の彼女は、3人がいることに気がつかなかった。
その翌日、妙な予感からスージーが止めるのもきかずに、サムはニュージァージーに仕事に行った。
サムが出ていって間もなく、スージーはサムが煙草の火を消し忘れていったのが煙を出して、見えない彼女は恐怖から大声で叫んだ。
そこへマイクがサムの海兵時代の仲間といつわって入って来て、火を消しとめ、人形のあり場所をと思ったが、スージーの手伝いをしてくれるグローリアという少女が入ってきたので、引き上げざるを得なかった。
しばらくしてグローリアが買物に出たあと今度はロートが初老の男に化けて現れ、自分の息子の妻がよその男と不貞を働いていて、その相手がどうもサムらしいといい、不貞の証拠を探すふりをして部屋中をかきまわしたが、やはり人形はみつからなかった。
そこへ再びマイクが忘れ物をしたという口実で入ってきて、乱暴者を送り出してやろうと警察に電話をした。
だが、呼ばれて入ってきたのは警官をよそおったカルリーノだった…。

寸評
「暗くなるまで待って」というタイトルが中々洒落ていて、それでいて結構中身の雰囲気を出したいい題名だ。
夫でもあったメル・ファーラーが製作者として係わっていることもあって、オードリー・ヘプバーンを美しく撮ろうとしている。
オードリーが演じる盲目の妻スージーがアップとなるシーンでは盛んにソフトフォーカスが用いられ、紗がかかった画面は彼女のソフト感を出しているが少々鼻につくことも…。
これは想像だが、テレンス・ヤングの意図というよりメル・ファラーの希望だったのではないかと思う。

映画は麻薬を横領しようとした女リザからサムが空港で人形を渡される場面から始まる。
その間のやり取りは聞こえず、内容はずっと後で犯人から知らされる。
そして仲睦まじいサムとスージの様子が描かれ、スージーが盲目であることが分かる。
やがて犯人達はスージーの家に現れるが、犯人探しのスリルはない。
当初から犯人は誰であるかが判明しており、興味はスージーがどのようにして犯人であることを見抜き、危機を脱出するかにかかってくる。
犯人の三人は人形の行方を突き止めるために一芝居打つ事になるが、それぞれの担当キャラクターの設定が作品を面白くしている要因の一つになっている。
ロートは一番の悪で、マイクは紳士的なところがあり最後にはスージーに感心してしまっているようだった。そしてカルリーノはちょっと頭が悪い肉体派といった具合だ。
犯人探しではないので、ラストに向かって伏線がいたるところに張られている。
しかもその伏線は一瞬のこととして描かれているので、うっかり見ていると見逃してしまうくらい微妙だ。
ロートが忍び込んだ家で人形を探すが、洗濯する為に入れてあったのか、スージーの下着の匂いを嗅ぐシーンが挿入される。これは最後にロートがスージーを襲う場面につながっていて、スージーも事前に少しそのことを漏らしている。
サムが会社に出かける時にスージーに行動について厳しくいい、スージーが「頑張る」と言って見送る場面があるが、ラストではサムが「頑張ったね」とスージーを抱きしめるのは繋がっていると思う。
グローリアという少女との関係などもやがて効果をもたらしてくるように仕組まれている。
犯人が動かして去って行った椅子にぶつかり、グローリアがやったと思い込んで不満を言うシーンなどは、グローリアとの関係と、室内の状況にスージーが慣れ親しんでいて、盲目に係わらず室内をスムーズに移動する違和感をなくすためのシーンと思われるのだが、これも一瞬の会話だ。

スージーが盲目であることから、逆に音が重要なファクターとして描かれる。
盲目の人の過敏な聴力は靴音で同一人物を言い当ててしまう。ふと吹き鳴らした口笛のメロディにも反応する。
ラストでのグローリアとの連絡のやり取り、グローリアが無事監視を潜り抜けたことを知らせるためにとる行動など、細部にわたり細やかである。
それだけ聴力に優れているスージーなら、彼女が言った番号をマイクが廻さなかったことに気づいてもよさそうには思ったけれど…。
脚本の妙が冴えわたる作品だが、オードリーは平凡主婦より、やはりエレガンスな役の方が良く似合う。

さびしんぼう

2018-01-22 07:43:45 | 映画
尾道三部作の第三作。

「さびしんぼう」1985年 日本


監督 大林宣彦
出演 富田靖子 尾美としのり 藤田弓子
   小林稔侍 佐藤允 岸部一徳
   秋川リサ 入江若葉 大山大介
   砂川真吾 林優枝 浦辺粂子
   樹木希林 小林聡美

ストーリー
寺の住職の一人息子・井上ヒロキは、カメラの好きな高校二年生。
母タツ子は、彼に勉強しろ、ピアノを練習しろといつも小言を言う。
ヒロキのマドンナは、放課後、隣の女子校で「別れの曲」をピアノで弾いている橘百合子である。
彼は望遠レンズから、彼女を見つめ、さびしげな横顔から“さびしんぼう”と名付けていた。
寺の本堂の大掃除の日、ヒロキは手伝いに来た友人の田川マコト、久保カズオと共にタツ子の少女時代の写真をばらまいてしまった。
その日から、ヒロキの前に、ダブダブの服にピエロのような顔をした女の子が現われるようになる。
ヒロキ、マコト、カズオの三人は、校長室のオウムに悪い言葉を教え停学処分を受けた。
その際中、ヒロキは自転車に乗った百合子を追いかけ、彼女が船で尾道に通って来ていることを知る。
冬休みになり、クラスメイトの木鳥マスコが訪ねて来た時、例のさびしんほうが現われ、タツ子に文句を言いだしたところ、タツ子が彼女を打つと何故かタツ子が痛がるのだった。
節分の日、ヒロキは自転車のチェーンをなおしている百合子を見かけ、彼女の住む町まで送って行った。
自分のことを知っていたと言われ、ヒロキは幸福な気分で帰宅した。
バレンタインデーの日、さびしんぼうが玄関に置いてあったとチョコレートを持って来た。
それは百合子からで、「この間は嬉しかった。でもこれきりにして下さい」と手紙が添えてあった。
さびしんぼうは、明日が自分の誕生日だからお別れだと告げる。
そして、この恰好は恋して失恋した女の子の創作劇だと答えた。
翌日、ヒロキは百合子の住んでる町を訪ね、彼女に別れの曲のオルゴールをプレゼントしたのだが・・・。

寸評
喜劇的でありながらファンタジー的要素を持った青春学園もの映画でもある。
常に友人たちといた高校生時代を思い起こさせるようなヒロキ、マコト、カズオの躍動が楽しくなってくる。
僕も高校3年間を通じて1年生のクラスメート5名と何かにつけ一緒だった。
中間、期末の試験が終わると我が家に集まって徹夜の麻雀大会をやっていた。
酒もタバコもやらない、ある意味で真面目な仲間だったが、学校の中でははみ出し者の集団だったと思う。
中身は違うが3人の触れ合いは僕の高校時代と大いにかぶさるものがある。
思いを寄せる人のことが頭から離れないのもこの頃には皆が経験していたのではないか。
そんな経験を有しているからこそ誰もがこの映画に入り込んでいける。

”さびしんぼう”は青春時代の思い出の化身でもある。
かつての自分であり、出来なかったことを行うための生まれ変わりでもある。
あることを通じて”さびしんぼう”の正体が判明するが、その伏線は冒頭でも張られていて、勘のいい観客はその時点で想像しながら見ることになったのではないか。
面白いのはヒロキがフィルムの入っていない望遠付きのカメラであこがれの橘百合子をファインダーで覗いていることである。
フィルムを買う金がなくてそうしているのだが、同時にそのことはプリントに焼き付けることが出来ず、ファインダー越しの彼女の姿はヒロキの頭の中にだけ残像として存在しているということだ。
この悶々とした気持ちは僕の経験からしても実によくわかるのだ。
ヒロキは自転車のチェーンを直してやることから親しくなれるのだが、自転車を押しながら会話を続ける道行シーンは情緒があって実にいい。
このあたりからそれまでのドタバタ劇が鳴りをひそめる。
佐藤允の
校長先生が飼っているオウムの「狸のぶーらぶら」や、入江若葉のPTA会長の狂態、あるいは
岸部一徳
の吉田先生のひょうきんぶり、秋川リサの大村先生がみせる下着丸出しのお色気シーンは一体何だったのかと思わせるほどの変質ぶりなのである。
特に”さびしんぼう”が雨の階段でヒロキにもたれかかり、かつての思いを遂げるシーンはジーンときたなあ。
セリフのなかった小林稔侍の父親が狭い湯船の中でヒロキと語るシーンもグッときた。

僕は尾道を2度ほど訪れているが、残念なことに尾道水道を渡るフェリーに乗る機会を得ていない。
フェリーの上からヒロキと橘百合子が眺めた尾道水道の夕景を見たかったのだがなあ。
大林宣彦監督による尾道3部作の一遍であるが、僕はこの作品に登場する尾道の景色が3部作の中では一番好きだ。
そして、この作品の富田靖子はいいと思う。
若くて瑞々しい姿をこの作品でスクリーンに残せた富田靖子は幸せな女優だと思う。
”さびしんぼう”の富田靖子もいいが、橘百合子の富田靖子が女子高生の清廉さを見せて実にいい。
ヒロキは百合子に似た女性と結婚し、多分、娘に百合子と名付けていたのだと思う。

時をかける少女

2018-01-21 17:32:37 | 映画
尾道三部作の第二作目。

「時をかける少女」 1983年 日本


監督 大林宣彦
出演 原田知世 高柳良一 尾美としのり
   上原謙 内藤誠 津田ゆかり
   岸部一徳 根岸季衣 入江たか子
   松任谷正隆 入江若葉

ストーリー
土曜日の放課後、掃除当番の芳山和子(原田知世)は実験室で不審な物音を聞きつけ、中に入ってみるが人の姿はなく、床に落ちたフラスコの中の液体が白い煙をたてていた。
フラスコに手をのばした和子は不思議な香りに包まれて気を失ってしまう。
和子は、保健室で気がつき自分を運んでくれたクラスメイトの堀川吾朗(尾美としのり)や深町一夫(高柳良一)らと様子を見に行くが、実験室は何事もなかったように整然としていた。
しかし、和子はあの不思議な香りだけは覚えていて、それはラベンダーの香りだった。
この事件があってから、和子は時間の感覚がデタラメになったような奇妙な感じに襲われるようになっていた。
ある夜、地震があり外に避難した和子は、吾朗の家の方で火の手があがっているのを見て駈けつける。
幸い火事はボヤ程度で済んでおり、パジャマ姿で様子を見に来ていた一夫と和子は一緒に帰った。
翌朝、寝坊をした和子は学校へ急いでいた。
途中で吾朗と一緒になり地震のことを話していると突然、古い御堂の屋根瓦がくずれ落ちてきた。
気がつくと和子は自分のベッドの中にいた。夢だったのだ。
その朝、学校で和子が吾朗に地震のことを話すと、地震などなかったと言う。
そして授業が始まり、和子は昨日と全く同じ内容なので愕然とした。
やはりその夜、地震が起こり火事騒ぎがあった。
和子は一夫に今まで起った不思議なことを打ち明けるが、一夫は一時的な超能力だと慰める。
しかし、納得のいかない和子は、一夫を探していて、彼の家の温室でラベンダーの香りをかぎ、気を失った。
気がつくと和子は、一夫が植物採集をしている海辺の崖にテレポートしていた。
そこで和子は不思議なことが起るきっかけとなった土曜日の実験室に戻りたいと言う。
一夫は反対したが和子のひたむきさにうたれ、二人は強く念じた。

寸評
1982年の「転校生」、1985年の「さびしんぼう」と並んで尾道三部作と呼ばれている作品群の第2作目であるが、三作品の中では一番出来が悪いと思う。
ファンタジー性を出すためにテクニカルに走りすぎていることもあるが、主演の原田知世と高柳良一の演技力不足が作品を壊している。
角川が原田知世を売り出すための彼女のデビュー作だが、棒読みのセリフ回しは如何ともしがたい。
アイドル映画の典型の様な作品で、テーマ曲と共に撮影シーンの中でそれを歌う原田知世の笑顔が紹介されて彼女のアイドル化が成し遂げられる。
三部作はすべてファンタジックな作品だが、最後に未来人まで登場してくる本作は少し子供じみている。
大学生になった和子は吾郎と付き合っていそうなのだが、そこに再び未来から深町がやってくる。
本格的な三角関係が始まりそうなのだが、どうして大学生になった和子はあんなにも暗いのだろうか?
なにかパッと明るくなるような青春映画と感じなかったなあ。

尾道を訪ねる機会があって、彼女が行き来するタイル小道にも行ってみた。
この映画が封切られた当初は、原田知世人気もあって結構な人でにぎわっていたようだが、僕が行った時にはブームも去って随分と淋しい小道だった。
小道と言うよりも路地と言ったほうが良い通路で、敷き詰められたタイルもどこか薄汚れていた。
同行の者は「なんだ、つまんない所だな」と言っていたが、僕は原田知世が駆け回っていたのだと思うだけで感慨深くなれた。
尾道はその街並みを映すだけでも絵になる雰囲気を持っている。
僕はこの街が好きで二度も訪れている。

岸部一徳の福島先生と根岸季衣の立花先生がコミカルなコンビを演じているが、どうもその描き方は中途半端だったな。
ネクタイの出来事のためだけに登場していたような気がする。
芸達者な二人なので、青春映画をサポートする役割をもっと演じさせることが出来たのではないかと思う。
上原謙、入江若葉 の老夫婦には深町一夫の姿は見えていなかったはずで、そのあたりの様子ももう少し上手く描くことが出来ていればと感じる。
帰宅途中の和子をお茶に誘うエピソードだけでは弱かったと思うし、その表現方法も少し物足りないものだった。
青春映画としてはもう一人の女子高生の描き方もお飾り的だった。
和子との恋のバトルがあるかと思っていたが、そのような出来事は一切なかった。
子供の頃のひな祭りで傷つけた指の怪我のエピソードももう少し膨らませてほしかった。
こうなってくると、演出よりも脚本に工夫がなかったのだと思わざるを得ない。
監督の大林宣彦が脚本にも名を連ねているのだから責任逃れは出来ない。

主題歌を松任谷由実が歌っていて、音楽を彼女の夫である松任谷正隆が手掛けているが、その松任谷正隆が故人として写真だけでわずかに登場しているのはご愛敬だ。

転校生

2018-01-20 17:20:31 | 映画
大林宣彦監督との出会いは「転校生」が最初で、デビュー作「HOUSE ハウス」は後年名画座で見ました。
大林監督と言えば先ずは尾道三部作ですね。

「転校生」 1982年 日本


監督 大林宣彦
出演 尾美としのり 小林聡美 佐藤允
   樹木希林 宍戸錠 入江若葉
   志穂美悦子 山中康仁 中川勝彦

ストーリー
広島県・尾道市。
斉藤一夫は8ミリ好きの中学三年生で、悪友たちと女子更衣室をのぞいたり悪ガキぶりを発揮するごく普通の少年である。
そんな彼のクラスにある日、斉藤一美という、ちょっとキュートな少女が転校して来た。
一美が大野先生に紹介された途端、一夫を見て叫んだ。
「もしかしてあなた一緒に幼稚園に行っていたデベソの一夫ちゃんじゃない?」
二人は幼馴染みだったのだ。
久しぶりに一夫と再会した一美は大喜びだが、子供の頃の自分の恥部を知られている一夫にとっては大迷惑。
その日の帰り道、神社の階段の上で、一夫はつきまとう一美めがけてコーラの空缶を蹴飛ばした。
驚いた一美は階段から落ちそうになり、一夫は押さえようとするが、二人はそのままころげ落ちた……。
しばらくたって二人は意識をとり戻し、それぞれの家に帰るのだが、二人の体が入れ替っていることに気がつき、愕然とする。
男の体になってしまった一美は泣き出すが、とりあえず、お互いの家族、友人の中で生活することにした。
突然、男っぽくなった一美や、逆に女っぽくなった一夫にそれぞれの家族は戸惑うが、まさか入れ替っているなどとは考えてもみない。
学校でも一夫が突然勉強ができるようになって周囲も驚くのだが・・・。

寸評
男と女の身体が入れ替わるというキワモノ映画なのに、見事な青春映画に昇華させているのが素晴らしい。
尾道の町を写し込んで撮りあげた大林監督の力も評価されるべきものだが、何と言っても男になった斉藤一美をやった小林聡美の頑張りが大きい。
女優魂というのか見事に脱いで男を演じた彼女なくして、この作品の存在はなかったと言って過言でない。

一夫が趣味で撮った8ミリの映写で始まるが、写っているのは尾道水道をはじめとする尾道の風景で、物語はこののどかな町で繰り広げられていくことを示していた。
冒頭が8ミリの映写シーンということもあって、ずっとモノクロ画面が続く。
やがて一夫たちの学園生活が描かれるが、異性に対して興味を持ち始めた彼らの姿が面白く、取り巻いている生徒たちの等身大の姿が微笑ましい。
下校シーンなどは当然ながら通学路を写し込んでいるが、この映画全体においてはそのような生活に密着したロケ地が採用されている。
観光名所案内的な要素は全くと言っていいほど排除されていたと思う。
そして二人が入れ替わる転落シーンとなり、踏切で立ち尽くす一美(実は一夫)のシーンでカラーに切り替わっていく。
最後で再びモノクロ画面にもどるが、一夫と一美が入れ替わっている間だけがカラーになっていた事に気づく。
家に帰った一夫が鏡に映る自分の姿を見て胸の膨らみに気が付き、ここからが本格的な物語の始まりとなるのだが、このシーンは可笑しい。
そしてここで見せた小林聡美の頑張りがこの映画の雰囲気を決定づけた。

映画は8ミリの映写で始まり、8ミリの映写で終わる。
一美が淋しそうに一夫を見送り、やがて楽しげにスキップして帰っていく。
その一美の姿は二人だけにあった青春の思い出に対する賛歌のようでもあり、なかなかどうして素晴らしい青春映画だったと思う。
「さよなら、私」「さよなら、俺」は映画史に残るラストシーンだ。
大林さんは人と人の出会いやかかわりを暖かく見つめ、見守ってる監督さんだと思う。
そんな触れ合いや出来事をデフォルメして表現しているが、いつも未来に向けて明るい勇気をもたせるのがいいと思う。

尾道は坂の町だ。
その路地裏とも言える細い坂道が風情を醸し出していた。
ロケ地の尾道を一族で旅したことがある。
発端となる御袖天満宮の階段にたたずんで空き缶が転がった屋根を見下ろしていると、ここから落ちれば女の子に変身できるのかなとつい思ってしまった。
御袖天満宮の境内は思っていたよりも狭く、カメラ位置を想像するのも楽しいものだった。
映画に郷愁を感じない人にはつまらない坂道だったと思うが、僕には映画のシーンを思い出すいい旅だった。

野のなななのか

2018-01-19 07:33:22 | 映画
「花筐」公開に先立ち再見

「野のなななのか」 2013年 日本


監督 大林宣彦
出演 品川徹 常盤貴子 村田雄浩
   松重豊 柴山智加 山崎紘菜
   窪塚俊介 寺島咲 安達祐実
   左時枝 伊藤孝雄

ストーリー
雪降る冬の北海道芦別市。
風変わりな古物商“星降る文化堂”を営む元病院長、鈴木光男(品川徹)が他界する。
3月11日14時46分、92歳の大往生だった。
告別式や葬式の準備のため、離れ離れに暮らしていた鈴木家の面々が古里に戻ってくる。
光男の妹・英子(左時枝)は82歳。
光男の2人の息子はすでに他界し、それぞれ孫が2人ずつ。長男の長男、冬樹(村田雄浩)は大学教授。
その娘・かさね(山崎紘菜)は大学生。
長男の次男・春彦(松重豊)は泊原発の職員で、その妻が節子(柴山智加)。
気難しい光男と“星降る文化堂”でただ1人、一緒に暮らしていた孫のカンナ(寺島咲)は次男の娘で看護師。
その兄・秋人(窪塚俊介)は風来坊。
そこへ突然、謎の女・清水信子(常盤貴子)が現れる。
“まだ、間に合いましたか……?”不意に現れては消える信子によって、光男の過去が次第に焙り出される。
終戦が告げられた1945年8月15日以降も戦争が続いていた樺太で、旧ソ連軍の侵攻を体験した光男に何が起きたのか?
そこには、信子が持っていた1冊の詩集を買い求めた少女・綾野(安達祐実)の姿もあった。
果たして信子と綾野の関係は? 明らかになる清水信子の正体とは?
生と死の境界線が曖昧な“なななのか(四十九日)”の期間、生者も死者も彷徨い人となる。
やがて、家族や古里が繋がっていることを学び、未来を生きることを決意する。

寸評
死者は生者を呼び寄せる。
老人が92歳の大往生を遂げると、それまで滅多に会うことのなかった縁者たちが集まってくる。
亡くなった老人の子供は皆死んでおり、老人の妹や孫たち、あるいは曾孫も葬儀にやってくる。
参集した者は懐かしさが先行し、「どうしてたのか」とか、「今は何してるのか」とかの話題が賑やかに語られる。
老人の大往生ともなればなおさらその傾向が強いのが常である。
それを示すかのような舞台劇以上のおびただしいセリフの連続である。
それは葬儀に集まってくる冒頭から、エンディングに至るまで続き、生者と死者、現在と過去が入り乱れ、語り口も次々に変化していく。
2時間50分も速射砲のような会話劇を見せられると普通はうんざりするものだが、この作品においてはこれが案外と、いや予想に反して面白い。
堅苦しく感じないのは常盤貴子演じる謎の女が登場して、ドラマ的にミステリアスな雰囲気を醸し出していることも一つの要因で、中原中也の詩や謎の絵の存在などもドラマを形作っている。

芦別はかつての賑わいを失っている町だが、その自然や風景の美しさは保ったままだ。
観光案内のように切り取られる芦別の風景は古里を感じさせるに十分だ。
そんな町を背景に、人は誰かの代わりに生まれてつながっているのだという「輪廻転生」の思想が語られて行き、亡くなった光男を演じている品川徹のセリフがその声音もあって胸をえぐってくる。
一体何を言っていたのか映画を見終って思い起こせるものはないのだが、見ている時は兎に角心に響いてくる。
彼が発する強烈なメッセージは反戦・非戦の思いで、光男が体験した戦争末期の樺太での悲劇が語られ、それを通して戦争の悲惨さや愚かさを痛烈に訴えている。

初七日には縁者たちが大勢集まって来て法事が行われ、その後振舞われる精進料理による酒席は賑やかだ。
地域の縁者は当然老人たちが多く、そこで語られるのは自分たちの青春時代で、それは正しく戦争体験につながる思い出話である。
若い秋人は側で聞いておくに限ると言っているが、老人たちは戦争の語り部なのだ。
僕たちは終戦記念日を8月15日としているが、ソ連の参戦をまともに受けた北海道の人々にとっては9月5日が終戦だったというのがよくわかる。
四十九日の七なのかが過ぎれば全てが解き放たれる。
今は少し早くなって三十五日の法要で切り上げることが多くなったが、本来は四十九日で務めるものだ。
日本は敗戦という死を迎え、果たして七なのかを務めあげることが出来ていたのだろうか。
敗戦後はドイツや朝鮮半島のような分割統治という状況を回避して、アメリカの洗脳による統治で復興し、バブル期には欺瞞に満ちた「町おこし」があちこちで行われ、3.11の東日本大震災では福島の原発事故を起こして後処理に追われているという現在の日本がある。
人々は七なのかを務めあげてきているが、果たして国家は・・・。
あの世とこの世をつなぎ、輪廻転生を感じさせるラストは心にしみる。
大林信彦、老いて益々盛ん、前作「この空の花 長岡花火物語」以上の出来栄えである。

この空の花 長岡花火物語

2018-01-18 16:50:00 | 映画
「花筐」公開にちなんで再見してみた。

「この空の花 長岡花火物語」 2012年 日本


監督 大林宣彦
出演 松雪泰子 高嶋政宏 原田夏希 猪股南
   寺島咲 筧利夫 油井昌由樹
   片岡鶴太郎 藤村志保 柄本明
   富司純子

ストーリー
天草の地方紙記者・遠藤玲子(松雪泰子)が長岡を訪れたことには幾つかの理由があった。
ひとつは中越地震の体験を経て、2011年3月11日に起きた東日本大震災に於いていち早く被災者を受け入れた長岡市を新聞記者として見詰めること。
そしてもうひとつは、何年も音信が途絶えていたかつての恋人・片山健一(高嶋政宏)からふいに届いた手紙に心惹かれたこと。
山古志から届いた片山の手紙には、自分が教師を勤める高校で女子学生・元木花(猪股南)が書いた『まだ戦争には間に合う』という舞台を上演するので玲子に観て欲しいと書いてあり、更にはなによりも「長岡の花火を見て欲しい、長岡の花火はお祭りじゃない、空襲や地震で亡くなった人たちへの追悼の花火、復興への祈りの花火なんだ」という結びの言葉が強く胸に染み、導かれるように訪れたのだ。
こうして2011年夏。
長岡を旅する玲子は行く先々で出逢う人々と、数々の不思議な体験を重ねてゆく。
そしてその不思議な体験のほとんどが、実際に起きた長岡の歴史と織り合わさっているのだと理解したとき、物語は過去、現在、未来へと時をまたぎ、誰も体験したことのない世界へと紡がれてゆく。

寸評
戊辰戦争、太平洋戦争、中越地震、東日本大震災などが絡みながら描く長岡の歴史物語だが、メインは太平洋戦争における長岡空襲で、それをセミドキュメンタリー風に描いていく。
その手法は斬新で、これも映画なのだと教えてくれる。
教えてくれると言えば、模擬原子爆弾の存在もそうで、新潟が原爆投下の候補地になっていたことは知っていても、そんな爆弾が存在していたことは知らなかった。
大阪空襲を通じた焼夷弾による火災の凄さは、遠く離れた村からでも見えたという祖母などの話を通じて聞き及んでいたが、長岡の悲惨な状況は改めて無差別攻撃のむごさを訴えてきた。
子供が描いた絵のようなアニメ処理で焼夷弾の投下が描かれているのに、僕にはその画面は非情に迫力あるものに見えた。
焼夷弾は突き刺さるのだと認識を新たにした次第である。
僕は戦争の実情を知っちゃいないのだと思ったし、やはり戦争の語り部は必要だとも思った。

映画はテロップが度々表示されたりするドキュメンタリー風で、NHKのスペシャル番組を見ているようでもある。
少女の台本をもとに演劇が催される背景があることで、セリフはどこか演劇的である。
空爆シーンはコンピューター・グラフィックスを駆使したリアルなものではなく紙芝居的に処理されている。
その表現の仕方がこの映画の特徴でもあり目を引き付けるのだが、これは見る人によって好き嫌いがあるだろう。
二人の女性が恋人と別れていて、それぞれ再会を果たすがそれ以上の展開はない。
一方は声を掛け合うが、一方は声をかけることはない。
僕はこの二組のドラマの意味がよくわからなかった。

幕末から明治初期にかけて活躍した長岡藩の藩士小林虎三郎による教育にまつわる故事としての「米百俵」の話が紹介されたり、詩人堀口大学、山本五十六など郷土にゆかりのある人の話も挿入されて、故郷映画の趣として興味を持たせた。
山古志の美しい景色は日本の原風景でもあり、どこか平和を感じさせる。
中越地震で被害を受けた地域だが、この風景はいつまでも残っていてほしい。

模擬原爆投下や長岡空襲による長岡市民犠牲者には哀悼の気持ちを抱くが、映画自体にはどこか説教臭さがあって左翼映画的なものを感じる。
メッセージ映画の宿命かもしれない。
火薬を爆発させるということにおいては花火も爆弾も同じで、爆発の原理は原爆とも大差がないようだが、空から降ってくる爆弾と、空に向かって打ち上げる花火の何と大きな違いである事か。
花火は鎮魂のためのものでもあり、平和の象徴でもあり、復活への意思表示でもある。
山下清の絵によってなのか、それとも他の手段によってなのかは定かでないが、長岡の花火大会が素晴らしいものであることは頭のどこかにあったのだが、観光花火と違って、長岡の花火大会は別物なのだと分かった。
ずっと見てくると、最後に上がる大花火はやはり美しいと思った。
やはり花火は夜空に咲く美しい花だ。

希望のかなた

2018-01-16 18:39:53 | 映画
「希望のかなた」 2017年 フィンランド


監督 アキ・カウリスマキ
出演 シェルワン・ハジ
   サカリ・クオスマネン
   シーモン・フセイン・アル=バズーン
   カイヤ・パカリネン
   ニロズ・ハジイルッカ・コイヴラ

ストーリー
フィンランドの首都ヘルシンキ。
港の船に積まれた石炭の山から、内戦が激化する故郷アレッポから逃れてきた煤まみれのシリア人青年カーリドが現れる。
警察へと出向いたカーリドは難民申請を申し入れ、難民や移民で溢れる収容施設に入れられる。
カーリドは空爆によって家を破壊され、家族や親類も命を落とし、生き残った妹ミリアムとは、ハンガリー国境での混乱で生き別れとなってしまっていた。
カーリドの唯一の望みは、その妹を見つけ出し、フィンランドに呼び寄せることだった。
一方、ヘルシンキで衣類のセールスをして暮らすヴィクストロムは、冴えない仕事と酒浸りの妻に嫌気がさしていた。
ヴィクストロムは無言のまま結婚指輪を妻に残し、愛車のクラシックカーに乗りこみ家を出る。
彼はレストランオーナーとして新しい人生を始める夢を抱いていた。
シャツの在庫を処分した金すべてをポーカーにつぎ込んだ彼は、ゲームに大勝し大金を手にする。
こうして彼は“ゴールデン・パイント”という名のレストランのオーナーとなった。
そこはひと昔前から時が止まったかのような店で、風変わりだが気のいい従業員たちに囲まれ、ヴィクストロムは自分の居場所を築いていく。
ある日、当局はカーリドをトルコに送還する決定を下すが、彼は妹を探すために不法滞在者としてフィンランドに留まることを決意。
収容施設から逃走するが、街中で“フィンランド解放軍”を名乗るスキンヘッドのネオナチに襲われかける。
そんな彼に救いの手をさしのべたのはヴィクストロムだった。
店のゴミ捨て場で寝泊まりしていたカーリドと、一度は殴り合いになりながらも、ヴィクストロムはカーリドをレストランに雇い入れる。
そんななか、ミリアムがリトアニアの難民センターで見つかったとの一報が届く。
ヘルシンキにたどり着いたミリアムと念願の再会を果たしたカーリドの未来に光が差し始めたかに見えたその時、スキンヘッドのネオナチが再び彼の前に現れる……。

寸評
石炭の山から真っ黒になったカーリドが現れるオープニングはサスペンス映画のようだが、実は彼はシリアからの難民である。
難民申請するが当局からは「現地は戦闘状態ではない」という理由で却下されてしまう。
しかしその直後に映るテレビでは、現地がいまだに激しい戦闘下にあるというニュースが報じられている。
このことは難民の受け入れを理由をつけては拒否しているという実態を知らせているのかもしれない。
日本も難民の受け入れを積極的に行っている国ではないが、シリア難民に対してヨーロッパの国々は遥かに身近な問題として対処しなければならない立場にいる。
実態としては難民としての受け入れをなかなか認めてもらえないという現実があるということだろう。
カーリドを執拗に狙うネオナチなども登場して、ヨーロッパの複雑な事情が垣間見える。
日本人には実感として受け止めれきれていないとは思うが、ことは本当に深刻なのだなあと分かる。

面白いのはヴィクストロムという男の存在で、かれがオーナーとなったレストランでの出来事が何ともおかしい。
ヴィクストロムは善人だか悪人だかよくわからない男だし、レストランの従業員たちもやる気があるのかないのかよくわからない連中なのだ。
売上低下に悩むヴィクストロムに、ダンス音楽を提案したり、寿司屋に店を変える提案して店の売り上げを伸ばそうとするような所があり、日本の会社の業務改善運動のようなことをやっている。
提案に基づいて始めた寿司屋が滅茶苦茶で、ワサビがたっぷりの寿司を作ったりしているのだが、外国人にこの可笑しさが分かるのかどうか。
日本人は大いに笑える。
日本語の挨拶や日本の歌なども聞こえてくるのだが、なぜ日本が取り上げられたのかは不明だ。

重い話だが伝わってくるのは人々の温かい気持ちだ。
「困っている人に手を差し伸べる」という、出来そうで出来ないことを彼等はやっている。
その行動に僕たちはホッとした気持ちを湧き上がらせることが出来る。
ヴィクストロムたちはカーリドをかくまうし、イラク難民も携帯を自由に使わせてやっているし、トラックの運転手も妹の救出に危険を顧みず手を貸している。
それらを通じ、善意の力で苦難の時代を乗り越えようというメッセージを感じ取ることが出来た。
変な人物たちばかりが登場しているが、彼等の優しさで映画館を出る時には何だかうれしさのようなものがこみ上げてくる作品だ。