おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

東京夜曲

2021-06-30 07:42:33 | 映画
「東京夜曲」 1997年 日本


監督 市川準
出演 長塚京三 倍賞美津子 桃井かおり
   上川隆也 はやし・こば 朝霧鏡子
   花沢徳衛 七尾伶子 安部聡子

ストーリー
東京の下町にある上宿商店街に、数年前、家族を残して家を飛び出していたきりの浜中康一が帰ってきた。
妻の久子は何事もなかったように夫を迎えるが、地元住民のたまり場である“喫茶大沢”では、そんな浜中の噂話に花が咲いたが、どうも浜中はまっとうな仕事に就いていなかったようだ。
久子を秘かに慕っている作家志望の青年・朝倉は、そんな話を聞くうち浜中に反感を感じ、浜中と久子の過去を探り始め、そして朝倉は、喫茶大沢を経営しているたみと浜中が、かつて恋仲であったことを知った。
さらに、たみが彼女に熱烈な想いを寄せていた大沢と結婚してしまって、その大沢が病死したころに浜中が街を出ていったこともわかる。
喫茶大沢の向かいには、浜中の父親が経営する“浜中電気”があり、帰ってからぶらぶらしていた浜中は、父親に借金があることを知って、浜中電気で働き始めた。
まるで商売っ気のない店の様子を見た浜中は、家電屋をやめてゲームソフト専門店を始める。
この新しい商売は繁盛し、商店街に新風を巻き起こした。
やがて、浜中の店の従業員・野村と、喫茶大沢のアルバイトの中国人・ニンが結婚することになる。
喫茶大沢でそのお祝いパーティーを開いた夜、野村とつきあいのあったレコード屋の娘が野村やニンの姿を見つめる様子を目にした朝倉は、浜中とたみが恋仲にあって、大沢がたみに想いを寄せていた当時、久子は大沢のことが好きだったのではないかという推論に思い至った。
朝倉はパーティーからの帰り道、募る彼女への想いに任せて久子に真実を追求するが、彼ら4人には複雑な大人の恋愛模様があることを逆に思い知らされ、彼女への気持ちを断念する。
一方、客の退けた喫茶大沢では、たみが両親の住む岡山へ引っ越しすることを浜中に告げ、ふたりはどちらからともなく、引き寄せられるように肌を重ねてしまった。
時は流れて夏になり、朝倉が街を出ていく同じ日、浜中の家には岡山に去ったたみから桃が届いていた。


寸評
東京の下町を舞台にしているのだが、物語とは別に東京の下町の何気ない風景や、写真のような街の景色の一部を切り取ったようなショット、ビル群ではない下町と思えるような遠景による街の夜景などが度々挿入される。
そして物語の中で登場してくる主人公を取り巻く人々の姿はごく自然体で、もしかするとこの商店街界隈に住んでいる人たちがエキストラとして出ているのではないかと思えるぐらいのたわいない会話を続ける。
事件や出来事が起きるわけでもないその光景は、どこにでもあるごく普通の人々による市井の姿だ。
その雰囲気に飲みこまれるようにして描かれる4人の物語はどこにでもある出来事なのだと思えてくる。

いくら恋い焦がれていても「好きだ」と言えないこともあるし、恋い焦がれた人と結婚できないことだって、それが普通なのだと言ってもいいくらいに存在している。
たみは浜中と好きあっていたが、ちょっとした経緯から大沢という男性と結婚してしまった。
大沢に恋い焦がれていた久子は浜中と結婚した。
人生の彩とでもいう関係だが、かれらは町内という共同体の中で逃げ出すこともできず、人々の噂の中で生きてきたと言えるのではないか。
失踪していた浜中が舞い戻ってきたが、たみの夫は病死していて、たみは目下独身という状況である。
心安らかならぬ状況だと思うが、街も彼等も今までと何ら変わらない。
それが共同体である街の時間の経過なのだと言わんばかりである。
お互いに気になっているにもかかわらず「お前には関係ない」としか言えないじれったさがある。
たみと浜中はビデオ映画を見ているが、それは見る人が見ればわかる清水邦夫と田原総一朗の共同監督作品である「あらかじめ失われた恋人たちよ」で、思わせぶりなタイトルである。
ちなみに、その作品に桃井かおりが出ていたというオチもついている。
映画ファンだけが楽しめた小ネタだった。

浜中の妻である久子に作家志望の青年・朝倉は好意を抱いているようだが、相手が人妻だということもあり告白するようなことはしない。
実は告白できないでいると思われる人物がもう一人いる。
ニンと結婚した野村に思いを寄せているらしい女性がレコードショップの娘である伊藤智美だ。
ニンと野村も伊藤智美も主要人物ではないので、ほんの少ししか描かれないし登場しないが、伊藤智美にそのようなそぶりをさせている。
素直に「好きだ」と言えないことってあるんだよなあ。
登場人物たちは皆どこか淋しげである。
桃井かおりのたみも、康ちゃんの長塚京三も、朝倉の上川隆也も皆淋しそうだ。
時折笑顔を見せる久子の倍賞美津子も朝倉との別れ際は淋しそうだったしな。
それでも共同体の中で彼等は淋しさを紛らわすように関係を保ちながら生きている。
たみも朝倉も去っていったが、いなくなるとかえって素直な気持ちが出てくるのかもしれない。
浜中はそれまで「たみさん」と呼んでいたのに、最後に「たみのところへ行ってみるか」と呼び捨てにする。
その声は淋しさとはかけ離れた明るく元気なもので、たみのストップモーションと共に印象に残る。

東京物語

2021-06-29 05:59:08 | 映画
「東京物語」 1953年 日本


監督 小津安二郎
出演 笠智衆 東山千栄子 原節子 杉村春子
   山村聡 三宅邦子 香川京子 東野英治郎
   中村伸郎 大坂志郎 十朱久雄 長岡輝子

ストーリー
周吉(笠智衆)、とみ(東山千栄子)の老夫婦は住みなれた尾道から二十年振りに東京にやって来た。
途中大阪では三男の敬三(大坂志郎)に会えたし、東京では長男幸一(山村聡)の一家も長女志げ(杉村春子)の夫婦も歓待してくれて、熱海までやって貰いながら、何か親身な温かさが欠けている事がものたりなかった。
それと云うのも、医学博士の肩書まである幸一も志げの美容院も、思っていた程楽でなく、それぞれの生活を守ることで精一杯にならざるを得なかったからである。
周吉は同郷の老友との再会に僅かに慰められ、とみは戦死した次男昌二の未亡人紀子(原節子)の昔変らざる心遣いが何よりも嬉しかった。
尾道に居る末娘京子(香川京子)からハハキトクの電報が東京のみんなを驚かしたのは、老夫婦が帰国してまもなくの事で、脳溢血で倒れたとみは幸一にみとられて静かにその一生を終った。
駈けつけたみんなは悲嘆にくれたが、葬儀がすむとまたあわただしく帰らねばならなかった。
若い京子には兄姉達の非人情がたまらなかった。
紀子は京子に大人の生活の厳しさを言い聞かせながらも、自分自身何時まで今の独り身で生きていけるか不安を感じないではいられなかった。
東京へ帰る日、紀子は心境の一切を周吉に打ちあけた。
周吉は紀子の素直な心情に今更の如く心打たれて、老妻の形見の時計を紀子に贈った。
翌日、紀子の乗った上り列車を京子は小学校の丘の上から見送った。
周吉はひとり家で身ひとつの侘びしさをしみじみ感じた。


寸評
語り尽くされた感のある、紛れもない小津の最高傑作で今見ても色あせていない。
古い造りの映画だが、そこに描かれているのは永遠のテーマである。
それは社会の最小単位である家族というものの、思いやりと同時にある危うさと欺瞞を内在した関係だ。
小津の描く世界は社会の最下層の人々ではない、言い換えれば少し裕福で日本人のほとんどが自分たちを評価している”中の上”の家族だ。
したがって、そこに描かれる内容はどの作品でも大きな事件など起こらないし、庶民のごく平凡な日常である。
この作品でも普通の家族をごく普通に描きながら、どの家族にでもある普遍的な問題をそれとなく描いている。

家族はそれぞれいたわりあって、愛し合って、支えあってというものなのだろうが、その家族第一主義が時としてほころびを見せる。
切っても切れないものが家族であるから、その家族であることの煩わしさが迫って来ることもある。
長男は町医者をしているがそれほど裕福でもなく狭い家に住んでいる。
したがって両親を泊まらせるためには子供部屋を空けなくてはならない。
孫はそのことを不満に思い、遠路訪ねてきた祖父母は厄介者でしかない。
厄介者と思っているのは孫だけではない。
長居が過ぎると、長男も長女もだんだんと両親が厄介者になってくるのだ。
自分たちにとって肉親よりも大事にしてくれる人が居るのではないかと登場してくるのが原節子の紀子だ。
息子の嫁だったが、息子は亡くなっていて彼女はもう赤の他人なのだ。
そのことは、家族第一主義ではなく、自分を大事にしてくれる人を大切にしなさいと言っているようだ。
今日起きている親子問題のひとつの解決方法を予言しているようで鋭い。
周吉の旧友たちがこぼす愚痴や状況も心当たりがあるものだ。
息子へ不満を持っている東野英治郎、妻に主導権を握られている十朱久雄などだ。

軽妙な役を引き受けているのが長女の志げをやった杉村春子なのだが、滞在している両親のことを美容院のお客から「誰か来ているの?」と聞かれ、「ちょっと田舎の知り合い」と実に覚めた会話をさせている。
両親が田舎から出てきていると言えばいいのだが、素直にそう言えないのは、彼女が心のどこかに両親を卑下しているところがあるからだ。
見逃してしまいそうな場面に、そんな恐ろしい会話を忍ばせているのが小津のすごいところだと思う。
そして形見分けのシーンでも自分の欲しいものをチャッカリせしめて末娘からはヒンシュクを買うのだが、これも死んでしまった親はどうしようもないという覚めた感覚を表していた。
最後に周吉が家でひとり寂しそうにたたずんでいるシーンで終わるのだが、僕は「周吉さん、寂しいばかりじゃないよ。家族という呪縛からやっと逃れることができたんだ」と声をかけたくなった。
それに周吉さんには末娘もいるし、近所の人もいるいい時代だったよねと・・・。
町医者で自分の仕事のことで精一杯の長男、美容院を維持してゆくことで頭が一杯の長女、親不孝を自覚しているが自分の生活を優先する三男など、子供たちは親よりも自分の生活を守ることで精一杯なのだ。
ホームドラマのようでありながら、家族の崩壊を描いた恐ろしい映画でもあった。

東京流れ者

2021-06-28 07:55:29 | 映画
「東京流れ者」 1966年 日本


監督 鈴木清順
出演 渡哲也 松原智恵子 吉田毅 二谷英明
   郷えい治 江角英明 川地民夫 浜川智子
   玉川伊佐男 北竜二 木浦佑三 長弘
   玉村駿太郎 日野道夫

ストーリー
流れ者の歌をくちづさむ本堂哲也(渡哲也)を、数名の男がとり囲んだ。
彼らは、哲也の属する倉田組が、やくざ稼業から不動産業にかわったのを根にもち、ことごとく倉田組に喧嘩をうろうとする大塚組のものであった。
だが哲也は倉田(北龍二)の無抵抗主義を守りぬいた。
哲也は恋仲の歌手千春(松原智恵子)と結婚して、やくざをやめる決心をしていた。
倉田は経営が苦しく金融業の吉井(日野道夫)からビルを担保に金を貸りていた。
哲也はそれを知ると単身吉井に会い手形延期を申し込んだ。
これを大塚のスパイで事務員の睦子(浜川智子)から聞いた大塚(江角英明)は、部下の田中(郷えい治)を使い吉井に担保のビルの権利書一切を渡せと脅した。
電話で権利書をとられ、吉井が殺されたことを知った哲也は、怒りに身をふるわせた。
大塚は邪魔者の哲也を殺すため殺し屋辰造(川地民夫)を雇った。
だが辰造は哲也の敵ではなかった。
その頃大塚は倉田に哲也とひきかえにビルの問題から手をひくともちかけた。
今は一匹狼となっている相沢健次(二谷英明)からこれを聞いた哲也は単身東京へ向かった。
一方東京では大塚が倉田に、権利書を戻すかわりに哲也を殺し千春をよこせと迫った。
倉田は自分の利益のために哲也を見殺しにしようとしていた。
千春は、哲也が殺されたと聞かされ大塚のクラブに出ていたが、そこには倉田も同席していた。
哲也と千春を慕う敬一(吉田毅)がクラブへ千春の救出に向かったところへ哲也が現れ全てを悟った。
怒った哲也は、倉田、大塚に銃弾をむけた。


寸評
タイトルが出るまでの雰囲気がよくて、それだけで一気に引き込まれてしまう。
モノトーンの画面を渡哲也の不死鳥の哲が歩いてくる。
そこで川地民夫や郷えい治たち大塚組の連中とひと悶着起こすが哲は無抵抗である。
寝ころんでいた犬が起き上がり走り出すと、横たわっていた哲も起き上がり、そして「頼むからこれ以上俺を怒らせないでくれ」とつぶやいたところで、色鮮やかなタイトルが出てテーマソングが流れだす。
「東京流れ者」というテーマソングのメロディは度々流れるし、歌も歌詞を代えて何度も歌われるので、まるで歌謡曲映画のようでもある。
映像もシャープだが美術の木村威夫の存在が大きい。
ポップアートを思わせる室内セットが原色を使ったシンプルなもので、それだけでもこの作品の雰囲気を十分すぎるくらい著している。
ポップなのはセットだけではない。
事務員の睦子が倉田に誤射されたところへ、睦子をスパイとして倉田の事務所へ送り込んでいた田中が駆け寄ると、背景がパッと赤く染まる。
そのような処理は1963年の「関東無宿」や、1965年の「刺青一代」でも見られたものだ。
哲や千春が眺める窓の外に見える大きな木のショットが時々挿入されるなど印象的なシーンが多く、アクションも含めて非常にスタイリッシュな演出が垣間見える作品だ。

吉井と睦子の殺人事件のこともあり哲は庄内の南組へ身を寄せるが、あいにくと南組は北組と抗争の真っ最中で、哲はその抗争に巻き込まれる。
ここから哲の考えていることがナレーション的につぶやきとして入れられることが登場してくる。
川地民夫が演じる蝮の辰との対決において、迫り来る汽車をバックに行われた線路上での射撃戦シーンや鏡に向かっている時に背後から襲われた時のシーンなどである。
哲の持つ拳銃の射的距離が10メートルということに関するシーンもそうだ。
そしてそれは最後のアクションの伏線となっている。
拳銃アクションのシーンはもう漫画の世界である。
銃を床に滑らせ、それを取りに行って撃ちまくり、放り投げた拳銃を受け止め撃ちまくり、痛快この上ない。

「流れ者にゃ女はいらない」、「女と一緒じゃ歩けないんだ」とキザな言葉を残して不死鳥の哲は去っていく。
そんな言葉を一度ぐらい吐いてみたいものだ。
挿入歌として「東京流れ者」が渡哲也と松原智恵子によって唄われるが、松原智恵子は吹き替えだと思う。
彼女は「「ブルーナイトイン・アカサカ」も歌うが、これはクレジットで歌:鹿乃侑子と表示されていたから、多分鹿乃侑子さんが歌っていたのではないかと想像する。
同様にクレジットでは「男のエレジー」 が歌:二谷英明として表示されていたが、映画の中では歌っているシーンなんてなかった。
出演作も多い渡哲也だが、初期の作品ではこれがダントツで、日活、ダイニチ時代としては「大幹部 無頼」シリーズと日活ニューアクション出演作が印象に残る。

トウキョウソナタ

2021-06-27 08:11:52 | 映画
「トウキョウソナタ」 2006年 日本 / オランダ / 香港


監督 黒沢清
出演 香川照之 小泉今日子 小柳友
   井之脇海 井川遥 津田寛治
   児嶋一哉 役所広司

ストーリー
井の頭線沿線の二階建て一軒家に暮らす佐々木一家は、それぞれに秘密を抱えていた。
健康機器メイカーで働く佐々木竜平(香川照之)は、中国人労働者のために会社を解雇される。
家族に言えず翌日以降もスーツ姿で家を出る彼は、ハローワークで職を探すが仕事はなかなか見つからない。
そんな折、高校の同級生だった黒須(津田寛治)と偶然に公園で再会し、同じ失業者として意気投合するものの、黒須夫妻は中学生の一人娘を残して自殺する。
そのことを知った竜平は、ショッピング・モールの清掃員の職に就く。
夜中にアルバイトをしている長男の貴(小柳友)は、アメリカ軍の国外志願兵に応募しており、中東へ従軍するつもりで、母の恵(小泉今日子)に、あとは保護者が入隊志願書に署名すれば合格できる、と告げる。
貴がそのことを父の竜平にも話すと、竜平は反対だという。
結局、恵一人の承諾を得て、恵に見送られながら貴はアメリカへと旅立つ。
次男の健二(井之脇海)は、小学校の給食費をピアノ教室の月謝にあてて、金子先生(井川遥)にピアノを教わっている。
給食費の未納で小学校に呼び出された恵は、健二の行動に驚くが、竜平には黙ったまま、健二のピアノ教室通いを続けさせようと決意する。
しかし、健二の才能を見抜いた金子先生から音楽大学附属中学校を受験するよう勧める手紙が家に届き、それを読んだ竜平は、健二との口論の末、彼を殴ってしまう。
ある日、強盗(役所広司)が佐々木家に押し入り、恵に盗難車を運転させ、恵を家から連れ出す。
恵が一人でショッピング・モールに立ち寄ると、清掃員の格好をした竜平と鉢合わせする。


寸評
ストーリーは家庭崩壊を描きながらも、非現実的な出来事で再生へと向かうような構成。
私が見た回では、圧倒的に男性の笑い声が多かったが、竜平や黒須に共鳴する部分が多かったのだろうか。
それにしても黒須の行動は笑いをさそい、竜平から「お前、すごいなあ」と言われるが、その結末は痛々しい。
竜平の妻である恵も「誰か私を引っ張ってえ」と、生活への不満を感じさせるが、黒須の妻とのダメージの差か、ポジティブ差の違いなのか、一家の結末は大きく違ってしまい黒須家の結末は悲しくもある。

リストラ男の寂しさと、家庭での父親としての空威張りを演じ分けた香川照之はさすがだが、光っていたのは小泉今日子で、女としてもう若くはないが、すべてをあきらめてしまうほど年老いてもいない主婦を好演。
彼女は家族の要だが、中心になって皆をまとめたりはせず、夫や子供から一定の距離を置き、クールにたたずんでいて、どこか息苦しい家族の物語を大きく包み込む役割を担っていた。
佐々木家はごく普通の家庭のように見えるけれど不協和音を奏でている。
家族のコミュニケーションは断絶していて、それぞれが抱えている問題にお互いが気づいていない。
この家庭にあるのは現代日本の病巣でもある。
使い捨てにされる労働者、生きる目的が見いだせない若者、学校の崩壊、社会の中での孤独感などだ。
父親はリストラされてもそれを家族に伝えられず、毎朝スーツで家を出て公園などで時間をつぶしている。
父親としての威厳とプライドが、自分は会社で不必要とされる存在だったとは言えない。
会社が希望退職を募っているので応募しようかと思っていると家族に相談するならいいが、すでにクビを言い渡されているとは、僕が同じ立場でも言い出しにくい。
妻は家庭でお母さんとしての立場だけで、平平凡凡とした生活にいや気がさしている。
長男は何をしたいかわからず極端な行動を取るが、自分に投影してもそんな時期はあった。
学生運動の嵐はエネルギーのはけ口でもあったし、世の中を変えたいという純粋な気持ちもあった。
親族からは「ゲバ棒だけは振り回してくれるな」と懇願されたりはしたが、僕との意思疎通があったわけではない。
次男は学校で先生との間にトラブルを起こし、さらに家族に内緒でピアノ教室へ通っている。
子供はある年齢になれば、親には本当の自分を伝えがらなくなってくものだ。
私の家庭でも少なからずそのようなこともあったかもしれないが、なんとか包み込まれてきて今日に至っている。
しかし佐々木家ではそれがどんどん顕在化していき、家庭崩壊へと突き進んでいく。
それなのに、誰も家族の絆を取り戻そうとする積極的な努力はしていない。
このままだと間違いなく家庭崩壊を迎えてしまうと思われるのだが、そこに神の手が伸びる。
それが役所広司の強盗だ。
強盗に入られることは現実には滅多にないことだし、第一こんな強盗はいない。
その現実的でない映画の一手がドラマを大きく動かす。
そのための役所広司のキャラ設定で、浮いたようなあの演技こそ必要だったのだ。
普通の家庭ではこれまたありえないようなことが、小学6年生の次男である健二のピアノに対する才能だ。
そして、健二がピアノで弾くドビュッシーの「月の光」にわずかな希望が込められている。
明るすぎず、暗すぎず、それでいて情感豊かなメロディーは彼らの再生を信じさせてくれるものだ。
いやむしろ信じたいと思わせるラストで、日本は、そして家族は、これからどこへ行くのか?との余韻を残した。

東京上空いらっしゃいませ

2021-06-26 08:38:05 | 映画
「東京上空いらっしゃいませ」 1990年 日本


監督 相米慎二
出演 牧瀬里穂 笑福亭鶴瓶 中井貴一
   毬谷友子 三浦友和 谷啓 出門英
   竹田高利 藤村俊二

ストーリー
キャンペーンの最中にキャンペーンガールの神谷ユウ(牧瀬里穂)は、スポンサーの好色な専務白雪恭一の魔手から逃れようと、自動車からとび出した瞬間、後続の車にはねられ、死んでしまう。
街にあふれる看板やポスターや写真や音楽をそのまま残してユウの魂は東京上空へと舞い上ってしまった。
広告代理店の担当雨宮文夫(中井貴一)や白雪(笑福亭鶴瓶)たちは、事故をひたすら隠してキャンペーンを続けることにし、後始末に奔走する。
一方、天国に昇ったユウは、白雪とウリ二つの死神コオロギ(笑福亭鶴瓶、二役)をしっかりだまして地上に舞い戻った。
しかも、事故の知らせを聞いて右往左往している文夫のマンションに現われたのだった。
唖然としてうろたえる文夫。
ユウはユウで戻ったものの、自分はもう死んでいることになっているので家にも帰れず、学校にも行けない。
文夫は、どこにも帰れないユウと同居しながら、ユウの事故死の後始末をするはめになってしまうのだった。
ちょうどそのころ、だまされたと知ったコオロギは、ユウに付きまといながら、あの世へ連れ戻そうと説得したり、おどしたりと奮闘するのだった。
それでもユウはけなげに、新しい自分として一から生きてゆこうと頑張るのである。
文夫はそんなユウがいじらしくなってきた。
このままユウを抹殺してしまうのが耐えられなくなってくるのだった。
文夫は、死んだはずのユウを白雪の所へ連れて、茫然とする白雪に、事故現場の写真と引き換えにユウのキャンペーンを続行させる取り引きをもちかけるのだった。
その夜、やっと自分を取り戻したことを感じたユウは天国に行くことを決心し、コオロギと共に東京上空を舞い上っていくのだった。


寸評
宮沢りえ、観月ありさ、牧瀬里穂をあわせてアイドル「3M」と呼ばれた時代があった。
これはその内の一人、牧瀬里穂を主人公に据えたアイドル映画であるが、相米慎二の演出は薬師丸ひろ子を撮っていたころに比べると大分と洗練されている。
牧瀬里穂のセリフ回しの下手さ加減はどうしようもないが、その下手さがアイドルらしいし、見ているうちに妙なリアリティを持ってくるから不思議だ。

あの世から帰って来て騒動を起こす映画は何本もあるし、ほとんどの作品がどこかメルヘンチックな要素を含んでいるのだが、本作もその例外ではない。
ユウのマネージャーである雨宮が住んでいる部屋そのものが男部屋にしてはメルヘンなものである。
舞台の一つとなっているが、雨宮に好意を寄せる女性が階下に住んでいて、縄梯子を垂らして行き来しているし、室内のインテリアもモデルルームのようだ。
カメラは室内の様子を描きながら間仕切り越しにベランダへとパンしていき、室内とベランダを一体化する。
流れるようなカメラワークは相米の得意とするところで、このカメラワークは随所で見られる。
ハンバーガーショップでのシーンも同様のカメラワークが見られ、店内のユウの姿を捉え続けたカメラは、そのままパンして店の外で語り合う雨宮とユウの姿を窓越しに捉える。
僕たちは何気なく見てしまっているが、振り返ると随分計算されつくしたシーンだった事に気づく。

相米作品の特徴でもある長回しも随所で行われており、その効果が一番発揮されたシーンは屋形船の上で打ち上げ花火を見ながら雨宮とユウが語り合う場面だろう。
カメラは語り合う二人を捉えて動かない。
打ち上げ花火が挿入されることもなく、少しパンしたりズームアップしたりしながらも二人を捉え続ける。
雨宮はユウに年の数だけ揃えた17本のバラの花束をプレゼントしたところ、ユウはその花をちぎって捨てながら自分の過去を語りだす。
それは紛れもなくユウが生きていた頃の生の賛歌なのだが、キャンペーンガールとして街中に張られた彼女のポスターも生の表現だったと思う。
雨宮とユウの心が通い合た印象に残るシーンだ。
ラスト近くのクラブでのシーンも長回しが用いられ、カメラは歌い踊る牧瀬を追い続ける。
トロンボーンを吹く中井貴一と、ダンスをする牧瀬里穂の姿が生きていることの素晴らしさを歌い上げている。

あちらの世界からやって来ているので、観客はやがてユウはこの世から消え去っていくのだと言うことを最初から暗黙の内に理解している。
従って話は、その間に繰り広げる幽霊の行動がメインとなるのだが、この作品では商業主義者たちが、ユウが生きていることにしてキャンペーンを続け、さらに死んだことを発表して盛り上げようとする身勝手さも描いている。
ドタバタになってもおかしくないような設定なのだが、上手にメルヘンな世界を描いていたと思う。
牧瀬里穂はこのころ「つぐみ」「幕末純情伝」などもあって期待されたが、その後はあまりパッとした作品に恵まれていないのは惜しいし、一番印象に残るのがJRのコマーシャルだったというのでは淋しい気がする。

東京公園

2021-06-25 07:13:09 | 映画
「東京公園」 2012年 日本


監督 青山真治
出演 三浦春馬 榮倉奈々 小西真奈美 井川遥
   岩花桜 安藤玉恵 高橋洋 染谷将太
   長野里美 小林隆 宇梶剛士

ストーリー
東京の公園を訪れては家族写真を撮り続けている大学生の光司(三浦春馬)は、幼い頃に亡くした母親の影響でカメラマンを目指していた。
ある日、一人の男性から「いつも娘を連れてあちこちの公園を散歩している彼女を尾行して、写真を撮って欲しい」という突然の依頼が舞い込む。
依頼主である歯科医の初島(高橋洋)の態度に光司は迷いを感じながらも、なかば強制されるように依頼を受ける。
光司の家には、幼なじみの富永(榮倉奈々)の元カレのヒロ(染谷将太)が同居しており、彼にだけはこの依頼内容の話をしようとするが、どこか気がとがめて全てを話す気にはなれない。
富永は元気な笑顔が魅力の溌溂とした性格で、ヒロと別れてからも光司のバイト先、ゲイのマスター(宇梶剛士)が営むカフェバーを訪れ、食べ物やDVDを持参しては家に出入りしている。
マスターはゲイを承知でプロポーズしてきた女性と結婚をしたが、その妻を病気で亡くしていた。
カフェバーには光司の義理の姉・美咲(小西真奈美)も足しげく通ってくる。
「潮風公園、よろしく」という初島からのメールが届き、光司は重い腰をあげて公園へと出かける。
そこには百合香(井川遥)がいて、彼女が娘と一緒に東京の様々な公園を散歩する写真を撮るうち、光司は次第に記憶の中の大切な人の面影と百合香を重ね合わせるようになっていく。
そんな中、母が倒れたという報せを受け、光司と美咲は両親が住む大島へと向かう。
その夜、美咲と光司は二人きりで話をする。
百合香のことを語り始めた光司だったが、逆に美咲に富永のことを問われ、光司は戸惑う。
やがて、富永の心の中にある深い悲しみ、美咲が心の中にしまってきた切実な愛情、言葉を交わしたこともない百合香の眼差しに触れながら、光司の心は次第に変わり始めていく……。


寸評
女優さん達がみんな輝いている。
一言も発しない井川遥があこがれの対象としての雰囲気ある人妻の姿を見せる。
榮倉奈々は幼馴染の光司を見下すような話しぶりをするくせに、どこか甘えているような大人子供の雰囲気を出していた。
独特の口調で長谷川伸の「瞼の母」を語り、加藤泰の名前まで出した時には思わず笑ってしまい、彼女の設定された性格、人格が感じ取れた。
一番いいのは血のつながっていない姉を演じた小西真奈美で、見つめあって徐々に息が上がっていき、それでも何とか必死で抑えようとするラブシーンはこの映画一番の見せどころだった。
きれいだなあと、うっとりしてしまい、この一作だけでファンになってしまいそう。
ふたりは「姉さんが姉さんで良かった」、「光司が弟で良かった」と言葉を交わして別れるシーン… いいわあ。

全体を包むのは、温かで穏やかな雰囲気だ。
それは主人公の光司が撮る写真のタッチと一致する。
公園に集う家族、動物園の動物たちなど、光にあふれた優しい映像が展開する。
その中で、光司と2人の女性との関係が繊細なタッチで描かれていく。
それと同時に彼に尾行を依頼した男や、光司のバイト先のマスターなど周囲の人々の生き方も盛り込まれる。

ドラマは後半、美咲の母親が倒れたあたりから大きく展開する。
そこで人を愛することの喜びと苦しみ、そして愛する人とまっすぐに見つめ合うことの大切さが歌いあげられる。
ただ、富永には見えないヒロの扱いにもう一工夫あっても良かったのではと思った。
そのことが原因していたのか、全体的には少しパンチのない仕上がりだったように思う。
もっともハナから泣けたり笑えたりする映画を狙っていないことは明白で、静かに淡々と観るものに優しく語りかけてくるほのぼのとした作品なのだと理解すれば、また違った印象を受ける。
富永がゾンビ好きなのはわかるが、ゾンビのシーンはなぜ必要だったのか上手く整理できないでいる。

終わりに近づくにつれて、ちょっとややこしい登場人物の関係図が見えてくる。
光司と幼馴染みの同居男性の関係。
光司と姉の関係。
男と尾行女性の関係。
それぞれの関係を見つめ直すことで初めて大切さに気付く。
透明感のある爽やかな作品で、男は女心に鈍感だということかもしれない。

ラストでは富永の再出発とそれに係わる光司の自然な姿が描かれ、ラストシーンも未来を感じさせるポジティブなエンディングで温かな余韻を残してくれて、今までの青山作品とちょっとちがって温かで穏やかな雰囲気の映画だった。

東京家族

2021-06-24 07:45:59 | 映画
「東京家族」 2012年 日本


監督 山田洋次
出演 橋爪功 吉行和子 西村雅彦 夏川結衣
   中嶋朋子 林家正蔵 妻夫木聡 蒼井優
   小林稔侍 風吹ジュン 茅島成美

ストーリー
2012年5月、瀬戸内海の小島に暮らす平山周吉(橋爪功)と妻とみこ(吉行和子)は、子供たちに会うために東京へやって来るが、品川駅に迎えに来るはずの次男の昌次(妻夫木聡)は、間違って東京駅へ行ってしまう。
周吉はタクシーを拾い、郊外で開業医を営む長男の幸一(西村雅彦)の家へと向かった。
長女の滋子(中嶋朋子)は不注意な弟に呆れ、幸一の妻、文子(夏川結衣)は歓迎の支度に忙しい。
やがて周吉ととみこが到着、大きくなった二人の孫・実(柴田龍一郎)と勇(丸山歩夢)に驚く。
そんな中、ようやく昌次も現れ、家族全員が久しぶりに夕食を囲むのだった。
日曜日、幸一は勇を連れて、両親をお台場から横浜見物へと連れて行く予定だったが、患者の容体が悪化、急な往診に出かけることになる。
周吉ととみこは、滋子の家に泊まりに行くが、美容院を経営する滋子は忙しく両親の相手ができず、夫の庫造(林家正蔵)が駅前の温泉へと連れ出す。
滋子に頼まれ、昌次は両親を東京の名所巡りの遊覧バスに乗せるが、自分は疲れて居眠りをしている。
帝釈天参道の鰻屋で、周吉は、舞台美術の仕事をしている昌次に将来の見通しはあるのかと問いただす。
昔から昌次に厳しい周吉、昌次はそんな父が苦手だった。
その頃、滋子は幸一に、お金を出し合って二人に横浜のホテルに泊まってもらおうという提案をする。
寝苦しい夜が明け、周吉ととみこは2泊の予定を切り上げて、帰ってきてしまう。
そんな両親に、商店街の飲み会があるので今夜はいてもらっては困ると言い放つ滋子。
周吉は同郷の友人、沼田(小林稔侍)宅へ、とみこは昌次のアパートへ行くことにする。
その時、母に紹介しようと呼んだ恋人の間宮紀子(蒼井優)が現れる。


寸評
小津安二郎監督の名作「東京物語」を現代に置き換えオマージュ・リメイクしたとあっては、どうしても「東京物語」と比較しながら見ている自分がいることを否定できなかった。
作品の背景にある奥深さは断然「東京物語」の方が勝っていて、期待した分だけ淋しい気持ちも湧いてきた。
少し時間を置いてみて、新しい一本の映画として見た場合にはどうだったのだろうと考えてみると、やはり切り込みの不足感は拭えない。
この感情がどこから来るのかと振り返ってみれば僕は二つのことに行きあたる。
一つは東日本大震災を受けて書き直されたと言う脚本だ。
描かれる話は服部未亡人の母親の遺影と、昌次と紀子が震災ボランティアで出会ったこと。
旧友の葬儀に参列出来なかった周吉が訪ねた服部家では、旧友の隣に未亡人となった夫人の母親の遺影もあって、3.11の津波でさらわれ未だに遺体が発見されていないと言うのだが、話はそれだけで終わってしまう。
一方、昌次と紀子が出会ったと言う震災ボランティアの話もスナップ写真一枚で終わってしまう。
この薄っぺらさは何のために脚本を書き直したのかと思ってしまうのだ。
これでは、僕が以前日本万博に行ったことがあるよと言っているようなもので、後年にこの作品を見た時の年代を知らしめる役割しか果たしていないのではないかと思う。
今ひとつは田舎にいるユキちゃんの存在とその存在意義が不明確な点だ。
どうやらユキちゃんはお隣さんか近所の娘さんらしいのだが、この女学生が田舎で一人暮らしをすることになる周吉の面倒を何かとみることになる。
これは彼女に、地方での独居老人の生活問題は隣近所が解決するのが一番いいと言わせていると解釈すべきなのか、それとも都会でなくなった隣近所の交流が田舎では残っていて、都会の住人も見習いなさいよとでも言わせていると解釈せべきなのだろうか?
遠く離れた田舎から出てきた両親を最初は歓待していた子供たちにとって、長居されるとやがてその存在が厄介となってくる。
そんな時、親身になって世話をしてくれたのは、一番ダメ人間と思っていた末っ子昌次の恋人紀子だったという構図なのだが、赤の他人の親切は紀子とユキちゃんに分散されている。
どうもこの二つが違和感の如く胸につかえてイマイチ乗り切れないでいたのだが、その割には結構涙する自分もいて、理屈を言わないなら十分に楽しめる作品にまとまっている。
このあたりは山田洋次の職人技だ。
しかしながら、横浜の高級ホテルでメイドが年寄りの振舞いの良さを讃える一方で、酒場で偶然居合わす3人組のサラリーマンに年寄りへの不満を語らせている対比の意図がもうひとつしっくりこないなど、そこそこに穴のある作品でもある。
昌次と紀子の話は前作から飛び出してこの映画のオリジナルとなっているが、二人を演じる妻夫木聡、蒼井優の力量もあって新鮮に感じた。
「東京物語」には小津監督の原節子さんへの恋慕の情もあったと思われるが、さすがにこの「東京家族」では山田監督の蒼井優ちゃんへのそれはなさそうだ。
でも、山田先生、説教じみてきて、少し偉くなりすぎてしまいましたかねえ~?
映画ファンとしては周吉、とみ子の観覧車を眺めて交わす「第三の男」談義が嬉しかった。

東京オリンピック

2021-06-23 06:28:22 | 映画
前回は「と」の項目が抜けていました。
したがって「と」で始まる作品は初めての紹介です。
オリンピック開催について物議をかもしていますが、
先ずは前回の東京オリンピックの記録映画から始めます。

「東京オリンピック」 1965年 日本


総監督 市川崑

解説
1964年に開催された東京オリンピックを撮影した、市川崑総監修による長編記録映画の金字塔。
公開当時は「記録か芸術か」という論争が巻き起こった。
記録映画であるにも関わらず脚本クレジットがあったり、シネスコサイズで撮影されていたり、ドキュメンタリーとしては異色の内容となっている。
和田夏十、白坂依志夫、谷川俊太郎、市川崑の共同シナリオを軸に、ニュース、劇映画のキャメラマン164人が、イタリアテクニスコープ・カメラ5台と、200ミリ、1600ミリの超望遠レンズ、その他光学技術最高の技術をふるって撮影した、五輪映画初のワイド版。
また監督の一員として参加した安岡章太郎が、体操と一人の選手のエピソードを担当、谷川俊太郎がカヌー競技の撮影にあたった。

ブルドーザーが鳴り、東京の街々は“東京オリンピック”の歓迎準備は万端整った。
ギリシャに端を発した近代オリンピックの火が、太平洋を渡って、今、東洋の国日本に近づいている。
羽田空港には、アメリカ選手団を初めとして、各国選手が到着した。
万国旗のひらめく中、聖火は点火され平和を象徴する鳩が放された。
翌日から競技が開始された。
100メートル男子決勝ではアメリカのへイズが、走高跳男子決勝ではソ連のブルメルが優勝。
つづいて、砲丸投男子決勝でアメリカのロングが女子決勝ではソ連のタマラ・プレスが優勝。
そして薄暮の中で、熱戦をくり広げた棒高跳は、ついにアメリカのハンセンの上に輝いた。
翌日、雨空だった競技場で、10000メートル決勝でアメリカのミルズが優勝、続いて男子200、女子走高跳、女子槍投等が行われ、そして競技は続いていき、体操では日本選手が堂々と君が代を鳴らした・・・。

寸評
おおよそオリンピックの記録映画とは言い難い作りになっている。
一応1964年東京オリンピックを記憶にとどめる記録映画ではあるが、描かれているのは人間賛歌のドラマだから万人の感動を呼ぶし、おそらくそれはこの映画を見た世界の人々が同じように感じる感動ではないかと思う。
自国の選手が活躍していなくても得られる人としての感動である。
ビルの取り壊しから始まることを覗いて、開会式までの描き方はオーソドックスであるがその映像は美しい。
聖火は9月20日に広島に到着するが平和公園に集まったのはとんでもない人数でオリンピックを待ちわびた熱気が伝わってくる。
聖火は国内を走り続け、山道を走り、村の中を走り、海岸線を走り、富士山のすそ野を走る。
どれもが美しい日本の風景だ。

迎える開会式は71,715名の定員をオーバーしているのではないかというほどの大観衆で埋まっている。
選手入場では米ソがアルファベット表記のために(USA、USSR)前後して入場するが、その状況は初めてだったのではないか?(ソ連が崩壊してロシアとなり、もうそのようなことは起こらないだろう)
競技映像は陸上から始まるが、上映時間は圧倒的に陸上競技が多い。
アスリートの魅力が陸上に凝縮されているためだろうと思う。
それは選手が闘いに挑む前の緊張と、勝利に向かう闘志が表情に如実に現れ、それをスタンドのあちこちから撮影しやすかったのではないかと想像する。
それを捉えるために超高速度撮影と超望遠レンズによる撮影を多用している。
勝者が誰なのか、どんなレースだったのかなどはそっちのけで、ひたすら表情を追い、筋肉の動きを追い続ける。
陸上競技なので日本人はあまり登場しないが、流石に体操となると日本勢の活躍が描かれ、山下、鶴見、早田、遠藤らの姿が懐かしい。
女子のベラ・チャフラフスカの舞を芸術的に表現している。

記録には残らない独立して4年目のチャドの選手を追ったりしているのがこの映画の特徴でもある。
観客、スタッフ、名もない選手、食堂での各国選手のくつろぐショットなどがドラマ性を醸し出していく。
自転車競技では流れる銀輪に透けて見える観客を捕らえ続けていて、選手の姿などは映らない。
そのことで自転車競技のスピードを表現していたのだろうが、このような映像は随所で見られる。

日本人選手はその後、重量挙げの三宅、レスリングの渡辺、吉田、上武、ボクシングの桜井などの活躍が描かれるが、ボクシングの各階級の優勝者はテロップで紹介されるだけで、その間の映像は廊下を去るアメリカの選手姿だけで、この様な演出が記録映画か芸術映画なのかと議論を呼んだゆえんだろう。
ヨット競技では体を張って船を操る選手のアップだけを写し、競歩では選手のコミカルな動きだけを追い続ける。
最後にはオリンピックの華であるマラソンが時間を割いて描かれるが、ビキラ・アベベの独断場である。
それでもゴールした選手の疲れ切った姿や、足の裏などを写してこのレースの過酷さを表現していた。
時の河野一郎大臣が「日本人が全然写っとらんじゃないか!これが記録映画か!」と激怒したらしいが、これほどの記録映画を僕は見たことがないし、未だにもってこれ以上の記録映画はないのではないかと思わせる作品だ。

天と地と

2021-06-22 07:19:38 | 映画
「天と地と」 1990年 日本


監督 角川春樹
出演 榎木孝明 津川雅彦 浅野温子 財前直見
   野村宏伸 伊藤敏八 浜田晃 成瀬正孝
   大林丈史 石田太郎 風祭ゆき 須藤正裕
   風間杜夫 伊武雅刀 岸田今日子 大滝秀治
   沖田浩之 室田日出男 夏八木勲 渡瀬恒彦

ストーリー
時は戦国下克上、遠く都を離れた北国、越後でも新たな戦いが始まろうとしていた。
守護代の位にありながら政務をおざなりにした兄・長尾晴景を討つべく、弟景虎が兵を挙げたのだ。
仏教、特に刀八毘沙門天を厚く信仰する景虎は、戦場では軍神の如き冷徹な攻撃ぶりをみせる一方、内心では血を分けた兄に弓をひいた事に対する後悔の念に捉われていた。
幼少時より景虎に仕えてきた軍師宇佐美定行は、その迷いを見抜き「乱世の運命からは遁れられぬ」と説くのだった。
ある日、景虎は宇佐美の娘であり幼なじみの乃美と十年振りに再会する。
日々合戦にあけくれる景虎にとって、乃美とすごす時は安らぎであった。
乃美も景虎の身を案じて『龍』の文字の入った陣羽織を贈る。
互いに思慕の情が湧くが、乃美の嫁入りという運命がふたりを引き裂いていった。
同じ頃、険しい山々に囲まれた甲斐の国で上洛を果たさんと野望を胸に抱く武将がいた。
守護大名武田晴信、後の信玄である。
息子の太郎義信、側室で女騎馬隊を率いる八重、軍師山本勘介をはじめ屈強の家臣を持つ晴信は、着実に勢力を拡大していた。
晴信は北上し攻撃を開始する。
追われた信濃の領主達は、隣国越後に失地回復を嘆願し、景虎との対決がそう遠くない事を予感していた。
景虎はかつての主であった長尾家を裏切り、武田軍の役立てで越後を侵略しようとした昭田常陸介を倒すために兵を挙げる。
昭田を陥落させたが、景虎の心には一国の主としての己のありかたに対する疑念が湧く。


寸評
角川映画というジャンルを打ち立てた角川春樹が自ら監督した映画だが、つまるところは彼は川中島の合戦シーンが撮りたかったんだな。
その為の物量作戦はそれまでに撮られてきた幾多の合戦シーンに比して抜きん出ている。
エキストラの人数、投入された馬の数も歴代1位ではないかと思わせる。
そこに全身全霊を傾けたので、それ以外のところはわざと省略しているので薄っぺらい。
長尾景虎の軍師とも言うべき宇佐美定行が謀反を起こすに至る苦悩などは全く描かれていない。わずかに武田の軍師山本勘助に「謀反を起こした大熊朝秀と知りながら城に引き入れたのか」と指摘されて、少なからず迷いを持っていたことが描かれるくらいだ。
その宇佐美の娘である乃美(浅野温子)が秘かに景虎を思慕しているかのようだが、その事に関する描き方は通り一辺倒である。乃美は、武田信玄の側室で女武者の八重を登場させるのと相まって、数少ない女性を登場させてエンタメ性を持たせるための彩どりでしかなかった。
視覚効果として色彩的な切り分けで戦国絵巻を演出している。武田の赤備えに対して上杉軍は黒で統一しているし、宇佐美は緑で統一されていた。上杉軍の各武将も黒で統一しているのだから、上杉の重臣である宇佐美だって黒のはずだが、視覚上やはり代えておく必要が有ったことは理解できる。
視覚的な美しさは、時の過ぎ行く様を季節にかぶせた景色の映像でも発揮されている。冒頭で見せる桜吹雪の美しさには圧倒される。景虎が出奔した時の冬の雪景色も然りである。その他、春はツツジの丘をかける馬上の信玄と八重が描かれ、秋には紅葉と共に枇杷島城の浮見堂の様な建物が湖のほとりに浮かぶ。
それらはすべて美しい日本の景色だった。

さてこの映画が唯一目指すところの川中島の合戦だが、第1回に続いて最大の激戦であった第4次合戦が描かれ、さすがにこれが目的なだけあってこのシーンは長尺である。
謙信が霧に乗じて妻女山から下りてきて、千曲川で待ち受ける信玄に襲いかかる。
足音と共に丘の向こうから槍の穂先が見えてくる。信玄は布陣を攻撃的な魚鱗の陣から守備的な鶴翼の陣に代える。人数的には流石に8000名を配置することはできなかったが、それでも俯瞰的にとらえたその配置はなかなかのものだった。
対する謙信は車掛りの陣で戦闘が開始される。先ずは槍合戦で始まるが、これも人数的な迫力を出しており、初戦の描き方としては的を得ていた。諏訪の神軍を登場させたりしているところは戦国絵巻としてのオマケだった。
やがて見せ場の騎馬戦が始まる。
人馬一体になった合戦シーンはその数でもって見応えがあったが、はたしてこの人馬を黒澤明に与えていたらどんな描き方をしただろうかと思ってしまった。
そして物量作戦の仕上げとして、引き上げる真っ黒な謙信軍が矢じりの形で真っ赤な武田軍を引き裂いていくシーンが描かれる。関ヶ原の島津の敵中突破を大掛かりにしたようなものだが、エキストラの人数がそのシーンを支えていた。
結局はこの映画で僕に残ったのは圧倒的な人馬を投入した角川春樹の資金力と熱意に対する敬意だった。

天井桟敷の人々

2021-06-21 06:40:03 | 映画
「天井桟敷の人々」 1945年 フランス


監督 マルセル・カルネ
出演 レオン・ラリブ
   アルレッティ
   マルセル・エラン
   フェアビン・ロリス
   ピエール・ルノワール
   エチエンヌ・ドゥクルー

ストーリー
第一部は1840年代パリのタンプル大通り、通称犯罪大通りから始まる。
ガランスは スリの容疑を受けたが、パントマイム芸人バチストのおかげで無罪放免となった。
座長の娘で 女優のナタリーはバチストを愛していたが、バチストはガランスに一目惚れしていた。
夜の街を徘徊していたバチストは、盲人を装って物乞いをしている絹糸という老人と出会い、彼の行きつけの酒場に誘われた。
2人が大衆酒場に入ると、ガランスがラスネールに引率されてやって来た。
ラスネールは表向きは代筆業を営んでいるが、裏ではあらゆる悪事を働いている男だ。
バチストがガランスをダンスに誘い出すと、ラスネールの子分が喧嘩を売ってきたが、バチストは一蹴りで相手を撃退し、店を出た後に住み込みの職場を辞めたというガランスにバチストは下宿を紹介した。
バチストはガランスに愛を告白したが、初めての恋愛に臆病だった。
バチストが去った後、彼女は部屋へ訪ねて来たフ レデリックを迎い入れた…。
フュ ナンビュル座はバチストによる自作自演の舞台が当たり、連日超満員の大盛況だった。
バチストの口添えでガランスも同じ一座で働くようになっていた。
バチストは ガランスとフレデリックの仲をナタリーから聞かされたが、それを認めようとはしなかった。
バチストがガランスへの思いのたけをぶちまけ、ガランス がそれに応えようと したその時、ナタリーが現れてバチストと結ばれるのは自分だと訴えた。
第二部はあれから5年後で、バチストはナタリーと結婚して一子をもうけ、ガランスは伯爵と結婚していた。
ガランスを忘れられぬバチストはフレデリックの手引きで彼女と再会し、ガランスと一夜を過ごした。
翌朝、バチストの前に現れたナタリーと子供の姿を見たガランスは、別れる決心をした。
カーニバルで雑踏する街を去るガランスを追ってバチストは彼女の名を呼び続けた。


寸評
フュナンビュル座で上演されるパントマイムには芝居だけでなく、そこに集う人々の喜怒哀楽も舞台の要素に加えられているのだが、僕にはこの劇中劇が長く感じられた。
座長が劇場の最上階を指さし「人生模様だ」と言っているのだが、そこは通常より安い料金が設定されている観客席で大衆の観覧席だ。
好奇心旺盛な彼らは現実世界でガランスをめぐる男たちの恋と嫉妬を見つめている。
映画を見ている僕たちはその大衆の一人となっている。
バチストが演じるパントマイムはサイレント映画の気品を感じさせ、映像としての美しさも感じる。

バチストはフレデリックから「なぜ声を出さないのか」と聞かれ、「貧しい人たちには伝わるんだ。僕も同じだからね」と答えている。
桟敷席の値段の差に見られるように、ここでは格差社会への抗議も見て取れる。
ガランスは貧しい役者であるバチストではなく、富豪のモントレー伯爵と愛のない事実上の結婚を選んでいる。
ナタリーの愛に負けた形となっているが、モントレー伯爵を拒否することだって出来たはずだ。
ガランスは「なぜ貧しい者のように愛を欲しがるの? 貧乏者から愛までとらないで」とモントレー伯爵に言う。
もちろんバチストを今でも愛していることへの表現なのだが、そこには貧しいものから搾取する上流階級への抵抗も含まれていたのだと思う。

二人の女性の対比は面白く、ナタリーは美貌に於いてガランスに劣っているのだが、バチストを愛することに於いてはガランスよりも勝っているように思われる。
悲劇のヒロインはガランスよりもナタリーであるような描き方で、バチスタはひどい男に感じる。
ガランスはバチストと一夜を共にしたが、その後の凛とした姿とアップの表情はこの映画を締めくくる。
やはりヒロインはガランスだ。

バチストはナタリーとの結婚生活を6年も送り子供も生まれていて、一見幸せな家庭に満足しているようである。
しかし彼の脳裏には未だにガランスへの思いがある。
妻の知らないそのような女性の存在と想い出は、男は口に出さず墓場まで持って行くものだろう。
しかしここでは、ナタリーをガランスの存在とバチストの気持ちを知りながら、バチストとの幸せな生活を手に入れたことで全てを受け入れている女性として描いている。
ガランスの姿を見つけたことで、バチストの心に炎が燃え上がってしまうのだが、バチストはこの後ガランスを追うのか、ナタリーの元へ戻るのか。
そんなバチストをナタリーは再び受け入れることができたのだろうか。
子供たちから見れば、大人たちが繰り広げる滑稽とも思える右往左往の人生芝居である。
素直な子供たちから見れば、ガランスを巡って男たちが仕出かしていることは滑稽芝居に過ぎない。
何故なら、この映画の原題はLes enfants du Paradis「天国の子供たち」だからだ。
天国とは大衆が陣取る天井桟敷のことだと思う。
この邦題はシャレている。

天国の日々

2021-06-20 07:23:08 | 映画
「天国の日々」 1978年 アメリカ


監督 テレンス・マリック
出演 リチャード・ギア
   ブルック・アダムス
   リンダ・マンズ
   サム・シェパード
   ロバート・ウィルク
   スチュアート・マーゴリン

ストーリー
第一次大戦が始まって間もない頃、私リンダはシカゴに住んでいた。
兄ビリーは鉄工場に勤めていたが、上役と喧嘩して彼をなぐりたおして工場をとび出す。
<以下、リンダのナレーションで物語は進行してゆく>
私と兄そして兄の恋人アビーは列車の貨物車にゆられながら、中西部に移っていった。
やがて、3人はある農場の麦刈り作業員にやとわれたが、ビリーはアビーを妹といつわった。
農場主のチャックが、そんなアビーに目をつけたのはいつごろだろうか?
農場での仕事はきつく、賃銀は安かった。
文句をいおうものなら、現場監督のベンソンは冷たく、「他にいくらでも人手はある」といいはなつ。
アビーが手を傷め、ビリーはチャックの家へ行く。
ちょうど、彼のところへ医者が来ていたので、ビリーは医者の馬車のなかから薬を盗む。
医者がチャックに「貴方の生命は、あと一年しかない」というのを、ビリーは馬車の蔭で立ち聞きする。
チャックはアビーに心ひかれてゆくが、ベンソンは、ビリーたちの素性が知れないと彼らを嫌っている。
刈入れが終ると作業員たちは立ち去ってゆくが、チャックはアビーに残ってほしいという。
ビリーは彼の好意を利用しようと、アビーを説得した・・・。


寸評
描かれている内容に比べると随分とホンワカした雰囲気の作品だ。
多分それはビリーとアビーの関係を濃厚に描いていなかったことによるものだと思うのだが、ネストール・アルメンドロスによるリアルで美しい映像がそれを後押ししていた。
テキサスの大農場の景色が美しい。
農場主はまるで御殿の様な館に住んでいるが、燦然と輝くように丘の上に建っている光景は絵画的だ。
小麦の刈り取り時期となって、労働者たちは汽車でやってくる。
一日3ドルの季節労働者たちは野宿したり小屋で寝泊まりしている。
雇われた労働者達の姿が記録映画の一コマの様であり抒情的だ。
時として争いも起こるが、そのような人々を美しい自然が覆っている。
雪も降ったりするが彼らが厳しい自然、激しい雨風に晒されるようなシーンはない。

人間の弱さともろさを描いているが、根底にあるのは貧富の差だ。
チャックは大農場を有する資産家であり、ビリー達一行は社会の底辺にいる貧困層だ。
ビリー達は汗水たらして働いてわずかなことに幸せを見出している。
恋人のアビーを妹と偽っているが、農作業の合間での戯れに安らぎを見出している。
同じ季節労働者が眺めていても兄妹とは思えぬ触れ合い方である。
ビリーはチャックの命が短いこと、そのチャックがアビーを見染めていることを知る。
ビリーは恋人のアビーを人身御供にして優雅な共同生活を手に入れる。
働かなくてもいいし、実の妹であるリンダも交えてぜいたくな暮らしもできるようになる。
まさに彼等三人にとっては"天国の日々"だったのだ。

チャックの命が尽きるまでと思っていたビリーとアビーの気持ちは通じあっているのだが、暮しているうちにアビーはチャックへの愛情を感じるようになってくる。
チャックは力づくでアビーを従わせているわけではない。
妻として十分い遇してくれ、みたされた生活は物欲を満たしてくれるのだから、アビーに満足感が生じても不思議ではない。
作品全体から見れば、この間のチャックの不信感と、アビーの心変わりの変遷がイマイチ切り込み不足だ。
美しいカメラによって心理描写の鋭さが消されていた。
カメラはパール・バックの「大地」を思い起こさすイナゴの襲来や、麦を食い荒らすイナゴと、それを追い払おうとする労働者の姿、燃え盛る麦畑などを迫力をもって撮らえ続ける。

ビリーは天国を見たばかりに地獄も見ることになる。
アビーとリンダは元に戻って再び試練の旅に出るという輪廻だ。
いつまでも悪いここは続かないが、又いいことも続かない。
人生は終始トントンになるというのは僕の思いでもある。

天国から来たチャンピオン

2021-06-19 09:20:36 | 映画
「天国から来たチャンピオン」 1978年 アメリカ


監督 ウォーレン・ベイティ / バック・ヘンリー
出演 ウォーレン・ベイティ
   ジュリー・クリスティ
   ジェームズ・メイソン
   ジャック・ウォーデン
   チャールズ・グローディン
   ダイアン・キャノン

ストーリー
ロサンゼルス・ラムズのクウォーター・バックのジョーは、ひざの傷も直り、次の日曜日の試合に出場することが決まっていた。
だが、翌日、自転車事故に遭ってしまい、気がつくと雲の中で天使につきそわれて天国への道を歩んでいた。
ところが天使長が調べたところによると、ジョーにはまだ50年もの寿命が残っていた。
ジョーは即刻地上に舞い戻ることになったがすでに彼の肉体は火葬された後だった。
かくてジョーと天使長ジョーダンは、ジョーの魂のために新しい住処を物色しはじめ、やがてレオの邸を訪れた。
レオは間もなく妻のジュリアと彼女の情夫でレオの秘書のトニーの2人に殺される運命にあった。
レオの亡骸をもらうことに気が進まないジョーが、ジョーダンと邸を去ろうとした時、1人の美しい女性ベティが現われた。
レオの会社が英国の田舎町に公害をもたらすというので、彼女はレオに直接抗議をしに来たのであった。
ベティの美しさに感銘をうけたジョーはベティを助けるために一時レオの肉体に宿借りすることを承諾した。
つまりレオの肉体にはジョーの魂が宿るのだが、他の人間が見れば彼はレオだった。
殺したはずのレオが生きていることに驚いたジュリアとトニーはそれでもしつこくレオ殺害を試みることにした。
英国での工場建設計画を放棄したレオ(ジョー)にベティーの気持ちは感謝から恋へと変わっていった。
中味はフットボールの選手であることからレオ(ジョー)は数週間後のプロ・フットボール界最大のイベント『スーパーボウル』でクウォーター・バックを務めることを希望し、猛トレーニングで体調を整えていた。
レオ(ジョー)がベティに結婚を申し込もうとしていた頃、ジョーダンが再び現われて、レオの肉体を明け渡すように言う。
その頃スーパーボウルが行なわれているスタジオではクウォーター・バックを務めるトムが怪我をして死を宣告されていた。


寸評
亡くなった主人公が現世の人、恋人だったり、子供だったりを助けるためによみがえってくると言うファンタジー映画はときどき見かけるものである。
日本映画などでもロウソクの火が燃え尽きると死んでしまうので、そのロウソクを消さないようにしながら生き続けるような話もあったような気がする。
邦題からすればボクサーを想像するが、本作でのジョーはプロフットボールのクウォーター・バックで、やっとスタメンで出られることになったのも束の間で交通事故で亡くなってしまう。
彼の現世への心残りは、恋人を救うことでも、子供を守ることでもなく、夢だったスーパーボール出場を果たすことである。
生存者として息を吹き返して戻ってくるのではなく、他人に入り込んで現世に戻ってくる。
フットボール選手として復活したい彼が入り込むのに気に入った相手が見つからないのだが、その相手を探している途中で運命の女性と出会い、彼女のために一肌脱ぐことになる。
面白いのは入り込む相手が、妻と妻の浮気相手の秘書によって殺されていることで、彼等との攻防も愉快なもので、殺人犯である二人のオーバーな演技が笑わせる。

大会社の社長に乗り移ったジョーは、環境問題や食品衛生に関して人道的な対処を実行していくのだが、役員を説得するために論じる、フットボールを例にあげた説得が面白い。
もっと劇的に描けばよかったのにと思うぐらいだ。
ファンタジー映画だが、描き方に少々安っぽいところがあるのが残念なところだ。
あの世の責任者であるジョーダンがただ突っ立ってるだけで度々出てくるなどに工夫がほしかった。
殺されたレオとジョーの違いが、執事たちの交流の中でもっと描かれても面白かったと思う。
ジュリアとトニーが再び彼をなんとか始末しようとするドタバタ劇の中で、ジョーがベティに惹かれていく様子がメインストーリーとして描かれ、この時点ではラブロマンス作品である。
ジョーはフットボール選手に復活するのだが、そのために繰り広げる練習風景などはのんびりしたもので、スポコンものではないファンタジー作品らしい描き方だ。
フットボールの試合シーンも迫力のあるものではなく、スポーツ映画ではないことを再認識させられる。

ジョーはトレーナーと共に復活していくのだが、ここからの展開はしんみりとさせるような所もあって見どころが満載となってくる。
まずトレーナーのマックスに自分がジョーの生まれ変わりなのだと納得させる場面。
ジョーしか知らないことをマックスに話して、自分はジョーなのだと信じてもらうのだが、マックスはジョーの復活を信じて接するようになる。
マックスのジョーへ寄せる信頼と愛情が観客に刷り込まれる。
そしてジョーは倒れたクウォーター・バックのトムに乗り移り、ジョーの過去を捨てトムとして生まれ変わってしまう。
それを知ったマックスがロッカー・ルームで見せる淋しそうな姿がたまらなくいい。
トムとなったジョーと出会ったベティが交わす会話とラストシーンがなかなかいい。
天国から復活してくる話としてはまとまっており、この手の作品の上位にランクされる出来栄えだと思う。

デルス・ウザーラ

2021-06-18 07:39:54 | 映画
「デルス・ウザーラ」 1975年 ソ連


監督 黒澤明
出演 ユーリー・サローミン
   マクシム・ムンズク
   スベトラーナ・ダニエルチェンコ
   シュメイクル・チョクモロフ
   ピャートコフ
   プロハノフ

ストーリー
第一部
地誌調査のためにコサック兵六名を率いてウスリー地方にやってきたアルセーニエフがはじめてデルスに会ったのは1902年秋のある夜だったが、その動作は隊員たちが熊と見まちがえたくらい敏捷だった。
鹿のナメシ皮のジャケットとズボンをつけたゴリド人デルスは、天然痘で妻子をなくした天涯狐独の猟師で、家を持たず密林の中で自然と共に暮らしている、とたどたどしい口調で語った。
翌日からデルスは一行の案内人として同行することになった。
ある日、アルセーニエフとデルスがハンカ湖付近の踏査に出かけた時、気候は突如として急変し、静かだった湖は不気味な唸りをあげはじめたが、デルスが草で作った急造の野営小屋のおかげで凍死をまぬがれた。
第一次の地誌調査の目的を達したアルセーニエフの一行はウラジオストックに帰ることになり、彼はデルスを自分の家に誘ったがデルスは弾丸を少し貰うと、一行に別れを告げて密林に帰っていった
第二部
1907年。再度ウスリー地方に探検したアルセーニエフはデルスと再会した。
その頃ウスリーには、フンフーズと呼ばれる匪賊が徘徊し、土着民の生活を破壊していた。
フンフーズに襲われた土着民を助けたデルスはジャン・バオという討伐隊長にフンフーズ追跡を依頼した。
その頃から、忍びよる老いと密林の恐ろしい孤独が次第にデルスをむしばんでいった。
視力が急速におとろえたデルスを、アンバ(ウスリーの虎)の幻影が苦しめ極度に恐れさせた。
あれほど都市の生活を嫌っていたデルスはアルセーニエフの誘いに応じ彼の家にすむことになった。
しかし、密林以外で生活したことのないデルスにとって、自然の摂理にそむいた都会生活は、彼の肉体と精神をむしばむばかりだった。
そのデルスの苦悩を、アルセーニエフやその妻もいやすことができなかった。


寸評
黒澤は「赤ひげ」後5年間のブランクを経て「どですかでん」を撮った。
しかし「どですかでん」を試写会で見た僕はまったく面白くないと思ったし、実際「どですかでん」はコケた。
その間には「トラ・トラ・トラ」の降板問題起きていた。
「どですかでん」後の1971年、黒澤は自殺未遂を起こす・
外国では「トラ・トラ・トラ」の降板が影響したと報じられる事が多かったが、僕は「どですかでん」の失敗が大きかったと思っている。
そんなこともあって1970年代以降は国内で製作資金を調達するのが難しくなった黒澤は海外に活路を求めた。
「デルス・ウザーラ」はその最初の作品だったが、ソ連は社会国らしく金は出すが口は出さないということで、黒澤としては思う存分自分の作品を撮れたのではないかと思う。
東西冷戦下のソ連作品が米国のアカデミー賞で外国映画賞に輝いたのには驚いたが、黒澤が監督であったことが好材料だったのかもしれない。

第一部ではデルスがアルセーニエフを隊長とする地誌調査隊を案内して厳寒の地を行く様子が描かれる。
自然の猛威の中でデルスが示す人間本来の姿が微笑ましくもあり感動的でもある。
デルスは森を愛し動物を愛し、自然に従い人を信じ、そして人の痛みも分る人間である。
森で一人暮らす中国老人の話などは心打たれる。
デルスは太陽を一番偉い人と言い、月を二番目に偉い人と言うデルスは、人を信じて騙されるようなことがあっても、何故そんなことをするのかわからないと言うだけである。
当初デルス役に三船敏郎が検討されたらしいが、断然マクシム・ムンズクが適役だったと思う。
演技しているのか、彼そのものなのか判別がつかないほど映画に溶け込んでいる。
ロケの大変さを想像できる映像が続くが、大自然をとらえたショットは特に印象に残る。
デルスの人となりが描かれていくので、大きな出来事と言えば猛吹雪にあって野営地を作ることぐらいだ。
ところが野営地を作るための草を刈り取るシーンが滅法長い。
デルスも必死なら、「働け」と叱咤されるアルセーニエフも必死である。
自然の猛威を伝えるためには、このシーンに費やした長さが必要だったのだろう。
やがて役目を終えてデルスは去っていく。
申し訳なさそうに猟銃の弾を貰う姿がデルスの人柄を著していて微笑ましいシーンとなっている。
二部は再び出会った二回目の探検の模様だが、一番緊張するのは筏が川に流させる場面だ。
流される筏とそれに乗ったデルス、川べりを必死で追う探検隊野メンバー、それをカメラも追う。
森を切り開いてレールを敷いたと思われる移動カメラで、その苦労がしのばれるシーンとなっている。
一部と大きく違うのはデルスが都会であるハバロスクのアルセーニエフ宅に住むことだ。
森で育ったデルスは都会の生活に馴染めない。
銃は撃てないし、森では自由に手に入る水も薪も買わねばならない。
森の動物も、自分が使う杖も擬人化して言うデルスには悪いことのように映る。
見ているとデルスの言っていることが正しいように思えてくるから不思議だ。
文明批判をしながら、黒澤自身が人間不信を払拭しようとしているように感じる作品である。

鉄道員

2021-06-17 07:49:20 | 映画
「鉄道員」 1956年 イタリア


監督 ピエトロ・ジェルミ
出演 ピエトロ・ジェルミ
   エドアルド・ネヴォラ
   ルイザ・デラ・ノーチェ
   シルヴァ・コシナ
   サロ・ウルツィ
   カルロ・ジュフレ

ストーリー
50歳の鉄道機関士アンドレア・マルコッチは、末っ子サンドロの誇りだった。
彼は最新式の電気機関車を動かし、酒場で誰よりも巧みにギターを弾いた。
だが長男で失業中のマルチェロや、食料品店員レナートと結婚している長女ジュリアにとっては、厳格で一徹な父は少々やり切れない存在だった。
母親サーラの忍従と慈愛、そしてサンドロの純真さが一家の空気を支えていた。
ある日、父親の運転する列車に一人の若者が身を投げた。
そのショックから彼は赤信号を見すごし、列車の正面衝突事故を起しかけた。
そしてこの事件によって、同乗の親友リヴェラーニとともに旧式機関車の機関士に格下げされてしまった。
月給も下り、折から労働組合はストライキを計画中だったが、彼の不満をとり上げてはくれなかった。
彼の酒量は上り、心はすさんだ。
丁度その頃、流産して夫との生活に耐えきれなくなっていた長女ジュリアは、自活の道を求めて洗濯女工となり、彼女のことが原因で父と口論した長男マルチェロは家出した。
鉄道ではゼネストが決行されたが、父親は久しぶりに電気機関車を運転した。--スト破り。
彼は友人達からも孤立し、遂には酒を求めて家にも帰らぬ日々が続くようになった。
サンドロは父を探し出し、以前によく彼が、友達たちとギターをひいて歌った酒場に連れ出すことに成功した。
旧友連は快く父親を迎えてくれ、久しぶりにギターが鳴ったが、弱った彼の身体は床の上に倒れた。
それから3ヶ月、小康を得た父親と母とサンドロの家庭に、またクリスマスがきた。


寸評
監督のピエトロ・ジェルミが自ら主演を務めている。
子供の目を通した大人の世界を描いているが、末っ子のサンドロは兄や姉とは大分と歳が離れているようだ。
そのせいかサンドロは父親を初め家族の皆から可愛がられている。
映画の世界で子供を描くとそれなりに収まってしまうのだが、ここでのサンドロは面白い役回りをやっている。
物語のナレーション役を務めながら、内緒ごとを約束しておきながら大人から責められるとつい口を割ってしまう少年で、物語の進行役も務めているといった感じである。

父親は機関車の運転手で、厳格だが自己中心的な人物である。
その人物像は古い映画にはよくあるタイプで今見ると特別なキャラクターではない。
同様に母親も陰ひなたになって子供たちの味方になり、それでいて懸命に夫を支えているという古いタイプだ。
長くはない映画だが1部と2部に別れている。
1部では父親像と家族関係を描きながら、父親が自殺事故に巻き込まれたショックで信号の見落としをやってしまい、その責任を押し付けられ降格されてしまうまでを描いている。
その中で娘の結婚も描かれているのだが、それは父親が未婚の母となった娘をその相手と強引に結婚させたものだったと後でわかる。
娘がその事を父親と喧嘩した際に吐き出すが、そう言えば結婚式での娘はどこか不安げだった。
子供が出来たことで結婚した二人だが、子供が死産だったことで別れることとなる。
別れたあと娘のジュリアは新しい相手と出会ったようだが、サンドロはその男が嫌いで別れたレナートが好きだ。
その様子も微笑ましいものがある。

2部はスト破りをして孤独になった父親の姿がメインとなる内容となっている。
楽しくてハッピーエンドを期待させるのがクリスマスで皆が集まるシーンだ。
その前に仲間に受け入れられていた父親だが、親友の配慮もあって仲間たちが大勢やって来る。
息子も帰って来て久しぶりに賑やかな一家だがそこにジュリアの姿はない。
病弱となった父親は昔と違って、息子も娘も心配する普通の父親となっている。
父親なら、娘と疎遠になっても常に「どうしているか?これから先は大丈夫か?」と心配しているものだと思う。
連絡を取り合える母親とは違った感情だ。
その娘もどうやら別れた夫とよりを戻してやってくるようだとわかり、僕たちは期待通りのハッピーエンドシーンを思い描く。
しかしそうはならないのだが、それもある程度予想が出来る結末ではある。
ただそのあとで、母親が家が広くなったと言っているとのサンドロのナレーションが入り、息子たちは何事もなかったかのような姿で出かけていく姿が描かれる。
人の死とはそのようなものなのかもしれない。
母親は淋しそうな表情を浮かべるが、サンドロはオープニングで父親の元へ走っていったのと同じように道路を駆けていく。
子供は立ち直りも早くて強いのだろう。

鉄拳

2021-06-16 07:51:14 | 映画
「鉄拳」 1990 日本


監督 阪本順治
出演 菅原文太 桐島かれん 大和武士
   藤田敏八 大楠道代 原田芳雄 ハナ肇
   萩原聖人 シーザー武志 大和田正春

ストーリー
代々の林業を営む中本誠次(菅原文太)は家業を専務の筒井(ハナ肇)に任せっきりで、ボクシングジムのオーナーをやっていた。
ある日、ふとしたことから少年院上がりの後藤明夫(大和武士)と知り合った誠次は、彼のボクサーとしての素質を見つける。
恋人の君子(桐島かれん)に見守られながら明夫は破竹の快進撃を見せるが、有頂天気味の明夫は交通事故を起こしてしまい、ボクサーの命である右拳を負傷してしまう。
明夫は行方不明となり、誠次もすべてを失ってしまい無気力な日々を送る。
だが、偶然義手をつけた和紙職人・滝浦(原田芳雄)と出会った誠次は彼を見て明夫の復活の予兆を感じる。
そして誠次は明夫と再会し、滝浦の義手を作った池田医師(藤田敏八)によって、彼の右手は生まれ変わるのだった。
こうして“鉄拳”をもった明夫は誠次や君子やトレーナー・長井(大和田正春)にささえられながらリハビリとトレーニングに集中する。
だがそんな時、滝浦が身体障害者に異常な冷酷さを見せる平岡(シーザー武志)を中心とする謎の集団に襲われ、誠次の目前で殺されてしまう。
怒りに燃える誠次は滝浦の復讐をとげるため単身で平岡達のところへ殴り込みに行く。
それは明夫の復帰戦当日のことだった。
平岡と激突する誠次、しかし人数的にも誠次には不利な戦いだった。
そんな危うい時、明夫が試合をすっぽかして駆けつけてきた。
そして二人は死斗の末、平岡を倒すのだった。


寸評
大和武士やシーザー武志といった元ボクサーが出演しているので、題名からしてもこれはすごいスポ根映画だと思っていたら、ボクシングシーンはあまりなく迫力も不足している。
むしろ力点をジム会長の菅原文太と、少年院上がりで本当はボクサーになりたがっていた大和武士の復活物語においている。
林業会社の社長である中本はボクシングジムの会長もやっているが、頭の中にあるのはボクシングだけといった男で、妻とも離婚し妻子と別れた一人暮らしをしている。
怒ると物にあたる性格は治っておらず、別れた妻子はそんな中本を見放している。
一方の明夫も幼いころから父親の虐待を受け、そのいざこざから少年院送りとなり、父が病死したために復讐することもできずすさんだ生活を送っている。
弱い選手ばかりのジムの会長と、父の暴力によって反射神経が磨かれた明夫が結びつくのは映画のストーリー的にもごく自然な流れである。
会長の誘いに色よい返事をしなかった明夫が、シーンが変わると選手としてリングで戦っている展開などは余分な話を省いてスピーディである。
シリアスな場面があったかと思うと、ユーモアに満ちたシーンも挿入されていて楽しめる。
中本のよき理解者である会社の大番頭的存在のハナ肇とのからみが面白い。
会長が大の犬嫌いというのも笑わせる。

明夫は右手を負傷してサイボーグの様な右手を手に入れるが、あのような義手でボクシングをすることは許されているのだろうか?
中本と明夫は新しく作った山小屋でのトレーニングを開始するが、トレーニングシーンはすごい過酷なものと感じさせるまでには至っていない。
やはり主眼はスポ根にないことを感じさせる。
むしろリングでスパーリング姿を見せる中本を描くことで、やはりこれは再生物語なのだと思った。
やがてトレーナー兼スパーリング相手の長井と君子も加わった4人での練習となるが、その費用を負担しているのが君子だけというのもおかしい。

やがて身障者を目の敵にしているシーザー武志率いる暴走族集団が登場し事件が起こる。
この集団は意味不明で、身障者を襲う場面も少しばかり描かれているのだがその理由は希薄である。
その希薄さのために滝浦が襲われて殺されてしまうことも突然の出来事のように感じてしまう。
中本はその復讐に向かうが、そこからは画面のトーンがかわりまるでウルトラマンか仮面ライダーの世界となる。
そう言えばジムの壁面にウルトラマンが描かれていた。
復讐戦と明夫の復帰戦がリンクされて描かれるが、その展開はアッと驚くものでマンガ的。
そもそもこの暴走族との対決シーンはまるで漫画の連続なのだ。
その展開は明夫が駆けつけた後も続き、究極は闘い後に二人がソバを食っていることだ。
なんでここにソバがあるのか?と思わせるし、ソバを食べることに何の意味があるんだと言いたくなってくる。
君子たちもやって来てエンドとなるラストシーンと音楽が流れ続けるエンディングには趣がある。