おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日

2020-06-30 06:32:53 | 映画
「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」 2012年 アメリカ


監督 アン・リー
出演 スラージ・シャルマ
   イルファン・カーン
   ジェラール・ドパルデュー
   レイフ・スポール
   アディル・フセイン

ストーりー
小説家ヤン・マーテルがインド人の青年パイ・パテルが語る幼少時代を聴きに訪れる。
ママジから「話を聞けば神を信じる」と聞いてやって来たのだという。
パイは泳ぎや楽器も得意な少年だったが、宗教の入り交じった南仏のリヴィエラのような街ポンディシェリで育ち、ヒンズー教とキリスト教とイスラム教とを同時に信奉するようになる。
身分が低い夫と結婚して勘当された植物学者でもある母と父は植物園を営んでいたが、さらに動物園も経営してベンガルトラなど多くの動物を飼っていた。
パイの一家は補助金がなくなったなどで動物園を畳み、新天地を求めて動物とともにカナダに移住を決断。
ダンス教室で出会った恋人アナンディとも別れることになる。
太平洋を北上中に海難事故に遭い、船の沈没とともに16歳の少年パイが人間では唯一の生存者となる。
彼はライフボートでオランウータン、ハイエナ、シマウマ、トラのリチャード・パーカーと過ごすことになる。
脚を骨折しているシマウマを襲うハイエナ、それに怒ってハイエナを襲うが逆に倒されるオランウータン。
ハイエナはベンガルトラに倒され、トラとパイ少年とで広大な海をさまようことになる。
「大海で生き残るために」というボートに必ず搭載してある遭難マニュアルを読んでボートにあった道具で筏をつくり、備え付けの水や食料を少しずつ使っていくが、クジラのために多くを失う。
お腹が空いたリチャード・パーカーが魚を採りに降りてボートに上れなくなるが、殺そうと思ったものの、殺せず、一緒の航海が続く。


寸評
船が沈没して、一人生き残った少年のサバイバル物語なのだが、過酷な場面があるもののどこかメルヘンチックである。
斬新な映像美で彩られた迫力の映像がファンタジックさを醸し出す。
クジラの回遊シーンや大ジャンプ、夜空の美しさや大海原に漂うボートの映像に唸らされる。
主人公がボートに潜んでいたトラと、よくある動物映画のようになれあったりはしないで運命共同体となっていく様が魅力となっている。
映画に登場するトラのほとんどは高度なコンピューターグラフィックによるものであるらしいのだが、このトラの表情、特に目の輝きが作り出されたものではあるが神秘的だ。
トビウオの大群に出会ったり、それを追ってきたマグロがボートに飛び込んできたりとCGを駆使したシーンも上手く収まっている。
ミーアキャットの島には驚かされるし、しかもその島全体が食人の島だったと言うのもどこか童話的だ。
兎に角それらのシーンが全体を支配していて、当然のことで会話は少ないのだがその分、映像で見せ続ける。

もう一つのバックボーンが宗教に関するものだ。
パイはヒンズー教徒の母に育てられたので元はヒンズー教徒なのだが、やがてキリスト教にもイスラム教にも感銘を受けていく。
この宗教感覚は欧米人には理解しがたいかもしれないが、日本人である僕にはよくわかる。
子供が誕生すると宮参りや七五三などで神社に詣で、結婚式は教会で上げ、クリスマスを祝う。
死ねばお寺のお世話になる仏教徒と化す。
パイはこの無宗教ともいうべき、何でも受け入れてしまう日本人の特性に似た宗教観を有している。
それでもパイは苦境の時には神に救いを求めている。
一体どの神に救いを求めたのかはわからないが神を頼り、神の存在を体感する。
沈没船が日本国籍で日本語の文字が所々で一瞬ながら挿入されているのだが、この日本を意識させていることとパイの宗教観はリンクしていたものだったのだろうか。
監督に確かめてみたい疑問である。

パイの乗ったボートにはリチャード・パーカーと名付けられた虎のほかにもシマ馬やハイエアナが同乗していて、そのうちオランウータンも流れついてくる。
やがてそれらの動物は弱肉強食の世界を見せるのだが、じつはそれは擬人的に語られたものなのではないかと最後の方で匂わされる。
おそらくパイの語った物語は人間世界で起きたことなのだろうが、小説家が言うようにトラの方が面白い話である。
人間世界で起きたことなら凄惨なことと言わざるを得ない。
この衝撃的事実をもう少しドラマチックに描けていたなら間違いなく超一級の作品になっていたような気がする。
いくらCG技術の進歩といっても、あれだけ動物の動きをドラマチックに描かれると、それに対応する生身の人間の演技を挟むのは難しいわなあ。
パイが家族を得て幸せに暮らしていることを示すラストはいい。

ライフ・イズ・ビューティフル

2020-06-29 07:15:13 | 映画
「ライフ・イズ・ビューティフル」 1997年 イタリア


監督 ロベルト・ベニーニ
出演 ロベルト・ベニーニ
   ニコレッタ・ブラスキ
   ジョルジオ・カンタリーニ
   セルジオ・バストリク
   マリサ・パレデス
   ホルスト・ブッフホルツ

ストーリー
1937年、イタリアはトスカーナ地方の小さな町アレッツォで、本屋を開く志を抱いてやってきたユダヤ系イタリア人のグイドは美しい小学校教師ドーラと運命的な出会いをする。
当座の生活のため叔父ジオの紹介でホテルのボーイになり、なぞなぞに取り憑かれたドイツ人医師レッシングらと交流したりしながら、ドーラの前に常に何度も思いもかけないやり方で登場。
ドーラは婚約していたが、抜群の機転とおかしさ一杯のグイドにたちまち心を奪われてしまった。
ホテルで行われた婚約パーティで、グイドはドーラを大胆にも連れ去り、ふたりは晴れて結ばれた。
息子ジョズエにも恵まれ、幸せな日々だったが、時はムッソリーニによるファシズム政権下。
ユダヤ人迫害の嵐は小さなこの町にも吹き荒れ、ある日、ドーラが自分の母親を食事に呼ぶため外に出たすきに、グイドとジョズエは叔父ジオと共に強制収容所に連行された。
ドーラも迷わず後を追い、自分から収容所行きの列車に乗り込んだ。
さて、絶望と死の恐怖たちこめる収容所で、グイドは幼いジョズエをおびえさせまいと必死の嘘をつく。
戦況は進み、収容所は撤退準備をはじめる。
この機を逃さじとグイドはジョズエをひそかに隠して、ドーラを捜すうちに兵士につかまった。
グイドはジョズエの隠れ場所を通るとき、おどけて行進ポーズをとる。
それが彼の最後の姿だった。
ドイツ兵が去った後、外へ出たジョズエは進駐してきたアメリカ軍の戦車を見て歓声をあげる。
戦車に乗せられたジョズエは生きていたドーラを見つけ、母子は抱き合った。
これが幼い息子を生きながらえさせようとした父親の命がけの嘘がもたらした奇跡の物語だ。


寸評
前半は主人公グイドが結婚し、そして息子を授かって家庭を築き上げる話が語られるが、描かれるのはグイドの調子のよさと、どこまでもポジティブな彼の姿勢である。
グイドは天から降ってきたようなドーラと運命的な出会いをする。
思いがけない出会いを望むドーラのために、時には詐欺師のようなことをやらかして彼女の気を引くのだが、それはまるでドタバタ喜劇を見ているような可笑しさがある。
グイドはユダヤ系イタリア人で迫害対象だ。
念願の書店を開業するが店のシャッターにはユダヤ人の店と落書きされる始末。
レストランでは犬とユダヤ人はお断りと貼り出されている。
グイドは息子のジョズエに「あの店は犬とユダヤ人が嫌いなんだ」と言ってごまかして意に介さない。
何事にもめげない明るいグイドが描き続けられる。

やがてユダヤ人迫害で収容所に連行されるが、グイドは「これはゲームなんだ」とジョズエに言って聞かせる。
ジョズエはすっかり信じ込んでしまうのだが、そのやり取りが滑稽だ。
収容所に入れられてすぐにグイドがやるドイツ語の通訳場面がおかしい。
グイドはドイツ語など分からないのだが、ゲームをジョズエに分からせるため、ドイツ将校の動きに合わせてゲーム規則を話しジョズエに信用させる。
ここから続く収容所でのウソは全くこのような出まかせのことばかりなのだが、ユダヤ人であるために収容されたアウシュビイッツで生き残ろうとする父親グイドの姿をコメディ調に描いている。
その描き方が忌まわしい収容所での事実を強調する仕組みで、風刺喜劇として一級品となっている。

ガス室にユダヤ人の老人や子供たちが送られていく中で、息子を自分のベッドに隠し通したり、絶望的な状況を決して我が子に気付かせないように気を配るグイドが痛々しい。
命がけで放送室に侵入しマイクで妻に愛を伝える感動的なシーンもあるが、迫害の痛々しさも表している。
戦争が終わり収容者が解放される日が迫っているが悲劇が起きる。
風刺的に滑稽なシーンを描き続けていたが、ここだけは胸が痛むと同時に憤りがこみ上げてくる。
その気持ちをこの1シーンに凝縮した演出は上手い。
ラストはグイドに言われた通り、息子のジョズエは収容所の中でドイツ兵に見つからないように隠れん坊をしていると思っている。
誰もいなくなって隠れ場所から出てきた時に連合軍の戦車が現れる。
この時のジョズエ少年の喜びに満ちた笑顔は最高で、迫害からの解放を見事に表していた。

グイドは常に陽気でいい加減なように見えたりもするが、それは愛と希望という名の下にピエロを演じる優しさだ。
ドイツ兵に捕まったグイドがジョズエにウインクを見せ、胸を張り、両手を大きく振って歩いていく姿は、嘘をつきながらも最後まで弱さを見せなかった父親の威厳に満ちた姿でもあったと思う。
戦争風刺劇として記憶に残る作品である。

ライトスタッフ

2020-06-28 07:23:53 | 映画
いよいよ終盤。「ら」行です。


「ライトスタッフ」 1983年 アメリカ


監督 フィリップ・カウフマン
出演 サム・シェパード
   スコット・グレン
   エド・ハリス
   デニス・クエイド
   スコット・ポーリン
   チャールズ・フランク

ストーリー
1947年10月、空軍パイロットのチャック・イエーガーがXー1ロケットで初めて音速の壁を破った。
ゴードン・クーパーが妻トルーディとエドワーズ空軍基地にやってきたのもこの頃だった。
2人はガス・グリッソムと彼の妻ベティ、デイク・スレイトンと彼の妻マージに会う。
57年10月、ソ連がスプートニクの打ちあげに成功。
驚いたアイゼンハワー大統領は、パイロットの中から宇宙飛行士を選ぶように命じた。
ニュー・メキシコのアルバカーキで、適格検査が行なわれ、その結果、7人が選抜された。
スコット・カーペンター、アラン・シェパード、ジョン・グレン、ウォーリー・シッラ、それにクーパー、スレイトン、グリッソムで、彼らは一夜にして英雄となった。
61年、シェパードがアメリカ人として、初の宇宙飛行に成功した。
つづくグリッソムは、着水時にカプセルのハッチが爆破するという不幸な事故にあってしまう。
次にジョン・グレンが宇宙へ飛び出した。
その後、カーペンター、シッラが有人軌道飛行をなしとげ、イエーガーはNFー104スター・ファイターに乗り、途中できりもり状態になるが、九死に一生を得た。
63年5月、クーバーはジェミニ5で190時間56分の耐久時間の記録を樹立した。


寸評
ライトスタッフを日本語字幕では”正しい資質”と訳している。
映画はマーキュリー計画と呼ばれた1958年から1963年にかけて実施されたアメリカ合衆国初の有人宇宙飛行計画に参加したマーキュリー・セブンと呼ばれるアメリカ初の宇宙飛行士たち7人の物語である。
彼等はパイロットとして最高の資質を持ち合わせた男たちだが、一番の”正しい資質”の持ち主はテストパイロットのイエーガーである。
しかし彼は大卒ではないと言う理由だけで宇宙飛行士の訓練に選抜されなかった。
彼自身はその事を知っていたのかどうか分からないが、安い給料の方であるテストパイロットの道を歩む選択をするイエーガーに負けず劣らず、彼の妻も気丈な女性で魅力的な存在だ。
彼女は、「飛行機なんて嫌いよ。パイロットは不安を取り除く訓練をするけど、だれも妻の不安など気にかけない」と言いながらも、「わたしはあなたがもし昔話にすがって生きていく男になったら、家から出ていくわ」と言い、もし夫が挑戦することをやめてしまったら夫を捨てるというような女性なのだ。
この男にしてこの妻ありという存在なのだが、彼女は宇宙飛行士となったガス・グリソムの妻との対比でもある。
ガスの妻は任務に失敗し失意の最中にある夫に対し、ニューヨークのパレードがないとか、大統領夫人であるジャッキーに会えないとか言って夫をなじる自分勝手な女性として描かれている。
ガス・グリソムに対する名誉棄損にならないのかと心配になった。

アメリカは宇宙開発に関して初期段階はソ連にリードされていたのは周知にのことである。
ソ連が最初の人工衛星の打ち上げに成功した時の、採用係が政府官邸の廊下を走る後ろ姿が可笑しい。
彼が幹部が集まる部屋に飛び込み、「スプートニク」と叫ぶ。
世界初の宇宙における有人飛行にソ連が成功すると、再び同じシーンが再現され「ガガーリン」と叫ぶ。
ソ連が宇宙での一日滞在を成功させると、またまた同じシーンが描かれ「チトフ」と叫ぶ。
常に先を越されるアメリカの慌てぶりが感じられて、日本人の僕は笑うしかなかった。
可笑しいのはそれだけではなく、ジョンソン副大統領もコケにされているような描き方で笑わせる。
ジョンソンがグレンの奥さんに面会に来ているのだが、奥さんに面会を拒否される。
やむを得ずグレンの上司から圧力をかけさせるが、グレンがそれに屈せず「我が家の敷居を一歩たりともまたがせるな!」と奥さんを支持するという痛快シーンだ。

国民のヒーローになった7人とは別にイェーガーがジェット機による高度記録達成に挑む姿がこの映画のクライマックスで、最高のパイロットは誰だと問いかけられる7人の宇宙飛行士の表情とイエーガーの挑戦が交錯し、その間ドビッシーの「夢」が流れている。
イエーガーは飛行許可を取っているのかどうか分からない。
長年の相棒ともいえる男からチューインガムをもらい、最新の戦闘機に乗って飛び立っている。
悪魔を見るためなのか彼は超高速で上昇していくのだが、彼もまた宇宙に挑戦している一人だと言う事だろう。
宇宙に最も近づいたイエーガーの帰還に熱いものがこみ上げてくる。
長尺で少しダレるところもあるが、映画にとって音響と音楽が大事な要素である事を教えてくれている作品であり、後年のクリント・イーストウッドによる「スペース・カウボーイ」に影響を与えていると思わせる作品である。

四十七人の刺客

2020-06-27 10:48:05 | 映画
「四十七人の刺客」 1994年 日本


監督 市川崑
出演 高倉健 中井貴一 宮沢りえ
   岩城滉一 宇崎竜童 松村達雄
   井川比佐志 山本學 神山繁
   黒木瞳 清水美沙 横山道代
   古手川祐子 西村晃 石橋蓮司
   橋爪淳 五代目尾上菊之助
   中村敦夫 板東英二 小林稔侍
   石坂浩二 浅丘ルリ子 森繁久彌

ストーリー
播州赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助(高倉健)と上杉藩江戸家老・色部又四郎(中井貴一)の戦いは、元禄14年3月14日江戸城柳の間にて赤穂城主浅野内匠頭(橋爪淳)が勅使饗応役高家・吉良上野介(西村晃)に対し刃傷に及んだ事件から始まった。
内匠頭は即刻切腹、赤穂藩は取り潰し、吉良はお咎めなしという、当時の喧嘩両成敗を無視した一方的な裁断は、家名と権勢を守ろうとする色部と時の宰相柳沢吉保(石坂浩二)の策略だった。
赤穂藩は騒然となり、篭城か開城かで揺れるが、大石は既に吉良を討ちその家を潰して、上杉、柳沢の面目を叩き潰す志を抱き、早速反撃を開始した。
事件発生後直ぐに不破数右衛門(岩城滉一)に命じ塩相場を操作し膨大な討ち入り資金を作った大石は、その資金をばらまき江戸市中に吉良賄賂説を流布させ、庶民の反吉良感情を煽り、また赤穂浪士討ち入りの噂を流して吉良邸付近の諸大名を震え上がらせ、討ち入りに困難な江戸城御府内にある吉良邸を外に移転させるなどの情報戦を駆使する。
思わぬ大石の攻勢にたじろいだ色部も、吉良を隠居させる一方、仕官斡旋を武器に赤穂浪人の切り崩しを図り、討ち入りに備えて迷路や落とし穴などを完備した要塞と呼ぶべき吉良屋敷を建てさせるなど反撃を開始。
京都・鞍馬で入念な準備に忙殺される大石はその傍ら、一文字屋の娘・かる(宮沢りえ)との恋を知る。
追い詰められた上杉家は最後の策として吉良を米沢に隠居させようとする。
その惜別の会が開かれた12月14日、運命の日。
雪も降り止み誰もが寝静まった子の刻、大石以下47名が集まり、要塞化した吉良邸にいよいよ突入した。
迷路を越え、上杉勢百数十名との壮絶なる死闘の末、遂に大石は吉良を捕らえる。
追い詰められた吉良は大石に、浅野の刃傷の本当の理由を知りたくはないか、と助命を請うのだが・・・。


寸評
赤穂浪士の討ち入りを新たな視線で描いているので、見慣れてきた忠臣蔵ではあるが楽しめる。
赤穂藩の紛糾の様子や城受け取りの場面は割愛されていて、先ずは情報戦として、浅野家による吉良悪しの噂が流される経緯が描かれる。
赤穂の浪士が討ち入りをかけてきて巻き添えを食うのは迷惑だから、吉良邸を移転させてほしいと周囲の大名屋敷から嘆願が出され、吉良邸が江戸城から離れた本所松坂に移転させられたのは史実の様である。
ここでは周囲の屋敷が移転していて、その費用が莫大なものだから、いっそ吉良邸を移転させようと言うことになっている。
どちらにしても、赤穂浪士が討ち入りをかけるという噂は当時の江戸市中に流布されていたことは想像できる。
また後年演じられた仮名手本忠臣蔵で描かれたように、当時から吉良を悪役とする噂は有ったのかもしれない。
それが浅野家によって流されたのか、あるいは江戸庶民の期待が高じたものかはわからないが、ここでは大石が金を使ってニセの情報をばらまいたことになっていて面白い。
あっても不思議ではない話である。

大石はとても艶福化で、ふうという娘はどうやら外で作った子供の様である。
妻のりく(浅丘ルリ子 )はそれを我が子同然に育てていて、大石もそれに感謝し、りくにいたわりの気遣いを見せるが、それでいながらきよ(黒木瞳)という女性がいたり、 一文字屋(佐藤B作)の娘かるに手を出している。
英雄色を好むといったところか。
この一文字屋は近衛家に毛筆を提供しているのだが、近衛家は大石の母方とも縁続きらしいので、この話もまんざら作り話ともいえないし、藩士の一人を近衛家に仕官させるエピソードも描かれている。
もっとも大石は当初、近衛家を通じて浅野大学を当主とする浅野家再興を画策していたはずなのだが、そちらの画策話は割愛されている。
大石は残された資金の使途を克明に残していて、そちらの金品の支出もかなりあったらしいことが判明している。

色部又四郎は吉良邸の改築を願い出ているが、吉良邸は新築なので最初からの仕様になっていたと思う。
残っている図面などから推測すると、周囲には在番の武士たちが寝泊まりする長屋が屋敷の周囲にあって、それが土塀の役割も担い、ある種砦のようなものになっていたことも事実のようだ。
その事実を踏まえて、吉良邸を要塞化していて、とても生活する屋敷とは思えぬ仕掛けを張り巡らせていている事で、討ち入り場面を面白く見せている。
史実によれば150名対47名の闘いでありながら、赤穂浪士側には死者が出ていない。
その理由の一つとして、鎖帷子を着込むことは卑怯とされていた当時の仇討ちの掟を無視したことにあるらしい。
大石にとっては単なる仇討ではなく、これはもはや戦争なのだとの意識もあったのかもしれない。
そして多くが詰めていた長屋から出られなくするために、かすがいを打ち付けて閉じ込めたこともあったようだ。
そんな場面はないが、それにかわる手立てが色々描かれていて、乱闘場面は楽しめるものとなっている。
裏切り者呼ばわりされていた瀬尾孫左衛門(石倉三郎)が48番目の義士として泉岳寺に墓が設けられたのは明治になってからのことと聞く。
赤穂浪士の新しい描き方として 、すこし間延びするところはあるが一応面白く出来上がっていると思う。

喜びも悲しみも幾歳月

2020-06-26 07:52:47 | 映画
「喜びも悲しみも幾歳月」 1957年 日本


監督 木下惠介
出演 佐田啓二 高峰秀子 有沢正子
   中村嘉葎雄 桂木洋子 岡田和子
   三井弘次 桜むつ子 田村高廣
   伊藤弘子 夏川静江 仲谷昇

ストーリー
上海事件の昭和七年、新婚早々の若い燈台員有沢四郎(佐田啓二)ときよ子(高峰秀子)は、東京湾の観音崎燈台に赴任して来た。
日本が国際連盟を脱退した年には、四郎たちは雪のはて北海道の石狩燈台へ転任になった。
そこできよ子は長女雪野を生み、二年後に長男光太郎を生んだ。
昭和十二年に波風荒い五島列島の女島燈台に転勤した四郎一家は、ともすると夫婦喧嘩をすることが多くなったが、きよ子は家を出ようと思っても便船を一週間も待たねばならぬ始末であった。
気さくな若い燈台員野津(田村高廣)は、そんな燈台でいつも明るく、台長の娘真砂子(伊藤弘子)に恋していたが、真砂子は燈台員のお嫁さんにはならないと言って野津を困らせた。
昭和二十年、有沢たちは御前崎燈台に移り、東京から疎開して来た名取夫人(夏川静江)と知合った。
まもなく野津と今は彼の良き妻となった真砂子が赴任してきた。
戦争が終って、野津夫婦も他の燈台へ転勤になった。
それから五年、有沢たちは三重県安乗崎に移った。
やがて雪野(有沢正子)は事業に成功した名取家に招かれて東京へ勉強に出ていった。
昭和二十八年には風光明眉な瀬戸内海の男木島燈台に移った。
ところが大学入試に失敗して遊び歩いていた光太郎(中村嘉葎雄)は、不良と喧嘩をして死ぬという不幸にみまわれた。
歳月は流れて、東京にいる雪野と名取家の長男進吾(仲谷昇)との結婚話が持ち出された。


寸評
僕はこの映画を巡回映画で見たような気がするのだが、この内容と上映時間を考えると小学校の講堂で上映されたとも思えず記憶は定かではない。
しかしながらこの主題歌を聞いているうちに気分が高揚してきたことだけは鮮明に覚えている。
1番、おいら岬の灯台守は 妻と二人で沖ゆく舟の 無事を祈って灯をかざす 灯をかざす
3番、あしたに夕べに入船出船 妻よ頑張れ涙をぬぐえ 燃えてきらめく夏の海 夏の海
5番、星をかぞえて波の音きいて  ともにすごした幾年月の 喜び悲しみ目にうかぶ 目にうかぶ
いい唄だ。

灯台守という職業はなくなってしまったが当時は多くの人達が従事していたのだろう。
彼らの苦節25年に及ぶ生活が描かれるが、描かれているのは地方を転々とする生活と大変な仕事とともにある夫婦愛、家族愛だ。
第一部は昭和7年(1932年)からで、神奈川県三浦半島東端にある観音埼燈台への坂道を登る若い燈台員夫婦の姿で始まるが、彼らはたった1回の見合いで結婚した新婚夫婦である。
しかも父の葬儀に帰郷し、連れて帰ってきたのが新妻という慌ただしいものであることが紹介される。
そして狂人となった別の灯台守の奥さんが登場し、灯台守の置かれた過酷な環境が示される。
そこに同郷の藤井という女性(桂木洋子)が訪ねてきて三角関係でひと悶着あるのだが、このエピソードは何のためかと思っていたら、後日藤井の結婚話が挿入され、また藤井の口から「いい人を選んだのね」と語らせ、この有沢夫妻の夫婦愛を称える役目だったのだと納得。
昭和8年に夫婦は北海道の石狩燈台へと転任になるが、ここでの最大のできごとは二人の子供の出産だ。
しかも長女の出産では産婆さんが間に合わず、四郎自身が取り上げていて、そのことがラストで語られグッとくる。
昭和12年に長崎県の女島(めしま)へ赴任するが、ここは孤島で人々の交流がないことから子供は無口になるなどというエピソードも語られ、そんな僻地での勤務もあるという過酷な状況が示されたが、野津の恋心が微笑みをもたらして、話が悲惨状況だけにならないような工夫が凝らされていたと思う。
第二部は太平洋戦争の勃発とともに始まる。
「今度は日本の真ん中だよ」と言って、新潟県佐渡の弾埼(はじきざき)へ転勤することになる。
暴風雨の中、沖にある小さな灯台を守りに行く場面では再び主題歌がながれゾクゾクさせられる。
静岡県御前埼(おまえざき) で終戦を迎えた夫妻は三重県志摩の安乗埼(あのりざき)へ転任し、ここで初めて家族は別れ別れの生活を経験するが、それは子供たちが巣立っていく前触れだ。
転校の繰り返しで落ち着いた勉強ができなかった長男の、香川県男木島(おぎしま)での悲しいエピソードも続くが、なんといってもラストを飾る雪野の結婚にまつわる話が感動の涙を誘う。
母が「横浜まで見送りに行けば良かったわね」と言うと、父は「冗談じゃあない。娘の晴れの門出だ。今まで何万何千の船に灯りを投げかけて来た。俺達の25年だって今日のこの日の為に娘の乗った船の安全を祈って光を投げるために生きて来たようなものだ。さあ、おまえとわしの手でスイッチを入れてやろうか」と娘が乗った船に向かって二人で明りを灯す。
映画のラストシーンは、主人公の老夫婦が小樽市高島岬の先端に立つ日和山燈台へ、モヤが立ち込める斜面をのぼってゆく楽しげな姿が映し出されるのだが、夫婦の苦労が思い出されて涙が流れて仕方がなかった。
いいラストだ。

世にも怪奇な物語

2020-06-25 08:00:39 | 映画
「世にも怪奇な物語」 1967年 フランス


監督 ロジェ・ヴァディム / ルイ・マル / フェデリコ・フェリーニ
出演 ジェーン・フォンダ
   ピーター・フォンダ
   アラン・ドロン
   ブリジット・バルドー
   テレンス・スタンプ
   サルヴォ・ランドーネ

ストーリー
第1話「黒馬の哭く館」はR・ヴァディムが監督。
当時の妻であったJ・フォンダとP・フォンダ主演で、黒馬に乗り移った男の魂によって死へと誘われる令嬢の姿を妖しく描く。
第2話「影を殺した男」の監督はL・マル。
ウィリアム・ウィルソンはサディスティックで冷酷で狡猾だったが、彼と同姓同名のうりふたつの男があらわれいちいち彼の悪事の邪魔をした。
数年後、軍隊の士官となったウィルソンは賭博場であった美しい女とカードの勝負をした。
ウィルソンはイカサマの手で女の肉体を勝ちとり、多勢の目の前で女の上半身を裸にし、激しく笞打った。
だが、そこに例のウィルソンがまたあらわれインチキをあばいた。
ウィルソンは、正義のウィルソンを短剣で殺した…。
第3話「悪魔の首飾り」はF・フェリーニが担当。
トビー・ダミットはイギリスの俳優で、かつては華々しい名声と賞讃につつまれていたが、アルコール中毒がたたり、二年ばかりは仕事もなく、落ち目だった。
そんな彼にイタリアから新車のフェラーリを報酬に映画出演の話が来た。
トビーは疲れ、えたいの知れない不安から酒をのみつづけた。
彼は、逃げるように会場を出るとフェラーリにとびのり車を走らせたがいつの間にか道に迷って…。


寸評
映画史に名を留めるロジェ・ヴァディム、ルイ・マル、フェデリコ・フェリーニという3名の監督によるオムニバス作品で、出演者もジェーン・フォンダ、ピーター・フォンダの姉弟、アラン・ドロン、ブリジット・バルドー、テレンス・スタンプとなかなかのメンバーを集めている。
監督の共演であると同時に競演でもあり、それぞれの監督の腕の見せ所が問われていると思うのだが、断然第3話を担当したフェリーニ作品が飛びぬけていると思う。

ヴァディムの「黒馬の哭く館」は、この時結婚していたジェーン・フォンダを撮りまくったといった内容で、男の魂が黒い馬に乗り移って、気高い貴族の令嬢を死に誘うというストーリーの怪奇性が感じられない。
燃え落ちた刺?の馬を補修していくことと、死に向かって突き進む令嬢の姿がリンクしていくはずなのだが、そんな感じはせず目に付くのはセクシーぽく見せるジェーン・フォンダのコスチュームだ。
何とか魅力的に見せようと、夫であるロジェ・ヴァディムが労力を注いだ作品と言う気がする。

ある時期、いい男の代名詞と言えばアラン・ドロンだった。
ブリジット・バルドーはBB(べべ)と呼ばれ、演技派ではなくセックスシンボル的な女優として名をはせていたように思うが、マリリン・モンローのような伝説は残せなかった。
しかし間違いなく一時期においては日本で最も著名なフランス人女優であったことは間違いない。
ルイ・マルの「影を殺した男」では、その二人が共演を果たしている。
ウィリアム・ウィルソンは幼少の時から高慢な男だったが、しかし彼はずっと同じ名のウィリアム・ウィルソンの存在に悩まされ続けている。
別人のウィリアム・ウィルソンは、高慢さを諫める分身の様でもある。
彼はその分身と対峙し分身を刺し殺すが、しかしそれは同時に自分を殺すことでもあった。

目を釘付けにするのは第三話の「悪魔の首飾り」だ。
狂気的であり退廃的でもある俳優が、フェラーリに目がくらみローマにやってくる。
テレンス・スタンプのメイクが狂気じみていて、アルコール中毒にかかり錯乱している男を見事に表現している。
ローマの街も退廃的ムードを出し、映画賞の授賞式らしき催し会場も異様な退廃ムードの中で行われている。
スモークがたかれた映像はまさに狂気の世界で、それを増幅させるように死神の様な少女が登場する。
男はフェラーリをモヤを切り裂いて疾走させ、行き止まりの道を引き返したりしているうちに道に迷ってしまう。
やがて進入禁止の柵を弾き飛ばし入ったところで、この先には橋がないから引き返せと言われるのだが、崩れ落ちた橋の向こうに少女が現れる。
オープンカーのフェラーリをバックさせ、フルスピードで引き込まれるように少女に突っ込んでいく。
張られたロープで首を切断されてしまい、そこに少女の持つ白いボールが転がってくる幻想的なシーンが続く。
3話とも何かを訴えるような作品ではなく、アラン・ポーが描く怪奇現象を映像化しただけのものなのだろうが、怪奇と言う雰囲気をもっとも表現できていたのがフェリーニ編だった。
この作品だけだったらもっと評価が高かったような気もするが、しかしこれを2時間も見せられればウンザリするのではないかとも思う。

欲望という名の電車

2020-06-24 08:02:57 | 映画
「欲望という名の電車」 1951年 アメリカ


監督 エリア・カザン
出演 ヴィヴィアン・リー
   マーロン・ブランド
   キム・ハンター
   カール・マルデン
   ルディ・ボンド
   ニック・デニス

ストーリー
父の死と共に南部の家を失ったブランチはアルコールに身を持ち崩して、妹ステラが結婚しているニューオリンズのフランス街の家を訪れた。
妹の夫スタンリーは暴力的な男で、カードと酒に狂ってはステラを打つのであったが、彼女はこの男に全身を捧げて悔いなかった。
そのような妹夫婦の日常を見るにつけ、ブランチはスタンリーのカード仲間ミッチに次第に関心を持つようになったが、彼は母と2人暮らしの純情な独身者で、真面目にブランチとの結婚を考えはじめ、彼女も彼に、年若の夫を失った暗い過去を打ち明けて、将来への希望を語った。
しかしスタンリーは街の仲間から、ブランチが実は大変な女で、17歳の少年をくわえ込んだというので故郷を追われてきたのだということを聞き出して、ミッチにぶちまけた。
ブランチの誕生日に、むろんミッチは出て来ず、しかもスタンリーは彼女に贈り物として故郷へ帰る片道切符を渡した。
その夜ステラが俄かに産気づき、スタンリーと病院に出かけたあと、ブランチは訪ねてきたミッチに結婚を迫ったが、彼はもはやその言葉に動かされはしなかった。
夜更けて帰ってきたスタンリーはブランチが1人妄想に酔っているのを見ると暴力でこれを犯した。
完全に発狂したブランチは、紳士が自分を迎えに来たという幻想を抱いて、精神病院へ送られていった。


寸評
ヴィヴィアン・リー と言えば何と言っても1939年の「風と共に去りぬ」のスカレーット・オハラである。
その後結核で倒れた時期もあったが、干支が一回りして演じた役は美しく凛としたスカーレットとは似ても似つかぬ落ちぶれたもう若くはない女で、これがあのヴィヴィアン・リー かと思わせる演技がスゴイ。
ブランチはアル中で、もう若くはなく年齢を偽りその容姿を明るいところでは晒さない夜の女である。
手放した南部の家に育ったブランチは相応の教養を身に着けていたようだが、貧しさからか娼婦に身を落としていたというから文字通り夜の女として生活していたということになる。
彼女の身についてしまった習性が、若い新聞の集金人に対する態度で示される。
最初は財産をなくし行き場のなくなった姉が仕方なく妹のアパートに転がり込んだという感じだったが、やがてブランチの妄想的な言動が顕著になっていき、観客はブランチに対して懐疑的な視線を向けるようになる。
やたらと喋り捲ることで微妙に変調していく姿を上手い具合に表現しているが、その容姿はとてもあのスカーレットを演じた女優とは思えず、むしろ醜いものを感じさせる。
それを感じさせるところがすごいと思う。

一方でブランチを嫌って辛く当たるのがステラの夫スタンリーのマーロン・ブランドなのだが、狭いアパートに半年近くも居つかれてはスタンリーでなくてもうんざりしてくると言うものだ。
姉に居つかれたステラは気まずい思いをしていなかったのだろうか。
スタンリーは賭け事のポーカーゲームを仲間としょっちゅう興じている遊び人だが、工員としての仕事はこなしていて、彼ら夫婦は上の住人と同様にケンカをしても何とか仲良く暮らしていたと思われる。
それがブランチの同居で徐々に崩れだすという側面も加味され、彼等の中で悲劇が徐々に浸透していく。
劇的変化を起こさずに家族崩壊を描き続けるカザンの演出も中々のものだ。

冒頭でステラの元を訪ねるブランチが道順を聞く。
その道順が、「欲望という名の電車に乗って、墓場と言う電車に乗り換え、6つ目の角の極楽で降りる」というもので、僕は当初これはブランチの皮肉を効かせた冗談かと思っていたら、本当に欲望と名のついた電車が来た。
ブランチは死の反対にあるのが欲望だという。
生きるということは、ブランチにとって欲望を持ち続けることで、彼女が話す作り話と妄想はその欲望の具現化だ。
おそらくブランチは生きるための欲望をもって娼婦に身を落とし、墓場ともいえる生活を余儀なくされたので、極楽を求めてステラを訪ねてきたのだろう。
彼女が向かった精神病院は彼女にとって極楽を感じさせる場所となっただろうか。
彼女が訪ねるニューオリンズの妹の浅ましい夫は、救いを求めて彷徨する魂に手痛いしっぺ返しを喰らわす。
ブランチの気位の高さに魅かれていた男ミッチも彼女の真実を知り受け入れを拒否する。
ラストで義弟に屈してしまうブランチだが、狂気の他に彼女の逃げ場所はないのだ。
姉を見捨てることが出来ず、結局悲劇の一因になってしまうステラのこの後も明るいものではない。
ヴィヴィアン・リーの熱演が見どころになっているが、どうも憂鬱になってしまう内容で、この戯曲自体が僕の好む内容ではない。
とは言え、「欲望という名の電車」は「風と共に去りぬ」と共にヴィヴィアン・リーの名を映画史に刻んだ。

夜霧の恋人たち

2020-06-23 09:06:46 | 映画
「夜霧の恋人たち」 1968年 フランス


監督 フランソワ・トリュフォー
出演 ジャン=ピエール・レオ
   デルフィーヌ・セイリグ
   ミシェル・ロンダール
   クロード・ジャド
   ダニエル・チェカルディ

ストーリー
陸軍を除隊になったアントワーヌ(J・P・レオ)は、その足で昔のガール・フレンドのクリスティーヌ(C・ジャド)を訪ねたが、彼女はスキーに行っていなかった。
アントワーヌはホテルの夜警の仕事をみつけたが、アンリ(アリ・マックス)という私立探偵とその依頼人を、密通中の部屋に通したことからクビになってしまった。
アンリの紹介でアントワーヌは私立探偵になることにし、訓練が終るとアントワーヌに大きな仕事が与えられた。
大きな靴店をやっているタバール(ミシェル・ロンスダール)氏はすべての人にきらわれているという妄念に悩まされており、その調査をアントワーヌがやることになったのだ。
アントワーヌは倉庫の係員として、靴店に入りこみ、店員たちが主人をきらっている理由を調べた。
万事うまく運んだが、タバール夫人(D・セーリグ)との出会がすべてをダメにした。
彼女の美しさにアントワーヌがまいってしまい、恋に陥ってしまった。
その自分が恥ずかしく、アントワーヌは店をやめて夫人に別れの手紙をかいた。
翌朝早く、夫人がアントワーヌを訪ねて来て、二人は最初でそして最後の抱擁をかわした。
数日後、アンリが心臓マヒで死んだ。
アントワーヌは私立探偵をやめた。
次に彼は修理人になった。
そんな彼を家によぶため、クリスティーヌはわざとテレビを壊し、修理店に電話した。
やって来たアントワーヌとクリスティーヌは、大きなベッドの中に消えた。


寸評
アントワーヌが娼婦を買いに行くシーンが二回登場する。
一度目は除隊後すぐの行動だ。
ここでアントワーヌは相手の女性の態度が気に入らなくて出ていこうとするが、たった今客を送り出したばかりの女性と戻ってくる。
何気ない演出だが、アントワーヌは誰でもよいというわけではないのだ。
その後に恋人であるはずのクリスティーヌを訪ねているから、二人の関係はベッタリというものではなく、友達なのか恋人なのかよくわからない関係に見える。
二度目は探偵社のアンリが突然死した後である。
探偵社の同僚がアントワーヌに、祖父の葬式のあとに従妹と泣きながらセックスをしたという話をする。
そして 「セックスは死の代償だ。生きるための営みだよ」と語っている。
これはアンリの急死の伏線にもなっていて、アントワーヌはアンリの葬儀のあと、そのまま娼婦を買いに行く。
墓地を俯瞰するカメラがパンしてそばの道路に立つ娼婦と近づくドワネルを捉えるシーンは、悲しく美しい。

アントワーヌがアンリに誘われて探偵社に入る場面では、窓越しにアンリがアントワーヌに語り掛けている姿だけが見え、会話の内容は聞こえない。
アントワーヌが娼婦を買いに行ったシーンの後で、アントワーヌは探偵社の同僚と接触事故を起こし、テレビの修理会社に転職していることが分かる。
このように直接的な場面を省略して観客に想像させる演出方法は随所にみられたが、その最たる場面がアントワーヌとクリスティーヌが朝食をとるシーンである。
二人は会話のやり取りを紙に書いて行うのだが、書いている内容は分からない。
何度かやり取りを繰り返した後、アントワーヌはクリスティーヌの指に栓抜きをはめる。
観客はプロポーズの言葉が書かれていたのだろうと推測するといった具合である。
あっち飛び、こっち飛びしている印象のある作品だが、時に思わせぶりであり、時に機知に富み、時にユーモアを感じさせる作品でもある。

アントワーヌがタバール夫人にマドモアゼルと言うところをムッシュと言ってしまい、恥ずかしくなって店を飛び出すのだが、タバール夫人は「男性が浴室に入ると女性が入っていた。その時、失礼、マドモアゼルというのは礼儀だが、失礼、ムッシュと言うのは機智だ」という。
そして特別な関係の説明をし、再び会わないことを告げ、ベッドインの場面はない。
ここでも観客の想像に任せているが、なかなか洒落た場面だった。

最後にクリスティーヌに付きまとっていたストーカーが二人の前に現れ、クリスティーヌに対する一途な愛を告白するが、クリスティーヌは無視して二人は去っていく。
男は、タバール夫人にも心を動かしたアントワーヌとの比較対象者でもある。
色々あるのが男女の仲であり、二人はどこにでもいる男と女として街中へと姿を消していくエンディングはいい。
流れるシャンソンがフランス映画の雰囲気を倍増させていた。

善き人のためのソナタ

2020-06-22 07:54:16 | 映画
「善き人のためのソナタ」 2006年 ドイツ


監督 フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
出演 ウルリッヒ・ミューエ
   マルティナ・ゲデック
   ゼバスチャン・コッホ
   ウルトリッヒ・トゥクール
   トーマス・ティーメ
   ハンス=ウーヴェ・バウアー

ストーリー
1984年11月の東ベルリン、DDR(東ドイツ国家)は国民の統制と監視のシステムを強化しようとしていた。
劇作家ドライマンの舞台初日、上演後のパーティーで国家保安省(シュタージ)のヘムプフ大臣は、主演女優でドライマンの恋人でもある魅力的なクリスタから目が離せなくなる。
党に忠実なヴィースラー大尉はドライマンとクリスタの監視および反体制的であることの証拠をつかむようヘムブフから命じられる。
早速ヴィースラーは彼らのアパートに向かい、屋根裏に監視室を作り盗聴を始め、詳細に記した日々の報告書を書き続けた。
既にクリスタと関係を持っていたヘムプフ大臣は「君のためだ」と脅し関係を続けるよう迫っていた。
その一方で、ヴィースラーは毎日の監視を終えて自分の生活に戻る度に混乱していく自分を感じていた。
そんな中、ドライマンは、DDRが公表しない、東ドイツの高い自殺率のことを西ドイツのメディアに報道させようと雑誌の記者に連絡を取った。
シュタージはドライマンのアパートを家宅捜査するが、何も見つけることはできなかった。
クリスタに約束を破られた大臣は、薬物の不正購入を理由に彼女を逮捕させ、刑務所へ連行する。
そこではヴィースラーが担当官として尋問にあたることになり、クリスタは・・・。


寸評
ベルリンの壁崩壊を背景にした作品として、東ベルリン市民の戸惑いを描いた「グッバイ・レーニン」という秀作が有ったが、本作品は体制側の非道が崩壊していく様を描いている。
人間らしく生きるという当たり前のことが禁止されていた時代を持った国は不幸だと思わされる。

ヴィースラーもクリスタも変心するのだが、その変心のプロセスにもう少し盛り上がりがあればもっと良かったのにと思う。
ヴィースラーはドライマンが弾く「善き人のためのソナタ」を、”これを聞いた人は悪人にはなれない”との言葉と共に聞いて変心していく。
それはシュタージ局員のヴィースラーが、少年の言動からシュタージ批判をしていると思われる少年の父親を突き止めないことで描かれている。
本来なら逮捕に向かうはずなのに、問い詰めないで見逃すことを見て、我々はヴィースラーの心の変化を読み取る構成になっていた。
僕としては、随分とあっけない描き方だなあと思ったのだが、描きたかったのはどうもそんな事ではなかったのかも知れない。
実はクリスタも役者としての心底を突かれて、これまた簡単に変心してしまっているのだ。
映画的な盛り上がりから言えば、この二つのシーンはもっとスリリングに描かれても良かった筈なのだ。
そう思うとこの映画は、あくまでも社会主義国家だった東ドイツの国家保安省”シュタージ”がいかに非道なことをやっていたのかの告発に主眼を置いていたのだと感じてしまう。
その事は国家保安省の大臣(トマス・ティーマ)がクリスタに興味を持ち、権力を利用して彼女を犯すことなどによって強調されている。

ベルリンの壁崩壊後、善き人のためのソナタと言う楽曲が、ドライマンによって同名の書物となって発刊され、それを手にするヴィースラーの姿で終るのは、善き人はどの世界にでもいるのだと知らされて感動した。
このシーンを見るだけでも、この映画を見る価値があると思う。
もちろん報告書に記された署名 HCW XX/7 に付いていた赤い指紋の伏線が張られていたことは言うまでもない。
ハゲで地味なおやじがトンデモナイ仕事をやっている。
トンデモナイ仕事も、仕事の中身の割には極めて地味な仕事である。
そんな地味なおやじが主人公で、地味な盗聴活動が物語なのに、見終われば涼やかな感動をもたらす。
ベルリンの壁崩壊後、作家を守り通した主人公に出世とは無縁の孤独な人生を与えつつ、粋な贈り物を用意。
主人公は自分を守ってくれた人間の存在を知り、直接お礼を言う代わりに、ある方法で感謝を伝える。
この感動は薫風の清々しさのようでもあり、一遍の詩に出会ったような感動があった。

そして、国家に”シュタージ”のような組織があると、個人なんて本当にどうにでも抹殺できてしまうし、国家権力がそんなことをやりだしたら本当に怖いものだとの実感を持った。

用心棒

2020-06-21 07:31:05 | 映画
「用心棒」 1961年 日本


監督 黒澤明
出演 三船敏郎 仲代達矢 東野英治郎
   河津清三郎 山田五十鈴 太刀川寛
   清水元 天本英世 藤田進
   山茶花究 加東大介 羅生門綱五郎
   藤原釜足 志村喬 渡辺篤 西村晃
   土屋嘉男 司葉子 ジェリー藤尾 

ストーリー
馬目の宿は縄張りの跡目相続をめぐって一つの宿湯に二人の親分が対立、互いに用心棒、兇状特をかき集めてにらみ合っていた。
そこへ桑畑三十郎という得体の知れない浪人者がふらりとやって来た。
一方の親分馬目の清兵衛のところにやって来た三十郎は用心棒に俺を買わないかと持ちかけて、もう一方の親分丑寅の子分五、六人をあっという間に斬り捨ててしまった。
清兵衛は五十両で三十郎を傭った。
しかし女房のおりんは強つくばりで、半金だけ渡して後で三十郎を殺せと清兵衛をけしかけた。
これを知った三十郎はあっさり清兵衛の用心棒を断わり、居酒屋の権爺の店に居据った。
両方から、高い値で傭いにくるのを待つつもりだ。
名主の多左衛門は清兵衛に肩入れ、造酒屋の徳右衛門は丑寅について次の名主を狙っていた。
そんなところへ、短銃を持っており腕も相当な丑寅の弟・卯之助が帰って来た。
あることがきっかけで三十郎は捕えられて土蔵に放りこまれ地獄の責苦を受ける。
三十郎はかんぬきをだまして墓地に逃れた。
やがて丑寅と清兵衛の大喧嘩が始まり決着がつくと、三十郎と卯之助の最後の対決が待っていた・・・。


寸評
文句なく存分に楽しめる痛快娯楽時代劇。
しかし、雰囲気はまるで西部劇で、仲代達矢の卯之助などは首にマフラーを巻き、拳銃片手に登場してくる。
素浪人が宿場町に入ると犬が手首をくわえて走ってきてアップテンポな曲がかぶさる。ちょっとドキリとさせる出だしなどは西部劇もどきだし、途中でヤクザの切り落とされた片腕がゴロンと転がるなどの残酷描写も様式美を誇ってきた従来の時代劇とは様相が違う。仲代達也の最後なども、どこか時代劇離れしている。

東野英治郎の居酒屋のおやじによって、宿場が二人の親分により荒らされることになった経緯が要領よく語られ、争いごとの背景が理解でき、闘争が取って付けたようなものになっていないのがいい。
さらに絹問屋と造酒屋という名主を狙う二人の資本力がからむことで、縄張り争いの奥行を持たせていたのは黒澤、菊島隆三による脚本の力だと思う。
脚本の良さは、敵対する清兵衛と丑寅の両者が意気地がないことで、小さな宿場なのににらみ合いを続けているだけだという状況を不思議と思わせないようにしていることにも発揮されていた。

三船が痛めつけられた後の、苦しみにもだえているところなど、やけにリアリティな所ががあるかと思えば、藤原鎌足演じる棺桶屋の存在や、仲代のそのようなファッションなどお遊びも随所に感じられる。
清兵衛に雇われた本間先生と呼ばれている用心棒が、自分の値打ちが随分低いことにむくれたかと思えば、出入りの前に危険を察知して逃げ出すなどの滑稽場面も用意されていて娯楽性たっぷりだ。
何よりも、この映画を痛快にしているのは、およそ時代劇とは思えない佐藤勝さんの音楽だ。
テーマ曲に乗って三船の素浪人が登場しクレジットタイトルが表示されるオープニングから軽快に流れ続ける。
やっぱり、映画は総合芸術なんだと実感させられる。

宮川一夫のカメラは決まっている。
絵になる構図から映画らしいショットを度々映し出し、セットの立派さと相まって流石と思わせた。
宿場の通りの両端にお互いの助っ人連中がずらりと並んだショットなどはほれぼれする。
桑畑三十郎が火の見櫓に上がって、眼下で繰り広げられる喧嘩を見るシーンなどもいいショットだ。
パンフォーカス的な、手前の人物に焦点を当てながらも遠くの様子を映し出すカメラワークは度々登場し、上記の俯瞰シーンや、八州役人が接待されるシーンなどで使われていて、遠くで起きていることを面白おかしく伝える効果を生み出していたと思う。
火の見櫓の下では意気地のない喧嘩が行われ、掛け声だけで刀を突き出すだけの様子がおかしい。
役人の接待場面では、権力者である彼等が、更なる権力者の前では無力である滑稽さを描いていたと思う。
清兵衛と丑寅の両者がずらりと並んでにらみ合うシーンは何回か登場するが、同じようなアングルで最後の場面を1対10にしているのも憎い演出だ。

丑寅の用心棒かんぬきという役をやっているのは羅生門綱五郎という人で、角界から日本プロレス入りして巨人レスラーとして知られていたらしいのだが、僕はてっきりジャイアント馬場かと思った。
風貌も似ている為、ジャイアント馬場と思われている他の映画のほとんどが羅生門綱五郎らしい。

八日目の蝉

2020-06-20 10:30:28 | 映画
「八日目の蝉」 2011年 日本


監督 成島出
出演 井上真央 永作博美 小池栄子
   森口瑤子 田中哲司 市川実和子
   平田満 劇団ひとり 余貴美子
   田中泯 風吹ジュン 渡邉このみ

ストーリー
生まれてすぐに誘拐され、犯人の野々宮希和子によって4歳になるまで育てられた秋山恵理菜。
両親のもとには戻ったものの、もはや普通の家庭を築くことは出来なくなっていた。
やがて21歳となった彼女は誰にも心を許せず、両親とわだかまりを抱いたまま大学生になったが、ある日、妻子ある男の子供を身ごもってしまう。。
恵理菜は幼い頃一緒にいた女友達に励まされ、自分の過去と向き合うために、かつて母と慕った人との逃亡生活を辿る──。
会社の上司との不倫で妊娠し、中絶手術の後遺症で二度と子供を産めない体となったOL、野々宮希和子は母となることが叶わない絶望の中にいる。
相手の男はいずれ妻と別れると言いながら、その妻はいつの間にか子供を産んでいた。
自らにケリをつけるべく、「赤ちゃんを一目見たい、見たらけじめがつけられる…」と夫婦の留守宅に忍び込んだ希和子。
ふと我に返ると、赤ん坊を抱えたまま家から飛び出していた。
赤ん坊を薫と名づけた希和子は、そのまま逃亡生活の中で薫を育てていくことに。
刹那的な逃亡を繰り返し、絶望と幸福感の中で疑似親子となった二人。
一時身を寄せた奇妙な集団生活施設“エンジェルホーム”にも危険が迫り、追いつめられた末に流れ着いた小豆島で束の間の安寧を手に入れた希和子と薫だったが…。


寸評
女優陣の演技がみんな凄い。
母性を見事に表現した永作博美、狂気を感じさせた実母役の森口瑤子、相変わらず存在感のある小池栄子などだが、僕が驚いたのは井上真央だ。
テレビなどの印象では単なるカワイ子ちゃん俳優だと思っていたが、あにはからんや奥行きの深い演技を見せて、この子はすごい性格俳優だったんだと、思いを新たにさせられた。
どの女優も女の性とか女ゆえの執念とか、女としての生き物としての情念が怖いくらい滲み出していた。
子供たちは赤ちゃんを含めて皆よくて、子供には勝てないなという表情を見せていた。
エンジェルホームのマロンちゃんの別れの表情にもらい泣きしてしまった。
薫(渡邉このみ)はその表情といい、台詞回しといい、この映画を支える重要な役割を十分すぎるくらい果たしていたと思う。
セミは地上に出て7日で死んでしまうと言われている。
8日目まで生きたセミは、仲間が全て死んでしまって、淋しさのあまり残った自分を不幸だと思うのか、あるいは仲間のセミが見れなかった物を見ることができた幸せを感じるのだろうか。
もちろん映画はポジティブでなければならないから後者の方で、写真館のエピソードを絡めながら最後に希和子と実の母親秋山恵津子の呪縛から解き放たれ、ウソ偽りのない心情を吐き出すのは感動的だった。

オープニングはいきなり誘拐事件の裁判シーンで、それも被害者である恵理菜の実母と、加害者である希和子の証言を顔のアップだけで見せる印象的な導入部となっていて、それからは現在の恵理菜の行動とかつての希和子の逃亡生活が描かれるのだが、これが上手い構成で切り替わっていく。
特に恵理菜が希和子と同じように不倫相手の子供を宿していることが物語を膨らませ、さらに同じような心の傷を持つジャーナリストの安藤千草を絡ませて、現在部分のドラマ性を盛り上げている。
逃亡生活の最初は「エンゼルホーム」という怪しげな団体の施設での奇妙な共同生活だが、何と言っても秀逸なのは小豆島でのシーンだ。
この映画では、誘拐犯である希和子の子供への愛を存分に描き、実の母親を不安定で怒りっぽい人物に描いているが、その愛情表現が最も現れているのが小豆島の生活場面だ。
希和子と薫との触れあい、薫と島の子供たちとの触れあいを描きながら、うどん作りや村歌舞伎などを織り込み、段々畑の虫追いの儀式へと導いていく。
夏の夕暮れに、段々畑の中を竹に灯した松明を持って沢山の人が歩いていく美しいシーンだ。
地方の風景を美しく情緒的に描いて、自分が一番幸せだった時代を懐古し、恵理菜に「この島に戻りたかった・・・」と思わせる心の故郷の象徴的シーンとなっている。

観る者は、実の母親にはあまり共感できずに、むしろ誘拐犯に感情移入するように作られている。
誘拐犯とずっと一緒に暮らした方がよかったのではないかと思わせる作りになっている。
これは実母にとっては酷な描き方で、糾弾されるべきはやはり誘拐犯であり、その原因を作った男であるはずなので、その視点からの作品も見てみたい題材だと思った。
いづれにしても、見終わって感じたのは「狂おしいほどの母性!」だった。

醉いどれ天使

2020-06-19 08:08:40 | 映画
いよいよ「よ」です。


「醉いどれ天使」 1948年 日本


監督 黒澤明
出演 志村喬 三船敏郎 山本礼三郎
   中北千枝子 木暮実千代
   千石規子 飯田蝶子 進藤英太郎
   殿山泰司 堺左千夫 久我美子
   笠置シヅ子 清水将夫 城木すみれ

ストーリー
駅前のヤミ市附近のゴミ捨場になっている湿地にある小さな沼、暑さに眠られぬ人々がうろついていた。
これら界わいの者を患者にもつ「眞田病院」の赤電燈がくもの巣だらけで浮き上っている。
眞田病院長(志村喬 )はノンベエで近所でも評判のお世辞っけのない男である。
眞田はヤミ市の顔役松永(三船敏郎)が傷の手当をうけたことをきっかけに、肺病についての注意を与えた。
血気にはやる松永は始めこそとり合わなかったが、酒と女の不規則な生活に次第に体力の衰えを感ずる。
松永は無茶な面構えでそっくり返ってこそいるが、胸の中は風が吹きぬけるようなうつろな寂しさがあった。
しめ殺し切れぬ理性が時々うずく、まだシンからの悪になってはいなかったのだ。
「何故素直になれないんだ病気を怖がらないのが勇気だと思ってやがる。おれにいわせりゃ、お前程の臆病者は世の中にいないぞ」と眞田のいった言葉が松永にはグッとこたえた。
やがて松永の発病により情婦の奈々江(木暮実千代)は、カンゴク帰りの岡田(山本礼三郎)とけったくして松永を追い出してしまったため、眞田病院のやっ介をうけることになった。
松永に代って岡田勢力が優勢になり、もはや松永をかえりみるものもなくなったのである。
いいようのない寂しさにおそわれた松永が一番愛するやくざの仁義の世界も、すべて親分の御都合主義だったのを悟ったとき、松永は進むべき道を失っていた。
ドスをぬいて奈々江のアパートに岡田を襲った松永は、かえって己の死期を早める結果になってしまった。
ある雪どけの朝、かねてより松永に想いをよせていた飲屋ひさごのぎん(千石規子)が親分でさえかまいつけぬ松永のお骨を、大事に抱えて旅たつ姿がみられた。


寸評
「醉いどれ天使」の題名が示すように主人公は志村喬の医者であるが、圧倒的な存在感を示しているのはヤクザの松永を演じた三船敏郎である。
三船はこの役で世に出たといっても過言ではない。
暴力否定のテーマがはっきりと打ち出されているのに、三船の野性味あふれる強烈な存在感は半ばそれを吹き飛ばして、逆に暴力とニヒリズムの魅力をスクリーンいっぱいに発散させている。
時代は終戦後まもない時期で、日本がこれから復興していこうとしている時期である。
明日への希望を託したのが、三船の松永と対照的に同じ結核に罹りながらも眞田の言い付けを守り着実に治癒していく女学生(久我美子)だ。
混沌とした社会の中に秩序が回復していくことを願っていたのだと思う。
ラストシーンで、ドヤ街の雑踏の中に眞田医師と腕を組んで消えていく女学生の姿がそれを象徴していた。

闇市のオープンセットはなかなか立派(?)なもので、水たまりからメタンガスが吹き出す細かい描写もある。
このセットから生み出される戦後の混乱と貧しい社会の様子も映画に雰囲気をもたらしている。
劇中で笠置シヅ子演じる歌手が歌う「ジャングル・ブギー」は、監督・黒澤明が作詞し服部良一が作曲したものだが、当時の笠置のエネルギッシュな芸風がうかがわれ、芸能史の一面を垣間見ることができる。

三船の松永は根っからの悪人ではない。
病気を怖れる普通の人間がもっている気持ちがあることを眞田医師にも語らせている。
彼はこの街を取り仕切るヤクザの顔役で、街ゆく人も彼を避けて通るし、商店の人は彼に頭を下げることを常としている。
しかし、出獄して来た兄貴分の岡田(山本礼三郎)が現れるとその地位が低下していく。
縄張りも岡田にとられそうだし、情婦の奈々江(木暮実千代)も岡田に乗り換えそうだ。
キャバレーの女たちも松永は落ち目だと噂する。
この主客転倒する様子がヤクザ社会の上下関係による確執を表していて面白い。
ただ、松永と岡田がバクチで大金を張り合って競うのは、同じ組の者同士のやりとりなのだから少し不自然に思ったのだがなあ・・・。

志村喬は後年の「生きる」に繋がる演技だし、松永と岡田の対決シーンの光の使い方なども後年の「羅生門」に繋がる演出だったように思う。
モノクロ映画なので、松永と岡田が対決するアパートの場面では白いペンキが効果的に使われていた。
お互いにハアハアと息を上げていき殺し合うのだが、転がりながら逃げ惑う度に白いペンキにまみれていく。
二人とも無様な格好で、その描き方にも暴力否定の感情が込められていたと思う。
三船のメイクはオーバーだが、ギョロリとむいた目とは不思議とマッチしていて、この男のニヒル感を盛り上げていた。
山本礼三郎の岡田はギターを奏でるおかしなキャラクターだったが、こちらも三船に負けず目ん玉をギョロリとさせて、目の玉共演を競い合っていて印象に残る。

湯を沸かすほどの熱い愛

2020-06-18 08:26:20 | 映画
「湯を沸かすほどの熱い愛」 2016年 日本


監督 中野量太
出演 宮沢りえ 杉咲花 篠原ゆき子
   駿河太郎 伊東蒼 松坂桃李
   オダギリ ジョー

ストーリー
夫の一浩(オダギリジョー)とともに銭湯を営んでいた双葉(宮沢りえ)は、他ならぬ夫の失踪とともにそれを休み、パン屋店員のバイトで娘の安澄(杉咲花)を支えていた。
ある日職場で倒れた彼女が病院で検査を受けると、伝えられたのは末期ガンとの診断であった。
2~3カ月の余命しか自分に残されてはいないと知り落ち込む双葉だったが、すぐに残されたやるべき仕事の多さを悟り立ち上がる。
まずいじめに悩み不登校寸前に陥った安澄を立ち直らせ、級友たちに言うべきことを言えるようにさせること。
そして行方不明の一浩を連れ戻し、銭湯を再度開店するとともに家庭を立て直すこと。
双葉は持ち前のタフさと深い愛情で次々と仕事をこなし、一浩とともに彼が愛人から押し付けられた連れ子の鮎子(伊東蒼)をも引き取って立派に家庭を立て直した。
その上で、彼女は夫に留守番をさせて娘たちと旅に出る。
彼女の狙いは、腹を痛めて得た娘ではない安澄を実母に会わせることだった。
道すがら出会ったヒッチハイク青年拓海(松坂桃李)の生き方をも諭し、義務を果たそうとした双葉だったが、やがて力尽きて倒れる。
だが、彼女の深い思いは家族たちを支え、そして拓海や、安澄の実母・君江(篠原ゆき子)、夫の調査に当たった子連れの探偵・滝本(駿河太郎)の心にも救済をもたらすのだった。
静かに眠りについた彼女に導かれるように、新たな繋がりを得て銭湯で行動しはじめる人々。
彼らを見守る双葉の心が、煙となって店の煙突から立ち上った。


寸評
典型的な難病もので、典型的な母もの作品だが、意表を突いた展開とストーリーが観客を引き付ける。
難病物の割には作品自体が重くなく暗くない。
それは双葉の宮沢りえが末期癌を宣告され落ち込むが、すぐに立ち直り明るく元気に振舞い、最後に自分がしなければならないことに邁進していくからである。
その姿は自然体で悲壮感がないので、見ている僕たちは救われた気持ちになる。
伏線を張りながら、あるいは結論を次のシーンに持ち越すような描き方でストーリーが進行していく。

蒸発していたオダギリジョーが帰ってくるが、その時にしゃぶしゃぶで迎えるエピソードが軽妙なタッチで描かれていて、この作品の雰囲気と双葉の性格を表していた。
娘の安澄は学校でイジメにあっているのだが、母親の双葉は「逃げないで現実に向き合え」と叱咤する。
現在の風潮としては、イジメにあっている子供が学校に行きたくないと言えば休ませたほうが良いとされているが、双葉はそうではない。
安澄はイジメを克服するが、克服する場面を感動的に描きながら、その前に父親が朝ご飯を食べて行かなかった安澄に牛乳を届けるシーンが挿入されていて、脚本が細かい点にも心を割いていることがわかる。

この家に鮎子という女の子がしかたなく同居することになるが、実は双葉、安澄、鮎子にはある共通点がある。
この共通点が終盤になって明らかになっていくのだが、この展開はアッと驚かされる。
映画を見慣れた者にはある程度の予測は付くとは言うものの、この展開は予想以上だ。
双葉はこれが最後と安澄と鮎子を伴って車での旅行に出かける。
出発前にすべてを話すと一浩に告げているので、いつ自分の病気を話すのかと思っていたらそうではなく、安澄は別の出来事で母の病気を知ることになる。
この一連をくどくど描いていないので深刻にならない場面ながら、胸に迫ってくるシーンとなっている。
鮎子が母の「誕生日に迎えに来る」という言葉を信じて、元の家で待っているシーンも涙を誘う。
鮎子は番台の金を盗むが、それは交通費を得るためだったということも鮎子の行動によって判明する。
双葉が安澄と同様に鮎子に注ぐ愛情が感じ取れる描き方も心を打つ。
双葉が抱きしめるのは彼女の愛情が抱きしめさせているのだ。
双葉は安澄も鮎子も抱きしめ、そして旅の青年拓海も抱きしめる。
彼等は双葉の抱擁にあって彼女の愛を感じるのである。

明るいシーンと、そうでないシーンがバランスよく散りばめられている。
一浩は調子のよい男で、結婚前には双葉をエジプトに連れていくと言っていたようなのだが、そのエピソードも感動をもたらす。
それに関するシーンは3度登場するが徐々に盛り上げていく展開で、最後のシーンは感動的だ。
そこで宮沢りえが発する「生きたいよお・・・」のつぶやきには涙せずにはいられない。
ラストシーンはファンタジーで、現実的ではないがここでタイトルが出る演出も納得させられる。
病床の姿を演じるために減量した宮沢りえにすごさを感じた。

ゆれる

2020-06-17 09:17:33 | 映画
「ゆれる」 2006年 日本


監督 西川美和
出演 オダギリジョー 香川照之 伊武雅刀
   新井浩文 真木よう子 木村祐一
   ピエール瀧 田口トモロヲ 蟹江敬三

ストーリー
東京で写真家として成功した早川猛は、母の一周忌で久しぶりに帰郷する。
母の葬儀にも立ち会わず、父・勇とも折り合いの悪い猛だが、温厚な兄の稔はそんな弟を気遣う。
稔は父とガソリンスタンドを経営しており、兄弟の幼なじみの智恵子もそこで働いていた。
智恵子と再会した猛は、その晩に彼女と関係を持った。
翌日、三人は近くにある渓谷へ向かい、智恵子は稔のいないところで猛と一緒に東京へ行くと言い出す。
智恵子の思いを受け止めかね、はぐらかそうとする猛だが、猛を追いかけて智恵子は吊り橋を渡る。
河原の草花にカメラを向けていた猛が顔を上げると、吊り橋の上で稔と智恵子が揉み合っていた。
そして智恵子は渓流へ落下する。
捜査の末に事故死と決着がついたが、ある日、理不尽な客に逆上した稔は暴力をはたらき、連行された警察署で自分が智恵子を突き落としたと告白する。
猛は東京で弁護士をしている伯父・修に弁護を依頼するが、稔はこれまでとは違う一面を見せていく。
稔は、智恵子の死に罪悪感を抱いていたために「自分が殺した」と口走ってしまったと主張。
その態度は裁判官の心証をよくし、公判は稔にとって有利に進む。
しかし、稔が朴訥に語る事件のあらましは猛の記憶とは微妙に違っていた。
後日、証人として証言台に立った猛は、稔が智恵子を突き落としたと証言する。
7年後、スタンドの従業員・洋平が猛の元を訪れ、明日、稔が出所することを伝える。
その晩、昔、父が撮影した8ミリ映写機とテープを見つけた稔は、テープに残された幼い頃の兄と自分を観る。
猛の目に涙があふれる。


寸評
冒頭の法事のシーンで、徳利から酒の雫が稔のズボンにポタポタと垂れるシーンがあって、僕はそのシーンでこの作品に引き込まれた。
稔の立場と性格をワンシーンで表現していたと思う。
走行中のセンターラインとか、船盛りの鯛の刺身の目玉とか、僕の脳裏に残るシーンが度々あったのだけれど、これは撮影の高瀬比呂志さんの功績なのか、西川監督の感性だったのだろうか、兎に角ぼくの感覚とはマッチしたシーンが多かった。

解き明かされないで観客の想像に委ねる構成は意図したものだったのだろう。
もちろん、智恵子の死は事故だったのか殺人だったのかに始まり、稔の腕の傷の原因とか、稔はバスに乗ったのだろうかとか・・・。
「疑いをもって、最後まで疑いつづけるんだ、それがお前だ!」と稔が叫ぶが、それも弟・猛が本当にそうだったのか、はたまた自分自身のことを言っていたのかも曖昧だ。
そのことで、見終わってからも「あれはどういうこと?」「あのシーンはなに?」「あっそうか、あれはきっとこうに違いない」とか、色々と考えさせてくれ、長い余韻となって残る。
あるいは見た人と、そのことを通じて会話が弾む。難解であり過ぎてもそうはならないので、これくらいの適度な表現がよい。
それがまた映画の魅力の一つでもあると思っている。

チョイワルのオダギリジョーもはまり役でいいけれど、兄の稔を演じた香川照之が抜群に良い。
最後まで本心を見せずに、揺れ動き高ぶる気持ちを押さえ、時に激情する屈折した感情を、視線や指先の動き、背中の角度に至るまで演じきっていた。
面会場での二人芝居は迫力があったなあー。
傍聴席に向かって「スミマセンでした」と言って深々と頭を下げるねじれた感情のセリフ回しにドキリとした。
智恵子を演じた真木よう子さんの目力は迫力が有り、将来を感じさせる女優さんだ。

兄弟がいない僕には実感としての感情認識はなかったけれど、稔と猛の兄弟はもちろん、一方の兄弟である父と、弁護士の叔父の精神的感情に、肉親の中にある微妙な精神構造を感じさせてくれた。

西川美和さんは監督としてはもちろんだが、話題の小説やコミックからの映画化が多い昨今にあって、これだけの作品を書き上げる脚本家としても並々ならぬ力量を感じさせてくれた。
処女作を未見で本作を見た僕にとっては次回作が楽しみな監督の登場だと思わせた作品である。
西川美和監督はその後「ディア・ドクター」、「夢売るふたり」と秀作を送り続けて、僕の期待を裏切っていない。

許されざる者

2020-06-16 09:38:00 | 映画
「許されざる者」 2013年 日本


監督 李相日
出演 渡辺謙 柄本明 佐藤浩市
   柳楽優弥 忽那汐里 小池栄子
   國村隼 近藤芳正 滝藤賢一
   小澤征悦 三浦貴大

ストーリー
舞台は明治13年の北海道。
女郎屋で若い女郎なつめ(忽那汐里)が、客・佐之助(小澤征悦)に顔を切られ、佐之助と弟・卯之助(三浦貴大)が捕まった。
村を牛耳る警察署長・大石(佐藤浩市)は、使えなくなった女郎の弁償に馬を持ってこいと話し、二人を解放。
納得がいかないお梶(小池栄子)ら女郎は、二人の首に懸賞金をかける。
一方、開拓が進められている北海道に、かつて人斬り十兵衛との異名を持ち恐れられていた幕府軍残党・釜田十兵衛(渡辺謙)がいた。
十兵衛はアイヌの妻に先立たれ、二人の息子と農家をしていたが、作物は育たず、生活は困窮していた。
そんなとき、かつて共に行動した馬場(柄本明)が訪ねてくる。
馬場は、懸賞金を目当てに二人を始末しようとしていて、十兵衛にも加勢を求めた。
再び人を殺めることをためらう十兵衛だったが、子供たちを食わせるため、馬場と共に村に向かう。
馬場と十兵衛は、アイヌと和人のハーフの青年・五朗(柳楽優弥)に会い、道案内をさせることにした。
三人は村に着き女郎屋に行くと大石がやってきた。
十兵衛が人斬りと知っていた大石は、十兵衛から刀を奪い、暴行を加えて顔に切り傷をつける。
十兵衛はなつめらの看病で一命を取り留める。
十兵衛が回復し、馬場、五郎と共に卯之助を見つける。
馬場が放った鉄砲が卯之助の太股にあたり、女郎の顔を切ったのは兄だと命乞いをする卯之助。
十兵衛が止めを刺したが、殺しにおじけずいた馬場は自分には無理だと去って行ったのだが…。


寸評
リメイク作品となると、どうしてもオリジナルと比べてしまう。
そして評判の良かったオリジナルに比してリメイクは見劣りしてしまう事が多い。
直前にクリント・イーストウッド監督・主演になるオリジナルを再見したこともあって、ついつい比較しながら見ている自分がいた。
それでも本作は成功した部類で、結構力強い作品となっている。
これがオリジナルであったならまた違った印象を持った作品になっていたかもしれないなとも思う。
舞台がアメリカ西部と北海道との違いはあるが、大きな違いはラストの違いと三人の出会いの仕方と、アイヌという人種問題を付加したところかな・・・。
ラストの処理の仕方は、その後の十兵衛や子供たち、五朗と女郎などの行く末を色々想像させた。
旧幕府軍の残党である十兵衛は、政府軍から執拗な追跡を受けることは明白で、そのため子供たちのところへ戻ることはできなかったのだろうと想像する。
十兵衛の行動はオリジナルより本作の方が説得力がある。
自分が日本人であるからか、北海道の自然描写と雪景色の美しさが心にしみて、自然背景はこっちのほうがいいなと思いながら見ていた。
笠松則通のカメラワークは作品への貢献度大である。
そして蝦夷地の先住民であるアイヌを絡ませていることが物語に深みを持たせていたと思う。

オリジナルもそうだが、この話にはスゴイ悪人が出てこないので、元来単純な僕はもう一つのめり込めない作品なのだが、作者の意図もそこにあるのかもしれない。
事件の発端の女郎にしたって、客のナニが小さいと笑うなんて客商売にあるまじき行為だ。
もちろん、それに切れて顔を切り刻むなんて言語道断の行為なのだが…。
主人公たちは時代が幕末の動乱期とはいえ、見境もなく人を殺していたわけで、反面敵対することになる警察署長は必死で治安を守ろうとしているだけのようにも思えるのだ。
三浦貴大演じる卯之助なども、根はいい奴じゃないかとなる。
このあたりが題名の由来なのかも知れない。

十兵衛は人斬りと恐れられた殺戮者から、一度は妻によってまっとうな精神を与えられ、その妻のいなくなった今の生活も苦しいなかで人間として生きている。
しかし、経緯から再び元の世界へと戻っていってしまう。
その苦悩を演じた渡辺謙は、人間の持つ多重性を表現していて好演していたと思うが、無防備に旅籠に現れ何の抵抗もなく半殺しに会うなど、すこし端折った演出に肩透かし感を覚える。
反面、銃を脇役において刀での乱闘を描いた演出は上手いと思った。
バッタ、バッタと斬り倒すのではなく、十兵衛の刀が錆びていることもあるが、突き殺すアクションが多い。
そのことでより迫力が増していたと思う。
前述のように決してオリジナルに引けを取らない作品に仕上がっていると思うが、警察署長(保安官)はジーン・ハックマンの方が貫録が有ったように思う。