おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

俺たちに明日はない

2019-02-28 08:50:04 | 映画
「俺たちに明日はない」 1967年 アメリカ


監督 アーサー・ペン
出演 ウォーレン・ベイティ フェイ・ダナウェイ
   ジーン・ハックマン マイケル・J・ポラード
   エステル・パーソンズ デンヴァー・パイル
   ダブ・テイラー エヴァンス・エヴァンス

ストーリー
世界恐慌下のアメリカのテキサス。
刑務所を出所してきたばかりのクライドが例によって駐車中の車を盗もうとした時、近くの2階から声をあげて邪魔をしたのが、その車の持ち主の娘ボニーだった。
二人はこれがはじめての出会いだったが、クライドはボニーの気の強さに、ボニーはクライドの図太さに、惚れこんでしまった。
二人いっしょならば恐いものなしと彼らは、町から町を渡りながら次々と犯行をくり返していく。
ほどなくガソリンステーションの店員だったC・Wを加え仲間は3人になる。
しかし銀行強盗の最中にC・Wのヘマによりクライドは遂に人を殺すことになる。
クライドの兄バックとその女房のブランチを加え5人となったが、この兄夫婦とボニーはそりが合わなかった。
銀行強盗を更に重ねる一行だが、ボニーとブランチのいさかいも抜き差しならないところまで来ていた。
アイオワに移った一行だが、滞在中のモーテルで保安官たちに囲まれてしまう。
装甲車すら出動した激しい射ち合いの末、バックとブランチは重傷を負ってしまった。
翌朝再び急襲され、傷を負いながらもクライド、ボニー、C・Wは何とか逃げ出したが、バックは死にブランチは逮捕される。
3人は、唯一世間に名前の知られていないC・Wの父親の農場にたどり着き傷を癒した。
復讐に燃えるテキサス警備隊隊長ヘイマーは巧みな話術でブランチからC・Wの名前を聞き出す。


寸評
僕がアーサー・ペンを知ったのは浪人時代に見た「逃亡地帯」だった。
脱獄囚が戻ってくるとの噂に町の住民が集団ヒステリーを起こす姿を描いた作品で、アメリカ映画の凄さを思い知らされた僕にとっては記念碑的作品だった。
そしてこの「俺たちに明日はない」で打ちのめされたような衝撃を受けた。

クライドがリーダーであったにも関わらず原題は「クライドとボニー」ではなく「ボニーとクライド」となっていて、実際ボニー・パーカーを演じるフェイ・ダナウェイが男性的な強い女を見事に再現していてしびれてしまう。
二人はおしゃれな若いカップルでかっこよく、おまけに彼等の犯罪手法は最新式の車を奪い、あっという間に州を越えてしまうというスタイリッシュなものである。
犯罪者の彼等にいつの間にか感情移入してしまっていて、狙っているのが富裕層の象徴である「銀行」であることも共感を呼び起こす。
当初は襲った銀行が倒産していて金を奪えず、その状況をクライドが銀行員からボニーに説明させるというズッコケたもので極悪非道の銀行強盗のイメージがない。
食料調達のために襲った雑貨屋では店員に逆襲され負傷させてしまうが、クライドは「襲う気などなかったのになぜ反撃されるんだ?食料をもらいに行っただけなのに・・・」と身勝手なことを言って幼稚さを見せる。
そんな彼等をバンジョーの軽快な音楽が後押しするので、彼等はむしろヒーロー的な存在になってしまう。
若者の持つ無軌道ながらも毎日を謳歌する姿にあこがれすら抱いてしまう出だしがとてもいい。

若い男女が危険の中に身を置いて行動を共にすればラブシーンが登場しそうなものだが、クライドは性的に不能であるという描き方も変化に富んでいる。
公開当時のアメリカはベトナム戦争にのめり込んでいて、世界では反戦運動が拡がっていた。
若者たちは体制に反旗を翻すボニーとクライドに共感をよせ、刹那的な衝動に身を任せたくなる気持ちに理解を示し、「俺たちに明日はない」は若者たちの将来への絶望感や無力感を描き出した作品と言える。

この映画では拳銃やマシンガンをぶっ放すシーンが数多く登場する。
頭部を撃たれて吹き飛ぶ姿や、血を流す警官などをリアルに描いているが当時としては珍しい描き方だった。
今では珍しくもない描き方だが、初めて見た時にはその迫力に圧倒された。
極めつけはラストシーンでハチの巣状態になるボニーとクライドの姿で、実に衝撃的なシーンとなっている。
振り返ると男であるクライドと、女であるボニーの求めているものに微妙な違いがあることに気がつく。
ボニーは母親を気遣い母親を含む一族と思われる人たちとピクニックを楽しむ。
このシーンはソフトフォーカスで撮られていて、平凡ながらも幸せな家庭を夢見るボニーの気持ちを表していたように思う。
最後の夜、ボニーは今までのことが水に流せたらと漏らすが、クライドに仕事をする州と暮す州は別にすると答えさせているのは、安住を求める女の気持ちをクライドは理解していなかったのだと言っているように感じた。
ボニーは「私たちにも明日があればいいのに」と悲しい気持ちで憧れていたに違いない。
やはりラストシーンはいい。 絶妙のスピード感だった。

ALWAYS 三丁目の夕日

2019-02-27 09:39:26 | 映画
「ALWAYS 三丁目の夕日」 2005年 日本


監督 山崎貴
出演 吉岡秀隆 堤真一 小雪 堀北真希
   三浦友和 もたいまさこ 薬師丸ひろ子
   須賀健太 小清水一揮 マギー 温水洋一
   小日向文世 木村祐一 ピエール瀧 益岡徹

ストーリー
昭和33年、建設中の東京タワーを望む下町・夕日町三丁目。
ある春の日、短気だけれど家族想いの父親・則文(堤真一)と、優しい母親・トモエ(薬師丸ひろ子)、そしてやんちゃな小学生・一平(小清水一揮)が暮らす小さな自動車修理工場“鈴木オート”に、星野六子(堀北真希)と言う娘が集団就職で上京して来た。
一方、鈴木オートの向かいで駄菓子屋を営む三流小説家・茶川竜之介(吉岡秀隆)も、身寄りのない少年・淳之介(須賀健太)を預かることになっていた。
秘かな想いを寄せる一杯飲み屋の女将・ヒロミ(小雪)に頼まれ、酔った勢いで引き受けてしまったのだ。
夏、『少年冒険団』のネタに困った竜之介が、淳之介がノートに書き溜めていたお話を盗用した。
それを知った淳之介は、怒るどころか、自分の考えた物語が雑誌に掲載されたと涙を浮かべて喜んだ。
秋、淳之介の母親が住んでいる場所が分かり、淳之介は、一目会いたさに一平と共に都電に乗り高円寺まで出向くが、願いは叶わなかった。
冬、淳之介に初めてのクリスマス・プレゼントが贈られ、そして、竜之介はヒロミにもささやかなプレゼントと共にプロポーズする。
しかし翌朝、父親の入院費用で多額の借金を抱えていたヒロミは、竜之介の前から姿を消し、元の踊り子に戻って行ってしまい、更に、淳之介の本当の父親が大手会社の社長(小日向文世)だと判明する。


寸評
昭和33年を背景にしているので、オープニングタイトルでは若原一郎さんが歌う「おーい中村君」が流れ、昔の東宝のマークで始まった。
薬師丸ひろ子が働く場面が写り、グーンと引いていくと入り口の引き戸の隙間から覗いていたかのようにカメラは外に飛び出す。
よくある導入部だけど、僕はこういう入り方は好きだ。

僕達の世代にとってのノスタルジックな映画の為だけではないと思うが泣けたな。
涙は感激の涙だった。
茶川龍之介を演じる吉岡秀隆君は内田有紀ちゃんとの離婚騒動のスキャンダラスな話題だけでなく、この頃引っ張りだこの活躍だったけれどこの映画を見ると堤真一の前にかすんでいた。
そしてそれらの登場人物を際立たせていたのがロクちゃんこと六子(むつこ)役の掘北真希の存在だった。
集団就職で東京にやってきた彼女の母親に対する感情と、母親の気持ちを表す手紙のエピソードには大泣きだった。

古行淳之介と古行和子の親子関係ははもう少し突っ込んでも良かったのでは・・・。
気にかけながらも手放さざるを得なかった母親の立場であるとか、あるいは反対に子どもを捨て去ったわがままな母親に絶望する淳之介とか・・・。
実のところ僕は母一人で育ったけど、父親がいなくて淋しい思いや嫌な思いをした記憶がない。
それほど、それを補う愛情を回りの人たちが僕に与えていてくれたのだと思っている。
淳之介は少しは自分とかぶさったのだ。

それにしても鈴木オートはどうしてあんなに裕福なの?真っ先にテレビや冷蔵庫を購入してるし、子どもにはクリスマスプレゼントを渡しているし・・・。
我が家にテレビが来たのは皇太子ご成婚のずっと後だった。クリスマスプレゼントをもらえるなんて、そんな風習はなかった(楽しみは当然すぐ後にくるお正月のお年玉だったのだ)。
欲を言えば東宝のマークを旧マークで始めたのだから、映画館のシーンも入れて欲しかった。
あの頃の映画館の熱気と雰囲気も思い出したかったのだ。

ラストシーンで三人が見る東京タワー越しの夕日は綺麗だった。
大阪市郊外の田舎にあった僕の家からは、すぐ近くにある弁天様の有る池の土手まで行くと、上町台地にそびえる大阪城が夕日の向こうに見えたのだ。
そして、「夕焼けが綺麗やから明日もエー天気やで」と子供同士で話し合ったのだ。
池があり、川があり、タンポポ、つくしがあり、風を感じ、空を見上げ、意識しない自然が常にあったのだ。
今の子ども達にとって50年後に思い出す現在の生活はどんななんだろうか?

CG技術は進歩している。
日本映画でもこれぐらいのCGを駆使した上質の作品が作られるようになったんだなと感じた作品である。

お引越し

2019-02-26 09:56:37 | 映画
「お引越し」 1993年 日本


監督 相米慎二
出演 中井貴一 桜田淳子 田畑智子
   須藤真理子 田中太郎 茂山逸平
   青木秋美 森秀人 千原しのぶ
   笑福亭鶴瓶

ストーリー
小学六年生の漆場レンコ(田畑智子)は、ある日両親が離婚を前提しての別居に入り父ケンイチ(中井貴一)が家を出たため、母ナズナ(桜田淳子)とともに二人暮らしとなった。
最初のうちこそ離婚が実感としてピンとこなかったレンコだったが、新生活を始めようと契約書を作るナズナや、ケンイチとの間に挟まれ心がざわついてくる。
レンコは同じく両親が離婚している転校生のサリー(青木秋美)の肩を持っては級友たちと大喧嘩したり、クラスメイトのミノル(茂山逸平)と話すうちに思いついた、自分の存在を両親に考えさせるための篭城作戦を実行しかけてみたりした。
家でも学校でも行き場のなさを感じたレンコは、昨年も行った琵琶湖畔への家族旅行を復活させればまた平和な日々が帰ってくるかも知れないと、自分で勝手に電車の切符もホテルも予約してしまう。
ホテルのロビーでレンコとナズナが来るのを待っていたケンイチは、もう一度三人でやっていきたいと語るが、その態度にナズナは怒る。
その場を逃げ出したレンコは不思議な老人・砂原(森秀人)に出会う。
砂原との温かいふれあいに力を得たレンコは、祭が最高潮を迎え、群集で賑わう中をひとりでさまよううち、琵琶湖畔で自分たち家族のかつての姿を幻視する。
かつての幸福だった自分に向けて『おめでとうございます』と大きく手をふるレンコ。
夏も終わり、レンコにとって、ケンイチやナズナにとって新しい風が吹きこもうとしていた。


寸評
ケンイチ、ナズナ、レンコを演じた中井貴一、桜田淳子、田畑智子が絶妙のアンサンブルを見せる。
桜田淳子は山口百恵、森昌子と共に三人娘と称されたアイドル歌手だったが、主演作が数多くある山口百恵に比べれば格段の演技力を見せている。
それに勝るとも劣らないのがオーディションで選ばれた田畑智子である。
両親の離婚問題の中で揺れ動く少女の心の内を見事に演じ、軽妙なやり取りで観客を会話劇に誘い込む。
何よりも表情がいい。

冒頭、父親の引っ越しの別れのシーンでは寝転がっている父を蹴飛ばし、ボクシング練習でふざけ合い、そして去っていく父の車を追いかけるまでが相米監督得意のワンカットの長回しなのだが、長回しを意識させない自然さがあり、その後に続くのが車からのカメラで、引っ越しの荷物を積んだ父の車をレンコが走りながら追い続けて荷台に飛び乗るという運動神経がいるシーンとなっている。
この軽快さはその後のレンコが走りまわり、動き回り、自転車に乗り、雨に濡れ、水をかけられ、川や湖に入り、、泥だらけになるというレンコの姿の口火を切るものだ。
レンコは身体を動かすことで思いを表現している。

子供は父親も母親も好いているが、親たちは別れようとして別居を決意。
年ごろの子供をもった夫婦の離婚は厄介なものだと思わせる。
父親は未練を見せるが、父親に愛想をつかせている母親は吹っ切れている。
いざとなると女の方が強いのだろう。
男は自分のしてきたことに気がつかず、別れに対して意気地がない。

不自然なくらいの突然の土砂降りの雨で子供たちはずぶ濡れになる。
レンコは小川で遊び、おじいさんに水もかけられ水と親しんでいる。
圧倒するのは水と対応する火の祭りだ。
先ずは五山の送り火を背景にしたバイクシーンで家族の別れの切なさを描いて僕をシンミリさせる。
琵琶湖での火祭りでは人々の熱気の中でレンコは孤独を味わう。
そしてそれに続く幻想的なシーンが感動を呼ぶ。
レンコは森をさまようが、その姿は大人になるための儀式を行っているようでもある。
過去の思い出は片手で数えられるだけでいいとお爺ちゃんに言われたレンコは、一番の思い出、一番楽しかった時の幻想を見る。 そして叫ぶ。 「おめでとうございます!」と。
それは過去の自分への祝辞であるとともに、それぞれの人生における再出発への賛辞でもある。

エンドロールはいい。
先生に引率された子供たちの輪の中からレンコがはずれ、衣服を変えて現れる。
みなに挨拶してまわり、そして中学生になった凛としたレンコが現れストップモーションとなる。
あまりよすぎて、エンドロールで流れるスタッフ・キャストの名前に目が行かなかった。

大人は判ってくれない

2019-02-25 10:01:22 | 映画
「大人は判ってくれない」 1959年 フランス


監督 フランソワ・トリュフォー
出演 ジャン=ピエール・レオ
   クレール・モーリエ
   アルベール・レミー
   ジャン=クロード・ブリアリ
   ギイ・ドゥコンブル
   ジョルジュ・フラマン

ストーリー
12歳のアントワーヌには毎日がいやなことの連続で、その日も、彼は学校で立たされ、宿題を課せられた。
親子三人暮しのアパートには共かせぎの両親が帰る前に、日課の掃除が待ってい、口やかましい母親と、妻の顔色をうかがう父親とのあわただしい食事がすむと、そのあと片づけで、宿題をやる暇はなかった。
翌朝、登校の途中、親友のルネと出会うと、彼は学校へ行くのをやめ、二人で一日を遊び過した。
それはどんなに晴れ晴れとしていたことだろう。
午後に、街中で、見知らぬ男と母親が抱き合っているのを見つけ視線が合った。
その夜、母の帰宅は遅く、父との言い争いの落ち行く先は母の連れ子であるアントワーヌのことだ。
翌朝、仕方なく登校し、前日の欠席の理由を教師に追求されたとき、思わず「母が死んだのです」と答えた。
しかし、前日の欠席を知った両親が現れてウソがバレ、父は彼をなぐり、今夜話し合おうといった。
その夜、彼は家へ帰らず、ルネの叔父の印刷工場の片隅で朝を迎えた。
母は息子の反抗に驚き、学校から彼をつれもどし、風呂に入れて洗ってくれた。
精一杯優しく彼を励ますが彼は心を閉ざしてしまっていた。
翌日から平和が戻ってきたように見え、親子で映画にも行った。
ある日の作文で、アントワーヌは尊敬するバルザックの文章を丸写しにし、教師から叱られ、それを弁護したルネが停学になった。
アントワーヌはルネの家にかくれ住んだが、金持の子の大きな家での生活はアヴァンチュールだった。


寸評
僕とこの映画の出会いは1970年に開かれた大阪万博のフランス館で上映されていたのを観たのが最初だった。
当時フランス館では、自国の映画を連続上映していたので随分と通ったものだ。
いろいろ見た中で、この「大人は判ってくれない」が一番の発見だった。
それが僕とトリュフォーとのはじめての出会いとなった。

アントワーヌは学校では問題児だし、窃盗などもやらかす少年であるが、常に悪事を働いて犯罪を繰り返している不良少年ではない。
アントワーヌ少年は反抗期を迎えているのだろうが、家庭は恵まれているとは言えずその事が彼を犯行に向かわせているのかもしれない。
アパートは手狭で母親の連れ子であるアントワーヌは普段は寝袋で寝ている。
その母親は浮気をしていて、アントワーヌはその現場を目撃するが家庭でその事には触れない。
母の再婚相手である父は学歴がなく出世が見込めないので、妻は夫を見下している。
父と母はしっくりいっていないような所もあるが夫婦関係はなんとか維持しているという状況だ。
アントワーヌは食事の準備をし、ゴミ出しをするなど、宿題よりも家庭の用事を先ずこなさねばならない。
母が体を洗ってくれたり、三人で映画を見に行って楽しんだりすることもあるが、それでも余り恵まれていない環境なんだなと同情を寄せたくなる。
映画はそんなアントワーヌの行動を追い続ける。
学校での様子、学校をさぼって街をウロウロする様子、友達と一緒にいる時の様子などだが、その姿はドラマとしての演出を離れてドキュメンタリーのようでもある。
ジャンピエール・レオの自然な演技も相まって、モノトーンの映像が実に瑞々しいのだ。
ワルサをしたりウソをついたりするが、アントワーヌにも言い分はある。
しかし大人たちはアントワーヌの言い分を聞く耳を持たない。
やがてアントワーヌは両親にも見放されることになる。
そして迎えるのがラストのアントワーヌが走り続ける姿を捉えた長回しである。
あの姿からは自由を得た喜びを感じ取ることはできない。
自分を理解してくれない周りの大人たちへのイライラ感の発露だったように思う。
少年時代の大人への反感は僕にもあって、それが高じて僕は非行には走らなかったものの、母親と意思の疎通を欠いてしまったという反省がある。
トリュフォーの視線がアントワーヌの心の中に入り込んでいくようで、初公開から年数が経っていたにもかかわらず僕は初見の時に感動を覚えた。

日本初公開時の野口久光氏の傑作ポスターをトリュフォー自身が賛嘆してらしい。
そのトリュフォーが万博行事の一環として行われた、日本国際映画祭に「野生の少年」を持って来た。
本人も来るというので見に行ったのだが、作品の出来にがっかりした記憶がある。
デザイナーのピエール・カルダンとトリュフォー本人を見られたことだけが記憶に残っている。
ちなみに、日本からは篠田正浩監督の「無頼漢」が出品されたがこちらも期待はずれだった。

男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花

2019-02-24 09:50:25 | 映画
「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」 1980年 日本


監督 山田洋次
出演 渥美清 倍賞千恵子 浅丘ルリ子 下絛正巳
   前田吟 三崎千恵子 太宰久雄 佐藤蛾次郎
   中村はやと 新垣すずこ 金城富美江 間好子
   伊舎堂正子 伊舎堂恵子 一氏ゆかり 光石研
   江藤潤 笠智衆

ストーリー
例によって、かって気ままな旅を続ける寅次郎、ある夜、不吉な夢を見て、故郷の柴又に帰った。
そこにあのキャバレー回りの歌手、リリーからの手紙があった。
彼女は沖縄の基地のクラブで唄っていたが、急病で倒れ、入院中だという。
そして、手紙には「死ぬ前にひと目寅さんに逢いたい」と書いてあった。
とらやの一同は、飛行機嫌いの寅次郎を説得して沖縄へ送り出した。
五年振りの再会に、リリーの大きな瞳は涙でいっぱい、そして彼女の病状も寅次郎の献身的な看護で快方に向かい、病院を出られるようになると、二人は療養のために漁師町に部屋を借りた。
寅次郎はその家の息子、高志の部屋で寝起きするようになった。
リリーの病気が治るにしたがって、心配のなくなった寅次郎は退屈になってきた。
そんなある日、寅次郎は海洋博記念公園でイルカの調教師をしている娘、かおりと知り合った。
一方、リリーはキャバレーを回って仕事をさがしはじめた。
体を気づかう寅次郎に、リリーは夫婦の感情に似たものを感じる。
たが、寅次郎は自分がかおりと遊び歩いているのをタナに上げ、リリーと高志の関係を疑いだした。
好意を誤解されて怒った高志は寅次郎と大喧嘩をし、翌日、リリーは手紙を残して姿を消した。
リリーがいなくなると、彼女が恋しくてならない寅次郎は、寂しくなり柴又に帰ることにした。
三日後、栄養失調寸前でフラフラの寅次郎がとらやに倒れるように入ってきた。
おばちゃんたちの手厚い看護で元気になった寅次郎は、沖縄での出来事をさくらたちに語る。
それから数日後、リリーが寅次郎が心配になって、ひょっこりとらやにやって来た。
そんなリリーに寅次郎は「世帯を持つか」と言うが、リリーは寅次郎の優しい言葉が素直に受けとれない。


寸評
寅さんと結婚する女性がいるとすれば、それはリリーを置いて他にないと思わせた一遍である。
リリーから沖縄で病に倒れたとの手紙が届き、寅さんは沖縄に駆けつける。
飛行機嫌いの寅さんが出発を前にして騒動を起こすが、全体的にはいつもの小ネタによる笑いは少ないような気がする。
むしろホンワカムードいっぱいで、入院中の笑いどころは、初めて病室を訪れた時に同じ病室のオバサンをリリーと勘違いして声をかけたことぐらいである。
相変わらず病人を集めて賑やかに笑いを取っている寅次郎なのだが、それはその様子を素通り的に描いているだけである。
病院での寅次郎の様子は、かいがいしくリリーを看病する姿であり、それはまるで夫婦のような雰囲気である。
リリーは寅さんの訪問を受けてみるみる元気になっていく。
退院したリリーは遠くに伊江島の見える一軒家の離れを借りて療養を続けるのだが、そこでの生活もまるで夫婦生活そのものである。
病気で弱った人間が、親切にされた異性に好意を抱くのは現実社会でもよく耳にする感情である。
リリーもそれに似た感情を抱いたのかもしれない。
寅さんとリリーが結婚すればこんな夫婦生活なのだと言わんばかりの様子が描き続けられる。

夫婦まがいの生活を散々描いたところでリリーが所帯を持つことをほのめかすが、寅さん流の照れ隠しなのか「俺たちは所帯を持つ柄じゃない」とごまかしてしまう。
お互いが気持ちをごまかして本心をはぐらかせてしまうが、二人の気持ちはお互いを向いている。
リリーは水族館でイルカの調教師をしている女性に焼きもちを焼居ている風であり、寅さんはリリーを慕っている大家の息子である高志に焼きもちを焼いている風なのである。
二人の間に生じたじれったい気持ちで大喧嘩となってしまい、二人は喧嘩別れしてしまう。
まるで青春恋愛映画のシチュエーションなのだが、喜劇映画なのでそこからの進展はない。
ことほど左様に、笑いよりもホンワカムードと真面目シーンが多い作品となっている。

二人の照れ隠しの感情と行動は、「とらや」で再開した時にも繰り返される。
寅さんはポツリと「所帯を持つか…」とつぶやくが、リリーは冗談と笑い飛ばしてしまう。
寅さんは本気だと言い返すすべを知らないし、リリーもこの場面ではああ言うしかないのだとさくらに語る。
どこまでいっても気持ちのすれ違いを起こす二人なのだが、寅さんもリリーも所帯を持つとすれば、この二人以外にはないというコンビなのである。
3度目の登場となった浅丘ルリ子とのコンビはシリーズ中で最高のものだった。

例によって別れた二人だが、旅先で再会する。
興行用のバスから降りてきて寅さんの前に現れたリリーと、バス停で休んでいた寅さんの再会の挨拶ともいえる口上のやりとりが何とも小気味よい。
しかも二人の深い結びつきを感じさせる名場面で、シリーズ中でも出色のラストシーンとなっている。

男はつらいよ 寅次郎相合い傘

2019-02-23 07:23:20 | 映画
「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」 1975年 日本


監督 山田洋次
出演 渥美清 倍賞千恵子 浅丘ルリ子 下絛正巳
   前田吟 三崎千恵子 太宰久雄 佐藤蛾次郎
   中村はやと 吉田義夫 船越英二 笠智衆

ストーリー
相変らずのテキヤ稼業で全国を旅して廻る寅さんは、東北のとある田舎町で、変な男と出会った。
男は兵頭謙次郎と名乗り、親の七光りもあって一流会社の“おかざり重役”で、冷たい家庭と平々凡々な生活にあきて蒸発したのだった。
事情を聞いた寅は、柴又の妹・さくらのところへ電話して、兵頭の家族との連絡をとるなどして一生懸命。
翌日から兵頭は寅と一緒に旅をして廻った。
そんなある日、函館の屋台のラーメン屋で、寅は二年ぶりにリリーと再会した。
リリーは鮨屋の亭主と離婚し、もとの歌手に戻って、全国のキャバレーを廻っていたのだ。
その夜再会を祝って、寅とリリー、そして兵頭の三人はドンチャン騒ぎとなった。
翌日から三人の、金は無くわびしいながらも楽しい旅が始った。
駅のベンチで寝たり、野宿をしたり、兵頭は味わったことのない生活に、徐々に人間らしさを取り戻して来た。
三人が小樽に来た時、兵頭がこの町に初恋の人がいることを告白。
彼女は、夫に先立たれひっそりと喫茶店を経営していたのだったが、兵頭は彼女に会ったものの、現在の心境を語ることはできなかった。
そんな兵頭を寅が、女一人幸せにできないのか、と責めた事から、リリーが怒りだし、三人はバラバラになり、そこで三人の旅は終ってしまった…。
数日後、寅は久しぶりに柴又に帰って来たものの、リリーと兵頭との別れが気になり何となく憂うつだった。
そんな時、突然、リリーが訪ねて来たので、寅は俄然元気になった。
ある日、さくらたちがリリーに寅との結婚を聞いたところ、リリーは承諾したのだが・・・。


寸評
フーテンの寅さんこと車寅次郎の連れ合いとなる女性はリリーを置いて他にないと思わせた作品で、リリー松岡を演じた浅丘ルリ子がすこぶるいい。
勝気な女性で「女が幸せになるには、男の力を借りなきゃいけないとでも思ってんのかい?笑わせないでよ」と言い切る芯の強い女だ。
堅気の生活にはなじめないという寅さんと同じ宿命を背負っていて、シリーズ11作で寿司職人と結婚したが離婚して再び歌手としてキャバレー周りをしている。
寅さんは「あいつも俺とおんなじ渡り鳥よ。腹空かしてさ、羽怪我してさ、しばらくこの家に休んだまでのことよ。いずれまた、パットと羽ばたいてあの青い空へ・・・な、さくら、そういうことだろう」と流石に見抜いている。
この二人の息の合った掛け合いと雰囲気はシリーズ中でも群を抜いている。
題名のもととなっている、相合傘のシーンのしっとりさなどは喜劇映画とは思えない雰囲気を醸し出す。
喧嘩しても仲の良い恋人同士のようにも見えるし、意地を張っているがその実とても心配している寅の仕草と、それに甘えるリリーの振る舞いがとても粋だ。

寅さんもリリーも明日はどこにいるのか分からない流れ者の生活をしている。
寅さんには帰る家があるが、リリーにはそれがなく、友達の家に泊めてもらっても男が来ると出ていかねばならない立場だ。
男はしゃべるわけでもない一瞬の登場だったが、寅さんとリリーの境遇の違いを端的に表現していた。
二人の対極にいるのが兵頭謙次郎の船越英二だ。
かれは良家の主らしいが、お飾りの生活に嫌気がして家出を行った中年男である。
しばられた生活にうんざりして自由人に見える寅さんとリリーにあこがれを抱く。
あこがれを抱いているが何もできない意気地のない男である。
気はいいのだが、おそらく会社では能力の割には高い地位を与えられているらしいことがうかがえる。
彼は初恋の人に会いに行くが、やはり何も言えず、何もできず幸せを願って去っていく。
初恋の女性・信子(岩崎加根子)は「昔とちっとも変わらないのね」と言う。
この二人の関係は、寅さんとリリーの焼き直しでもあり、兵頭は女性に対する寅さんの身代りでもある。
結婚してもいいと言うリリーに対して、寅さんは「冗談だろ?」と言うだけで何もできないのである。
それもリリーの幸せだけを願う寅さんの不器用な態度なのだ。

場末のキャバレーの舞台にしか立てないリリーを、一度でいいから大舞台に立たせたいと熱弁をふるう寅さんの優しい心根を一人芝居的に演じた渥美清の職人芸に惹かれ、思わずもらい泣きしてしまう。
一方でメロン騒動の場面でも渥美清は自分のメロンがないことへの不満をまくしたて、その可笑しさを存分に披露して役者としての存在感を示す。
やたらと浅丘ルリ子の存在が目立つ作品ではあるが、やはり「男はつらいよシリーズ」は渥美清の映画なのだと思わされた。
「結婚話を持ち出さなければ、二人はいい恋人同士で、いい友達同士でいられたかもしれない」とさくらはつぶやくが、リリーは寅さんの永遠の恋人であることを思わせた作品だった。

男はつらいよ 寅次郎忘れな草

2019-02-22 08:52:50 | 映画
「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」 1973年 日本


監督 山田洋次
出演 渥美清 倍賞千恵子 浅丘ルリ子 前田吟
   三崎千恵子 太宰久雄 佐藤蛾次郎
   吉田義夫 松村達雄 笠智衆

ストーリー
柴又。今日は、寅、さくらの父の二十七回忌で、“とらや”に皆が集っている時に寅が久し振りに戻って来たのだが、寅のおかげで法事はメチャクチャになってしまう。
ある日、さくらが、満男にピアノを買ってやりたいと言うのを聞いた寅は、早速、玩具のピアノを買って来て、得意満面。
一同、欲しいのは本物のピアノだ、とも言えず寅の機嫌をとるが、やがてその場の雰囲気で気がついた寅は皆に悪態をついて、プイッと家を出てしまった。
北海道。夜行列車の中で、派手で何処となく安手の服を着ている女が、走り去る外の暗闇を見ながら涙を流しているのをじっと見つめる寅。
網走。ヒョンなことから寅は列車の時の女と知り合った。
名はリリーといって、地方のキャバレーを廻って歌っている三流歌手である。
互いに共通する身の上話をしながら、いつしか二人の心は溶け合うのだった。
柴又のさくらに、北海道の玉木という農家から手紙が届いた。
寅が心機一転して、玉木の家で働いたものの日射病と馴れない労働で倒れてしまった、というのである。
早速さくらは、北海道へ行き、寅を連れて柴又に帰って来た。
寅が柴又に戻って来て数日後、リリーが尋ねて来て、抱き合って再会を喜ぶ寅とリリー。
リリーは自分が知らない家庭の味に触れ、胸が熱くなるのだった……。
数日後の深夜。安飲み屋をしている母親と喧嘩したリリーは、深酔いしたままで寅に会いに来た。
だが、寅がリリーの非礼を諭すと、リリーは涙を流しながら突び出て行った・・・。


寸評
本題に入る前の法事のシーンが愉快だ。
寅さんはいつまでたっても子供が大きくなっただけの人間なのだとわかる。
今回のマドンナであるリリーは寅さんと同じように全国を旅してまわるドサ廻りの歌手である。
寅さんと違って暖かい家族には恵まれていなくて、母親からも金をせびられている始末だ。
同じような人種でありながら、家庭を取り巻く人間関係においては両極端に位置している。
リリーが背負っている淋しさは、網走の波止場だったり、夕暮れせまる江戸川の堤防を歩く姿にかぶさって流れる音楽が表現していた。

とらやの二階に泊まり込んだところ、家庭の温かみに飢えているリリーは布団の温かみにはしゃぎまわる。
とらやに再訪問してくる時の片目をつむる姿がとてもかわいいし、職業に似合わず飾り気のない純真な心の持ち主であることもわかる。
リリーは母親といさかいを起こし、キャバレーの客にも絡まれ、酔っぱらって深夜のとらやを訪ねてくる。
時刻や住人を顧みず大騒ぎするリリーに寅さんは説教じみた注意を与える。
寅さんが好意を寄せる女性に説教するなどと言うことは初めてではないか。
リリーは大きな目に涙をためて「寅さんは何も聞いてくれないじゃないか」と出ていってしまう。
この浅丘ルリ子が寅さんとの絶妙の相性を見せる。
寅さんが相手とするマドンナは、山田洋次監督の好みによるものか清純派と呼ばれる女優さんが多い。
しかし、清純派女優は寅さんのマドンナにはイマイチ違和感があるというのが見る側の気持ちではなかったか。
そんな気持ちを払拭してくれた今回の浅丘ルリ子の起用であった。

寅さんの恋が語られ、リリーがさくらに寅の失恋相手の名前をおねだりする。
さくらが 「強いて言えば・・・」と口を開きかけると、寅さんが「お千代ぼうでしょ? ばかだなあ あれは単なる幼友達じゃないか」と前作「寅次郎夢枕」の八千草薫をあげる。
するとおいちゃんが「じゃ、ほら、小説家のお嬢ちゃん」と第9作「柴又慕情」の吉永小百合の名前を出すと、おばちゃんが畳みかけて「喫茶店のたかこさん」と第八作「寅次郎恋歌」の池内淳子をあげれば、ついには寅次郎が「その前は?」とさくらに催促する始末。
さくらが上げた名前は「花子ちゃんよ」と第7作「奮闘篇」の榊原るみ。
その他にも幼稚園の綺麗な先生と第4作「新・男はつらいよ」の栗原小巻や、第5作「望郷編」の長山藍子、第2作における散歩先生の娘さん佐藤オリヱ、第3作「フーテンの寅」における旅館の女将新珠三千代、第1作の御前様のお嬢様光本幸子などが懐かしく語られる。
じっくり振り返ると第6作「純情篇」の夕子さん若尾文子だけがなかったのはどうしたわけか?

リリーが独り身の女の不幸感を出していたのを否定するように、最後にあっさりと旦那と店を構える展開に少々、腰砕け感があって結末を急ぎ過ぎた気がした。
開拓農場の出来事、ピアノ騒動、水原君とめぐみちゃんの恋など、話を盛り込み過ぎたのかもしれない。
この後リリーは再登場を果たし、寅さんの永遠のマドンナとして存在し続けることになる。

男はつらいよ 望郷篇

2019-02-21 09:28:41 | 映画
男はつらいよシリーズから、これはという4本を紹介します。

「男はつらいよ 望郷篇」 1970年 日本


監督 山田洋次
出演 渥美清 倍賞千恵子 長山藍子
   井川比佐志 前田吟 津坂匡章
   松山省二 三崎千恵子 太宰久雄
   佐藤蛾次郎 笠智衆 森川信

ストーリー
おいちゃんが死ぬ夢を見てハッと飛び起きるシーンから始まる。
旅先から故郷の葛飾・柴又に帰ってきた寅次郎。
ちょっとした行き違いからいつものごとくおいちゃんと大げんかとなり“とらや”は大騒ぎ。
と、そこへ、かつて世話になった親分が病に倒れ、寅次郎に会いたがっているとの知らせが。
さっそく親分が入院している札幌の病院へとやって来た寅次郎。
そこで寅次郎は親分からある頼み事をされるのだったが……。
仲間の悲しい末路を目にした寅次郎は、その姿に自らの行く末をダブらせ、暗澹とした気持ちになる。
「心を入れ替えて堅気になろう」と一大決心した寅次郎は、浦安の豆腐屋に住み込みで働き始めた。
豆腐屋の娘で、近所の美容院で働く節子(長山藍子)は明朗快活、おまけに気風もいいことから、またしても寅次郎は恋の虜に。
なんとか節子の気を引こうと、朝早くから汗と油にまみれて一生懸命働くのであった。
まじめに働いているという知らせを受けたとらやのおいちゃん達は、寅次郎が改心したことを心底喜んだのであるが、所詮寅次郎に堅気の仕事は無理だったのである。

寸評
シリーズ初期における屈指の力作だ。
ストーリーもがっちり固められているし、カメラワークもどっしりとしていて作品に重厚感をもたらしている。
オープニングでの夢のシーンは本編に引き継がれ、それが伏線となって肉親の情が本編の底辺に流れる。
寅は北海道の竜岡親分の危篤を登から聞いて飛んでいこうとするが旅費がない。
借金しようとするが誰も相手にしてくれないので、結局はさくらの所を訪ねることになる。
さくらは妹として言いにくいことも言って説教して旅費を渡してやる。
神妙にして分かったような態度を見せる寅だが、別れた瞬間に登と旅費をせしめて大喜びする姿が描かれ、何処まで行ってもヤクザな精神が抜けきらない寅であることが分かる。
竜岡親分を見舞った寅は、親分の子供である松山省二を親分の死に目に会わせるために訪ねるが、父親に会うことを拒絶される。
松山省二の語る物語が涙を誘い、SLの映像が画面を引き締めた。
SL機関車の機関士である松山省二の姿に感銘を受けた寅は、登と決別し油まみれになりながら汗水たらして地道に働くという騒動を引き起こす。
地道な職業に対する寅の言い分が笑わせる。
朝食には何にもいらないよと言いながら、お漬物にみそ汁、辛子の効いた納豆…などと並べまくるのと同様に、候補の職業にいちいち文句をつける寅さんの言い分が何ともおかしい。
この男ははなから地道に働くことに向いていないのだ。
博が務める印刷所で働く決心をした寅さんの服装と、張り切るポーズが何ともおかしい。
ここでも帰ってからの贅沢を散々並べて笑わせる。
この様な小ネタの笑いをタイミングよく挟んできて、シンミリさせたかと思うとドッと笑いを誘う間合いが素晴らしい。

ひと悶着あったあとで豆腐屋で働きだすが、妹のさくらは流石に分かっていて、考えることも地道にして飛躍してはダメだと諭すのだが、例によって寅の一人合点の片思いが始まる。
さくらが豆腐屋を訪ねた時のやりとり、帰った後の豆腐屋で取る寅の態度が笑わせる。
「僕、寝ます…」の一言も可笑しかったなあ・・・。
寅さんには団子屋は似合わないが豆腐屋はよく似合う。
自転車に乗ってラッパを吹きながら行商する寅さん(渥美清)は豆腐屋そのものだ。

寅さんは例によって別な男の出現によって振られてしまい、いたたまれなくなった寅さんが旅に出るのも毎度のことだが、旅先で登と再会する。
そこで取り交わされる仁義のやり取りで俄然元気な寅さんが描かれ、根っからのヤクザな寅さんをみて、僕たちは何だか安心してしまうのである。
真面目な寅さんではない、自由でヤクザな寅さんに共感したかと思えば、時に優越感を感じ、時に寅さんに憧れたりするのである。
森崎東、小林俊一が監督を務めた後に再び山田洋次がメガホンを取ったが、「男はつらいよ」は山田洋次の映画だと思わされた作品でもある。

男と女

2019-02-20 11:01:05 | 映画
「男と女」 1966年 フランス


監督 クロード・ルルーシュ
出演 アヌーク・エーメ
   ジャン=ルイ・トランティニャン
   ピエール・バルー
   ヴァレリー・ラグランジェ

ストーリー
アンヌ(アヌーク・エーメ)は夫をなくして、娘はドービルにある寄宿舎にあずけている。
パリで独り暮しをし、年はそろそろ30歳。
その日曜日も、いつも楽しみにしている娘の面会で、つい長居してしまい、パリ行きの汽車を逃してしまった。
そんなアンヌに声をかけたのはジャン・ルイ(ジャン・ルイ・トランティニャン)という男性。
彼も30歳前後で、息子を寄宿舎へ訪ねた帰りだった。
彼の運転する車でパリへ向う途中、アンヌは夫のことばかり話しつづけた。
その姿からは夫が死んでいるなどとは、とてもジャン・ルイには考えられなかった。
一方、彼はスピード・レーサーで、その妻は彼が事故を起したとき、ショックから自殺への道を選んでいた。
近づく世界選手権、ジャン・ルイは準備で忙しかったが、アンヌの面影を忘れられなかった。
次の日曜も自分の車でドービルへ…と電話をかけた。
肌寒い日曜日の午後、アンヌ、ジャン・ルイ、子供たちの四人は明るい笑いに包まれていた。
同時に、二人はお互いの間に芽生えた愛を隠し得なかった。
二人は砂浜で身体をぶっつけ合い、その夜は安宿のベッドに裸身をうずめた。
だが、愛が高まったとき、思いもかけずアンヌの脳裡に割りこんできたのは死んだ夫の幻影だった。
二人は黙々と服を着て、アンヌは汽車で、ジャン・ルイは自動車でパリへ向った。
しかしアンヌを忘られぬ彼は、彼女を乗換え駅のホームに待った。

寸評
ラブロマンスなのだが、そんじょそこいらの恋愛映画とは違う映像詩で語り掛けてくる。
少なくとも僕はこの映画を公開時に見て衝撃を受けた。
恋愛ものに付き物の燃え上がるような会話はない。
フルカラーの映像はもとより、画面はモノトーンになったり、セピア調になったりしながら現在と過去を紡いでいく。
時にシャンソンの歌声でその時の心情を表現したりするが、フラシス・レイの音楽と流れるようなカメラワークが別世界へ観客を誘う。
色調を代えてとらえられる風景はロマンチックな雰囲気を醸し出していく。
総合芸術としての映画を感じさせる、クロード・ルルーシュ会心の一作だと思う。
僕はこの一作に衝撃を受け、その後もルルーシュ作品を何本か見たのだが、ついに「男と女」を超える作品に出会うことはできなかった。

アンヌは愛し合っていた夫を映画の撮影事故で亡くしている。
ジャン・ルイと結ばれた時に、愛し合っていた夫のことを思い出すのだが、その事を語ることはなく、また衝動的にジャン・ルイをはねのけるような行動もとっていない。
かつての楽しい思い出を音楽に乗せながら無音の映像で見せ続ける。
かなり長い時間そんな場面を流し続けることでアンヌの苦悩を表現している。
直接的な言葉でなく映像で語り掛けてくるのは全編を通した手法である。
音楽と映像のテンポ、さらにはセリフのテンポも絶妙にマッチしており、それゆえセリフすらも音楽の一つに溶け込んだように心地良く響いてくる。
「ダバダバダ、ダバダバダ・・・」というスキャットが心地よい。

恋愛映画の金字塔の一つだと思うが、若いカップルのラブロマンスでないところも雰囲気に貢献している。
急激に燃え上がるのではなく徐々に高まっていく感じがよく出ている。
子供たちを交えた海辺のシーン、肩に手を掛けそうで掛けない食事のシーン、その間に割り込むように挿入される犬と散歩する人や、水墨画のような海辺の風景がリズミカルに感情の高まりを感じさせていく。
監督のクロード・ルルーシュが撮影にも参加しており、パトリス・プージェと共にもたらすカメラワークにうっとりとしてしまうし、音楽担当のフランシス・レイのスコアがたまらなくいい。
こんな組み合わせの奇跡が起きるものなのかと思ってしまうほどの見事なアンサンブルである。

ジャン・ルイには母親になっても良いと思っている女性がいそうで、二股をかけているような描写もある。
アンヌはモンテカルロ・ラリーに出場しているジャン・ルイに「愛してる」と電報を打つ積極性を見せたかと思うと、夫の幻影に出会い男のもとを去る。
逃げれば追いたくなるのが人間の性なのか、男は二股女性を棄ててアンヌを猛追する。
去った女は男に未練たらたらでという、そんな中年男女が最後にストップモーションで締めくくられる。
見事というほかない。

男たちの大和/YAMATO

2019-02-19 07:41:34 | 映画
佐藤純彌さんが亡くなられました。
ご冥福をお祈りいたします。

男たちの大和/YAMATO 2005年 日本


監督 佐藤純彌
出演 反町隆史 中村獅童 鈴木京香 松山ケンイチ
   渡辺大 内野謙太 崎本大海 橋爪遼
   山田純大 高岡建治 高知東生 長嶋一茂
   蒼井優 高畑淳子 余貴美子 池松壮亮
   井川比佐志 勝野洋 本田博太郎 林隆三
   寺島しのぶ 奥田瑛二 渡哲也 仲代達矢

ストーリー
2005年4月、鹿児島県枕崎の漁港。老漁師の神尾(仲代達矢)のもとを内田真貴子(鈴木京香)と名乗る女性が訪ね、60年前に沈んだ戦艦大和が眠る場所まで船を出してほしいと懇願する。
彼女が大和の乗組員・内田二兵曹(中村獅童)の娘と知り、神尾は小さな漁船を目的の場所へと走らせる。
神尾もまた大和の乗組員だったのだ。
内田二兵曹の名前を耳にし、神尾の胸裡に60年前の光景が鮮やかに甦ってくる…。
昭和16年12月8日、日本軍の真珠湾奇襲によって始まった太平洋戦争は、はじめ日本軍が優勢であったが、徐々に日本軍は劣勢を強いられ、じりじりと追い詰められていく昭和19年の春、神尾(松山ケンイチ)、伊達(渡辺大)、西(内野謙太)、常田(崎本大海)、児島(橋爪遼)ら特別年少兵をはじめとする新兵たちが、戦艦大和に乗り込んできた。
乗艦した彼らを待ち受けていたのは、厳しい訓練の日々であったが、彼らは烹炊所班長の森脇二主曹(反町隆史)や機銃射手の内田二兵曹に、幾度か危機を救われることがあった。
同年10月、レイテ沖海戦に出撃した大和はアメリカ軍の猛攻を受けた。
大和の乗組員たちも多数死傷し、内田も左目に重傷を負い、大和の任務からも外されることとなった。
昭和20年3月、日本の敗色が日増しに濃くなっていく中、大和の乗組員たちに出撃前の上陸が許される。
全員が、これが最後の上陸になることを覚悟して、それぞれが肉親や恋人と思い思いの時間を過ごす。
翌日、男たちはそれぞれの想いを胸に大和へ戻っていく。
同年4月1日、ついに米軍は沖縄上陸作戦を本格的に開始。
4月5日、草鹿連合艦隊参謀長(林隆三)は、大和の沖縄特攻の命を伊藤第二艦隊司令長官(渡哲也)に下す。

寸評
沖縄水上特攻作戦とは、史上最強かつ最大だった戦艦大和最後の作戦の事だ。
本土たる沖縄を守るために大和の乗組員たちは戦闘機の護衛が無いにもかかわらず、上陸した米軍を艦砲射撃で殲滅するために護衛艦隊と共に出撃した。
しかし、大和は圧倒的戦力の米軍機から猛烈な攻撃を受け、乗員2千数百名と共に東シナ海の藻屑と消えた。
最初から戦果を期待できず、日本海軍の象徴ともいえる大和が撃沈されることを承知の上の作戦だったと聞く。
当然、乗組員たちはその運命を承知していたであろうし、全員死ぬことを覚悟の上の出撃だったと思う。

映画は上層部に焦点を当てず、下士官や少年兵にスポットを当て、彼らはどんな思いでこの作戦に挑んだのか、ひいては、どんな思いで死地に挑んだのかを描いている。
したがってこの無謀な作戦が決行されるに至った経緯は全く描かれていない。
わずかに「天皇が海軍にはもう戦艦がないのかと尋ねられた」との会話があるだけで、これだと天皇陛下が大和に出撃を命じられたような印象を受けてしまう。
若者たちが純粋に国を守り、家族を守り、愛する人たちを守るために、命じられるままに自らの死を覚悟して散っていった悲劇性、馬鹿な作戦に付き合わされた悲劇性は描き切れていなかったように思う。
長嶋一茂の臼淵大尉が、「薩英戦争で薩摩がイギリスに負け、長州も四国艦隊に負けて、進歩ということを悟り倒幕に向かった。この国は一度負けないと目が覚めない。明日の日本のために我々は散っていくのだ」といった内容のようなことを言う。
軍部に騙されたのでもなく、世の中の雰囲気に洗脳されたのでもなく、明確な国家防衛の意識を持って、自ら戦いに挑んだ若者たちの姿が描かれ、その純粋さは否応無しに涙を誘う。
若者たちは本当にそのような思いで死んでいったのだろうか。

軍隊物にある理不尽な制裁シーンがあることにはあるが、おおむね日本軍兵士を、血の通った人間として描いていて、いかつい顔をした中村獅童の内田二等兵曹ですら少年兵にとってはいい上官だ。
彼から暴行を受けた上官ですら、引き換え条件があるものの水に流すと言っているのである。
お決まりと言えば言えなくもないが、兵士と内地の人々との関係は涙を誘う。
神尾と同級生の妙子との交流と別れ、母親が養子に出した常田によせる愛情の証としての弁当、疲弊する農村で暮らす母親へ仕送りを続ける西、呉の芸者・文子が内田によせる思いなど枚挙にいとまがない。

映画の見所は、やはり6億円をかけた大和のセットと戦闘シーンだ。
護衛艦もいたはずだが、圧倒的な敵機に大和一艦が戦っているという描き方だが、肉片が飛び散る戦闘場面は迫力があり、仲間がバッタバッタと倒れても、決して一歩も引かずに戦うその姿は、極限状態に置かれた人間がとる行動を見せていて胸打たれる。
作者の思いが表されているのが池松壮亮演じる敦の登場で、彼は16歳で少年兵と同じ年である。
死と隣り合わせで生き、日本の未来をを思って死んでいった彼等との対比である。
先人の思いを引き継ぐように敦は船長に代わり強い意志を秘めて船を運転する。
彼等の死が無駄死にではなかったことを戦死者に手向けているようでもある。

おとうと

2019-02-18 09:48:52 | 映画
「おとうと」 1960年 日本


監督 市川崑
出演 岸恵子 川口浩 田中絹代 森雅之
   仲谷昇 浜村純 岸田今日子
   土方孝哉 夏木章 友田輝 佐々木正時
   星ひかる 飛田喜佐夫 伊東光一

ストーリー
げんと碧郎は三つちがいの姉弟である。
父親は作家で、母親は二度目であり、その上手足のきかない病で殆ど寝たきりだった。
経済状態も思わしくなく、家庭は暗かった。
碧郎は友だちと二、三人で本屋で万引したのが知れて警察へあげられた。
しばらくたったある日、げんは鳥打帽の男に呼びとめられた。
男は警察の者だと名のり、碧郎や家のことを聞き、毎日のようにつけ始めた。
そんなげんを碧郎は「親がちょっと名の知られた作家でよ、弟が不良で、お母さんが継母で、自分は美人でもなくて、偏屈でこちんとしている娘だとくりゃ、たらされる資格は十分じゃないか」というのだった。
転校してからも碧郎の不良ぶりは激しかった。
乗馬にこりだし、土手からふみはずして馬の足を折ってしまった。
碧郎はその夜童貞をどこかへ捨てた。
十七になった碧郎に思わぬ不幸が訪れた。 結核にやられたのである。
湘南の療養所へ転地し、げんが附きそった。
死が近づいてくるのを知った碧郎は、げんに高島田を結うよう頼んだ。
「姉さんはもう少し優しい顔する方がいいな」といいながらも、げんの高島田を見て碧郎はうれしそうだった。
父が見舞いに来た時は、治ってから二人で行く釣の話に夢中だし、足をひきずってきた母には、今までになく優しかった。
夜の十二時に一緒にお茶を飲もうと約束して寝たげんは、夜中に手と手をつないだリボンがかすかに引かれるのを感じて目を覚ました。
「姉さんいるかい」それが碧郎の最後の言葉だった。

寸評
時代は大正末期で、その時代の雰囲気がよく出ている。
街並みや小道具に至るまでに郷愁をそそる。
しばらくすると、ここに描かれた街並みや小道具を知らない人たちばかりになってしまうだろう。
蚊帳の中で眠る碧郎、その外で蚊に刺されながら針仕事をするげんの姿などは僕の脳裏には残像としてある。
げんの使うアイロンなども今では博物館でしか目にすることが出来ないのではないか。

画面は全体的に暗い。
碧郎の家は上流階級ではないが、それでも中流以上の家庭だと思わせるのだが、当時の家がその様であったのかもしれないが、室内は非常に薄暗い。
それどころかカラー映画の割には全体的に色調は落ち着いたものである。
撮影の宮川一夫がフィルムの現像を途中で止めて編み出した色彩と聞く。
その色調が時代背景を醸し出して雰囲気を出している。

映画は家庭の中の微妙な人間関係を情緒たっぷりに描いている。
父は少しは名の売れた作家の様であるが子供には甘い。
見方によっては波風を立てたくないだけの、家庭のいざこざから逃げている人間である。
母は後妻で、リュウマチによって少し体が不自由で寝込んでいるのだが、口を開けば文句ばかり言っている。
家庭のきりもみはもっぱら気の強い姉のげんが見ている。
しかも継母からあれやこれやときつく当たられながらの生活だ。
弟は不良だが、万引きしても被害が一番小さいメモ帳にするなど、お坊ちゃまが悪ふざけをやっているという感じなのだが、それでも問題ばかりを起こして姉に後始末をしてもらっている。
姉は弟のことが気がかりでならないし、弟はそんな姉を頼りにし頭が上がらない。
何かと隙間風が吹いている家庭だが姉弟だけは仲が良い。
そんな姉弟を岸恵子と川口浩が好演している。
劇中でも言われているが、岸恵子は決して飛び切りの美人というわけではない。
しかし日本女性が持っている気品を持っていて、それを凛として表現できる女優だ。
彼女が使う乱暴な言葉はそれゆえ違和感があったが、出来の悪い弟とのやりとりを通じての姉弟愛を感じさせるには十分であった。
岸恵子も川口浩もこれが代表作ではないか。

最後は父と魚釣りの話をしようと言って別れ、嫌っていた母には優しい言葉をかけ、母も母らしく優しく接する。
げんと碧郎はピンクのリボンで結ばれるが、それはまるで近親相姦のような感じで姉げんと弟碧郎の心のつながりの深さを表す秀逸なシーンだ。
げんは碧郎を世話するのは自分以外にないと思っている。
気を取り戻したげんが身支度をして碧郎の元へ向かうラストシーンも胸を締め付ける。
市川崑、渾身の一作と言える作品だ。

お葬式

2019-02-17 13:59:39 | 映画
「お葬式」 1984年 日本


監督 伊丹十三
出演 山崎努 宮本信子 菅井きん 大滝秀治
   奥村公延 財津一郎 江戸家猫八
   友里千賀子 尾藤イサオ 岸部一徳
   津川雅彦 横山道代 小林薫 池内万平
   西川ひかる 海老名美どり 津村隆
   高瀬春奈 香川良介 藤原釜足 田中春男
   佐野浅夫 左右田一平 井上陽水 笠智衆

ストーリー
井上佗助(山崎努)、雨宮千鶴子(宮本信子)は俳優の夫婦だ。
二人がCFの撮影中に、千鶴子の父が亡くなったと連絡が入った。
千鶴子の父、真吉(奥村公延)と母、きく江(菅井きん)は佗助の別荘に住んでいる。
その夜、夫婦は二人の子供、マネージャーの里見(財津一郎)と別荘に向かった。
一行は病院に安置されている亡き父と対面する。
佗助にとって、お葬式は初めてのこと、全てが分らない。
お坊さん(笠智衆)への心づけも、相場というのが分らず、葬儀屋の海老原(江戸家猫八)に教えてもらった。
別荘では、真吉の兄で、一族の出世頭の正吉(大滝秀治)が待っており、佗助の進行に口をはさむ。
そんな中で、正吉を心よく思わない茂(尾藤イサオ)が、千鶴子をなぐさめる。
そこへ、佗助の愛人の良子(高瀬春奈)が手伝いに来たと現れる。
良子がゴタゴタの中で佗助を外の林に連れ出し、抱いてくれなければ二人の関係をみんなにバラすと脅したので、しかたなく佗助は木にもたれる良子を後ろから抱いた。
そして、良子はそのドサクサにクシを落としてしまい、佗助はそれを探して泥だらけになってしまう。
良子は満足気に東京に帰り、家に戻った佗助の姿にみんなは驚くが、葬儀の準備でそれどころではない。
告別式が済むと、佗助と血縁者は火葬場に向かった。
煙突から出る白いけむりをながめる佗助たち。
全てが終り、手をつなぎ、集まった人々を見送る佗助と千鶴子だった・・・。

寸評
お葬式という暗い題材をここまで明るくまとめあげた手腕はスゴイ。
義父の葬儀の体験を映画化したらしいのだが、ラスト近くに出てくる森の中に突き出た煙突から出る煙を見上げるシーンは現実にもあって、まるで小津映画に出ているみたいだと感じたのがきっかけになっていると聞いている。
実際、ここからラストに至るシーンはいい。
予算の都合でセットではなくご自身の別荘を使用して撮影しているとのことであるが、それが幸いしたのか限られたアングルから撮られた映像に臨場感がある。
部屋のどこかに据えられたカメラで収めたシーンに趣があり、自宅から出棺する雰囲気がよく出ていた。
亡くなった真吉の兄で口うるさい正吉が北枕を気にして、家族を背景に棺の前で一人芝居をするシーン、棺と遺影が安置された前に母親と娘の千鶴子が布団をサッと敷くシーンなどは映画を感じさせる。
会館での葬儀や家族葬が増えてきて、ご近所の夫婦が手伝っての葬式は少なくなってきたが、小規模ながらもご近所付き合いの中で出す葬式の雰囲気はよく出ていた。
通夜の様子やお手伝いの様子なども見事に活写されている。

途中で侘助の付き人らしい青木が手伝いで加わり、カメラを回して記録映画を撮り始める。
その映像がモノトーンで記録映画のように挿入されるのだが、これがまた何とも言えない雰囲気を生み出していて、とてもいいアクセントとなっている。
若い人や子供のお葬式は沈んだものであるが、老人のお葬式は順番だからとのあきらめもあり、「やれやれ」という気持ちもあり、悲しいはずの葬式で笑い声があったりするものである。
ここに集まった人々の笑顔は正にそのような笑顔で、親族の葬儀に参列したものなら経験があるものだ。
どこかに喜劇的なものがあって楽しませるのだが、その最たるものが高瀬春奈の良子の登場である。
彼女は侘助の愛人なのだが、まるで千鶴子に当てつけるように葬儀に現れ侘助にせまる。
本妻と愛人の修羅場は起きなかったが、もしかすると千鶴子は愛人の存在を感じていたのかもしれない。
宮本信子がブランコで揺れるシーンは印象に残る。

死体役といってもいいぐらいの真吉さんを演じた奥村公延さんは、本当に死んでいるみたいで隠れた功労者だ。
宮本信子さんは久しぶりの出演で、役者にカムバックどころか完全にトップ女優の仲間入りである。
葬儀屋の海老原を演じた江戸家猫八も飄々とした演技を見せて大いに存在感を示し、侘助を陰から支えるマネージャーの里見を演じた財津一郎もいい。
総じて脇役が充実している作品だ。
多分に喜劇的要素も含まれていたが、最後に喪主であるばあちゃんの挨拶でしんみりさせるのもいい構成だ。

伊丹十三さんはあらゆる分野で才能を発揮した方だが、この作品は映画監督としての才能が最初に発揮された作品だ(第1回作品だから当然だ)。
映画の中で、「俺が死ぬのは春にしよう。皆が待っている時に花吹雪だ」と言わせているのだが、寒い時の時の葬儀も暑い時の葬儀も、雨の日の葬儀も大変なので、僕の葬儀はそんな日でありたい。
できれば賑やかに見送ってほしいものだ。

おくりびと

2019-02-16 14:25:22 | 映画
おくりびと 2008年 日本


監督 滝田洋二郎
出演 本木雅弘 広末涼子 山崎努
   余貴美子 吉行和子 笹野高史
   杉本哲太 峰岸徹  山田辰夫

ストーリー
所属していたオーケストラが解散して、失業したチェロ奏者の小林大悟。
やむなく彼は妻の美香と二人、実家である山形へと帰った。
その家は、2年前に死んだ母親が残してくれた唯一の財産だった。
新たな職を探す大悟が行きあたったのは、佐々木が経営する納棺師という仕事だった。
死者を彩り、最期のときを送り出すという業務の過酷さに、大悟は戸惑いを隠しきれない。
しかし、佐々木と事務員の百合子の持つ温もりに惹かれて、大悟は「おくりびと」となった。
故郷に戻った大悟は、幼い頃に通っていた銭湯で同級生の母親であるツヤ子との再会を果たす。
銭湯を経営するツヤ子は、廃業を勧める息子たちの声も押し切って、ひたすら働き続けていた。
やがて、大悟の仕事を知った美香は、我慢できずに実家へと帰る。
死者を扱う夫の業務が、どうしても納得できなかったのだが、それでも大悟は納棺師を辞められない。
唐突に倒れて、この世を去ったツヤ子の納棺も担当した。
どこまでも自身の仕事に誇りを持つ大悟の気持ちを、ようやく美香も理解し、二人の関係は修復した。
そんなとき、父の訃報が大悟のもとに届く。
家庭を捨てた父親には深いわだかまりを抱いていた大悟だが、佐々木や百合子からの説得を受けて、死去した老人ホームへ美香と向かう。
そこには、30年ぶりに対面する父の遺体があった・・・。

寸評
死体に触れることに戸惑いながらも、とりあえずの就職口として続けている大吾は、社長の仕事ぶりを見て、それが決して卑しい仕事ではなく荘厳な儀式であることを知る。
しかしながら世間の認識はそうではない。友人からもさげすんだ目で見られることで、世間のこの職業に対する差別意識を目の当たりにする。妻に面と向かって「汚らわしい」と言われ愕然とする。このシーンは美香がいままで明るく献身的だっただけに強烈だった。
上村がいう隙間産業である納棺師という仕事に携わる主人公たちは「人の死で飯を食ってるくせに」と罵られる。しかし、その男も全てが終ったあとは心から「ありがとう」と涙を流す。
誤解されやすい職業なのだと俄然興味がわいて映画の世界に引き込まれる。

人の死は誰であれ悲しいもので、美しい化粧を施された遺体、ルーズソックスをはかせてもらったおばあちゃん、沢山のキスマークをつけられ泣き笑いでおくられる者。
涙、涙、涙の連続で、久しぶりに泣いたなあ・・・。
しかし、全体的にはお涙頂戴映画ではなくて、冒頭の納棺の儀式のように緊張感が漂うが、すぐに笑えるオチが付くなどコミカルな展開である。それがなぜだかリアルに感じてしまうのは、実際のお葬式もそのような要素を持っているせいだと思う。

社長の佐々木は大悟の繊細な指先にその才能を見出したと思うのだが、納棺の仕事が大悟の天職と見抜いたに違いない。実際大吾を演じた本木雅弘の所作は流れるようで、実に色気があった。この色気を表現できる役者が少なくなってきていると思うので、彼は実に貴重な俳優だと思う。
また山崎務の絶妙な演技が、登場人物すべての生き様を引き出していて、コミカルなシーンを演出しながらも物語に深みを与えていたのは流石と感じた。

劇中に度々食事シーンが登場するが、それらの食材はすべて生き物だった。それらの意味は高級食材の白子を食べる場面に象徴的に描かれている。動物は動物を食べて生きながらえている。「死ねないなら食べることだ。同じ食べるなら美味いものを」と佐々木は言う。
佐々木は食べるという儀式を納棺の儀式に重ねていたのではないか。感謝しながら食べることで生き物の死を有益なものにする。
荘厳な納棺の儀式の中で、故人を敬い、そして見送る人々の悲しみを納めるからこそ、その人の死を乗り越えることができるのではないだろうか。

吉行和子がやっている銭湯に通い続けていた平田さん(笹野高史)も、見送る仕事をしている人だとわかり、彼が言う「死は門です」という言葉にジーンとくるあたりから一気にラストに向かう。幼少期に自分を捨てた父親へのわだかまりが解ける終盤は感動を呼び、温もりを持って父をおくりだしす主人公の姿は、夫婦や親子、周囲の人々の絆を感じさせた。
人の死は別れでもあると共に、残された人々の生でもあらねばならないことを教えてくれたようで、滝田洋二郎久々の作品だったと思う。

王手

2019-02-15 10:02:25 | 映画
「王手」 1991年 日本


監督 阪本順治
出演 赤井英和 加藤昌也 広田玲央名
   仁藤優子 金子信雄 若山富三郎
   梅津栄 汐路章 國村隼
   シーザー武志 芹沢正和 坂東玉基
   伊武雅刀 麿赤児 笑福亭松之助

ストーリー
大阪・新世界に住む飛田(赤井英和)は「通天閣の真剣師」と呼ばれ、借金取りに追われながらも賭け将棋で暮らしていた。
プロの名人を目指す香山(加藤昌也)は幼なじみで、対照的な性格でありながらも二人は将棋が取り持つ腐れ縁の仲だった。
香山は薬屋の加奈子(仁藤優子)に想いを寄せていたが、彼女は“将棋オタク”の香山がじれったい。
一方、日本海の温泉町に出向いた飛田は、そこでストリッパーの照美(広田玲央名)と出会い、また想いを寄せる。
そんな折り、二人の前に伝説の老真剣師・三田村(若山富三郎)が現れる。
飛田は老いた三田村にまったく歯が立たなかった。
そんな中でも借金取りから逃げながら、プロ、アマ問わず真剣勝負に燃える飛田。
やがて彼は名人戦に挑むことになる。
相手はまだ少年だったが甘くはない。
飛田は名人戦にすべてをかけて、平安の本将棋で三田村と再度勝負をする。
飛田はようやく三田村に勝ち、遂に矢倉名人(坂東玉基)に挑む。
そして、長時間の勝負の末、飛田は矢倉を打ち崩すのだった。

寸評
松本雄吉、麿赤児、國村隼、笑福亭松之助ら関西の個性派も勢揃い。
でたらめで実におもしろい、男の映画だ。
将棋をテーマにここまで楽しい映画を撮れる阪本監督に敬意を表する。

オープニングのタイトルの出方がまず素晴らしい。
思わず映画に引き込まれてしまう。
名人を負かして「今度は真剣でやろや」と去っていくのもかっこいい。
加奈子役の仁藤優子は「どついたるねん」の相楽晴子と同じ路線で僕の好きなタイプの女優さんだ。
主演の赤井英和はもちろんいいし、若山富三郎の怪演もなかなか見物。
加藤雅也がモヤシ君役を見事に演じているのも面白い。
「まいど!」の挨拶に「おいど!」と答えたり、暑い盛りにフグをたべてウンコ話で盛り上がる、あるいは四文字熟語として欧陽菲菲(当時人気のあった歌手)と扇子に書いているなど、大阪人らしい細かいギャグもふんだんで大いに笑える。
「どついたるねん」「王手」「ビリケン」という阪本監督の新世界三部作ではこれが一番新世界の雰囲気が出ていると思う。おすすめ。
若山富三郎はこれが遺作となった。

大鹿村騒動記

2019-02-14 09:27:04 | 映画
「大鹿村騒動記」 2011年 日本


監督 阪本順治
出演 原田芳雄 大楠道代 岸部一徳 松たか子
   佐藤浩市 冨浦智嗣 瑛太 石橋蓮司
   小野武彦 小倉一郎 でんでん 加藤虎ノ介
   三國連太郎

ストーリー
雄大な南アルプスの麓にある長野県大鹿村は、300年以上の歴史と伝統を誇る村歌舞伎が自慢。
シカ料理店を営む初老の男・風祭善(原田芳雄)は大鹿歌舞伎の花形役者。
ひとたび舞台に立てば、見物の声援を一身にあびる存在である。
しかし実生活では、かつて女房の貴子に逃げられて以来、寂しい一人暮らしの日々を送っている。
そんな中、村ではリニア新幹線の誘致を巡って喧々ごうごう、公演が5日後に迫っても、善以外はなかなか稽古に身が入らない。
するとそこへ、公演を5日後に控えた折も折、18年前に駆け落ちした妻・貴子(大楠道代)と幼なじみの治(岸部一徳)が帰ってくる。
しかも治は、認知症を患った貴子を持て余して善に返すと言い出す。
善は強がりながらも心は千々に乱れ、ついには芝居を投げ出してしまう。
仲間や村人たちが固唾を呑んで見守るなか、刻々と近づく公演日。
そこに大型台風まで加わって……。
ハテ300年の伝統は途切れてしまうのか、小さな村を巻き込んだ大騒動の行方やいかに……。

寸評
原田芳雄の遺作となってしまった。「反逆のメロディ」で彼の名前を知り、日活ニューアクションのヒーローとして憧れ、「竜馬暗殺」の迫力に圧倒されたのは学生時代のことで実に40年も前のことだ。訃報を聞いて、持っていたはずのカセットテープを探してみたが見当たらなかった。もうあのしわがれたブルースも聞けないのかと思うと実に淋しい。数多の映画シーンを思い浮かべながらの映画館までの道筋だった。

原田芳雄、大楠道代、岸部一徳の年輪と芸歴を感じさせる演技、特にラストシーンで原田芳雄の姿をみて、これが最後かと涙が流れてしまった。幼なじみっていいものだなあ~。
私は生活基盤を転々としたせいで、心底幼なじみと呼べる相手はいないので、彼等の係わり方を見ていると実に羨ましかった。
三人の交流は当然ながら、貴子の父親である三國連太郎と原田芳雄のからみ。石橋蓮司の存在や、松たか子や佐藤浩市、あるいは瑛太などの若い連中の村における位置関係が、実感を持って心の交流を感じさせて微笑ましい。大越村程ではないにしろ、今もって村と呼ぶにふさわしい場所に住まいする私にとっては、違和感のない人間関係だった。
大阪岸和田の”だんじり祭り”や徳島の”阿波踊り”など、その伝統行事を目標に一年を過ごし、それに賭ける人々の存在は我々も知るところだが、もっと人口密度の少ない地域にもそれらの人々が居ることが何故だか嬉しい。

前半は好演が近づく歌舞伎の準備を軸に、登場人物の悲喜こもごもが面白おかしく描かれる。
大鹿村の美しい自然を背景に、リニアモーターカー駅の誘致問題や、中国人の農業研修やら性同一性障害の問題などがてんこ盛りで、それらを添え物として話は進み絶妙のやり取りがなされる。私はコメディとして、この滑稽さの中で人間関係が描かれていく展開が、私の滑稽な人間性ともマッチするのか、リラックスして見ることが出来て実に楽しく感じる。そうしたことからすると題名通りのもっとハチャメチャな大騒動があっても良かったのかもしれない。

後半、貴子が駆け落ちした日にもあった嵐が再び襲ってくるあたりから大きく事態は動き、その中で村歌舞伎が上演される。瑛太の解説もあって、この歌舞伎シーンだけでも見ごたえが有り、ドキュメンタリー番組を見ているようでさえある。
子供のころ、村祭りの舞台で近所の春江おばさんが芝居衣装を着こんで舞い踊ればヤンヤの喝さいで、客席からは”おひねり”が飛び交っていたことを思い出した。
舞台前の広場に集まった村人たちの様子も懐かしくあり、本物の役者さんが演じる舞台を興味を持って楽しんだのだろうと想像した。
山村がさびれ、年齢層の高い村々が出現しているが、決してそのまま消え去る運命だけにさらされているわけではないことを感じさせた。
ここに描かれたような土着の人々が、営々と引き継がれてきた伝統に打ち込む無償のエネルギーに活力の源が存在していることを表していた。
大越村に行って、村歌舞伎を見て鹿を食べてみたーい!そして原田さんのご冥福を祈りたい。