おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

砂の女

2019-08-31 07:05:07 | 映画
1本、思い出したので・・・。


「砂の女」 1964年 日本


監督 勅使河原宏
出演 岡田英次 岸田今日子
   三井弘次 伊藤弘子 矢野宣
   関口銀三 市原清彦

ストーリー
遥か彼方まで延々と連なる砂丘。
一人の中学校教師、仁木順平は3日間の休暇を利用して、昆虫の採集と生態観察をしにやって来た。
日が暮れかかり、休んでいるところへの男が通りかかった。
この近くで泊まるとこの世話ぐらいしてあげられると、仁木がの男たちに案内されたところは砂丘を掘った中に建てられた一軒の小屋で、その家に住む女が家の中へ招き入れた。
主人に死なれ一人で住んでいるのだという。
女が砂をかき、モッコに載せた砂を上の男たちが滑車で引き上げる。
引き上げた砂はどこかへ捨てるのであろうか、そんな作業は朝まで続くのだった。
翌日、仁木は身支度をし、外へ出てみると自分が降りた筈の梯子がない。
砂をよじ登るが、砂はまったく手ごたえがなく、足元から崩れるばかりだ。
夜、仁木は砂かきを手伝うが、仁木にはこんな生活に明け暮れる女がまったく理解できない。
仁木は密かに隙を見て縄梯子を作っていた。
ある日、女に焼酎を飲ませ、寝入った頃を見計らって忍者よろしく縄を上の滑車の土台めがけて投げる。
何回かで縄の先端の突起が何かに掛かり、やっと地表に出ると辺りは暗くなりつつあった。
仁木は走ったが、どこをどう走ったものやら、どういうわけか、真っ直ぐ走っている筈が方角が違う。
そして、気付いた時、おぞましい落とし穴にはまっている自分に気付いた。
の男たちがやって来て仁木を穴から救い出し、仁木は再び女の小屋へ逆戻りとなった。
縄梯子が残されていて、このまま逃げようと思えば逃げられるが、仁木は再び穴に戻った・・・。


寸評
砂の壁が崩れていく、砂の中を小さな虫が這う、男と女の肌に砂粒がベタリと粘着する。
砂のイメージが画面を通じて迫ってきて、紛れもなくこの映画の主人公は「砂」そのものである。
しかもその砂は心地よいものではなく、むしろ嫌な思いのするものだ。
海辺の砂浜をサンダルで歩いた時に、濡れた足とサンダルの間に入り込んだ砂のうっとしい感覚が湧いてくる。
僕は若い頃に砂丘近くの松林で野営したことがあるが、暗闇の中、風が極小の砂粒を運んできて鉄板の野菜炒めの中に入り込み、見た目には分からず口に入れたとたん、ジャリッと音がして食べられたものではない。
あの不愉快な感覚が鳥肌を伴って蘇ってきた。
それほどにこの映画における、じわじわとこちらににじり寄ってくるかのような砂の映像は特筆ものである。

女は蟻地獄のような場所に住んでいて、引っ越せばよいではないかと思うが女にその気はない。
岸田今日子の大きな目と口という特徴ある顔立ちはこの映画にピッタリであり、女は砂の精なのかもしれないと思わせるような所もある。
砂の女を非常にエロティックな目線で撮っているのも雰囲気を出している。
男に対し罪悪感を感じつつも、どうしてもそばにいて欲しいと願う寂しい砂の女を岸田今日子は見事に演じている。
男は昆虫採集にこの土地を訪れたのだが、自分が蟻地獄に捕らえられてしまったようで抜け出せない。
何とか抜け出そうともがく姿に引き込まれていく。
現実にはこんな場所はないだろうし、こんな目にあう人もいないだろうが、それが空想の世界を飛び越えて現実の世界の物語と迫ってくる説得力のようなものをこの映画の映像は有している。
身体にまとわりつく砂粒の不快感の中で、水がなくなってゆくというあせりで追い詰められていく男の心と身体の凄まじい渇きが見事に映し出されていく。

男はやっとの思いでここから逃げ出すが、再び戻ってきてしまう。
住めば都なのか、一度馴染んでしまった地域共同体の世界から出ていくことの難しさなのかもしれない。
地域には地域独特の風習や決まりが存在し、見知らぬ土地に同化することの大変さは想像の範囲内だ。
僕もこの土地にきて50年以上になるが、それでも”入り人”としての違和感と線引きを感じることがある。
家の成り立ち、人の生い立ちを熟知している土着の人たちと、途中からやってきた自分とのわずかな溝を何かにつけて感じるのだ。
男は毛細管現象を利用した水の入手を考案する。
水道が当たり前の人には分かってもらえないが、この土地の人ならこの装置の素晴らしさに興味を示してくれるはずだとの理由で男はこの場所に居つくのだが、男はこの場所で自分が存在する価値を見出したのだろう。
自分がこの土地に同化できる手立てを発見した喜びがあったのかもしれない。
皮肉なことに女はこの場所を外部要因によって出ていくことになる。
この対比も何か思わせぶりだ。
何かよく分からない話だが、何かあると感じさせる映画で、モノトーンの映像が効果を最大限に生かしている。
タイトルバックのハンコによるスタッフ・キャストの表現はユニークだった。

スラムドッグ$ミリオネア

2019-08-30 14:17:48 | 映画
「スラムドッグ$ミリオネア」 2008年 アメリカ


監督 ダニー・ボイル
出演 デヴ・パテル
   マドゥル・ミッタル
   フリーダ・ピント
   アニル・カプール
   イルファン・カーン
   アーユッシュ・マヘーシュ・ケーデカール
   アズルディン・モハメド・イスマイル
   ルビーナ・アリ
   
ストーリー
インドのスラム街に生まれ育ったジャマールは、人気番組「クイズ$ミリオネア」に出演していた。
司会者であるプレームの挑発にも反応しないで、難解な問題の数々に冷静な対応するジャーマルは、とうとう最後の1問というところにまでたどりついた。
正解すれば、賞金は2000万ルピーで、18歳のジャーマルにとって、一生かかっても手にできない大金。
危機を感じたプレームは、1日目の収録が終わったところで警察に通報してジャマールを拘束させた。
拷問を受けるジャマールは、これまで過ごしてきた人生を告白する。
彼と兄のサリームは、幼い頃に母を亡くして孤児となった。
そんな二人が出逢ったのは、孤児の少女ラティカで、彼らは自分たちを「三銃士」に見立てて、過酷な現実を生き抜いていく。
しかし、孤児たちを搾取する大人達のもとから逃げ出す途中で、兄弟とラティカは生き別れとなってしまう。
ジャマールとサリームは、金を盗んだり観光ガイドのフリをして生き延びていくが、やがてサリームは悪の道を歩みはじめる。
そんな兄とは対照的な生き方をするジャマールの心の支えはラティカだった。
彼女と再会したい彼は、人気番組である「クイズ$ミリオネア」への出演を決意したのだ。
釈放されたジャマールは「ファイナル・アンサー」を答えるため、テレビ局のスタジオへと戻るのだが・・・。


寸評
英国/米国資本になる映画だが、これは間違いなくインド映画だ。
ラストでインド映画お決まりの集団による歌とダンスが繰り広げられる。
見ている我々を幸せにしてくれるこのお約束事はまさしくインド映画だ。
日本でも、みのもんた司会による人気番組「クイズ・ミリオネア」として放送されていたので、クイズの盛り上がりにすんなり入り込めた。
4者択一で正解するたびに賞金が上がっていくシステムで、後の問題ほど勘違いしやすいものや難しいものになっていくのが通例だ。
会場の来場者に答えを聞くオーディエンス(会場の答えも分かれるが、答えたパーセンテージが示される)、確率を2分の1にしてもらう50-50(フィフティ、フィフティ)、知り合いに電話して答えを聞くことが出来るテレフォンがライフラインとして1度だけ使えるというのがクイズのルールである。
ルールは単純なのでクイズ番組を知らなくても楽しめる内容になっている。

どこまでも続くかのようなスラム街の俯瞰は美しくもあった。
斜めに切り取った画面が緊張感を醸し出し、原色がまじるスラム街の雑多な光景が絵画の様でもある。
原色の中でも黄色がやけに目に付く作品で、目に飛び込んでくるその色は非常に印象的である。
スラム街に住まう大勢の人々、嘘もつくし盗みもするがそうしなければ生きていけない宿命と、生きていくしたたかさは成長するインドのエネルギーの源かも知れない。
子供を食い物にする大人の悪辣さのなかでクイズの答えに結びつく出来事を経験していく。
その構成が巧みで見る者を引き付ける。

冒頭でジャマールが勝ち残れたのは(1)インチキ、(2)ツイテいた、(3)天才だった、(4)運命と問題が表示される。
当然(4)で、これからジャマールの運命が描かれることを知らせ、インチキと思われたジャマールが拷問を受ける取り調べの様子と、番組出演の様子が切り替わるように上手くリンクさせていて、導入部としては上出来だった。
1問目のヒット映画の主演俳優を答えるエピソードは傑作で、この映画の雰囲気を形作っている。
3問目あたりになると宗教紛争の理不尽さも描かれ、問題の正解が自分にとって印象的だった出来事のわずかなことに隠されていることを印象付ける。
その後の問題もジャマールに起きた出来事に関係するものばかりで、その出来事が後追いのような形で示される展開も小気味よい。
番組の司会者の答えを暗示するエピソードの結末も、最後に最初の答えとしてD・運命だったと表示されるのも、ちょっと分かりすぎるものではあったけれど、それにしても最終問題はあまりにも簡単すぎるように思える。
それでも、その問題は冒頭の悪さを仕出かしていたために聞き洩らしたことが過去の経験のなかに埋もれたいたことを表していたのだろうし、ジャマールは経験したこと以外は簡単なことも知らなかったということを示していた。
スラム街の後に建設されていく高層ビル群や、少年のジャマールが虐待に「これがインドの真実だ」と言うと、居合わせたアメリカ人が「アメリカの真実を見せてやる」と100ドル紙幣を渡したりするのは、今日の現実を皮肉をこめて描いていたのだと思う。
世界経済におけるインドの発展はともかくとして、アメリカ人が札びらを切るのは金融不安への皮肉か?

スペース カウボーイ

2019-08-29 13:41:55 | 映画
「スペース カウボーイ」 2000年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 クリント・イーストウッド
   トミー・リー・ジョーンズ
   ドナルド・サザーランド
   ジェームズ・ガーナー
   ジェームズ・クロムウェル
   ウィリアム・ディヴェイン
   マーシャ・ゲイ・ハーデン

ストーリー
1958年、アメリカ空軍のパイロットチーム:ダイダロスは、米国初の宇宙飛行士になるはずだった。
しかし、直前になってアメリカ政府はダイダロス計画を中止することのなり、新設されたNASAが選んだのはチンパンジーだった。
彼らは宇宙へ行く夢を諦め、技術者として勤務し、やがて退役した。
計画中止から40年余、妻と共に郊外の一軒家でのんびりと暮らしていたダイダロスのメンバー、フランク・コービン(クリント・イーストウッド)をNASAが突然呼びよせる。
ロシアの旧式の宇宙衛星アイコンを修理してほしいというものだった。
衛星軌道上で旧ソ連の通信衛星「アイコン」が故障してしまい、旧型機を修理できるのは、その設計者であるフランクだけだったのだ。
なぜ自分の設計がソ連の通信衛星に使われていたのかというNASAへの疑いとかつての屈辱が膨らみ、在職時の上官であるガーソン(ローレン・ディーン)をけしかけてチーム・ダイダロスの宇宙行きを約束させる。
かくしてかつての仲間、曲芸パイロットのホーク・ホーキンズ(トミー・リー・ジョーンズ)、、ジェットコースター技師のジェリー・オニール(ドナルド・サザーランド)、牧師のタンク・サリバン(ジェームズ・ガーナー)が集まり、老人飛行士と笑われながら、チーム・ダイダロスは健康診断のあと遂に宇宙へと飛び立つ。
しかしホークは、実はガンだった。
彼等が目の当たりにしたアイコンは「通信衛星」どころか、核ミサイル6発を搭載した自衛能力付きのミサイル衛星だった。
ウィリアムだけが作業の犠牲を自ら申し出て、月に向かって突っ込んでいく。
残りの3人は無事地球に帰還するのだった。


寸評
超一級のエンタテインメント作品で実に面白い。
アメリカが行った初期の宇宙開発計画であるマーキュリー計画でチンパンジーが使われたことをここまでの話にまとめ上げたのは素晴らしい。
この頃のアメリカは宇宙開発においてはソ連に一歩も二歩も遅れていた。
アメリカが有人飛行を行う前に動物を使って実験を行っていたが、その時チンパンジーに宇宙旅行の先を越されたのがフランク達4人だったと言うのだ。
宇宙開発を空軍が担当していた時の、若かりしフランクたち兵士のダイダロスメンバーとしての無軌道ぶりが導入部で描かれる。
この頃からのフランクとホークの張り合う関係が、本編中にも持ち越されて楽しめる。
メンバーはすでに歳をとっているがパイロットであった頃の夢と気質はなくしていない。
彼等の現状も小気味よく紹介されていき再びメンバー結集となるのだが、その描き方も手際が良い。

若い現役飛行士と共に訓練望む老人たち4人の姿も微笑ましいし笑える。
若者たちはマニュアルとコンピュータを信じているが、彼等は自分たちの経験と技術を信じている。
お互いをからかい合う様子も笑わせる。
さらにロートルたちのロマンスも描かれて雰囲気を増幅させるが、それはあくまでも副次的なエピソードとして適度な濃度で描いているのも好感が持てる。
かつての上官であるガーソンとフランクの確執、故障したのが旧ソ連の衛星のために修理を依頼したのがロシアの将軍だと言うこと、そしてなぜフランクの設計図がソ連に渡っていたのかというミステリアスな部分を残しながら物語が進んでいく脚本も見事だ。
ロートルが活躍する映画もこれまた多くあるが、ここでの4人もすごく存在感がある。
年齢を吹き飛ばすような強がりを最後まで言っているのが痛快だ。
渋みを帯びた4人が登場するだけで画面を圧倒してしまう存在感がある。

宇宙に出てからの映像処理は流石にアメリカ映画は一日の長がある。
これが通信衛星かと思わせる防御システムを備えた旧ソ連の衛星も迫力がある。
宇宙での修理作業を長々と見せないのもいい。
ドッキングしてすぐに核弾頭ミサイルを発見し、すこしトラブルを起こすがすぐに衛星の消滅行動に移る。
その時のホークとフランクのやり取りが泣かせるし、ホークはこれでフランクへの借りを返したことになる。
帰還時は若者二人は気絶していて老人たちの独断場、シュミレーターで披露した腕前も発揮され感動的だ。

核ミサイル処理のために月に向かって飛んで行ったホークと衛星だが、衛星が無事始末されたとの会話でホークの死亡が暗示されるけれど、最後になってジャズのスタンダード・ナンバーである「Fly Me to the Moon」と共にホークの姿が映され、ヘルメットのカバーに地球が写る劇的シーンに胸が詰まった。
宇宙での出来事を描いた作品は宇宙戦争物も含めて数あるけれど、スペース物の中でも最上位に位置する作品に仕上がっていると思う。

スピード

2019-08-28 10:49:30 | 映画
「スピード」 1994年 アメリカ


監督 ヤン・デ・ボン
出演 キアヌ・リーヴス 
   デニス・ホッパー
   サンドラ・ブロック
   ジョー・モートン
   ジェフ・ダニエルズ
   アラン・ラック
   グレン・プラマー
   リチャード・ラインバック

ストーリー
ロサンゼルスの高層ビルのエレベーターが爆発し、10数名が宙づり状態のまま閉じ込められた。
脅迫電話が警察に入り、要求に応じなければケーブルを爆破し乗客を皆殺しにするという。
ロス警察SWAT隊の若き行動派、ジャック(キアヌ・リーヴス)は、パートナーのハリー(ジェフ・ダニエルズ)と共に全員を救出した。
彼はビルに潜んでいた犯人のハワード(デニス・ホッパー)と対峙するが、惜しくも逃げられる。
数日後、ハワードは電話でジャックに「この前の仕返しに、市バスに爆弾を仕掛けた。
時速80キロ以下に落とすと自動的に爆発する」と告げ、身代金を要求した。
ジャックは15名の乗客を乗せて走るバスを追い、飛び乗った。
重傷を負った運転手の代わりにアニー(サンドラ・ブロック)という若い女性がハンドルを握る。
ロス市警が見守る中、バスはハイウェイを走り続けた。
ジャックからの連絡で、起爆装置の腕時計が退職警官に贈られる物であることを知ったハリーは、当該リストから犯人を割り出した。
ジャックは空港内の滑走路に入り、車内をビデオカメラで監視していた犯人のハワードをトリックで欺く。
その隙にSWATと協力して乗客を救出すると、残ったアニーと共にバスから脱出する。
そうとは知らぬハワードは身代金の受け渡し場所に現われ、金を奪って逃げ去った…。


寸評
時速が一定のスピード以下になると起爆装置が働くというのは日本映画の「新幹線大爆破」でも用いられたモチーフだが、時代が新しいだけあってノンストップ・ムービーとしての緊迫感は流石にアメリカ映画と唸らせる。

エレベーターの昇降機内部の映像にオープニングのクレジットが重なり、それが終わるといきなり殺人事件発生。
犯人によるエレベーター爆破が起こり、エレベーターは宙吊りとなる。
ジャックとハリーが登場し乗客の救出劇と、犯人逮捕劇が展開されていく。
無駄な話やシーンを排除して一気に観客を画面に引き付けるテンポの良さだ。このテンポの良さは最後まで崩れることはなかった。
ジャックとハリーが緊張感の中で交わす会話がその後の伏線になっている。
「何のために危ない仕事をする?年金と安物の時計の為か?」とか、クイズ問題でのジャックの答えなどだ。
犯人の動機などは不明だが、いきなりの犯人登場で、犯人探しがメインでないことは明らかなオープニングだ。
犯人の計画は失敗に終わるが、かなりの時間を割いて描いた冒頭の出来事はこれから起こる事件の序章に過ぎず、その後の犯人の復讐戦とも言うべき本題が展開されることになる。
第二幕とも言うべき事件の幕開けも間髪をおかず、それでいてスムーズな入りだ。
そこからはキアヌ・リーブス=ジャックの超人的な活躍が始まり、ハラハラドキドキしながら手に汗握るシーンの連続で、兎に角ショートヘアのキアヌ・リーブスが格好いい。バスから車に乗り移るシーンなんて颯爽としている。

ノンストップが売り物だけに、次から次へと起こる問題も、大小取り混ぜて飽きさせない。
バスに別の事件の犯人らしき男が乗っていたり、ハイウェイが工事の遅れで途中で切れていたり、乳母車を跳ね飛ばしたり…と枚挙にいとまがないほどだ。
手錠を外された別件犯の乗客に「撃つ気はなかったんだ」と言わせて、乗客の一体感を表し、危機を脱したところで皆が抱き合って喜ぶなど細かい演出も見られる。
アニー役のサンドラ・ブロックが免停中の肝っ玉姉ちゃんを演じていて、彼女の見事なワイルド・キャットぶりはこの映画の魅力の一助になっていた。
バスから最後に脱出する二人が台車に乗って疾走するシーンのなんてスカッとすることか。
抱き合った二人を乗せて疾走する台車のスピード感がたまらなくいい。

欲を言えば、最後がちょっと尻切れトンボに感じたので、ここでもう少しアッと言わせて欲しかった。
その原因はジャックと犯人ハワードの走る列車の屋根上で繰り広げられる格闘の結末の呆気なさだったと思う。
列車に飛び乗ったジャックが屋根上に上がると、信号機のような赤いランプにぶつかりそうになる。
その障害物を必死に避けながら犯人に近づいていくシーンがあるので、格闘場面でのランプの挿入は少しクドすぎたように思う。決着のつき方が予想されてしまった。
地下鉄の工事中現場から電車が地上に飛び出してきて、助かった二人が抱き合い、アニーが「セックスで結ばれましょう」なんて言う小気味よい会話のエンドが控えていただけに惜しかったような気がするのだが…。
しかし、このたぐいの映画の模範になると言ってもいいような出来栄えには仕上がっていたと思う。

ストリート・オブ・ファイヤー

2019-08-27 15:00:24 | 映画
「ストリート・オブ・ファイヤー」 1984年 アメリカ


監督 ウォルター・ヒル
出演 マイケル・パレ
   ダイアン・レイン
   ウィレム・デフォー
   リック・モラニス
   エイミー・マディガン
   リック・ロソヴィッチ
   ビル・パクストン
   デボラ・ヴァン・フォルケンバーグ

ストーリー
リッチモンド生まれのロック・クイーン、エレン・エイムがアタッカーズを引き連れて凱旋して来た。
ロック・コンサート会場は熱気に包まれ、ピークに達しようとしていたその時、ストリートギャングボンバーズのリーダー、レイヴェンが手下を指揮してステージに乱入、エレンを連れ去った。
その夜、レストランで働くリーヴァは弟のトム・コーディに手紙を出した。
トムはエレンのかつての恋人で、彼女の危機を知れば弟が街に戻ってくることをリーヴァは知っていた。
数日後、ロングコートに身を包んだトムが帰ってきた。
彼はボンバーズの情報を得るため、かつての馴染みの酒場に出かけていった。
そこでトムはマッコイと名のる元陸軍の車輛係をしていた女兵士と出会い、意気投合。
翌日、トムは1人で武器を調達武装してエレン奪還の準備を整えた。
その日の午後、エレンのマネージャー兼恋人のビリー・フィッシュと会い、救出に成功したらトムとマッコイに賞金1万ドルを出させることを約束させて、3人はボンバーズの根城であるバッテリー地区へ向かった。
トムとマッコイはアジトに侵入しエレンを救出したが、トムが賞金目当てに自分を救い出しに来たことをビリーから聞いたエレンは、卜ムの心を計りかねた。
リッチモンドへの帰路、警察の封鎖を突破するため、ドゥアップ・グループのソレルズが乗ったバスを奪って、封鎖線を強行突破した。
リッチモンドの人々はエレンたちを熱烈に歓迎したが、メンツをつぶされたレイヴェンが黙っているわけがない。


寸評
上質なミュージックビデオだ。
特にはじめと最後のダイアン・レイン扮するエレンのライブシーンがいい。
歌自体は吹き替えらしいが、そんなことは映画の出来とは関係がなく、あらゆる手法を講じて映像を作り上げていくのが映画の醍醐味なのだ
作品全体を通じて、見ているうちに足でリズムを取り始めてしまうような観客を引き込む力を持っている。
BGMとして流れてくるドラム演奏が雰囲気を盛り上げていた。

冒頭のダイアン・レイン扮するロック歌手エレンのLIVEシーンで一気に観客の心を鷲掴みにする。
かっこよすぎるダイアン・レイン、熱狂する観客・・・ステージ後方の扉が開き、数人の男たちが入ってくるが彼等はシルエットでゆっくりとステージに向かって歩を進める。
シルエットのままで先頭の男の目は舞台のエレンに釘付けになり、エレンの歌をバックに彼女を見つめるシルエットの男。
そして「今だ!」の声でエレンは誘拐されるのだが、この導入部のスピード感がたまらなくいい。

トム・コーディは警察も目をつけていた悪だし、相手のボンバーズ・グループも暴走族集団のような愚連隊だが、その抗争では誰も死なない。
銃をぶっ放しての救出場面などもあるが、バイクを狙い打ったり、ガソリンに引火させたりして反撃を封じるだけで、決して射殺することはない。
人を殺さないことは事前にトムが言っているので違和感は全くないのだが、この手の映画としては極めて珍しい。
トムは寡黙で終始最小限の会話で通し、ニヒルな感じのヒーローだ。
エレンの元カレだが、現恋人でマネージャのビリー・フィッシュ(リック・モラニス)と対局にある人物設定で、この単純さがポップな作品に仕上げることに一役買っている。

そして微妙な雰囲気を出すことに一役買っているのが、トムがたまたま出会った軍隊帰りの男勝りの女性マッコイとの微妙な距離感だ。
マッコイはトムのことを「好みじゃない」と一言で片付けておきながら、一人寂しくバーで酒を傾けてたりしていてその距離感を保っている。
トムの相棒がこの女性であることでエレン救出がスムーズに運ぶことになるので、なかなかいいキャスティングだったと思う。
相棒が男ならド派手なドンパチが始まって、通常のアクション映画になってしまっていたかもしれない。
宿敵になるストリート・ギャング「ボンバーズ」 のリーダー、レイベンを演じるのがウィレム・デフォーなんだけれど、コテコテのキャラで印象は強烈だが、サブリーダーのビル・パクストンの方がリーダー的で、引き上げを宣言する姿を見ていると、トップの入れ替えが起きるなと想像してしまう。

最後にトムがエレンにトムは「お前には歌があるが、おれは衣装ケースを運ぶ柄じゃない。必要なときは呼んでくれ。俺はいつでもそばにいる」と言って去っていく。
カッコイイ!

スティング

2019-08-26 09:03:22 | 映画
「スティング」 1973年 アメリカ


監督 ジョージ・ロイ・ヒル
出演 ロバート・レッドフォード
   ポール・ニューマン
   ロバート・ショウ
   チャールズ・ダーニング
   アイリーン・ブレナン
   レイ・ウォルストン
   サリー・カークランド
   チャールズ・ディアコップ
   ダナ・エルカー
   ディミトラ・アーリス

ストーリー
<下ごしらえ> 1936年。シカゴに近いジョリエットの下町で道路師と呼ばれる詐欺師3人が通りがかりの男から金を奪った。数日後、主謀者のルーサーが死体となって見つかった。大組織に手を出した当然のむくいとしてルーサーは消されたのだが、組織の手は一味の1人フッカー(ロバート・レッドフォード)にものびていた。
ルーサーの復讐を誓ってフッカーはシカゴのゴンドルフを訪ねた。
親友の死を知ったゴンドルフ(ポール・ニューマン)は、相手がロネガン(ロバート・ショウ)と聞き目を輝かせた。 <シナリオ> 二人は、ロネガンがポーカーと競馬に眼がないこと、近くシカゴを訪れることなどを調べ上げた。ゴンドルフは急ぎ昔の仲間を集め、シカゴの下町にインチキノミ屋を構えた。
<ひっかけ> シカゴに向かう列車の車中で、ロネガンはいつもポーカー賭博をやると聞いたゴンドルフは、その仲間入りをし、いかさまでロネガンを大きくへこませた。しかも、ロネガンのサイフはゴンドルフの情婦にスリ取られていたために負け金を払うことも出来ない始末だった。
<吊り店> 翌日、ロネガンの宿にゴンドルフの勝金を取りにきたフッカーは、ゴンドルフのポーカーがイカサマであることを告げ、頭にきたロネガンに負け金の何十倍も稼げる話を持ち込んだ。
<しめ出し> だが、彼らの活発な動きはFBIの目にとまり始めていた。フッカーを追うスナイダー(チャールズ・ダーニング)という悪徳警官もうろついている。
そしてついに、50万ドルの大金を注ぎ込むことにしたロネガンは、自らノミ屋に出向いた。
<最後にぐっさり> ・・・・・・。


寸評
ジョージ・ロイ・ヒルは以前に「明日に向かって撃て!」というノスタルジックな西部劇の傑篇を撮っているが、この作品でも「明日に向かって撃て!」のコンビであるポール・ニューマンとロバート・レッドフォードを起用して、同じような雰囲気を出しながら、一大ペテン師絵巻を繰り広げている。
ジョージ・ロイ・ヒルの代表作は結局「明日に向って撃て!」と、この「スティング」ということになって、たった2本で名監督の仲間入りをしたと思う。

ピアノに乗ってクラシック風なテーマ曲が流れ、そのメロディと共に映像でもってキャストが紹介される。
ノスタルジックなタイトルバックに続いて、やがて我々はクラシックなシカゴの町へ誘われていく。
そしてオープニングから本当に誘われたのは心地よさが生じた映画の世界だ。
その後も軽快な音楽に乗ってとんでもないペテン師劇場が繰り広げられていく。
詐欺のためのセット作り、あるいはでっちあげた場所を乗っ取るための手際の良さなどが面白い。
その手際の良さを画面のスピーディな展開が後押しして、一層手際の良さを際立たせている。

ヘンリー・ゴンドルフ(ポール・ニューマン)が列車の中でロネガン(ロバート・ショウ)にポーカーを使ってイカサマを仕掛けるシーンなどは娯楽映画の極地を行っている。
このシーンでは何と言ってもポール・ニューマンの仕草が滑稽だ。
わざと酒を飲んできて、水で薄めた酒瓶をあおりながらポーカーに興じる。
彼の後ろにはロネガンの手下がいるので、手の内を見られないようにコソッとカードを見る。
その様子がとんでもなく愉快だ。
ジョニーをやったロバート・レッドフォードもいいが、流石にポール・ニューマンのカッコ良さには及ばない。
そんな風に感じたのはポール・ニューマンの大ファンである僕のえこ贔屓か?
その愉快なポーカーシーンと同時に、ペテンの舞台が整えられていく。
ペテン師の面接を初め、セットを造っていく様子などへの場面切り替えもテンポがよく、そのテンポにつられるように観客である僕はウキウキしだす。
ヘンリー・ゴンドルフの愛人が飛びきりの美人でないのも雰囲気を出していたなあ。
なかなか度胸が据わっていてハッタリの効く姉御だった。

練られた脚本は幾重にも伏線を張り巡らしている。
詐欺師のジョニーは刑事のスナイダーに追われ続けている。
またジョニーはロネガンの金を奪ったことから、彼の手下にも追われているのだが、彼の顔をロネガンは知らない。
ロネガンはジョニーを殺すために、より優れた暗殺者を送り込んでくるが、それが誰かは謎のままである。
ヘンリー・ゴンドルフは議員をハメたことからFBIにも追われている。
それらの伏線がすべて一直線上に並んでくる醍醐味を見せつけるのがすごい。
最後はあっと驚く代打逆転満塁ホームランだ!

スタンド・バイ・ミー

2019-08-25 09:21:32 | 映画
「スタンド・バイ・ミー」 1986年 アメリカ


監督 ロブ・ライナー
出演 ウィル・ウィートン
   リヴァー・フェニックス
   コリー・フェルドマン
   ジェリー・オコンネル
   キーファー・サザーランド
   ケイシー・シマーシュコ
   ゲイリー・ライリー
   ブラッドリー・グレッグ
   ジェイソン・オリヴァー

ストーリー
作家ゴーディ・ラチャンスが、遠い過去の日を思い起こすきっかけになったのは、ある新聞記事に目を止めたことだった。
“弁護士クリス・チャンバース刺殺される”――。
オレゴン州キャッスルロックは人口1200あまりの小さな町。
12歳のゴーディは、文章を書くことに才能の片りんをのぞかせる感受性豊かな少年だった。
彼には春に小学校を卒業以来、いつも一緒の3人の仲間がいた。
リーダー格のクリス、大きなメガネをかけたテディ、ちょっとスローなバーン。
性格も個性も違う4人だが少年期特有の仲間意識で結ばれていた。
ある日、バーンが耳よりの情報を持ってきた。
ここ数日、行方不明になって話題となっている少年が、30キロ先の森の奥で列車にはねられ、その死体が野ざらしになっているというのだ。
少年たちは死体を発見したら町の英雄になれる!と初めて体験する大冒険の旅に出る・・・。


寸評
成人男性の多くは子供時代の冒険体験を少なからず有しているのではないか。
昨今の都市部ではそんなことをしている子供も少なくなったが、僕が子供の頃は田んぼに積まれた藁の中だとか、畑にあった垣根の片隅などに秘密基地などを作って遊んだものだ。
ここに出てくる少年たちも秘密の小屋らしきところに集まって遊んでいる。
そのこと自体が小さな冒険なのだが、彼等は行方不明になっている少年の死体を発見するために、両親に嘘をついて泊りがけの大冒険に出かける。
大冒険に出かけるワクワク感がふつふつと湧いてくるし、その間のやり取りが少年時代を思い起こさせノスタルジーに浸らせてくれる。
少年時代に一緒に遊んだ無二の友達も、大きくなるにつれて疎遠になっていったりするが、いつも一緒でバカをやっていた旧友は忘れることが出来ないものだ。
そんな子供時代を振り返った冒険物語としてはバイブル的な作品になっている。

子供たちのキャラクターも振り分けられていて、決して誇張することのない自然体の少年として描かれている。
ゴーディは自分を理解してくれていた兄を交通事故で亡くしている。
両親はフットボールの花形選手だった兄に期待を寄せ、ゴーディには関心を寄せていない。
夢の中の妄想かもしれないが、父親から「死ぬのがお前だったらよかった」と言われている。
町の人たちも兄への賛辞を惜しまず、常に優秀だった兄と比較されることに鬱積したものを感じている。
理解者だった兄がいなくなったゴーディにとって、唯一の理解者が仲間のリーダ格クリスだけとなっている。
物語はそんなゴーディの回想として描かれていく。

クリスは家庭事情もあって乱暴者だが、大人びた意見でゴーディを励ましたりしている。
観客は冒頭で大人になったクリスの職業と死を知らされているから、4人の少年を見るにあたってはこのクリス少年が大きくなって不慮の死を遂げることを予期しながら見ている。
そうなるだけの見識と根性を子供時代から持っていたのだと感情移入できる。
クリスが給食費を盗ったエピソードに大人の汚さを示し、ワルと見られている彼等の純真性を描いていた。
クリス少年のリヴァー・フェニックスはリーダー格としての見事なキャスティングであった。

彼等4人は煙草を吸ったりする不良グループなのだろうが、彼等に比べると兄貴たちはどうしようもない不良グループで、そうすることで4人の正当性を高めていたように思う。
お道化たところのあるバーンは怖がりな少年であり、テディは父親をノルマンディの英雄として尊敬している。
成人したバーンが結婚して子供も生まれ製材所で働いていること、テディは軍隊に入りたかったけれど目が悪くて入隊できず、刑務所のお世話になったこともあるが今は出所していることなどがナレーションされるが、そのナレーションになぜかグッとくるものがこみ上げてきた。
そしてゴーディは物書きになっているらしくて、彼らが冒険旅行をした時と同じような子供がいるという世代の輪廻を感じさせるラストと、文句なく「スタンド・バイ・ミー」の歌声が素晴らしい。
「スタンド・バイ・ミー」と聞くだけで、脳裏には映画よりもテーマ曲が流れてきてしまう名曲となっている。

スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望

2019-08-24 10:54:49 | 映画
「スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望」 1977年 アメリカ


監督 ジョージ・ルーカス
出演 マーク・ハミル
   ハリソン・フォード
   キャリー・フィッシャー
   アレック・ギネス
   ピーター・カッシング
   アンソニー・ダニエルズ
   ケニー・ベイカー
   ピーター・メイヒュー
   デヴィッド・プラウズ

ストーリー
かつては平和が保たれていた銀河系も、今では共和国が崩壊し、それにかわって出現した銀河帝国が独裁体制をしき圧政によって銀河系全宇宙を制圧しようとしていた。
この帝国独裁に抵抗する少数の人々はアルデラーン惑星のレーア・オーガナ姫を中心に惑星ヤービンに秘密基地を築いて、帝国打倒を秘かに計画していた。
一方、帝国側も最新兵器『死の星(デス・スター)』を建造して反逆者たちの抹殺を計っていた。
レーア姫が帝国の親衛隊長ダース・ベイダー率いる宇宙巡航艦にとらえられたのは、デス・スターの構造機密を盗んで逃げる途中のことだった。
抵抗する反乱軍が鎮圧されたとき、1組のロボットCー3POとR2ーD2の乗った球型脱出機が巡航艦から飛び出し、砂漠の小惑星タトゥーインに着陸する。
しかし、さまよっているところをジャワ族につかまり、セリ市に出されてしまう。
このセリ市でロボットたちを買った若い農夫ルークは偶然R2ーD2の映像伝達回路に収められたレーア姫の救いを求めるメッセージを発見し、心を動かされる。
R2ーD2を追ったCー3POとルークは、砂漠の蛮族に襲われたがベン・ケノービと名のる老人に助けられた。
彼こそ、共和国のジェダィ騎士団の生き残りで、レーア姫がメッセージの中で助けを求めたオビ・ワンだった。
彼はルークが騎士団の仲間の1人の忘れ形見であることを知り、レーア姫救出に協力する。
彼らは宇宙船調達のため、密輸船長ハン・ソロとその右腕チューバッカに会い、彼らの乗る宇宙船ミレニアム・ファルコン号を買い取るが、その時ロボットたちを追跡してきた帝国側の襲撃にあう。


寸評
黒澤明を心酔するジョージ・ルーカスが「隠し砦の三悪人」からR2ーD2とCー3POというロボットコンビを着想したなどという話題が公開時からあって、それだけでも日本人には飛びつきやすい作品ではあったのだが、僕はこの作品はあまり好きでない。
内容があまりにも子供じみているからなのだが、今までにあまり見ることのなかった画面が展開されて単純に楽しめる作品であることは間違いない。
当時としてはCGが格段に優れていたし、未来なのか古代なのか分からないような世界も楽しめる。
宇宙船や光線銃、ライト・サーベルでの未来的な対決があるかと思えば、兵士が恐竜の様な動物に乗っていたり、住居がまるで前世代の様なものだったりで、興味を引くものであれば何でもござれのような映画だ。
それらの説明に時間も割かれるので、肝心のストリー展開は大したことはない。
しかし、宇宙空間での戦闘場面はCGを駆使していて迫力がある。
公開時はこの戦闘場面だけでも見る価値があると思ったものだ。

帝国軍のコスチュームは非常に印象深いものがある。
下っ端兵士の白装束に対して、親衛隊長のダース・ベイダーは黒装束の鎧のようで顔もマスクで覆われている。
しかもすごいパワーの持ち主で、相手に触れもしないで首を絞めることもできる。
この魅力的なキャラクターは悪役であるにもかかわらず、コスチュームやらグッズで人気が高い。
そもそもこのシリーズは熱烈なファンや、マニアによって支えられていると思うのだが、その人数たるや驚異的なものがあって、イベントなどは狂気を帯びていると言っても過言ではない。
宇宙物と言えば「スターウォーズ」だと言えるぐらにインパクトを持った作品である。
活劇物としての魅力も十分に備えていて、ルークのピンチにハン・ソロがやってくるのも正統的だ。
金に目がなくレイア姫とぶつかり合ったりしているのだが、宇宙船ミレニアム・ファルコン号で駆けつけた時は拍手喝采ものだった。
雑ではあるがツボを押さえた演出が目立つ。

この映画が描いた未来における宇宙戦争の映像は人々の空想を膨らませた。
「スターウォーズ」という言葉が巨大化して独り歩きを始めた感がある。
実態の見えない空想の世界だ。
アメリカ大統領レーガンは「スターウォーズ計画」などと言い出し、ソ連はその陰におびえて戦費を費やしていく。
実はそんな計画などなかったのかもしれないが、分からないだけに不気味なものがあったのだろう。
結局ソ連は経済破綻をきたし1991年に崩壊してしまった。
「スターウォーズ計画」が成功したのだと思う。
もちろん、ソビエト連邦の崩壊は単純要因だけではなく複合的なものだったのだろうが、僕はこの映画のもたらした影響も少なからずあったのではないかと思っている。
それほどこの映画は宇宙戦争物としてエポックメイキングな作品となっている。
話の進展通りに制作されたわけではないが、人気を博しシリーズ化の先鞭をつける作品としては十分に役目を果たした作品だったと思う。  

スケアクロウ

2019-08-23 05:48:12 | 映画
「スケアクロウ」 1973年 アメリカ


監督 ジェリー・シャッツバーグ
出演 ジーン・ハックマン
   アル・パチーノ
   ドロシー・トリスタン
   アイリーン・ブレナン
   リチャード・リンチ
   アン・ウェッジワース
   ペネロープ・アレン

ストーリー
マックス(ジーン・ハックマン)とライオン(アル・パチーノ)が出会ったのは南カリフォルニアの人里離れた道路。
マックスは6年の懲役を終えて刑務所から出てきたばかりだった。
洗車店を始めるためにピッツバーグへ向かう途中、ちょっとデンバーに立ち寄って、たったひとりの肉親である妹コリー(ドロシー・トリスタン)を訪ねてみるつもりだった。
ライオンの方は、5年ぶりに船員生活の足を洗って、デトロイトに置き去りにしたままの妻アニー(ペニー・アレン)に会いに行くところだった。
今年5歳になる子供がいるはずだが、男か女さえも知らなかった。
その2人は知り合ったとたん気が合った。
こうして2人はコンビを組み、洗車屋を始めるために旅をする事になった。
トラックや汽車を乗り継いでデンバーに着いた2人は早速コリーを訪ねたが、そこで一緒に生活していたフレンチー(アン・ウェッジワース)という女にマックスはすっかりいかれてしまい、ライオンもコリーが気に入った。
意気投合した4人は、これからずっと行動を共にしようという事になったが、町の連中と喧嘩になり、マックスとライオンは30日間の強制労働を課せられた。
それを終えると、2人は連れ立って目的地へ急いだ。
ようやくたどりついたが、アニーは2年前に再婚し、子供は出産直前に階段から落ちたために死んで生まれてこなかった事、洗礼を受けていないその子は地獄に落ちたまま永遠に天国へは行けないだろうと大声でまくしたてたが、それはアニーの悲しい嘘であった。


寸評
ジーン・ハックマンとアル・パチーノの表現力が際立ち、見る者の心にいつまでも残る映画である。
スケアクロウとは案山子(かかし)のことで、劇中でもそのことが語られ二人の人間性を比喩的に表現していたが、別にみすぼらしい人という意味もあるらしい。
二人のスケアクロウ的行動が可笑しくもあり切なくもある。

ライオンは常におどけ、冗談を言っている。
常に冗談を言って自虐的な態度をとることで現実逃避を計っている人間ているものだ。
どこかにコンプレックスを持っていて、それを覆い隠す手段としているのかもしれない。
ライオンはそんな人物である。
ライオンは妻を置き去りにして5年間の船乗り生活をしていた。
生活費を送金していたようだが生まれた子供の性別さえ知らない。
それでも何とか自分を許してもらえるのではないかと思っているふしがあり、いつも小脇に抱えているプレゼント用のリボンがかかった電気スタンドの小箱が象徴的だ。
マックスは傷害事件を起こして6年間刑務所にいた男なのだが、何枚もの服を重ねて着ている。
彼は寒いからだと言うが、寒いのは体ではなく心だという象徴でもある。
なぜか故郷ではなくピッツバーグの銀行に預金していて、事業を始めることを夢見ているが、服役中に事細かな計画をメモしているし、預金の事も手帳に書き込んでいる。
風貌に似合わず神経質な男なのだ。

話は各パートに別れていて、それぞれが二人の人物像を浮かび上がらせるように描かれていく。
二人が出会い、マックスの妹コリーがいるデンバーを目指すパート。
コリー宅にいたデンバーでの出来事を描くパート。
甦生施設に入り強制労働に従事するパート。
そしてライオンが妻と再会するために訪れたデトロイトでのパートで、それらは物語上の起承転結となっている。

マックスは短気でケンカ早いし、ライオンはそんなマックスをなだめる役ばかりだ。
バーで喧嘩になりかけた時もライオンは機転を利かせて止めようとする。
ライオンはそれに乗って、ストリップショーまがいに洋服を脱ぎすてて喧嘩をやめ、お客の喝さいを浴びる。
心をも覆いつくしていた服を脱ぎ捨てるこのシーンはマックスの心の解放の瞬間でもあったのだと思う。
デトロイトについてライオンは妻のアニーに電話する。
旅の初めで、電話するとその時点で断られるのが怖いし子供にも会えなくなってしまうかもしれないので突然行くんだと言っていたことが思い起こされる。
ここでもライオンは自分の心を偽って無理やりひょうきんになるという哀しいシーンが胸を打つ。
広場の噴水を使ったアル・パチーノの狂乱から病院にかけての描写が見事で、マックスはここでライオンへの友情を精一杯示す。
可笑しくもあるがジーンとくる場面で、友情の素晴らしさを見事なまでに表現していたと思う。

スウィングガールズ

2019-08-22 13:35:49 | 映画
「し」の映画、結構ありました。
「す」に移りますが、今のところ思いつく映画が少ないです。


「スウィングガールズ」 2004年 日本


監督 矢口史靖
出演 上野樹里 貫地谷しほり
   本仮屋ユイカ 豊島由佳梨
   平岡祐太 あすか
   中村知世 根本直枝
   松田まどか 水田芙美子
   竹中直人 白石美帆
   小日向文世 渡辺えり子

ストーリー
東北地方のとある片田舎の高校。
夏休みのある日、13人の落ちこぼれ女子生徒たちは教室で数学の補習を受けていた。
その時、補習組の一人、鈴木友子が高校野球予選の応援に行ったブラスバンド部の仕出し弁当が遅れて届いたことに気づき、弁当運びを口実に13人はまんまと補習を抜け出すことに成功する。
だが道中、弁当は長い時間炎天下に晒されてしまい、それを口にしたブラスバンドの生徒たちは、次々と腹痛を起こして入院する事態となった。
たったひとり難を逃れた吹奏楽部の1年生・拓雄と共に、野球部の応援の為にビッグバンドを結成することになった彼女たちは猛特訓を開始するが、やっと演奏の楽しさを知った矢先、吹奏楽部が復活。
17人の夏休みは、不完全燃焼のまま終わっていくのだった。
だが、一度知ったスウィングの楽しさは忘れられるものではなく、大奮闘の末に楽器をゲットした彼らは、隠れジャズマニアだった数学の小澤先生の指導(?)の下、演奏も徐々に様になっていく。
そして、一度は去ったメンバーたちも戻って、“東北学生音楽祭”にも出場して、満員の会場でみごとな演奏を披露するのであった。


寸評
間に「パルコフィクション」をはさんで、「ウォーターボーイズ」から3年の時を経て、矢口監督が再び放つ学園ドラマである。
「ウォーターボーイズ」が男子高校生のシンクロを描いていたのに対して、今回は女子高生によるスウィング・ジャズのビッグバンドを描いている。
どちらも、最初はダメな高校生が、やがては立派な演技者(演奏者)になるといった展開は同じだけれど、本作品のほうがより喜劇的ウェートが高くなっている。
その喜劇性が人情味に支えられているので、言ってみれば「フーテンの寅さん」の世界でもある。
冒頭の補習授業のシーン、弁当を届けるエピソード、悔しさの余り泣き出す友子達にかけるおばあさんの一言など、数え上げるときりがない。劇場は笑いの渦だった。

「グレン・ミラー物語」というスウィング・ジャズの名作があったけれど、あちらがシリアス・ドラマなのに対して、こちらは全くもって愉快なコメディだ。
しかし、これを標準語でやられると鼻につくけれど、山形弁で押し通されるとなんだかほのぼのとした青春ドラマになってしまう。言葉のもつ魔力なのかもしれない。

わかっている結果とは言え、最後に彼女達が演奏する「ムーンラナト・セレナーデ」や「シング・シング・シング」などのスタンダードナンバーに涙が出てしまった。
良江(貫地谷しほり)が鼠のマスコットをトランペットに取り付ける気持ちも良くわかる。
僕はもともとスウィング・ジャズは好きなので、やはりというか演奏が始まると自然と体がスウィングしてしまうし、片足でリズムを取りながら密かに拍手を送っていた。

敵役を作るでもなく、登場する人物がすべていい人たちであることは、方言を駆使した映画として当然の帰結だと感じた。
ヒロインを演じた上野樹里も良かったけれど、僕はドラマーを演じた豊島由佳梨が抜群に面白かった。
彼女のドラム・ソロに映画の中の観客に負けず劣らず拍手を送ったし、ホリゾンライトを浴びて演奏する彼女はカッコよかった。三枚目的役割だっただけになおさらだ。
気弱な関口(本仮屋ユイカ)が一番上達が早かったり、最後に落ち着きを皆に与えるなどは、定石とは言えピタリとはまっている。
ラストの一呼吸置いた後の上野樹里が見せる、「やったあー!」という表情のストップモーションはよかった。
笑顔がこぼれるストップモーションになるまでの、緊張した表情のシーンの長さが、とてつもなく計算され尽くした時間に思え、絶妙のタイミングで切り替わった。

映画を見た帰りの電車の中、女子高生が定期券をドア付近で落としたのを目撃し拾って届けてあげたが、座席に座りヘッドフォンを聞きながら参考書を開く彼女からは一言もなく、この子は勉強疲れかそれとも精神的に死んでいるのかと思った。そんな進学校の女子高生に比べたら、この映画の落ちこぼれ女子高生は、はるかに生き生きとして魅力的だった。

シンデレラマン

2019-08-21 10:13:00 | 映画
「シンデレラマン」 2005年 アメリカ


監督 ロン・ハワード
出演 ラッセル・クロウ 
   レネー・ゼルウィガー
   ポール・ジアマッティ
   クレイグ・ビアーコ
   ブルース・マッギル
   パディ・コンシダイン
   コナー・プライス
   アリエル・ウォーラー
   パトリック・ルイス
   ロン・カナダ

ストーリー
愛する妻メイ(レネー・ゼルウィガー)と3人の子供に囲まれ幸せに暮らすジム・ブラドック(ラッセル・クロウ)は、ボクサーとしても将来を嘱望されていた。
前途有望なボクサーとして活躍していたジムは、1929年、右手の故障がきっかけで勝利に見放され、引退を余儀なくされる。
時を同じくして大恐慌がアメリカを襲う。
生活に困窮したジムは、妻と3人の子供を抱えつつ、過酷な肉体労働でわずかな日銭を稼ぐが、そんな仕事にすらありつけない日の方が多かった。
しかしある時、ボクサー時代のマネージャーだったジョー・グルード(ポール・ジアマッティ)が、世界ランキング2位という新進ボクサーとの試合の話を持ち掛けてくる。
勝ち目などない一夜限りのカムバックだったが、その報酬が必要だったジムは、夫の身を案じるメイを振り切って、再びリングに立つ。
そこで奇跡が起こった。
肉体労働によって左パンチが強化されていた彼は、まさかの勝利を収めたのだ。
そこからジョーは奔走して試合を取り付け、ジムは次々と強敵を倒していった。
極貧の生活からボクシングの世界にカムバックしたジムの活躍は、貧困に喘ぐ人々を勇気づけ、スポーツ記者からは「シンデレラマン」と呼ばれる。
そしてついに、ヘビー級世界チャンピオンのマックス・ベア(クレイグ・ビアーコ)への挑戦権を得る。
過去の試合で二人のボクサーを殴り殺したマックスとの試合にメイは恐怖する。
ジムは大観衆が待ち受けるリングへと向かい、無敵と思われていた相手に対して最終15ラウンドまで戦って、見事判定勝ちを収めるのだった。


寸評
ボクサーを描いた作品には名作が数多くあり、この「シンデレラマン」もその一つに入れてもいいだろう。
ファイティング・シーンの臨場感と迫力の出し方はアメリカ映画の得意とするところで、ラストで描かれるヘビー級世界チャンピオンのマックス・ベアとの一戦は長い描写を通じて死闘を観客に伝えきっている。
リング上で殴り殺されるかもしれないブラドックを妻のメイが初めて激励に訪問するところから盛り上がりを見せる。
子供たちに試合が放送されるラジオを聞かさないようにしているが、子供たちは地下の部屋に隠れて聞いている。
その姿を大人たちは咎めることはせず、上から見つめてその放送を聞いているという光景。
大恐慌で生活が苦しい人々の希望の星としてブラドックを応援する町の人々の姿。
それらがファイティング映像の間に挟まれて、否応なしに観客の気持ちは高ぶっていく。
いつもながらと言ってもいいぐらいの、こなれた演出である。

この映画はボクシングを描いたスポーツ映画であるが、それ以上に家族の愛情を描いた作品となっている。
大恐慌がアメリカを襲っている中で、ブラドックはライセンスをはく奪されてしまい、生活は一気に苦しくなる。
妻と3人の子供を養うために身を粉にして働くが、日当は安く電気を止められてしまう有様である。
ひもじさに子供は盗みを働いてしまうが、ブラドックは子供をたしなめ肉屋に商品を返しに行く。
どんなに貧乏をしても妻と子供を見捨てないブラドックの姿に感動する。
妻のメイもグチることなく貧困生活に耐え続けている。
苦しさで別れていく夫婦のカットが挿入されるが、ブラドックとメイの夫婦はいたわり合っていて、金銭を除けばすごくいい家庭だ。
ブラドックは子供たちを愛し、子供たちも父親を尊敬し慕っているという普通の家庭だ。
しかしそんな彼等を貧困が襲う。
ブラドックは緊急救援センターに行き、「あなたが来るとは・・・」と言われながらもわずかの金を得、マジソン・スクエア・ガーデンに行ってはかつての仲間に金を無心するという不本意な生活を送っている。
極貧生活の描写が丁寧に描かれており、必死に働くブラドックの姿に感動する。
どんなに苦しくても希望を持って真面目に生きていく姿が美しい。
「ロッキー」のような派手な映画ではないが、心が温かくなる良心的な作品だ。

ボクサー時代のマネージャーだったジョー・グルードが訪ねてきて、ブラドックは再びリングに立つことになるのだが、そのジョー・グルードを演じたポール・ジアマッティがなかなかいい演技を見せている。
精一杯の見栄を張り、すべてを失ってもブラドックを支えようとする姿などは泣かせる。
極貧に耐えるメイを演じたレネー・ゼルウィガーもなかなか良くて、このような役がよく似合う女優さんだ。

伝記映画だからブラドックが戦った相手は実在の人物である。
最後に戦うマックス・ベアが悪役的に描かれているが、彼が対戦相手を死亡させたことは事実らしい。
映画では二人となっているが実際は一人で、死亡したボクサーを気に病んで未亡人となった奥さんを援助したらしいから、マックス・ベアは本当はいい男だったのかもしれない。

親切なクムジャさん

2019-08-20 08:37:08 | 映画
「親切なクムジャさん」 2005年 韓国


監督 パク・チャヌク
出演 イ・ヨンエ チェ・ミンシク
   キム・シフ イ・スンシン
   ナム・イル クォン・イェヨン

ストーリー
実の娘を人質に取られ、無実の罪で服役したクムジャが13年の刑期を終えて出所する所から物語りは始まる。
天使のような美貌と残忍な手口で世間を騒然とさせた幼児誘拐事件の犯人クムジャは、服役中、誰に対しても優しい微笑を絶やさなかったことから「親切なクムジャさん」と呼ばれるようになる。
13年間の服役を終えて出所した彼女は、自分を陥れた男に復讐するため、かつての囚人仲間に協力を依頼する。
そして海外に養子に出されていた一人娘のジェニーを取り戻し、ついに男を手中に収める。
しかし、男を問い詰めるうちに更なる事実を知り、本当の復讐はそこから始まった……。
 

寸評
オープニングのタイトルバックから引き込まれる。
なかなかシャープな入り方で音楽もいい。
この頃の韓国映画は爆発状態で、非常にエネルギッシュな作品が多い。
服役仲間を訪ねて復讐の準備をすすめていくクムジャ(イ・ヨンエ)が服役中に彼女達にした親切が描かれるが、やさしくニッコリと笑って殺人を犯すのが愛らしい。
その分、出所してからの変貌振りが際立っていて、赤いアイシャドウに代表されるような豹変振りもハマっている。
ケーキ屋でクムジャと一緒に働く若者クンシク(キム・シフ)の存在意義などに少しばかり疑問を持ったことと、パク・イジョン(イ・スンシン)がペク先生(チェ・ミンシク)と結婚した経緯の説明不足以外は画面にのめり込んでしまった。

ラストは衝撃的でR15に指定されるのも当然な内容だった。
幼児の誘拐殺人事件も記憶にあり、それらの事件とオーバーラップした。
幼い命を奪うそれらの犯人を極刑にしても仕飽き足らないので、「目には目を、歯には歯を」で市中引き回しの上、ノコギリ引きの残酷刑を与えるべきだと感じてしまう気持ちを代弁していた。
他人の自分がニュースを見ても悲しみと憤りを感じるのだから、当事者である両親達の気持ちはどんなかと思ってしまう。
一体、誰がその恨みを晴らしてくれるのか。
必殺仕置き人が必要だ。
クムジャさんはそんな存在だった。

それにしても最後の殺人シーンは迫力があった。
シートの上に縛られたペク先生と、復讐の怨念に取り付かれた者達の感情の高ぶりが交差して盛り上がる。
シートの上にたまった大量の血を始末し、モップで後始末の清掃をする所などは、見ていて思わず肩に力が入った。

人生劇場 飛車角と吉良常

2019-08-19 09:14:24 | 映画
「人生劇場 飛車角と吉良常」 1968年 日本


監督 内田吐夢
出演 鶴田浩二 高倉健 藤純子
   辰巳柳太郎 若山富三郎 
   中村竹弥 大木実 信欣三
   天津敏 山本麟一 村井国夫
   山城新伍 遠藤辰雄 名和宏
   八名信夫 松方弘樹 左幸子

ストーリー
大正十四年。八年ぶりに上海から故郷に戻った吉良常は、文士になるため東京で勉強している亡き主人青成瓢太郎の子瓢吉を尋ね、瓢吉の家に腰をおろすことになった。
その頃、砂村の小金一家と貸元大横田の間にひと悶着が起った。
飛車角が大横田がやっているチャブ女おとよをさせ、小金一家に匿ったからである。
飛車角は宮川や小金らと殴り込みに加わり、大横田の身内丈徳を斬って勝利を収めた。
しかし、飛車角は兄弟分の奈良平が裏切っておとよを連れ出したことから、奈良平を斬った。
そのため飛車角は巡査に追われ、瓢吉の家に逃げ込んだのだった。
詮索せずに酒を勧める吉良常に飛車角は感謝し自首することを決意するのだった。
小金の計らいでおとよに会える算段が整えられていたが飛車角は会わずに自首する。
しかし、おとよはそのまま行方をくらまし、四年の歳月が流れた。
宮川は玉ノ井の女に惚れ毎日通っていたのだが、知らないこととは言え、それはおとよだった。
小金一家にとって飛車角は大恩人なので、仲間はそれと知って忠告した。
しかし、おとよに惚れ込んだ宮川は二人で逃げようとしていた。
一方、吉良常はおとよに、飛車角に面会に行くよう勧めたが、おとよの心はもう飛車角にはなかった。
苦悩するおとよは、瓢吉の青春の想い出となったお袖と共に姿をくらました。
やがて飛車角が特赦で出所した。
吉良常は、瓢吉が男として名を上げるまで墓は建てるな、と遺言して自殺した瓢太郎のために、今こそ墓を建てる時だと思って飛車角と共に吉良港に発ったが、飛車角はそこの旅館でおとよと再会する・・・。


寸評
任侠映画の部類に入るが、ヤクザ組織の縄張り争いをメインにしていなくて、タイトルにもあるように主人公、飛車角と彼を助ける老人、吉良常との関係にスポットを当てている。
しかし、これで男同士の人情劇として背骨を一本通したような筋立てとなっている。
文字通り彩を添えるのが藤純子のおとよなのだが、このおとよが軟弱と言うか、あっちへ行ったりこっちへ行ったりする女で、自分でも目の前に居る男に親切にされるとだめなのだと言っている。
悪く言えば気の多い尻軽女なのだが、藤純子が演じているだけでそのイメージは湧いてこない。
愛する女性に別れも告げずに刑務所に入る飛車角。
自らの力で生きて行く道を選び、再び女郎となるおとよ。
飛車角の女と知らずに客として彼女を真剣に想うようになる宮川。
飛車角、宮川、おとよの三角関係なのだが、その原因を作っているのはおとよだと言わざるを得ない。
おとよは宮川と示し合わせて足抜けしようとしたときに、お袖から「あんたが本当に惚れているのは宮川ではない」と言われ気持ちが揺らぐ。
さらに「あんたは二人とも捨てなくてはいけない。いっそ二人で足抜けしよう」と誘われ宮川を置き去りにしてお袖にしたがっているのである。
おとよは自分の意志はないのかと言いたくなるぐらいフラフラする女性である。
そこにいくと男たちはストイックで、人生の何もかもを心得ているような吉良常が男たちの間を取り持っていく。
飛車角が主人公なのだろうが、むしろ内田吐夢は吉良常を描きたかったのではないかと思わせるほどだ。
飛車角をかばい、宮川との仲を取り持ち、小金親分にも筋を通す。
お袖やおとよに見せる心使いも心得たものである。
この映画における吉良常は魅力的だ。
人なつこい笑顔と、立ち廻りの時に見せる凄みのある表情にシビレるのだが、主役を食ってしまうような名演技をみせた辰巳柳太郎にとっても代表作になったといってもよいのではないか。

作品に絵画的な映像と情感を生み出しているのが仲沢半次郎のカメラだ。
雨の河川敷の橋の上で自首をしようとする飛車角と小金一家の寺兼が話し合っているはるか向こうに土手を走る人力車がかすかに写り込む。
そこには、何も知らないおとよが乗っているのだが、次第に近づいて来る人力車が雨に煙って何とも言えない詩情溢れる映像を生み出している。
二人の元を離れたおとよが、再び吉良港の旅館で吉良常と飛車角に偶然再会するというシーンでは、画面いっぱいに収まる三人の構図の完璧さは絵画を見るようである。
そして、飛車角が宮川の遺体を引き取りに言った場面で、宮川に掛けられたムシロをめくったところから画面は急にもノートンとなるびっくり演出を見た後の出入りの乱闘場面はずっとモノトーンのままである。
出入りを終えた飛車角のところへおとよが駆けつけたところから再びカラー画面となるのだが、飛車角が去っていくラストシーンでは奥に青いライトが照射され手前に赤い煙幕が湧きたってくる。
う~ん、内田吐夢が撮る任侠映画はこうなるのかと思わせるラストだ。

心中天網島

2019-08-18 11:42:57 | 映画
「心中天網島」 1969年 日本


監督 篠田正浩
出演 岩下志麻 中村吉右衛門
   小松方正 滝田裕介
   藤原釜足 加藤嘉
   左時枝  河原崎しづ江 
   日高澄子 浜村純

ストーリー
大阪天満御前町の紙屋治兵衛は、女房子供のある身で、曽根崎新地紀伊国屋お抱えの遊女小春と深く馴染んでいた。
ついには妻子を捨て小春と情死しようかという治兵衛の入れ込みように、兄・孫右衛門はこれを放っておくことができなかった。
案じた孫右衛門は、武士姿に仮装し、河庄に小春を呼び出した。
孫右衛門は、小春に治兵衛と別れるようさとし、その本心を問いただした。
小春は治兵衛と死ぬ積りはないと言った。
折から、この里を訪れていた治兵衛は二人の話を立聞きし、狂ったように脇差で斬りこんだ。
だが、孫右衛門に制せられ、両手を格子に縛られてしまった。
そこへ恋敵の太兵衛が通りかかり、さんざん罵り辱しめた。
これを聞きつけた孫右衛門は、表に飛びだし太兵衛を懲しめ、治兵衛には仮装を解いて誡めた。
治兵衛は目が覚めた思いだった。
そして小春からの起請文を投げかえして帰った。
数日後、治兵衛は太兵衛が小春を身請けするとの噂を聞いた。
悔し涙にくれる治兵衛。
これを見た妻のおさんは、始めて小春の心変りは自分が手紙で頼んでやったことと打明けた。
そして、小春の自害をおそれ、夫をせきたてて身請けの金を用意させようとした。
おさんの父五左衛門が娘を離別させたのはそんな折だった。
それから間もなく、治兵衛は小春と網島の大長寺で心中した。


寸評
映画はまずクレジットタイトルにかぶさって篠田監督本人と脚本を担当した富岡多恵子氏が電話でしゃべる声が聞こえてくるので、上映が開始されてすぐに僕はこの映画が実験的な作品であることを悟る。
過去の名作の映画化ではなく、明確に現代を見据えた企画であると監督自身が示す。
セットは簡素な遊郭の一室で、装飾に使われているのはいとこの前衛書家篠田桃紅が書いたものらしい。

賑わっている遊郭を治兵衛が歩き回っていると、周りの人間の動きがピタリと止まるので、この作品の本筋においても特異性を持っていることがうかがえる出だしである。
原作が近松門左衛門の人形浄瑠璃ではあるが、黒子がいきなり登場するのにも驚かされる。
黒子がいる必要はないのだが、画面では黒子が歩き回り、俳優の浜村純が演じる黒子は顔も出している。
文楽のムードを出す演出かと見ていたが、どうやら別の意図があるように思えてくる。
黒子はどんなにもがこうとも引きずられていってしまう運命の象徴ではないかと思われる。
人の動きが急に止まることを含め、ストプモーションも多用されている。
治兵衛の兄である孫右衛門がおさんから起請文を受け取り、そこにおさんからの手紙を発見する場面では、孫右衛門の滝田裕介の動きが止まり、黒子によってその手紙が画面いっぱいに示される。
面白い演出だが、この頃になるとそのような演出にも違和感を感じなくなっている。

治兵衛が小春と別れ家に帰ると女房のおさんが登場する。
このおさんも岩下志麻が演じているという二役であるのだが、篠田監督夫人である岩下志麻に二役をやらせて女優の出演料をケチっているわけではない。
立場は違っても二人の治兵衛にたいする思いは同じであるとの表現であり、治兵衛にとって小春とおさんは同じように大事な人で、心の中でひき裂かれていることを示している。
小春のおさんへの義理立て、おさんの小春への義理立てをともに伝えようとするための演出だろう。

二人は浮世の義理と金の重みに縛られ、男の意地と周囲の誤解がもつれだし、世間体を考える家族に囲まれ、ついには悲劇に追い込まれていく。
父親が世間の噂に惑わされておさんを連れ戻しに来る。
ここでの芝居はワンカットによる長回しである。
演劇は当然ワンカットの長回しなのだが、映画はカットの繋ぎができるので長回しはむしろめっずらしい。
ここで父親の加藤嘉、治兵衛の中村吉右衛門、おさんの岩下志麻ががっぷり四つの芝居を見せ見応えがある。
ストップモーション同様、総じてワンカットが長いのも特徴だと思う。
篠田は現在を見据えた作品だと言っているが、近松自身が「愛と自由」を描き、「虐げられた女の解放」を訴え、「金がすべての世の中」への批判を行っていたのではないか。
そう思うとやはり近松門左衛門という作家はすごい人物だったのだと思い知ることとなる。
最後の心中場面は迫力があり息をのむ。
二人の情交があり、ストップモーションが挿入され、鳥居が出てきて黒子が心中を手助けする。
モノトーンであることが効果を生み出していて、「心中天網島」は篠田正浩監督の最高傑作だと思う。

シン・シティ

2019-08-17 11:38:40 | 映画
「シン・シティ」 2005年 アメリカ


監督 フランク・ミラー
   ロバート・ロドリゲス
   クエンティン・タランティーノ
出演 ブルース・ウィリス
   ミッキー・ローク
   クライヴ・オーウェン
   ジェシカ・アルバ
   ベニチオ・デル・トロ
   イライジャ・ウッド
   ブリタニー・マーフィ
   デヴォン青木
   フランク・ミラー

ストーリー
醜い傷跡が顔に残る仮出所中のマーヴに愛をくれたのは、高級娼婦のゴールディだった。
しかし彼女は殺され、罪をきせられたマーヴは復讐を心に誓う。
農場で殺人鬼ケヴィンにハンマーで倒されたマーヴは、この男こそゴールディ殺しの犯人と確信。
脱出したマーヴは、黒幕がロアーク枢機卿であることを突き止める。
マーヴはケヴィンを殺害しロアークの元へ進むが、結局警察に捕らえられ、すべての罪を被ることになる。
ある時、ドワイトは、恋人のシェリーにつきまとう男、ジャッキー・ボーイを痛めつける。
退散したジャッキーは、ドワイトの昔の恋人ゲイルが仕切る娼婦たちの自治区、オールド・タウンへ。
街を手に入れようと画策するキャング一味との全面戦争となり、ドワイトと娼婦たちは、ギャングたちを皆殺しにするのだった。
ハーディガン刑事は、引退の日にも幼女殺人犯ロアーク・ジュニアを追っていた。
誘拐された11歳のナンシーを救出したハーティガンだが、相棒ボブの裏切りの銃弾に倒れ、ロアークに罪をきせられる。
8年後、出所したハーディガンは、19歳のストリッパーに成長したナンシーと再会。
2人は互いの強い愛を確認し合い、やがてロアーク・ジュニアに復讐を果たす。


寸評
この映画の最大の特徴は全編がモノクローム調の映像で描かれ、そこに各シーンの中でのポイントとして原色があしらわれていることだ。
モノクロと言っても、完全なモノクロではなく艶の有るモノクロなので、その部分カラーが一層印象的になっている。
例えば、モノクロの背景と全身の中で真っ赤に輝く女のドレスや唇。
輝くブロンドの髪や悪党の不気味な黄色い肌などだ。
こうしたモノクロに1色か2色の原色パートカラーの映像が、映画に現実とは違った輝きを与えている。
きわめてポップアート的な作品になっている。
それが、漫画チックで、グロテスクな暴力、殺人シーンをグラフィックなシーンに変えている。
飛び散る血しぶきが黄色だったり、全くのモノトーンで白く写されたりすると、反吐を吐きそうなシーンに目をくぎ付けされてしまうのだ。
両足を切断された胴体や、生首を直視出来てしまうから不思議だ。
普通はこんなシーンの過剰表現は食傷気味になるか、その非現実さに失笑が漏れるのが落ちなのに、逆に見とれてしまう。
ハードボイルドな世界観を完璧に活かすため、セリフやカット割はほぼコミックスを忠実に引用しているような印象があり、これはもう動く劇画と呼んでもいいのではないか。

3つのエピソードからなる物語は、わずかに重なる部分があるが、基本的には独立したストーリーである。
それぞれの男たちは、無法の町で殺人を繰り返すが、それも愛する女たちのために命を賭けて戦いを挑んでいった結果で、有る意味でラブ・ストーリーだったのだと思う。
そして相手の女たちもまたタフネスで、決して守られているだけの女達ではないのが痛快だ。
恐怖の犯罪都市を舞台に、警察官、娼婦、議員、ギャング、犯罪者、聖職者などが血で血を洗うスサマジイ抗争劇を展開する。
とにかく血がドバドバ、ナイフがグサリ、拳銃バンバン、生首が飛ぶわ、手首が飛ぶわ、内臓をえぐるわというグロテスクなシーンが続く。
それなのに、意外とそれほど気色悪く感じないのはその映像のせいだと思う。

タイム・スパイラル的にそれぞれの無意識な関係が描かれて、タイトル通りの罪の町の出来事が描かれるが、その中で実質的な監督だったと思うロバート・ロドリゲスと名を連ねる原作者でもあるフランク・ミラーと特別監督のタランティーノの役割が想像できなかった。
しかし、メッタに見ることが出来ない映画を見たという満足感は間違いなく脳裏に刻まれた。
これだけ見事な映像美にはめったに出会えるものではない。
ストーリーがどうのこうのよりも、見事な映像美を楽しむ映画だと思う。

ハーティガンはどうしてロアーク議員を殺らなかったのか?
ジョシュ・ハートネット演じる殺し屋の存在は単に最初と最後の為だけだったのか?
ちょっと疑問に思う点もあったけど・・・。