おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

きみの鳥はうたえる

2020-12-31 09:09:22 | 映画
「きみの鳥はうたえる」 2018年 日本


監督 三宅唱
出演 柄本佑 石橋静河 染谷将太 足立智充
   山本亜依 柴田貴哉 渡辺真起子 萩原聖人

ストーリー
“僕”(柄本佑)は函館郊外の書店で働きながら、小さなアパートで失業中の静雄(染谷将太)と共同生活を送っている。
“僕”は他人から「誠実でない」といわれるようにいい加減で、暴力性も持ち合わせた人間だ。
一方、静雄は優しくておとなしい青年。
まったく性格の違う2人だが、なぜか気があってお互いを尊重している。
ある日、僕はふとしたきっかけで同じ書店で働く佐知子(石橋静河)と関係を持つが、彼女は店長の島田(萩原聖人)とも抜き差しならない関係にあるようだった。
しかし佐知子は毎晩のようにアパートを訪れ、“僕”、佐知子、静雄の3人は夏の間、毎晩のように酒を飲み、クラブへ出かけ、ビリヤードをして遊ぶようになる。
“僕”は佐知子と恋人同士のように振る舞いながら、お互いを束縛せず、静雄とふたりで出掛けることを勧める。
静雄も“僕”に気を使い、“僕”が佐知子と2人きりの時には、できるだけ家にいないようにしたりする。
夏の終わり、静雄はみんなでキャンプに行こうと提案するが、“僕”はその誘いを断る。
ふたりでキャンプに行くことになった静雄と佐知子は次第に気持ちが近づいていく。
“僕”は函館でじっと暑さに耐えていた。
3人の幸福な日々も終わりの気配を見せ始める。
“僕”も静雄も佐知子も、このままの暮らしがずっと続くなどとは思っていない。
楽しい夏が過ぎ去り、いつかこの関係性に終わりがもたらされ、やがて青春の日々が終焉を迎えることを予感しているようだ。


寸評
佐藤泰志作品を映画化したものとして、熊切和嘉の「海炭市叙景」(2010年)、呉美保の「そこのみにて光輝く」(2014年)、山下敦弘の「オーバー・フェンス」(2016年)と見てきたが、2018年は三宅唱監督による「きみの鳥はうたえる」である。
この映画では、ひと夏という季節を背景に、徹夜で遊び呆ける三人の気ままな日常が描かれているだけで、これといって大きな出来事は起きない。
そんなに夜遊びをして疲れないのかと思うが、僕も彼等の年頃の時はそうだったのかもしれない。
ひと夏と言う短期間の無為な日々が、生き生きと、魅力的に、みずみずしく描かれている。
監督がそれぞれ違うのに、佐藤泰志作品を映画化したものはみな秀作ばかりだ。

映画の中では何も起こらないが、それでも三人の間には様々な感情が渦巻く。
セリフに頼りすぎず、しぐさや微妙な表情の変化で心の揺れ動きを繊細に描いているのがいい。
3人の若者たちの日常からは、青春のきらめきが見える。
今どきの若者ではあるが、青春は多かれ少なかれこのようなものだろう。
無意味なもの、無価値なものに埋没するのは僕も経験したことだ。
“僕”はかなりいい加減な男で暴力性を秘めている。
勤務先である書店を無断欠勤するし、風采だけを見れば普通のサラリーマンと比較するとはみ出し者だ。
それでも同じ若者の気安さか、佐知子はそれとなく誘いをかける。
“僕”はそれを感じ取ってその場所で待ち続ける。
やってきた佐知子は「心が通じたね」と言い、夜の10時に店で落ち合うことを約束し別れるが、“僕”は眠りこけてしまい約束の場所に現れない。
一悶着起きそうなシチュエーションだが、何事もなかったかのように二人は付き合うようになる。
そんなやりとりが、実にリアリティを感じさせるものとなっている。
静雄は“僕”に比べれば真面目そうだが、生真面目すぎるとまでは言えない、あくまでも“僕”との対比上で真面目な部類に属しているだけである。
二人は気が合って同居しているが、なぜそうなのかを語る静雄の言葉はリアリティに飛んでいる。
セリフが飛び交う作品ではないが、弁当屋で女二人が語り合うシーンにおける会話などが極めてリアルだ。
三人の若者を演じた柄本佑、石橋静河、染谷将太の演技はなかなかのものだったが、特筆されるのは複雑な感情を垣間見せる石橋静河だ。
この映画は石橋静河によって支えられているといっても過言でない。
特にラストの表情は何とも言えない。
この表情の解釈は観客に委ねられているが、僕は「今更何でそんな煩わしいことを言ってくるのよ」と言っているように見えた。
アップの多い映画だが、それぞれのシーンでの三人の表情は作品を引き締めていた。
若者の生態を描いたような作品で、青みがかった映像が彼等に対する冷ややかな目線を感じさせる。
青春賛歌映画ではないが、三人の関係のゆるやかな変化を繊細に描いていて、僕は久々に青春映画を見た気分になった。

キネマの天地

2020-12-30 06:06:26 | 映画
「キネマの天地」 1986年 日本


監督 山田洋次
出演 中井貴一 有森也実 渥美清 松坂慶子
   倍賞千恵子 三崎千恵子 すまけい
   笠智衆 岸部一徳 桜井センリ 山本晋也
   なべおさみ 笹野高史 田中健 前田吟
   下絛正巳 吉岡秀隆 松本幸四郎 柄本明
   美保純 ハナ肇 財津一郎 桃井かおり
   山城新伍 木の実ナナ 藤山寛美

ストーリー
浅草の活動小屋で売り子をしていた田中小春が、松竹キネマの小倉監督に見出され、蒲田撮影所の大部屋に入ったのは昭和8年の春だった。
小春は大震災で母を失い、若い頃旅回り一座の人気者だった病弱の父・喜八と長屋での二人暮らしだ。
蒲田撮影所での体験は何もかもが新鮮だった。
ある日、守衛に案内されて小倉組の撮影見学をしていた小春はエキストラとして映画出演することになったのだが、素人の小春にうまく演じられる訳がなく、小倉に怒鳴られた小春は泣き泣き家に帰り、女優になることをあきらめた。
長屋に戻って近所の奥さんにことのいきさつを話している小春を、小倉組の助監督島田健二郎が迎えにきて、「女優になりたがる娘はいっぱいいるけど、女優にしたい娘はそんなにいるもんじゃない」という健二郎の言葉で、小春は再び女優への道を歩み始めた。
やがて健二郎と小春はひと眼を盗んでデイトする間柄になったのだが、しかし時がたつにつれ、映画のことにしか興味をしめさない健二郎に少しずつ物足りなさを覚えるようになった。
師走に入って、健二郎は、労働運動で警察から追われている大学時代の先輩をかくまったとして、留置所に入れられてしまうが、その留置所生活で得たのは、かつてなかった映画作りに対する情熱だった。
年が明けて、小春が大作の主演に大抜擢された。
主演のトップスター川島澄江が愛の失踪事件を起こしたため、その代打に起用されたのだ。
しかしその大作「浮草」で演技の壁にぶつかって、小春は苦悩した。
その小春を、喜八はかつて旅回り一座の看板女優だった母と一座の二枚目俳優のロマンスを語り励ましたのだったが・・・。


寸評
東映が深作欣二で松竹の蒲田を舞台に名作「蒲田行進曲」を撮ったので、本家の松竹がそれならばと山田洋次を起用して撮った松竹版「蒲田行進曲」といったような作品である。
見ているこちらは勝手に登場人物を誰かがモデルだろうと想像してしまうような名前の付け方とエピソードが散りばめられているような気がする。
有森也実が演じている主人公の田中小春は田中絹代だ。
だとすれば中井貴一の島田健次郎は清水宏ということになる。
岸部一徳の緒方監督は小津安二郎を思わせるし、松坂慶子の川島澄江は名前から栗島すみ子を連想されるが、駆け落ちエピソードでは岡田嘉子を連想する。
松本幸四郎の城田所長は間違いなく城戸四郎だろう。
そんな楽しみ方をしていると、「男はつらいよ」の面々がチョイ役で次々と登場してきて楽しませてくれる。
前田吟は相変わらず倍賞千恵子と夫婦で、おいちゃんの下絛正巳、おばちゃんの三崎千恵子、満男の吉岡秀隆 も相変わらず満男役で、御前様の笠智衆に源公の佐藤蛾次郎といった具合で、出ていないのはタコ社長の太宰久雄ぐらいである。
その他にも財津一郎の刑事が共産主義者らしい平田満の小田切を捕まえ、「マルクスを読んでいやがる」と言って手にした本がアメリカの喜劇映画俳優であるマルクス兄弟の本というギャグなども所々に散りばめられている。
冒頭で助監督らしい島田健二郎が出社してきて名札をひっくり返すが、そこには豊田四郎、吉村公三郎、山本薩夫などの名前もあった。

物語は映画館の売り子だった女の子が大女優に成長していくものだが、その過程の中で映画作りの裏側を見せて楽しませる内幕物でもある。
撮影風景を楽しく見せてくれるし、俳優と現場の衝突も盛り込まれている。
小春は大部屋俳優からセリフをもらうようになり、そして準幹部からスターへと出世していくのだが、民子三部作にみられるように家族を描いてきた山田洋次はここでも喜八と小春という親子の物語を挿入している。
小春は喜八の実の娘ではないことが早い段階で匂わされる。
それでも喜八はカラ意地を張りながらも娘を心底心配し、時には頬を叩いて叱りもする。
喜八は病気持ちで無職である。
小春は女優の仕事が忙しくなっても、そんな喜八を見捨てることが出来ず家に帰ってくる。
この親子は隣の奥さんと懇意で、お風呂を入れてもらったりする仲である。
僕の子供の頃にもお風呂を借りに来る近所の子がいた。
この映画の時代は無声映画からトーキーに代わるころだから、そんな近所づきあいは多分にあったに違いない。

喜八は映画館で小春の名場面を見ることなく一筋の涙を流して死んでいくが、あの涙に家族の絆を感じさせた。
喜八は亡き妻にお前の産んだ子供が立派な女優になったぞと報告して、喜びの涙を流したのではないか。
実の子ではないが愛したお前の子供を立派に育てたぞという喜びの涙だったに違いない。
ホロリとさせられる場面だが、父の死を知らず蒲田行進曲を歌う小春のキャスティングが有森也実で良かったのかなあ・・・。僕はちょっと違和感を感じた。

狐の呉れた赤ん坊

2020-12-29 08:12:47 | 映画
「狐の呉れた赤ん坊」 1945年 日本


監督 丸根賛太郎
出演 阪東妻三郎 橘公子 羅門光三郎 寺島貢
   谷譲二 光岡龍三郎 見明凡太郎 阿部九州男
   藤川準 水野浩 原健作 荒木忍 阪東太郎

ストーリー
東海道名代の大井川金谷の宿に、酒と喧嘩では人におくれを取ったことがないという川越人足、張子の寅八がひょんなことから赤ン坊を背負い込んだ。
話というのは街道筋に悪狐が出没するというので武勇自慢の寅八が勢い込んで出馬したが、間もなく、すやすやと寝ている赤ン坊を抱えて来たのである。
寅八にとって赤ン坊は思いがけない厄介者だが、といって捨てるに捨てられず育てる破目になった。
それからの寅八は善太と名づけた子供のために、酒も喧嘩もやめてしまった。
善太はやがて七つになり、彼は自然と備わる品と威厳で近所の餓鬼大将になった。
ところが大名行列の先を突っ切ったため本陣に連れて行かれてしまった。
これを聞いた寅八は一時は気も顛倒したが、一大決心をすると大名の宿泊する本陣に駆け込み子供の身代わりになることを懇願した。
それが「武士にも劣らぬ覚悟」というので、善太も寅八も許されて帰って来た。
その夜祝いの酒の席で、寅八は「善坊はさる大名の落胤だ」と座興に言った。
ところが、その翌日それが本当の話になって、なにくれと善太のことに気をつかって巡業の旅ごとに玩具や金を持ってくる関取賀太野山からその真相が語られた。
寅八は美しい着物を着た善太の周囲にいる腰元や威儀を正した武士達を淋しげに眺めた。
彼は七年の間、父となり子となり今は善太と切り離した生活などを考えることすら出来ないのだ・・・。


寸評
1945年8月15日に日本は無条件降伏をして終戦を迎える。
9月2日に大日本帝国政府が公式にポツダム宣言受諾による降伏文書に調印したことをもって正式な終戦を迎えたことになり、日本映画はGHQの検閲を受けることになった。
GHQにより時代劇は禁止されたとのことであるが、1945年11月8日に初公開されたという「狐の呉れた赤ん坊」はいわゆるチャンバラシーンはないし、仇討物でもないが紛れもなく時代劇である。
そして終戦を迎えて日本が焼け野原という時代背景の中で、すでにこのような作品が作られていたことに驚く。
確かにセットや衣装は金のかからない題材を選んでいるとは思うが、エキストラを使った本格的な作品となっていることに日本映画の底力を見た思いがする。

「狐の呉れた赤ん坊」は人情喜劇で、その為にオーバーな演技も見られるが十分に鑑賞に堪えうる出来栄えだ。
戦前からの大スター阪東妻三郎の独り舞台のような作品だが、作品自体はきっちりと撮られている。
捨て子だった善太の具合が悪くなり寅八が名医を連れてくるシーンなどは上手い。
全篇に渡って走る、暴れる、転げ回る阪東妻三郎だが、ここでもそれが見事に描かれている。
寅八は医者を求めて走りに走りまくり、必死で連れてくる。
息絶え絶えの医者に水を与えるドタバタが描かれるが、そこからの描写が素晴らしい。
善太の脈をとる医者と心配そうに見守る寅八たち。
頷きながらこつんと張子の虎の頭を揺らす医者に、ゆらゆらとした張子の虎のアップ。
そして少し表情をゆるめる医者と、その表情を見てなんともいえない笑みを浮かべる寅八。
そこまでが一切のセリフなしで描かれ善太の無事が示される。
阪東妻三郎が暴れまくる賑やかな映画だが、その中にこのような静かなシーンを入れ込んだ演出がいい。

寅八が「善坊はさる大名の落胤だ」と酔った勢いで言ってしまったことがラストの顛末への入り口となっているが、 阿部九州男の賀太野山を登場させて捨て子の経緯を語らせるのは、前述の粋な演出に比べると唐突感がある。
藩の重臣は世継が無くなったことでご落胤を探し回っていて、ご落胤のうわさを聞いてやってきたと言うのだが、重臣ならば賀太野山の語ったことは承知していたはずだ。
賀太野山は関取で著名人の部類に入る人物だから、重臣たちは賀太野山と連絡を取ればご落胤の居場所などはすぐに分かりそうなものである。
とは言うものの、まあこれは余計なあら捜しに過ぎない。
寅八は不始末を仕出かした善太の身代わりとなって手討ちされることを申し出ている。
その心意気があっぱれと許されているのだが、善太を手放したくない寅八に質屋の親父が「もう一度死ね!」と一喝するシーンは胸に突き刺さるこの映画で一番の名セリフだった。
寅八は別れることになった善太を肩車して大井川を渡っていく。
笑顔で見上げる阪東妻三郎の笑顔が何とも素晴らしいショットとなっている。
ラストシーンで橘公子のおときが父親から寅八との結婚を許されるが、おときが別れを悲しむシーンがないので、おときは寅八との結婚を望んでいた為に善太を可愛がっていたのかもしれないなと思わせる仕草に見えた。

キツツキと雨

2020-12-28 11:19:08 | 映画
「キツツキと雨」 2011年 日本


監督 沖田修一
出演 役所広司 小栗旬 高良健吾 臼田あさ美
   古舘寛治 黒田大輔 森下能幸 高橋努
   嶋田久作 平田満 伊武雅刀 山崎努

ストーリー
人里離れた山間の村。
木こりの岸克彦(役所広司)は、早朝から仲間と山林に入り、木々を伐採して生計を立てていた。
妻に先立たれ、今は息子の浩一(高良健吾)と2人暮らしで、妻の三回忌はもうすぐである。
定職に就かずにふらふらしている浩一に、克彦は憤りを覚えていた。
ある朝、田舎道を行く克彦は、車が溝にはまって立ち往生している2人を発見する。
ゾンビ映画の撮影にやってきた映画監督の田辺幸一(小栗旬)と鳥居(古舘寛治)だった。
なりゆきから、2人を撮影現場まで案内することになった克彦は、そのままゾンビのメイクでエキストラ出演する羽目になる。
石丸(伊武雅刀)などの木こり仲間たちから出演をネタにされ、まんざらでもない克彦。
撮影途中の映像を見るラッシュ試写に呼ばれた彼は、小さく映る自分のゾンビ姿に思わず苦笑いする。
現場では、大勢のスタッフやキャストから質問攻めにあい、頭が混乱して昏倒してしまう幸一。
そこへたまたまやってきた克彦は、弁当を食べながら幸一に年齢を尋ねる。
彼が25歳だと聞いた克彦は、生い茂る松の木を指さし、“あそこに松が生えてるだろ。あの木が一人前になるのに、ざっと100年はかかるよ”と告げる。
またある日、露天風呂から上がり、克彦と一緒にそばをすすっていた幸一は、父親が買ってきたビデオカメラをきっかけに、映画を撮り始めるようになったことを語る。
しかし、実家の旅館を継がなかったことで、父親は後悔しているだろうと。
克彦は“後悔なんかしてねえよ。自分の買ってきたカメラが息子の人生を変えたんだ。嬉しくてしょうがねえだろうよ”と幸一を諭すのだった。
やがて克彦は積極的に撮影を手伝うようになり、撮影隊と村人たちに少しずつ一体感が生まれてゆく。


寸評
映画撮影の現場をネタにした内幕映画だが、撮影現場を知らなくてもクスッと笑える撮影風景は、もしかしたらこの作品の撮影中に起こった出来事ではと思わせる情景を描きだす心温まる作品だ。
古舘寛治、嶋田久作、平田満、臼田あさ美ら撮影現場の人々も、いずれも存在感があって好感がもてる。
痔持ちのベテラン俳優役の山崎努の快演は流石で、短い登場シーンながら存在感が有り後半を引き締めた。
ダメ息子、木こりの仕事仲間、村の住民、撮影隊といった人間模様が滑稽だけれど人情味にあふれていて、撮影は時間に追われているはずなのに、時間がゆるりと流れていく間を感じさせて心地よい。
それを補うかのようにポンと画面を切り替える手法が映画全体のテンポを生み出していた。

木こりの役所と助監督らしい古舘が出会うが話がかみ合わない。
撮影のことを言われても役所は分からないし、枝打ちなどと林業のことを言われても古舘は分からない。
全く違う世界で生きている人々の出会いがスムーズに描かれ、林業に携わる人の山の天気に対する感覚も披露され、後半への伏線となっている。
冒頭のシーンに対する丁寧な入り方はこの映画への安心感をもたらせたし、小栗旬演じる映画監督が劇的に変わらないのが良い。
スタッフをまとめられず東京への脱走まで企てる情けない映画監督と、仕事が続かないこれまた情けない息子という若者が成長していくのだが、主人公と彼等若者二人の交流が温かみを感じさせた。

露天風呂のシーンや弁当を食べる昼食のシーンでは役所と小栗の距離はまだまだ遠い。
入浴シーンでは近寄る役所を小栗は避けて遠のくが、後半では小栗が役所に近づいていく。
二人の距離を近づけたのは車の中でのゾンビ話だったのかもしれない。
ここでの役所は面白いし、上手いと感じさせる。
大笑いではなく、クスリとしてしまうシーンが多い喜劇である。

青年監督はこれがデビュー作かもしれず、監督する作品にも、また自分自身にも自信が持てない。
監督である小栗旬が無口で、わずかの仕草で感情を見せる描き方はなかなかいい。
岸の励ましもあって徐々に自分らしさを出して行き、山崎努のベテラン俳優から激励を受ける。
台本に自分と大書きしているのは自己主張できないことの裏返しなのだが、徐々に監督としての意見を出して行く様がオーバーな演出になっていないのが良い。
判り切っていることとは言え、大声でOKを出す青年監督の姿に拍手を送りたくなる。

息子の変化への説明不足感があったかなとも思ったが、突然切り替わった法事の喪服シーンや、味付け海苔での親子の食事シーンを思い出すと、あれはあれで、むしろ良かったのかもと余韻が膨らんだ。
貰った監督のイスがあり、監督はあいかわらずB級作品を撮っているのだろう。
岸は本来の木こりの仕事に戻っている。
特別な日々が、普通の日常に戻っているエンディングは静かな終わり方で落ち着けた。

役所広司は相変わらずの巧さで、この人、何をやっても様になりその演技に嫌味がない。
緒形拳亡き後を継ぐ男優だと思う。
助監督もどきになっていたシーンは笑えたなあ~。

北国の帝王

2020-12-27 08:37:06 | 映画
「北国の帝王」 1973年 アメリカ


監督 ロバート・アルドリッチ
出演 リー・マーヴィン
   アーネスト・ボーグナイン
   キース・キャラダイン
   チャールズ・タイナー
   サイモン・オークランド
   マット・クラーク

ストーリー
1929年からアメリカを襲った経済史上空前の不況のために、失業者は浮浪者と化し、彼らはホーボーと呼ばれ、鉄道を利用して野宿地から他の野宿地へ移動した。
彼らは貨物列車や家畜車に乗るのが常套手段であったが、やむを得ない場合は車輪と車輪の空間に巧みに身を忍ばせて移動するという危ない綱渡りもした。
だが、オレゴン州のウィラメット・バレーに来るホーボー達は、そこを通過する19号車に乗ることは避けていた。
この列車の車掌シャックは冷酷無比な男で、彼はホーボーたちの無賃乗車は絶対に許さなかった。
ハンマーを携え、ホーボーたちを見つけたらその場で殴り殺すというすさまじさだった。
だが、この狡猾なシャックの裏をかいて、いつも悠々と19号車に乗っているホーボーがいた。
A・ナンバー・ワンと呼ばれ、ホーボーから“北国の帝王”というニックネームを贈られている男だ。
ある日、A・ナンバー・ワンのニワトリを盗もうとして失敗したシガレットという若者が彼の王座を奪おうと、行動を共にするようになった。
そのために19号車で思わぬ失敗を犯したが、そんなことでひるむA・ナンバー・ワンではなかった。
崖下でひと息いれると、彼はあたりに捨ててあった油の空きカンを集めて、それを持って再び線路に現われた。
A・ナンバー・ワンはその空きカンの底に残っていた油を集めてレールに塗り始めた。
これはやがてここを通過する客車の機関車の車輪を空回りさせて一次停止させ、その間に列車に乗り込み、ある地点で19号車に追いついたとき、それに乗り換える方法だった。


寸評
無賃乗車する男とそれを阻止しようとする車掌の闘いを描いただけの映画なのに、ここまで話を盛り上げている
ロバート・アルドリッチの手腕には驚嘆せざるを得ない。
車掌のシャックは傲慢で冷酷無比な男としてホーボーから恐れられていたが、彼は自分のミスも部下に押し付けてしまうというひどい男である。
その為、鉄道仲間からも嫌われているが、不況で働き口がない彼らは渋々シャックに従っている。
アーネスト・ボーグナインが演じるシャックのキャラクターは強烈で、それをいかんなく見せたボーグナインの存在感はリー・マーヴィンを凌ぐものがある。
大恐慌時代という時代背景が彼の行動に疑問を挟ませないのだろうが、いくら無賃乗車を繰り返す輩とは言え殺人を犯して罪に問われないのはどう考えても理不尽な話だ。
ライフルで威嚇射撃をするならまだしも、彼はハンマーで殴りかかり列車でひき殺しているのだから凶悪犯罪者と言われても仕方がない行為を行っている。

それに挑むのがリー・マーヴィン演じるホーボーのA・ナンバーワンで、二人の肉弾戦が映画のメインだ。
A・ナンバー・ワンのAとはエースのことだろうし、彼は失業者の不満のはけ口としての存在で彼らにとっての英雄的存在だ。
同時に彼は権力への反抗者でもあり、シャックは権力者の象徴的存在でもある。
機関士が「たかがホーボー一人なのに、どうしてあんなにムキになるんだ」とつぶやくが、彼の行動を支えているのは職務への忠誠でも、無賃乗車を許さない正義感でもない。
彼の行動原理は男の意地に他ならない。
それはA・ナンバー・ワンについても言えることで、男の意地のぶつかり合いを演じているのだ。
それが分かるから、どこから見てもひどい男のシャックに嫌悪感が湧かない。
観客は彼等の虚々実々の駆け引きを楽しんで見ることができる。
列車の下に潜り込んだホーボー二人を、ロープの先に結んだ鉄器で攻撃する場面などは、そのアイデアに感心してしまい娯楽性十分なシーンとなっている。

彼ら二人に比べると嫌悪感を抱かせるのが、キース・キャラダインが演じるシガレットという若いホーボーだ。
彼がこの映画における嫌われ役を一手に引き受けている。
シガレットはホーボー仲間から「北国の帝王」と呼ばれることを夢見ているのだが、人がやったことを自分の手柄の様に吹聴するずるい男である。
現実社会でもたまに存在する人物だが、彼のでたらめさはそれだけではない。
名うての金庫破りマイクを殺したのは自分なのだと豪語するが、A・ナンバー・ワンにあっさりホラだと見破られる。
鉄の棒で攻められるA・ナンバー・ワンを、同じように責められたとき助けてもらったのに彼は無視する。
A・ナンバー・ワンとシャックの勝負がついたところで、見物していたシガレットが出てきて「俺とあんたが組んでてよかった!シガレットとA・ナンバー・ワンだ!」と叫び、なんて嫌な奴なんだと思わせる。
それに比べれば「俺はまだ参らねぇぞ!」と叫ぶシャックの方がまだ男らしい。
頑固おやじ二人の生き様が伝わってくる男性映画だ。

絆 -きずな-

2020-12-26 09:27:10 | 映画
「絆 -きずな-」 1998年 日本


監督 根岸吉太郎
出演 役所広司 渡辺謙 麻生祐未 中村嘉葎雄
   川井郁子 池内万作 津川雅彦 夏八木勲
   田中健 萩尾みどり 加藤治子 内藤武敏

ストーリー
都内でレストランやクラブを経営する伊勢商事の社長という顔を持ちながら、裏では佐々木組に属し組の剰余金を管理している伊勢孝昭(役所広司)は、ある夜、銀座でホステスをしている千佳子(土屋久美子)と再会した。
その数日後、千佳子の愛人でフリージャーナリストの岡堀(加藤善博)が何者かによって射殺されるた。
捜査にあたった警視庁の佐古警部(渡辺謙)は、千佳子を容疑者とみるが彼女には完全なアリバイがあった。
しかし、殺しに使われた拳銃が10年前に多摩川で起こった金融会社社長・池尻殺害事件で使われたものと同じであることが判明し、佐古は迷宮入り寸前だった池尻殺しとの両方の線で捜査を開始する。
そのことを新聞で知った伊勢は、小料理屋を営んでいる慎二(木下ほうか)の元を訪れた。
実は、岡堀殺しは慎二と千佳子が共謀してやったことなのだった。
殺人の動機を詰問する伊勢に、千佳子は岡堀が伊勢と今話題のヴァイオリニスト・馬渕薫(川井郁子)との過去を探っていたからだと説明した。
伊勢孝昭、本名・芳賀哲郎には封印した過去があった。
それは、愛する母を苦しめた末に死に至らしめた実父・池尻殺しである。
船乗りだった継父を病気で亡くし、母親をも失った哲郎は、養護施設を出た後、母を自殺に追いやったのが実父だと知って、彼を射殺したのだ。
そして馬渕薫は、哲郎の母と継父との間に出来た妹なのであった。
池尻殺害後、哲郎は音大の教授夫妻に養女としてもらわれていった薫に迷惑がかかってはと、伊勢孝昭を名乗り、ふたりの関係を隠して生きてきた。
ところが、岡堀はそれをネタに、薫と婚約者で西地グループの御曹司・圭介(野上正義)をゆすっていたのだ。
養護施設時代から、哲郎を兄のように慕っていた慎二と千佳子は、ハイエナのような岡堀の計画を知るに及び、池尻殺しに使ったまま隠し持っていた拳銃を使って、岡堀を殺害したのだった。


寸評
施設で育った者たちの固い結びつきがドラマチックに描かれる一方で、肉親に対する強い思いが同時に描かれることで見応えのある作品となっている。
切っても切れないのが家族の縁だと思うが、家族を持たない養護施設育ちの絆は肉親の絆よりも強い。
小料理屋を営んでいる慎二は芳賀の弟分のような感じなのだが、その関係が養護施設時代の事件によってはぐくまれたことが明らかにされ、彼らの信頼がどのようにして生まれたのかが想像される。
そして十年前の事件の真相も明らかにされることで、伊勢孝昭こと芳賀哲郎への感情移入が沸き起こてくる展開も心得たものだ。
伊勢孝昭は布田と兄弟分のような関係で、彼らの絆も深い。
伊勢、慎二、千佳子たちは養護施設以来の結びつきだが、伊勢と布田の信頼関係はどこで生まれたのだろう。
布田の妻となっている今日子(麻生祐未)が結婚前に伊勢と愛し合っていたことと関係があるのだろうか。
今日子は布田と離婚を考えているのだが、その原因が布田の嫉妬にあるのだから伊勢と布田の関係は微妙に思えるが、それでも二人は固い絆で結ばれている。
結局、伊勢は布田の復讐を果たすことになるのだから、ヤクザ同志の契りも強いものがあると言うことなのだろう。

岡堀の殺害はヴァイオリニストの馬渕薫を守るために起きる。
馬渕薫は伊勢の父親違いの妹なのだが、幼い時に別れた妹は兄のその後を知らない。
兄が自分の為に事件を起こしたと感じている妹がリサイタルのアンコールで思い出の曲を弾く。
おそらく観客のどこかに兄がいるだろうとの思いで弾いていたのだろう。
伊勢は今日子と共に観客席にいるが、曲を聞きながら涙を流す。
僕はこのシーンで二人の気持ちを思んばかってもらい泣きしてしまった。
最後まで兄妹が名乗り合わないのもいい。
警視副総監(津川雅彦)が馬渕薫のスキャンダル防止を佐古警部に命じるが、一体誰の要請だったのだろう。
警察がそこまでやってくれない事実を、僕は三菱銀行猟銃事件の関係者から聞いた事がある。

伊勢の人生は切ないものがある。
実の父親はとんでもない男で、母親は幼い伊勢を連れて離婚している。
母親の再婚相手はいい人で、伊勢も実の父親と思えるほど幸せな生活を築いていた。
そこで起きた悲劇も語られ、前夫によって自殺に追い込まれた母親を思うと、養護施設の曽我夫妻(内藤武敏、加藤治子)の言葉を待たずともあんな男は殺されて当然なのだ。
伊勢は再婚後に出来た妹への思いが強い反面、実父への恨みも強かったのだろう。
肉親との固い絆がある反面、肉親との確執が存在するのも世の常だ。
仲間とは言え、僕は自分の命を懸けてでも相手を守ろうとした彼らの関係を羨ましく思う。
僕には友達はいても、家族以外にそのような行為を起こさせる人はいない。
佐古警部は薫の結婚式で 伊勢の遺品を届ける。
薫はすべてを悟ったことだろう。
あの花束のシーン、なかなか良かった。


喜劇 にっぽんのお婆あちゃん

2020-12-25 09:59:22 | 映画
「き」の第1弾は2019年4月3日からでした。
今日から第2弾です。

「喜劇 にっぽんのお婆あちゃん」 1962年 日本


監督 今井正
出演 ミヤコ蝶々 北林谷栄 浦辺粂子 飯田蝶子
   原泉 村瀬幸子 岸輝子 東山千栄子
   斎藤達雄 渡辺篤 織田政雄 殿山泰司
   三木のり平 渡辺文雄 渥美清 小沢昭一
   木村功 田村高広 伴淳三郎

ストーリー
秋の陽ざしも弱々しい浅草仲見世で、サト(ミヤコ蝶々)とくみ(北林谷栄)はすっかり意気投合。
くみは工員を八十人も使っている製靴工場の御隠居だそうだし、サトの方も息子夫婦(渡辺文雄、関千恵子)がポリエチレンの会社をやっていて、これまた全くの楽隠居だという。
それにしてはくみの服装が粗末だし、サトの顔にも生気がない。
サトたちは、街角で化粧品のセールスマン田口(木村功)と知り合う。
女房とのノロケ話に二人は過ぎし昔の結婚生活を思いうかべて涙ぐむ。
その頃、老人ホーム福寿園では、福田園長(田村高廣)や寮母の青木(市原悦子)たちが蒼くなっていた。
このホームのお婆さんがひとり、遺書まで残して失踪したからである。
松屋デパートのネオンが隅田川の水面に映りははじめた頃、二人のおばあちゃんは吾妻橋のまん中にしゃがみ込んでいた。
サトが、実は息子と嫁に邪魔にされて死場所を探しに家出たと打ち明ければ、くみも「私もそろそろ世の中においとましようと思ってたのさ」と、意外なことをロ走った。
老人ホームを飛び出したのは彼女なのだ。
川はドブ臭いからとあきらめ、都電では車輪が鉄で痛かろうと迷っていると、巡査(柳谷寛)につかまった。
サトは“鬼の夫婦”が住む都営住宅へ、くみは老人ホームへ戻されてしまう。
一夜明けて朝から嫁と口論をはじめたサトはテレビのつまみをひねるうち、福寿園の中継放送できのう別れたくみの大写しを見た。
その夜「わては友達のとこへ行くわ。もう厄介にならんでよろし」と、サトは啖呵をきって横になった・・・。


寸評
当時のベテラン俳優が総出演しているような作品である。
主人公のミヤコ蝶々、北林谷栄を初め、女優陣は東山千栄子、浦辺粂子、飯田蝶子、原泉、村瀬幸子、岸輝子などが顔をそろえる。
男優人は伴淳三郎、殿山泰司、上田吉二郎、渡辺篤、左卜全、中村是好、斎藤達雄、山本礼三郎などこれまたオンパレードである。
「喜劇 にっぽんのおばあちゃん」となっているが、作品タイトルは「日本のおばあちゃん」と表示されている。
喜劇となっているが笑えるところは少ない。
思わず苦笑いを浮かべてしまうシーンは所々に見受けられるが、喜劇と言うより悲喜劇と言った方がよい内容だ。
ミヤコ蝶々おばあちゃんも北林谷栄おばあちゃんも裕福な暮らしで今は楽隠居だとミエを張っているが、ミヤコ蝶々おばあちゃんは同居している息子夫婦に死んだ夫が残してくれた金を使い込まれたと恨んでおり、そのうえ二人から邪険に扱われていて、自殺しようと思って家を出ている。
北林谷栄おばあちゃんは老人ホーム暮らしで、ホームの仲間内で盗まれたどら焼きの犯人として疑われたために養老院を出て街をさすらっていたのだから、二人が語っていたことは彼女たちの夢物語なのだ。
老人ホームの住人達も自分はリッパだったのだとか、家族に恵まれているなどと見栄を張っている。
浦辺粂子おばあちゃんや東山千栄子おばあちゃんの様に上品なおばあちゃんもいて、育ちの良さをうかがわせるが彼女たちも演じているのかもしれない。
飲食店の寮にいる若い男の子に年寄りは臭いと言わせ、寮母の青木さんにさえ老人臭が嫌だと言わせているので、単純なおばあちゃん万歳映画とはなっていない。
かと言って世の中から見捨てられるだけの話でもない。
化粧品のセールスマンとは対等の会話をしているし、飲食店の明るい店員の十朱幸代は善良な若者の代表者の様に描かれている。
橋幸夫のレコードと引き換えに自腹を切って昼食を食べさせてあげる店員なんて今どきいないだろうが、もしかするとこの頃にはそんな奇特な人が居たのかもしれない。

映画はおばあちゃんたちが浅草界隈をうろついて語り合う会話や行為を切り取っていく。
タバコの使い方なども上手く撮れているし、さりげなく挟み込まれる街の様子のショットも小気味よい。
北林谷栄おばあちゃんもいいが、関西人の僕はミヤコ蝶々おばあちゃんが気に入った。
ミヤコ蝶々おばあちゃんは息子夫婦と狭いアパートで暮らしている。
裕福ではない息子夫婦はおばあちゃんの金を生活費に充てているらしい。
生活費の中にはテレビの購入も含まれている。
テレビをつけようとした子供に「おもちゃじゃない」よ叱る嫁を見ていたおばあちゃんは二人が留守の時にテレビをつけて捨て台詞を吐く。
最後になってタンカを切り始めたミヤコ蝶々おばあちゃんに拍手喝采の気分になれた。
嫁姑問題もあり、間で気をもみながら苦虫をかみつぶした渡辺文雄のストップモーションで終わるのも高齢者との同居問題を的確にとらえていたように思う。
年金を初め高齢者問題は時代が代わっても政治における永遠のテーマの一つなのかもしれない。

がんばれ!ベアーズ

2020-12-24 11:10:38 | 映画
「がんばれ!ベアーズ」 1976年 アメリカ


監督 マイケル・リッチー
出演 ウォルター・マッソー
   テイタム・オニール
   ヴィク・モロー
   ジャッキー・アール・ヘイリー
   ジョイス・ヴァン・パタン
   ベン・ピアッツァ

ストーリー
その昔、サンフランシスコ・ジャイアンツの二軍投手の時代、キャンプ試合で、かのテッド・ウィリアムスを三振にとったことが唯一の誇りである、飲ンベエのプール清掃人モリス・バターメーカーは、市会議員のボブ・ホワイトウッドに、地元の少年野球リーグの新チーム『ベアーズ』のコーチを依頼された。
コーチ料も貰えるとあって引き受けたモリスだが、ベアーズのメンバーの練習を見て絶望的になった。
キャッチャーのエンゲルバーグは、体重90キロの肥満児で、暇さえあればチョコレートを食う。
ピッチャーのルディは強度の近眼、タナーはプレーするより喧嘩をしている時の方が多く、オギルビーは大リーグの事なら何でも暗記している生字引だが、プレーは全くダメ。
その他、ハンク・アーロンを神のように崇めている黒人少年アーマッド、ホワイトウッド議員の息子トビー、英語の通じないメキシコ人の兄弟、そして内気な運動神経ゼロのルパスなどが、ベアーズのメンバーである。
さて、ベアーズの第1回戦の相手が、ロイ・ターナー率いるリーグ最強のヤンキース。
ベアーズは一死もとれずに1回の表で26点取られ、たまりかねたモリスはそのまま、放棄試合にした。
この惨敗を見て、ホワイトウッドはベアーズを解散しようとしたが、モリスは逆に闘志をかきたてられるのだった。
そこで彼は、以前、つきあっていた恋人の12歳になる娘アマンダをスカウトした。
アマンダは、モリスに投手としての全てを教えられていたのだ。
そしてもう1人、不良少年ケリー・リークが強打者であることを知りスカウトし、この2人の加入によって、ベアースは見違えるようなチームになり、以後は連戦連勝、ついにヤンキースと優勝決定戦を争うことになった。
モリスはベアーズを勝たすために、外野に飛んだボールは全てケリーに取るように命じたため、チーム内で内紛が起きようとした。


寸評
メジャーリーグを題材にしたベースボール・ムビーが臨場感あふれたスリリングなシーンを演出しているのに比べると、この作品にはそのような手に汗握るシーンは盛り込まれていない。
そのかわりチビッコ達が繰り広げるプレーが微笑ましく、自然と笑みがこぼれてしまう。
少年野球チームが舞台だが、このチームはとんでもなく弱い。
守っては、ゴロには逃げるしフライも捕れない。
打ってもボールがバットに当たらないメンバーばかりなのだが、そこに元マイナーのピッチャーだったバターメーカーが監督として雇われる。
鬼監督で、選手を鍛え上げるのかと思いきや、この男が呑んべえでいつもビールを飲んでいて、あげくのはてにはグランドで酔いつぶれてしまうようなダメ親父である。
しかしそこは元マイナーだけに、何とか少年たちに野球の基本を教えていく。
初戦は26点を取られて試合が終わりそうもないので、1回表で放棄試合を宣言する始末。
2回戦は練習の甲斐があって少しは失点が少なくなるが、それでも試合と呼ぶにふさわしくなく、リーグからの脱退を促される始末である。
この間に繰り広げられるダメ親父と、大人びた生意気な口を利く子供たちのやり取りがとんでもなく面白い。
少年たちの悪ガキキャラクターも多士済々で、彼等の野球におけるダメぶりも可笑しい。

転機が訪れるのは新メンバーが加入してからなのだが、先ず最初にピッチャーとして12歳の女の子アマンダをスカウトする。
アマンダを演じるのはテイタム・オニールで、さすがに彼女の存在感はある。
ヒロインが登場しないこの映画の中にあって、テイタム・オニールは「映画の中の華」を一身に背負っている。
近所のガキたちが集まる少年野球チームだが、このチームに女の子が加わるだけで雰囲気が変わる。
しかもこの女の子、そん所そこいらの男の子より野球が上手い。
特にピッチャーとして、球は早いし変化球の切れもバツグンときている。
「9歳の頃は天才児、今はもう婆さんか」という大人にするような口説き文句もくすぐったい。
このアマンダに気があるのが不良のケリーで、注意を受けた大人を見返すためにベアーズに入ってくる。
野球の実力は群を抜いていて、守備は上手いし長打力もある。
二人の活躍でベアーズの快進撃が始まるのだが、勝ってくるとさらに勝利を目指したがるのは当然で、そのためにバターメーカーは手段を択ばなくなる。
エラーを恐れ、外野に飛んだ飛球はすべてケリーが捕るように指示する。
当然ほかの子供たちは面白くない。
物語として、どこかでチームの不協和音を描かねばならないが、このあたりの描き方もナイスな脚本だ。

相手チームの監督も勝つために手段を択ばないのだが、行き過ぎた指示は息子に反抗される。
ラストに向かう盛り上げの一つとして有効なエピソードだった。
そして結末に至るが、一ひねりしてあって好感が持てる。
上手い脚本だと思う。

華麗なる賭け

2020-12-23 08:50:28 | 映画
「華麗なる賭け」 1968年 アメリカ


監督 ノーマン・ジュイソン
出演 スティーヴ・マックィーン
   フェイ・ダナウェイ
   ポール・バーク
   ジャック・ウェストン
   ビフ・マクガイア
   アディソン・パウエル

ストーリー
トーマス・クラウンは、金持ちで、ハンサムで、洗練された紳士だ。
驚いたことに、彼は泥棒にかけては異常な才能と情熱の持主だった。
ある日、彼はかねて計画中の一大銀行強盗を実行した。
エーブはじめ4人の部下に指令を送り、自分のビルの前の銀行を襲わせた。
計画は見事成功、クラウンは奪った金に自分の金を足して、ジュネーブの銀行に預金した。
ボストン警察のマローン刑事が事件調査に乗り出したが、手がかり一つ得られなかった。
一方、被害を受けた銀行が加入していた保険会社のマクドナルドは、犯罪追及に特別な熱意を持つビッキーに調査を命じた。
ビッキーはマローン刑事と協力しながら、自分自身でも調査を行ない、次第に実業家クラウンがあやしいとにらむようになった。
そして、ある美術品の競売会で目指すクラウンに近付き、自分は銀行強盗の犯人を調査していると名乗りをあげてクラウンの反応をみたが、クラウンは一向に動じなかった。
逆にクラウンは、ビッキーの挑戦を受けてたつため、彼女と交際することに決めた。
こうして、あたかも恋愛中のように見せかけながら、クラウンとビッキーは、奇妙なつきあいを始めた。
クラウンの証拠はなかなかつかめず、ビッキーは疑惑を持ちながらも、クラウンに恋するようになった。
その頃、クラウンは、もう1度最後の冒険を試みて、南米に逃げる決心をし、それをビッキーに打ち明け、共に南米に行こうと誘った。
銀行強盗は、前の時と同じように実行され、成功したかに見えた。
が、クラウンの車が、盗んだ金を部下から受け取るべき地点に来たとき、そこには、ビッキーやマローン刑事が、多数の警察を従えて待ちかまえていた。


寸評
スティーヴ・マックィーンの格好良さを追求したような作品で、画面分割による表現が特徴的である。
金持ちが道楽で銀行強盗を計画して楽しんでいるというおとぎ話的な内容となっている。
クラウンはビジネスで成功した大富豪なのだが、生活を退屈に感じていて、刺激とスリルを求めている。
彼の余暇の過ごし方は僕のような庶民には高根の花のようなことばかりだ。
グライダーで空を飛び、ポロに興じ、砂浜をサンドバギーで走り回る。
いつでも呼び出せる美人の女性もいる。
いつも高そうな葉巻をふかし、ホームバーで一杯やってくつろいでいる。
描かれたような生活をできるものならやってみたいと思う夢の世界だ。

そんなぜいたくな生活を送っているクラウンが思っている「世の中への挑戦」の銀行強盗を企てる。
しかし彼自身は実行犯に加わらず、彼の指示通りに動く手下たちが犯行を行う。
冒頭で運転手役の男が指示を受けるが、このシーンがなかなかスマートなものでクラウンの人物像を想像させるものとなっている。
反面、この男によって完全犯罪がほころびを来たすだろうなとの予感がするのは少し減点。
犯行グループは犯行時に初めて顔を合わすメンバーなのだが、その意表があまり感じられないのは少し残念。
それでもそれぞれのメンバーの動きを分割画面の中に描き、銀行強盗が見事に成功する様子はテンポよく描かれているし、クラウンが奪った金を受け取りスイスの銀行に預けるまでもスピーディでスタイリッシュだ。
彼の着こなしも一流と思わせるものがあり、スーツ姿は緊張感をただよわせて決まっている。
スティーヴ・マックィーンは173センチと、アメリカ人としては小柄な方だが、しなやかな体躯にきびきびした動き、小さな頭に短い髪で体全体をすっきり見せて、マックイーンのファンにはたまらないいで立ちである。

証拠も残っておらず、目撃者がたくさん居ても警察はお手上げ状態なのだが、そこでクラウンに対峙するために登場するのがフェイ・ダナウェイのビッキーである。
彼女の登場によって、大人の男女の触れ合いが、これまたあこがれを抱かせる内容で繰り広げられる。
ビッキーは保険会社の調査員だが、すぐにクラウンを首謀者だと指摘してしまうのは敏腕すぎるのではないかと思うのだが、そんな疑問も吹き飛ばしてしまう以後の二人のシーンとなっている。
チェスのシーンはかなり長いのだが、二人が感情を計り合っている緊張感と二人のセクシーさが出たいいシーンとなっている。
ビッキーは色仕掛けでクラウンから証拠を見つけ出そうとするが、やがて彼に魅力を感じていくのは映画としては当然の流れ。
しかし二人ともプロフェッショナルで、情に溺れることはない。
ビッキーは仕事に忠実だし、クラウンはビッキーのプロとしての素養を見抜いている。
二度目の犯行からラストに至る場面はそんな二人の駆け引きを描いていたと思う。
キザな映画だが、そのキザぶりが決まっている作品と言うのが僕の印象となっている。
僕も出来る事ならクラウンのようにキザに生きてみたいものだ。

華麗なる一族

2020-12-22 07:43:35 | 映画
「華麗なる一族」 1974年 日本


監督 山本薩夫
出演 佐分利信 月丘夢路 仲代達矢 山本陽子
   目黒祐樹 中山麻理 酒井和歌子 田宮二郎
   香川京子 京マチ子 志村喬 二谷英明
   大空真弓 西村晃 稲葉義男 北大路欣也
   神山繁 滝沢修 小沢栄太郎 河津清三郎
   中村伸郎 大滝秀治 荒木道子 鈴木瑞穂

ストーリー
関西財界にその名をとどろかせる万俵一族は、子息を次々と政財界の大物と結婚させ、その勢力を広げ、磐石なものとしていた。
阪神銀行の頭取・万俵大介は預金順位全国第十位の阪神銀行を、有利な条件で他行と合併させるべく、長女一子の夫、大蔵省主計局次長美馬中から極秘情報を聞きだした。
そうした工作は、華族出身の世間知らずな妻・寧子ではなく、永らく家庭教師兼執事を務める高須相子の手腕によっていた。
阪神銀行本店の貸付課長である次男銀平を、大阪重工社長安田太左衛門の娘万樹子と結婚させたのも、また、恋人のいる次女二子を、佐橋総理大臣の甥と見合させたのも相子の手腕だった。
しかも、彼女は大介の愛人として、寧子と一日交替で、大介とベッドを共にしていた。
長男の鉄平は、万俵コンツェルンの一翼をになう阪神特殊鋼の専務だが、彼は自社に高炉を建設し、阪神特殊鋼の飛躍的発展を目論み、メインバンクである阪神銀行に融資を頼むが、大介は何故か鉄平に冷淡だった。
大介は、彼の父敬介に容貌も性格も似た鉄平が、嫁いで間もない頃の寧子を敬介が犯した時の子供だと思い続けているのだ。
だが、鉄平に好意を寄せる大同銀行三雲頭取の計らいと、妻早苗の父である自由党の大川一郎の口ききで、遂に念願の高炉建設にとりかかれた。
しかし、完成を間近に、突然高炉が爆発、死傷者多数という大惨事が勃発した。
そして、多額の負債をかかえた阪神特殊鋼は、会社更生法の適用を受けざるを得なかった。
妻子を実家へ帰した鉄平は、愛用の銃を手に雪山で壮烈な自殺を遂げた。
大介の筋書通り、阪神銀行は上位行の大同銀行を吸収合併し、新たに業界ランク第五位の東洋銀行が誕生、大介が新頭取に就任したが、その背後には、さすがの大介の考えも及ばぬ第二幕が静かに暗転していった。


寸評
中々重厚なキャストで、時々その順序がもめ事を起こしたりするクレジットの並び順は登場順となっている。
万俵大介の野望を秘めた嫌味な貫禄は佐分利信ならではのものがあり、的を得たキャスティングだ。
男優が佐分利信なら、女優で彼と互角に渡り合っているのが高須相子役の京マチ子だった。
かつての日本美人的な風貌とはかけ離れ、体格的にも貫録が出てきていて嫌味な女傑を好演していた。
その他、 月丘夢路(大介の妻寧子)、仲代達矢(長男鉄平)、 山本陽子(その妻早苗)、 目黒祐樹(次男銀平)、 香川京子(長女一子)、 田宮二郎(その夫美馬)、 酒井和歌子(次女二子)などの万俵一族以外にも、 二谷英明(大同銀行頭取)、 大空真弓(その娘)、小沢栄太郎(永田大蔵大臣)、 河津清三郎(田渕幹事長)、 西村晃(綿貫常務)、 北大路欣也(二子の恋人)などそうそうたるメンバーで作品の重厚感を出している。

山崎豊子の原作なので、当然モデルがあるわけだがそれを想像するだけでも面白い。
万俵大介の阪神銀行は神戸銀行であることは明白だ。
日銀、大蔵の天下り先となっていることからすれば、大同銀行は協和銀行と思われるが、実際の神戸銀行は太陽銀行と合併し、現在は三井住友となっている。
協和銀行は一時国有化になったりそな銀行と一緒になった。
映画に描かれた通り、金融再編成がすさまじい勢いで起こり、メガバンクを頂点とする合併が行われ三井と住友が一緒になるなどという信じられないことが起きている。
まさに作品の最後で語られたことが実際に起きたわけだ。
阪神特殊製鋼のモデルは山陽特殊製鋼と思われるが、その会社更生法の騒ぎは子供ながらに記憶に残ったのだから、一大事件だったのだろう。
帝国製鉄は八幡製鉄のことだと思うが、その八幡製鉄も富士製鉄と合併し新日鉄となっている。

私も地方銀行の頭取と何度かお会いしたことがあるが、温和な紳士と見えたあの頭取も、それは表の顔で裏の顔はまた違ったのだろうか?
名目貸し、メインとサブのやり取り、資金の引き上げなどは、民間企業にいて実際に経験した私としては生々しいものがあった。
銀行の人事抗争も想像の範囲内だが、誇張のためか西村晃の綿貫常務などは下品なコーヒーの飲み方をする、無能な経営者としていて、大蔵大臣にもそれを言わせていたが、実際にも官僚たちは役員の能力まで把握しているのかもしれないなと思ったりした。

メインのストーリーは金融再編による企業の闇にあたる活動の様子なのだが、その話を膨らませているのが家庭教師であって、今は秘書兼執事のような高須相子の存在と、長男鉄平の出生に係わる親子の確執と、政略結婚の犠牲となっている女たちの姿だ。
特に父親の大介は鉄平が祖父と妻との間に出来た子ではないかと疑っており、「鉄平さんは先代に似てきて立派になってきた」などというほめ言葉を言われると気分を害してしまう。
万俵大介は子供たちを銀行発展のための道具と考えている冷徹な男だが、その彼もやがて…という展開は想像できるとはいえ面白い。野心家の美馬は「白い巨塔」の財前五郎を髣髴させ、田宮二郎のクールさが生きていた。

カルメン故郷に帰る

2020-12-21 07:56:09 | 映画
「カルメン故郷に帰る」 1951年 日本


監督 木下恵介
出演 高峰秀子 小林トシ子 坂本武 磯野秋雄
   佐野周二 井川邦子 城澤勇夫 小沢栄
   三井弘次 笠智衆 佐田啓二 山路義人

ストーリー
浅間山麓に牧場を営んでいる青山の正さん(坂本武)の娘きん(高峰秀子)は、東京から便りをよこして、友達の朱実(小林トシ子)を連れて近日帰郷すると言って来た。
しかも署名にはリリイ・カルメンとしてあったので、正さんはそんな異人名前の娘は持った覚えが無いと怒り、きんの姉のゆき(望月優子)は村の小学校の先生をしている夫の一郎(磯野秋雄)に相談に行った。
結局校長先生(笠智衆)に口を利いてもらって正さんをなだめようと相談がまとまった。
田口春雄(佐野周二)は出征して失明して以来愛用のオルガン相手に作曲に専心していて、妻の光子(井川邦子)が馬力を出して働いているが、運送屋の丸十(見明凡太朗)に借金のためにオルガンを取り上げられてしまい、清(城澤勇夫)に手を引かれて小学校までオルガンを弾きに来るのだった。
その丸十は、村に観光ホテルを建てる計画に夢中になり、そのため東京まで出かけて行き、おきんや朱実と一緒の汽車で帰って来た。
東京でストリップ・ダンサーになっているおきんと朱実の派手な服装と突飛な行動とは村にセンセーションを巻き起こし、正さんはそれを頭痛に病んで熱を出してしまった。
村の運動会の日には、せっかくの春雄が作曲した「故郷」を弾いている最中、朱実がスカートを落っこどして演奏を台無しにしてしまった。
しかし丸十の後援でストリップの公演を思い立った二人はまたそれではりきり村の若者たちは涌き立った。
公演は満員の盛況で大成功となり、その翌日きんと朱実は故郷をあとにした。
二人の出演料は、そっくり正さんに贈り、正さんは、不孝者だが、やっぱり可愛くてたまらない娘の贈物をそっくり学校へ寄付し、春雄は光子と一緒に汽車の沿道へ出ておきんと朱実に感謝の手を振った。


寸評
日本初のカラー作品として歴史に名を留める作品だが、フィルムを提供した富士フィルムが記念として永久保存用のフィルムを残しているので今でも鮮明な色彩を堪能できる。
さらに傷みを修復したデジタルリマスターも作成された。
露出等の制約もあったのだろうが、ほとんどが空気の澄んだ浅間高原でのロケシーンで構成されている単純ストーリで、したがって単純に楽しめる作品だ。
全て青天の下で繰り広げられる話で雨などは一切降らない。
クレジットのスタッフを見ると、撮影と照明、録音に大勢のスタッフが参加していて撮影の苦労をしのばせるが、作品からはそんな苦労は感じられず、軽いノリで一気に撮りあげたような感じがする。

カラーを意識した高峰秀子と小林トシ子の衣装が目に焼き付く。
登場シーンから赤と黄色の原色で、その後も色を変えた原色衣装のオンパレードだ。
二人の明るい歌声とダンスが高原で繰り広げられ、背景にはいつも浅間山があってのどかだ。
兎に角、明るい、ほのぼのとした喜劇だ。
その中にバカな子ほどかわいいという父親の戸惑いや、オルガンを借金のかたで失ってしまった盲目の元教師などのセンチメンタルな部分も挿入されてアクセントにしている。
しかし基本は喜劇だ。
上品でもなく、下品でもない、庶民的な笑いを誘う喜劇である。
今では差別用語として使用されることがなくなった禁止用語もバンバン飛び出しアッケラカンとしたものだ。

リリーからの手紙の紹介で、彼女が気立てはいいのだが少し間抜けなところがあることを示している。
父親は冗談めかして、小さい時に牛に追突されて頭を打ち、それで少しおかしくなったのだと言っていたが、周りの目を気にしているようで全く頓着していない明るい女性で、ストリッパーである自分たちはダンサーという芸術家なのだと自負している。
村人たちはそんな彼女たちを歓迎して大騒ぎをするが、芸術家と持ち上げてしまった笠智衆の校長先生をはじめ佐田啓二などの先生たちは彼女達の公演を見ることをせず淋しそうに校長宅で酒を飲んでいる。
校外学習に来ていた佐田啓二の先生が、舞台衣装で踊る彼女たちに後ろ髪をひかれながら子供たちと去っていくシーンがあり、そのことを思うと彼等も舞台を見たかったのだろうが、教育者という肩書はそれを許さない。
うがった見方をすれば、それは権威のつまらなさを言っているようでもあった。

後年、シリアスな演技で大女優となっていく高峰秀子さんが溌溂とした姿を見せて楽しませてくれるが、本来はこのような性格の女優さんだったのではないかと思わせる。
デコちゃんと慕われていた高峰秀子さんの歌声も存分に聞けるのも、今となっては貴重だ。
僕は日本映画史上の最高の女優は高峰秀子だったと思っているのだが、ここでの彼女は天真爛漫さを見せて後年に彼女がやった役柄とは全く違うが、やはり彼女の代表作の一つではないだろうか。
小林トシ子は主演の一人であると思うけれど、キャストのクレジットでは随分と後の方で出てきたなあ。
たしか勅使河原宏夫人となられたはずだ。

カメラを止めるな!

2020-12-20 08:22:41 | 映画
「カメラを止めるな!」 2018年 日本


監督 上田慎一郎
出演 濱津隆之 真魚 しゅはまはるみ
   長屋和彰 細井学 市原洋 山崎俊太郎
   大沢真一郎 竹原芳子 吉田美紀
   合田純奈 浅森咲希奈

ストーリー
主な登場人物
日暮隆之(濱津隆之):映像監督。「速い」「安い」「質はそこそこ」な仕事を取り柄とする。
日暮真央(真魚):日暮監督の娘で大学生。こだわりの強さとやる気が空回りしてなかなかうまくいかない。
日暮晴美(しゅはまはるみ):監督の妻。元女優だが、役に入り込みすぎる性格のため引退に追い込まれた。
松本逢花(秋山ゆずき):ノーカットドラマ主演の女優役アイドル。
神谷和明(長屋和彰):ノーカットドラマの男優役。
細田学(細井学):ノーカットドラマのカメラマン役。中年男性で日暮とは現場で長い付き合いがある。
山ノ内洋(市原洋):ノーカットドラマの助監督役。メガネをかけている気弱な俳優。
?山越俊助(山﨑俊太郎):ノーカットドラマの録音マン役。メールで細かな条件を複数指定してくる面倒臭い性格。
古沢真一郎(大沢真一郎):ラインプロデューサー。この企画の責任者だが、性格は適当。
笹原芳子(竹原芳子):テレビプロデューサー。この企画の総責任者だが、性格は超適当。

ゾンビ映画撮影のため、山奥にある廃墟にやってきた自主映画のクルーたち。
監督は本物を求めてなかなかOKを出さず、ついに42テイクに至る。
雰囲気が悪くなり休憩に入ったところ、本物のゾンビが現れ撮影隊に襲いかかった。
次々とクルーの面々はゾンビ化していくが、監督は撮影を中止するどころか、求めていた本物の雰囲気に嬉々として撮影を続行。
37分ワンシーン・ワンカットで描くノンストップのゾンビムービーを撮った彼らとは・・・。


寸評
内田けんじ作品を思い起こさせる作りだが、はるかにドタバタでエンタメ性に富んだ作品だ。
映画館を出ていく観客の中から、「えらい短い映画やなあと思ってたら、そこからやってんなあ」とか、「最初は、評判になってるけど、どこが面白いねんと思ってたわ」とかの会話が漏れ聞こえてきたが、実際この映画には仕掛けがあり、前半と後半でまったくタイプの違う構成になっている。
上映時間を頭に置いていると、ここからの展開はある程度予測がつくが、「オイオイこれで終わりかよと」思わせるのは、ツカミとしてはまず成功。
前半は観るに堪えない映画で、全編ワンカットの映像はユニークだが、全体のつくりがチープだし役者も大根揃いで、会話に間が開くことがあり、何とも安っぽさが前面に出ていて、これを延々と見せられるのかと思うと嫌になってくる作りである。

しかし、それは意図されたもので後半は一変する。
まるでドタバタ喜劇映画の様相を呈してくる。
映画作りの舞台裏を見せているのだが、その様子が可笑しくて爆笑の連続である。
趣味で映画を撮ったことのある者なら、より一層この作品を楽しめるのではないか。
僕は学生時代に16ミリ映画を仲間と撮ったことがあるので、見ている時は彼等の中に入り込んでいるような気分になった。
僕らの映画作りは真剣ながらも半ば遊びのようなものであって随分楽しかったのだが、ここに登場する人々も随分と楽しんでいる。
登場人物を含め、かかわっている人たちが楽しんでいることが感じ取れる作品だ。
ワンカットで中継しなければならないという設定が、巻き起こるドタバタに必然性を生み出している。
タイトル通りカメラを止めるわけにはいかないのだ。
深い人間ドラマなどはないが、ラストのクレーンカメラをめぐるトラブルでは、撮影隊の絆と映画愛を感じさせ、他の観客と違って僕はジーンとくるものを感じた。

制作費300万円ながら興行収入は30億円を突破。
最初は2館上映だったのが口コミで広がり全国公開となった大ヒット作品だ。
映画評論家はあまり評価していないようだが、キネマ旬報の読者投票では堂々の2位に選出されている。
大ヒットの理由が分かろうと言うものだ。
中身がなくても、単純に面白いから映画ファンの心をつかんだのだ。
大学の映画サークルが作ったような作品の雰囲気が逆に効果を生んでいる。
脚本と編集の力は評価されてよい。
登場人物のキャラクターも上手く割り振られていると思うが、それにしてもプロデューサー役の竹原芳子はその顔立ちもあって一番際立ったキャラだ。
少々中だるみ感がある中身は別として、2018年度最大の話題作であることは間違いない。

カポーティ

2020-12-19 10:41:52 | 映画
「カポーティ」 2005年 アメリカ


監督 ベネット・ミラー
出演 フィリップ・シーモア・ホフマン
   キャサリン・キーナー
   クリフトン・コリンズ・Jr
   クリス・クーパー
   ブルース・グリーンウッド
   ボブ・バラバン

ストーリー
1959年。小説「ティファニーで朝食を」で名声を高めた作家のトルーマン・カポーティは、カンザス州の田舎町で、農家の一家四人が惨殺されたという小さな新聞記事に目を留める。
カポーティはノンフィクションの新たな境地を開くという野望を胸に、ザ・ニューヨーカー誌の編集者、ウィリアム・ショーンに執筆許可を取りつけ、良き理解者である幼なじみのネル・ハーパー・リーを伴い取材に着手。
田舎町では彼の名声も役に立たず、最初は難航したが、やがて地元の警察の捜査部長であるアルヴィン・デューイの妻がカポーティのファンであったことから事態が好転し、逮捕された犯人二人組に接触する。
その内の一人、ペリー・スミスとの出会いはカポーティの創作意欲を強く刺激した。
カポーティとペリーは生い立ちや境遇に共通点があり、二人は互いに相手の中に自分を見出すようになっていたのだが、やがてペリーに死刑判決が下された。
ペリーは、何度も面会に来るカポーティに心を開きかけていたが、ある時、自分の話をカポーティが小説に書き始めていることを知って警戒し始め、カポーティの執筆は停滞。
それでもカポーティは、小説を完成させる野心を捨てることができず、ペリーとの間に芽生えた友情と信頼を裏切る形で、ついに小説のクライマックスとなる犯行の詳細について聞き出すことに成功する。
やがてペリーは、カポーティの眼前で絞首刑に処された。
1965年、小説は「冷血」というタイトルでザ・ニューヨーカー誌に発表され、大反響を巻き起こすが、心に大きな痛手を負ったカポーティは、それ以降、本格的な作品を書けなくなってしまうのだった。


寸評
カポーティを演じたフィリップ・シーモア・ホフマンは、本作でアカデミー主演男優賞を受賞したのだが、たぶん声や外見を徹底的に似せたのであろうと思われる役作りは、不気味な存在感を生み出し見ごたえたっぷりである。
登場した時からカポーティは常人ではない雰囲気があり、僕は時間を経るごとに彼に対する嫌悪感が増幅していった。
彼は他人の人生に踏み込んでいくような行動ながら、ついにスミスの心を開かせることに成功する。
ところがカポーティはその裏で、彼を信頼して真実を打ち明けたスミスを裏切るような内容の小説を書いている。
「冷血」というタイトルを自ら決めておきながら、スミスにはまだ決めていないと嘘をつく。
親身になって話を聞いてやるふりをする偽善者だ。
一方で親しい友人たちの輪に入った時はアルコールも手伝ってはしゃぎまくり、子供の様な側面を見せる。
話す内容は時によっては悪意に満ちたものだったりするのだが、その姿は無邪気なものなのである。
スミスは思惑違いから、わずかの金のために残虐な殺人を行った極悪人だが、一方のカポーティも人間性に於いて欠陥を持つ人物に見えてくる。
作家はいろんな人の人生を描き続けるが、傑作を手にするための取材を通じて、偽りの涙を流し、対象者に姿を借りた偽りの人生を生きることもあるのだろう。
そんな悩みから名を成した小説家が何人も自殺しているのかもしれない。

テレビを見ていると芸能レポーターとか報道関係者の傍若無人な振る舞いが目に付くことがある。
節度ある取材を試みている人もいるが、報道の自由の名のもとにずかずかと他人の家に上がり込むような印象を受け不愉快になることがある。
カポーティには小説家として、そのような嫌な部分を感じる。
スミスの姉が会いたくないと言っているのに、スミスには会いたがっていたと平気で嘘を伝えている。
作家としてはスミスにに死んでもらって作品を完成させたいという冷徹な気持ちがあり、反面スミスを失う事に対する人間としての痛みを感じるカポーティの精神は不安定だ。
スミスの死をどこかで望む自分がいて、カポーティは「弁護士はみつからなかった」と嘘の断りを書き送る。
その結果として彼は「冷血」というノンフィクション・ノベルの傑作をものにする。
そうまでしてカポーティをスミスにのめり込ませたものは何だったのか。
たぶんそれは、人を思いやる優しい面と瞬時に残酷になれる二面性をスミスにみいだしたからではなかったか。
カポーティはスミスに自分の影を見ていたに違いない。
自分とスミスは同じ家に住んでいて、スミスは裏口から出ていったが自分は表から出ていっただけなのだと言う。
人の分かれ道はちょっとしたことなのかもしれない。

カポーティは「僕は彼を助けることができなかった」と懺悔する。
しかし、幼馴染の女性作家は冷静に「結局のところ、あなたは彼を助けたくなかったのよ」と言い当てる。
人を借りて自分の内面を書き写す作家の偽善性を痛感したカポーティは以後作品が掛けなくなり、酒浸りとなったことが伝えられる。
僕には作家という人種の精神構造がいまもって理解できないでいる。

カプリコン・1

2020-12-18 10:00:58 | 映画
「カプリコン・1」 1977年 アメリカ / イギリス


監督 ピーター・ハイアムズ
出演 エリオット・グールド
   ジェームズ・ブローリン
   カレン・ブラック
   テリー・サヴァラス
   サム・ウォーターストン
   O・J・シンプソン

ストーリー
東の空が赤く染まり、やがて朝日が1日の始まりを告げようとしている中、人類史上初の有人火星宇宙船カプリコン・1の打ち上げが目前に迫っていた。
カプリコン・1には、ブルーベーカー、ウィリス、そしてウォーカーらが乗り組んでいる。
発射5分前、突然カプリコン・1のハッチが開き、1人の男が乗組員3人を船外に連れ出し、ヒューストンより3人をジェット機で連れ去った。
そして5分後、カプリコン・1は、人々の見守る中、有人宇宙船の名の下に火星へ向かって飛び立つ。
一方、3人を乗せたジェット機は砂漠にある格納庫のわきに着陸した。
そしてそこには、NASAのケラウェイ所長がいた。
驚く3人に向かって、彼はカプリコン・1の生命維持装置に故障が発見されたが、我国の議会や世論を今一度宇宙計画へ目を向けさせるには、今さら計画の中止は出来なかった、という事実を告げる。
そして3人は、もしさからえば家族の安全は保証出来ないという脅迫の中、格納庫にある火星表面のセット・ステージで世紀の大芝居を決行し、そしてそれが宇宙中継の形で、全世界にTV放送された。
よろこぶブルーベーカーの妻達だったが、家族と3人の宇宙飛行士との交信の内容に新聞記者のコールフィールドが疑問を持ち出したので、NASAの魔の手が彼に忍びよる。
しかし、無事、“火星着陸”をやってのけたカプリコン・1が、大気圏再突入の際、事故で消滅するという事態が発生し、これに感づいたブルーベーカーら3人は、消滅(=3人の死)に身の危険を感じ、格納庫より脱出する。
そして3人を生かしておいては、と、NASAの刺客が放たれた。


寸評
かつてアームストロング船長の月面着陸はねつ造ではないかとの噂が流れたことがあるが、「カプリコン・1」はまさにそのねつ造を描いた作品で、ストーリー仕立てとしては非常に面白い。
宇宙開発に反対する議員がいる中で政府は開発予算を取って後押ししているので、生命維持装置に異常があっても火星探索ロケットの打ち上げを延期できないという理由が喜劇的である。
曲がりなりにも火星探索ロケットの話なのに、宇宙物という感じがしないのは地上でのアクションが幅を利かせているからだろう。
内容的には政治サスペンスと言ってよいだろう。
権力側がやろうと思えば何でもできてしまう怖さも描いていたと思う。
コールフィールドがコカイン所持でFBIによって逮捕される場面などは、あれをやられちゃ僕たち一般市民は抵抗のしようがないという冤罪に貶められてしまう。
更に強大な権力を持つ国家ならなおさらで、国家を象徴するケラウェイ所長の指示は滅茶苦茶なものだ。
セット撮影によるでっちあげもひどいものだが、直接的指示はないものの抹殺を意図していることを感じさせる。
まずデータに疑問を持った職員が消えてしまい、殺害されてしまったことを暗示する。
NASAでの彼の記録も消され、住んでいた部屋は何年も前から別の女性が住んでいたことになっている。
国家がその気になれば、これぐらいのことは赤子の手をひねる程度のことなのだろう。
彼から情報を得て調べ廻っているコールフィールドが襲われる。
銃撃されるし、車に細工され暴走する羽目に陥っている。
それほど邪魔なコールフィールドなら、もっと確実な殺害方法があるだろうにと思うし、それを暴漢の仕業に見せかけるぐらいのことは簡単なことだと想像するが、何故かコールフィールドへの接触は甘い。
サスペンスとしての盛り上がりに欠けているとすれば、これも一つの要因だったと思う。

もう一つの要因は逃亡した三人の逃避行に緊迫感を感じないことだ。
ウィリスもウォーカーも過酷な逃亡を行っているが、印象的には簡単につかまってしまったような感じだ。
そして彼らがどうなったのかは描かれていない。
NASA職員同様、彼等の生存が不明のままなのも何か物足りなく感じる。
国家権力によって無残に殺害された方が、権力行使の怖さが前面に出てきていたような気がする。
僕にはどんな意図があったのか想像できないのだが、監督による何らかの意図を感じる描き方だ。

コールフィールドのカーチェイスも見せるものがあったが、カーチェイスならぬヘリコプターと複葉機の追っかけっこも楽しめる。
爺さんのキャラが面白いが、軍のヘリコプターによる銃撃を受けながら、農薬散布用の複葉機が逃げ切ってしまうなんて、米軍も大したことないとなってリアル感はない。
ブルーベーカーが追悼式に現れるシーンは感動的ではあるが、ラストを飾る盛り上がりとしては、もう少し工夫が欲しかったところである。
挙げればきりがないアラも随所に垣間見えるのだが、未だに実現していない有人火星探索をでっちあげで描いている着想が作品を支えている。

学校II

2020-12-17 07:46:08 | 映画
「学校II」 1996年 日本


監督 山田洋次
出演 西田敏行 吉岡秀隆 浜崎あゆみ 神戸浩
   中村富十郎 油井昌由樹 泉ピン子
   原日出子 いしだあゆみ 永瀬正敏
   大沢一起 梅垣義明 笹野高史

ストーリー
青山竜平(西田敏行)が教師として働く竜別高等養護学校では大きな事件が起きていた。
卒業を間近に控えた高志(吉岡秀隆)と佑矢(神戸浩)が買い物に出ると言ったきり寮に戻ってこないのだ。
竜平は近所の人たちからふたりが旭川へコンサートを聴きに行ったらしいことを聞くと、若い小林先生(永瀬正敏)と一緒に旭川へ向けて車を走らせ、車中で竜平は高志たちと過ごした3年間を思っていた。
3年前の春、竜平の受け持ちのF組は、それぞれに障害を持つ9人の新入生を迎えた。
高志の知恵おくれはさほど重いものではなかったが、中学時代に受けたいじめのために心を閉ざした彼は、一言も口を利こうとしなかった。
小林の担当となった佑矢は突然奇声を発して暴れたり、小便や大便を垂れ流したりで目が離せない。
二学期のある日、生徒のひとり・資子(大原資子)の書いた作文を読んでいた玲子先生(いしだあゆみ)から原稿用紙をひったくろうとした佑矢を、高志が言葉を発してたしなめた。
佑矢は素直に従い、この日から高志を兄貴と慕うようになったのである。
三年生になると、生徒たちは就職の準備のために会社や工場へ現場実習に出るようになる。
高志はクリーニング工場で実習を受けることになったが、初めて接する社会は甘いものではなかった。
高志は会社の仲間となじめず、学校へ戻ることになってしまったのだ…。
竜平と小林が到着したコンサート会場には、すでに高志と佑矢の姿はなかった。
高志と佑矢はコンサートの後、ホテルで働く先輩・木村(大沢一起)を訪ね、さらに翌日、雪の中を歩いていた。
ふたりは親切な夫婦と知り合い、彼らの熱気球に乗せてもらう。
それを発見した竜平と小林は、無事にふたりを学校へ連れ戻すのだった。
卒業式の日、涙ばかりの竜平を生徒たちは逆に励まし、希望に満ちた顔で学校から巣立っていった。


寸評
前作は夜間中学が舞台だったが、今回は高等養護学校を舞台にしている。
生徒に寄り添い彼等を理解し指導する教員たちの奮闘ぶりが描かれるが、主人公であるベテラン教員の青山竜平は離婚していて娘(浜崎あゆみ)には通り一辺倒の返答しかできない。
家庭が犠牲になって龍平夫婦が離婚に至ったことが連想される気の休まることのない職業なのだが、冒頭で他人である生徒には心の中に入れるのに、娘にはそうは出来ない親の弱さが描かれていて興味深い。
先生と生徒の姿が描かれているのだが、もう一方の存在である親は高志の母である泉ピン子と、 佑矢の母である原日出子しか描かれておらず、しかもその描き方はありきたりのものとなっている。
僕はモノローグで竜平と娘の一件を描くのなら、もう少し親の在り方を描いても良かったように思う。
竜平が元妻へ出す手紙だけではフォローとして物足りなく感じる。
実は僕に高校の校長を務め教育委員会へも転身した友人のO君がいるのだが、O君は養護学校の教員をしていた次期があった。
そのO君から聞いたいくつかの話が印象に残っている。
そのうちの一つは「子育てにつかれている親が子供を学校に預けることでホッとしてしまい、子供が卒業した後のことを考えられなくなってしまう」といった内容のものだった。
そうなってしまうほど親は疲弊しているということで、僕としてはそのあたりの親子関係があればと思った次第。

横断歩道は這ってでも渡り切らないと命がないと実地訓練で教えたり、ナイフで自殺を試みた身障者が自ら突き刺す力がないので死ねず、だから生きていくしかないと答えたという話などに衝撃を受けた。
もちろん作中で描かれていたように汚物の後始末などは日常茶飯事だし、現場では映画以上のことが起きていることを知りえたのである。
一般教員を目指していた新人の小林先生は生徒への対応に苦悩するが、それでももう少し高等養護学校で頑張ってみようと思う。
O君も一般高校への話が来た時に、もう少し養護学校でやってみたいと申し出たそうだ。
僕には務まりそうもない職業だが、映画は先生たちの苦労ばかりを描いているわけではない。
一番の問題児である佑矢の存在が高志の成長を促していく話などは感動的で、僕は原日出子が吉岡秀隆の高志を抱きしめたシーンで泣いてしまった。

人から頼られると、頼られた人が成長するということは思い当たるふしがあるものだ。
親も子供に頼られ成長していくという一面がある。
いわば子供を育てながら、自分も子供に育てられているということだ。
ある時期から子供が親を頼らなくなるが、親は子離れが出来ず自分の思い通りにならない子供をいぶかしがる。
竜平の別れた妻も、竜平もそんな気持ちがあったのかもしれない。
竜平の娘はすでに親離れしていたのだろうし、年取った私は心しなくてはならないと思う。
何事もなかったように高志と佑矢は戻ってくるが、気球に乗ったことが大きかったのかもしれない。
気球を含めて風船が度々登場するが、空中に舞う風船は巣立っていく彼等の未来への羽ばたきを表していたのかもしれない。