おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

少年は残酷な弓を射る

2022-08-31 06:57:30 | 映画
「少年は残酷な弓を射る」 2011年 イギリス


監督 リン・ラムジー                    
出演 ティルダ・スウィントン ジョン・C・ライリー エズラ・ミラー
   ジャスパー・ニューウェル ロック・ドゥアー
   アシュリー・ガーラシモヴィッチ シオバン・ファロン・ホーガン       

ストーリー
エヴァは郊外の朽ち果てた一軒家に住んでいた。
いやがらせのため赤いペンキが玄関にぶちまけられ、道行く女性から突然罵倒され、ほほを殴られたりする。
睡眠薬とお酒が手放せない日々の中、エヴァは少しづつ過去の記憶と対峙していく・・・。
エヴァは世界中を飛び回り、その手記を書いている作家で、これまで自由奔放に生きてきた。
夫のフランクリンはエヴァと落ち着いた家庭を作ることを望んでいた。
そしてエヴァは妊娠するが、他の妊婦のように自分のおなかの中で成長していく我が子を愛おしいと思う以上に何か違和感があった。
誕生した子供はケヴィンと名付けられたが、子育ては苦難の連続だった。
一日中泣き通しの赤ん坊の頃、話せる年齢になっても一言も言葉を発しない3歳の頃、そして一向におむつが取れず反抗ばかりする6歳の頃。
どの時代も、夫フランクリンが抱きあげれば泣きやみ、彼が帰宅すれば笑顔で出迎えた。
エヴァは二人目の子供を授かった。
娘セリアは天真爛漫な少女に育ち、ケヴィンも美しい少年に成長する。
セリアは、ケヴィンとの関係が悪化していく中で、心をいやしてくれる天使の様な存在だった。
ある日、セリアが可愛がっていたハムスターがいなくなり、台所のディスポーザーの中で死んでいた。
エヴァはケヴィンの仕業ではないかと疑い、エヴァとフランクリンが留守中にセリアが強力な溶剤を誤って顔にかぶり片目を失った時、エヴァの疑いは確信に変わった。
それを口にしたエヴァと夫の関係は冷えて行き、ついに離婚話へと発展するが二人はもう少しこの生活を続けて行くことにする。
セリアがはしゃぎ、夫が一緒に遊んでやっている朝、それはこの上ない幸せな風景に見えた。
仕事に慌ただしく出かけて行くエヴァ。
それが最後の家族の記憶となり、そして忌まわしい事件が起こった運命の日となった。
記憶の旅も終りに近づき、彼女は決意を胸に悪魔の様な息子・ケヴィンがいる刑務所へと向かう。


寸評
サスペンス映画ともホラー映画とも言ってもいいような作品で、決して後味の言い映画ではない。
それなのにそこからもたらされる嫌味がないのは最初から最後まで貫かれるエピソードの切り替えに対するスピード感だったように思う。
作品は事件後の母親の姿と、事件に至るまでの出来事を切り替えながら進んでいくが、その間に繰り広げられる出来事は深く描かれることはなく、観客の想像を掻き立てながら次々と展開していく。
その構成がサスペンスを盛り上げ、ホラー化していく。

オープニングの白いカーテン、それに続くトマト祭りに参加する人々の鮮血のような赤に染まった映像が強烈。
この鮮烈な赤はエヴァの家と車に投げかけられた赤いペンキに引き継がれる。
いったい何がなにやら、さっぱりわからないままドラマがスタートして、その後、どうやら彼女には暗い過去があるらしいことが判明してサスペンス劇がスタートしていく。
この組み立てとスピード感は最後まで変わることがなく、この作品を支えている。
とは言うものの、最後になっても、とても希望が持てるエンディングとは言えず、陰惨な映画のままで終わっているので、僕はある種の感動を持って映画館を出ることは出来なかった。

少年の口からはわずかながらも希望的な言葉が発せられるが、少年が問題を内在しながらも上手く立ち回ってきたというごまかしを、母親も肯定するような言動も有って、ここにきて子供の持つ恐ろしさを母親も共有してしまったのではないかと感じてしまったのだ。
途中からは、そもそも子供であるケヴィンの行動は、母親エヴァの敵意と憎悪の反映ではないのかと、うがった視点で見てしまっていたのだ。
観覧中に僕は、自由奔放に生きてきたエヴァが妊娠を心底喜ばなかった気持ちが、すでに胎内にいるケヴィンに伝わっていて、望まれなかった自分の復讐を誕生後に行っているのではないかと、大いにひにくれた見方もしていたのだ。

家の中で起きる数々の出来事は、子育てをしている人なら多かれ少なかれ思い当たる節があるものだ。
赤ん坊がいつまでたっても泣きやまず、あやしても笑わない。
言葉の発達が遅い。
おむつがなかなか取れない。
言うことを聞かず、反抗的である。
どれを取っても、「そんなことはどんな子供にもある」と言いたくなるような些細なことなのだ。
しかし初めて子供が生まれたヒロインには、それがいちいちひどく深刻なことに思えてしまうのだ。
子育てノイローゼとはそうしたものなのだろうか?

子供は天使であると同時に悪魔でもある。
クローズアップされる母親と息子の関係。
幼い頃から父親には従順なのに、母親に対しては反抗的な長男のケヴィン。
その態度は、ある意味、悪魔的ともいえるほど。
成長するにつれて、その態度はエスカレートし陰湿化していく。
それをまともに描いていたら、きっとグロテスクな映画になってしまっていただろうと思う。
エバは職場でも友人を作ろうとしない根暗人間だ。
彼女が生きている現在は破局後の人生なのである。
彼女の回想の中で、映画は少しずつ、すべてが終わった破局に向かって進んでいく。
見終わると原題の「We Need to Talk about Kevin」が重くのしかかる。
子育ては母親一人だけでやるものではないのだ。
もっとケヴィンのことを夫と話し合わなければならなかったのだ。

ケヴィンの様なことはやらかさなかったけど、自分もケヴィンに似た感情を母親に対して持った経験を有している。
なぜそうなったのか、分かっているようで分からないのだ。
いやはや、子育ては難しいものだ・・・。

少女は自転車にのって

2022-08-30 06:46:29 | 映画
「少女は自転車にのって」 2012年 サウジアラビア / ドイツ


監督 ハイファ・アル=マンスール
出演 ワアド・ムハンマド リーム・アブドゥラ

ストーリー
厳格なイスラム教が支配する国サウジアラビアの首都リヤド。
ある朝、ワジダは男の子の友達アブドゥラと喧嘩をするが、彼は「男に勝てるわけないだろう」と言い捨てて自転車で走り去る。
10歳のおてんば少女ワジダは、近所の男の子アブダラと自転車競争がしたくてたまらない。
ワジダが通う女子校では、戒律を重んじる女校長がいつも目を光らせ、笑い声を立てただけで注意が飛ぶ。
制服の下はジーンズとスニーカー、ヒジャブ(スカーフ)も被らず登校するワジダは当然、問題児扱いだ。
学校の帰り、綺麗な緑の自転車がトラックで運ばれるのを目にしたワジダは、思わず追いかける。
自転車は雑貨店に入荷したもので、値段は800リヤルだった。
帰宅後、ワジダは自転車が欲しいと母に懇願するが、全く相手にしてもらえないので、自分でお金を貯めて買おうと決意する。
手作りのミサンガを学校でこっそり友達に売り、上級生の密会の橋渡しのアルバイトをするものの、800リヤルには程遠い。
そんな中、密会の橋渡しがバレ、退学になりかけるワジダだったが、母が校長に謝罪し事なきを得る。
その夜、父と母の喧嘩の声が聞こえてきた。
父は家を継ぐ男子を得るために、第二夫人を迎えようとしているらしい。
そんな時、コーランの暗誦コンテストに優勝すると賞金1000リヤルがもらえると知る。
コーランは大の苦手のワジダだったが、賞金で自転車を買おうと、迷うことなく立候補する。
宗教クラブにも入りコーランを暗記、美しく暗唱できるよう毎日練習を重ねるワジダ。
そしていよいよ大会当日となり、ワジダは次々とコンテストを勝ち抜いていくが……。


寸評
映画の面白さのひとつに、異文化と接することが出来るということがあると思うのだが、今回はサウジアラビアにおけるイスラム社会の戒律の世界に接した。
映画を見ていて、思わず日本人に生まれていてよかったなあと思ったし、日本女性なら尚更そう感じたのではないかと思う。

映画が進むにつれてサウジアラビアの女性をめぐる厳しい状況が次から次へと描かれる。
女の子が自転車に乗ることもままならないし、異性と遊ぶこともダメだ。
ワジダは全身を覆う黒い服の下にジーンズとスニーカーを着用していて、それが女校長先生や親との間に、軋轢を生んでいく。
さらに、サウジは一夫多妻制で、ワジダの父親は男の子が欲しいらしく、別の女性と結婚するために家を出てしまうことが正当化されているのだ。
母親は反発し悲嘆にくれるが、サウジはそれを受け入れざるを得ない男性社会でもあるようだ。
本来なら暗く重たくなるような世界なのに、そうならないのは、ワジダのはつらつとした日常を通して描いているからで、それがこの映画の魅力でもあると思う。

言ってみれば少女物語、青春物語なのだが、社会背景がここに描かれているようなものであるなら、それが全く違ったものに見えてくる。
ワジダが他の少女と違うのは映画が始まってすぐにわかる。
履物が違い、服装も違うし、態度も優等生ではなさそうなのだ。
しかし、ミサンガを売って小遣いを稼ぎ、密会の取り持ちでは両方から手数料をせしめるチャッカリ屋でもある。
少女は反抗的でもあり、規制に抵抗しているようでもあり、我々の世代で言えば学生運動の闘士のようにも見えてくる。
彼女が社会に対する抵抗運動をしているとすれば、我々がそれを行った年齢に比すると、彼女の年齢は10歳は若いのではないか?
もっとも、あの年齢で婚約者の写真を持っていた子がいたなあ・・・。
所変われば品変わるだなあ・・・。

ラストはこの物語の結末にピッタリで、疾走する自転車のワジダがさわやかな余韻を残して、未来への希望を物語っているようでもあった。
母親の行為、ワジダの笑顔、見送る自転車屋のおやじさんの顔などが、変革を予感させているようでもあった。
自転車が登場するシーンはファンタジックだったなあ・・・。

この映画は理不尽な因習に対するワジダのしたたかな抵抗を通して、サウジ社会が抱える女性たちの生きづらさを浮き彫りにしていたが、前述のように未来への確かな希望を力強く描き出した映画でもあった。
女性映画監督ハイファ・アル=マンスールに拍手!

シェイプ・オブ・ウォーター

2022-08-29 08:05:28 | 映画
「シェイプ・オブ・ウォーター」 2017年 アメリカ


監督 ギレルモ・デル・トロ
出演 サリー・ホーキンス マイケル・シャノン
   リチャード・ジェンキンス ダグ・ジョーンズ
   マイケル・スタールバーグ オクタヴィア・スペンサー

ストーリー
1962年、ソビエトとの冷戦時代のアメリカ。
口の利けない孤独な女性イライザ(サリー・ホーキンス)は、政府の極秘研究所で掃除婦として働いていた。
ある日彼女は、同僚のゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)と一緒に極秘の実験を見てしまう。
研究所の水槽に閉じ込められていた不思議な生きものと出会ったのだ。
アマゾンの奥地で原住民に神と崇められていたという不思議な生きものの魅惑的な姿に心奪われ、人目を忍んで“彼”のもとへと通うようになり、手話や音楽、ダンスなどでコミュニケーションをとる。
イライザは子供の頃のトラウマで声が出せなかったが、“彼” とのコミュニケーションに言葉は必要なかった。
やがて、ふたりが秘かに愛を育んでいく中、研究を主導する冷血で高圧的なエリート軍人ストリックランド(マイケル・シャノン)は、彼を虐待し実験の犠牲にしようとしていた。
それを知ったイライザは、同僚のゼルダや隣人の画家ジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)らを巻き込み、彼を研究所から救出しようと試みる・・・。


寸評
印象は今までに見てきた作品とは逆を行く内容だなというもの。
例えば「シザー・ハンズ」や「キングコング」のように人造人間や動物が美女に恋していたのに、この作品では先ずは人間(美人とは言えない女性)が半魚人に恋している。
また「美女と野獣」のように野獣が人間に戻るのではなく、人間の方が半漁人に変化している。
半魚人は当然言葉を話せないが、一方のイライザも口がきけないという設定も新たな試みと言えるかもしれない。
イライザはゲイの男性と同居していて、入浴シーンなどを見ると性的に欲求不満がありそうな描き方で、美しいヒロイン像とはかけ離れたように感じる。
下ネタめいた会話も随分となされ高尚なファンタジーといった感じがしない。
イライザが半魚人と結ばれたことを同僚のゼルダに打ち明けるが、その交わりの様子を語るシーンが可笑しくて僕は絶句してしまった。

米ソ冷戦時代を背景としたスパイ映画としてのサスペンスありバイオレンスありで、ミュージカル仕立てのシーンもある妖艶なラブ・ファンタジーと盛りだくさんの内容だったが、僕にはこの作品がアカデミー作品賞を初めとして、どうして評価が高いのか分からなかった。
己のために他者を屈服させようとするストリックランドがいなければ普通の作品だったように思う。
将軍の部下として忠実で成果もあげていて出世している男が、たった一度の失敗で見捨てられる不安に苦悩する姿に現代社会に通じるものを感じた。
水中に没していったイライザが、言葉を失くした原因となっている首筋の傷を変化させてるシーンだけは感動したけれど・・・。

ジュラシック・パーク

2022-08-28 08:13:10 | 映画
「ジュラシック・パーク」 1993年 アメリカ


監督 スティーヴン・スピルバーグ
出演 リチャード・アッテンボロー
   サム・ニール
   ローラ・ダーン
   ジェフ・ゴールドブラム
   アリアナ・リチャーズ
   ジョセフ・マッゼロ

ストーリー
アリゾナの砂漠地帯で恐竜の化石の発掘調査を続ける生物学者のアラン・グラント博士と古代植物学者のエリー・サトラー博士は、突然やって来たハモンド財団の創立者ジョン・ハモンド氏に、3年間の資金援助を条件にコスタリカ沖の孤島へ視察に来るよう要請される。
視察には、数学者のイアン・マルカム博士、ハモンド氏の顧問弁護士ドナルド・ジェナーロ、それにハモンド氏の2人の孫、レックスとティムも招かれていた。
島に到着した彼らの目の前に現れたのは群れをなす本物の恐竜たちだった。
このジュラシック・パークは、ハモンド氏が巨費を投じて研究者を集め、化石化した琥珀に入っていた古代の蚊から恐竜の血液を取り出し、そのDNAを使い、クローン恐竜を創り出した夢のテーマ・パークだった。
グラントたちはこのプロジェクトの未来に不安を感じるが、遅れて来た2人の子供たちと共に、コンピュータ制御された2台の車に分乗して園内ツアーに出かけた。
その頃、パークの安全制御を担当するコンピュータ・プログラマーのネドリーは、ライバル会社に恐竜の胚の入ったカプセルを売り渡すために陰謀を企てていた。
ロックを解除してカプセルを盗み出したネドリーは嵐の中、東桟橋へ急いだのだが、停電は同時にグラントたちの乗った車も停車させてしまい、恐竜を防護するフェンスの高圧電流も止まってしまった。
彼らの目の前に巨大なティラノサウルスが現れ、襲いかかってきた。
ジェナーロが食われてしまい、子供たちを助けようとしたマルカム博士は重傷を負ってしまう。


寸評
竜の映像に尽きる。
それ以上でも、それ以下でもない作品だ。
物語に大した変化はないし、登場人物のキャラクターが掘り下げられているわけでもない。
人間関係はあってないような描き方でドラマとしては不満が残るが、それに比べると恐竜の描き方はリアル感があり本当に恐竜時代に迷い込んだような気になってくる。
登場する恐竜は人気者ばかりだ。
ティラノサウルスことT-レックスは人気、強さ共に最高の恐竜で、ここでも最後まで暴れまくっている。
草食恐竜のブラキオサウルスは群れを成して登場するが、草食なのでアラン博士や子供たちを襲わなかった。
世界一有名な角竜トリケラトプスも登場するが、毒に当たって瀕死状態だった。
ディロフォサウルスは諸悪の根源であるデニス・ネドリーに毒を浴びせて始末している。
ヴェロキラプトルは劇中で「ラプトル」と呼ばれていて、賢い胸中のイメージで描かれている。
その愛称の通り、非常に知能が高くずる賢いラプトルは子供たちを追い詰める。
流石に島から逃げ出したらいけないので空飛ぶ翼竜系は登場していない。
兎に角、恐竜が楽しめる。

登場人物のキャラクターが描き切れていたとは言い難く、中でも役割がよくわからないのが数学者のイアン・マルカム博士だ。
生命体が生存するための力の強さや確率論的な話をし、レックスとティムの子供たちを救う活躍をするが、なぜ数学者でなければならなかったのか不明だ。
投資家の窓口になっている顧問弁護士は、危険をはらんでいることを察知しながらも、営利目的のためにパーク建設に賛同するという立ち位置だと思うが、その変質ぶりも単純に描かれている。
生物学者のアラン・グラント博士と古代植物学者のエリー・サトラー博士は物語上必要な学者だったと思うが、彼等の知識がいかんなく発揮されているとは言い難いし、植物学者のエリーなどはトリケラトプスの病気の原因を探っていたはずなのに、結局その調査結果は報告されていない。
女の子がコンピュータを操作してのドアロック解除に苦労しているシーンでは、男の子は側で応援しているだけで、そんなことをしているぐらいならエリーが取ろうとしている銃を手渡してやればいいじゃないかと思ってしまう。
挙げればきりがないが、人物描写と脚本には突っ込みどころが多いし難もあるのだが、恐竜との追っかけっこがすべてを凌駕していき、これはこれで映画として成り立っているのだと満足してしまう。

最後に生物学者のアランはこのパークを承認できないと言い、パークの建設者ハモンド氏も当然だと答えているのだが、では恐竜の棲むあの島は一体どうなるのか。
続編を作るためにあえて恐竜たちを存続させたのだろうかと勘繰ってしまう。
琥珀に入っていた古代の蚊から恐竜の血液を取り出し、そのDNAを使って恐竜を生き返らせたという着想は面白いが、全体的には子供だまし映画の印象がぬぐえない。
しかし、考えてみれば子供だましこそ映画の醍醐味だったのではないかとも思うし、理屈を言わず見ている分には大人も子供も楽しめる作品だと思うが、「E.T」ほどのファンタジー性、「ジョーズ」ほどのスリル感はなかった。

ジュディ 虹の彼方に

2022-08-27 08:53:37 | 映画
「ジュディ 虹の彼方に」 2019年 アメリカ


監督 ルパート・グールド
出演 レネー・ゼルウィガー
   ジェシー・バックリー
   フィン・ウィットロック
   ルーファス・シーウェル
   マイケル・ガンボン
   ダーシー・ショウ

ストーリー
1930年代後半、MGM撮影所には『オズの魔法使』のセットが作られつつあり、少女(ダーシー・ショー)は主人公のドロシーの役を与えられた。
自信がない少女に撮影所の最高責任者であるメイヤーが説得を試み、少女は大スターの道を選ぶ。
『オズの魔法使』から30年。ジュディ・ガーランド(レネー・ゼルウィガー)も40代後半となり、次女のローナと長男のジョーイを連れて地方を巡業していたが、昔ほどのギャラはもらえない。
宿泊費の滞納のためにホテルを追い出されてしまい、行った先は子供たちの父親である元夫シド・ラフト(ルーファス・シーウェル)の屋敷だった。
シドに批判されてジュディはしかたなくヴィンセント・ミネリとの間にもうけた長女のライザ・ミネリの家に行った。
そこでジュディはニューヨークに店をもつ若い実業家、ミッキー・ディーンズ(フィン・ウィットロック)と出会い、朝まで楽しく過ごした。
ジョディはシドの家で子供たちに別れを告げて身を切られる思いでロンドン公演へ旅立っていった。
ロンドンではナイトクラブの支配人バーナード・デルフォント(マイケル・ガンボン)と世話役のロザリン・ワイルダー(ジェシー・バックリー)が彼女を迎えた。
MGM時代、ジュディはやせるために薬を飲まされ、長時間の撮影を強いられる生活をしていた。
ロンドンのステージでの不祥事の後の晩、ジュディはあの時のルイス・B・メイヤーを思い出したが、今回もジュディはデルフォントに謝罪することになり、ジュディを慰めてくれたのはミッキーだった。


寸評
ジュディ・ガーランドにとって「オズの魔法使」の成功は良かったのか悪かったのか。
世間のジュディに対する「あどけない少女」像は根強く、若くして結婚し妊娠したが堕胎手術を受けている。
子役当時からダイエット薬として合法覚せい剤であるアフィタミンの常用をさせられていたので、発育段階であるその身体は確実に麻薬依存症の道へと導かれていった。
生涯で肉体関係をもったプロデューサーは何人もいたとも言われており、神経症と薬物中毒の影響が表面化し始め、撮影への遅刻や出勤拒否を繰り返し、数度の自殺未遂も起こしている。
そのため娘のライザ・ミネリは「母はハリウッドに殺された」と言っている。
5度目となる最後の結婚相手は登場するミッキーだったが、滞在先のロンドンで睡眠薬の過剰摂取によりバスルームで死去した。
自殺とする説もある47歳の若さだった。

レニー・ゼルウィガーの作品を多く見ているわけではないが、僕のイメージの中の彼女はふっくらとした女優さんだったのだが、ここでのレニー・ゼルウィガーは役作りの為にすっかりやせ衰えて、生活に疲れ切ったかつての大スターを見事に演じている。
三番目の夫であったシドとの間に出来た子供二人を連れてドサ回りをし、ホテルを追い出される姿が痛ましい。
初めて登場した時には、「え、これがレニー・ゼルウィガー?」と思ったのだが、そこから彼女の熱演が続く。
ダーシー・ショーが演じる子役時代の様子も描かれるが、彼女を食い物にする大人たちはヒドイ。
MGMのメイヤーでさえ悪人に見えてくるし、女性マネージャーなどは刑の執行人のようである。
映画のメインはロンドン興行を行った最晩年を描いている。
彼女の我儘ぶりには眉をしかめてしまうし、同情はむしろロンドンでの世話役のロザリンに移ってしまう。
凄くすさんだ生活を余儀なくされているジュディで、彼女の態度はとても褒められたものではないが、驚くのは同性愛者に対して彼女が理解を示していることである。
当時の風潮としては異端扱いをされていたばかりか、法的処罰も存在していたはずで、彼らに理解を示しているのは何十年も時代を先取りしている。
これは脚本家の意思なのか、それとも彼女の希望だったのか。
二人の同性愛者の登場はラストを盛り上げた。
素行の良くないジュディの公演はキャンセルされて、ジュディが見下していたロニー・ドネガンのショーになる。
ジュディは舞台裏で、ロニーに一曲だけでいいから歌わせてくれと頼む。
ロニーは同意し、舞台に上がったジュディは驚いているバートに選曲を任せ、歌ったのは “Come Rain or Come Shine”で、観客からの拍手を受けてジュディは「虹の彼方に」を歌いだしたが、途中で歌えなくなってしまう。
そのときゲイのカップルが立ち上がり続きを歌い始め、やがて客が皆歌い出した。
映画的で、感動してしまうシーンだ。
この公演の6ヶ月後、ジュディが47歳で亡くなったことを字幕が告げる。
日本でもあることだが、子役で大成功を収めると、その子に寄ってたかる大人たちが出現してくるのが芸能界なのだろう。
破綻した人生を送ったのだろうが、ジュディ・ガーランドの名前は不滅である。

十階のモスキート

2022-08-26 07:06:24 | 映画
「十階のモスキート」 1983年 日本


監督 崔洋一
出演 内田裕也 アン・ルイス 小泉今日子 中村れい子
   宮下順子 風祭ゆき ビートたけし 横山やすし
   阿藤海 清水宏 梅津栄 小林稔侍 高橋明
   安岡力也 趙方豪 吉行和子 佐藤慶

ストーリー
男(内田裕也)は万年係長のサエない警察官で、妻のTOSHIE(吉行和子)はそんな男に愛想をつかし、娘のRIE(小泉今日子)を引き取って離婚していた。
ある日、万引きを目撃した男は万引き女(アン・ルイス)を部屋に連れ込み犯す。
娘は原宿のロックンロール族に狂い、時々、男に金をせびりに来るが、男は娘にだけは甘い。
団地の十階に住み、毎月の慰謝料や養育費もとどこおりがちな男の気晴らしは、スナック・ヒーローで酒を飲むことと、その店の女、KEIKO(中村れい子)とのセックスだ。
養育費の支払いを迫られた男は身分証として警察手帳を見せ、サラ金から金を借りる。
男はいつも落ちている昇進試験のために再びサラ金から借金をしてパソコンを購入する。
男は妻への支払い、サラ金への返済で出費がかさみ、競艇に手を出し、さらにサラ金から金を借りるという悪循環が続き、とうとう、返済の催促は交番にまで及んだ。
生活がすさんできた男は駐車違反を取り締まっている婦人警官(風祭ゆき)を部屋に連れ込んで犯してしまう。
警察署長(佐藤慶)にもサラ金のことがバレて説教される。
交番には次々と取り立ての電話がかかり、KEIKOにも捨てられ、別れた妻に会いに行っても叱責され彼の何かが切れた。
追いつめられた男は、自分の部屋に駆けつけると窓からパソコンを放り投げる。
男は、その足で郵便局に押し入り、金を出せと拳銃を乱射する。
郵便局の外にはパトカー、TV局やヤジ馬が殺到している。
やがて、群集が見守る中、男は同僚の警官にかかえられ、盗んだ金を口にくわえて手錠をかけられたまま連れ出されてくるのだった。


寸評
長い人生の中である瞬間に魔が差して主体的に自らの人生を狂わせていく。
振り返れば、最初は些細な間違いだったはずが、どんどんと破滅的な間違った選択の方へ転げ落ちていく。
僕のすぐ近くにも、そんな人生を送った男がいるが、この映画の主人公も正にそのような男だ。
昇進試験に何度も落ちているうだつの上がらない男で、生気が感じられない。
そんな先行きのない男に愛想をつかした妻は離婚して、ゴルフの会員権セールスをしながら結構立派な家に住んでいる。
男は10階のありきたりな部屋に住んでいるが、ギャンブルと女に目がない。
慰謝料と養育費の送金が滞っていて妻から催促を受けている。

男は僕の知る男と同様、ギャンブルの深みにはまりサラ金の自転車操業に陥っていく。
僕の知る男は、それにヤクザが絡んで2億からの金を巻き上げられたが、さすがに男が警官だけにヤクザは絡んでこず、サラ金業者の取り立て屋だけが押しかけてきている。
男は「警官を脅すのか」と言うが、取り立て屋にとっては正当な行為だ。
映画は冴えない男が借金で追い詰められていく姿を淡々と描いているだけである。

借金しては、その返済に一発逆転を夢見て競艇につぎ込むが的中することはない。
ギャンブルは通常敗けるものである。
ヤケになって酒をあおっては女を犯し、そうこうしているうちにカネが底をつく。
カネが底をつけば、また別のサラ金会社から借金するという悪循環をくり返すことになる。
やがて複数のサラ金からの取り立てに首が回らなくなる。
典型的な自転車操業だ。

飲み屋の女に借金を申し込んだり、別れた妻に借金を申し込んだりと、主人公がどんどん惨めになっていく。
ただ男のそんな姿を描いているだけなので、見方によっては退屈な映画だ。
男は発作的に強盗をやらかすが、犯行は稚拙すぎて強盗と呼べるようなものではない。
したがって犯罪映画にみられるような郵便局強盗の醍醐味はこの場面にはない。
絶体絶命となった男がどっかと椅子に座り込み、急に警察の昇進試験の第一問とその解答をボソボソと一人で暗唱し始めるのが印象的なシーンとなっている。
このシーンがあって映画は引き締まったような気がする。

タイトルにあるように、この男は蚊みたいな存在で、小さな蚊でも人を刺すことができる。
男は別れた妻に「俺だって人間だ・・・」とささやく。
惨めったらしい人生なのかもしれないが、一刺しが郵便局強盗とあっては尚更惨めなのではないか。
男は最後にわずかながらの抵抗を見せて、連行されながら盗んだ札を口にくわえる。
何のための抵抗だったのか、僕はイマイチこの男に感情移入することが出来なかった。
内田裕也と言えばカリスマ的なロック・シンガーだったが、この頃の内田裕也は俳優としても面白い存在だった。

重力ピエロ

2022-08-25 07:02:58 | 映画
「重力ピエロ」 2009年 日本


監督 森淳一
出演 加瀬亮 岡田将生 小日向文世 吉高由里子
岡田義徳 柏木陽 コッセこういち
熊谷知博 北村匠海 Erina 松澤仁晶
森下サトシ 渡部篤郎 鈴木京香

ストーリー
大学院で遺伝子について学ぶ奥野泉水(加瀬亮)には、春(岡田将生)という2歳年下の弟がいた。
不器用な自分に比べると、美男子でピカソの生まれ変わりを自称する春はまぶしいばかりの存在だった。
春は、街中の落書きを消す仕事をしているが、そんな春を見初めて、ストーカー行為を続ける夏子(吉高由里子)は全身整形手術まで受けて、春の気を引こうとしていた。
泉水と春の母親である梨江子(鈴木京香)は、7年前に亡くなっていた。
しかし、父の正志(小日向文世)は、「俺たちは最強の家族だ」と二人の息子たちに惜しみない愛を注いで育てていたが、実はガンに侵されていた彼の余命は僅かだった。
同じ頃、街では連続放火事件が発生していて、その場所には必ず英単語が残されていた。
その意味は何なのか?頭を悩ます泉水に、大学院の友人である山内(岡田義徳)が連続レイプ犯として獄中にいた葛城由起夫(渡部篤郎)が24年ぶりに街に戻ってきたと伝える。
葛城にレイプされた女性の中には泉水の母の梨江子もいて、そして身籠ったのが春だった。
春も自身の出生の経緯を知り、葛城を深く憎んでいた。
やがて泉水は、夏子から春の秘密を知らされる。
そして春は葛城と対面し、彼を殺して家に火をつける。
殺人まで犯した春だが、泉水にとっては唯一の兄弟だった。
遠い日の記憶が泉水の脳裏に甦る。
家族4人でサーカスを見に行ったとき、ピエロは重力に逆らうかのように空中ブランコで華麗に舞っていた。
あの楽しかった日々。人は考え方ひとつで楽しく生きることができる。その考え方を、泉水は信じた。

寸評
どんなに辛く重苦しいことがあっても、楽しそうに生きていればきっと乗り越えられる。
そんなことがじんわりと伝わってくる作品だ。

連続放火事件が家族愛に結びついていく展開には少々突飛過ぎて違和感を持ったが、それは春の苦悩の深さを表していたのだろうか?
あるいは、春は嘘つくのが下手で、嘘をつく時に唇を触るのは父親似だということは、人の関係は後天的なものだということか?
春の追っかけで全く無視していた夏子に対して最後に微笑みかけるのは心境の変化で、重荷としてしょってきたことを振り払ったことを暗示していたのだろうか?
などなど、なにかと思いを巡らせた映画でもあった。

全体の構成はミステリー仕立てだが、そちらのほうへの力は削がれていて、その代わりに力を注いで描かれるのが家族の物語だ。
亡き母をめぐる過去の恐ろしい事件があり、それに翻弄された家族の微妙なバランスの上に立った絆が、繊細に描かれていく。
二人の兄弟は実に仲が良い。
兄は頭は良さそうだがひ弱そうで、弟は芸術感覚に優れていて腕力が強そうだ。
そのバランスで兄弟仲がよかったのかもしれない。
小さい頃に弟の才能にひがむことなく育っていく兄弟たちと、それを見守るいつも前向きで明るい両親たち。
そんな家族がなんだか非常にうらやましく思えたし、片親育ちで一人っ子だった私自身と、一人っ子で兄弟姉妹のいない私の子供を思い浮かべ、また孫たち兄弟はあんなふうに仲良く育ってくれたらいいのになと、テーマとは別次元で見てしまっていた。

父の正志は余命僅かだが、陽気で明るさを失わない。
不治の病になっても、明るく生きていけば死という重力から逃れて自由になれるということなのかもしれない。
母が語った、楽しそうに飛んでいるピエロが落ちるわけがないと言ったのも、自分たちにどんなことがあろうとも、明るく楽しく前を向いて生きていけば、過去の重力から解き放たれて幸せな人生を歩めるのだと言っていたのだろうし、だから「重力ピエロ」なのだろう。

両親である小日向文世と鈴木京香はいい。
過去の出来事に苦悩する母と、それを広い心で守る父。
あんなに笑顔で楽しそうに空中ブランコを飛んでるピエロが落ちるわけがないと語る母。
自分だけが違う才能を持つことに疑問を持つ春に「お前はピカソの生まれ変わりなんだよ」と語る父。
それらの言葉を素直に受け止める子供たち。
こんな家庭はいいなと思って、これこそがこの作品の感じ取ってほしかったことだったような気がした。

終戦のエンペラー

2022-08-24 07:33:11 | 映画
「終戦のエンペラー」 2012年    日本 / アメリカ

                                          
監督 ピーター・ウェーバー                                                
出演 マシュー・フォックス
   トミー・リー・ジョーンズ
   初音映莉子 西田敏行 羽田昌義 桃井かおり 中村雅俊
   夏八木勲 伊武雅刀 片岡孝太郎 コリン・モイ 火野正平

ストーリー                                                  
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦が終結する。
1945年8月30日、GHQを引き連れたマッカーサーが降り立つ。
直ちにA級戦犯の容疑者たちの逮捕が命じられ、日本文化の専門家であるボナー・フェラーズ准将は“名誉”の自決を止めるため、部下たちを急がせる。
その頃、前首相東條英機は自ら胸を撃つが、心臓を外して未遂に終わる。
マッカーサーはフェラーズに、戦争における天皇の役割を10日間で探れと命じる。
連合国側は天皇の裁判を望み、GHQ内にもリクター少将を始めそれを当然と考える者たちがいたが、マッカーサーは天皇を逮捕すれば激しい反乱を招くと考えていた…。
大学生の頃、フェラーズは日本人留学生アヤと恋に落ちるが、彼女は父の危篤のため帰国。
あれから13年、フェラーズは片時もアヤを忘れたことはなかった。
だがアヤの捜索を頼んでいた運転手兼通訳の高橋から、アヤが教員をしていた静岡周辺は空襲で大部分が焼けたという報告が届く。
そんな中、フェラーズは開戦直前に首相を辞任した近衛文麿に会い、開戦の3ヶ月前、戦争回避のため秘密裏に米国側と接したが、国務省がそれを拒否したという事実を知る。
調査が行き詰まり、宮内次官の関屋貞三郎に狙いを定めたフェラーズは、マッカーサーの命令書を楯に強引に皇居へ踏み込む。
関屋は開戦前の御前会議で、天皇が平和を望む短歌を朗読したと語る。
説得力のない証言に腹を立てて立ち去るフェラーズだったが、深夜、天皇に最も近い相談役である内大臣、木戸幸一が現れ、天皇が降伏を受諾し反対する陸軍を封じるために玉音放送に踏み切り、千人の兵士から皇居を襲撃されたという経緯を聞かされる.
だがその話を証明する記録は全て焼却、証人の多くも自決していた。
戦争を始めたのが誰かはわからない。
だが終わらせたのは天皇だ。
フェラーズはマッカーサーに、証拠のない推論だけの報告書を提出する。
マッカーサーは結論を出す前に、天皇本人に会うことを希望。
異例の許可が下り、社交上の訪問としてマッカーサーに会うという建前に沿って、ついに天皇がマッカーサーの公邸に現れる。
しかし、天皇は周りの誰も知らない日本の未来を決めるある一大決意を秘めていた…。


寸評
この映画のクライマックスがマッカーサーと天皇の対面シーンになることは見る前から分かっていること。
このシーンにおいては期待通りの盛り上がりを見せるが、そこに至るまではどちらかと言えば退屈で長大な伏線と言えなくもない。
逆に言えば、そこに至って圧倒的な感動をもたらす。
マッカーサーの回顧録で、昭和天皇との会見において当初は天皇が自らの命乞いに来たと思っていたが、昭和天皇は「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の採決に委ねるためお訪ねした」と語り、自らの命と引き換えに国民を救おうとする姿に接し{私はこの瞬間、私の前にいる天皇が日本の最上の紳士であることを感じとった」と語っていると聞いている。
映画では「国民に罪はない。責任は自分にあるので国民を救ってほしい」と述べられている。
トミー・リー・ジョーンズ演じるマッカーサーが見せる瞬間の表情と演技は素晴らしいものがあり、感動の一翼を担っていたと思う。
この伏線として西田敏行演じる鹿島大将に「本音と建前を持つ日本人の忠誠心の源は信奉で、それを理解すればすべてわかる」と語らせている。
この哲学的な意味を知った瞬間だったのかもしれない。

この映画ではたぶん架空の人物であろうフェラーズ准将の恋人アヤを登場させ、もう一方の話として彩りをつけている。
その為に、マッカーサーの大統領への野望とか本国との軋轢はあまり描かれていない。
このあたりは以前に見たHNKでやっていたセミドキュメンタリーの方が面白かった。
この映画ではマッカーサーは天皇との会見を通じて天皇制を維持したと言うよりも、当初から天皇を維持するつもりで、会見はそれを決定づけたように描かれている。
私はマッカーサーは天皇制を維持はしたが、何十年後かにはその天皇制が崩壊するように宮家の解体を行ったように思っている。
今まさにその皇統の存続が危ぶまれている。
そして日本人にとって天皇とは何なのかを、日本の戦後教育は切り捨ててきた。
私は天皇制擁護と言う方向からではなく、日本民族とは一体どのような民族なのか、日本の国体とはどのような国体が望ましいのかを見つめなおすべきではないかと感じている。
その意味では、この映画は日本映画が提供してこなかった問題を我々に提起してくれた作品だったような気がする。


上海から来た女

2022-08-23 07:01:16 | 映画
「上海から来た女」 1947年 アメリカ


監督 オーソン・ウェルズ
出演 リタ・ヘイワース
   オーソン・ウェルズ
   エヴェレット・スローン
   テッド・デ・コルシア
   グレン・アンダース

ストーリー
宵闇深まるニューヨークはセントラルパーク。
散歩中のマイク(オーソン・ウェルズ)は、美しい女エルザ(リタ・ヘイワース)と出会う。
その場は冷たくあしらわれたマイクだが、別れてしばらく後、彼女の悲鳴が聞こえた。
かけつけたマイクは暴漢に襲われてるエルザを見た。
彼女を助け駐車場まで送った彼は、彼女が弁護士で資産家のバニスター(エヴェレット・スローン)の妻であることを知る。
翌日、マイクがいる船員斡旋所にバニスターがやって来た。
マイクをカリブ海へのヨット航海のために雇い、サンフランシスコを目指して出航した
航海は順調に続き、マイクとエルザは親密になってくる。
だが気がかりなのは、バニスターの顧問弁護士を自称するグリズビー(グレン・アンダース)の存在だった。
サンフランシスコでグリズビーに会ったマイクは、奇妙な申し出をうけた。
「グリズビーを殺したのは私です」という書類にサインすれば5千ドル与えるというのだ。
死亡したことにして妻と別れ自由になると言うのだが、即答をさけた彼はエルザと会う。
彼女は駆けおちしようといい、その資金のため、彼は書類にサインした。
そして再び、エルザの元へ向かう途中、マイクは非常検問にぶつかる。
何と本当にグリズビーが殺され、あの書類を証拠にマイクは逮捕された。
誰かの罠・・・。
殺人犯として公判に付された彼は、裁判所を脱走しチャイナ・タウンに逃げる。
中国人が彼を襲ってきて、マイクは気絶させられてしまう。
彼が気づいたその場所はすべて壁が鏡ばりの部屋だった。


寸評
サスペンス映画としては盛り上がりに欠け、分かりにくいと感じるのだが、どうやら色々あってコロンビア映画側が155分の作品を87分にカットしたらしいので、それが原因かもしれない。
バニスターとエルザの夫婦には隙間風が吹いていることは感じ取れる。
グリズビーという男とこの夫婦の関係がよく分からないし、何故彼がヨットに同乗しているのかもわからない。
バニスターが雇った探偵で、執事ということになっているブルームもよく分からない存在で、この二人のことが大幅にカットされているのではないかと思う。
しかしながら、半分近くにカットされても一応作品として出来上がっているのは驚きである。

話がなかなか進まない前半はかなり退屈だ。
つなぎとめているのはモノトーン作品ならではの陰影を強調したカメラである。
特にアップのシーンは迫力のある画面となっている。
モノトーンを意識したリタ・ヘイワースの白いドレスが美しく幻想的に見えるシーンもある。
グリズビーが自分を殺したという告白文に署名してくれとマイクに迫るところぐらいから少し面白くなってくる。
そして裁判劇となるのだが、この裁判劇もイマイチ盛り上がりに欠けるもので、バニスターがマイクの弁護を引き受けているという特異さも生かし切れていないように思う。
彼がマイクの弁護を引き受けているのは、勝利を勝ち取ることでマイクへの復讐をするということなのだが、バニスターのマイクへの嫉妬の行動としては、バニスターのマイクへの囁きだけではつまらない。
裁判における証言者の扱いも中途半端だったように思う。
証言者の一人である警官の扱いでは、グリズビーの服が濡れていなかった事を指摘されて、告白文との矛盾をついているのだが、それが判決に影響するような描き方ではなく、証言は笑いの中で終わってしまう。
裁判映画ではないので、緊迫した法廷シーンにはなっていないのだが、オーソン・ウェルズならもう少し緊迫した法廷シーンを描いてくれるであろうとの期待はあった。

マイクはバニスターの目論みを知って法廷から逃げ出す。
チャイナタウンに逃げ込み京劇をやっている劇場に入るが、ここでマイクは中国人に襲われる。
なぜ中国人なのかよく分からないけれど、この時点で事件の黒幕は誰なのかが判明する。
そして鏡の部屋での対決となる。
何枚もの鏡がお互いに写り込んで一人の人物が何人にもに見える。
どれが本物の人物でどれが偽りの人物か分からないのだが、それは相対している二人の本当の気持ちが何処にあったのか当人たちにも分からないと言う象徴表現でもあったと思う。
鏡の部屋での対決は他の映画でも見たことがあるから、このアイデアはオーソン・ウェルズがもたらしたものとしてリスペクトされ、オマージュ的に使用されているのだろう。
実際、この鏡の部屋の対決シーンが一番見応えがあった。
リタ・ヘイワースが「死にたくない」ともらすのも良かったと思う。
でもマイクが無罪釈放されたラストシーンは余韻を残さず物足りなさを感じた。
オーソン・ウェルズらしい演出は見て取れるものの、大赤字になったのは分かるような内容である。

しゃべれども しゃべれども

2022-08-22 07:24:18 | 映画
「しゃべれども しゃべれども」 2007年 日本


監督 平山秀幸
出演 国分太一 香里奈 森永悠希 松重豊
   八千草薫 伊東四朗 占部房子 外波山文明
   建蔵 日向とめ吉 青木和代 中村靖日

ストーリー
東京の下町。二つ目の落語家・今昔亭三つ葉(国分太一)は、若手のくせに古典にしか興味がなく、普段から着物で通すなど今どき珍しいタイプの噺家。
三つ葉は、思うように腕が上がらず、煮え切らない日々を送っていた。
そんなある時、落語を通じて話し方を習いたいと、三人の変わり者が彼のもとに集まってくる。
無愛想で口下手な美人、十河五月(香里奈)。
勝気なためにクラスに馴染めない大阪から引っ越してきた少年、村林優(森永悠希)。
毒舌でいかつい面相の元プロ野球選手、湯河原太一(松重豊)。
この三人のために、祖母の春子(八千草薫)と二人で暮らす自宅で教室を開いた三つ葉だが、彼らは集まるごとに言い争い、落語も中々覚えない。
苛立つ三つ葉に追い打ちをかけるように、密かに想いを寄せていた春子の茶道の生徒であり村林の叔母である郁子(占部房子)が、来年結婚することを知らされてしまう。
落ち込む三つ葉だったが、尊敬する師匠・今昔亭小三文(伊東四朗)の落語を寄席で聞いて、改めて自分には落語しかないことを実感する。
そして小三文から一門会の開催を聞いた三つ葉は、師匠の十八番「火焔太鼓」に挑戦することを決める。
一方、十河と村林も「まんじゅうこわい」を猛練習。
いよいよ一門会の日、二日酔いで舞台に臨んだ三つ葉だったが、見事な「火焔太鼓」を披露。
そして十河と村林も、発表会で「まんじゅうこわい」を堂々と演じ切り、同席した湯河原共々、自分の殻を打ち破るのだった。


寸評
三つ葉が演題を自分のものにする変化を国分太一が演じ分けていたのは中々のものだった。
中々のものといえば、八千草薫のおばあさんはこの映画を締めていたと思う。
落語の「まんじゅうこわい」を呟く場面が何回か出てくるが、味のある言い回しで、一向に腕が上がらない三つ葉を見守ってきた気持ちが出ていて微笑ましい。
彼女に限らず、人間に対する優しい視線が感じられる作品だ。
「こんなにダメな連中だって、何とかやっていけるんだよ。少しずつ変わっていけるんだよ」というメッセージが、さりげなく伝わってくる。
人と接するのが苦手な人は間違いなくいる。
子供のうちなら、それは「この子は人見知りで…」で済むのだが、大人になるとそういうわけにもいかない。
しかし持って生まれた性格は簡単には変わらないので悩む人は真剣に悩むのだろう。でも、逆説的だけど、あんまり無理することはないよと、この映画は言っている気がする。
僕はそうではないので、そのような性格の人の気持ちは、本当のところわからない。
だけど、ずっと仏頂面だった香里奈が微笑むところなどを見ると、悩んでいる人には無理に変わることもないと言いたいな。

ただし、全体としての説明不足感は否めない。
湯河原はバッティング理論には自信有とはいえ、何処を評価されて2軍のバッティングコーチに迎えられたのか?
十河五月の実家に発表会のポスターが持ち込まれていたが、それを両親はどう受け止めたのか?
村林優が転校先で受け入れられない状況とはどのような状態なのか?
三つ葉がお茶の稽古に来ている実川郁子に思いを寄せていて、それが十河五月に変わって行く様をもう少し描き込んでいたら、最後のシーンはもっと感動しただろうにと思う。

村林優を演じた森永悠希君がこの映画に明るさを振りまく熱演振りだった。
ただ、物語として大阪人であることが必要な割には、大阪人のイメージからは遠いスマートな大阪人になっていたのはどうだったのかなあ(大好きだった亡くなった落語家の桂枝雀を連想させる身振り手振りは中々のものだったけれど・・)。
十河五月の香里奈さんは適役だった。
人嫌いではなさそうなのだが、ぶっきらぼうな物言いと、ぶっきらぼうな表情で、人から良く思われない女性をうまく表現していた。時折見せる微笑が印象に残る。
結構消化不良の事柄もあったのだけれど、村林優がタイガースファンであることで親しみが持てて、宮田に「有難う!」と叫ぶシーンはラストシーンよりもよかった。
ラストは唐突過ぎて、ボクは少し違和感があった。あんな尻切れトンボな演出は手抜きだと思う。
松重豊さんの野球する姿をみて「刑務所の中」の彼を思い出した。
あれは、おもしろかったなあ・・・。

豹は走った

2022-08-21 08:48:09 | 映画
「豹は走った」 1970年 日本


監督 西村潔
出演 加山雄三 田宮二郎 加賀まり子 高橋長英
   神山繁 中村伸介 ナンシー・サマース

ストーリー
東南アジアの南ネシア共和国にクーデターが起り、日本の巨大企業N物産は南ネシアと莫大な武器取引をしていた関係で、その損失を怖れて、ジャカール大統領(アリス・シャリフ)の亡命の手引をした。
ところが、N物産の社長(中村伸郎)は裏で革命政府とも通じており、ジャカールを暗殺すれば、前政府との取引を復活させるという言責をとっていた。
当然革命政府側も暗殺を計ろうとし、とにかく、先に殺した方が取引に有利なのである。
N物産社長秘書の薫(加賀まりこ)は国際的殺しのプロ・九条(田宮二郎)をやとった。
N物産にとっては暗殺に成功すれば革命政府から契約を続行してもらえ、失敗すれば支援していたジャカール大統領に感謝され、大統領が盛り返せばそちらからも契約続行されるという戦略であった。
大統領の東京滞在は三日間だ。
暗殺を阻止するため、警視庁警部戸田(加山雄三)が元オリンピック射撃選手の腕を買われて、密命をうけた。
戸田は襲いくる革命政府のテロリストと対戦するうちに、敏しょうでずる賢しこい、まるで黒豹のような男、九条の存在を知った。
一方、九条と薫も抜群の射撃の腕、機敏な動き、まさしくシェパードのような男戸田の存在を知った。
だが九条は金髪女性ナンシー(ナンシー・サマース)と情事を重ねる余裕さえみせていた。
やがて、テロリスト、九条、戸田の三巴の激戦が始まったが、戸田の部下、平松(高橋長英)は九条に殺され、戸田ははずみで、ナンシーを殺してしまった。
戸田と九条の憎悪は、対決を前に、いよいよ高まった。
そして、九条の必死の攻撃をかわして、大統領を乗せた専用機が、米軍基地を飛び立ったとき、二人の雌雄を決する時がきた。
巨大な米軍の格納庫の中で戸田と九条の死闘がつづいた・・・。


寸評
加山雄三は1968年に堀川弘通監督で「狙撃」、1969年に森谷司郎監督で「弾痕」、1970年に西村潔監督で「豹は走った」と連続してハードボイルド作品を撮っているが、シリーズの中ではこの「豹は走った」が一番面白く仕上がっていると思う。
もっとも加山雄三のキャラクターと演技力によって本作では主役の座を田宮二郎に奪われてしまっている。
西村潔は1969年に「死ぬにはまだ早い」で監督デビューし、続く「白昼の襲撃」が評判を呼び、この「豹(ジャガー)は走った」で東宝では異色となるアクション監督として注目されるようになった。
僕も注目していて1972年の「ヘアピン・サーカス」、「薔薇の標的」まで見たのだが、初期の作品ほどのキレが見られず、その後はご無沙汰となった。
この手の作品はアメリカ映画にかなわないのだが、西村潔は当時の日本映画の中にあっては群を抜くサエを見せていた監督だった。

警視庁警部の戸田はその職務を解かれるが、それは暗殺を阻止するために先制攻撃を可能とするためである。
組織を離れて行動することになるが、彼を元の組織がバックアップし、平松と言う後輩がサポートしているからまったくの孤立無援の活動と言うわけではないので、職務を解かれていることがかすんでしまっている。
ナンシーは婚約者がベトナム戦争で戦死して自殺を考えていたアメリカ女性だが、九条と知り合うことで生き返ったようになる。
しかし彼女がそうなった理由はよくわからない。
彼女の存在は、ベトナム戦争への批判と、九条が戸田に殺意を抱く理由付けとなっている。
戸田はナンシーを誤射し、九条は平松を誤射している。
九条は誤射を後悔しないだろうが、戸田は誤射したことを後悔したはずなのに、彼はその事をあまり悔いていないように見えるし、身分をなくしている以上、射殺犯として追及される立場になって当然だと思うが、マスコミの追及すら受けていない。
何のために職を辞したのか分からない描き方は手落ちだったように思う。
美人秘書として加賀まりこが登場するが、時代を感じさせるスタイルで懐かしさを感じる。

二人の対決は甘いところがあるが、お互いに傷ついてからは緊張感のあるものとなっており見応えがある。
南ネシアという架空の国のジャカール大統領が靖国神社にお参りして献花を行っているが、この頃には靖国神社問題はなかったことがわかる。
1978年に東条英機元首相ら「A級戦犯」を合祀したことが問題なのだが、いくら東京裁判の否定だと言っても秘密裏に合祀したことは問題であろう。
また、一人の人間を救ったことで反革命派の反撃が始まり大勢の死者を出しているという矛盾をついて終わっているのは考えさせられる結末である。
N物産は革命軍と反革命軍の両方に軍事物資を提供することになったのだろうか。
戦争や紛争が起きると軍需産業は潤うことになる。
世界の紛争を煽り立てる、N物産など問題にならない巨大資本が存在し、裏で暗躍しているのかもしれない。

ジャイアンツ

2022-08-20 08:37:34 | 映画
「ジャイアンツ」 1956年 アメリカ


監督 ジョージ・スティーヴンス
出演 エリザベス・テイラー
   ロック・ハドソン
   ジェームズ・ディーン
   サル・ミネオ
   ロドニー・テイラー
   キャロル・ベイカー

ストーリー
第1次大戦の終わった1920年頃。
東部ヴァージニアで美しさを謳われた、リントン家の三姉妹の次女レズリー(エリザベス・テイラー)は、馬好きの父ホーレスを訪ねて来たテキサス青年ビック(ロック・ハドソン)と知り合う。
東部育ちのレズリーは、たくましいビックに惹かれ、2人は恋し合った末に両親の許可を得て結婚した。
ビックは花嫁を連れて故郷へと戻ったが、3代に亘る開拓者の匂いのしみこんだ家を切り廻しているのは、ビックの姉ラズ(M・マッケンブリッジ)。
東部とテキサスの生活の違いを感じ出したレズリーは、人種差別の激しさに驚いた。
ビックの助手格のジェット・リンク(ジェームズ・ディーン)は、少年時代から一緒に育った仲なので家族同様に待遇されているが、彼女を見る眼差しから、レズリーは彼が唯の使用人にはないもの持っていると感じた。
やがて落馬が原因でラズは死亡し、ようやく主婦の立場をとり戻したレズリーは、愛するビックとの間の暮らし方の溝はどうにもならなかったが、月日は流れ、夫婦の間には1男2女が生まれた。
かねて石油発掘に夢中だったジェットは、遂に金星を射止め、千万長者として牧場を去って行った。
程なく第2次大戦が勃発。
双子の娘の1人ジュデイはボップと結婚し、医科大学を卒えたジョーデイもメキシコ娘ホアナと結婚の上、貧しいメキシコ人のため診療所を開いた。
戦争で成金となったジェットは、ホテルの新築祝いに一家を招待し、双子の娘ラズに夢中になってしまう。
人種的差別に立腹したジョーデイはジェットのために殴り倒され、ビツクは怒るが、泥酔したジェットの姿に手を加えず立ち去った。
牧場王のビックも巣立つ子供たちは押さえられない。
俺は失敗だったらしいというビックに、そんなことはないと答えるレズリーは、30年前の自分の花嫁姿を夢のように思い出していた。


寸評
僕にとって「ジャイアンツ」という大作の評価は、エリザベス・テイラーとジェームズ・ディーンが共演した作品という映画史的な在価値をもった作品というもので、作品内容的には乗り切れないものがある。
テキサスの大牧場主一家の30年の移り変わりを描いた大河ドラマなのだが、その中身は夫婦間における東部と西部の対立、人種差別、牧場から油田へと変わっていくテキサスの変遷、それにともなう親子の価値観のぶつかり合いなどで、あまりにも盛りだくさんすぎて一つ一つのテーマが散漫すぎるように感じるのだ。

エリザベス・テイラーのレズリーは東部の名門から大牧場主と結婚してテキサスにやってくる。
先ずは東部は開明的でテキサスは保守的な土地柄という単純図式が夫婦関係において描かれる。
政治においても女性が参加することをいとわない東部に対し、政治問題は男の世界で女性を排除するテキサスという関係の中に夫婦がはめ込まれる。
人種差別の意識を持つ夫と、差別意識を否定する妻というのも単純図式で、夫婦は時々対立し価値観の溝は埋められないのだが、愛情が勝ってしまうのか最後はいつも和解してしまう。
そもそも主人公はエリザベス・テイラーなのでジェームズ・ディーンのジェットが油田の掘り当てに心血を注いでいることはあまり描かれない。
テキサスが一大産油地になる経緯とか、ジェットが大金持ちになり自分を見下していたビックを見返す描き方も掘り下げているとは言い難い。
子供たちは先住民やメキシコ人に対して差別的な父親を嫌悪したり、あるいは自分の進路を勝手に決めていく子供たちに不満を漏らす父親など、いわゆる親子の確執も突っ込んだ描き方ではない。
ビックの姉ラズとレズリーは嫁と小姑の関係で、こんな小姑がいる家庭に嫁いだ花嫁は大変だろうなと思うが、この問題は早々と解決してしまう。
ビックの姉がレズリーに対して「その内、落馬して首の骨でも折るだろう」とつぶやくシーンがあるので、この問題に対する結末の付け方は簡単に想像できてしまう。
一つ一つを見れば、そのテーマにもっと鋭く切り込んだ作品は数多くあると思う。

人種差別も決して解決されたわけではない。
ジョーデイの妻であるメキシコ人のホアナは最後まで受け入れられていないし、差別主義者らしいハンバーガー店の主人は「客を選ぶ権利は当店にある」という看板をビックに投げつけたりしているのである。
一見差別を否定しているように描きながら、結局は差別を助長しているのかと言いたくなるような描き方なのだ。
そしてジェットがビックの妻であるレズリーに思いを寄せているらしいことは、彼女の新聞記事を切り抜いて飾っていることなどで明らかなのだが、その秘めたる思いを切々と描いている風でもない。
なにかどれもこれもが中途半端なんだなあ。

そもそもジェットがジェームズ・ディーンである必要があったのか。
彼が先天的に持つナイーブな反骨精神の雰囲気を上手く引き出していたようには感じない。
ロック・ハドソンてこんなに大きかったんだと思うし、エリザベス・テイラーってこんなに小柄だったんだと再認識し、脳裏に残っているイメージとはずいぶん違うなという印象を持った。

忍びの者

2022-08-19 07:34:06 | 映画
「忍びの者」 1962年 日本


監督 山本薩夫
出演 市川雷蔵 藤村志保 伊藤雄之助 城健三朗
   西村晃 岸田今日子 丹羽又三郎 浦路洋子
   藤原礼子 真城千都世 小林勝彦 中村豊
   高見国一 千葉敏郎 水原浩一 加藤嘉

ストーリー
戦国末期。伊賀の国には高技術を誇る忍者が輩出し、その中に石川村の五右衛門(市川雷蔵)がいた。
彼は百地三太夫(伊藤雄之助)の配下に属する下忍(最下級の忍者)だった。
その頃、全国制覇の野望に燃える織田信長(城健三朗)は宗門の掃討を続けていた。
そんな信長に対し、天台、真言修験僧の流れをくむ忍者の頭領、三太夫は激しい敵意を持ち下忍達に信長暗殺を命じた。
一方、三太夫と対立中の藤林長門守(伊藤雄之助)も信長暗殺を命令していた。
その頃、五右衛門は何故か信長暗殺を命ぜられず三太夫の妻、イノネ(岸田今日子)と砦にいた。
彼女の爛熟した体は若い五右衛門に燃え上り、彼らはもつれた。
が、三太夫は女中のハタ(藤原礼子)に二人を監視させていた。
五右衛門はその気配を覚りハタを追ったが、その間にイノネは三太夫に殺された。
が、五右衛門は三太夫に信長を暗殺すれば罪を許すとささやかれた。
五右衛門は京に出て信長を狙ったが、織田信雄(小林勝彦)、木下藤吉郎(丹羽又三郎)らに阻まれた。
信長を追って堺に来た五右衛門は一軒の妓楼でマキ(藤村志保)という遊女と知り合い、彼女の純心さに惹かれていった。
ある日、五右衛門はハタにめぐり合い、イノネが三太夫に殺されたことを知り、全てが彼の策略だったと知る。
怒りにもえた五右衛門は急拠伊賀へ帰り三太夫を面罵したが、彼は逃げ去った。
五右衛門はマキと一緒に山中の小屋で日々を送った。
ある日、突然三太夫が現われマキを人質にした。
五右衛門は愛する者のため三太夫の命に従い安土へ走った。


寸評
時代劇の中に忍者ものというジャンルがあるとすれば、この「忍びの者」はその中のピカイチ作品だ。
完全にプログラムピクチャの中の一本だが、その作品にピカイチの評価を与えねばならないほどこのジャンルの作品は少ないように思う。
2作目の「続忍びの者」と合わせて一本の作品として見ることが出来、本作はさしずめ前編といったところである。

僕が子供の頃の忍者映画と言えば児雷也に代表されるような忍術映画だったり、猿飛佐助が活躍するような奇想天外な娯楽作品ばかりだった。
大蛇や大ガマに乗って忍術使いが出てきたり、映画的トリックで煙と共に消え去ったりして、それはそれで楽しめた作品群だったが、さすがに大人が鑑賞に堪えうるものではなかった。
「忍びの者」は大人も鑑賞できる初めての忍者映画だったように思う。
独立プロで社会性のあるメッセージ映画を作り続けてきた山本薩夫監督が作った娯楽時代劇で、忍術使いという子供の世界の人間たちに社会性をもたせて、戦国時代にあって、彼らが傭兵としてどういう役割りをもち、どういう訓練を受けて生きていたかということを少々ながらでも描いている事が当時としては珍しかった。

話をユニークにしているのが大泥棒の石川五右衛門と伊賀忍者の棟梁である百地三太夫の描き方だ。
五右衛門は日本における泥棒のナンバー・ワンで大悪党ということになっているが、実は忍者の頭である三太夫の権謀術数にかかって踊らされていたという設定である。
そしてイメージが確立していると思われる百地三太夫に、変装を使い分けて同時に二つの忍者集団の頭になって両方を競わせている男という解釈を施していて、演じた伊藤雄之助がやたらと目立ち主役を凌駕している。
五右衛門はストイックな男ではなく、腕は立つし先見の明もあるが女好きという性格設定で、三太夫は妻さえもだましぬいて、すべての人間は目的をとげるための道具にすぎないと考えている頭目である。
三太夫が百地と藤林を使い分けていることは誰でもがすぐに分かる変装で、この辺はまだ子供だましの域を出ていない。

作品的に弱いのは自己犠牲を貫き通す忍者たちは一体何のために、何に対してその身を捧げていたのかということが描かれていないことである。
織田信長と言う権力者への対抗というにはあまりにも単純な描かれ方だ。
三太夫が妻イノネ(岸田今日子)に一指も触れず、長門守としてヒノナ(浦路洋子)には溺れている理由が、単に二人を演じ分けるための性格付けと言うだけでは物足りない。
それはイノネに嫉妬するハタとの関係においてもそうで、女二人の五右衛門を巡る争いは割愛されている。
信長は極悪非道の権力者として描かれているが、彼の非道ぶりは延暦寺、石山本願寺の掃討線上にある。
一方の忍者は天台・真言の流れをくんでいるので信長への怒りを有していたのだろうが、そういった時代背景は描かれていたとは言い難い。
一言でいえば大雑把な作品で、楽しめることはできるが感銘は少ない作品となっている。
信長も秀吉もイメージと随分違うしなあ・・・。

沈まぬ太陽

2022-08-18 06:01:42 | 映画
「沈まぬ太陽」 2009年 日本


監督 若松節朗
出演 渡辺謙 三浦友和 松雪泰子 鈴木京香
   石坂浩二 香川照之 木村多江 清水美沙
   鶴田真由 柏原崇 戸田恵梨香 大杉漣
   西村雅彦 柴俊夫 風間トオル 神山繁
   草笛光子 松下奈緒 宇津井健 加藤剛

ストーリー
昭和40年代。
巨大企業・国民航空社員の恩地元は、労働組合委員長として職場環境の改善に取り組んでいた。
だがその結果、恩地は懲罰人事ともいえる海外赴任命令を会社から言い渡される。
終わりなき僻地への辞令が続く間、会社は帰国をちらつかせ、恩地に組合からの脱退を促すのだった。
そんな中、共に闘った同期の行天四郎は、早々に組合を抜け、エリートコースを歩み始めていた。
行天の裏切り、更に妻・りつ子ら家族との長年にわたる離れ離れの生活によって、恩地は焦燥感と孤独感に襲われる日々を送っていた……。
十年に及ぶ僻地での不遇な海外勤務に耐え、恩地は漸く帰国、本社への復帰を果たすが、恩地への待遇が変わることはなかった。
そんな逆境の日々の中、航空史上最大のジャンボ機墜落事故が起こる。
現地対策本部に配属された恩地は、救援隊として現場に赴き遺族係を命ぜられるが、そこで様々な悲劇を目の当たりにする。
政府は組織の建て直しを図るべく、国民航空新会長に国見正之の就任を要請。
恩地は、国見にかつての労働組合をまとめた手腕を買われ、新設された会長室の室長に任命される。
事故によって失墜した会社の再建に尽力する国見と恩地の実直な姿勢は、国民航空と政界との癒着構造を浮き彫りにしていくのであった……。


寸評
途中で10分間の休憩が入る久々の長尺物だが、この映画を見終わった第一の感想は、この作品を「白い巨塔」「不毛地帯」「華麗なる一族」の山本薩夫が撮っていたらどのような作品になっていただろうなだった。
フィクションと言いながらも、国民航空はJALであることは明白で、ましてや冒頭が御巣鷹山の日航ジャンボ機の墜落エピソードから始まっているし、観客のだれもがこれは今経営再建問題で揺れに揺れている日本航空であることを理解してみているのだから架空の話であるわけがない。
この辺りはアメリカ映画が実名を出しながら作るのに、日本映画はそれとわかる作りでも実名をださないもどかしさが残る。

実際はJALのこととはいえ、ドラマの背景にあるのは国民航空という会社のデタラメぶりである。
会社を私物化する経営者たちと権力欲に取りつかれた男たち、自分たちの利益と権力のために平気で差別人事を行い、一方では不正を働き政治家と結託し、結果的に航空会社にとって最も大切な安全がおろそかにする。
それが引き金となって墜落事故が起きたと思われるのだが、そうした企業の腐敗を告発する社会派映画の側面は極めて少ない。
物語は恩地という男の生き様に焦点が当てられ、行天とのバトルが描かれるが、その行天四郎の人格がなんとなく中途半端に感じられた。
この辺りは行天役の三浦友和の悪人になりきれないキャラクターによるものなのかも知れない。

挿入されるエピソードに対する切り込みも不十分だと思う。
松雪泰子が演じるスチュワーデスの愛人としての性(さが)と、同僚を身代わりに死なせた苦悩、そしてそれでも被害者会の名簿を入手するに至る経緯、あるいは香川照之の八木が不正を告発するにいたった経緯と自殺に追い込まれる苦悩、それらが説明不足なので長尺にもかかわらず息を止めるような緊迫感を感じることができない。
宇津井健が演じる男性の後悔の念もすごくわかるのだが、でも伝わってこなかったなあ・・・。

少ない登上時間だったとしてもこの人がこの役なのかと思ったり、それが中曽根元総理だとか、三塚博や瀬島龍三なのだと思って見ているだけでも退屈しない作りにはなっていた。
もちろん国見会長が鐘紡から出向された伊藤淳二氏であることは明白だ。
事実としては1985年12月18日、「日本航空の 連続事故の経営に対する徹底解明と抜本的改革」 を旗印に、伊藤淳二氏(当時 鐘紡会長) が中曽根首相からの強い要請で日本航空の副会長に就任し、その後、伊藤氏は会長に就任し日本航空を立て直すために腐心するが 、1987年3月31日に利権を守ろうとする社内外の圧力により、469日の期間でその座を追われることになる。
日航の腐敗は映画でもそのいくつかは描かれているが、原作にあった国見会長が浮き上がっていく過程や、社内から受ける不当な仕打ちと、陰で支える鐘紡社員の話など、物語を固めるエピソードは描かれていなかった。
そのあたりがこの映画から社会性を取り除いているのだろう。
そうだとしたら、せめて行天四郎はもっと悪として描いてもよかったのではないか。
御巣鷹山の慰霊碑はニュースなどで見たことがあるが、被害者の墓標があのような形で建てられていることを知り、そのおびただしい数に改めて事故の凄惨さと、亡くなられた方のご冥福を祈らずにはいられなかった。


静かなる決闘

2022-08-17 06:23:21 | 映画
「静かなる決闘」 1949年 日本


監督 黒澤明
出演 三船敏郎 三條美紀 志村喬 植村謙二郎
   山口勇 千石規子 中北千枝子 宮島健一
   佐々木正時 泉静治 伊達正 宮島城之

ストーリー
藤崎恭二(三船敏郎)は軍医であった。
前線の野戦病院、次から次に運び込まれる負傷兵や患者のため、恭二は休む暇もなく手術台の側に立ち続けねばならなかった。
陸軍上等兵中田進(植村謙二郎)は下腹部盲腸で一命危ないところを、恭二の心魂こめた手術が成功してとりとめた。
ところが中田は相当悪性の梅毒で、恭二はちょっとした不注意のため小指にキズを作り、それから病毒に感染してしまう。
敗戦後、恭二は父親(志村喬)の病院で献身的に働いていた。
が、薬品のない戦地で、恭二の病気は相当にこじれていた。
父にも打ち明けず、彼は深夜ひそかにサルバルサンの注射を打ち続けていた。
思わしい効果は現れて来なかった。
彼には許婚者松本美佐緒(三條美紀)という優しい女性があったが、無論病気の事は話してなかった。
復員後すっかり変わってしまった恭二に美佐緒は何としても納得しかねる気持ちがあった。
六年間も待ちつづけた恋しい人だったのに。
まるで結婚の事は考えていない様子の恭二、隠している事があるに違いないのだ。
彼女は根ほり葉ほり聞きだそうとしているが、一ツの線からは一歩も踏み込ませようとしない。
ある日、藤崎が自分の病気の秘密を父親に告白しているところを、見習い看護師の峰岸るい(千石規子)に立ち聞きされてしまう。
そして遂に何もかも判る時が来た。


寸評
監督・黒澤明監督、主演・三船敏郎の最初は「酔いどれ天使」で、「静かなる決闘」は2作目である。
「酔いどれ天使」における三船が演じたヤクザの印象が強烈だったので、三船の為にまったく違うキャラクターをやらせたとの黒澤談話を目にしたことがあるのだが、一方の志村喬は同じような医者を演じているので本作は「酔いどれ天使」の続編のような印象を受ける。
しかし「酔いどれ天使」におけるラストのような強烈な印象を残すシーンもないので、僕は数ある黒澤作品の中ではこの作品を余り評価していない。
黒澤は医師を後年の「赤ひげ」に見られるように聖人君子的に描くが、ここでの三船敏郎も実に誠実な医師として描かれている。
三船の恭二だけでなく産婦人科医である父親の志村喬も善良な医師として描かれている。
お互いのライターで煙草の火を付け合おうとするシーンで親子関係も良好であることが示される。
父親が誤解していたことを詫びる場面は簡単すぎたように思うが、ライターのシーンは上手い描き方だった。

「静かなる決闘」とは梅毒に対する病気との戦いと、自らの意識との戦いの両方を意味していると思われる。
恭二は平静を装っているが、美佐緒が結婚の報告をして帰った後で思いのたけを看護婦の峰岸にぶつける。
彼は戦地で思い続けていた美佐緒の肉体が他の男の所有物になるのが耐えられないと、それが男としての本心であろうとの思いを吐露したのでる。
恭二は美佐緒という女性は病気が治るまで待ち続ける人だと述べているが、実際に恭二が梅毒に感染していることを告発すれば美佐緒は恭二が想像したような態度をとったであろう。
それを理由に彼女との結婚を拒絶しているのだが、それは恭二が自分と美佐緒との関係における精神と肉体への欲望の中で苦しんでいたと言う事であろう。
梅毒という感染症を思えば肉体的欲望への葛藤が大きかったと思うのだが、そのあたりの苦悩はほとんど描かれていなくて、峰岸への告白シーンのみなのは恭二の苦悩を共有する為には希薄すぎたように思う。

彼の善人ぶりは貧しい人から入院費をとらなかったり、退院する子供にグローブをあげるなどで描かれているが、一番は戦地で梅毒を写された中田上等兵を恨んでいないことである。
看護婦の峰岸が中田に対して憎悪を向けるのに比べると、恭二は医者としての模範的態度をとるだけである。
戦地で実際に戦った兵隊を糾弾していないのだ。
これは自らが意図したことではなかったであろうが黒澤が兵役逃れをしていたと言うことなので、戦場で戦った兵士に対する負い目があった為かもしれないなと深読みしてしまう。
恭二は中田を恨みはしていないが中田の軽薄な行為を批判しているので、本作は梅毒追放キャンペーンのような気がする映画になっている。
そして当時は多く存在したであろう、男から梅毒をうつされた女性への啓蒙を中田の妻を通じて行っている。
当時は厄介な病気であったろうから、この様な描き方も受け入れられたのかもしれない。
しかし、人間が持つ精神と肉体の欲望への苦悩という観点から見ると、底が浅い描き方だったように思う。
黒澤作品として、僕は驚くような演出を発見することが出来なかった。
志村喬が峰岸の赤ん坊を抱いてあやす姿は後年の「羅生門」に通じるものがある。