おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

薄桜記

2019-12-31 13:44:17 | 映画
今年最後の投稿です。
「は」の途中で終わることになりました。

「薄桜記」 1959年 日本


監督 森一生
出演 市川雷蔵 勝新太郎 三田登喜子
   大和七海路 北原義郎 島田竜三
   千葉敏郎 舟木洋一 伊沢一郎
   須賀不二男 清水元

ストーリー
中山安兵衛が高田の馬場へ伯父の決闘の助勢に駆けつける途中、すれちがった旗本丹下典膳が安兵衛の襷の結び目が解けかけているのに気づいた。
注意すべく駆けつけたが、安兵衛の決闘の相手が同門知心流であることを知ると、典膳はその場を離れた。
通りがかった堀部弥兵衛親娘の助けを得た安兵衛は仇を倒した。
一方、同門を見棄てた典膳は安兵衛への決闘を迫られたが、拒絶した典膳を師匠の知心斎は破門した。
源太左衛門の紹介で上杉家江戸家老千坂兵部の名代長尾竜之進が安兵衛に仕官の口を持って来た。
安兵衛はその妹千春に心をひかれた。
谷中へ墓参の途中、野犬に襲われた千春は典膳に救われたが、生類殺害の罪で役人にとがめられそうになった二人を救ったのは安兵衛だった。
千春が典膳と恋仲であり祝言も近いことを知った安兵衛は上杉家への仕官を断り、堀部弥兵衛の娘お幸の婿になって播州浅野家に仕える運命になった。
典膳が公用で旅立った後の一夜、典膳に恨みをもつ知心流の門弟五人が丹下邸に乱入し、思うさま千春を凌辱して引揚げた。
間もなく千春が安兵衛と密通しているという噂が伝えられ、旅先より戻った典膳は浪人となって五人組に復讐する決意をし、長尾家を訪れて千春を離別する旨を伝えた。
怒った竜之進は抜討に典膳の片腕を斬り落したが、しかしこれは典膳の意図するところだった。
同じ日、安兵衛の主人浅野内匠頭は吉良上野介を松の廊下で刃傷に及んだが、その日を限りに典膳は消息を絶った。
安兵衛は、或る日、吉良の茶の相手をつとめる女を尾行して、それが千春であることを知って驚く・・・。


寸評
赤穂浪士異聞と言える内容で、映画全体は吉良家討入直前の堀部安兵衛の回想で縁取られている。
高田の馬場の駆けつけ、運命の剣士丹下典膳との出会い、高田の馬場の決闘とスピーディな滑り出しから、この二人の運命が、二転、三転、四転と、絡み合いつつ、この主人公たちを皮肉な立場へ追い込んで行く構成の面白さは魅力的で、ストーリー的に観客を飽きさせない。
当時の大映にあって、時代劇の若き世代を狙っていた市川雷蔵と勝新太郎が、剣豪丹下典膳、赤穂義士随一の剣客堀部安兵衛となって顔を合わせ火花を散らす競演をしているのも、今となっては貴重と思わせる作品だ。

時代劇ではあるがむしろチャンバラ映画と呼んだ方がいいような作品だが、その格調は高い。
主人公の典膳は片腕を失っており、しかも直前で敵役の一人から鉄砲で足を撃ち抜かれており、立ち上がることもできない満身創痍の状態である。
白い雪が降りしきる境内で、戸板に乗せられた典膳は立上ることもできぬまま、刀を抜き放って多勢の敵と斬り結ぶのだが、これが凄惨ながらも美しくもあり、これがチャンバラ映画の醍醐味シーンなのだと見せつけてくれる。
瀕死の典膳に安兵衛の助太刀が入り、敵どもをすべて討ち果たすが、その時典膳は雪の中に横たわり息たえていて、その死体に虫の息の妻千春が這いながらにじり寄って行き手を固く結び合う。
月並み映画のヒーロー、ヒロインではない結末に胸打たれる。
心打たれるのはそのシーンが本当の愛の情熱の姿を浮彫りさせているからだ。
この一連のシーンの存在で「薄桜記」は市川雷蔵の代表作の一つに数えられているのだと思う。

千春は典膳を心から慕っており、典膳もまた心の底から千春を愛している。
同じように思いを寄せる安兵衛の気持ちを千春は知らない。
いわば男二人に女一人の三角関係だが、それを巡る争いはなく、ひとり安兵衛だけが悶々としている。
典膳と安兵衛には友情めいたものが湧いているから、男同士の友情との相剋によって、三人の関係がもう少し微妙に描かれていれば、愛情物語としてのパートにもっと面白味が出ていただろう。

丹下典膳という架空の人物に中山安兵衛改め堀部安兵衛を絡ませているので、赤穂浪士の仇討物語が背景で描かれることになり、その事も興味をそそる設定として上手くストーリー立てされていた。
高田の馬場の決闘で浅野家の堀部弥兵衛の婿養子になるのは良く描かれているが、吉良家の千坂兵部への仕官話とその娘千春への恋を絡ませているのがミソとなっている。
もちろん大石蔵之助たち浪士が、吉良上野介が茶会を開く日を知ることに苦心する話も挿入されていて、それを千草によって安兵衛に告げられる設定も、話の流れからは納得できる結末として処理されていた。
伊藤大輔の脚本はよくできている。

冒頭のタイトルバックの映像にかぶさるように、最後に赤穂浪士の討ち入り場面が描かれるが、カメラを引いた遠景でとらえたそのシーンは「終」の一文字を出すにふさわしく、映画を見たという満足感を与えてくれた。
SKDから大映銀幕にデビューする真城千都世(まき・ちとせ)が新人とタイトルされるのも懐かしい表示の仕方だ。

博士の異常な愛情/または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか

2019-12-30 08:38:53 | 映画
「博士の異常な愛情/または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」 1964年 イギリス / アメリカ


監督 スタンリー・キューブリック
出演 ピーター・セラーズ
   ジョージ・C・スコット
   スターリング・ヘイドン
   キーナン・ウィン
   スリム・ピケンズ
   ピーター・ブル
   トレイシー・リード
   ジェームズ・アール・ジョーンズ
   ジャック・クレリー
   ポール・タマリン

ストーリー
合衆国の戦略空軍基地にリッパー将軍の副官として赴任したマンドレイク英空軍大佐は、突然「R作戦」開始の命令をうけて愕然とした。
ソ連攻撃に備えた緊急かつ最高の報復作戦「R」を下令するのだ。
基地は完全に封鎖され、厳戒態勢がとられて哨戒飛行機の全機も通信回路が遮断され、基地からの指令だけしか受けられない状態になり、50メガトンの水爆を搭載、直ちにソ連内の第1目標に機首を向けた。
その直後、大佐は司令官が精神に異常をきし、敵の攻撃もないのに独断でこの処置をとったことを知ったが、手遅れだった。
その頃国防省の最高作戦室では、大統領を中心に軍部首脳と政府高官が事態の処理をめぐって激論を交わし、議長のタージッドソン将軍は時間の緊迫を訴え、編隊の呼戻しが不可能な以上、全力をあげソ連に先制攻撃をかける以外道のないことを説いていた。
しかし、大統領はソ連大使に事態を説明し撃墜を要請した。
だが、1発でも水爆が落ちれば全世界は死滅してしまうので解体は不可能なのだ。
同じ頃、大統領の命令をうけたガーノ陸軍大佐指揮下の部隊は基地接収のため交戦中だった。
やがて基地警備隊は降伏、司令官は自殺、マンドレークは呼返しの暗号を発見した。
しかし、ミサイル攻撃を受けて通信機に損傷を受けたキング・コング少佐の機だけは直進していた……
そして、地球上のあらゆる場所を核爆発の閃光が彩っていった…。


寸評
戦争風刺映画としては最高の部類に入る作品だ。ブラック・ユーモアが全編を通じて散りばめられている。
初めに「アメリカ空軍はこの様な事は絶対に起こさない」とのテロップが写されるが、この映画ではたった一人の精神異常をきたした将軍により核戦争が引き起こされてしまう。
核のボタンは大統領だけにゆだねられた権限のはずで、作中でもピーター・セラーズの大統領がそのことを指摘するが、それがこともあろうに司令官の命令で実行されてしまう。
現場指揮官がこのような行動を取った場合に、現実において、はたして抑止が働くものだろうかと思ってしまう。
上官の命令に従わない軍隊なんてありえないわけで…。

リッパー将軍は事前に基地の180メートル以内に近づく人および物体は全て敵だといって攻撃をするよう基地内のアメリカ兵に指令を出していたため、政府が送った部隊にも発砲してアメリカ軍同士による戦闘が開始される。世界破滅の戦争は同士討ちから始まるという皮肉だ。
精神異常をきたしているリッパー将軍は「自分は拷問に耐えられない」と言って自殺してしまう無責任者である。

3役をやるピーター・セラーズも面白いが、タージドソン将軍をやるジョージ・C・スコットがこれまた狂気の軍人を怪演していてこの映画における異常性を高めている。
タージドソン将軍はリッパー将軍に劣らぬ反共、反ソで、ソ連と全面的に戦争するべきだとの強攻策を熱弁する超タカ派で、会議中にやたらとガムを噛み続ける変人だ。
熱弁中に勢い余って後ろに転び、立ち上がり尚も熱弁するが、それはヒトラーが演説中に興奮したときに見せたらしいので、アメリカにもヒトラーが登場しうるぞと言っているようでもあった。

原題になっているストレンジラヴ博士は何度も大統領を総統と呼び間違え、興奮気味になると右手が勝手に動きそうになり、それを左手で何とか押さえつけるといった奇行が目立つ。
明らかにこれはヒトラーに対する敬礼を茶化しているのだが、ヒトラー崇拝の狂人が政府にもいるかもしれないぞと警告しているようでもある。
世界が終わろうとしているのに、それでも任務に忠実なのかソ連大使がその期に及んでもカメラを使ってスパイ活動をしているのも笑ってしまう。
アメリカにもバカがいるが、ソ連にはもっとバカがいるとアメリカの対面を守ったのかもしれない。

内容がブラックとすれば、ホワイトとでも言いたいような音楽が奇妙な効果を上げている。
キューブリック最後のモノクロ映画だが、その画面に無機質な空撮を見せることでこれまた奇妙な感覚を与えている。
キング・コング少佐が予定通りピーター・セラーズだった方がもっとユニークさが出ていただろうが、彼の怪我で実現できなかったのはおしい。
キング・コング少佐がカウボーイ・ハットをかぶり、ロデオよろしく核弾頭にまたがってヤッホーと堕ちていくシーンが目に残る。

博士の愛した数式

2019-12-29 08:23:59 | 映画
「博士の愛した数式」 2005年 日本


監督 小泉堯史
出演 寺尾聰 深津絵里 齋藤隆成
   吉岡秀隆 浅丘ルリ子
   井川比佐志 頭師佳孝 伊藤絋
   かな島成美 観世銕之丞

ストーリー
新学期。生徒たちから“ルート”と呼ばれている若い数学教師(吉岡秀隆)は、最初の授業で何故自分にルートというあだ名がついたのか語り始めた。
それは、彼がまだ10歳の頃――。
彼の母親杏子(深津絵里)は、女手ひとつで彼を育てながら、家政婦として働いていた。
ある日、彼女は交通事故で記憶が80分しか保てなくなった元大学の数学博士(寺尾聰)の家に雇われる。
杏子は最初に博士の義姉(浅岡ルリ子)から説明を受け、博士が住む離れの問題を母屋に持ち込まないようクギを刺される。
80分で記憶の消えてしまう博士にとって、彼女は常に初対面の家政婦だった。
しかし、数学談義を通してのコミュニケーションは、彼女にとっても驚きと発見の連続。
やがて、博士の提案で家政婦の息子も博士の家を訪れるようになる。
頭のてっぺんが平らだったことから、ルートと名付けられた息子は、すぐに博士と打ち解けた。
ルートは、博士が大の阪神ファンで、高校時代には野球をしていたことを知って、自分の野球チームの試合に来て欲しいとお願いした。
炎天下での観戦がいけなかったのか、その夜、博士は熱を出して寝込んでしまった。
博士を心配し、泊り込んで看病する母子。
ところが、そのことで母屋に住む博士の後見人で、事故当時、不倫関係にあった未亡人の義姉からクレームがつき、彼女は解雇を申し渡され他の家へ転属になる。
だが数日後、誤解の解けた家政婦は復職が叶い、再び博士の家を訪れるようになったルートも、いつしか数学教師になることを夢見るようになるのであった。


寸評
28=1+2+4+7+14
1+2+3+4+5+6+7=28
28は30個ほどしか見つかっていない、自身の約数を全部足すと自身になる完全数の一つで、阪神タイガースのエース・江夏豊の背番号だと言うのがいい。
11は素数で美しい素数で村山の背番号だと言うのもいい。
野球の応援に行った博士が、16番の背番号を見て、岡田と言わずに三宅と言うのもいい。
博士とルートと同じ阪神タイガースのファンである僕は、そんなセリフがあるだけで満足してしまう。
素数、完全数、友愛数、階乗など、難しいことも博士がやさしく語ってくれる。
しかも、大人になって数学の教師になった少年が、生徒たちに語るという物語の設定なので、なおさらわかりやすくなっていた。
吉岡秀隆君は数学の先生らしくなかったけど、だけどハマリ役だった。
僕は数学は(も)苦手だったけど、こんな先生だったらもっと数学が好きになっていたかも知れない。

80分しか記憶がもたないことのトラブルが描かれていないから、その苦悩や苦労がイマイチ伝わってこなかった。
靴のサイズを毎回聞いたり、子供がいることを何度も知らされたりするけれど、それはトラブルのうちには入らない出来事だと思う。
記憶がなくなるだけなのだから、瞬間、瞬間においてはもっと鋭敏であってもおかしくないのにと思って見ていた。
過去の記憶をなくすということは、今をより以上に生き切っている筈だから、もう少しそんな場面があってもいいのにという感覚で、ちょっと戸惑う全体なのだけれど、しかしなぜなのかなあ・・・。
ラストシーンの博士とルートが海岸でキャッチボールをしていて、それを未亡人と家政婦の母親が眺めているシーンでとめどなく涙が流れ出した。
悲しいシーンでもなかったし、特別感動するシーンでもなかったと思うが、でもやはり全てを包み込んでしまった感動的シーンだったからなのかなあ・・・。
なぜだか僕の感性がピタリとはまってしまった。
だから映画館の場内灯が付き始めたときには、矛盾点というか省略されているというか、有っても良いシーンの欠如のことなんか吹っ飛んでいた。

すぐに記憶を失ってしまう博士、そして彼の奇行の数々に、観ていて自然に笑ってしまう。
感動、涙、悲しみ、ユーモアなどがバランスよく描かれていて、押し付けがましいところがないのは小泉監督の作風なのかもしれない。
寺尾聡はこんな役をやらせると天下一品の演技をする。
最も注目したのは深津絵里の内面からにじみ出るような自然な演技だ。
そんなに華のある女優さんではないだけに、よけいに演技の深みが感じられた。
彼女の明るさ、温かさがこの映画のポイントだったのかもしれない。
海辺のシーンの音楽も、満開の桜の下のシーンも印象的ですごくよかった。
兎に角、心癒される映画だったことだけは確かだ。

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

2019-12-28 09:02:45 | 映画
「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」


監督 アレハンドロ・G・イニャリトゥ
出演 マイケル・キートン
   ザック・ガリフィナーキス
   エドワード・ノートン
   アンドレア・ライズブロー
   エイミー・ライアン
   エマ・ストーン
   ナオミ・ワッツ
   リンゼイ・ダンカン

寸評
俳優リーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、かつて『バードマン』というスーパーヒーローを演じ一世を風靡したものの、シリーズ終了して20年経った今ではすっかり落ち目となってしまった。
私生活でも離婚に娘サム(エマ・ストーン)の薬物中毒と、すっかりどん底生活に浸っている。
そこで再起を期してレイモンド・カーヴァーの『愛について語るときに我々の語ること』を原作とする舞台を自ら脚色・演出・主演で製作して、ブロードウェイで上演し再び喝采を浴びようとする。
ところが、大ケガをした共演者の代役に起用した実力派俳優マイク(エドワード・ノートン)の横暴に振り回され、しかも彼ばかりが注目される上にアシスタントに付けた娘サムとの溝も深まるばかり。
本番を目前に精神的に追い詰められていくリーガンだったが…。


寸評
楽屋落ち的な会話も随分と出てくるので映画ファンにはそれも楽しめる作品だ。
マイケル・キートンがバットマン・シリーズの2作に主演して、3作目を辞退してからもう一つパッとしていない事を予備知識として持っておくと更に楽しめる。
この作品は主人公リーガンの人生と、劇中で上演されるレイモンド・カーヴァー原作の舞台の内容とがリンクしているけど、更に主演のマイケル・キートンの人生がリンクしているからだ。
マイケル・キートンはバードマンを降りてから落ち目となった主人公と同じで、それを臆面もなく演じるマイケル・キートンも大したものだが、この役はマイケル・キートンしかないとキャスティングしてしまうアメリカ映画界もスゴイ。
新鮮なのは全編ワンカットの長回しを思わせるカメラワークだ。
楽屋、舞台裏、舞台、街中をカメラをパンさせながら追い続け、カットによる画面の切り替えはない。
最後になってカットによる画面切り替えが行われるが、それまでは丸でカメラがずっと回っているような感じなのだ。
実際はたぶんパンするところでオーバーラップさせて、編集時につないでいっていると思うのだが、全く違和感なく映像は連続している。
しかもその間セリフがこれでもかと飛び交う。
ドンパチ映画の単純な会話ではないので、語学力がなく字幕を追い続けなければならない僕には結構疲れる作業だった。
オープニングはこの映画はSF物かと思わせる閃光の飛来で、主人公の空中浮遊が続く。
さらに主人公の分身のような謎の声(幻聴か?)とか、部屋のものが突然動く超常現象もあり、挙句の果ては噂のバードマンまでが登場する現実と虚構が入り乱れた展開だ。
過去の自分が現在の自分を挑発する虚構と、映画人を忌み嫌う演劇批評家という現実がせめぎあう構成も上手いと思う。
主人公リーガンの人生再起に水を差すのは、主人公の“超自我”であるバードマンだ。
バードマンというヒーローに縛られ、そこから飛び立とうとする男の葛藤だ。
そう言えば007シリーズのジェームズ・ボンドから脱却するためにショーン・コネリーも悪戦苦闘していたなあ。
何だかお堅い作品のようにも感じられるが、ストーリーの根幹にあるのは、家族との絆を取り戻してもう一度愛されたいというオーソドックスな願いだ。
その願いはラストのサムの表情を見ると叶えられたのだと思った。
意味深なタイトルも最後になって納得した。

ハート・ロッカー

2019-12-27 09:53:34 | 映画
「は」の映画に移りますが、「は」で始まる映画は結構の本数を思いつきました。

「ハート・ロッカー」 21008年 アメリカ


監督 キャスリン・ビグロー
出演 ジェレミー・レナー
   アンソニー・マッキー
   ブライアン・ジェラティ
   レイフ・ファインズ
   ガイ・ピアース
   デヴィッド・モース
   エヴァンジェリン・リリー
   クリスチャン・カマルゴ
   
ストーリー
2004年夏、イラクのバグダッド郊外。
アメリカ陸軍ブラボー中隊の爆発物処理班では、任務中に殉職者が出たため、ジェームズ二等軍曹を新リーダーとして迎え入れることに。
こうして、サンボーン軍曹とエルドリッジ技術兵を補佐役とした爆弾処理チームは、任務明けまで常に死の危険が孕む38日間を共にしていく。
しかし、任務が開始されると、ジェームズは遠隔ロボットを活用するなど慎重を期して取るべき作業順序や指示を全て無視し、自ら爆弾に近づいて淡々と解除作業を完遂。
任務のたび、一般市民かテロリストかも分からない見物人に囲まれた現場で張り詰めた緊張感とも格闘しているサンボーンとエルドリッジには、一層の戸惑いと混乱が生じる。
そして互いに衝突も生まれるものの、ストレスを発散するように酒を酌み交わし、謎めいたジェームズの一面も垣間見ることで理解を深め結束していく3人。
だがやがて、任務のさなか度重なる悲劇を目の当たりにしたことから、ある時ジェームズは冷静さを欠いた感情的行動に走り、3人の結束を揺るがす事態を招いてしまう…。


寸評
爆弾処理の実情が何回か映し出され、爆弾処理班の明日をも知れぬ活動が描かれるが、かと言ってその爆弾を仕掛けるテロリスト達の悪を描いているのではない。
ましてやイラク戦争を描いたものではなく、アメリカの正義あるいは逆にアメリカの非道を描いた映画でもない。
あるのは冒頭で表示される戦争は麻薬の一面をもつということだ。
それは、ベトナム戦争を描いた怪作「地獄の黙示録」のモノローグで語られる「戦場では故郷を思い、故郷に戻ると戦場に恋焦がれる」というものに通じる戦場が生み出す異常性だ。

ジェームズニ等軍曹はこれまでに873個もの爆弾を処理したエキスパートだ。
どんな状況にも慌てず、実績からの自信か、どうせ死ぬなら楽にと防御服を脱ぎ捨てて事に当たる。
彼の行為は、勇気に見えて実際は狂気なのだ。
爆弾のパーツを集めることを趣味としている異常な男ではあるのだが、イラクの少年に見せるやさしさのような気持ちも持っているようだ。
家族とは無縁のようでありながら、ふと無言電話をかけてしまう弱そうな一面も持っている。
しかし、それでいながらもやはり戦争の中でしか生きられない男をジェレミー・レナーが好演している。
非日常が日常と化してしまった戦争の真の恐ろしさを、安全な場所にいる僕たちは知らない。
限界を超える緊張がもたらす恍惚と、どんな小さなミスも許されない究極のミッションへの気概。
ジェームズにとっては、それらを併せ持つ戦場だけが生を実感できる場所になってしまったという恐ろしさだ。

最後で妻に語り、息子に語りする彼の姿は、まさしく生死の緊迫感でしか生きている実感が持てず、本当に家族の元に戻るのは棺桶に入った時しかないという戦争が持つ怖さの一面を垣間見た気がする。
米国に戻っての平穏な日常の中では、ジェームズの表情はうつろだ。
だがイラクに戻り再び1年間の任務についた彼の目は、獲物を追う野獣のように輝いている。
戦争に魅入られ後戻りできなくなった人間がそこにいて、そして戦争はそのような人間を生み続けているのだ。

砂漠の中での銃撃戦も現実的で緊迫感があった。
まだ生存者がいて狙われているのか、それとも全て撃ち果たしたのか分からない状態で銃口を構え続ける緊張度が画面を通じて伝わってきた。これがイラク戦争における兵士を襲う恐怖の実態だと感じさせる。
身体に爆弾を埋め込まれた少年の死体などを見せられると、戦場の現実をみせつけられたようで痛ましい。
映画が始まると、ロボットを使った爆弾処理から、携帯電話に反応する起爆装置での爆発と戦死が緊迫感を持って導入される。
その後、爆弾処理は内容を変えながら何回か描かれるが、冒頭の緊迫感は維持したままである。
仲間との軋轢と信頼なども織り込まれ、戦争のもつ一面をリアリズムを持って描きだす。
人を変えてしまう戦争という悪を描きながらも、作品としては娯楽作品にしてしまっているキャスリン・ビグローの力量も大したものだった。
爆発の瞬間を恐れながらその重圧が快楽となった人間のヒロイズムとその代償を描いた傑作だ。

野良犬

2019-12-26 10:43:04 | 映画
「野良犬」 1949年 日本


監督 黒澤明
出演 三船敏郎 志村喬 淡路恵子
   三好栄子 千石規子 本間文子
   河村黎吉 飯田蝶子 東野英治郎
   永田靖 松本克平 木村功
   岸輝子 菅井一郎 清水元

ストーリー
恐ろしく暑い真夏の午後。
射撃練習を終えた若い刑事村上(三船敏郎)はうだるような暑さに辟易しながら満員のバスに乗り込み帰路についたところ車内でコルトを盗まれたことに気づき、慌てて犯人らしき男を追うが結局路地裏で見失ってしまう。
コルトの中には実弾が7発残っていた。
必死にコルトを探す村上だったが、やがてそのコルトを使った強盗事件が発生してしまう。
窮地に立つ村上は、この事件で新たにコンビを組むことになった老練な刑事佐藤(志村喬)の助けを借り、コルトの行方を追う。
佐藤は熟練者だけあって仲々手際よく事件にあたり、貸ピストル屋から端緒を得た彼等は、本多(山本礼三郎)という男に目星をつけた。
すぐ手配して本多の逮捕にとりかかったが、彼は後楽園の球場にいるという聞き込みを得て、彼の写真を場内の売り子にも配布して五万人という数の中から彼をおびき出し、逮捕することが出来た。
しかし村上のピストルは本多の背後にいる遊佐新二郎(木村功)の手もとにあって彼が主役を演じていることがわかってきて、村上と佐藤両刑事は次々と捜査網を縮めて行く。
そして遊佐の情婦のハルミ(淡路恵子)を調べているうちに、彼等は遊佐の所在をつきとめていた。
佐藤刑事は単身遊佐の後を追い、村上刑事はハルミのアパートで待っていたが、不覚にも佐藤は村上に電話する時に遊佐の弾に倒れてしまった・・・。


寸評
刑事映画の原点ともいえる作品で、私が見た映画の中で、本当に刑事映画らしい刑事映画の一番古い作品だ。
いきなり、ぜえぜえという犬のアップで始まりタイトルが映し出されていくが、その間の犬のアップが異様な雰囲気を早くも漂わせる。
そして「その日は恐ろしく暑い日だった」のナレーションで物語が始まるのだが、いきなりピストル(拳銃)をすられたという報告から入っていくテンポの良さが発揮されている。
しかし反面、その拳銃の行方を追うために村上刑事が浮浪者に扮して歩き回るシーンは長い。
拳銃の密売人を求めて光らす目の動きに、人々の行き交う様子がオーバーラップして映し出される。
さらに村上刑事が歩き回る姿にも、街の様子や人々の姿がオーバーラップする。
必要以上とも言える長さだが、その長さが村上刑事の焦燥感を描き出していた。
日よけのスダレ越しに照りつける真夏の太陽のショットなどは夏の暑さを感じさせる印象的なシーンとなっている。
この映画はとにかく暑さというものを随分と描いている。
汗を拭きながら捜査に当たる佐藤、村上の両刑事の姿はもちろんだが、交番の取調室の蒸し暑さとか、楽屋にたむろする踊り子たちの体から噴き出す汗などだ。
冒頭のナレーションとともにある、この暑さの映画的表現がテーマの一つだったのだろうかと思ってしまう。

そして犯人の遊佐が二度目の犯行を行ったところから、俄然映画はスピードアップし緊迫感を帯びてくる。
佐藤刑事が張り込んでいるホテルではラジオからの音楽が効果的だ。
土砂降りの雨の中での追跡劇、撃たれて倒れる佐藤刑事、無事を祈る村上刑事、遊佐の居場所を伝える踊り子、犯人が紛れ込んでいる田舎駅の待合室の情景と村上刑事の焦燥が次々と描かれる。
気が付いて逃げる犯人を林の中に追い詰めていくが、雨上がりの日差しが木漏れ日となって二人を照らす。
あたりには霧が立ち込めて来て、林の向こうからはピアノの音が聞こえてくる。
静寂の中に、ピアノの音と二人の息使いだけがして、やがてその静寂を破るように銃声が聞こえる。
ピアノの主は何事かと窓の外を見やり、遠くの方に向かい合って動かない二人の姿を目にするが、あまりの変化のなさに再びピアノに向かう姿が映し出される。
この間の抜けたシーンが、かえって二人の緊張感を増幅させ、撃たれた腕から滴り落ちた血が足元の草花を揺らし、咲き乱れる小花の草むらでの格闘シーンへと続く。
林の暗さを補うために白いコスモスを植えたというからすごい。
倒れている二人の向こうを子供たちが歌を歌いながら通っていき、そこで遊佐は大声で泣き叫ぶというこの一連の流れは映画的で僕は好きだ。

野球場のシーンは一リーグ時代の巨人-阪神戦だと思われ、川上哲治、中上英雄などの顔があり、別当頑張れの声も聞こえるから、度々映る背番号25は阪神の別当薫だろう。
彼らの全盛時を知らない私にはちょっとした物珍しさを感じさせるシーンで、緊張感の漂う中での楽しいシーンでもあったのだが、プレーは映写速度のせいもあるか随分とのんびりした動きで、現在のプロ野球のスピード感がないのは時代を感じさせる。

野火

2019-12-25 08:34:21 | 映画
「野火」 2014年 日本


監督 塚本晋也
出演 塚本晋也 森優作 神高貴宏
   入江庸仁 山本浩司 辻岡正人
   山内まも留 中村優子 中村達也
   リリー・フランキー

ストーリー
第2次世界大戦末期のフィリピン・レイテ島。
田村一等兵(塚本晋也)は結核を患い、部隊を追い出されて野戦病院行きを余儀なくされるが、負傷兵が大勢いる病院では食料が困窮しており、数本のカモテ芋しか持たされていない田村は早々に追い出されてしまう。
部隊に戻ると分隊長に殴られ、入隊を拒否された田村は再び病院へと向かい、こうして駐屯地と野戦病院を行ったり来たりしているうちに、田村は病院の周囲をたむろする安田(リリー・フランキー)と永松(森優作)の2人組に出会った。
足を負傷している安田は、煙草をエサに永松を手下のように扱い、永松は田村の芋を奪い取ろうとする。
その夜、敵からの攻撃で野戦病院に火が放たれ、田村はあてもなく孤独に歩いて行く。
田村は無人の村と教会堂を見つけたが、そこへ男女2人が入って来たので、田村は彼らに銃を向けて現地語で「マッチをくれ」と頼んだところ、混乱した女は田村の言葉に耳を貸さずに叫び続け、やがて彼は女を撃ち殺し、男には逃げられてしまう。
教会の床下を外すと麻布の袋に入った塩があったので、田村はそれを持って村を出た。
田村は3人の日本兵に出くわし、所属していた村山隊が全滅したことを知らされ、さらに、レイテ島の全兵士はパロンポンに集合すべしとの軍令が入っていた。
塩に目をつけた伍長(中村達也)は、「ニューギニヤじゃ人肉まで食った」と話し、田村を仲間入りさせる。
パロンポンに向かう最中、路傍に転がる日本兵の死体は増えていき、そこで野戦病院で別れた安田と永松に遭遇したが、彼らは兵士に煙草を売りながら歩いていた。
夜、敵からの奇襲を受け、生き残った田村は丘の頂上で負傷した伍長を発見する。


寸評
僕は戦後生まれだし、戦争の真の語り部も少なくなって、戦争の実態を知る手立ては限られてきた。
最後の回想シーンを除いて、全編戦場シーンで、しかもジャングルの中を彷徨する姿が捕らえられ続ける。
その映像は戦場とはこのようなものだったのだと思わせ、リアル感があると思わせるに十分なものである。
先ずは、肺病になって所属部隊と野戦病院のどちらからも拒絶された主人公の田村一等兵がジャングルをさまようシーンが続く。
鬱蒼としたジャングルに転がる無数の死体。
血だらけなんて当たり前で、体の一部分がバラバラになって転がっている。
田村一等兵は部隊から命じられて病院に行くが、たしかに肺病の田村一等兵はそこでは患者とは思えない状況が目の前にあり、部隊に引き返せばなぜ帰ってきたとぶん殴られる繰り返しである。
一貫して描かれるのは目を背けたくなるような死体の状況と、食糧不足による飢えの状況である。
イモが主食のようになっているが、それすらなかなか手に入らず、味方同士で奪い合う様子も描かれる。
レイテ戦などの南方戦線では戦死者よりも餓死者が多かったとも聞くから、まさにここに描かれたような状況が生じていたのだろう。
食欲は人間の持つ本能の一つだが、飢餓状況は人間を狂人にするのかもしれない。
貧困からくる飢餓状況が現在の発展途上国混乱の要因の一つであることがよくわかる。

パロンポンに向かう敗残兵が待ち伏せされて攻撃される場面では、兵士の腕がちぎれ、足がふっ飛び、脳みそや内臓まで飛び散る凄惨なシーンとなる。
さまようジャングル内に転がる死体や、上記のような目を覆うシーンに混ざって、時折挿入される美しい自然
の姿が印象的だ。
このような美しい自然の中で、なぜ悲惨な戦争を行わなければならなかったのかと言っているようでもある。
ジャングルに立ち上る野火は平和の象徴だ。
狂気の戦場だけに、登場する人間たちも狂気じみている。
戦場で戦っているうちに、みんな狂気にとり付かれていくし、すでに狂気を帯びている敗残兵がさまよっている。
田村一等兵は人肉食への嫌悪や、自分が狩られるかもしれないという恐怖を抱えつつ、田村一等兵自身も正気と狂気の狭間でもがき苦しむ。
その姿は人間の一面を残しているのだが、恐怖は時として殺すつもりのない人間を殺させてしまう。
田村一等兵はそのために一度は銃を棄てるが、上官に再び銃をあてがわれると拒絶することが出来ない。
人間の弱さでもある。
狂気の代表は安田と永松だ。
安田は永松を支配しているが、永松は淋しさから安田と別れることが出来ない。
彼等は猿と称して人肉を食っている。
人肉を食うなどとはウジ虫と同様だが、それでも空腹はそうさせてしまう。
田村一等兵は人肉を食ってしまいそうになる自分を恐れ、自分が殺されて新鮮な肉として供されるのではないかという恐れを抱くが、それは人間性の欠如でもある。
短い上映時間ながら、救いのない戦争の悲惨さを描き続けた秀作だ。

野火

2019-12-24 09:56:15 | 映画
「野火」 1959年 日本


監督 市川崑
出演 船越英二 ミッキー・カーティス
   滝沢修 浜口喜博 石黒達也
   稲葉義男 星ひかる 佐野浅夫
   中條静夫 浜村純 潮万太郎

ストーリー
――比島戦線、レイテ島。日本軍は山中に追いこまれていた。
田村(船越英二)は病院の前に寝ころぶ連中の仲間に加わった。彼らが厄介ばらいされたのは、病気で食糧あさりに行けないからなのだ。
安田(滝沢修)という要領のいい兵隊は、足をハラしていたが、煙草の葉を沢山持っていた。永松(ミッキー・カーティス)という若い兵が女中の子だというので、昔、女中に子を生ませた安田は、彼を使うことにした。
翌日、病院は砲撃され、田村は荒野を一人で逃げた。海辺の教会のある無人の町で、田村は舟でこぎつけてきた男女のうち、恐怖から女を射殺してしまう。
そこで手に入れた塩を代償に、彼は山中の芋畠で出会った兵たちの仲間に入った。彼らは集結地という、パロンポンを目指していた。雨季がきていた密林の中を、ボロボロの兵の列が続いた。安田と永松が煙草の立売りをしていた。
――オルモック街道には、米軍がいて、その横断は不可能だった。山中で、兵たちは惨めに死んだ。幾日かが過ぎ、田村は草を食って生きていた。
――切断された足首の転がる野原で、彼は何者かの銃撃に追われた。転んだ彼を抱き上げたのは、永松だった。永松は“猿”を狩り、歩けぬ安田と生きていたのだ。安田は田村の手榴弾をだましとった。永松の見通し通り、安田はそれを田村たちに投げつけてきた。
彼が歩けぬのは偽装だったのだ。永松の射撃で、安田は倒れた。永松がその足首を打落している時、何かが田村を押しやり、銃を取らせ、構えさせた。銃声とともに、永松はそのまま崩れ落ちた。田村は銃を捨て、かなたの野火へ向ってよろよろと歩き始めた。あの下には比島人がいる。危険だが、その人間的な映像が彼をひきつけるのだ。その時、その方向から銃弾が飛んできた。田村は倒れ、赤子が眠るように大地に伏したまま動かなくなった。すでに、夕焼けがレイテの果しない空を占めていた。


寸評
戦争最末期のレイテ島における敗走劇だが、敗走というより食料を求めながらの彷徨と呼んだ方がふさわしい状況下での物語である。

僕は戦後生まれでもあるし、レイテ島がいかなる状況であったのかは知らされる資料でしか知らない。
映画の中で、兵たちは次々死んでいき、発狂する者もあり、投降しようとしてゲリラに殺される者も描かれる。
一兵卒としてフィリピンでの惨たんたる敗戦を体験した大岡昇平の小説を原作にしているとは言え、おそらく本当のレイテ島はもっと悲惨だったのかもしれない。

人数的に戦闘による死者よりも餓死者の方が多かったといわれているのが南方戦線だ。
ここでも悲惨な状況が描かれているが、悲惨さを通り越してどこか滑稽ですらある。
冒頭から、田村一等兵は「病院へ元気に行って来い!」などと、笑ってしまう命令を下されている。
その後は色んなエピソードを挿入しながら、ただただ芥川也寸志の音楽に乗った逃避行が描き続けられる。
そこでも、自分のよりはましな死者の靴を次々やってくる敗走兵が履き換えていくなど、やはり笑ってしまうシーンなどが描かれる。
それほど悲惨な逃避行だったのだろうが、戦争を知らない僕たちはやはりどこか滑稽さを感じてしまうのだ。

しかしながら、これは戦争という愚かな行為を揶揄している作者の精一杯の表現なのだろう。
無残な状況を無残なままに見せるだけでなく、そこに一種のブラック・ユーモアを漂わせているのだ。
原住民の女を殺してしまった田村が、気が抜けてヘタヘタと崩れて座ってしまうシーンや、気の狂った将校が天を仰いで「天皇陛下様、ヘリコプター様、どうぞ助けに来てください」と叫んでいる場面など、滑稽な場面は枚挙に暇がなく、それが意図されたものであることが分かる。
あまりにも滑稽だから最後に田村の崇高さが浮かび上がってきたのだと思う。

田村は人肉を提供され、それと知らず噛み切ろうとするが歯が折れてしまって食べることが出来ない。
このシーンは、神が最も罪深い人肉を食するという行為を押しとどめた象徴だったと思うので、罪深い人間と、それでもその人間を救いたいという願いが込められていたように感じた。
ひたすら飢えていき、人間の生きようとする欲望は露わになって、ついには人食というおぞましい行為に至ることを描きながら、主人公だけにはそれを押しとどめ、人間の尊厳をかろうじて保たせる意味深いシーンだったと思う。
それがラストシーンに引き継がれ、主人公が野火のもとに辿りつくことなく倒れることも、かえって人間の尊厳を高めていたように思われる。
僕は原作を読んでいないが、このあたりの描き方は原作者大岡昇平の功績によるものなのかもしれない。

船越英二は「私は二歳」に於ける、ほのぼのとしたムーミンパパのような役にその存在感を見せた俳優だったが、この作品のおける彼はその一面を見せながら極限状態に置かれながらも、なんとか最後の人間性を守った小市民兵士を好演している。
彼の代表作はこれだろう。

野のなななのか

2019-12-23 09:41:45 | 映画
「野のなななのか」 2013年」 日本


監督 大林宣彦
出演 品川徹 常盤貴子 村田雄浩 松重豊
   柴山智加 山崎紘菜 窪塚俊介 寺島咲
   内田周作 細山田隆人 小笠原真理子
   根岸季衣 安達祐実 左時枝 伊藤孝雄

ストーリー
雪降る冬の北海道芦別市。
風変わりな古物商“星降る文化堂”を営む元病院長、鈴木光男(品川徹)が他界する。
3月11日14時46分、92歳の大往生だった。
告別式や葬式の準備のため、離れ離れに暮らしていた鈴木家の面々が古里に戻ってくる。
光男の妹・英子(左時枝)は82歳。
光男の2人の息子はすでに他界し、それぞれ孫が2人ずつ。長男の長男、冬樹(村田雄浩)は大学教授。
その娘・かさね(山崎紘菜)は大学生。
長男の次男・春彦(松重豊)は泊原発の職員で、その妻が節子(柴山智加)。
気難しい光男と“星降る文化堂”でただ1人、一緒に暮らしていた孫のカンナ(寺島咲)は次男の娘で看護師。
その兄・秋人(窪塚俊介)は風来坊。
そこへ突然、謎の女・清水信子(常盤貴子)が現れる。
“まだ、間に合いましたか……?”不意に現れては消える信子によって、光男の過去が次第に焙り出される。
終戦が告げられた1945年8月15日以降も戦争が続いていた樺太で、旧ソ連軍の侵攻を体験した光男に何が起きたのか?
そこには、信子が持っていた1冊の詩集を買い求めた少女・綾野(安達祐実)の姿もあった。
果たして信子と綾野の関係は? 明らかになる清水信子の正体とは?
生と死の境界線が曖昧な“なななのか(四十九日)”の期間、生者も死者も彷徨い人となる。
やがて、家族や古里が繋がっていることを学び、未来を生きることを決意する。


寸評
死者は生者を呼び寄せる。
老人が92歳の大往生を遂げると、それまで滅多に会うことのなかった縁者たちが集まってくる。
亡くなった老人の子供は皆死んでおり、老人の妹や孫たち、あるいは曾孫も葬儀にやってくる。
参集した者は懐かしさが先行し、「どうしてたのか」とか、「今は何してるのか」とかの話題が賑やかに語られる。
老人の大往生ともなればなおさらその傾向が強いのが常である。
それを示すかのような舞台劇以上のおびただしいセリフの連続である。
それは葬儀に集まってくる冒頭から、エンディングに至るまで続き、生者と死者、現在と過去が入り乱れ、語り口も次々に変化していく。
2時間50分も速射砲のような会話劇を見せられると普通はうんざりするものだが、この作品においてはこれが案外と、いや予想に反して面白い。
堅苦しく感じないのは常盤貴子演じる謎の女が登場して、ドラマ的にミステリアスな雰囲気を醸し出していることも一つの要因で、中原中也の詩や謎の絵の存在などもドラマを形作っている。

芦別はかつての賑わいを失っている町だが、その自然や風景の美しさは保ったままだ。
観光案内のように切り取られる芦別の風景は古里を感じさせるに十分だ。
そんな町を背景に、人は誰かの代わりに生まれてつながっているのだという「輪廻転生」の思想が語られて行き、亡くなった光男を演じている品川徹のセリフがその声音もあって胸をえぐってくる。
一体何を言っていたのか映画を見終って思い起こせるものはないのだが、見ている時は兎に角心に響いてくる。
彼が発する強烈なメッセージは反戦・非戦の思いで、光男が体験した戦争末期の樺太での悲劇が語られ、それを通して戦争の悲惨さや愚かさを痛烈に訴えている。

初七日には縁者たちが大勢集まって来て法事が行われ、その後振舞われる精進料理による酒席は賑やかだ。
地域の縁者は当然老人たちが多く、そこで語られるのは自分たちの青春時代で、それは正しく戦争体験につながる思い出話である。
若い秋人は側で聞いておくに限ると言っているが、老人たちは戦争の語り部なのだ。
僕たちは終戦記念日を8月15日としているが、ソ連の参戦をまともに受けた北海道の人々にとっては9月5日が終戦だったというのがよくわかる。
四十九日の七なのかが過ぎれば全てが解き放たれる。
今は少し早くなって三十五日の法要で切り上げることが多くなったが、本来は四十九日で務めるものだ。
日本は敗戦という死を迎え、果たして七なのかを務めあげることが出来ていたのだろうか。
敗戦後はドイツや朝鮮半島のような分割統治という状況を回避して、アメリカの洗脳による統治で復興し、バブル期には欺瞞に満ちた「町おこし」があちこちで行われ、3.11の東日本大震災では福島の原発事故を起こして後処理に追われているという現在の日本がある。
人々は七なのかを務めあげてきているが、果たして国家は・・・。
あの世とこの世をつなぎ、輪廻転生を感じさせるラストは心にしみる。
大林信彦、老いて益々盛ん、前作「この空の花 長岡花火物語」以上の出来栄えである。

ノー・マンズ・ランド

2019-12-22 10:51:37 | 映画
「ノー・マンズ・ランド」 2001年 


監督 ダニス・タノヴィッチ
出演 ブランコ・ジュリッチ
   レネ・ビトラヤツ
   フイリプ・ショヴァゴヴイツチ
   カトリン・カートリッジ
   サイモン・キャロウ
   ジョルジュ・シアティディス
   サシャ・クレメール
   セルジュ=アンリ・ヴァルック
   ムスタファ・ナダレヴィッチ

ストーリー
1993年6月、霧の中で道に迷ったボスニア軍兵士のチキは、ボスニアとセルビアの中間地帯(ノー・マンズ・ランド)の塹壕にたどり着いた。
敵の生存者を確かめるため、セルビア軍兵士のニノと老兵士がそこにやってくるが、チキは老兵士を殺し、ニノにも怪我を負わせた。
そしてやっかいなことに、老兵士が死体だと思って下にジャンプ型地雷を仕掛けてしまったツェラが生きていた。
彼が動くと、地雷が爆発してしまう。
止むを得ず、この状況から抜け出すために協力しあうチキとニノ。
やがて心を通わせる二人だったが、助けにきたマルシャン軍曹たちと一緒に塹壕を離れようとしたニノの足をチキが銃で撃ち、再び一触即発の状態に戻る。
やがてマルシャン軍曹とテレビ記者のジェーンが協力し、マスコミの力を使って中々動こうとしなかった国連防備軍を動かすことに成功。
しかしツェラの下の地雷を撤去することはできなかった。
しかもマスコミが騒ぐ中、チキはニノに向かって発砲、同時に防備軍がチキを射殺。
そして防備軍は、地雷を撤去したという虚偽の発表をし、マスコミと共に塹壕から立ち去る。
塹壕にはツェラ一人が残されるのだった。


寸評
分割された旧ユーゴスラビアという国は複雑な国家で、その複雑性は「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と形容された。
この複雑な国が一つの国家として存在しえたのはチトーという偉大な指導者がいたからだ。
チトー死去後、後継者達はチトーのようなカリスマ性を発揮できず、インフレと失業率の上昇で経済も低迷し始め、抑圧されていた民族主義、宗派主義が息を吹き返し紛争が勃発した。
映画はその中の1992年から1995年まで続いた内戦(ボスニア紛争)を背景に、戦争の愚かさと虚しさを皮肉たっぷりに描いている。

ユーモアを感じるところはあるが、僕は決してそれを笑うことはできなかった。
メッセージ性の高い作品は得てして肩ぐるしくなりがちだが「ノー・マンズ・ランド」は分かりやすく、監督の独りよがりが見られず一方的でないのがいい。
敵対する二人の兵士の関係が二転三転する展開は一瞬たりとも飽きることがない。
体の下に地雷を仕掛けられた兵士という設定もユニークで、オリジナリティにあふれている。
ボスニア人のチキとセルビア人のニノはただの一兵士だが両陣営の縮図でもある。
この戦争はお前たちが始めたのだとお互いにののしり合う。
二転三転する中で、銃を突きつけられる立場になった方が「自分たちが始めた」と言わされる。
戦争は何故始まったのか分からないままに、ひょんなことから始まってしまうのかもしれない。

チキがニノの出身地にいた彼女の話をすると、彼女はニノの知り合いだった。
このとき、二人は打ち解けるかもという雰囲気が見られるのだが、二人はやっぱりいがみ合ってしまう。
打ち解け合ったかと思えばいがみ合うという内戦の複雑なところだ。
元は同じ国であった人たちが戦って泥沼化していくという愚かさだ。
にらみ合っている両軍だが、守備隊の一人が新聞を読みながらウガンダの内戦をひどいと感想を漏らす。
よその国の内戦は悲惨だと思えるのに、自分たちは内戦を起こしているという矛盾で、映画はそのようなユーモアとも皮肉ともとれる話を小気味よく挟んでいく。
描かれているのはボスニア、セルビア両軍の愚かさだけではない。
彼らを巡る国連防護軍の無力さ、戦況の最前線を興味本位に報道しようとするマスコミの偏執ぶりも描かれる。
最前線の国連兵士が許可を求めると、受けた者は上司に相談すると言い、上司は本部に報告すると言い、最終的には国連決議を待つと言った具合で、結局何もしない国連と言うことになる。
人道支援という言葉を口実に傍観者に徹したいソフト大佐が塹壕の現場にやって来るが、この時ミニスカートの美人秘書を連れているのだが、オフィスにいる時の秘書の思わせぶりな態度を見ると、ソフト大佐とこの秘書は戦場で何をやっているのだと言いたくなるような関係を想像させる。
直接描かないで想像させるところがいい。
「殺戮に直面したら、傍観も加勢と同じだ」と言うマルシャン軍曹だけが、まともで、心の底から彼らを助けたいと思っているように見えるが、そのマルシャン軍曹も何もできない。
衝撃のラストシーンには、無意味な戦争、それをとりまくあらゆる状況への痛烈な批判が込められている。

ノーカントリー

2019-12-21 11:28:21 | 映画
「ノーカントリー」 2007年 アメリカ


監督 ジョエル・コーエン / イーサン・コーエン
出演 ハビエル・バルデム
   ジョシュ・ブローリン
   トミー・リー・ジョーンズ
   ケリー・マクドナルド
   ウディ・ハレルソン
   ギャレット・ディラハント
   テス・ハーパー

ストーリー
人里離れたテキサスの荒野でハンティング中に、銃撃戦が行われたと思しき麻薬取引現場に出くわしたベトナム帰還兵モス。
複数の死体が横たわる現場の近くで、200万ドルの大金を発見した彼は、危険と知りつつ持ち帰ってしまう。
その後、魔が差したのか不用意な行動を取ってしまったばかりに、冷血非情な殺人者シガーに追われる身となってしまう。
モスは、愛する若い妻カーラ・ジーンを守るため、死力を尽くしてシガーの追跡を躱していく。
一方、事件の捜査に乗り出した老保安官エド・トム・ベルだったが、行く先々で新たな死体を見るハメになり苦悩と悲嘆を深めていく…。


寸評
アカデミー賞の作品賞に輝いた作品だが、カンヌでもグランプリが取れそうな作品に仕上がっている。
この作品の映画のエンタティンメント性は追跡劇としても十分に楽しめる点だ。
特にハビエル・バルデム演じる異常な殺し屋シガーの存在感がもの凄い。
おかっぱ頭、黒い服、武器は高圧ボンベ付きの家畜用スタンガン。
外見だけでも不気味きわまりないが、中身はもっと恐しくて非情とはシガーのためにある言葉だと思わせる。
一方のモスも西部劇に出てくる男を思わせる頑固で強い男でもある。
追うシガーと追われるモスの二人の強靭な男が繰り広げる駆け引きがドラマを盛り上げる。
シガーは殺人という作業を淡々と確実にし、過去はいっさい不明で、彼がどこから来てどこへ行くのかは何の説明もない。
彼ににらまれると「運命」の中での出来事に巻き込まれた思うしかない結末を迎えることになる。
その間に描かれる組織のもめごとはシガーの異常性を際立たせる為に描かれ、結末や説明を排除してより一層のミステリアス性を高めるための演出と見てとれる。
この映画を読み解く鍵はコインにあると思う。
コインは人間が追い求める欲望の富と権力の象徴でもあり、特に重要に思うのはコイン投げのシーンで、最初はシガーが雑貨屋の店主相手に行なわれる。
「賭けに勝ったら何をもらえるんですか?」と問う老人にシガーは「おまえは全てを手に入れる」と告げる。
最後ではカーラ・ジーンに対しても行うが、彼女は「決めるのはあなただ」として答えない。
遊んでいるように見えるその行為は、たまたまそうなってしまった偶然性が加味されて絶対悪が存在していることを物語っているようだった。
絶対悪とは暴力であり、究極としての戦争だと思われるのだが、それはアメリカが歩んできたベトナム戦争であり、歩んでいるイラク戦争を想像させる。
偶然を道連れに転がりだした運命はもう誰にも止められなくてすべてを狂わせていく。
逃げ切れると思ったモス、相手が自ら足もとにやってくると思ったシガー、モスを保護しシガーを逮捕できると思ったベル保安官。
それぞれの過信が裏切られ老保安官はため息をつくしかないが、それでも古き良き時代を思い起こして、いつしかその良き時代が待っていてくれることを信じているようでもあった。

野いちご

2019-12-20 10:01:16 | 映画
「ぬ」も「ね」も少なかったです。
「の」は少しばかり思い当たる作品がありました。

「野いちご」 1957年 スウェーデン


監督 イングマール・ベルイマン
出演 ヴィクトル・シェストレム
   イングリッド・チューリン
   グンナール・ビョルンストランド
   ビビ・アンデショーン
   グンネル・リンドブロム
   マックス・フォン・シドー

ストーリー
私は76歳の医師、他人との交渉を好まず、もっぱら書斎にひきこもっている。
その日、私は五十年にわたる医学への献身により、名誉博士の称号をうける式典に出席することになっていて、息子エヴァルドの妻、マリアンヌが同乗した車をルンドへ向かわせていた。
青年時代を過した邸に立ち寄ったが、草むらの野いちごは、たちまちありし日の情景をよみがえらせた。
野いちごを摘む可憐なサーラは私のフィアンセだったが、大胆な私の弟がサーラを奪った。
傷ついた私の心は未だに癒えない。
ここから三人の無銭旅行者を乗せたが、若い彼等の溢れんばかりの天衣無縫さに接して、私はいまさらのように無為に過ごした年月が悔まれた。
廻り道をして、私は九十六歳の老母を訪ねた。
彼女は他人にも自分にも厳しく、親族は誰も寄りつこうとしないし、死さえも彼女をさけているようだ。
車中、またしても私はまどろみ、暗い森の中に連れて行かれた私は、妻カリンと愛人の密会を見た。
それは私がかつて目撃した光景そのままであった。
めざめた私は、妻の告白をきいて以来死を生きていることに気付いた。
マリアンヌは、エヴァルトも死を望んでいるのだと話した。
式典を終えた私は、例の三人組の祝いの訪問を受ける。
勲章よりもそうした、人とのつながりの価値を思い知った私のその夜の夢は、青春の頃に戻りサーラに再会する幸福なものだった。


寸評
ベルイマンの映画は難解だし退屈だというイメージがあるが、「野いちご」は比較的わかりやすい。
映画は多分に観念的で、イーサクの前に落ちた棺桶からイーサク自身が出てきたり、針のない時計が度々登場したりするが、それらが示していることも容易に想像できるものである。
モノトーン映画であることがイーサクの顔の陰影を的確にとらえ、表情から苦悩と後悔をにじみださせる。
主演のヴィクトル・シェストレムが素晴らしい。

イーサクがどのような人物かは、召使のアグダによって冒頭で語られる。
老人ふたりの言い合いは微笑ましささえ感じさせるものなのだが、しかしイーサクは利己的で家族にも冷たく、人付き合いもよくない男だったことが判る。
それでも、医学博士として大学から50年の表彰を受けるのだから名声だけは得たようだ。
彼は度々夢を見る。
夢を通じてイーサクが死の恐怖を感じつつあることも分かる。
夢から覚めたイーサクは飛行機でルンドに行く計画を取りやめ、家政婦アグダの反対を押し切って息子エーヴァルドの妻マリアンと車で向かうことにする。
その途中で過去の出来事の夢を見たり、あるいは過去の記憶を鮮明に蘇らせたりする。
イーサクは婚約者だったサーラとの楽しい日々を思い起こすが、同時にそのサーラを弟に奪われ、彼女から真面目なイーサクより、奔放な弟に惹かれていることを告白されたことも思い出す。
それを補うように、サーラという同じ名前の快活な女学生と、2人の若者が旅の道連れとなる。

イーサクは夢の中でアルマンに導かれ、医師の適性試験を受けたイーサクは、ことごとく失敗して不適格とみなされ「冷淡で自己中心的、無慈悲」の罪を宣告される。
更に一組の男女が密会する光景を見せられるが、それはかつて目撃した妻カーリンの不倫現場であった。
アルマンはイーサクに「孤独」の罰を告げる。
その結果なのか、イーサクは妻に先立たれ、子供は独立し、付き合う近所の人もなく孤独に生きている。

しかしベルイマンはそんなイーサクに救いの手を差し伸べる。
それは途中で立ち寄ったガソリンスタンドの主人と先の3人の若者たちである。
ガソリンスタンドの主人は、この町での医者時代のイーサクに感謝しガソリン代をサービスする。
若者は心からの祝福をイーサクに贈る。
イーサクは人の温かさを知り、そして最愛の人だったサーラを思い浮かべるのである。
最愛の人だった女性を思い浮かべるのは至福の時間でもある。
いい思い出だけがよみがえり、晩年に感じる不満を補ってくれるのだろう。

ところで、マリアンヌとイーサクは心底打ち解けたのだろうか?
マリアンヌとエヴァルドはどうなったのだろう?
ベルイマンのみが知るところか・・・。

眠狂四郎 勝負

2019-12-19 10:20:28 | 映画
「眠狂四郎 勝負」 1964年 日本


監督 三隅研次
出演 市川雷蔵 加藤嘉 藤村志保
   高田美和 久保菜穂子 成田純一郎
   丹羽又三郎 五味龍太郎 須賀不二男

ストーリー
愛宕神社の階段で参拝者の補助をする少年。
少年の父は江戸で評判の武芸者であったが、道場破りの榊原に殺され、少年は境内の茶屋で寝泊まりしながら独り生きていたのだった。
少年を不憫に思った狂四郎は、たまたま知り合った老侍を立会人に道場破りを打ち殺す。
その夜居酒屋で老侍と酒を酌み交わす狂四郎。
別れを告げ先に店の外に出た老侍は赤座軍兵衛と名乗る侍に襲われる。
一向に風采のあがらないその老侍が朝比奈という勘定奉行の職にある男と聞いて、助けに入った狂四郎は彼に興味をそそられた。
狂四郎の耳には幾つかの興味ある事実が入った。
家斉の息女高姫は堀家に嫁ぎながら、早くから夫を失い奔放で驕慢な生活をしていること、そして、用人主膳は札差、米問屋などに賄賂とひきかえに朝比奈の抹殺を約していること。
又赤座も朝比奈を狙っていること。等々。
ある日、朝比奈を警護していた狂四郎を榊原の弟が襲いかかる。
そこに遊楽帰りの高姫の列が通りかかり、狂四郎はわざと高姫に榊原の槍が向かうように仕向けた。
屋敷に戻り怒る高姫に主膳が朝比奈の企みだろうと吹聴する。
そして朝比奈の命を奪えと命ずる高姫に策を講じていると告げる。
主膳の命に、よりすぐりの殺人者が揃った。
赤座、増子、榊原、海老名それに、キリスト教の布教に囚われている夫を救うため、主膳の膝下にある采女が加わり、動機も武術も異る五人は、狂四郎の身辺に危害を加えようと立ち廻った。


寸評
市川雷蔵は貴公子である。
気品がありスマートで、どこかに色気を有し姿勢がピンとしているのが貴公子のイメージだろう。
同じように色気を有していても、恰幅の良い長谷川一夫などは貴公子と呼ぶには抵抗がある。
振り返ってみれば僕の知りうる限りの日本映画界にあって、およそ貴公子と呼べる男優は市川雷蔵を置いて他にはいなかったのではないかと思う。
眠狂四郎はそんな雷蔵の代表的なシリーズ物で、雷蔵のイメージと魅力がいかんなく発揮されている。
敵の闘魂を奪い、一瞬の眠りに陥らせて、一刀で切り下げるという円月殺法の立ち回りを実現して見せたのが市川雷蔵の眠狂四郎であったと言える。
シリーズを重ねていくと狂四郎はどんどん虚無的になっていくが、この作品ではまだ人情味が残っていてニヒル感を前面に出していない。
狂四郎と加藤嘉の勘定奉行である朝比奈老人との交流がほのぼのとさせているし、そば屋を手伝っている高田美和のつやとの関係も狂四郎を孤独な男にさせていない。
異国人でキリスタンの夫を救おうとする藤村志保の采女によって、狂四郎は異国人との間に生まれた男ではないかと出生の秘密が語られているのも全体像を知る手助けとなっている。
人情話も含めてシリーズの中では一番味わい深い作品だ。

11代将軍徳川家斉は特定されるだけで16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人を儲けたが、成年まで生きたのは28名だったと言われていて、養子に入ったり嫁いだりした藩には禁じられたはずの幕府から大名への無利子貸与である拝借金が家斉の子女のためという口実で行われていたらしいので、ここで登場する高姫の一件もあながち作り話ではなさそうだ。
もっとも実在していた13女として名前の見える高姫はすぐに死亡しているので別人と言うことになる。
高姫は驕慢なバカ姫で、その姫に官僚ともいえる側用人の白鳥主膳がゴマスリ男として仕えている。
主膳は商社や銀行のトップと言える町人からわいろを受け取り、目障りな潔癖財務大臣ともいえる勘定奉行の朝比奈を失脚させようと企んでいる。
現代版に置き換えるならば、さしずめそんな構図である。

狂四郎、朝比奈を亡き者にせんと刺客となってやってくるのが五人の腕自慢達。
勝新太郎の座頭市に対する平手酒造のような一対一の構図ではない。
兄を殺された榊原はハナから狂四郎の敵ではない。
手裏剣の名手増子は色仕掛けで高姫に近づいているが、捕らわれた狂四郎にその手裏剣によって殺される。
神崎は入浴中を襲うが、采女の助けを受けた狂四郎の刃に倒れる。
赤座は狂四郎との対決に命を燃やすが病気持ちで狂四郎の敵ではない。
どうやら海老名と言う浪人が一番強そうだが一騎打ちは狂四郎の圧勝と言う感じがする。
最後の戦う相手はやはり狂四郎と互角でないと面白くない。
結局采女の願いは叶わなかったが、それを告げる狂四郎を無音でとらえて立ち去らせている。
三隈研次の演出は手堅いと感じさせた一遍である。

眠らない街 新宿鮫

2019-12-18 08:55:21 | 映画
「ぬ」は少なかったですが、「ね」もあまり思い当たりません。

「眠らない街 新宿鮫」 1993年 日本


監督 滝田洋二郎
出演 真田広之 田中美奈子 室田日出男
   奥田瑛二 矢崎滋 今井雅之
   松尾貴史 浅野忠信 塩見三省
   中丸忠雄 余貴美子 大杉漣

ストーリー
“鮫”の仇名を持ち、暴力団からも警察内部からも恐れられている新宿署防犯課の警部・鮫島(真田広之)は、改造銃のスペシャリスト木津要(奥田瑛二)を単独で追っていた。
折しも、木津が作った銃によって警官二人が殺され、特捜部が開設される。
警視庁からやって来た公安一課の香田警視(今井雅之)と鮫島は因縁の仲で、互いに敵視しあっていた。
四面楚歌の状況の中で鮫島の心を唯一癒してくれたのはロックバンド“フーズ・ハニイ”のボーカル・晶(田中美奈子)だった。
ある日、鮫島はとうとう木津の居所を探しあてる。
そして彼の仕事場も突き止め、踏み込むが、逆に木津に捕まってしまう。
『おまえとたっぷり楽しんで、それから殺す』――その時、絶体絶命の鮫島を助け木津を射殺したのは、桃井課長(室田日出男)だった。
木津の最後の発言から、改造銃は彼の恋人カズオの手に渡り、またそこから砂上(浅野忠信)という青年に渡ったことが判明する。
砂上は以前サミット開催による厳重警戒で警官が多数出動しているにもかかわらず、歌舞伎町でヤクザにリンチされたことを恨んでいたのだ。
今度は遂にその三人のヤクザが射ち殺された。
特捜部は砂上がアイドル歌手・松樹由利のコンサート会場で心中するものと考え会場のシアターアプルに向かうが、鮫島はただ一人、彼が晶のバンドのファンであることを突きとめ、ライブハウスへと向かう。
まさに砂上が晶とともに心中しようとした時、鮫島は彼を倒し、晶を助けるのだった。
しかしその時、そんな二人を見つめる男がいた。


寸評
真田広之が主演の映画だけれど、もう一方の主役は新宿、歌舞伎町だ。
主人公の鮫島が所轄の日本一の繁華街である夜の歌舞伎町を闊歩するが、その様子が現地ロケもあって異様な活力を生み出している。
夜の歌舞伎町に1、2度行ったことがあるが、まさに不夜城で、眠らない街は大げさではない。

鮫島はキャリア組の警察官であるが、一番もめ事が多い歌舞伎町の防犯課に追いやられている。
少なからず腐敗のある所轄警察の同僚も情け容赦なく逮捕する正義感のため内部では浮いた存在だ。
全くの潔癖かと言えばそうでもなく、人を見てはお目こぼしもしてやっているようだ。
そんな彼が歌舞伎町のヤクザをコテンパンにやっつける姿が頼もしい。
彼が役職上の閑職に追いやられているのは、警察内部の過去の事件が関係しているのだが、その内容は深く描かれていない。
そこをもう少し要領よく描いていたら、鮫島の浮いた捜査のやり方なり、彼の人物像そのものがもっと浮かび上がったのではないかと思う。
それでも滝田洋二郎の演出はキレがあり、昨今の日本製ハードボイルド映画としては出色の出来だ。

登場人物は異様な人間ばかりだ。
筆頭は、改造銃を作っている木津要の奥田瑛二で、ホモっけのある彼が鮫島に迫るシーンは奥田瑛二だからこそ出せたものだったと思う。
映画の中では、この木津が犯人かと思われるタイミングもあるが、鮫島がずっと張り付いていたことで第二の殺人の容疑からはずれる。
となれば、木津が流した改造銃を使う人物がいるはずで、エドと名乗る男が浮かび上がってくる。
どうやら警官マニアらしいのだが演じた松尾貴史が変人マニアを上手く演じていたと思う。
しかし彼は異様な雰囲気を出してはいるが、観客である我々の前に出過ぎで、この作品が持つ雰囲気からすれば真犯人ではないと容易に想像できる。
となれば真犯人はきっとあの男だとなるわけだが、そこに行きつくまでの描き方もなかなかどうして楽しませる。
一番最初に登場する改造銃が凶器と思いきや、実は…という展開まで用意されている。

キャリアとノンキャリの対立もあり、馬鹿にされているノンキャリアの室田日出男に、捕らわれた鮫島を助けに来る颯爽とした場面を用意することでノンキャリの意地を描きスカッとさせる。
直前の食堂でキャリア組に馬鹿にされたことが伏線としてあるので、余計に恰好よかった。
真田広之のはみ出し刑事ぶりが決まっていて、ドブネズミ的な服装をしたりもするがアクションはスマートでヒーロー的である。
ヒロインの田中美奈子は歌手兼俳優という女性だが、決して芝居が上手いとは言えないけれど、この映画の中、夜の新宿という設定では雰囲気をもって納まっていた。
ラスト・シーン、新たな殺人犯がすでに表れていて、再び彼女が狙われるのではないかと思わせる。
時々見る演出だがシャープに決めていた。

ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う

2019-12-17 08:49:41 | 映画
「ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う」 2010年 日本


監督 石井隆
出演 竹中直人 佐藤寛子 東風万智子
   井上晴美 宍戸錠 大竹しのぶ
   津田寛治 伊藤洋三郎 中山峻

ストーリー
とある街で“なんでも代行屋”を営む紅次郎(竹中直人)の事務所をある日、美しい女性が訪ねてくる。
彼女の名前はれん(佐藤寛子)と言い、街でバーを営む美しい母娘3人の末娘だった。
“父の散骨時に一緒にばらまいてしまった形見のロレックスを探してほしい”と依頼する。
世捨て人のように生きてきた次郎だったが、少々疑問を感じながらも、天使のように純粋なれんを放っておけず、依頼を引き受ける。
やがて、偶然にもロレックスを発見するが、そこには肉塊らしきものが。
不審に思い、知り合いの女刑事安斎ちひろ(東風万智子)に調査を依頼すると、ほどなく返ってきた鼠の肉との回答に安堵する。
しかし実際には人肉で、ちひろは次郎を泳がせ監視することに。
そうとは知らない次郎は、ロレックス発見に気をよくしたれんから、新たな依頼を受けるのだった。
しかし、それは次郎が、3人の女たちによる完全犯罪に巻き込まれてゆく入り口に過ぎなかった。
その裏にあったのは、3人の女たちの欲望。
そして、その先にはれんが抱えるさらにおぞましい闇があった。
次郎はれんを救うため、彼女の闇に関わる、ある深い森へと導かれるように入っていく……。


寸評
久しぶりの紅次郎の登場だが、今回のオープニングは「ここから始まるのか・・・」と思わず独り言を言ってしまいそうな”おぞましい”までのグロテスクなものである。
人体を切り刻んでタンクに詰め込んでいるが、女三人ならずとも肉片や臓器の匂いが漂ってきそうで、「何だ、この匂いは!」と叫びたくなってくる。
明らかに異常な親子三人の女たちを描いていくが、見ていくうちに一体何を描きたいんだろうと思えてくる。
どうしても目に焼き付いてしまうのは佐藤寛子のフルヌードによる体当たり演技だ。
僕は女優がこれほどの演技を見せる作品としては園子温の「恋の罪」における水野久美しか思い当たらない。
この映画における佐藤寛子の脱ぎっぷりは立派としか言いようがないのだ。
僕は途中までそれだけの映画かと思ってしまっていた。
映画自体は前半の緊迫感が中盤以降失われてしまい、ご都合主義が目立つようになるが、それを埋め合わせるような佐藤寛子の脱ぎっぷりである。

佐藤寛子演じるれんは姉のもも(井上晴美)から見下されている。
険悪ムードが漂う姉妹であるが、姉が妹を虐待しているわけではない。
母親(大竹しのぶ)を交えたこの親子は仲が良いのか悪いのか分からないような関係である。
そんな彼女たちはビルを建てることを夢見ているが、その資金集めを殺人に頼っているという異常な世界に生きている家族だ。
最終局面で彼女たちは富士山麓の樹海へ行き、そこでそれぞれが本性を現す。
なーるほど、これがテーマだったのかと納得させられる展開が繰り広げられる。
大竹しのぶもとてつもない形相を見せる。
クライマックスとなる大芝居を集った人々が見せ、ここにきて迫力全開である。
親子関係も兄弟関係も、血縁というものは厄介な面を持っているものだと思う。
潜んだままなのか、表に出てくるのか、運命の分かれ道だ。

「ヌードの夜」の続編となる本作で、代行屋の紅次郎同にははみ出し者ならではの優しさと魅力がある。
それは竹中直人自身が持つ魅力にも通じている。
れんに最後まで愛を注ぎ、これ以上の殺人を繰り返すなとすがる紅次郎のセンチメンタリズムが最後になってほとばしり出る。
れんに愛jを注ぐ紅次郎を投影するように登場してくるのが女性刑事の安斎ちひろだ。
彼女は次郎を誤認逮捕したという負い目があるのだが、実は彼女は他人をかばって命を落とした夫を持っていて、それは前作で次郎が犯罪に手を貸した気持ちと通じるものだったという伏線がある。
落ち込む次郎の為に、無駄と分かっていてもけなげに手弁当を届け続ける。
前作では犬が登場していたが今回は猫で、猫を挟んで二人はぎこちなく食事をとり始める。
そこに斜め文字のクレジットがかぶさっていく。
石井隆のスタイリッシュな演出は健在だった。
それにしても雨のシーンが多いシリーズだったなあ。