おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

あらくれ

2020-09-30 09:08:35 | 映画
「あらくれ」 1957年 日本


監督 成瀬巳喜男
出演 高峰秀子 上原謙 森雅之 加東大介
   東野英治郎 岸輝子 宮口精二
   中北千枝子 坂本武 本間文子 谷晃
   田中春男 三浦光子 千石規子 志村喬
   中村是好 沢村貞子 高堂国典
   丹阿弥谷津子 仲代達矢 左卜全

ストーリー
お島(高峰秀子)は庄屋の娘だが、子供の時から農家に貰われ、結婚話をいやがって東京に逃げ出して来た。
植源(林幹)の世話で神田にある罐詰屋の若主人鶴さん(上原謙)の後妻になるが、女出入のはげしい主人と、気の強いお島との間には悶着がたえない。
遂に腕力沙汰の大喧嘩の果て彼女は腹の児を流して家を出た。
落着いたのは草深い寒村の旅館浜屋で、そこの女中となったのである。
胸を病んだ妻と別居している旅館の若旦那(森雅之)は、彼女に想いをよせて関係を結ぶが、細君のお君(千石規子)が回復して戻って来るとなれば、また家を出なければならぬ。
東京へ帰って洋服店につとめるようになり、そのうちに同業の職人小野田(加東大介)を知ることとなり、ミシンを習って下谷に店をもつ。
小野田は怠け者だが、勝気なお島によって、どうやら商売も軌道に乗るようになった。
しかしやがて小野田の父(高堂国典)が同居するようになると、酒飲みの老人には嫁の性格が気にくわぬ。
再びゴタゴタが絶えなかった。
その時、病気になった浜屋が上京して来る。
お島は本郷に店をかまえ、だんだん繁昌するが、夫は仕事一方の妻が気に入らず、植源の娘おゆう(三浦光子)を囲うようになった。
その頃、病が重くなった浜屋が死んだ。
暗い気持にとらわれたお島は、夫とおゆうが会っている現場をおさえ、物干竿で二人の間にあばれ込む。
小野田は雨の中を逃げ出して行った。
勝気で、向意気の強いお島は、男にほだされる情の詭さによって、いつまでも不幸だった。


寸評
気丈な女の半生記で、荒々しい主人公を熱演する高峰秀子の演技に圧倒されてしまう。
現憲法の24条で家庭生活における個人の尊厳と両性の本質的平等を定めている。
条文は、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」というもので、婚姻における男女平等を憲法でうたったのは日本国憲法が世界で初と聞く。
それまでは女性は結婚相手を自由に選ぶことが出来なかったようだし、家に従属する立場だった。
描かれた時代は大正時代で、まだまだ女性の地位は低かった頃を背景としている。
当時としてはお島のような女性は珍しかったのだろうが、制作された年代のころには新憲法下のもとで女性の地位が向上していたはずだから、お島は社会的に違和感なく受け入れられるようになっていたのかもしれない。

お島は兎に角気が強いし、生命力もあり才覚も持ち合わせている。
親が決めた結婚を相手の男が気に入らないからと式の直前で逃げ出すような女性だから、自分の意思をしっかりと持っている女性だともいえるのだが、そのくせ男には結構尽くすのである。
男と言うよりも事業(商売)に精を出しているようにも見えるのだが、生きていくために男以上に働き、男をやしなっているようなところもある。
運命に流されていく女性を描くことが多い成瀬だが、ここでのお島は自ら運命を切り開いていく強い女だ。
食品店、旅館、洋服屋と店と職業と男を変えながら市井の中で生き抜く女性を高峰は力強く演じている。
強い女の前では男は何もできないで遊びほうけているか、いじいじすることしか出来ない。
加東大介扮する夫との取っ組み合いの喧嘩のシーン、主人公が夫が愛人と会っているところに乗り込んでくるシーンとその後に続く女二人の大立ち回りは、女の強さを内に秘めたものではなく外に思いっきり出したもので、世界的評価の高い小津には撮れないシーンのように思う。

上原謙が珍しく陰険な男を演じている。
自分は女と遊んでいながら、妻の過去を疑い生まれてくる子供も自分の子供と認めようともしない。
妻が寝静まったと思ったら、その隣の寝床で女に手紙を書くような男である。
優男役が多かった(僕はそんな役しか見ていない)上原謙なので、ここでの役柄は興味深い。
一方の森雅之は病気の妻を捨てきれず、それでいてお島に未練たらたらという軟弱な男を演じている。
森雅之はそんな役柄が良く似合う。
結局お島が一番愛した男はこの浜屋の若旦那だったのだろう。

お島はにわか雨にあい傘を買うが、傘代を払う段になって、電話代だとおつりをもらわない切符の良さを見せる。
着物の裾を捲し上げ、雨の中を颯爽と歩いていくラストシーンはいいわあ。
日本映画史を飾る二人の名優、高峰秀子と森雅之に上原謙と加東大介が絡む豪華な配役人で、それだけでも見る価値がある作品だ。
仲代達矢がチョイヤクで出ているのも興味深い。

アメリカン・ビューティー

2020-09-29 09:24:54 | 映画
「アメリカン・ビューティー」 1999年 アメリカ


監督 サム・メンデス
出演 ケヴィン・スペイシー
   アネット・ベニング
   ソーラ・バーチ
   ウェス・ベントレー
   ミーナ・スヴァーリ
   ピーター・ギャラガー

ストーリー
郊外の新興住宅地に住む広告マンのレスターは不動産ブローカーの妻キャロリンと高校生の娘ジェーンの3人暮らしなのだが、死んだような毎日を送る彼にある日変化が。
会社からリストラ宣告を受け、さらにチアガールであるジェーンの友人の美少女アンジェラに恋をしたのだ。
そんな折り、隣家に元海兵大佐のフィッツ一家が越してきた。
彼の息子リッキーは陰のある青年だが、ジェーンはそんな彼に興味をひかれ交際を始めた。
レスターも隠れて麻薬の売人稼業をしている彼からマリファナを仕入れた。
レスターがアンジェラを思ってベッドで自慰にふけっていると、横で寝ていたキャロリンは気づいて騒ぎ立てる。
ここに至ってついにキレたレスターは、会社に辞表を提出するや上司を逆に脅して多額の退職金をぶんどり、ハンバーガーショップでアルバイトを始めるなど暴走開始。
キャロリンはうっぷん晴らしに仕事上のライバルのバディとモーテルで情事にふけって欲求不満を解消。
ジェーンもそんな親たちを尻目にリッキーと初体験を済ませた。
キャロリンはバディとの浮気の最中、レスターに出くわして動揺、夫を憎むように。
ところが、フィッツがレスターとリッキーがホモ関係にあると誤解したことから事態は暗転。
大雨の夜、父に折檻されたリッキーはジェーンと駆け落ちをすすめるために彼女の部屋へ。
ちょうど泊まりに来ていたアンジェラはジェーンを引き留めるが、彼女は耳を貸さない。
ショックを受けたアンジェラは階下にいたレスターの元へ行き、ついにふたりはベッドイン。
だが、レスターは彼女が実は処女だったのを知り、抱くのをあきらめたのだが…。


寸評
ジャンル不明の作品だが、ホームドラマとして見るなら通常は家族の再生がテーマになるはずなのに、この作品では家族の崩壊を描いているからホームドラマと呼ぶのはふさわしくない。
社会派劇として見るなら内容は滑稽すぎてまるで喜劇映画である。
喜劇映画として見るなら笑える内容ではないから、何とも不思議な作品である。
「アメリカン・ビューティー」というタイトルから、最後にはアメリカの美的な部分が描かれるのかと思っていたら全くそうではなく、タイトルはバラの品種名でキャロリンが育てているバラがそれ。
作中でもそのバラがよく出てくるが、美しいバラにはトゲがある。

夫婦の仲は冷え切っており、娘も反抗期を迎えて両親とほとんどしゃべろうとはしない。
舞台となる家庭はどこにでもある裕福な中流家庭で、外から見る分には幸せな一家に見える。
しかしその内部はぼろぼろで、家族間に意思疎通はない。
妻はプライドが高く食事の時に流す音楽も自分好みで家具などの物に対する執着心があり、夫を見下しているような所があり夫婦関係も途絶えている。
夫のレスターも会社は辞めてくるし、娘の友達に好意を抱き、彼女の為に体を鍛え始める始末。
娘も両親を嫌悪すること甚だしく、まともな高校生には見えない。
隣人も変な人たちばかりで、大佐はどうやらゲイらしいし、その息子は薬物を売って金を稼いでいる。
無茶苦茶な登場人物たちばかりなのだが、どこか可笑しくて深刻になれない。
健全夫婦を装っていても心は離れている夫婦は珍しくはないし、ある時期を過ぎれば冷たい関係ながら夫婦関係を維持している家庭はごく普通に存在していると思う。
子供と意思疎通になり、子供が何を考え何をしているのか知らないのも一般的な家庭の姿かもしれない。
普通の人だと思っていた男がゲイだったり、薬物が家庭に入り込んでいるのも珍しいことでもなくなっているのかもしれないから、シニカルに描かれているが描かれた内容は現代社会の縮図ともいえる。
冷たい家庭 、仕事にやる気をなくした夫、浮気に走る妻、親を嫌う娘、薬物、虐待、精神病、同性愛、未成年との恋愛など負の要素ばかりが描かれているのに陰鬱な感じがしない。
この演出力は大したものである。

最後に衝撃的な事件が起こるのだが、それを述べることはネタバレにならない。
なぜなら最初にレスターの回想によって自分が死ぬことを述べているからである。
これは珍しい描き方で、冒頭から描き方に驚かされる映画である。
殺人動機は見る人の想像に任されている。
自分の秘密を知られたための抹殺だったのかもしれない。
アンジェラは自分が経験豊富なように振舞っているが、それは虚勢であってその実は未経験の少女である。
それを知ってレスターは最後を思いとどまるが、自虐的に生きているが自分にも人としてのものが残っていたことを感じてほっとしたのだろう。
歓びに満ちた死に顔はその事を物語っていたと思う。
残された者たちは目覚めるのだろうか・・・描かれた内容は深い。

アメリカン・グラフィティ

2020-09-28 07:11:21 | 映画
「アメリカン・グラフィティ」 1973年 アメリカ


監督 ジョージ・ルーカス
出演 リチャード・ドレイファス
   ロン・ハワード
   ポール・ル・マット
   チャールズ・マーティン・スミス
   シンディ・ウィリアムズ
   キャンディ・クラーク

ストーリー
1962年。カリフォルニア北部の小さな地方都市。
若者たちの唯一の気晴らしはカスタム・カーをぶっ飛ばしてガールハントすることだ。
ボリュームいっぱいにあげたカー・ラジオからは町一番の人気者のDJのうなり声と「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の弾むリズムが流れてくる。
若者たちの溜り場は「メルのドライブイン」で、そこに仲のいい4人が集まった。
17歳のカート・ヘンダーソンの車はシトロエン、同じく17歳のスティーヴ・ボレンダーの車は58年型シボレー、16歳のテリー・フィールズはスクーターのベスパ、そして22歳のビッグ・ジョン・ミルナーはドラッグ・レースのチャンピオンで31年型のカスタム・フォードのデューク・クーペに乗っている。
高校を卒業したカートとスティーヴが東部の大学へ進学するため、今夜は4人が顔を揃える最後の夜だった。
バラバラに町を去った4人。
スティーヴとカートの妹ローリーは将来を約束した恋人同志だが、男としての将来を考えなければならないスティーヴと、彼を旅立たせまいとするローリーの間にトラブルが生じ、腹を立てた彼女は車から飛びおりて、若い男が運転する車に乗ってしまった。
その頃、ビッグ・ジョンは13歳のオシャマな娘キャロンを車に乗せなければならなくなっていた。
そのうち、隣町のボブという男からドラッグ・レースを挑まれる。
その車には偶然スティーヴと喧嘩別れしたローリーが乗っていた。
一方、テリーの方はスティーヴから借りたシボレーに乗ってご機嫌だ。
カートは、ただ一人で放送を続けている人間的な魅力にあふれたDJに会うことができた。
将来の不安を、この有名なDJは優しく忠告してくれた。「新しい人生だ、予定通り出発だ」。
そして月日がたち4人は・・・。


寸評
高校を卒業して次の一歩を踏み出そうとしている若者たちに起きる一夜の出来事を描いている。
彼らが車を乗り回していることに違和感を感じたが、アメリカ社会では普通の光景なのかもしれない。
大学生と言ってもおかしくない出演者が1962年の高校生を演じて、青春の甘酸っぱい思い出が軽妙に描かれているのが特徴だが、何よりの特徴は当時のポップスミュージックが洪水のように流れていることである。
今や、時代を描いた作品に当時の音楽が使われるのは珍しくはないが、ここまで徹底した作品は思い当たらないし、そのような音楽の使い方はこの作品が先駆的だったかもしれない。
最初に流れるビル・ヘイリー&ザ・コメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は聞いた記憶があるし、最後の方で流れるプラターズの「オンリー・ユー」などは聞きなれた曲だ。
使用された曲目は30以上に及び、「アメリカン・グラフィティ」は青春映画でもあるが音楽映画でもある。

4人の若者たちはタイプの違う女の子と過ごしているが、4組のカップルの対比が面白い。
少し年上のビッグ・ジョン・ミルナーは13歳のキャロルと嫌々連れ添うはめとなるが、この子供が大人びた口を利く生意気娘なのだが、姉さんに同乗してきただけの妹らしく、最後にはミルナーに見送られて真っ先に家に帰る描写は、年齢差を考慮した丁寧な描きかただと思った。
テリーは仲間の中では一番弱そうだが、引継ぎを依頼された車に乗ってご機嫌で、魅惑的な女の子のデビーをハントするが、車を盗まれたり滑稽なエピソード担当といった存在で描かれている。
スティーブはカートの妹であるローリーと恋人関係だが、東部の大学に進学するため別れが待っている。
ローリーからアタックした仲のようだが、スティーブは「別れている間の交際には干渉しないでおこう」と提案し、大学での自由恋愛に想いを馳せている。
それが原因で二人の仲に険悪ムードが漂っていて、結末がどうなるのかの興味を最後までつないでいる。
カートも東部の大学に進学する予定だが、仲間とドライブ中に絶世の美人を見かけてしまい、彼女を見つけ出すことに奔走するが、なかなか出会うことが出来ない。
最後に彼女の姿を見るが、それは青春の苦い思い出となって彼の記憶にとどまるのだろうと思わせるのも、なかなかいい演出だと思う。
かれは不良グループにも付きまとわれ、逃げ出したいがなかなかその機会も持てず、やらかす悪さの結末も愉快なものである。
かれは不良グループ入りを約束させられるが、この町から去っていくので不良にはならないことは明白である。

思い起こしてみると、僕の高校卒業式の日は我が家ではK君、O君、S君、Ⅰ君、Ⅰ君と私の6名で高校最後の麻雀大会を開いていた。
その日S君はTさんに告白するつもりだったが、それを察知したTさんは私にS君に思いとどまるよう話して欲しいと依頼してきた。
断るなら自分で言うのが思いやりだろと諭したが、結局私がその事を伝えるはめになり気まずい空気が流れたことを思い出すが、会うとS君は今もその時のことを楽しそうに話す。
美人ではなかったが、アイドルの一人でもあったTさんは学生時代に早逝された。

アメリカ上陸作戦

2020-09-27 07:35:13 | 映画
「アメリカ上陸作戦」 1966年 アメリカ


監督 ノーマン・ジュイソン
出演 カール・ライナー
   エヴァ・マリー・セイント
   アラン・アーキン
   ブライアン・キース
   ジョナサン・ウィンタース
   セオドア・バイケル

ストーリー
ある日、アメリカ北東部ニュー・イングランド地方のある島の沖合に、ソビエトの潜水艦が座礁した。
艦長(セオドア・バイケル)は副官のロザノフ(アラン・アーキン)に8人の水兵を連れて上陸を命じた。
その頃夏休みをこの島で過ごすブロードウェイの脚本家ウォルト(カール・ライナー)は妻のエルスパス(エヴァ・マリー・セイント)と朝食の卓についていた。
そこへロザノフたちが現れ、大騒動がもちあがった。
ロシア人が上陸して飛行場を占領した、という噂がまたたく間にひろまった。
島の男たちはライフル銃に身をかためて自警団を結成して、飛行場攻撃に出かけた。
人々はロシア人がたったの9人でモーターボートを探しているだけだと分かったが、このあと空挺部隊や軍艦がやって来るのではないかと心配しはじめた。
島はロシアの連中のために電話線が全部切断され、気違い集落の様子を呈してきた。
潜水艦は折りからの満潮で離礁出来たが、ロザノフとひとりの仲間が島の連中に捕えられていると考えて、彼等を救うため主砲を町へ向けて引き渡しを迫った。
この騒ぎを教会の塔から眺めようとした少年が誤って、足を踏みはずし宙ぶらりになってしまった。
そして米ソ協力作業の末、無事救助された。
だがその間に沿岸警備隊、海空軍がロシア人の情報をキャッチし出動した。
しかし彼らの潜水艦は島の人々の護衛をうけて東の海へ姿を消して行った。


寸評
米ソ冷戦時代の話で、制作当時のアメリカにとって仮想敵国の第1はソビエト連邦だった。
ソ連潜水艦の館長は副官ロザノフの忠告も聞かずに座礁してしまうバカ館長だ。
アメリカ映画なのでソ連のバカぶりを笑い飛ばすコメディかと思っていたら、ひどいのはアメリカ側で住民たちの妄想による混乱ぶりが兎に角面白い。

カール・ライナーは息子の話を全く信じなくて、ソ連兵がやって来ると息子から裏切り者だと馬鹿にされる始末。
母親のエヴァ・マリー・セイントはしっかり者かと思うと、これがどこか能天気なところがあるといった具合。
幼い息子が好戦的なのが可笑しい。
アラン・アーキンのソ連兵がまともに見えてくる。
噂話とはそういうものなのだが、伝言ゲームのように伝わるごとに内容が違って話が段々と大きくなっていく。
見た人はいないのに飛行場が占領されたと皆が思っている。
警察署長がそのことを指摘しても誰も目が覚めない。
それどころか退役軍人が先頭に立って住民を鼓舞し話を大きくしていく。
ただし出てくる人々は、アメリカ人もソ連人もいい人ばかりなので大きな衝突は起きない。
だからコメディとして成り立っている。

仲間を引き取るために潜水艦は港へやって来て、仲間が捕虜になったと思い込んでいる艦長が砲身を町に向けると警察署長が毅然とした態度を見せる。
このあたりは急に真面目になってアメリカ映画を感じさせる。
署長は彼らが犯した罪を列挙し逮捕すると告げ、脅かす艦長に向かって「やれるものならやってみろ!」と凄む。
まるでキューバ危機におけるケネディだ。
この場面における署長は唯一まともな言動を見せ、違和感があるくらい真面目なシーンになっている。
ソ連なんかには負けないぞというアメリカの心意気を、監督ノーマン・ジェイソンが示したのだろう。

カール・ライナーが交換手のオバサンと縛られている所へ、奥さんのエヴァ・マリー・セイントが駆けつけて助けるが、置いてきた幼い娘が危険にさらされていると分かり自宅に飛んで帰る。
その車の中で「勝手なことをして言いつけを守らない」とダンナが奥さんを非難するのだが、ここで夫婦喧嘩をはじめてくれればもっと面白かったのにと、僕は他人の不幸を楽しんでいた。

ソ連兵士とアメリカ女性のロマンスがあり、米ソが力を合わせて子供を救出するシーンがありで、最後は結構感動させる。
退役軍人が米軍に連絡して意気揚々とやってきたら皆から白い目で見られ、米軍の攻撃から町の人がすべての舟を出してソ連の潜水艦を護衛すると言う場面は滑稽だが感動ものだ。
ソビエト連邦は崩壊しロシアとなったが、アメリカとロシアが混じり合うことは絶対にないと思われるから、いつの時代においてもこのラストは希望を感じさせるものだろうと推測する。

アメリカ アメリカ

2020-09-26 10:59:34 | 映画
「アメリカ アメリカ」 1963年 アメリカ


監督 エリア・カザン
出演 スタチス・ヒアレリス
   フランク・ウォルフ
   ハリー・デイヴィス
   エレナ・カラム
   エステル・ハムスレイ
   グレゴリー・ロザキス

ストーリー
1896年のトルコでは、ギリシャ人やアルメニア人が政府の弾圧に苦しめられていた。
ギリシャ人の青年スタブロスは、親友のアルメニア人バルタンからアメリカの話を聞き、そのきらびやかで自由な国アメリカに対して異常なまでの憧れを持つようになっていった。
そんなとき、親友バルタンが、トルコの圧政に反抗したために殺された。
スタブロスの自由への渇望は爆発し、彼はアメリカへ行く決心を固めた。
その頃、素足を引きずりながらひたすらアメリカを目指して旅する、アルメニア人ホハネスと出会い、スタブロスは靴を与えてやった。
スタブロスの父親イザークは息子のアメリカ行きを許し、一先ずスタブロスをコンスタンチノープルで敷物商を営むいとこのオデッセのもとに送った。
オデッセはスタブロスが途中、悪賢いトルコ人アブダルに貴重品をまきあげられて無一文なのを知ると、追い払う算段を始め、町の金持ちの娘トムナと結婚させようとする。
独力でアメリカに渡ろうとするスタブロスはこれを断り、港の運搬夫となって働く。
アメリカへ行くという彼の口ぐせから、スタブロスは“アメリカアメリカ”と呼ばれるようになった。
しかし、そんな苦労をしてためた金も微々たるもので、スタブロスはついにがまんできず、金持ちの娘で器量が良くないトムナと結婚した。
彼はトムナに本心を打ち明け、持参金のかわりに渡航費をもらい、アメリカに向かって出発する。
船中スタブロスは、靴みがきの一団に加わってアメリカに向かうホハネスに再会する。
ホハネスは、正式な手続をしていないスタブロスがアメリカに上陸できないことを知り、肺病で先の短い我身を海に投げて、スタブロスを自分の身がわりとして上陸させるのだった。


寸評
エリア・カザンはオスマン帝国の首都だったイスタンブールのギリシャ人の家庭に生まれ、1910年代にギリシャがオスマン帝国と戦争したためにギリシャ人は住みづらくなり、カザンが4歳のとき両親がアメリカに移住した移民なので「アメリカ アメリカ」は彼の出自が大いに影響している作品だ。
前半はオスマン帝国の圧政に苦しむ貧しい生活が必要以上に描かれ、ギリシャ人とアルメニア人の民族対決もあり、スタブロス一家の描き方にはリアリズムを感じる。
当時のギリシャ人社会は父親が一家を取り仕切る完全な男性社会であったことが伺えるが、その高圧的な態度は愛情に裏打ちされたものであるとはいえ、今の僕には想像の域を超えるものだ。
そしてスタブロスをコンスタンチノープルへ送り出すときに、一家の者たちの持ち物を含めて全財産を彼に与える経緯も異文化社会を見る思いがする。
圧政と貧困を目の当たりにしたスタブロスが、自由の国アメリカ、富める国アメリカに憧れる気持ちは画面を通じて伝わってくるが、描かれ方はモノトーン画面も手伝って非常に暗い。

スタブロスは筏でコンスタンチノープルを目指し、その船頭に金を強奪されてしまうが、ここでスタブロスは泳げないという伏線が張られている。
それを助けてくれたのがトルコ人のアブダルなのだが、この男は一種のたかり屋で、金づるにされたスタブロスは財産を失ってしまう。
スタブロスは貧しいながらも高潔な心を持つ神の子ではなく、彼は激情に任せ殺人を犯す。
訪ねた従兄も彼が無一文だと分かると冷たい態度を見せ始める。
お人好しだったスタブロスは、旅を続ける中で人を信用することができなくなり、自分の野心の為なら手段を選ばない人間になっていくのだが、彼のギラギラした眼差しが印象的だ。
ひどい人間が渦巻く中にあって女神のように輝いたのがスタブロスの結婚相手であるトムナだ。
彼女は不美人ということになっていて、演じたリンダ・マーシュは眉毛を濃くしたりしていたが、とても不美人には見えなかった。
資産家には跡継ぎの男子がおらず、不美人を気に掛けた父親がスタブロスを婿に迎えるという設定を思うと、トムナのキャスティングは一考があっても良かったのではないか。
ともあれこのトムナの存在は、結果として人を利用し、愛情や信頼を寄せてくれた人々を裏切ることにもなるスタブロスを浮かび上がらせるのだが、僕はこの描き方はこの作品を撮る10年ほど前にあった赤狩り旋風の中で、共産主義者の嫌疑がかけられたカザンが司法取引し、共産主義思想の疑いのある友人を密告したことが影響しているのではないかと思う。
移民の子がアメリカ社会で生きていくためには手段など選んでいられなかったのだとの思いではないか。
エンドクレジットで、エリア・カザン監督がスタッフの名前を読み上げるのだが、彼等がみんな移民であることと無縁ではない。
スタヴロスに心を許すアメリカ人富豪の夫人のエピソード、旅で助けた男が送還の危機に陥る彼を救うエピソードで涙を誘っておいて、ついに上陸を果たしたアメリカの地にキスをする主人公とその後の顛末はハッピーエンドのように見えるけれど、映画の後味は決して爽快なものではない。
観客を知らず知らず引き付ける力を持った作品だが、同時につらくなってしまう暗い映画でもある。

アメリ

2020-09-25 05:49:36 | 映画
「アメリ」 2001年 フランス


監督 ジャン=ピエール・ジュネ
出演 オドレイ・トトゥ
   マチュー・カソヴィッツ
   リュフュ
   ヨランド・モロー
   アルチュス・ド・パンゲルン
   ウルバン・カンセリエ

ストーリー
小さい頃から空想の世界が一番の遊び場だったアメリ。
22歳になった今でも、モンマルトルのカフェで働き、周りの人々を観察しては想像力を膨らませて楽しんでいた。
古いアパートで一人暮らししながらモンマルトルのカフェで働く彼女は、他人を少しだけ幸せにするお節介を焼くのが楽しみ。
そんなアメリも自分の幸せにはまったく無頓着。
アメリはある日、遊園地のお化け屋敷とセックスショップで働く不思議な青年ニノに出会う。
彼の、スピード写真のブース周辺に捨てられた写真をストックしたアルバムを拾ったアメリは、悪戯を仕掛けようとするうち、ニノに恋してしまう。
しかし内気なアメリは恋に真正面から向き合うことができず、かくれんぼのような駆け引きが続くのだが、やがて素直になり、ニノの腕の中に飛び込んで自分の幸せを見つけるのだった。


寸評
寄席でいうところの冒頭の"つかみ"で引き込まれる。
神経質な母親と冷淡な元軍医の父親を持つアメリはあまり構ってもらえず、両親との身体接触は父親による彼女の心臓検査時だけだった。
いつも父親に触れてもらうのを望んでいたが、あまりに稀な事なので、アメリは心臓が高揚する。
それを心臓に障害があると父親に勘違いされ、周りから子供たちを排除されてしまう。
その中で母親を事故で亡くすのだが、その亡くなり方がまるで漫画。
周りとコミュニケーションが取れない不器用な少女になっていく様がテンポよく、しかも笑いの内に語られて行く。
この冒頭で少し変なこの映画に最後まで付き合う気にさせられた。

まずなにがヘンかというと、登場人物がみんなヘン!
アメリの両親やカフェの女主人、従業員、お客、アパートの管理人や住人たち。
美人、美男は登場しなくて、その容貌自体が僕的には変な人たちだ。
アメリのオドレイ・トトゥも決して美人というわけではないが、その笑顔は魅力的でコケテッシュだ。
この作品の成功はオドレイ・トトゥの魅力に負うところが大きい。
チャーミングで、キュートなんだけど、どこか屈折した感じ。
子供みたいに純粋なんだけど、内向的で自分の殻に閉じこもっている。
そんな彼女の性格が笑顔に象徴されているのだが、本当に主人公アメリの笑顔はいい。

アメリはたまたま部屋で昔の住人の子供時代の宝箱を発見して、持ち主を探し出して返してあげる。
それですっかり他人に幸せを運ぶ喜びに目覚めた彼女は、あれやこれやとイタズラを仕掛けて、周囲の人々にささやかな幸福を届ける。
アメリの恋と共に、このささやかな幸せエピソードも心地よい。
その対象者は、亡き夫が忘れられないアパートの女管理人、店主にいじめられている食料品店のちょっとニブイ店員、ルノワールの贋作製作を続ける老人、そして彼女が勤務するカフェの人々など。
アメリの恋の進展も乙女心の表現方法として新鮮だ。
全体のタッチが、とっても温かいから、観終わってホンワカした気分になれる。
「失敗を恐れて自分の殻に閉じこもってちゃダメ」っていうメッセージも押しつけがましくなく伝わってきた。

一見レトロなパリの街角の様相は、実は良く見ると非現実的な世界で物語の小さな伏線をなしていて、観客は気が付いたらアメリと同じ高さの視線を持たされている。
携帯電話もパソコンも登場しない、レトロで情緒あふれるモンマルトルの風景がどこか懐かしい
アメリの行う悪戯や小さな親切は、一歩間違えれば大きなお世話で偽善に陥りやすいものだ。
絵本のような不思議な世界とノスタルジックな感覚がそれを覆い隠していたと思うし、その感覚を生み出す努力を怠らなかった監督に敬意を表するし、人が幸せになる映画を作りたかったというジュネ監督の想いも十二分に受け止められる作品だ。

雨に唄えば

2020-09-24 08:23:43 | 映画
「雨に唄えば」 1952年 アメリカ


監督 ジーン・ケリー / スタンリー・ドーネン
出演 ジーン・ケリー
   ドナルド・オコナー
   デビー・レイノルズ
   ジーン・ヘイゲン
   ミラード・ミッチェル
   リタ・モレノ

ストーリー
ドン・ロックウッド(ジーン・ケリー)とコスモ・ブラウン(ドナルド・オコナー)の2人はヴォードヴィルの人気者、切っても切れぬ仲の良い友達同志だった。
1920年代、2人はハリウッドにやって来て、インペリアル撮影所で仕事をみつけた。
ドンは西部劇でスタント・マンになり、俳優として調子よくサイレント映画のスターになることが出来た。
彼の相手役リナ(ジーン・ヘイゲン)は、美人だが少々ぬけた女、そのくせお高くとまっていて、ドンは好きになれなかったのだが、彼女は自分からドンの恋人だと決めてかかっていた。
だからドンが若くて歌も踊りもうまいケーシー(デビー・レイノルズ)と恋仲になったとき、リナはナイトクラブに職をもっていたケーシーをクビにさせてしまった。
そのころ最初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」が世に出て大当たりをとった。
インペリアル撮影所のボス、R・F・シンプソン(ミラード・ミッチェル)もドンとリナの新しい主演映画「決闘の騎士」をトーキーで作ることにきめ、その撮影中、ケーシーはやはり同じ撮影所で製作中のミュージカルに端役で出演していた。
再会したドンとケーシーはたちまち仲なおりした。
リナの声が魅力なく鼻にかかったものだったので、「決闘の騎士」の記者会見は大へん不評だった。
コスモの発案でリナの声をケーシーの声にダビングして吹きかえた。
映画は「踊る騎士」と改題され素晴らしい好評を博した。
リナは何とか名声を維持しようと、シンプソンにケーシーを自分の影の声としてこれからも使うよう頼んだ。
ドンはコスモやシンプソンと力をあわせ、リナの声が偽りものであることを一般にあばいた。


寸評
映画の舞台はサイレント映画からトーキー映画へと移り変わって行くもう少し前の時代の映画会社。
ストーリーはこれ以上ないくらいシンプルでわかりやすい物語となっている。
タイトルバックでジーン・ケリー、ドナルド・オコナー、デビー・レイノルズの名前が雨傘にかぶさって表示されるから、この三人の物語であることが分かるという仕掛けの幕開けである。
あまりにもシンプル過ぎて物足りないと感じるところもあるが、古き良きアメリカ映画としてジーン・ケリーとドナルド・オコナーのダンスが楽しめる。
特に、ドナルド・オコナーのダンスは必見だ。
後ろ向きに倒れてみたり、壁に激突してみたり、飛び上がって壁を歩いたりもする。
ソファーで人形と戯れるのはパントマイムのようで面白い。
彼のダンスを観ているだけでも、一つのショーを見ている気分にさせてくれる。
ジーン・ケリーもドナルド・オコナーもタップ・ダンスが得意なようで、ダンスシーンとなると盛んにタップダンスが取り入れられている。
この頃のミュージカル映画ではタップダンスが必須だったのかもしれない。

無声映画からトーキーに代わっていく時には、日本でも花形弁士が職をなくしたり、なまりがひどかった役者が没落したリしたそうだが、この作品の中でもハリウッド周辺で起こる変化が面白おかしく描かれている。
みんながこぞって発声教室に通ったことで、発声教室が大儲けしたという話が盛り込まれている。
それまでは大声で話しているのが当たり前だった撮影現場も、「撮影中は静かに」という張り紙が登場して雰囲気が一変し、声をマイクで拾う必要があるためマイクをどこに置けばいいかで一苦労するというエピソードも登場している。
ロックウッドとリナが言い合いをしながらラブシーンを演じるシーンが出てくるが、これなども演技中に適当に言葉を発するのをやめて脚本通りの言葉を話すようになったという逸話を取り込んでいるのだろう。

ジーン・ケリーが大雨の中で歌って踊るシーンは、映画史上に残る名場面となっている。
この映画を見ていなくても、あのシーンだけは何かで見たことがあるということで、名場面に数え上げられていると思うし、同時に「雨に唄えば」も耳に残る曲となっている。
古いタイプのミュージカル映画で間延びするところもあるが、何の心配もない時代を象徴するような作品である。
僕はジーン・ケリーがブロードウェイ・ナンバーを入れようと社長に進言して、そこから続く歌と踊りのシーンの長さにちょっと辟易した。

憎まれ役をジーン・ヘイゲンのリナが引き受けていて、ラストシーンでロックウッドとケーシーが結ばれる手際も心得たものである。
リナの根性の悪さは大女優だったリナが駆け出しのロックウッドと出会う場面で描かれており、彼が主役に抜擢されたとたんに言い寄ってくる姿が端的に描かれていた。
このリナの性格描写における手際の良さにも手抜きはない。
ただし僕には記憶に残る名画と言う評価はなくて、歴史的評価が大きな作品に思える映画ではある。

雨あがる

2020-09-23 07:21:48 | 映画
「雨あがる」 2000年 日本


監督 小泉堯史
出演 寺尾聰 宮崎美子 三船史郎 吉岡秀隆
   原田美枝子 仲代達矢 檀ふみ 井川比佐志
   松村達雄 加藤隆之 山口馬木也 若松俊秀
   森塚敏 長沢政義 下川辰平 奥村公延

ストーリー
亨保時代。武芸の達人でありながら、人の好さが災いして仕官がかなわない武士・三沢伊兵衛とその妻・たよ。
旅の途中のふたりは、長い大雨で河を渡ることが出来ず、ある宿場町に足止めされていた。
ふたりが投宿する安宿には、同じように雨が上がるのを鬱々として待つ貧しい人々がいた。
そんな彼らの心を和ませようと、伊兵衛は禁じられている賭試合で儲けた金で、酒や食べ物を彼らに振る舞う。
翌日、長かった雨もようやくあがり、気分転換に表へ出かけた伊兵衛は若侍同士の果たし合いに遭遇する。
危険を顧みず仲裁に入る伊兵衛。
そんな彼の行いに感心した藩の城主・永井和泉守重明は、伊兵衛に剣術指南番の話を持ちかけた。
ところが、頭の固い城の家老たちは猛反対。
ひとまず御前試合で判断を下すことになるが、そこで伊兵衛は、自ら相手をすると申し出た重明を池に落とすという大失態をしてしまう。
それから数日後、伊兵衛の元にやってきた家老は、賭試合を理由に彼の仕官の話を断った。
だが、たよは夫が何のために賭試合をしたかも分からずに判断を下した彼らを木偶の坊と非難し、仕官の話を辞退するのだった。
そして、再び旅に出る伊兵衛とたよ。
ところがその後方には、ふたりを追って馬を駆る重明の姿があった…。


寸評
往年の黒澤明の写真が映し出され、この作品を黒澤明に捧げるとテロップされる。
脚本はその黒澤明であり、監督は黒澤の助監督として活躍した小泉堯史で、彼のデビュー作である。
時代劇の浪人物だが「用心棒」や「椿三十郎」のような派手さはない。
主演の寺尾聡が静かなら、その妻を演じる宮崎美子も静かなたたずまいを見せる。
登場人物は道場主以外はすべていい人ばかりで、庶民の中での人のあたたかさをえがいている。
せめて映画だけでも潔い日本人を見たいという監督の意思が働いているのかもしれない。
撮影は黒澤とも一緒したことがある上田正治があたり、撮影協力としても斎藤孝雄が参加しているので映画的なシーンを作り出している。
主人公はすこぶる善良な浪人であるが剣の腕は相当なものがある。
賭け試合をして金を得てきているので、そのことは証明されているのだが、それを描き出すのが主人公がひとり剣の素振り行う場面だ。
黒澤は背景の雰囲気を出すのに霧を使うのが好きだったが、ここでも森の中に霧が立ち込めている。
主人公がその中を静かに歩いてきて剣を抜き素振りを行う。
カメラが切り替わり正面から捉えると微光が差してきて主人公がわずかの光の中で浮かび上がる。
美しいカメラワークだった。
主人公、三沢伊兵衛は「刀は人を斬るためのものではない。刀は馬鹿な自分の心を斬るためにあるものだ」と諭すが、本当に強い者はどこにいても恨みを買ってしまうので、彼れは仕官してもその職を失ってしまっている。
出る杭は打たれることを皮肉っているのかもしれない。
彼は優しい人物だが、その優しさが人を傷つけてしまうことに気がつかず失職しているのかもしれない。
殿様は「勝った者の優しい言葉は負けた者の心を傷つける。優しくされると見下されているような気になって腹が立つ」という。
その気持ちは御前試合で最初に負けた藩士も持ったことだろう。
かつて横綱の北の湖が、土俵下に落ちた力士に手を貸さないことを「ふてぶてしい態度」と非難された時に、殿様と同じような事を言っていたことを思い出した。
日本にやってきた宣教師が、「人々は貧しく、汚れた着物を着、家もみすぼらしい。しかし、皆笑顔が絶えず、子供は楽しく走り回り、老人は皆に見守られながら暮らしている。世界中でこんなに幸福に満ち溢れた国は見たことがない」と感心したと聞く。
この映画で描かれる人々の様子を見ると、我々は物質的な豊かさと引き換えにどれだけの物を失ったのかと訴えられているようでもある。
なんだかホッとする映画である。
黒澤とは名コンビだった三船敏郎の子息である三船史郎が殿様役で出ている。
脇役ではない重要な役でもあるのだが、鼻につくのがこの三船史郎の大根役者ぶりである。
黒澤組の再結集という意味合いもあったのだろうが、このキャスティングだけはいただけない。
風貌も声音も親父さんを彷彿させたが、演技力のなさはどうすることも出来ずこの映画の良さをすべて壊してしまっている。
もっといい作品にできたと思うので惜しい。

アポロ13

2020-09-22 08:20:53 | 映画
「アポロ13」 1995年 アメリカ


監督 ロン・ハワード
出演 トム・ハンクス
   ケヴィン・ベーコン
   ビル・パクストン
   ゲイリー・シニーズ
   エド・ハリス
   キャスリーン・クインラン

ストーリー
1969年、アポロ11号により、人類として初めてニール・アームストロング船長が月面に着陸した。
次の打ち上げチームのリーダーであり、アメリカ初の宇宙へ行った飛行士アラン・シェパードが体調に支障があることが発覚し、その予備チームであったジム・ラヴェル船長とフレッド・ヘイズ、ケン・マッティングリーは、アポロ13号の正チームに選抜された。
しかし、打ち上げ直前に、司令船パイロットのケンが風疹感染者と接触していることが判明し、なおかつケンには風疹抗体がなかったため、ケンの搭乗は認められないことになった。
予備チームと交替するか、司令船パイロットのみ交替するかの判断はラヴェルに任されたが、彼はパイロットのみを交代させる決断をして、予備チームのジャック・スワイガートと交替させることにした。
1970年4月11日、アポロ13号は現地時間13時13分に打ち上げられた。
月に到着する直前の4月13日、酸素タンク撹拌スイッチ起動により爆発が発生。
酸素タンクから急激に酸素が漏れだした。
酸素は乗員の生命維持だけでなく電力の生成にも使用するため、重大事態となる。
当初、事態をつかみ切れていなかった乗員や管制官たちは、途中まで月面着陸を諦めていなかったが、やがて地球帰還さえできないかもしれないという重大事態であることを把握した。
地上の管制センターでは、管制官達だけでなく、メーカーの人間も含め対策が練られた・・・。


寸評
アポロ13号が事故を起こしながら乗組員が無事帰還した出来事は劇的な出来事で色々と取り上げられている。
アポロ計画は、NASAによるマーキュリー計画、ジェミニ計画に続く三度目の有人宇宙飛行計画であったが、アポロ計画においては二つの大きな事故を起こしている。
一つは、アポロ1号における発射台上での火災事故で、3名の飛行士が死亡している。
もう一つが本作で取り上げられたアポロ13号における、月に向かう軌道上で機械船の酸素タンクが爆発した事故で、月面着陸を断念した乗組員たちが生命の危機を迎えながら無事に地球に帰還したものである。

日本のNHKもこの事件のドキュメンタリー番組を作成していて、これは乗組員よりもむしろヒューストンの管制室での奮闘ぶりと、生還のために陰ながら努力した人々に焦点を当てていた。
ドラマは乗組員の物語に重点を置いており、訓練の様子やケンが登場できなくなる話などが盛り込まれている。
打ち上げシーンや、切り離しの映像などは記録映画の様でリアリティもあり画面を圧するものがある。
地上組の奮闘ぶりは流石にNHKの番組だけあって、そちらの方が活動の詳細が見事に語られていた。
軌道計算する女性のコンピューター担当者がいたり、グラマンの製造技術者たちがニュースをキャッチするや要請を受けないうちに活動を開始していたこと、ヒューストンの管制官も途中で交代する様子なども伝えていた。
映画では管制官は一人で最初から最後まで勤めている。

乗組員たちは何が起きたかよくわからないし、どう対処すればいいかはすべて地上のヒューストンから指示されるのだが、次々と起こる問題に対処する緊迫感が、事実だけに見事に伝わってくる内容だ。
電力不足、二酸化炭素の濃度上昇などが次々と起きるが、ヒューストンの英知の結集がドラマチックだ。
搭乗メンバーから外れていたケンがシミュレーション役として復活してくるのもドラマチックだ。
その件も事実なので、事実は小説よりも奇なりである。
二酸化炭素を除去するフィルターの作成も今となっては面白い。
着陸船と本船のフィルターを接続することで解決しようとするが、その形状が丸と四角と違っていて繋ぐことが出来ず、管制官が「何が国家プロジェクトだ!」と叫んだりする。
宇宙船の製造技術者たちがアポロにある物を利用して接続に成功するのがすごい。
乗組員たちの冷静さと、ヒューストンの活躍は正にアメリカン・ヒーロだ。
驚くのは現在の状況を次々と伝える情報公開の姿勢と、アポロとヒューストンのやり取りが家族にも聞かせていることである。
次々とピンチに襲われ、右往左往する様子を聞いている家族の気持ちはどんなだったのだろうと思う。
見方によっては月面着陸を行ったアポロ11号より、このアポロ13号の方が誇れるのかもしれない。
それでも覚えているのは月面に初めて一歩を印した11号のアームストロング船長なんだけど・・・。

13号といい、発射されたのが13時13分だったり、事故を起こすのが4月13日だったりしているので、やはり13という数字はキリスト教徒にとって縁起が良くないのかもしれない。
生還が確認された時の家族の喜ぶ姿には、日本人の僕でも同じように感激してしまった。
ドラマだったらトム・ハンクスの船長が超人的な活躍をするのだろうが、実話だけにそれはない。

アヒルと鴨のコインロッカー

2020-09-21 07:06:57 | 映画
「アヒルと鴨のコインロッカー」 2006年 日本


監督 中村義洋
出演 濱田岳 永山瑛太 関めぐみ 田村圭生
   関暁生 杉山英一郎 藤島陸八 東真彌
   岡田将生 眞島秀和 野村恵里 キムラ緑子
   なぎら健壱 松田龍平 大塚寧々

ストーリー
大学入学のため仙台に越してきた椎名(濱田岳)が、引っ越しの片付けをしながらボブ・ディランの「風に吹かれて」を口ずさんでいると、隣人の河崎(瑛太)に声を掛けられる。
どこかミステリアスな雰囲気を持つ河崎は、一緒に本屋を襲おうという、おかしな計画を椎名に突然持ちかけた。
同じアパートに住む孤独なブータン人留学生のドルジ(田村圭生)に広辞苑を贈りたいというのだ。
気乗りしない椎名だが、翌日、河崎に言われるままにモデルガン片手に本屋を襲撃する。
だが、彼らが奪ってきたのは広辞苑ではなく広辞林だった。
しかし実は、その計画の裏には、河崎とドルジ、そして琴美(関めぐみ)という女性の物語が隠されていた。
状況が呑み込めない椎名は、二年前に琴美が働いていたペットショップの店長である麗子(大塚寧々)と接
触する。
河崎はペットショップの店長である麗子に気をつけろと言い、麗子は椎名に河崎の言うことは信用するなと言う。
そして椎名は、かつて河崎とドルジと琴美が奇妙な友情で結ばれていたことを知る。
しかしある時、琴美は動物を虐待している男女グループといさかいを起こして事故死していた。
すべてを知った椎名だが、まもなく家庭の事情で故郷に帰ることになる。
麗子は椎名とドルジを仙台駅まで見送り、そして椎名とドルジは、それぞれの道に向かって歩き出すのだった。


寸評
前半部分は後半部分に対する長い長いモノローグだった。
冒頭の広辞苑を奪うためにモデルガンで本屋を襲うというマンガチックな事件を起こしてからは大きな出来事は起きない。
椎名の学園生活などが描かれたり、琴美の思い出話が続いたりして平穏化する。
その間ミステリアスな麗子が登場したりするが、やや盛り上がりに欠ける展開だ。
ややダレ始めた半ばで、麗子が河崎の件で発した言葉から俄然盛り上がっていく。
それまで描かれていたことは、すべてそこからの為の序章に過ぎなかったことを僕たちは知ることとなる。

後半は前半のシーンをなぞりながら、同じセリフを発して、前半に語られたことを解き明かしていく。
ああそう言うことだったのかと悟らされるテンポの良さがこの映画の心地よさだ。
椎名と河崎がボブ・ディランの「風に吹かれて」で知り合ったわけも、河崎が本屋を襲撃しようと言って実行した理由も、すべてが明らかになっていく。
ブータン人のドルジが引きこもりで人と接しようとしないことや、その男のために広辞苑を盗もうとしたことも。
ドルジはアヒルと鴨の違いが分からないので、それを教えるために広辞苑を盗もうとしたのだが、なぜアヒルと鴨だったのかも納得させられる。
そして広辞苑ではなく広辞林を盗んでしまったことも。
思い返せば、河崎が弁当屋でおにぎりを2個無造作に買うシーンも意味があったのだと納得させられる。

始まってすぐに本屋襲撃事件を起こすわけだが、そこで動機として語られるアヒルと鴨の話から、この映画タイトルの半分くらいは理解したつもりだったのだが、それにしてはコインロッカーは何なんだと、ちょっと違った方向に興味がいって、それが僕が気分的にややダレた原因の一つになっていたのかもしれない。
そしてそれが間違いだったことも、コインロッカーも大事な要素だったことも、やがて思い知らされた。

椎名は河崎と違って、軟弱でどこかひ弱な男で東京から仙台の大学に入学してきた学生だ。
(その椎名を演じた濱田岳がひ弱な男を好演している)
東京で靴屋を営む父親は職人でもあり、家庭はさして裕福ではなさそうだ。
そしてその父が余命いくばくもなさそうで、椎名は東京に帰ることになる。
再び仙台に戻ってくるからとも言うが、はたして戻って来れるのかどうか・・・。

ブータンは信仰心が厚い国で、豊かではないが世界で一番平和な国の一つと言われている。
人を傷つけることはいけないと思っているのだが、ドルジはそこからはみ出してしまった。
私は話すのは怒っているようだけど、そうじゃないからと言ってた麗子が、最後の場面でそんなドルジを責めるでもなく諭す表情は優しかった。
探していたラジカセとボブ・ディランのCDがリンクしてコインロッカーに閉じ込められ、彼等二人がそれぞれの道に向かって歩き出すラストは余韻が残る。
ああそれで、アヒルと鴨とコインロッカーだったんだと。

アビス/完全版

2020-09-20 07:24:24 | 映画
「アビス/完全版」 1993年 アメリカ


監督 ジェームズ・キャメロン
出演 エド・ハリス
   メアリー・エリザベス・マストラントニオ
   マイケル・ビーン
   レオ・バーメスター
   トッド・グラフ
   ジョン・ベッドフォード・ロイド

ストーリー
深海。アメリカ海軍の原子力潜水艦が謎の物体に襲われ、救助活動の基地として選ばれたのは海底油田採掘用試作品住居<ディープコア>だった。
バッド・ブリッグマンを始めとする9人のクルーのもとに、コフィ大尉が指揮する海軍のダイバー・チームと、ディープコアの設計者リンジーがやって来る。
実はバッドとリンジーは離婚間近の夫婦で、ふたりは事あるごとに対立するのだった。
そんな折、クルーのジャマーが救助中に巨大な光る物体を目撃し、ショックで昏倒してしまう。
そしてリンジーも、その光を見た。
一方コフィたちは、バッドたちに無断で原潜から何かを回収する。
その頃海上は嵐に襲われ、ケーブルが切れたために海上と海底は連絡不能となってしまう。
故障をチェックしようとしたリンジーは不思議な生物とさらに接触。
この生物が今回の事故と関係があることを確信する。
やがてリンジーは、コフィが原潜内から回収したものが核弾頭であることを知り激しく詰め寄るが、彼は潜水病とストレスからの緊張感で狂気の世界に入り始めていた・・・。


寸評
描く内容がどんどん変わっていくにもかかわらずエピソードの繋ぎが上手くできておりダレるところがない。
始まりはアメリカの原子力潜水艦の沈没事故で、原潜の事故とその乗組員を救出に向かう人々の海難事故スペクタクルが繰り広げられる。
原潜内部やディープコアと呼ばれる試作機の内部撮影はセットでの撮影と推測されるが、それらが海中で作業する様子はリアリティがあって緊迫感が生み出されている。
撮影 のミカエル・サロモンの功績なのか、この撮影を可能にした着想の素晴らしさなのかはともかくとして、この海中シーンは見所である。
海難事故映画として日本映画でも海上保安庁の潜水部隊を描いた「海猿シリーズ」があったが、スペクタクルとしてもやはり後年に撮られた「海猿」を凌ぐものがある。

ディープコアにコフィ大尉が指揮する海軍のダイバー・チームがやって来るが、彼らの目的は秘密裏に原潜に搭載されたミサイルの核弾頭を回収することである。
繰り広げられるサスペンス劇も手際よくまとめられていて飽きがこない。
海上との交信が途絶えてコフィ大尉が暴走しだすが、コフィ大尉の暴走はひいては軍部の暴走でもある。
関東軍の暴走が日中戦争を、ひいては太平洋戦争を引き起こしたことを考えると、軍部の暴走は恐怖である。
おりしも原潜事故をめぐって米ソ(当時はまだソ連が健在であった)が一触即発の状態で、第二のキューバ危機が訪れているなかでのコフィ大尉の独走行為である。
一人の軍人の暴走が世界戦を引き起こすかもしれない怖さがある。

そして地球外生物の存在が明らかになるファンタジーへと物語は変化を見せていく。
エイリアンは人間の言葉は理解できるが、人間の言葉を話すことはできない。
冷たい海水がある深海の世界に住み着いて平和に暮らしている存在である。
そこで広島の原爆の50倍はあると言う核弾頭を爆発されては彼らの安住はない。
彼らは水を自由に操ることが出来て、人類に警告を発する。
明らかに核の廃絶を訴える内容となっている。
彼らは警告の意味で巨大津波を世界中に引き起こす。
巨大津波はニューヨークやサンフランシスコなどを襲ってくるが、どうせならソ連の都市も、イギリス、フランス、中国といた核保有国の都市も襲わせてほしかった。
ついでにインドやパキスタンなどの核を保有していると思われる国の都市も襲わせれば、メッセージはより強固なものとなっただろう。
ディープコアのクルーのキャラクターが上手く描けていたとは言い難い面もあるが、リーダーであるバッド・ブリッグマンと乗り込んできたディープコアの設計者であるリンジーが夫婦で、今は別居中の犬猿の仲というのが面白い。
しかもリンジーは口うるさい女で皆から好かれていないような一面がある。
バッドとリンジーの確執がもっと盛り込まれていても良かったかもしれない。
しかし「アビス」はメッセージ性を持った娯楽作として、1989年と言う年代に撮られたSFとしては出色の出来栄えとなっている。

あ、春

2020-09-19 10:12:21 | 映画
「あ、春」 1998年 日本


監督 相米慎二
出演 佐藤浩市 山崎努 斉藤由貴 藤村志保
   富司純子 三浦友和 余貴美子 三林京子
   岡田慶太 村田雄浩 原知佐子 笑福亭鶴瓶
   塚本晋也 河合美智子 寺田農 木下ほうか

ストーリー
一流大学を出て証券会社に入社、良家のお嬢様・瑞穂と逆玉結婚して可愛いひとり息子にも恵まれた韮崎紘(佐藤浩市)は、ずっと自分は幼い時に父親と死に別れたという母親の言葉を信じて生きてきた。
ところがある日、彼の前に父親だと名乗る男が現れたのである。
ほとんど浮浪者としか見えないその男・笹一(山崎努)を、にわかには父親だと信じられない紘だが、笹一が喋る内容は、何かと紘の記憶と符合する。
母親の公代(富司純子)に相談すると、笹一はどうしようもない男で、自分は彼を死んだものと思うようにしていたと言うではないか。
笹一が父親だと知った紘は、無碍に彼を追い出すわけにもいかず、同居する妻瑞穂(斉藤由貴)の母親(藤村志保)に遠慮しながらも、笹一を家に置くことにした。
しかし、笹一は昼間から酒を喰らうわ、幼い息子(岡田慶太)にちんちろりんを教えるわ、義母の風呂を覗くわで紘に迷惑をかけてばかり。
ついに堪忍袋の緒が切れた紘は笹一を追い出すが、数日後、笹一が酔ったサラリーマン(木下ほうか)に暴力を振るわれているのを助けたことから、再び家に連れてきてしまう。
図々しい笹一はそれからも悪びれる風もなく、ただでさえ倒産が囁かれる会社が心配でならない紘の気持ちは、休まることがない。
そんなある日、笹一の振る舞いを見かねた紘の母・公代が来て、紘は笹一との子ではなく、自分が浮気してできた子供だ、と告白する。
その話に身に覚えのある笹一は、あっさりその事実を認めるが、紘の心中は複雑だ。
ところが、その途端に笹一が末期の肝硬変で倒れてしまう。


寸評
相米慎二は無秩序な人間を描かせるととんでもなく生き生きとしてきて、水を得た魚の様である。
描かれる人間は滑稽だが、自分に置き換えてもどこか思い当たるふしがある。
紘は倒産寸前の証券会社に勤めているが、同僚の沢近(村田雄浩)のようにスパっと決断が出来ず、会社の再生を信じて転職を決断できない。
男にとって長年勤めた会社を辞めることは勇気のいることで、そんな不安は家族にも言えないものである。
瑞穂の母親は、そんな大事なことを妻にも話さないのかと言うが、妻だから言えないこともある。
ある意味で優柔不断なのであるが、その優柔不断さは大多数の人が有しているものだ。

表札は二つ上げているが、良家と思える妻の実家に義母と同居している。
婿養子のような環境は肩身の狭い思いをするものだろうが、表面上は上手くやっている。
妻は持病持ちだが、良家の娘らしく世間ずれしたところがない。
そんなところにとんでもない父親がやって来て騒動が起こる。
その騒動がくすぐったくなるような面白いものなので、家族を描いた社会映画というよりは喜劇なのだと思わせる。

しかし、そんな騒動を通じて「家庭って何だろう?」、「家族って何だろう?」と考えさせられるのである。
その描き方は肩の凝らないもので相米らしい。
父親は息子夫婦の家にとっては降ってわいたような邪魔者だ。
当然家の持ち主である義母や妻にとっては迷惑この上ない。
ところが浮浪者のようなこの男、庭の手入れはするし、家の傷みも修理する器用人だ。
おまけに孫にとっては案外とこの爺さん、結構いい遊び相手でもあある。
私もかわいい孫がいるが、老人は子供の格好の遊び相手である事は間違いないと感じる。
節分の騒動などは思わず笑ってしまう光景だ。

毛嫌いしていながら、時として受け入れてしまう藤村志保と斉藤由貴の親子も面白いが、もっと支離滅裂なのが富司純子が演じる紘の母親だ。
久しぶりに会った別れた亭主に「笹一ちゃん」と親し気に呼びかけたかと思うと、過去の不倫を堂々と告白するのである。
長男の三浦友和と食堂をやっているが、どうやら長男は他の店に広げたいらしい。
長男の嫁(余貴美子)もそれを望んでいるが、彼等に決して気後れしない度胸も携えている。
肝っ玉母さんと思えるのだが、そのキャラクターはどこかとぼけた味のあるもので、富司純子がハマっている。
兎に角この作品はキャスティングが見事だ。
散骨の為、菜の花が咲き誇る川を下り海に出るが、春と言えば桜だが、桜ではなく菜の花を描いたことで前途洋々感を出すことなく、それでいて春の到来を感じさせ良かった。

僕は家族は大切だと思うし大好きだが、家族の為だけに生き、家族のために我慢をする生き方はむなしいものがあるし、ここに描かれたような家族関係があるなら、家族ってそんなに重いものでもないのかもしれない。

あの子を探して

2020-09-18 07:22:28 | 映画
「あの子を探して」 1999年 中国


監督 チャン・イーモウ
出演 ウェイ・ミンジ
   チャン・ホエクー
   チャン・ジェンダ
   カオ・エンマン

ストーリー
中国、河北省赤城県チェンニンパオ村にある水泉小学校。
カオ先生が私用で1ヵ月間学校を離れることとなった。
放っておけば、多くの生徒が家庭の事情で学校をやめてしまう。
休職したカオ先生に代わって、14歳の代用教員ウェイ(ウェイ・ミンジ)がチャン村長(チャン・ジェンダ)の指示によって教壇に立つことに。
中学校も出ていないミンジに、面接したカオ先生は心許なさを感じるが、子供たちに黒板を書き写させるだけの簡単なことならできるだろうと代理を任せる。
突然28人のやんちゃな生徒たちをまとめる役目を請け負ったウェイだが、生徒が一人も辞めなければカオ先生から褒賞金50元、子供を一人も脱落させなければさらに10元を貰えるとあって懸命に生徒たちを見張り続ける。
悩みの種は10歳の腕白坊主チャン・ホエクー(本人)だけだ。
ある日、チャンが登校していないのに気づいたウェイが彼の家に行くと、病気の母が出てきて、チャンは家計を助けるために出稼ぎに出たと言う。
ウェイはチャンを連れ戻そうとするが町を出るバス代がない。
皆で協議の結果、レンガを運んで金を稼ぐことになり、生徒たちは一生懸命働いてようやくウェイを送り出す。
しかし、町へ着くとすぐに会えるどころか、チャンは行方知れずとなっていた。
彼女はなけなしの金をはたいて紙と筆を買い、尋ね人のチラシを貼り出すがらちがあかない。
ついに町のテレビ局に行き、涙ながらに訴えるウェイ。
様々な手段を講じても一向に探し出せず、困り果てるウェイだった。
こうした苦難の末、ウェイはチャンと再会を果たすのだった。


寸評
「あの子を探して」は僕が小学生の頃に見た巡回映画で上映された作品の様な雰囲気を持った映画である。
通っていた小学校は周りには田んぼが広がっている天井川の土手の下にあって、この作品で描かれたような雰囲気があったのだが、さすがにここまで貧しくはなかったし、校舎も描かれたようなボロ校舎でもなかった。
1990年代の後半と言っても、中国の田舎に行けば、まだこのような雰囲気の村が点在していたのだろう。
その昔、マカオから中国に入り、ちょっとした田舎町の雰囲気を味わったことがあるが、お店の雰囲気は子供たちがコーラを買った店と似ていた。
目にした電気店はまるで夜店の屋台の様なもので、炊飯器(電気釜と呼ばれた代物)、ミキサーが縁日の射的台に並ぶ景品のように並んでいた。
そういえば作品中で子供たちはとても冷えているとは思えないコーラを買って飲んでいたなあ。

作品はドキュメンタリー風な作りで、内容も子供たちを描いたものだけに牧歌的である。
村は貧しいし、学校も荒れ果てた校舎で、黒壁が黒板となっている。
校舎の雨漏りも直せないし、チョークも自由に買えない。
貧しい家の子は働くために学校をやめてしまう。
そんな状況の中で14歳の子供が代用教員としてやってくる(日本ではありえない)。
彼女の目的は50元の報酬を得るためで、一人も脱落させなければさらに報奨金がもらえる。
その為にいなくなったホエクーを探すのだが、チラチラ見えるのがそのような拝金主義だ。
内容の割には金で解決してしまうことが普通の様に描かれている。
学校のチョークを粉々にしても金さえ払えば許されているのだ。
見逃してしまいそうな雰囲気で描かれているから、中国ではごく普通の行動なのだろう。
見ている僕は日本人で、やはりそれには納得できないものがあった。
同じようにテレビ局の局長に会う場面でコネ社会の一面も描かれている。
何とか見つけてホエクーの尋ね人放送を頼もうとする努力がオーバーラップを用いて描かれるが、直前で受付の女性がお金かコネがないとダメだと言っていたことが気になった。

ホエクーを探すウェイが流す涙は、弟を探す姉の気持ちになっていたのだろうとは思うが、しかしどこかで追加報酬欲しさに探している動機が浮かんでしまい僕は素直に泣けない。
食料を与えてくれた親切な人たちがいて、テレビを見た人たちからは善意の寄付が集まり、そのおかげでホエクーの家の借金は返済でき、学校にも教材が届く。
メデタシ、メデタシのエンディングなのだが、どうしたわけか僕には何か喉に引っかかるものがある。
中国はアジアNo1のGDPを誇る大国である。
その国の田舎の姿として、これはどうなのかと思ってしまう。
富が分配されているとは思えないし、中国の田舎では数えられないほどの暴動があるというのは本当ではないかと思ってしまう。
チャン・イーモウは貧しさから教育が受けられないということをなくそうと訴えるが、僕にはかの国の政治と実情がよくわからない。

あの頃ペニー・レインと

2020-09-17 08:28:55 | 映画
「あの頃ペニー・レインと」 2000年 アメリカ


監督 キャメロン・クロウ
出演 ビリー・クラダップ
   フランシス・マクドーマンド
   ケイト・ハドソン
   パトリック・フュジット
   ジェイソン・リー
   アンナ・パキン

ストーリー
1973年、大学教授の母と暮らす知的で陽気な15歳の少年ウィリアムは、姉アニタが教えたロック音楽の魅力に取り憑かれ、学校新聞などにロック記事を書いていた。
伝説的なロック・ライターのレスターに気に入られ、彼の雑誌や地元の新聞に掲載された原稿が、たまたまローリングストーン誌の編集者の目にとまったのが幸運のはじまり。
何せ、相手は15歳の小僧が書いたとは思っていない。
ウィリアムはローリングストーン誌からブレイク寸前のロック・バンドのツアーに同行取材する仕事を得る。
普通だったらプロのミュージシャンたちが見向きもしないようなガキだが、そのひたむきな純粋さが周囲の大人たちを惹きつける。
そして彼らはホンネを少年に語りかけるようになる。
そして、このバンドを追う少女たちの中にいた、一際美しいペニー・レインに恋をするのだが、彼女はスティルウォーターのギタリスト、ラッセルと付き合っていた。
それでもウィリアムの恋心は変わらず、ツアーの刺激的な毎日を楽しんでいた。
しかしやがてペニー・レインは、NYでラッセルの本命の恋人が現われたため、睡眠薬で自殺を図る。
ウィリアムの助けで彼女は一命を取り止めるが、それはお祭り騒ぎの終焉を意味していた。
そして飛行機事故の危機をなんとか切り抜け、ウィリアムの旅は終わるのだった。


寸評
「ペニー・レイン」と聞けば、僕たちの世代のものはビートルズの曲目を思い出すかもしれない。
ここで登場するペニー・レインはロックグループの追っかけで謎めいた女の子である。
売り出し前のグループに取り入って、セックスフレンドとなるグルーピーとは違う、純粋な追っかけファンということになっている。
ペニー・レインという名前も偽名であり、大人なのか子供なのか分からないような雰囲気の女性だ。
したがって主人公のウィリアム少年が持つ恋心は、年上の女性に抱くあこがれなのか、同年代の女性に寄せる初恋めいたものなのかもよくわからない。
どちらかと言えば後者のような描き方だが、ウィリアム少年の年齢設定は15歳である。
ミュージシャンのラッセルと付き合っているというから、年齢的には20歳を過ぎていてもおかしくないのだが、どうもそんな風には見えない。
僕は見ていてこの女性の年齢が気になってしようがなかったし、「タクシー・ドライバー」のジョディ・フォスターを重ね合わせていた。

思春期の少年による脱少年物語の一つだと思うが、設定が非常にユニークだ。
15歳の少年が一流音楽誌から原稿をオファーされ、ロック・バンドのツアーに同行する様子が描かれていくと言うものである。
その間に大きな出来事が生じてドラマを形作っていくといった風でもなく、むしろ何事も起こらずツアーが進んでいくと言ったほうが良いような展開だ。
追っかけのペニー・レインと親しくなるが、二人のラブロマンスが進行していく思春期映画でもない。
ミュージシャン達のバスによるツアー旅行の様子がリアリティをもって迫ってくる。
メンバーは妻帯者もいれば、恋人を故郷に残している者もいるのだが、まさしくこれは青春映画だ。
純粋さもあれば、はじけるようなエネルギーもある。
そのなかに少年がいるという違和感を感じさせないで物語が進んでいくのがいい。

いいと言えば、ウィリアムの母親の存在がこの作品を楽しくしている。
母親は父親が亡くなっているせいか過保護気味で、子供を厳しく育てている。
その為に長女は母親に反発して家を出ているのだが、そんなことはお構いなしにウィリアムには厳しい。
母親と全く逆の立場にいるのがスティルウォーターというバンドのメンバーたちである。
彼等はウィリアムの母親の価値観とは対極にいる。
そんな彼等に浴びせる母親の言葉も痛烈で、世の親たちからは拍手喝さいを受けそうなタンカをきる。
ミュージシャンに付き物のドラッグも毛嫌いしていて、常にウィリアムに電話連絡を取らせて支配している。
ウィリアムはツアーの同行を経て、そんな母親から自立していく。
そして最後にはウィリアム一家にも平和が訪れるという結末もホームドラマ的で好感が持てる。
僕には兄弟姉妹がいないが、こんなアネキならいてほしいなと思わせた。
そして「あの頃ペニー・レインと」という邦題を僕は随分と気にいっていて、この邦題も作品イメージを高めていた。

兄とその妹

2020-09-16 07:23:41 | 映画
「兄とその妹」 1956年 日本


監督 島津保次郎
出演 佐分利信 三宅邦子 桑野通子 上原謙
   河村黎吉 水島亮太郎 坂本武 笠智衆
   菅井一郎 奈良真養 小林十九二 

ストーリー
東京山手に住む間宮敬介(佐分利信)は妻あき子(三宅邦子)、妹文子(桑野通子)と仲のよい三人暮し。
文子は外国人商社に英文タイピストとして勤めている。
一昨日、会社へ遊びに来た道夫(上原謙)という青年は、文子が英語に熟達とも知らず、支配人に向って英語で文子のことをこきおろし、種明しに慌てて逃げ出した。
その彼が今日も現われて、先日は大へん失礼と食事に誘われたが、デマカセに主人が待っているからと断って来たとあき子に報告した。
文子の誕生日、早く帰ってほしいとの電話にも、部長(坂本武)に碁を誘われている敬介は大弱りである。
家では文子の友達たちが集って、ささやかな誕生祝いをしているところへ道夫から贈り物の花が届く。
ある日、敬介は部長の甥が文子をもらいたいといっていると聞くが、部長の甥とは道夫青年であった。
日曜日、久しぶりに揃ってピクニックに出た敬介達。
昼食の時、縁談を切り出す敬介に、兄の立場を考えた文子は断ってほしいという。
翌朝、出勤した敬介は意外にも部長に呼ばれて係長に任命される。
だが喜んで部屋に戻ると先日、課長から係長に左遷されたのを敬介の策動と誤解した林(奈良真養)に殴りつけられ、憤然として辞表を書き、会社を飛び出す。
事件を知らないあき子は、本当は道夫が好きらしい文子の気持を察し、三人で一度話し合おうと諭す。
興奮もさめた敬介は、親友内海(笠智衆)の経理事務所を訪れ、彼の仕事を手伝うことになる。
生色を取戻した敬介は、新しい職に就いた以上、妹も嫁に行けると喜んで終電で帰って行った。


寸評
松竹らしい映画で、太平洋戦争前の一見平和と錯覚していた時代を感じさせる作品となっている。
僕にとっては古典映画の部類に入る作品だが、昔懐かしい日本の家庭生活の風景をきめこまやかに描き込んでいるし、交わされる会話も淡々としていて味わい深い。
ちゃぶ台を使った食事シーンや、はたきや箒で掃除をするシーンなどを丁寧に撮っている。
家事を思い起こさせるモンタージュもかえって新鮮に感じる。
なんて事のない会話を交わしているのだが、そのシーンをワンカットでとらえている所が多く、当然俳優さんの芝居は長くなるのだが、当時の庶民生活はこんな感じだったと思わせる。
庶民と言っても僕が育った農村地区と違って、間宮家はすこし恵まれた都会的生活をしている家庭である。
紅茶を飲んだり、風邪をひいているあき子のために文子が銀座でアイスクリームを買ってきたりしている。
別のシーンでは文子がナイフで切った栗羊羹をあき子に差し出している。
そのようなシーンを細やかに撮っているのだが、戦後生まれの僕でもそのような暮らしはしていなかった。
桑野通子演じる文子の通勤服はベルベットに唐草のような模様がついたコートでかなり派手目な素材。
リボンつき黒の帽子を斜めにかぶっているのだが、この時代、このような服装のOLっていたのだろうか。

描かれた家庭は平和な家庭でもめ事などない。
間宮夫婦には子供はいないが仲は良く、言い争いをするような所がない。
妻のあき子は夫を信頼しきっている専業主婦である。
文子は小姑なのだが、兄嫁と実の姉妹の様に仲が良くて家庭内のいざこざは一切ない。
描かれるもめ事と言えば敬介の勤める会社内だけだ。
もめ事と言っても、敬介への誹謗中傷する陰口の類なのだが、理由は仕事のできる敬介への妬みと、趣味が同じ重役と私邸で碁を打って可愛がられていることへのひがみである。
敬介にしてみれば上役から誘われれば断り切れないサラリーマンの宮仕えを行っているだけなのだが、周囲の者たちはやっかみの目で見ていて、面と向かっては言わないが陰では悪口を言っている。
時代が変わってもサラリーマン社会は成長していないと実感する。
文子はそんな兄の立場を思って縁談を断る。
道夫にまんざらでもなかったように思われるが、自分の結婚よりも兄を取ったことになる。
仲の良い兄妹なのだ。
こういう世界が松竹の得意とするところで、小津安二郎に引き継がれたのだろう。

会社を辞めた敬介は親友の内海の会社で雇ってもらうことになる。
内海は会社の拡張を考えていて、進出先が満州と言うのが時代を感じさせる。
1939年と言えば満州事変がすでに起こり、日中戦争も勃発していた時期である。
1941年12月8日の真珠湾攻撃の前とはいえ、随分と平和な映画が撮られていたことに驚いてしまう。
この頃の日本は戦争をしていても、社会にはまだまだ余裕があったのだろう。
敬介は大陸で仕事をすることになり、あき子も文子も一緒に行くようでどこまでも仲の良い一家なのだが、この時点ではやがてやって来る悲劇の時代を予期していない。