おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ドラゴン危機一発

2024-01-16 07:38:49 | 映画
「ドラゴン危機一発」 1971年 香港


監督 ロー・ウェイ
出演 ブルース・リー マリア・イー ジェームズ・ティエン
   リュー・イェン ハン・インチェ ノラ・ミヤオ

ストーリー
大雨による洪水のため農作物に大被害を受けたチェン・チャオ・ワンは、従弟のシュウ・シェン一家を頼って都会で働く決心をかためた。
旅立つとき、母は喧嘩早い彼の行末を安じて人との争いをかたく禁じ、チェン自身も母から贈られたヒスイのペンダントにかけて、絶対に喧嘩をしない誓いを立てた。
その彼が身を寄せることになったシュウの家は、妹のチャオ・メイを始めとする大家族で暮していたが、男たちは町の南にある製氷工場で働いていて、チェンもそこで働くことになった。
町の有力者であるマイが経営するこの製氷工場は、氷の塊の中に隠した麻薬の密売が本業だった。
そんなこととは知らないチェンは工場で働き始めたが、ふとした手もとの狂いで氷をレールから落としたため、中に隠してあった麻薬が飛びだしてしまい、それを目撃した工員のチンとウォンの二人が行方不明になった。
不信に思ったシュウは、マイを訪ねるが、その彼もマイの息子に殺されてしまう。
残されたチェン、チャオ・メイ、クオンたちはようやくマイ一味を疑い始め、情報を要求してストライキに入った。
その結果、暴力をもって働かせようとするマイの部下たちとの間で乱闘が始まり、静観していたチェンもまきぞいをくい、母が贈ってくれた大切なペンダントが真二つに割れた。
さしものチェンもこれ以上がまんできなかった。
チェンの強さに驚いた工場長は、この有様をボスに報告し、彼を新しい班長に任命した。
その夜、工場長に招かれたチェンは、飲みつけない酒に酔いつぶれ、翌朝、眼を覚ましたのはウーという女のベッドの中だった。
驚いてはねおき、表へ飛びだしたチェンは運悪くチャオ・メイと出くわしてしまった。
かねてからチェンに思いを寄せていたチャオ・メイにはショックだった。
それ以来、チェンに対する仲間の態度が急変した。


寸評
アメリカから香港に凱旋したブルース・リーが主演した一連のカンフー映画の第4作目に当たる「燃えよドラゴン」が大ヒットしてカンフーブームを巻き起こしたので、さかのぼる形でブルース・リーのカンフー映画が連続して公開されることになり、まず第1作目の本作が2本目として公開された。
ドラゴ・ンシリーズの公開を順に追えば、1973年12月の「燃えよドラゴン」を皮切りにして、1974年4月の「ドラゴン危機一発」、1974年7月の「ドラゴン怒りの鉄拳」、1975年1月の「ドラゴンへの道」と続いた。
「燃えよドラゴン」でアクションスターとして世界的に知名度が上昇した時には、すでにリーは亡くなっていたのだが、大ヒットしたことでその他の作品も世界中に配給されたのである。
ブルース・リーの死亡は1973年7月20日で、32歳の若さだった。

事実上の第1作なので筋書きは荒っぽい。
そもそも最初の企画ではシュウ役のジェームズ・ティエンが主演の予定だったのに、あまりにもブルース・リーのキャラクターが際立っていた為に彼を主演にして脚本が書き替えられたという作品だということが影響していると思われる。
したがってジェームズ・ティエンのシュウは途中で殺されてしまっている。
チェンがやってきた製氷工場は麻薬の密売が本業なのだが、その裏家業が判明するプロセスはいかにもB級作品といった感じである。
麻薬が簡単に出てきてしまい、目撃した人間が殺されてしまい行方不明扱いとなってしまう。
どうやらその前にも行方不明者がいたようなのだが、その男とのつながりは描かれていないので、先に行方不明になった男のことに唐突感がある。
行方不明者が出たことで仲間たちが工場長や社長のもとを訪れるが、いきなり社長を犯人扱いしだすのも飛び過ぎていて違和感が大いにある。
映画を見ている我々にとって社長たちが犯人側であることは明白なのだが、彼らが何の証拠も根拠もなく犯人と決めつけているのはよくわからない演出である。

安っぽさが否めないのは省略しているシーンが多いことにもよる。
クオンたちが全員殺されているのだが、殺されるシーンはないし、予期せぬ出来事を目撃してチェンが驚くという演出も、チェンの驚きがこちらに伝わってこない。
誘拐されたチャオ・メイが何事もなかったように監禁されていて、メイドによって助け出されるのも安易と言えば安易な演出である。
最後に対決するマイはカンフーの相当な使い手であることが、ドラ息子への指導場面だけで示されているのだが、その場面はものすごい腕の持ち主には見えなかった。
チェンが誘拐されたチャオ・メイを残して母親のもとへ帰ろうかと悩むなんてヒーロー物としてはあり得ないだろう。
結構重要な役だった工場長は結局どうなったのか不明のままである。
ツッコミどころ満載なのだが、それがB級映画の醍醐味ともいえる。
ブルース・リーはまだ発展途上という感じがするが、そのアクションと表情はすでに片鱗を見せている。

友よ、静かに瞑れ

2024-01-15 06:45:38 | 映画
「友よ、静かに瞑れ」 1985年 日本


監督 崔洋一
出演 藤竜也 原田芳雄 倍賞美津子 林隆三
   佐藤慶 高柳良一 六浦誠 成田三樹夫

ストーリー
沖縄の小さな港町・多満里、一見うらぶれた感じのする男・新藤(藤竜也)がホテル“フリーイン”に車を止めた。
彼は旧友・坂口(林隆三)がこの町の再開発を企てている下山建設の社長(佐藤慶)に刃物で襲いかかって逮捕されたという新聞記事を読んで、はるばるやって来たのだった。
フリーインはその坂口が経営するホテルで、彼は下山建設の大規模な買収に応じず、執拗ないやがらせや脅迫にも屈していなかった。
その坂口を逮捕したのは下山建設と癒着している徳田刑事(室田日出男)だ。
フリーインは、フロント係・小宮(高柳良一)が坂口の留守をあずかり、それに町のクラブ“KENDO”を経営する坂口の愛人・志摩(倍賞美津子)とそこで働く時枝(宮下順子)、静子(中村れい子)、留美(伊藤麻耶)、冴子(JILL)が住みついていた。
新藤は事件の真相を探るべく単独で動きだし、やがて事件の真相が分かった。
夜。寝ていた新藤は突然、下山建設のチンピラ・石井(中西良太)に拳銃をつきつけられ、外に連れ出された。
その危機を救ったのは意外にも下山建設の開発部長・高畠(原田芳雄)だった。
彼は男として、坂口や新藤の心情が理解できるが、立場上、二人と対立しなければならないことに、じくじたる思いを抱いていた。
新藤が必死になって坂口を釈放させようとするのには理由があった。
船医の新藤は坂口の命が肺ガンであと数ヵ月だと知っていたのだ。
新藤は徳田と下山建設との癒着の証拠を徳田につきつけて坂口を釈放しようとする。
深夜、新藤は下山建設の事務所に行き、高畠との凄絶な死闘の末、証拠書類を手にした。
坂口が釈放され、新藤、息子の竜太(六浦誠)が坂口を迎え、その様子を下山たちが見守っていた・・・。


寸評
崔洋一が手がけたハードボイルド映画であるが、題名が示す通り静かな作品で少々退屈する。
内容からすればテンポが遅すぎたように感じる。
その分、ホテル“フリーイン”やクラブ“KENDO”の雰囲気は上手く引き出せており、シュワブの町の描写が沖縄の雰囲気を十分に感じさせている。
下山建設はリゾート開発での儲けを企んでおり、地上げを推し進めている。
ただ一人、坂口だけは反対しており、立ち退きに判を押していないことで嫌がらせを受けている。
バブル期などではよく描かれたヤクザ組織と結託した企業による地上げを背景としている。
当初は反対していた住民も今は立ち退きに賛成していると語られるだけで、下山建設あるいはヤクザによる悪どい仕打ちは描かれていないので、下山に対する反感はあまり湧いてこない。
住民は実勢価格の倍で買ってくれて次の住む場所まで世話をしてくれていると下山建設を擁護している。
下山建設側に買収された者たちなのだろうが、坂口の為に開発が出来ないことを責めているから、描き方として善悪をはっきりさせているというものではない。
フリーインやKENDOも住民から嫌われて客が寄り付かなくなっている。
これでは住民は坂口を迷惑に思っていて、誰も彼を支持していないという状況に見える。
下山建設のリゾート開発を阻止する理由付けが弱いように思える。
映画は藤竜也と原田芳雄が殴り合うシーンまではムードだけを醸し出して進んでいるような印象である。

新藤は逮捕監禁されている旧友の坂口を助け出しに来ているが、坂口は一向に姿を現さない。
最後の最後になってやっと姿を現すが、最後まで一言も発しない。
まったくセリフなしの描き方はユニークで面白いと思った。
倍賞美津子によって坂口が下山を襲った理由が語られているが、それが伏線となってラストを迎える。
そして藤竜也も余命が3ヶ月ほどになっている坂口にやりたいことをやらしてあげたいと言っていたことが、倍賞美津子の発言に加えて二重の伏線となっている。
懐に入れた手からこぼれたのはレモンだ。
レモンは学生時代に新藤と坂口が半分ずつかじり合った果物で、竜太がきらいな食べ物だ。
坂口との友情と、竜太の成長を示す小道具として印象深い。
顔をそむける竜太に父親の死にざまを見せるのも、倍賞美津子の発言が伏線となっている。

共演者の中では倍賞美津子もいいがやはり原田芳雄が渋い。
藤竜也の新藤が「俺も坂口も、もう捨てるものはないと思っていた。ところが、あいつは何か背負っていた。ずり落ちそうなら、支えてやろろうかと思ったわけだ」と言う。
原田芳雄の高畠は「俺もあんたも坂口さんももう下り坂だからね。だから、何か背負ってないと転がり落ちて、すぐに爺さんになっちまうからよ」と返す。
若くはない僕にはジーンとくるものがある会話だ。
二人が殴り合う場面はなかなかの迫力であったが、最後のシーンを撮りたいためにムード作りをしてきたことが静かな映画と感じさせたのだと思う。

どですかでん

2024-01-14 07:53:33 | 映画
「どですかでん」 1970年 日本


監督 黒澤明
出演 頭師佳孝 菅井きん 三波伸介 橘侑子 伴淳三郎
   丹下キヨ子 下川辰平 田中邦衛 吉村実子
   井川比佐志 沖山秀子 松村達雄 芥川比呂志
   奈良岡朋子 三谷昇 根岸明美 荒木道子 塩沢とき
   三井弘次 ジェリー藤尾 谷村昌彦 渡辺篤
   藤原釜足 小島三児 園佳也子

ストーリー
電車馬鹿と呼ばれている六ちゃん(頭師佳孝)は、てんぷら屋をやっている母のおくにさん(菅井きん)と二人暮しで、六ちゃんの部屋には、自分で書いた電車の絵がいたるところに貼りつけてあった。
彼は毎日「どですかでん、どですかでん」と架空の電車を運転して街を一周する。
六ちゃんを始めとする、この街の住人たちは一風変った人たちばかりだった。
日雇作業員の増田夫婦(井川比佐志、沖山秀子)と河口夫婦(田中邦衛、吉村実子)がいる。
二人の夫はいつも連れ立って仕事に出、酔っぱらっては帰ってきて、二人の妻も仲がよかった。
ある日酔って帰ってきた二人はそれぞれの家を取り違えて住みつき、やがて、もとの家に帰っていった。
島悠吉(伴淳三郎)はユニークな人物だ。
彼の片足はもう一方の足より短かく、その上猛烈な顔面神経痙攣症の持病があった。
彼のワイフ(丹下キヨ子)はドラムカンのような図太い神経と身体の持ち主で、島さんのところにお客が来ても、接待はおろか、逆に皮肉をいうような女だった。
かつ子(山崎知子)という不幸な娘がいて、彼女は昼ひなかから酒をくらっている伯父の京太(松村達雄)のために一日中つらい内職をしなければならなかった。
伯母の入院中、彼女は伯父の欲望の対象となり、妊娠してしまう。
そして彼女は突然何の関係もない酒屋の小僧、岡部少年(亀谷雅彦)を出刃包丁で刺してしまう。
その他にも、この街には廃車になったシトロエンのボディに住みつく乞食の親子(三谷昇、川瀬裕之)や、平さん(芥川比呂志)という哀しい過去を背負った中年の男、異常に浮気な女を女房に持つヘアー・ブラシ職人の沢上良太郎(三波伸介)親子らが住んでいた。


寸評
「赤ひげ」以来、5年ぶりの黒澤明監督作品である事に加えて、黒澤初のカラー作品である事で注目される作品で、公開時はこの作品を評価する方も大勢いたが、僕はこの作品を評価しない。
随分と前の話だが、僕はこの作品を試写会で見ていて、その時は宣伝文句によって大いに期待した作品だったのだが、試写会が終わると黒澤もすっかりさび付いてしまったなとの印象を持ったという記憶がある。
製作した四騎の会は、1969年(昭和45年)に黒澤、木下惠介、市川崑、小林正樹の4人の監督によって、邦画低迷の時代に4人の力を合わせてこれを打開しようとの意図で結成された。
しかし本作の興行成績は明らかな失敗だったし、四騎の会が自然消滅してしまった原因の一つにこの作品の配給収入が伸びなかったことにもあったと思う。
観客は正直だ。一言でいえば、面白くないのだ。

それでもカラー作品を意識した美術であるとか、描きたかったことだけは感じ取れる。
色使いは原色を多用したカラフルなものである。
増田夫婦と河口夫婦は夫婦そろって大の仲良しである。
増田夫婦は黄色を基調とし、河口夫婦は赤を基調としていて、それぞれ衣服や洗面器、枕、家の内装などもその基調色で統一されている。
住人の一人である松村達雄の家では、義理の姪であるかつ子が造花作りの内職をしているのだが、その造花の色は赤、黄、青と画面の中において非常に強烈な印象を植え付ける。
黒澤の初カラー作品と言うこともあって、そんなことばっかりに目が行ってしまう。

住人たちが繰り広げることは、どこか滑稽でありながらも一方ではどこか悲しい物語でもある。
乞食親子は夢を語り合うが、子供は食べないと言っていた生ものが原因で死んでしまう。
かつ子は叔父の子供を宿し、打ち明けることが出来ず死のうとするが、思いを寄せる青年の記憶にとどめようと包丁で刺してしまう。
平さんは妻のたった一度の浮気を許すことが出来ず無口になってしまった。
妻が謝りに来て誠意を示してくれても口を開くことはなく生ける屍の様である。
悲しい中で屈託のないのが益夫と初太郎で、まるで夫婦交換の様なことをやらかすが、何事もなかったかのように元のさやに納まっていく。
島さんのおかみさんは、島さんの友人が来ても愛想もしない自分勝手な悪妻だが、ともに苦労した相手なので島さんはそんな悪妻をかばうが、どこかの家庭にもありそうな光景だ。
職人の良太郎は誰の子か分からない子供を5人も育て、今また奥さんのお腹には誰の子か分からない子がいるのだが、お互いが親子だと信じていれば親子なのだと意に介さない。
描かれていることは誇張されてはいるが、現実社会でもありそうなことばかりである。
電車の中では見ず知らずの人々が乗り合わせ、それぞれは色んな悩みや苦しみを抱えているだろうが、そんなことを知らずに人々は同じ電車に乗って今日を生きている。
そんなことを思わせ、頭のおかしい六ちゃんが電車の絵が一杯の家に帰るところで映画は終わるが、とても未来を感じ取れる映画ではなかった。」

特攻大作戦

2024-01-13 08:33:10 | 映画
「特攻大作戦」 1967年 アメリカ


監督 ロバート・アルドリッチ
出演 リー・マーヴィン アーネスト・ボーグナイン
   ジム・ブラウン チャールズ・ブロンソン
   ジョン・カサヴェテス リチャード・ジャッケル
   クリント・ウォーカー テリー・サヴァラス
   ジョージ・ケネディ ラルフ・ミーカー
   ロバート・ライアン ドナルド・サザーランド

ストーリー
1944年3月、大陸侵攻を間近に控えたある日、アメリカ軍のジョン・ライスマン少佐(リー・マーヴィン)は「特赦作戦」と呼ばれる奇妙な作戦命令を受けた。
特赦作戦というのは、死刑あるいは長期の刑を宣告され服役中の元兵隊12人を選び出し、徹底的に鍛え、ヨーロッパ大陸侵攻直前にノルマンディーの敵前線背後に送りこんで攻撃するというものである。
ライスマンは選ばれた12人の極悪人と対面したが、どれも一筋縄ではいきそうもなく困難が予想された。
ライスマンのキャンプでは、彼やボウレン軍曹(リチャード・ジャッケル)の容赦ない訓練が実を結び、12人の男たちは1団となって考えて行動するようになっていた。
訓練を通して次第に連帯感を増す囚人たちに満足したライスマンは、訓練終了日に労いとして訓練地内に娼婦たちを呼ぶが、ライスマンを毛嫌いするブリード大佐(ロバート・ライアン)は、翌朝に手勢を率いて訓練地を制圧したのだが、外出先から戻ってきたライスマンに不意を突かれて武装解除させられ追い出されてしまった。
軍首脳部の間には、この「特赦作戦」に対する強い不信と反対があったが、ワーデン将軍(アーネスト・ボーグナイン)は、反対意見をおさえ、その作戦を実行に移した。
12人が攻撃する特定目標は、広大な林に囲まれた豪壮なドイツ将校の社交場となっている館であった。
その館には週末になるとドイツ軍上級将校たちが夫人や愛人をともなって集まっていたから、彼らを壊滅させれば指導者を失ったノルマンディーの壁は容易に破れるのだった。
闇にまぎれてボウレン以下14人は、パラシュートで目ざす館へ降り立ったが、ヘミネス(トリニ・ロペス)が樹木に引っかかって事故死してしまった。
ドイツ軍将校に扮したライスマンと隊員ウラディスロー(チャールズ・ブロンソン)は邸内から部隊を手引きするが、訓練中から「精神破綻者」と指摘されていた隊員マゴット(テリー・サヴァラス)が、ドイツ軍将校が同伴した女性を殺したことから作戦が狂い始める。
マゴットは味方によって射殺されたが、ドイツ軍将校たちは地下の倉庫に逃げ込んでしまった。


寸評
男性映画と言うジャンルがあるとすれば、正にこの映画は男性映画である。
女性は登場しないと言ってもいいぐらいで、訓練最終日に呼ばれた娼婦たちの一群と、ドイツ将校の社交場でウロウロしている婦人たちだけで、これといった役柄の女性は登場していないのだ。
あえて言えばマゴットによって殺されるドイツ将校が同伴した女性ぐらいだ。
作戦の為に選ばれたのは軍刑務所に服役している12人の極悪人の汚い野郎たちなのだが、12人もいるのでそのキャラクターの描き方は散漫で人物描写がなされているとは言い難い。
そもそもこの12人がなぜ選抜されたのかが分からない。
服役者が12人しか居なかったのなら納得できるのだが、そうでもなさそうだ。
よくあるパターンとして、彼らがそれぞれ特殊技能を持っていて、それが作戦時に発揮されるというものがあるが、彼らが特殊技能を持っている風でもない。
兎に角、死刑を宣告されている者や、20年から30年の服役を宣告されている者たちの集まりである。
ライスマン少佐が一人一人と面談していき、作戦への参加を促す場面は面白いと思うが、一人や二人は失格となって見放される者がいても良かったように思う。
見放された者は当然処刑されるわけで、その方が彼らの必死さが伝わったと思う。

訓練場面は予想されたもので特に目新しい描き方ではないが、作戦実行時ではなくこの時点でライスマン少佐とブリード大佐の確執が描かれることが見どころの一つとなっている。
手勢を率いて訓練地を制圧したかに見えるブリード大佐の敗北に始まり、演習での対決によるライスマン隊の活躍が楽しませてくれる。
ロバート・ライアンのブリード大佐はまったくのバカ者に見えて、ドイツ将校以上に嫌われ役となっている。
もちろん最大の見せ場はドイツ軍上級将校たちが集う館への襲撃場面である。
直前のパラシュート降下による潜入場面はあっさりと描かれて、見せ場に突入していく。
予期せぬ突発的なことが起きてハラハラさせるのはこの手の作品の常套手段とは言え、ロバート・アルドリッチの演出は手慣れたものである。
ピンクリーの       ドナルド・サザーランドが面白い存在で、将軍に成りすましたとぼけた演技が伏線だったと思う。
尻軽女を嫌うマゴットの暴走によって、一気に攻防戦が始まる。
その中で守備隊によって仲間が次々やられていくのだが、個々の人のキャラクターが鮮明でなかったので悲壮感は乏しいものとなってしまっている。
ジョン・カサヴェテスのフランコはキャラの割には、その死はあっけない。
女性もろとも全員を爆死させてしまうが、かろうじて職員の一般人だけは逃しているのは罪滅ぼしか。
結局生き残ったのはライスマン、ボウレン軍曹、ウラディスローの3人だけで、死んだ11人の囚人たちは名誉回復されるのだが、そこには組織のご都合主義が見て取れるが申し訳程度である。
主人公のリー・マーヴィンを初め、アーネスト・ボーグナイン、チャールズ・ブロンソン、ジョン・カサヴェテス、テリー・サヴァラス、ドナルド・サザーランド、ジョージ・ケネディなど、むさくるしい男たちを揃えたキャスティングが一番の魅力になっていた。

時をかける少女 Anime

2024-01-12 08:42:13 | 映画
「時をかける少女 Anime」 2006年 日本


監督 細田守
声の出演 仲里依紗 石田卓也 板倉光隆 原沙知絵
     谷村美月 垣内彩未 関戸優希

ストーリー
高校2年生の紺野真琴(声:仲里依紗)は、故障した自転車で遭遇した踏切事故をきっかけに、時間を跳躍する能力を得る。
叔母の芳山和子(声:原沙知絵)にその能力のことを相談すると、それは『タイムリープ』といい、年頃の女の子にはよくあることだという。
半信半疑の真琴だが、その力の使い方を覚えると、それを日常の些細な不満や欲望の解消に費やす。
世界は私のもの! バラ色の日々と思われたが、クラスメイトの男子生徒、間宮千昭(声:石田卓也)や津田功介(声:板倉光隆)との関係に変化が。
千昭から思わぬ告白を受けた真琴は狼狽のあまり、その告白をタイムリープで無かったことにしてしまう。
やりなおされた「過去」。
告白が無かったことになった「現在」。
ところがその千昭に、同級生の友梨(声:垣内彩未)が告白。
まんざらでもなさそうな千昭。
さっきまで真琴に告白していたのに!
面白くない真琴。
その上、功介にあこがれる下級生、果穂(声:谷村美月)の相談まで受けてしまう。
いつまでも3人の友達関係が続けばいいと考えていた真琴の望みは、タイムリープでかえってややこしく、厄介な状況に。
真琴は果穂の恋を成就させるために、タイムリープで東奔西走するのだが……。


寸評
「時をかける少女」と言えば大林宣彦監督、原田知世主演の映画を思い出す。
僕は筒井康隆の原作を知らないので、どちらがより原作に近いのかは分からない。
そんなことを思うのも両作品は全く違った内容になっているからなのだが、アニメ作品をあまり見ない僕はやはり実写版の方が印象に残る。
とは言え、この作品は実写では表現しにくいファンタジーの世界をアニメならではの描き方で違ったテーマを感じさせている。
それは黒板に書かれた「Time waits for no one」の文字だ。
直訳すれば「時は誰も待ってくれない」となるが、「歳月人を待たず」ということだろう。
人に与えられた時間には限りがある、だから時間を大切の使えと言うことなのだろうし、特に青春時代の時間は無駄に使いしてはいけないと言うことだろう。
説教じみたことを想像させながら、反目的に「( ゚Д゚) ハァ?」という顔文字も添えられてはいるのだが、この英文を書いたのはたぶん千昭だったと思う。

時を戻したり進めたりするのはアニメの世界だけではない。
我々は思い出という形で過去の世界に行き、空想という手段で未来に行ったりしている。
青春時代を振り返れば、誰でもあの時こうしておけばという後悔は一つや二つを有しているのではないか。
真琴と千昭のように青春時代の恋に関しては大いにありそうだ。
時間が戻るならもっとうまい具合に想いを伝えられただろうにと懐かしむ。
僕などは想いを寄せた女性と一緒したわずかな時間を何度も思い出し、実現できなかったことを何度も想像した。
それも遠い昔の事となってしまった。
真琴は才色兼備の女の子ではない。
最初で「そんなに頭良くないけど、バカってほどじゃない」とか「後から思い出してやんなっちゃう失敗も、そんなにしない」などと言って自身をそこそこに評価しているが、実際は数学のテストを全然解けないし、調理実習で火事を起こしそうになったりと失敗ばかりしているドジな女子高生だ。
そして「今のは例外」とそれらの失敗について反省をしない、よく言えば超ポジティブな女の子である。
友梨という女友達がいるが、ほとんど千昭と功介の男友達と一緒にいる。
しかも部活を一緒にやっているというのではなく、いつも三人で野球をやっている。
投げて、打って、守ってという野球だが、1人でも欠けると野球ではなくなりキャッチボールしかできない。
その関係性が崩れるところから物語は大きく動く。
千昭がいなくなっても、新たに誘った後輩たちが仲間に加わって野球を続けているが、これは真琴が三人だけの世界から抜け出し、新たな未来に向かって歩き始めたことを象徴している。
未来で待っているのは千昭ではない、待っているのは真琴がこれから経験していく世界だ。
伯母の和子は「あなたは約束の時間に遅れた人を待っているのではなく、走って迎えに行く人でしょ」と真琴に言っている。
それが青春だと思うのだが、やはり僕はアニメだと素直にその世界に入っていけない。
各国の映画祭などで多くの賞を受賞するなど高い評価を受けたと言うことだが・・・。

時をかける少女

2024-01-11 07:01:18 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2019/7/11は「地獄門」で、以下「シコふんじゃった。」「史上最大の作戦」「七人の侍」「自転車泥棒」「死の棘」「シベールの日曜日」「下妻物語」「市民ケーン」「ジャージー・ボーイズ」と続きました。

「時をかける少女」 1983年 日本


監督 大林宣彦
出演 原田知世 高柳良一 尾美としのり 上原謙
   内藤誠 津田ゆかり 岸部一徳 根岸季衣
   入江たか子 松任谷正隆 入江若葉

ストーリー
土曜日の放課後、掃除当番の芳山和子(原田知世)は実験室で不審な物音を聞きつけ、中に入ってみるが人の姿はなく、床に落ちたフラスコの中の液体が白い煙をたてていた。
フラスコに手をのばした和子は不思議な香りに包まれて気を失ってしまう。
和子は、保健室で気がつき自分を運んでくれたクラスメイトの堀川吾朗(尾美としのり)や深町一夫(高柳良一)らと様子を見に行くが、実験室は何事もなかったように整然としていた。
しかし、和子はあの不思議な香りだけは覚えていて、それはラベンダーの香りだった。
この事件があってから、和子は時間の感覚がデタラメになったような奇妙な感じに襲われるようになっていた。
ある夜、地震があり外に避難した和子は、吾朗の家の方で火の手があがっているのを見て駈けつける。
幸い火事はボヤ程度で済んでおり、パジャマ姿で様子を見に来ていた一夫と和子は一緒に帰った。
翌朝、寝坊をした和子は学校へ急いでいた。
途中で吾朗と一緒になり地震のことを話していると突然、古い御堂の屋根瓦がくずれ落ちてきた。
気がつくと和子は自分のベッドの中にいた。夢だったのだ。
その朝、学校で和子が吾朗に地震のことを話すと、地震などなかったと言う。
そして授業が始まり、和子は昨日と全く同じ内容なので愕然とした。
やはりその夜、地震が起こり火事騒ぎがあった。
和子は一夫に今まで起った不思議なことを打ち明けるが、一夫は一時的な超能力だと慰める。
しかし、納得のいかない和子は、一夫を探していて、彼の家の温室でラベンダーの香りをかぎ、気を失った。
気がつくと和子は、一夫が植物採集をしている海辺の崖にテレポートしていた。
そこで和子は不思議なことが起るきっかけとなった土曜日の実験室に戻りたいと言う。
一夫は反対したが和子のひたむきさにうたれ、二人は強く念じた。


寸評
1982年の「転校生」、1985年の「さびしんぼう」と並んで尾道三部作と呼ばれている作品群の第2作目であるが、三作品の中では一番出来が悪いと思う。
ファンタジー性を出すためにテクニカルに走りすぎていることもあるが、主演の原田知世と高柳良一の演技力不足が作品を壊している。
角川が原田知世を売り出すための彼女のデビュー作だが、棒読みのセリフ回しは如何ともしがたい。
アイドル映画の典型の様な作品で、テーマ曲と共に撮影シーンの中でそれを歌う原田知世の笑顔が紹介されて彼女のアイドル化が成し遂げられる。
三部作はすべてファンタジックな作品だが、最後に未来人まで登場してくる本作は少し子供じみている。
大学生になった和子は吾郎と付き合っていそうなのだが、そこに再び未来から深町がやってくる。
本格的な三角関係が始まりそうなのだが、どうして大学生になった和子はあんなにも暗いのだろうか?
なにかパッと明るくなるような青春映画と感じなかったなあ。

尾道を訪ねる機会があって、彼女が行き来するタイル小道にも行ってみた。
この映画が封切られた当初は、原田知世人気もあって結構な人でにぎわっていたようだが、僕が行った時にはブームも去って随分と淋しい小道だった。
小道と言うよりも路地と言ったほうが良い通路で、敷き詰められたタイルもどこか薄汚れていた。
同行の者は「なんだ、つまんない所だな」と言っていたが、僕は原田知世が駆け回っていたのだと思うだけで感慨深くなれた。
尾道はその街並みを映すだけでも絵になる雰囲気を持っている。
僕はこの街が好きで二度も訪れている。

岸部一徳の福島先生と根岸季衣の立花先生がコミカルなコンビを演じているが、どうもその描き方は中途半端だったな。
ネクタイの出来事のためだけに登場していたような気がする。
芸達者な二人なので、青春映画をサポートする役割をもっと演じさせることが出来たのではないかと思う。
上原謙、入江若葉 の老夫婦には深町一夫の姿は見えていなかったはずで、そのあたりの様子ももう少し上手く描くことが出来ていればと感じる。
帰宅途中の和子をお茶に誘うエピソードだけでは弱かったと思うし、その表現方法も少し物足りないものだった。
青春映画としてはもう一人の女子高生の描き方もお飾り的だった。
和子との恋のバトルがあるかと思っていたが、そのような出来事は一切なかった。
子供の頃のひな祭りで傷つけた指の怪我のエピソードももう少し膨らませてほしかった。
こうなってくると、演出よりも脚本に工夫がなかったのだと思わざるを得ない。
監督の大林宣彦が脚本にも名を連ねているのだから責任逃れは出来ない。

主題歌を松任谷由実が歌っていて、音楽を彼女の夫である松任谷正隆が手掛けているが、その松任谷正隆が故人として写真だけでわずかに登場しているのはご愛敬だ。

遠い夜明け

2024-01-10 07:06:31 | 映画
「遠い夜明け」 1987年 イギリス


監督 リチャード・アッテンボロー
出演 ケヴィン・クライン デンゼル・ワシントン
   ペネロープ・ウィルトン ジョゼッテ・シモン
   ケヴィン・マクナリー ティモシー・ウェスト
   ジャニタ・ウォーターマン ジョン・ハーグリーヴス
   イアン・リチャードソン ジョン・ソウ

ストーリー
1975年11月24日、南アフリカ共和国ケープ州クロスロード黒人居留地。
静寂を打ち破って次々と黒人たちを虫けらのように襲う武装警官の集団により大地は血で染まって行く。
この事実は無視され、平穏無事に公衆衛生が行なわれたという放送が数時間後にラジオから流された。
黒人運動家のスティーヴ・ビコを白人差別の扇動者だと批判していた「デイリー・ディスパッチ」新聞の編集長ドナルド・ウッズは黒人の女医ランペーレに案内されて、ビコを訪れた。
ビコは、ウィリアムズ・タウンで公権喪失の宣言を受け拘束下にあったが、何ら臆することもなく、許可地以外の黒人居留地にウッズを案内した。
ウッズは自分の新聞社に2人の黒人を雇った。
彼は、自分の信じる道を歩き続けるビコに心を揺り動かされた。
ビコは幾度となく逮捕され、警察の暴力を受けていたがひるむことなく自分の考えを主張し続け、日に日に支持者を増やしていった。
しかし、ある日、彼が作りかけていた村が覆面の男たちに襲われた。
この中に警察署長がいたことを知ったウッズは、クルーガー警視総監に訴えたが、全ては彼の命令で動いていたのだった。
やがてウッズにも監視の眼が向けられ始め、彼の新聞社で働き出していた2人の黒人が逮捕された。
その頃、独房に入れられていた黒人男性のマペトラが自殺するという事件が起こったが、調査の結果、看守が糸で吊ったマペトラの人形を囚人に見せていたという事実が判明。
このような不穏な動きによって、ケープタウンの黒人学生集会に参加するために旅立ったビコは、途中の検問で逮捕されてしまった。
狂気のような拷問の続くなか、1977年9月12日、彼は遂に帰らぬ人となってしまった。


寸評
南アフリカのアパルトヘイト政策は1994年4月に全人種が参加する選挙が行われ、5月にネルソン・マンデラが大統領に就任して完全に消滅するまで続いた。
映画は黒人解放活動家スティーヴ・ビコと南アフリカ共和国の有力紙デイリー・ディスパッチ紙の白人記者ドナルド・ウッズとの交友をベースに描かれている。
2部構成の作りで、前半はウッズとビコの友情を軸に人種差別問題の実態を描き、後半では国外脱出を図るウッズ一家の動向が描かれる。
オープニングは、黒人たちが住むスラム街が警察の強制的な追い出しを受けるところから始まる。
警官が容赦なく黒人たちを家畜のように追い立て、掘立小屋をブルドーザーでつぶしていく。
一切手加減しない残虐非道なシーンは本当に耐え難いものだ。
するとシーンは突然静かな寝室に転換してラジオのスイッチが入る。
ニュースとして流されている内容は「公衆衛生のために、警察当局は、警告を発した後に、不法居住区から労働許可証を持たない居住者を立ち退かせた。誰もが、抵抗せず自発的に従った」というものである。
ニュースである以上、これが多くの人々の知る「事実」なのだから、国家による情報捏造は恐ろしい。

ジャーナリストであるウッズは白人至上主義を否定しているが、同時にウッズを黒人至上主義者として見ていて、彼に対する批判記事を新聞に載せる。
それは取材によるものではなく彼の思い込みによるもので、いわば捏造記事だ。
ジャーナリズムに対する批判も見て取れる。
ウッズはプールつきの家に住み、住み込みの黒人家政婦がいるという、まったくの白人社会の人間だ。
その彼が、ビコと共に黒人居留区を訪れ、彼らがどのような生活をしているのかを見、会話を通して彼らがどんなことを考えているのかを知り、白人とか黒人とかではなく、ビコを人として魅了されていくプロセスが前半だ。
ビコの魅力的な人柄が描かれていくが、それは同時に我々がウッズの立場に立って黒人たちの考えを知っていくという巧みな演出である。
ビコの主張に正当性があることを如実に表しているのが裁判のシーンだ。
対立を暴力と結びつける検察官に対して、「私たちは今こうして対立しているけれども、これは暴力でもなんでもないですよね」と応答する。
「自分たちをなぜ黒人と呼ぶのか、見たところ褐色だ」と言われれば、「あなたたちは白人と言うが、見たところピンクだ」と言って笑いを誘う。
ビコの理想が言論によって伝えられるクライマックスとなっているが、権力側は当然そんなビコを許さない。

後半では差別に異を唱え始めたウッズに対する警察組織の迫害が始まり、被害は彼の子供たちにも及んだことで妻の賛同を得て、実態を伝える本の出版の為に家族が国外への脱出を図るプロセスが描かれる。
趣は前半と打って変わりサスペンスタッチで、僕はこの様変わりに少し戸惑った。
分かってはいるとは言え、展開にはハラハラするところがありエンタメ性を感じられたのだが・・・。
ウッズが回想するソウェト蜂起の描写に憤りを覚え、天安門事件を同時に思い浮かべた。
家族が全員で国外脱出するラストシーンは、まるで「サウンド・オブ・ミュージック」だった。

東京日和

2024-01-09 06:45:53 | 映画
「東京日和」 1997年 日本


監督 竹中直人
出演 竹中直人 中山美穂 松たか子 三浦友和 鈴木砂羽
   類家大地 浅野忠信 藤村志保 久我美子 村上冬樹
   田口トモロヲ 温水洋一 利重剛 三橋美奈子
   山口美也子 塚本晋也 周防正行 森田芳光 中島みゆき

ストーリー
亡き妻・ヨーコに捧げる写真集の出版の準備をしている写真家・島津巳喜男(竹中直人)は、在りし日のヨーコ(中山美穂)のことを想い出していた。
だが、甦ってくるのはふたりにとって最悪の日々だった頃のことばかりである。
まず想い出されるのは、ホームパーティの時にヨーコが客である水谷(松たか子)の名前を呼び間違えたことを気に病んで、勤め先には巳喜男が交通事故で入院したと嘘をつき、3日間家を飛び出してしまったことだった。
巳喜男は心配してあちこちを探し歩いたが、彼の気持ちをよそに、ヨーコはふらりと家に戻ってくる。
どことなく当たり前の夫婦のように振る舞えないふたりは、何気ないことで気づまりな思いをすることも多く、巳喜男は、優しすぎるとヨーコに責められることさえあった。
ある時のヨーコは、同じマンションに住むカギっ子の少年テツオ(類家大地)に自分のことをおばあちゃんと呼ばせた上、彼に女の子の恰好をさせようとする。
また、実際は飛んでいない蚊が自分の周りを飛ぶように感じる飛蚊症を患ったりもした。
しかし、嫌なことばかりではない。
ジョギングの最中に偶然見つけたピアノ型の大きな石で、ともに雨に打たれながらピアノ演奏ごっこに興じたこともあれば、東京駅のステーションホテルで恋人同士のようなデートをしたこともあった。
だが一方で、会社の無断欠勤が続き社長の外岡(三浦友和)や同僚の宮本(鈴木砂羽)のひんしゅくを買ったり、カギっ子少年を遅くまで連れ出して騒動を起こしたりの奇行が増えたことも事実である。
結婚記念日に出かけた福岡の柳川では、新婚旅行と同じ旅館に泊まり、川下りを満喫したかと思えば、またも突然行方をくらませたりして、そのたびに巳喜男を心配させた。
旅行から帰った翌日、猫をもらう約束をしたヨーコは、待ち合わせに向かう途中で車に跳ねられ骨折してしまう。
だが、そんなヨーコが巻き起こした事件のひとつひとつが、今の巳喜男の仕事に大きな影響を与えていたのだ。


寸評
「アラーキー」の愛称で知られる荒木経惟(あらきのぶよし)夫妻をモデルとした作品だが、描かれているのは一風変わった愛情物語である。
妻のヨーコは精神的に不安定なところがあり奇行が目立つ。
そのヨーコはすでに亡くなっていることが冒頭で示されるので、映画のほとんどは夫である巳喜男の回想であり、ヨーコが生きていた頃の出来事である。
巳喜男が水谷の事を谷口と呼んだことを気にかけて客の前に出てこないヨーコを慰める姿や、カギっ子のテツオを自宅に入れてお婆ちゃんと呼ばせていることに戸惑う様子などを見ると、認知症の妻の介護に悪戦苦闘する夫の姿を描いたものなのかと思うとそうではない。
ヨーコは時として奇行に走るが普段はきわめてまともで、旅行会社では外国語を駆使して事務をこなしている。
しかしウソをついて会社を休むなどするから同僚とは上手くいっていない。
巳喜男が行方知れずのヨーコを探して会社を訪ねて欠勤の事を知るが、巳喜男は自分が尋ねてきたことは内緒にしてほしいと依頼する。
しかしヨーコはそのことを何気ない会話から察してしまう。
ヨーコはそのような勘の鋭いところもある女性なのだ。
巳喜男が「僕たちは仲の良い夫婦と見られているし、実際にそうかもしれない。でもなぜウソをついてしまうのだろう」と発するシーンがある。
彼ら夫婦だけでなく、多くの夫婦はそうなのだと思う。
一見仲良く見える夫婦でも秘めたる思いはあるだろうし、ウソをついておいた方が円満に事が進むことだってあるだろうし、お互いに明かせない秘密だって有しているかもしれない。
巳喜男も腹立ちまぎれに茶碗を投げ捨てる事があったりするが、その感情も夫婦間においては特異なことでもないように思われる。
諸々を含めても、巳喜男はヨーコに優しい。
そんな巳喜男とヨーコの姿を優しく追い続けるが、そうするあまりにドラマは起きない。
テツオ少年が居なくなり大騒ぎになっていたのだから、発見後は彼ら夫婦が攻めらっるようなことがあってもよさそうなものだが、それに類する場面は全編を通じてまったく用意されていない。
したがって、ドラマ性が極めて少ない映画となっている。
それを補っているのが、何気ない東京の路地裏の風景や、旅した柳川の風景である。
東京にもこのような情緒にあふれた場所が残っていたのかと思わせ、これらの風景は「アラーキー」の世界だったのかもしれない。
ヨーコはすでに亡くなっていることが知らされているので、死因はこれだったのかと思わせておいて一ひねりある。
そしてヨーコが水谷のことを谷口と呼び間違えた理由も明らかになる。
水谷は「わたしはずっと谷口でもよかったのに・・・」と直前でつぶやいている。
巳喜男はまた一つ、亡きヨーコの真実を知ったことになる。
もらったネコは随分と大きくなっているから、月日は経っているのだろう。
人は思い出の中にだけ生きていくことになるのだろうが、そのようにして月日は過ぎていくのだろう。
淋しいことではある。


東京タワー オカンとボクと、時々、オトン

2024-01-08 07:05:24 | 映画
「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」 2007年 日本


監督 松岡錠司
出演 オダギリジョー 樹木希林 内田也哉子 松たか子
   小林薫 冨浦智嗣 田中祥平 谷端奏人 渡辺美佐子
   佐々木すみ江 原知佐子 結城美栄子 猫背椿
   伊藤歩 勝地涼 平山広行 荒川良々 寺島進

ストーリー
飲んだくれの自由人である“オトン”の家を出て、“オカン”と幼い“ボク”は筑豊の実家で暮し始める。
炭坑町でオカンとその姉妹たちと暮す日々が続くが、高校進学を間近にひかえたボクはオカンのもとを離れて大分の美術高校に行くことを決めた。
オカンが小料理屋で働きつつ送ってくれる仕送りでボクは、自堕落な高校生活を送る。
やがて憧れていた東京に出て美大生になるに至っても、ボクは自堕落な生活を送り続けていた。
故郷のオカンの励ましと学費の援助によってなんとか大学を卒業したものの、就職はせず、町金融で借金をかさねながら暮らす日々も次第に窮まっていった。
今の暮しぶりを知ったらオカンはどんなに落胆するだろうかと思い立ち、故郷との連絡を絶ち、心を入れ替えて生活を立て直す決心をするボク。
何でもかんでも仕事を引き受けてがむしゃらに働く内に、イラストレーター兼コラムニストとしていつの間にか食えるようになる。
借金も完済し、これでオカンに心配をかけることも無いと思っていた矢先、久々に連絡をとった故郷の叔母からオカンがガンの手術で入院していた事を知らされる。
ボクがオカンを心配させまいと連絡を絶っていた間、オカンも心配させまいと連絡を絶っていたのだ。
ボクはオカンを東京に呼び寄せ、再び二人で暮らすことにする。
上京したオカンを東京見物につれていき、今の仕事が一段落ついたら一緒に東京タワーの展望室に登ろうと約束するボク。
料理が上手で世話好きなオカンを慕い、家に入り浸るボクの友人たち。
訪ねてくる彼らにオカンは料理を振る舞い、オトンとののろけ話で彼らを笑わせていたのだが…。


寸評
テレビの単発ドラマに連続ドラマ、そして今回の映画版と立て続けにリリー・フランキー原作の「東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~」を見せられると、流石に食傷気味になってくる。
オマケにこの映画版が内容的に一番希薄だったので、なおさら乗れなかった。

見終わった素直な感想は「いったい何が描きたかったのかなあ」だった。
母親の息子への盲愛でもないし、息子の母親への感謝の記憶でもない。
もちろん、亡き母のすごい人生を描いているわけでもない。
いや、描いているのだけれども、それぞれが中途半端で描いていないように思えてしまう。
これだと樹木希林、オダギリジョーのキャスティングがどうこう言う以前の問題になってくる。
思いっきり泣こうと思ってハンカチを用意して臨んだのだが、ついにそれを手にする事はなかった。

この作品は第31回日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞したのだが、これを最優秀作品にしてしまうので僕は日本アカデミー賞の存在そのものを評価していない。
日本アカデミー賞主催の日本テレビがこの作品に出資していたことが影響していたのかもしれない。
主演女優賞も受賞していて、受賞者の樹木希林が受賞インタビューで「これは組織票だ、この結果はおかしい」と言ったのはさすが!

キャスティングで言えば、松たか子のミズエの存在がよく解らなかった。
ボクの別れた元カノだったことはわかるのだが、しかも母親はまだ別れたことを知らないでいるらしいこともわかるのだが、その設定がはたして何なのかと言いたくなるような、実にあっさりした描き方だった。
最後の手紙には一体なんて書いてあったのだろう?
連続ドラマの香椎由宇演じる佐々木まなみの描き方の方が存在感があったし、存在意義もあった。

渡辺美佐子のオカンのオカンがバスを見送るシーンと、オカンがボクを見送るシーンは、結局のところ親は見ているだけしか出来ないのだと言っているようで、この二つの対比シーンが一番印象に残った。
今時珍しいとも言える親子の愛情物語なので、母一人子一人で育った僕としてはもう少し同化出来ても良かったと思うし、繰り返しになるけれど、もう少し泣きたかったなあ~。
「泣ける・泣けない」が映画の良し悪しの基準ではないが、この映画は間違いなく泣かせることを意図していた。
オカンの闘病生活が始まってオカンが苦しむ姿を延々と見せる。
それまで一貫して流れていたトーンと違う演出は、オカンの死をより際立たせて涙を誘うための道具にしているのだが、しかしその押しつけは結局作品を不発弾にしてしまっている。

救いは、セリフのない病院の借家の老婆として千石規子、ラジオ局のディレクターとして仲村トオル、小泉今日子は不動産屋の事務員、宮崎あおいはアイドルDJ、柄本明は診療所の医者、また郵便配達として田口トモロヲ、岩松了が催促する編集者の声として登場するなど、チョイ役で出てくる人が多士済々だったことかな・・・・。

釣りバカ日誌3

2024-01-07 07:20:59 | 映画
「釣りバカ日誌3」 1990年 日本


監督 栗山富夫
出演 西田敏行 三國連太郎 石田えり 谷啓 五月みどり
   戸川純 花沢徳衛 中本賢 TARAKO 加藤武
   前田武彦 三谷昇 笹野高史 丹阿弥谷津子

ストーリー
出世よりも釣りが大事という鈴木建設のグータラ社員・浜田伝助こと浜ちゃん(西田敏行)は愛妻・みち子(石田えり)との間に子供ができないことに悩んでいた。
その相談を受けた浜ちゃんの釣り仲間である社長・鈴木一之助ことスーさん(三國連太郎)は、浜ちゃんが真剣に悩んでいると思わず大笑い。
怒る浜ちゃんにスーさんは週末の釣りに誘う。
浜ちゃんは伊豆・星ヶ浦へヒラメを釣りに行こうと言う。
それを聞いてスーさんはビックリ、そこはスーさんがかつて兵隊として半年ほど駐在していた思い出深い土地。
そこで雪子(五月みどり)という旅館の女将と出会ったスーさんはさらにビックリ、雪子は兵隊時代の恋人・妙子の娘だったのだ。
雪子は毎年母の命日に星ヶ浦へお墓参りをしているが、そのお墓も近いうちにリゾート計画によって立ち退きを迫られているという。
そこで初めて妙子が既に死んでいることを知ったスーさんは、雪子に墓を建てるお金を贈る。
それによって浜ちゃんは、雪子がスーさんの隠し子ではないか!? と早とちりし大騒ぎ。
そんな中、スーさんが中米のパナマに休暇に出ている最中、伝助と雪子は星が浦の公民館でリゾート開発反対運動に参加するが、その開発を進めていたのは鈴木建設だった。
反対運動が盛り上がっているとの新聞報道で急きょ帰国したスーさん、幹部社員一同は新聞の載っていた写真を見て、反対運動に伝助が加わっていたことを知り、就業規則違反で懲罰委員会に呼び出す。
とりあえず開発計画の方はスーさんの取り計らいで中止になるが、社員にもかかわらず運動に参加した浜ちゃんは就業規則違反として二週間の出社停止。
しかし浜ちゃんはその二週間をスーさんと共に釣りを楽しむのだった。


寸評
三國連太郎と西田敏行のコンビで人気を博した「釣りバカ日誌シリーズ」であるが、僕はこの第3作が一番良かったように思う。
このシリーズに於いては西田敏行のドタバタ演技より、三國連太郎のコミカルな演技が何と言っても面白い。
三國連太郎のキャラクター及び数多く演じてきた役柄から考えて特異なシリーズであった。
内容は毎回他愛のないものではあるが、世のサラリーマンからすればこんなにも趣味の世界を楽しく生きられたらいいなと言うあこがれがある。
おまけに出世にまったく興味がない浜ちゃんを支えるみち子という理解ある奥さんがいることも羨ましい。
僕の釣り経験と言えば、子供の頃に家の前を流れる寝屋川でもっぱらフナ釣りに興じたくらい。
海の釣りは辛うじて家人の実家のある淡路島でサビキで小アジを釣ったことぐらいでルアーを使った海釣りはまったくの未経験なのだが、見ていると海釣りの楽しさは伝わってくる。
近所に釣りが趣味で釣り船まで購入した人がいて獲物を頂いたことも有るのだが、やはり新鮮な魚は美味い。
山の旅館と海の旅館を二者択一で選ぶとすれば、僕は新鮮な魚介類の料理を求めて海の旅館を選ぶだろう。

今回はスーさんの忘れ形見と思われる女性の出現と、リゾート開発による自然破壊がテーマとなっている。
スーさんが出会ったのは戦争末期に恋をした人とウリ二つの雪子である。
雪子の亡くなった母は結婚した相手がひどい男で離婚し、雪子にはスーさんの本名である鈴木一之助の名前と共に、彼がどんなに素晴らしい人であったかを語っていたらしい。
スーさんにとっては初恋とも言える人の子供が生き写し状態で現れたなら、援助してやりたいと思う気持ちは少なからず湧くであろうし、経済力があれば援助を惜しまないだろうことは想像できる。
雪子がスーさんの子供ではないかと浜ちゃんが早とちりしたことから起きる騒動が一方のメインである。

もう一方は、スーさんにとっても想い出の地である伊豆・星ヶ浦のリゾート開発問題である。
山を開発することは海も滅ぼしてしまうと反対運動が起きる。
リゾート開発は地域に雇用を生み、地域の発展にも寄与するが、反面豊かな自然を破壊してしまう。
地域の発展と環境破壊は永遠のテーマかもしれない。
環境破壊をもっと前面に出しても良かったと思うが、コメディとして開発会社の浜ちゃんを反対運動に参加させることでお茶を濁している。
浜ちゃんは就業規則違反として2週間の出社禁止処分を受けるが、もとより会社を休むことに無頓着で釣り三昧にひたる浜ちゃんはやはり羨ましい。
浜ちゃんとコンビを組むのはスーさん以外にもう一人、浜ちゃんの奥さんであるみち子さんがいる。
第8作からみち子役は浅田美代子に代わったけれど、僕は初代の石田えりのみち子が好きだった。
画面が真っ暗になり、「合体!」という文字が出るのもシリーズの定番だったが、本作でやっとみち子が妊娠し、子供が生まれることが暗示される。
浜ちゃんとみち子さんの仲睦ましい夫婦関係、若い頃の忘れられない恋と、恋人の忘れ形見との関係、中々子供に恵まれなかった子供がやっと誕生することになる浜ちゃん夫婦。
全編を通じて描かれていたのは家族の物語だった。

つぐみ

2024-01-06 07:40:04 | 映画
「つぐみ」 1990年 日本


監督 市川準
出演 牧瀬里穂 中嶋朋子 白島靖代 真田広之
   安田伸 渡辺美佐子 あがた森魚 高橋節子
   高橋源一郎 下絛正巳 財津和夫

ストーリー
東京の大学に通うまりあ(中嶋朋子)のもとに、西伊豆松崎町に住む従妹つぐみ(牧瀬里穂)から、夏休みになったら遊びに来ないかと綴られた手紙が届いた。
まりあは高校まで母と共につぐみの両親が営む旅館で暮らしてきたため、つぐみとつぐみの姉・陽子(白島靖代)は、まりあにとって姉妹のような存在だった。
生まれつき身体の病弱なつぐみは、医師から短命を告げられたこともあり、周囲に大変可愛がられて育った。
結果つぐみは大変度胸の据わったわがまま娘に育っていた。
夏休みが始まり、まりあが西伊豆の松崎町に降り立つと、港には手を振るつぐみや陽子の姿があった。
天邪鬼のつぐみは相変わらずまりあに憎まれ口を叩くが、本心では久しぶりの再会を喜んでいた。
つぐみとまりあが、つぐみの愛犬ピンチを連れて浜辺へ散歩に出かけたある日のこと、二人は不良少年グループに取り囲まれてしまったのだが、その様子を見ていた青年が二人を助け出してくれた。
恭一(真田広之)というこの青年につぐみは淡い恋心を抱いた。
数日後、恭一が旅館に滞在している兄(財津和夫)を訪ねてやってきた。
思わぬ再会に心を躍らせるつぐみを見て、まりあはつぐみの恋心を知った。
その後、高熱を出したつぐみは寝込む日が続いた。
マリアは恭一の勤める美術館を訪ね、よかったら見舞いに来てやってもらえないかと伝えた。
しかし恭一がお見舞いに訪ねてくると、部屋にはつぐみの姿がなかった。
弱った姿を見せたくないつぐみは庭の片隅にじっと身を潜めていた。
恭一の美術館に回復したつぐみが遊びにやってきて、二人は自然と惹かれ合うようになりデートを重ねた。
しかし、つぐみと恭一の仲を羨む不良少年達は恭一に暴行を加え、さらに愛犬ピンチを連れ去ってしまった。
つぐみ達が探し回ってようやく見つけたピンチは浜辺で息絶えていた。


寸評
私は母親が離婚したので父親の顔を知らないで育った。
そんな私を叔父や叔母たちは可哀そうな子として可愛がってくれ甘やかされて育ってきた。
反面、「父親がいないのだからしっかりしなさい」とか、「母親が苦労して育てているのだから立派にならないとだめだ」などとプレッシャーもかけられた。
私を一人前に育てるために自分を犠牲にして働く母親に嫌悪感を抱いたのは、今から思えば私の甘えであり我儘な感情だった。
少しばかり皮肉れた性格であったように思う。

つぐみも病弱だったことで甘やかされて育ち、言葉使いも悪い我儘娘なのだが、それは特別視されてきたことへの反抗だったと思う。
加えて、自らの死への恐怖を覆い隠すための強がりでもあったのだろう。
牧瀬里穂はそんなに上手い女優だったとは思わないが、ここではつぐみを好演していて雰囲気を出している。
冒頭の東京の海から西伊豆の海へとつながっていく映像はこの映画の雰囲気を感じさせた。
ストーリーを盛り上げていくような描き方ではなく、断片的な出来事を紡いでいくような演出がとられているが、中嶋朋子をはじめとする語りに重なるように挿入される西伊豆の風景がより一層の雰囲気を醸し出している。
景色もそうだし、花火をするショットなどはノスタルジーを感じさせる。
僕の育った実家は大阪の衛星都市である寝屋川市の端っこに位置する川に面した片田舎だったが、それでも今は堤だったところに水害防止のためのコンクリート塀が施され、新興住宅も進出してすっかり景色は変わってしまっている。
魚釣りをした川岸も、キリギリスを捕った土手も草むらもない。
そんなこともあって僕は故郷に郷愁と言うものが湧いてこないのだが、この映画の舞台はまりあでなくても郷愁を感じるであろう土地柄である。
人との交わり、街の雰囲気、それらを包み込む風景がたまらない。
恭一が言うように、こんなところに住んでみたいと思わせる映像がこの作品を支えている一要因となっている。

恭一とまりあが寝込んでいるつぐみを訪ねてくる場面で、二人の姿が鏡に映り込むショットはしびれるものがあり、その後のつぐみの雲隠れを引き立てている。
つぐみが恭一に後ろから抱き付いている海辺のシーンもなかなかいい。
アップが多いのもこの映画の特徴だ。
普通なら、つぐみは嫌悪される人物だと思うが、姉の陽子と従姉妹のまりあの三人組は仲が良い。
三人娘の関係には心和まされるものがあり、深刻になりそうな内容を明るくしている。
最後に見せる心配顔だったまりあの笑顔と、つぐみの言葉がホッコリさせる。
つぐみは病弱だが強い生命力を持っている。
性格の悪いつぐみは、きっとそのままで生きていけるような気がする。
だとすれば、恭一との関係はその後どうなったのだろうか?
男の僕は牧瀬里穂、中嶋朋子、白島靖代の三人を見ているだけで微笑んでしまい、うっとりとする。

父 パードレ・パドローネ

2024-01-05 06:55:14 | 映画
「父 パードレ・パドローネ」 1977年 イタリア


監督 パオロ・タヴィアーニ / ヴィットリオ・タヴィアーニ
出演 オメロ・アントヌッティ
   サヴェリオ・マルコーニ
   ナンニ・モレッティ

ストーリー
サルデーニャ島で羊飼いをしているエフィジオ(オメロ・アントヌッティ)は、6歳の長男カビーノ(ファブリツィオ・フォルテ)に自分の仕事を手伝わせるため、小学校に連れ戻しに来る。
家に帰ったカビーノに、母親は、早く一人前の羊飼いになって家に戻って来るようにと励ます。
羊飼いになることは、山の番小屋に一人とり残され孤独になって、恐怖に耐えることなのだ。
こうして、カビーノの孤独で単調な山での生活が始まった。
誰よりも恐い父と、厳しい自然に育てられて20歳になったカビーノ(サヴェリオ・マルコーニ)は、ほとんど口もきかない青年になった。
ある日、通りがかりの二人の男の弾くアコーディオンの音色に魅せられ、カビーノは2匹の羊と交換に古いアコーディオンを手に入れ、それ以来、父に隠れてアコーディオンの練習を続けた。
ある日、羊飼いのセバスチャーノ(S・モルナール)が、敵対している家族に殺され、エフィジオは彼女からオリーヴ畑を買いとるが、冷気の襲来でオリーヴは全滅する。
全財産を売り払い、その利子で生活していくことになったため、娘は町に働きに出、二人の息子は他の家に雇われ、カビーノはドイツに移民しようとするが失敗、軍隊に入隊する。
彼は軍隊でチェーザレ(ナンニ・モレッティ)と友人になり、イタリア語を学び、サルデーニャ方言の研究に関心を深める。
高校卒業の資格を得たカビーノは、父の反対を押し切って大学を受験するが失敗。
それがもとでいがみ合ったカビーノと父ではあったが、カビーノが父の膝に頭を埋め、和解する。


寸評
タヴィアーニ兄弟を世に送り出した作品だが、ちょっと重い。
イタリアの島といえば明るい牧歌的な村をイメージするが、ここで描かれたサルデ^ニャ島の風景は荒れ果てていて、およそ地中海の雰囲気はなく、その中で、父親の絶対支配から自立しようとする青年の姿を描いているのだが、描写は父親の虐待かと思わせるような場面が続く。
父親の性格は冒頭で描かれ、否応なく僕たちはそれを認識させられる。
教室にやって来た父親エフィジオは6歳の息子を連れて帰ると言う。
拒む女教師に、「人は自分で育つ。俺の息子だ、返せ」と怒鳴りつけ、息子は恐怖のあまりお漏らしをしてしまう。
騒然となった教室に父親が戻ってきて「カビーノを笑うのか。今日のガヴィーノは明日のお前たちだ」とにらみつけ、教師も生徒も委縮してしまう。
明日はわが身に怯える子供達の独白があり、貧しい環境の彼らの暮らしが見えてくるのだが、教師はどうすることもできず、ただ外を眺めるほかない。
これから描かれることのすべてがこのシーンに集約されていた。

男にとって父親の存在とは人生のあらゆる点において、いつかは乗り越えないといけない壁みたいなものとはよく聞く話だが、父親の顔を知らない僕にはわからない感情である。
パードレとは父とか家長という意味らしい。
そしてパドローネとは自分が自由に処分できる資産を所有している人を意味していて、所有者、支配者、権力者というふうに解釈されているとのこと。
息子のカビーノにとって、父親は正にパードレでありパドローネである。
父親はちょっと頭が固いうえに暴力的ときているから、殴られ、蹴られる恐怖感を抱きながら父親の支配から抜け出そうとする息子の大変さが痛々しい。
その痛々しさの前にユーモアのあるシーンですら笑えない。
息子に山へ行く支度をさせながら、母親はパンツのところで手を止め「かわいそうな豆鉄砲。山で一人で…」。
羊飼いの少年達は女を知らなくて、もっぱら相手は羊か鶏で、はじめて商売女と経験した男は「しっぽがあっただけだ」という始末。
乳しぼりが下手なために、ヤギの独白と共にミルクの入ったバケツに糞をされる。
父親と出くわし、父が手を上に持っていっただけで息子は反射的に身をかがめる。
それを見て父親はにやりとして帽子を取り、頭をかく真似をする。
暴力に対する恐怖が、癖となってしまっている行動をとらせているのだ。
どれもが笑えない。

再び本土へ行く決心をした息子は、父のいる寝室のドアを開けベッドの下のカバンを引きずりだす。
息子は頭を父の足にくっつけ、父親はその頭を撫でるかのように手を上げるが、途中で握り拳に変わる。
だが、振り下ろせない。
あたかも神の前に許しを請うかのような息子とパドローネとしての父の悲劇が漂う。 静謐なシーンだ。
でもなあ…こんな辛い思いをしないといけないものなのかと暗い気持ちは晴れなかった。

チィファの手紙

2024-01-04 07:25:48 | 映画
「チィファの手紙」 2018年 中国


監督 岩井俊二
出演 ジョウ・シュン チン・ハオ ドゥー・ジアン
   チャン・ツィフォン ダン・アンシー
   タン・ジュオ ジーホン フー・ゴー

ストーリー
姉チィナンが死んだため、妹チィファは姉の同窓会に出かけてそのことを伝えようとするが、機会を失っているうちに姉に間違えられてしまう。
途中で帰ったチィファを、チィファが憧れていたイン・チャンが追いかけてきた。
チャンが姉に恋していたことを知るチィファは姉のふりを続け、連絡先を交換する。
チャンが送ったスマホのメッセージを見たチィファの夫ウェンタオは激昂し、スマホを破壊してしまう。
そのため、チィファはチャンと連絡がとれなくなってしまった。
チィファは住所を明かさず、チャンからもらった名刺を頼りに一方的に手紙を送る。
チィナンをモデルにした小説で小さな文学賞を受賞したチャンは、今も彼女のことが忘れられず小説家として低迷していた。
チャンはチィファがチィナンでないことを見抜いていた。
チィナンの死を知らないチャンは、チィファが姉のふりをしていることを不思議に思う。
チィファの娘サーランは冬休みの間、祖父母の家でチィナンの娘ムームーと過ごすことになる一方で、ムームーの弟チェンチェンは、チィファのもとで冬休みを送ることになった。

チャンはチィナンたちの実家に手紙を送ってみた。
しかし、その手紙をサーランとムームーが開封し、無邪気にチィナンの名で返事を書き始めた。
手紙のやりとりを通して、中学生時代の二人の恋が浮かび上がる。
転校生だったチャンは、学校一の美少女チィナンに一目惚れし、チャンの妹と親交のあったチィファを通してラブレターを届けてもらおうとしていた。
ところが、何通渡しても返事がない。


寸評
岩井俊二が1995年に撮った「Love Letter」とよく似たシチュエーションの映画である。
現在のチィファとイン・チャン、過去のチィファとイン・チャンに加えてチィナンとの間に起きた出来事を、岩井自身の手になる音楽にのせて紡いでいく。
思春期の淡い恋を描いた作品は歳を取っても懐かしさも手伝って微笑ましく見ることができる。
中学時代のイン・チャンは秘かにチィナンに思いを寄せているが中々言い出せない。
やっとの思いで妹のチィファに手紙を託すが、イン・チャンに気のあったチィファは手紙を渡していない。
この三角関係はよくわかる。
チィナンはイン・チャンが思いを込めて見つめていたことを気付いていたのも分かる。
大学で二人は再会していたことが語られているが、その時の二人はどんなだったのだろう。
イン・チャンは思いが強すぎて、上手く話せなかったし何もできなかったのかもしれない。
チィナンはそんなイン・チャンをじれったく思って、強引なジャン・チャオと一緒になってしまったのかもしれないなと、勝手な想像をめぐらした。
もしかしたら誰もが疑似体験しているような事ではないかとも思う。
まったく描かれていないイン・チャンとチィナンの学生時代はぎこちない恋の日々だったのだろうか。
この様な話には、つい自分を重ね合わせてしまう。

イン・チャンがチィナンを秘かに思っていたのと同様に、チィファも秘かにイン・チャンを思っていて、その思いを初めて伝える場面は分かっているとは言えほろ苦いものだ。
告白して拒絶されるのは辛いものだが、その結果を予想しながらの行動が切ない。
そして物語にはチィナン、チィファ姉妹の子供たちである、ムームー、チェンチェンとサーランが登場する。
彼らにも思春期の悩みや思いがある。
ムームー、チェンチェンには母親を亡くした悲しみがある。
サーランには好きな人が居て、その人の前に出るのが怖くなって不登校になりそうなのである。
ムームー、チェンチェンは母親の遺書ともいえる手紙によって勇気づけられ新たな生活に踏み出すだろう。
サーランは小説の内容を聞いて登校を決意し、もしかしたら告白するかもしれない。
若者たちに希望が湧く結末は、見ていて清々しい。
ホッとしてしまう結末である。

二人が結ばれなかった理由は何処にあったのだろう。
イン・チャンはチィナンをモデルに、題名もストレートにして小説を書いている。
チィナンはその小説と、イン・チャンから貰った手紙を後生大事に持っていた。
そこまで思いあっていたのなら結ばれても良かったのに、一体彼らの間に何があったのか。
ジャン・チャオの言葉からしか想像できないが、やはりイン・チャンは優柔不断だったのだろう。
ムームーが「あなたがお父さんだったらよかったのに」という言葉と、ジャン・チャオがイン・チャンに浴びせる言葉は対極にあるように思う。
イン・チャンが持つ彼の二面性をそれぞれが言っているのかもしれない。

小さな巨人

2024-01-03 10:37:25 | 映画
「小さな巨人」 1970年 アメリカ


監督 アーサー・ペン
出演 ダスティン・ホフマン フェイ・ダナウェイ
   マーティン・バルサム リチャード・マリガン
   ジェフ・コーリイ チーフ・ダン・ジョージ
   ケリー・ジーン・ピータース

ストーリー
ロサンゼルス在郷軍人病院の1室で、今年121 歳という老人ジャック・クラブ(ダスティン・ホフマン)は、歴史学者のインタビューに答えて、追憶の糸をたどりつつ、驚くべき事実を語り始めた。
1859年、南北戦争直前、当時10歳の少年だったジャックはシャイアン・インディアンに両親を殺され、姉のキャロライン(キャロル・アンドロスキー)と孤児になったところを、シャイアン族のひとり、“見える影”(ルーベン・モレノ)に見つけ出され、集落へ連行された。
老酋長“オールド・ロッジ・スキンズ”(チーフ・ダン・ジョージ)は2人を快く迎え入れたが、強姦されると思った男まさりのキャロラインは夜、馬を盗んで脱走し、ジャックは1人集落にとり残された。
14歳のとき、クロー・インディアンと戦い、仲間である“若い熊”(カル・ベリーニ)の危ないところを救った。
そこで老酋長は彼に“小さな巨人(リトル・ビッグ・マン)”という名誉ある名を与えた。
16歳を迎えたジャックは、初めて騎兵隊と戦闘を交え、兵士のひとりに殺されかけて、思わず「ジョージ・ワシントン!」と初代大統領の名を叫び、あっけにとられたその兵士に、ジャックは白い肌を見せた。
こうしてジャックは白人社会に戻ることとなり、ペンドレーク牧師に引きとられた。
夫人(フェイ・ダナウェイ)は若くて、聖女のように美しかったがその実、ジャックに淫らな妄想を抱いていた。
9年後、25歳になったジャックは、イカサマ商人メリウェザー(マーティン・バルサム)と組んで西部を行商していたところ、ある夜、2人は暴漢一味に襲われ、その首領が15年前に生き別れたままの姉キャロラインと知る。
キャロラインは、いまや名うての拳銃使いになっていた。
ジャックは彼女から早撃ちの極意を授かり、相当な腕前となっていった。
しかし、拳銃稼業の非情さを知り、ジャックは商人に戻ったのだが、彼の波乱の人生はまだまだ続いた…。


寸評
ダスティン・ホフマンの老人メイクに驚かされる。
映画はこの老人が回顧談を語るという形式で進むが、その人生は白人社会と先住民社会を行ったり来たりの連続で、これが実話ならホントかなと思ってしまう奇跡の連続だ。
その間に、自然を愛し、平和に暮らす先住民が、入り込んできた白人たちによって虐殺される姿が語られる。
発端は先住民のある部族によってジャック一家が襲われたことによるが、その後はシャイアン族長老に代表される先住民が善で、カスター将軍に代表される白人が悪という構図で描かれている。
白人社会は堕落した社会という印象だ。
信仰の大切さと誘惑の拒絶を訴えるベンドレーク牧師夫人が、実は愛欲におぼれていて、出かけた街の店主とも出来ているといった具合だし、ペテン師やガンマン、強盗団がはびこっている社会として描かれている。
先住民は勇気を示す戦いとして、相手を殴ることでそれを示すが、白人社会の権力の象徴である騎兵隊は殺戮することでその力を誇示する。
カスター将軍はジェノサイト、あるいはホロコーストと呼ばれる民族抹殺を願っている。

改めてこの作品を見ると、そのご都合主義的なストーリー展開に陳腐さを感じてしまうが、制作された当時はベトナム戦争の真っ最中であり、どうしてもベトナム戦争をオーバーラップせざるを得ない時代であった。
これは同年代に制作されたラルフ・ネルソンの「ソルジャー・ブルー」にも共通していて、正義の味方の騎兵隊が、実は暴虐の集団であった事を告発している。
置き換えると先住民はベトナムを、騎兵隊は米軍そのものを思わせる。
したがって、ベトナム戦争を知らない世代の人には、この映画は薄っぺらな作品に見えてしまうのではないか。
本格西部劇(?)をたくさん見てきた者にとっては、登場する第七騎兵隊のカスター将軍も、ワイルド・ビル・ヒコックも馴染み深い名前ではあるが、やはりこの作品は変わりつつあった西部劇の先鞭をつけた作品の一つである。

ここで描かれるカスター将軍は、先住民を抹殺して名声を得た後に大統領になる野望を持った男として描かれていて、同じ将軍から大統領になった18代大統領のグラントを批判させている。
ここでのカスター将軍は面白いキャラクターとして描かれていて、一方で紳士的、一方で狂人的な人物で、演じたリチャード・マリガンは中々いい味を出していた。
ベンドレーク夫人のフェイ・ダナウェイの再登場の仕方には驚いてしまう。
てっきりワシントンの政治家夫人となって再々登場するかと思ったが、さすがにそれはなかった。
ワイルド・ビル・ヒコックは無宿者に背後から撃たれて殺されたらしいが、ここでは少年に撃たれていて、最後の言葉が可笑しい。

アーサー・ペンは僕が洋画を見始めて初めて衝撃を受けた監督だ。
マーロン・ブランド、ジェーン・フォンダ、ロバート・レッドフォードが出演した「逃亡地帯」である。
やがて「俺たちに明日はない」を発表し、僕の中では彼の名前が不動のものとなった。
だけど僕の学生時代の終了と共に、この「小さな巨人」と共に、その名前がしぼむように消えて行ってしまったのは寂しかった。

タンポポ

2024-01-02 08:52:41 | 映画
「タンポポ」 1985年 日本


監督 伊丹十三
出演 山崎努 宮本信子 役所広司 渡辺謙 安岡力也
   桜金造 池内万平 加藤嘉 大滝秀治 黒田福美
   篠井世津子 洞口依子 津川雅彦 村井邦彦
   松本明子 榎木兵衛 粟津號 高橋長英 加藤賢崇
   橋爪功 井川比佐志 大友柳太朗 岡田茉莉子

ストーリー
雨の降る夜、タンクローリーの運転手、ゴローとガンは、ふらりとさびれたラーメン屋に入った。
店内には、ピスケンという図体の大きい男とその子分達がいてゴローと乱闘になる。
ケガをしたゴローは、店の女主人タンポポに介抱された。
彼女は夫亡き後、ターボーというひとり息子を抱えて店を切盛りしている。
ゴローとガンのラーメンの味が今一つの言葉に、タンポポは二人の弟子にしてくれと頼み込む。
タンポポは他の店のスープの味を盗んだりするが、なかなかうまくいかない。
ゴローはそんな彼女を、食通の乞食集団と一緒にいるセンセイという人物に会わせた。
それを近くのホテルの窓から、白服の男が情婦と共に見ている。
“来々軒”はゴローの提案で、“タンポポ”と名を替えることになった。
ある日、ゴロー、タンポポ、ガン、センセイの四人は、そば屋で餅を喉につまらせた老人を救けた。
老人は富豪で、彼らは御礼にとスッポン料理と老人の運転手、ショーヘイが作ったラーメンをごちそうになる。
ラーメンの味は抜群で、ショーヘイも“タンポポ”を町一番の店にする協力者となった。
ある日、ゴローはピスケンに声をかけられ、一対一で勝負した後、ピスケンも彼らの仲間に加わり、店の内装を担当することになった。
ゴローとタンポポは互いに魅かれあうものを感じていた。
一方、白服の男が何者かに撃たれる。
血だらけになって倒れた彼のもとに情婦が駆けつけるが、男は息をひきとった。
--やがて、タンポポの努力が実り、ゴロー達が彼女の作ったラーメンを「この味だ」という日が来た・・・。


寸評
食べ物、あるいは食べることを題材とした映画は少なからず撮られているのだが、その中でも「タンポポ」は間違いなく上位にランクされると思うし、思わずラーメンが食べたくなり、食欲を起こされる作品だ。
オープニングと同時に白服で決めたヤクザの幹部らしい男が映画館に入ってくる。
一番前の席に座るが、子分と思われる男たちがテーブルと共に、シャンパン、フランスパンなどを持ってきて彼の前に並べる。
観覧中のマナーを客の一人に恫喝し、そちらも映画館なのねと観客に話しかける。
映画のための映画であり、これは食べ物の映画なのだと冒頭で示していた思う。
次のシーンはタンポポの小学生の息子であるターボーがイジメにあっていて、それをゴローが助けるシーン。
人は誰かに助けてもらって生きているのだと言うテーマも象徴していたシーンだ。
本線として、未亡人のタンポポ(宮本信子)がやっている流行っていないラーメン店を、流れ者のゴロー(山崎努)らにる行列ができる美味い店にするという奮闘ぶりが描かれるのだが、食べ物に関するおびただしいと言ってもいいぐらいの話が挿入される。
その脇道が結構楽しめて、上手く本線のシーンと切り替えれていた。
白服の男(役所広司)と情婦(黒田福美)の絡みはエロティックである。
情婦はボウルに入った生きた車海老を腹に乗せられるなど、白服の男の食道楽に付き合っているのだが、卵黄を口移しでやり取りするシーンなどはヌードシーンを必要としない艶めかしさがある。
海辺で少女(洞口依子)から牡蠣をもらって食べるシーンもゾクッとさせられた。

ゴローはガン(渡辺謙)と長距離トラックの運転手をしているのだが、どうやらガンはラーメンに関する本を読んでいるようで、その中に登場する男(大友柳太朗)が具現化して登場し、ラーメンの正しい食べ方を講釈する。
本当かどうか分からないけれど、通はそうして食べるのかと思わせるし、チャーシューに向かって「あとでね」と語りかける場面などにはクスリと笑みをこぼしてしまう。
思わず微笑んでしまうシーンが多いし、皮肉を込めたユーモアも散りばめられている。
ゴローとタンポポがトレーニングしている時に会社員らしい一行とすれ違う。
カメラは二人からその一行に切り替わり、話が本線からわき道にそれていく。
高級レストランらしい店に入った専務(野口元夫)を初めとする一行はメニューがよくわからない。
一人が注文すると皆が知ったかぶりしてそれと同じものを注文する。
カバン持ちの下っ端(加藤賢崇)が専門的な注文をして、重役たちが真っ赤な顔になるのだが、そのメイクが実にオーバーで権威者を笑い飛ばしていた。
聞くのがはばかられるときに、周りの人を見て同じようにする経験は僕にもある。
スイートポテトの糸を容器に入れた水で切るのも分からなくて、僕は指先を洗うものかと思っていた。
マナーを知っていた人の行為を見て、同席していた人が次々とスイートポテトを食べ始めたことを思い出した。

マナー教室の話、母親から健康志向の食事を強要されている子供の話、詐欺師の話、家族の食事を作って死ぬ主婦の話、ホームレスの面々のグルメぶりなど、まるでオムニバス映画を見ているようだった。
伊丹十三は短期間で数多くの作品を撮った監督だが、その中でもいちばん彼らしい作品ではないかと思う。