方便という言葉がある。仏教の言葉で「大衆に教える方法」というような意味だ。たとえば法華経に「三車火宅の喩」というたとえ話が書かれている。多くの子供がいる家が火事になる。しかし子供たちは遊びに夢中で大人が何を言っても聞く耳を持たない。そこでその子たちの親は外に出てきたらすごく良いおもちゃをあげると言う。子供たちが喜んで出てくると外には豪華な牛車があって、子供たちはそれに乗って安全な場所に逃れることができた、という話だ。
最後の牛車というのはもちろん仏教の比喩だろうが、ようするに無学な大衆に難しい仏教思想を説いても関心を示すはずがない、多少の嘘になっても大衆の心をつかんでありがたい教えの道に導けば、彼らは結果としてこの世の苦しみから救われる、ということを言っているわけだ。
嘘も方便ということわざはここから生まれたわけだが、日本人にとってはとても親しみやすいロジックなのではないだろうか。まあたいていは仏教のような普遍的真理へ導くのではなく、自分にとって都合の良い言い訳にしかならないのだが。
みんなの党の渡辺喜美代表DHCの会長から8億円借りた問題でも、渡辺氏はこのカネを政治資金ではない、個人の借り入れだと主張している。形はそうなのかもしれないが、誰が考えてもこれが渡辺氏の政治活動のためのカネであることは間違いない。また政治活動のための支出でも政治資金からは使えないものもあるとして渡辺氏が例に挙げたのはなんと「熊手」であった。8億円もの大金の使い道がそんなものであるはずがないことは誰でもわかるだろう。
それでもあえて渡辺氏がそう主張するのは、まさに嘘も方便ということである。皆さん本当のことはわかっているでしょうが、そこは見て見ぬふりをしてください、あえて騙されてください、だってほかの人たちもやっていることでしょ? そうしないと政治家はやっていけないことを皆さんよくご承知でしょう、というメッセージなのである。
こういうあいまいな体質というのは、まさに日本人的である。戦後の歴代の政権は憲法解釈という「方便」で実質的な改憲を実現してきた。現在の安倍総理は突出しているように見えるけれど、しかし実際には安保締結以来、日本国憲法はまさに方便と化してきたのである。
ぼくは、しかしこうした日本人的なあいまいさを必ずしも否定しない。これはある意味では成熟した社会における衝突回避、対立緩和のひとつの知恵である。白か黒かをはっきりさせることだけが唯一の正しい答えであるわけでもないだろう。
ただし成熟とは老化であり、熟成とは腐敗でもある。あいまいさや方便というものが、それこそ正しい教えに向かうためのものであればよいけれど、誰か特定の人(々)の利益のために使われてしまえば、それは本当にただの腐敗でしかなくなる。
そしてもっと深刻なのは国際社会ではこんな方便やあいまいさは通用しないと言うことだ。
ハーグの国際司法裁判所は「日本の調査捕鯨は現状では認められない」という判決を下した。
この意味は、現在の日本のやっていることは調査捕鯨ではなく、実質として商業捕鯨であるという判断である。判決の中で判事は「日本人の多くはそのことを知っている」と述べた。まあ、是非はいったん置くとしても事実はその通りである。日本政府はまさに日本国内と同じロジックで、方便、建前として「調査」捕鯨を名乗ってきたのであり、その辺はあいまいなところで許してチョンマゲ!という姿勢でやってきたのだ。
しかしそれは通らない。それこそ集団的自衛権と同じだ。憲法解釈の閣議決定などではなく、やるのならちゃんと改憲をしてからだと言われるように、捕鯨もちゃんと商業捕鯨を認めさせてからやれと言うことなのである。
だがこの本質的な問題を日本政府は、国民に対して正しく説明してこなかった。テレビニュースの中で鯨食を提供する店のオヤジが「バカヤロー」と怒りにまかせて叫んでいたが、果たしてそのことこそが問題なのだとわかっているのだろうか。
彼が怒ったのは鯨料理を出せなくなるからだ。それはつまりクジラが食品として流通しなくなるということである。つまりクジラが商品として商業的に利用できなくなるという意味だ。彼が怒ったのは「調査」ができなくなることにだったのか、それとも「商業利用」できなくなることに対してだったのか。
まさに事実としてクジラは商業利用されている、つまり日本の南半球での捕鯨は商業捕鯨だったということを、はからずも鯨食の店のオヤジが証明したのだ。
時代は前進していく。価値観も変わっていく。世界の半分は少なくともそうだろう。ただしそれに抗う勢力も根強い。それは既得権益を抱え込んでいる者たちだ。彼らは時代の流れを止め、価値観を固定しようとする。いやそれどころか、時代を逆転させ、価値観を古い価値観に引き戻そうとする。
しかしそれはやはり人類の発展とは逆方向である。日本的な古い体質、あいまいさや腹芸のようなあり方は、もはや通用しない。そのことをちゃんと受け止めるべきなのである。
最後の牛車というのはもちろん仏教の比喩だろうが、ようするに無学な大衆に難しい仏教思想を説いても関心を示すはずがない、多少の嘘になっても大衆の心をつかんでありがたい教えの道に導けば、彼らは結果としてこの世の苦しみから救われる、ということを言っているわけだ。
嘘も方便ということわざはここから生まれたわけだが、日本人にとってはとても親しみやすいロジックなのではないだろうか。まあたいていは仏教のような普遍的真理へ導くのではなく、自分にとって都合の良い言い訳にしかならないのだが。
みんなの党の渡辺喜美代表DHCの会長から8億円借りた問題でも、渡辺氏はこのカネを政治資金ではない、個人の借り入れだと主張している。形はそうなのかもしれないが、誰が考えてもこれが渡辺氏の政治活動のためのカネであることは間違いない。また政治活動のための支出でも政治資金からは使えないものもあるとして渡辺氏が例に挙げたのはなんと「熊手」であった。8億円もの大金の使い道がそんなものであるはずがないことは誰でもわかるだろう。
それでもあえて渡辺氏がそう主張するのは、まさに嘘も方便ということである。皆さん本当のことはわかっているでしょうが、そこは見て見ぬふりをしてください、あえて騙されてください、だってほかの人たちもやっていることでしょ? そうしないと政治家はやっていけないことを皆さんよくご承知でしょう、というメッセージなのである。
こういうあいまいな体質というのは、まさに日本人的である。戦後の歴代の政権は憲法解釈という「方便」で実質的な改憲を実現してきた。現在の安倍総理は突出しているように見えるけれど、しかし実際には安保締結以来、日本国憲法はまさに方便と化してきたのである。
ぼくは、しかしこうした日本人的なあいまいさを必ずしも否定しない。これはある意味では成熟した社会における衝突回避、対立緩和のひとつの知恵である。白か黒かをはっきりさせることだけが唯一の正しい答えであるわけでもないだろう。
ただし成熟とは老化であり、熟成とは腐敗でもある。あいまいさや方便というものが、それこそ正しい教えに向かうためのものであればよいけれど、誰か特定の人(々)の利益のために使われてしまえば、それは本当にただの腐敗でしかなくなる。
そしてもっと深刻なのは国際社会ではこんな方便やあいまいさは通用しないと言うことだ。
ハーグの国際司法裁判所は「日本の調査捕鯨は現状では認められない」という判決を下した。
この意味は、現在の日本のやっていることは調査捕鯨ではなく、実質として商業捕鯨であるという判断である。判決の中で判事は「日本人の多くはそのことを知っている」と述べた。まあ、是非はいったん置くとしても事実はその通りである。日本政府はまさに日本国内と同じロジックで、方便、建前として「調査」捕鯨を名乗ってきたのであり、その辺はあいまいなところで許してチョンマゲ!という姿勢でやってきたのだ。
しかしそれは通らない。それこそ集団的自衛権と同じだ。憲法解釈の閣議決定などではなく、やるのならちゃんと改憲をしてからだと言われるように、捕鯨もちゃんと商業捕鯨を認めさせてからやれと言うことなのである。
だがこの本質的な問題を日本政府は、国民に対して正しく説明してこなかった。テレビニュースの中で鯨食を提供する店のオヤジが「バカヤロー」と怒りにまかせて叫んでいたが、果たしてそのことこそが問題なのだとわかっているのだろうか。
彼が怒ったのは鯨料理を出せなくなるからだ。それはつまりクジラが食品として流通しなくなるということである。つまりクジラが商品として商業的に利用できなくなるという意味だ。彼が怒ったのは「調査」ができなくなることにだったのか、それとも「商業利用」できなくなることに対してだったのか。
まさに事実としてクジラは商業利用されている、つまり日本の南半球での捕鯨は商業捕鯨だったということを、はからずも鯨食の店のオヤジが証明したのだ。
時代は前進していく。価値観も変わっていく。世界の半分は少なくともそうだろう。ただしそれに抗う勢力も根強い。それは既得権益を抱え込んでいる者たちだ。彼らは時代の流れを止め、価値観を固定しようとする。いやそれどころか、時代を逆転させ、価値観を古い価値観に引き戻そうとする。
しかしそれはやはり人類の発展とは逆方向である。日本的な古い体質、あいまいさや腹芸のようなあり方は、もはや通用しない。そのことをちゃんと受け止めるべきなのである。