父が亡くなったのは8年前のことだ。今あらためて年数を数えてびっくりした。そんなにたったのか。
父が入院してから亡くなるまでわずか3週間ほどしかなかった。1月のことだったが入院の前日まで自転車で出かけていた。ぼくはその頃すでに報酬を得るための仕事をほとんどしていなかったが、環境保全NPO法人の立ち上げに関わり、そちらの現場作業や事務作業、各種会議の参加などで週の半分以上は家を空けていた。父が体調を崩したのはたぶん前年の終わりころだったのだが、NPOの方に注意を集中していたので父の体調不良に気づけなかった。活動はむしろ年末や正月の方が忙しいという事情もあった。
その日、父が母に付き添われて近くの病院に行ったところ、状態が非常に悪いのですぐに駅前の総合病院に行くよう指示された。いったん家に帰ろうと思ったが途中でへたり込んで動けなくなってしまった。近所の人がタクシーを呼んでくれてそのまま総合病院に入院した。
その日もぼくは現場に出ていて、その経緯を全く知らなかった。医者とも話をしなかった。それで父の病状がどのくらい悪いのかもわからずじまいだったのだ。
父は肺炎だった。たぶん前年から咳が止まらなかったのだろう。市販の咳止め薬を買って飲んでいた形跡があった。なぜ気づけなかったのだろう。
入院した日に病院に駆けつけると父は一見かなり元気に見えた。普通に歩いていたし、耳が遠かったので会話は必ずしも自由ではなかったが、検査に行くのに車いすに乗せられると照れた笑いを浮かべていた。
ぼくは毎日洗濯物を回収して新しい下着を届けたり、病院に必要だと言われてオムツを買って持っていったりした。完全介護だったのでずっと付いていたわけではない。
父はその数年前に脳梗塞の発作を起こしていた。その時は発話障害が起き、短期入院して治療した結果かなり回復はしたが、そこから急激に衰えた。多少痴呆もあったと思う。その頃はぼくは地元の零細な工場に勤めていて、朝7時に家を出て毎日残業をし、帰りは早くても7時、遅ければ真夜中という生活だった。父母と同居していたと言っても父母は父母で独自の生活をしていたという方が正確だったろう。
そのうち父は見当識障害を起こし、出かけたときに電車やバスを乗り間違えたりするようになったようだ。ある日、バスを降りる停留所がわからなくなり、とんでもないところで降りて家に帰れなくなった。母が電話してきてぼくは工場を早退して家に戻ったが、父はすでに家に帰っていて大事にはならなかった。ただ、このことがあったことと、NPO法人の立ち上げの話が持ち上がったこと、そして工場の社長が死んで二代目が社長になってから社内の雰囲気が変わり嫌になっていたことなどが重なって、ぼくは工場を辞めた。
NPOの活動が忙しいとはいえ、工場に勤めていたときに比べればずいぶん時間に余裕が出来たので、ぼくは父とたまに出かけるようになった。家からバスを乗り継いでいけるところに大きな公園と神社があり、酉の市や花見時にふたりで行った。
入院した父は、病院に行ってもだんだん眠ったままのことが多くなった。ぼくはまさかこのまま父が死んでしまうとは思っていなかった。だがこれはけっこう大変だなと心の底では思っていたかもしれない。実際には父の肺炎はどのような抗生物質もきかないいわゆる耐性肺炎だった。今では良く知られた病気だが、まだそのころは一般的な感覚としては肺炎など風邪の少しひどいくらいにしか考えられていなかった。
その時は気づかなかったが、後から考えれば肺炎の原因は誤嚥だったと思う。父は歯槽膿漏で、かなり若い頃から総入れ歯だった。とりわけ脳梗塞の発作以降の衰えもあって食事中か睡眠中に誤嚥をしていたのだろう。誤嚥性肺炎もこのころはあまり知られていなかった。
ともかくもぼくに出来ることは父を励ますことだけだった。眠っていたのかもしれないが、父の耳元で「退院したらまた今年も花見に行こう」と約束した。ぜひまたもう一度、父と花見がしたかった。
今年も桜が満開になった。父との約束は果たせなかった。先月から仏壇の上は桜のディスプレイで飾られている。造花なのはちょっと申し訳ないけれど、これなら春中色あせることはない。
父の葬式は出さなかった。母の葬式もやるつもりがない。もちろん自分の葬式もしてもらいたくない。それがもう30年も前からの我が家の方針だ。ぼくの両親は別に宗教も儀礼も否定はしないし、普通に神社にお参りしたり、仏壇にお線香をあげたりするけれど、死んでしまったら人間の肉体はただのモノでしかないという考え方だった。そうであるなら何かしら世の中の役に立てた方がよいということで、まず母が医科大学の解剖実習のために遺体を献体する登録をした。臓器移植法が出来るずっと前のことだ。数年後に父が登録し、その後ぼくも登録をした。
また葬式に人を呼ぶのは迷惑をかけることだから嫌だという考え方も共通していた。死んでも誰にも通知をするなというのが両親の指示だった。墓もいらない、別に魂は墓にいるわけではない、とも言っていた。
うちにはずっと神棚も仏壇もなかったが、あるとき父はどこからか安い仏壇を買ってきたという。それがずっと押し入れの中に入れっぱなしになっていたのだが、ふと思い出したように父がそれを出してきて、差し替え式の位牌型のネームスタンドに自分の名前、母の名前、ご先祖様などと書いて、自分で祀るようになった。それが我が家の仏壇兼お墓のようなものである。
父が亡くなったとき、ぼくは当然のこととして遺体をすぐ献体し、葬式はあげず、遺骨は大学の共同供養所に入れてもらった。沢山の人と一緒にいた方がさびしくないだろうと母が言っていたからでもある。別の家に養子に入った弟とその家族も納得してくれた。母とぼく、弟とその家族が仏壇の前で寿司を食い、酒を飲んだのが(ぼくと弟だけだが)、葬式のかわりだった。ぼくも母もそれで十分満足だった。
誰にも連絡するなと言われていたが、さすがに全く誰にも伝えないわけにも行かないと思い、父の血筋で一番親しい従兄弟にだけ伝えて、そちらから父方には連絡してもらった。そもそも父は遠いところの出身で身内もみな高齢だ。とてもこちらへ来てもらうのは気の毒だったので、葬式はしないから誰も来ないで欲しい、香典もお気遣い無くということでお願いした。
母は父が死んでから一気に衰えた。しかしぼくは父のことを十分にケアできなかった分、出来る限りのことを母にしてやろうと思った。おそらくそれが父の遺志でもあるだろうと思う。おかげさまで何とか母もなんとかこの8年、大きな病気もせずに来た。しかし父よりも年上だった母はさすがに昨年頃からガタッと老化が進んでいる。
今年は母の通院に付き添ったときに少しだけ桜を見たが、天候と母の具合がうまく都合が付いたら、近所の神社にゆっくり花見に行きたいと思っている。
父が入院してから亡くなるまでわずか3週間ほどしかなかった。1月のことだったが入院の前日まで自転車で出かけていた。ぼくはその頃すでに報酬を得るための仕事をほとんどしていなかったが、環境保全NPO法人の立ち上げに関わり、そちらの現場作業や事務作業、各種会議の参加などで週の半分以上は家を空けていた。父が体調を崩したのはたぶん前年の終わりころだったのだが、NPOの方に注意を集中していたので父の体調不良に気づけなかった。活動はむしろ年末や正月の方が忙しいという事情もあった。
その日、父が母に付き添われて近くの病院に行ったところ、状態が非常に悪いのですぐに駅前の総合病院に行くよう指示された。いったん家に帰ろうと思ったが途中でへたり込んで動けなくなってしまった。近所の人がタクシーを呼んでくれてそのまま総合病院に入院した。
その日もぼくは現場に出ていて、その経緯を全く知らなかった。医者とも話をしなかった。それで父の病状がどのくらい悪いのかもわからずじまいだったのだ。
父は肺炎だった。たぶん前年から咳が止まらなかったのだろう。市販の咳止め薬を買って飲んでいた形跡があった。なぜ気づけなかったのだろう。
入院した日に病院に駆けつけると父は一見かなり元気に見えた。普通に歩いていたし、耳が遠かったので会話は必ずしも自由ではなかったが、検査に行くのに車いすに乗せられると照れた笑いを浮かべていた。
ぼくは毎日洗濯物を回収して新しい下着を届けたり、病院に必要だと言われてオムツを買って持っていったりした。完全介護だったのでずっと付いていたわけではない。
父はその数年前に脳梗塞の発作を起こしていた。その時は発話障害が起き、短期入院して治療した結果かなり回復はしたが、そこから急激に衰えた。多少痴呆もあったと思う。その頃はぼくは地元の零細な工場に勤めていて、朝7時に家を出て毎日残業をし、帰りは早くても7時、遅ければ真夜中という生活だった。父母と同居していたと言っても父母は父母で独自の生活をしていたという方が正確だったろう。
そのうち父は見当識障害を起こし、出かけたときに電車やバスを乗り間違えたりするようになったようだ。ある日、バスを降りる停留所がわからなくなり、とんでもないところで降りて家に帰れなくなった。母が電話してきてぼくは工場を早退して家に戻ったが、父はすでに家に帰っていて大事にはならなかった。ただ、このことがあったことと、NPO法人の立ち上げの話が持ち上がったこと、そして工場の社長が死んで二代目が社長になってから社内の雰囲気が変わり嫌になっていたことなどが重なって、ぼくは工場を辞めた。
NPOの活動が忙しいとはいえ、工場に勤めていたときに比べればずいぶん時間に余裕が出来たので、ぼくは父とたまに出かけるようになった。家からバスを乗り継いでいけるところに大きな公園と神社があり、酉の市や花見時にふたりで行った。
入院した父は、病院に行ってもだんだん眠ったままのことが多くなった。ぼくはまさかこのまま父が死んでしまうとは思っていなかった。だがこれはけっこう大変だなと心の底では思っていたかもしれない。実際には父の肺炎はどのような抗生物質もきかないいわゆる耐性肺炎だった。今では良く知られた病気だが、まだそのころは一般的な感覚としては肺炎など風邪の少しひどいくらいにしか考えられていなかった。
その時は気づかなかったが、後から考えれば肺炎の原因は誤嚥だったと思う。父は歯槽膿漏で、かなり若い頃から総入れ歯だった。とりわけ脳梗塞の発作以降の衰えもあって食事中か睡眠中に誤嚥をしていたのだろう。誤嚥性肺炎もこのころはあまり知られていなかった。
ともかくもぼくに出来ることは父を励ますことだけだった。眠っていたのかもしれないが、父の耳元で「退院したらまた今年も花見に行こう」と約束した。ぜひまたもう一度、父と花見がしたかった。
今年も桜が満開になった。父との約束は果たせなかった。先月から仏壇の上は桜のディスプレイで飾られている。造花なのはちょっと申し訳ないけれど、これなら春中色あせることはない。
父の葬式は出さなかった。母の葬式もやるつもりがない。もちろん自分の葬式もしてもらいたくない。それがもう30年も前からの我が家の方針だ。ぼくの両親は別に宗教も儀礼も否定はしないし、普通に神社にお参りしたり、仏壇にお線香をあげたりするけれど、死んでしまったら人間の肉体はただのモノでしかないという考え方だった。そうであるなら何かしら世の中の役に立てた方がよいということで、まず母が医科大学の解剖実習のために遺体を献体する登録をした。臓器移植法が出来るずっと前のことだ。数年後に父が登録し、その後ぼくも登録をした。
また葬式に人を呼ぶのは迷惑をかけることだから嫌だという考え方も共通していた。死んでも誰にも通知をするなというのが両親の指示だった。墓もいらない、別に魂は墓にいるわけではない、とも言っていた。
うちにはずっと神棚も仏壇もなかったが、あるとき父はどこからか安い仏壇を買ってきたという。それがずっと押し入れの中に入れっぱなしになっていたのだが、ふと思い出したように父がそれを出してきて、差し替え式の位牌型のネームスタンドに自分の名前、母の名前、ご先祖様などと書いて、自分で祀るようになった。それが我が家の仏壇兼お墓のようなものである。
父が亡くなったとき、ぼくは当然のこととして遺体をすぐ献体し、葬式はあげず、遺骨は大学の共同供養所に入れてもらった。沢山の人と一緒にいた方がさびしくないだろうと母が言っていたからでもある。別の家に養子に入った弟とその家族も納得してくれた。母とぼく、弟とその家族が仏壇の前で寿司を食い、酒を飲んだのが(ぼくと弟だけだが)、葬式のかわりだった。ぼくも母もそれで十分満足だった。
誰にも連絡するなと言われていたが、さすがに全く誰にも伝えないわけにも行かないと思い、父の血筋で一番親しい従兄弟にだけ伝えて、そちらから父方には連絡してもらった。そもそも父は遠いところの出身で身内もみな高齢だ。とてもこちらへ来てもらうのは気の毒だったので、葬式はしないから誰も来ないで欲しい、香典もお気遣い無くということでお願いした。
母は父が死んでから一気に衰えた。しかしぼくは父のことを十分にケアできなかった分、出来る限りのことを母にしてやろうと思った。おそらくそれが父の遺志でもあるだろうと思う。おかげさまで何とか母もなんとかこの8年、大きな病気もせずに来た。しかし父よりも年上だった母はさすがに昨年頃からガタッと老化が進んでいる。
今年は母の通院に付き添ったときに少しだけ桜を見たが、天候と母の具合がうまく都合が付いたら、近所の神社にゆっくり花見に行きたいと思っている。