あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

捕鯨問題を蒸し返してみる

2014年04月03日 16時14分25秒 | Weblog
 ぼくは捕鯨が嫌いだ。それは個人的レベルでは心情的なもので、その意味では鯨食を好む人を否定するつもりはない。ぼく自身はそもそもクジラ肉が嫌いでもう二度と食べたくないと思うけれど。

 ただそういうこととは別に、現在の日本の捕鯨を巡る問題は全く違う側面において大きな問題を抱えている。それは政治的、経済的、環境問題的側面である。本質的にはこちらの問題の方が肝心なのに、日本の政府もマスコミもこうした問題をすべて文化的問題で覆い隠そうとする。すなわち鯨食は守られるべき伝統文化であって他国の人が日本の捕鯨を否定するのは文化の圧殺行為、文化侵略、人種差別だという主張だ。
 日本の知性を象徴するコラムとして権威を有する朝日新聞の「天声人語」も4月3日付けで国際司法裁判所による調査捕鯨中止命令について書いていたが、これは大変切れ味が悪かった。政治や経済や環境の問題に全く触れずにただ文化的違いだと言っただけなのである。

 しかし実はその文化というところにかなり怪しいところがある。本当に鯨食は日本に根付いていたのだろうか? たぶんこのことは前にも当ブログで書いていることなので重複するが、ぼくが子供の頃は鯨肉は日常的に食卓に出てきた。クジラのベーコンであったり、大和煮の缶詰であったり、学校給食ではソテーというのかステーキというのか固くてまずい鯨肉の塊が出てきた。もっともそれよりも竜田揚げの方が多かった気がする。こっちの方が食べやすかった。
 はっきり言って我が家ではおいしいからクジラを食べていたわけではない。安いというだけの理由であった。給食でクジラが出たのも同じ理由だろう。だからその後だんだんと牛肉や豚肉の価格が下がってくると、何も好きこのんでクジラを食べることはなくなった。ベーコンなら絶対に豚の方がうまかった。
 今でも「鯨が大好き!」という人は少なくはないだろうが、決して多いわけではない。事実、「調査捕鯨」で確保された鯨肉は現在国内流通量の2年分くらいの在庫がだぶついているはずである。捕鯨禁止期間が長かったから人々がクジラ離れしたという見解もあるだろうが、本当においしいものだったら調査捕鯨開始後に再び人々はクジラを食べただろう。ましてやテレビではさかんに鯨料理の「名店」を紹介している。それでも鯨肉はブームにならない。

 日本列島で太古からクジラが食べられていたことは確かである。だからそれはひとつの歴史的文化だと言うのも間違いではない。しかしだからと言って今現在それが守られねばならない伝統文化だという根拠にはならない。
 ぼくの印象では1960年代から70年代頃の日本では鯨食は文化と言うより必要に迫られた代用食だった。そうした日常的な常識感覚がいつの間にか忘れられて、とても重要な文化であったかのように記述の書き換えが行われたのだと思う。これはまさに従軍慰安婦問題と同じで、当時の人達が普通に常識として考えていたことが、歴史の風化を利用していつの間にか権力者の都合の良いように書き換えられてしまったのだ。

 「捕鯨は文化」という主張はようするに復古キャンペーンなのである。戦前のような侵略に打って出ていけるニッポンへの回帰を目指す右翼勢力の政治的策謀でしかない。天皇崇拝とか靖国神社とかを持ち出して、これが日本の伝統文化だというのと全く同じことだ。彼らは日本の歴史など何も知ろうとしない。長い日本の歴史なのかでいったい天皇や神社がどういう位置と役割を担ってきたのか、なぜそれが日本人の中に伝統として根付いてきたのか理解してもいない。そうしたことをすべて吹っ飛ばして、ただ明治政府によって突然ねつ造された「天皇制」こそが日本の唯一の文化であるというデマをまき散らしてきたのだ。まさに嘘も百遍言ったら本当になるということである。
 鯨食=揺るがしがたい日本の伝統文化という言説もこうした嘘の上に作られていると言うしかない。

 今回の国際司法裁判所の裁定をうけて安倍総理は担当責任者を強く叱責したそうだが、国際環境NGOグリーンピースの分析(「実は、日本は勝ちたくない?  国際司法裁が調査捕鯨に判決」)によれば実は官僚のサイドではこの問題の完全勝利を望んでいなかったという。それには先に挙げたような鯨肉のだぶつきという事情の他に、もはや商業捕鯨は採算が合わないことはわかっいるが多額の補助金が出るので調査捕鯨を止めることもできないという事情、また捕鯨は外交カードとして持っておきたいという思惑など、複雑な内情が絡みあっているのだという。本格的な商業捕鯨の認可はいらないが調査捕鯨は継続したいという、本来の主旨とは全く違う方向性で調査捕鯨が位置付いているのだ。

 官僚サイドでは捕鯨問題をなあなあで済ませたかったのである。しかしもちろん国際社会はそんなに甘くはない。それが今回の結果だ。
 そもそもなぜ日本がわざわざ南氷洋まで行って捕鯨をしなくてはならないのか。他国の領域まで行ってやらなくてはならないことなのか。なぜマスコミはそのことを問題にしないのか。それこそ太地町のイルカ漁のような沿岸捕鯨なら、まだ日本の勝手だと言う余地はあるかもしれないが、地球の裏側で相手側が不愉快に思う行為を好きにやらせてくれと言っても、それは無理というものなのではないか。
 だいたい日本が南極海で捕鯨を始めたのは昭和に入ってからである。先のグリーンピースのブログ記事によればそれは戦費調達のためだったと言う。これを伝統文化と呼ぶことが出来るのだろうか。遠洋漁業形式のクジラ漁は明らかに金儲け目的以外の何ものでもなかった。

 かつて日本ではクジラは神様だった。確かに狩る対象の獲物であったが、それは同時に神だったのだ。飢餓線上の貧しい暮らしをしていた中世の漁村ではクジラが一頭揚がればそれで村全体が生き延びることが出来た。まさにクジラは自らの命をもって人々の命を救ってくれる神であったのだ。クジラは本当に天からの賜り物であり、それは肉を食べるだけでなく、皮、油、骨、髭にいたるまで捨てるところ無く活用された。だから各地に鯨塚が建立され、人々はクジラに深い感謝と敬意を捧げたのである。
 これが日本における鯨文化である。鯨食を文化だと言う前にこうした鯨文化こそ人々に教え広めるべきではないだろうか。大量捕獲、大量消費、大量廃棄を文化だと言いいはり、それを人々に刷り込もうとする行為は、むしろ日本の文化と伝統と精神をないがしろにし、傷つけおとしめることにしかならないと思う。
コメント
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