6月18日の東京都議会で、みんなの党の女性議員が出産や子育て支援策に対する対策について質問をしていた際に、「お前が結婚しろ」「生めないのか」というヤジが飛んだということでマスコミが一斉に報道している。
ヤジを飛ばしたのが自民党の極右系議員であることは、ほぼ特定されているらしい。この議員はすでにマスコミの取材攻勢にあっており、自分がヤジったかどうかわからないというニュアンスの支離滅裂な対応をしたり、新聞記者への電話で怒鳴り散らしたりと、かなり追い詰められている様子だ。
ただ公平に言えば、実はヤジで本当に何が言われたかは定かでない。テレビで放送された録画を元に分析したネット上の記事では「みんなが結婚した方が良いんじゃないか」と聞こえるというものもある(都議会「野次」は「お前が結婚しろ」だったのか)。またおそらく「生めないのか」というヤジについては明瞭な録音が残っている資料は今のところどこにも公開されていない。
ひとつ注意しなくてはならないのは、マスコミがセンセーショナルに報道するからと言って、それをそのまま鵜呑みにしてしまうのは危険だと言うことだ。このことは常に心にとめておかねばならない。
それにしても結局のところ、ヤジを飛ばした本人がサッサと名乗り出て、自分の本意について明らかにしないから、訳のわからない話になるのだ。それは何を意味しているのか。名乗り出られない理由があるということだ。普通に考えれば自分が言ったことが差別的であると自覚しているからだろうと誰もが思う。
しかしもしかすると、問題はもっと深刻なのかもしれない。それは自分が言ったことが差別的なのかどうか自分で判断できないのかもしれない。つまり自分では何が問題なのかわからないが世間が騒いでいるから黙っておこうということだったら、これはかなり困ったことだ。
ただ別の見方をすれば、それは差別というものの本質でもある。いわゆるヘイト・スピーチのような意識的、意図的な差別的挑発は確信犯であり、良くも悪くも何らかの強制的な対応をする以外に止めることは出来ない。しかし本当に社会において危険かつ深刻なのは無意識的な差別観である。本人がそれを差別であると自覚していない差別こそ、真の問題なのだ。
今回の都議会ヤジの問題でテレビのコメンテーターはこぞって「今どきまだこんな発言をするのか」と批判する。しかしそれは本当に「今どきまだ」なのだろうか。むしろ現代は意識的、無意識的な差別感情が爆発している時代なのではないのか。
2ちゃんねるを覗いてみれば、この問題に関するスレッドはあまりに差別むき出しの言葉があふれかえっている。その中には野党・少数派への差別と民族差別、女性差別をこの問題と絡め、当事者の女性議員の個人攻撃をテコにする読むに耐えないものも少なくない。
こうした極端なヘイト・スピーチを放置しておいて、というより権力者たちが都合の良いときにこうした「世論」を利用しておいて、一方で聖人君子のようにヤジを飛ばした特定の個人だけを批判するのでは、この問題を本質的に解決することになるはずがない。与党幹部たちも表向きはヤジを徹底的に批判するが、それはただ自分たちの利害のためのしっぽ切りでしかない。
意識的にせよ、無意識的にせよ、差別感情・差別意識が増えるのには、当然理由がある。格差の拡大である。論理的には格差意識が強くなれば、自分より優位な者を恨むようになると思えるが、現実には自分が虐げられれば虐げられるだけ、自分より劣位の者に対する差別意識が激しくなる。
「今どきまだ」なのではなく、今だからこそ、こうした問題が拡大していくのだということに自覚的であるべきだと思う。
ヤジを飛ばしたのが自民党の極右系議員であることは、ほぼ特定されているらしい。この議員はすでにマスコミの取材攻勢にあっており、自分がヤジったかどうかわからないというニュアンスの支離滅裂な対応をしたり、新聞記者への電話で怒鳴り散らしたりと、かなり追い詰められている様子だ。
ただ公平に言えば、実はヤジで本当に何が言われたかは定かでない。テレビで放送された録画を元に分析したネット上の記事では「みんなが結婚した方が良いんじゃないか」と聞こえるというものもある(都議会「野次」は「お前が結婚しろ」だったのか)。またおそらく「生めないのか」というヤジについては明瞭な録音が残っている資料は今のところどこにも公開されていない。
ひとつ注意しなくてはならないのは、マスコミがセンセーショナルに報道するからと言って、それをそのまま鵜呑みにしてしまうのは危険だと言うことだ。このことは常に心にとめておかねばならない。
それにしても結局のところ、ヤジを飛ばした本人がサッサと名乗り出て、自分の本意について明らかにしないから、訳のわからない話になるのだ。それは何を意味しているのか。名乗り出られない理由があるということだ。普通に考えれば自分が言ったことが差別的であると自覚しているからだろうと誰もが思う。
しかしもしかすると、問題はもっと深刻なのかもしれない。それは自分が言ったことが差別的なのかどうか自分で判断できないのかもしれない。つまり自分では何が問題なのかわからないが世間が騒いでいるから黙っておこうということだったら、これはかなり困ったことだ。
ただ別の見方をすれば、それは差別というものの本質でもある。いわゆるヘイト・スピーチのような意識的、意図的な差別的挑発は確信犯であり、良くも悪くも何らかの強制的な対応をする以外に止めることは出来ない。しかし本当に社会において危険かつ深刻なのは無意識的な差別観である。本人がそれを差別であると自覚していない差別こそ、真の問題なのだ。
今回の都議会ヤジの問題でテレビのコメンテーターはこぞって「今どきまだこんな発言をするのか」と批判する。しかしそれは本当に「今どきまだ」なのだろうか。むしろ現代は意識的、無意識的な差別感情が爆発している時代なのではないのか。
2ちゃんねるを覗いてみれば、この問題に関するスレッドはあまりに差別むき出しの言葉があふれかえっている。その中には野党・少数派への差別と民族差別、女性差別をこの問題と絡め、当事者の女性議員の個人攻撃をテコにする読むに耐えないものも少なくない。
こうした極端なヘイト・スピーチを放置しておいて、というより権力者たちが都合の良いときにこうした「世論」を利用しておいて、一方で聖人君子のようにヤジを飛ばした特定の個人だけを批判するのでは、この問題を本質的に解決することになるはずがない。与党幹部たちも表向きはヤジを徹底的に批判するが、それはただ自分たちの利害のためのしっぽ切りでしかない。
意識的にせよ、無意識的にせよ、差別感情・差別意識が増えるのには、当然理由がある。格差の拡大である。論理的には格差意識が強くなれば、自分より優位な者を恨むようになると思えるが、現実には自分が虐げられれば虐げられるだけ、自分より劣位の者に対する差別意識が激しくなる。
「今どきまだ」なのではなく、今だからこそ、こうした問題が拡大していくのだということに自覚的であるべきだと思う。