都議会のセクハラ野次問題は、やはりと言うか、あいまい決着で幕引きがはかられた。正直に言ってぼく自身は、事実そのもの(誰が、何を、どういう意図で野次を飛ばしたのか)さえ全く明らかにされなかったと思うので、評価の仕様もないという気分だ。
今回の問題でぼくが感じた違和感に似たことを指摘している記事があったので紹介しておこう。
「都議会ヤジの問題で大はしゃぎする人たちが軽すぎて、頭痛が痛い。」
ぼくとは全く立場や考え方の違う人だし、別にこの文章の全てに賛同するわけではないが、今回の問題の本質を突いていると思う。
都議会ではこの問題に関する三つの提案があった。自民系、みんな系、共産党のものである。自民の提案はようするに「まあここで幕引きにしましょう。これ以上事を荒立てるのはやめましょう」ということだ。これには結果的に全会派が賛成したようだ。
みんな系の提案は民主党と生活者ネットのみの賛成で、逆に言えば他の会派は否決にまわったと言うことだ。野次の発言者である鈴木議員の辞職を求める共産党案は共産党だけが賛成した。
この結果を見ると何だか体の中をゾワゾワしたものが駆け抜ける。なんだこれは。ようするに党派間のさや当てというか、結局政治勢力同士のいつも見慣れた対立構造でしかないではないか。ようするにこれが前に書いた「ミソもクソも一緒」ということである。誰もこの問題を差別の問題とか人権の問題とか文化の問題だとか思っていないのだ。これもこまごまある政治闘争の材料のひとつでしかないのだ。
なぜ共産とみんな・民主・生活ネットが共同歩調をとれないのか。政治的にやりたくないのだろうし、またやっても政治的なメリットがないということだ。なぜ会派を超えて賛成・反対を表明できないのか。議会が「都民」のものではなく政党のものだからだ。
このところ石原環境大臣の「金目」発言と言い、麻生副総理の集団的自衛権問題をイジメにたとえる発言と言い、自民党の失言問題がまた目立っている。政治家に緊張感が無いのだろう。政治家の仕事の最も重要な仕事は選挙に勝つことであって、あとは親分の指示通りに無批判・無反省に議会に出て議決権を行使していればよく、議場で寝ていようが遊んでいようがどうでもよいのだ。何しろ次の選挙までには期間があり、有権者はそれまでに何もかも忘れてしまうのだから。次の選挙に勝つためにはむしろ頭を低くして、なるべく目立たない方が得策でさえあるのだ。
このことを別の観点で言えば、議会が議会として機能していないと言うことを意味する。
本来、議会は論議を重ねてよりよい結論に到達するためにある。しかし多数決主義(数の暴力主義と言い換えても良いが)の下では、議会の機能は決議をとることだけになってしまった。いくら議会で議論しても最終的には多数派の意見が通る。本当に決定的な修正やすりあわせは議場の外の密室談合で全て決められる。
そんな議場の討論に本気になれないのは仕方ないことだろうなあ、と多数派の無気力議員にむしろ同情したくなるほどだ。だって最後の決議以外に仕事が何もないのだもの。政治家の質が低下するのも当然だ。
たぶん近代の初めにおいては、選挙も議会ももっと真剣で緊張感があったのだろう。代議員はまさにワタシの生存に関わるような重要な代理として選んだのだろうし、議会は政治屋のメシの種としてではなく、共同体の命運を左右する重大な方向性を決める場として、真摯な討論が行われたのだろう。
その時点では選挙も代議制も議会も民主主義も、本来の意味で機能していたのだと思う。しかしすでに近代は終盤を迎え、近代を形成していたイデオロギーもツールも劣化し機能不全を起こしている。
冒頭に紹介したネットの文章の筆者が嘆いているように、民衆・大衆も社会に対する責任感や緊張感が無く、ただ一瞬の「祭り」にうっぷんをはらすだけという劣化ぶりだ。
ただ、しかしそれでもやはり、女性差別はいけない、セクハラは許さないという「まっとうな」意見が、ともかくも、女は黙っていろ、男の論理に従えと言うまるでボコ・ハラムみたいな勢力の言葉よりも取り上げられているのは、まだ救いがあると言って良いことなのかもしれない。近代そのものが腐り始めているとしても、その到達点、果実の種は少なくともそれ以前の時代よりも確実に進化しているし、最後には時代は後戻りせず前進するのだという希望を与えてくれる。
現在の日本の国政において最も復古的、時代錯誤的な政治勢力が「次世代の党」という名称を採用せざるを得ないことが、そのことを皮肉に象徴している。
ひとりずつでもこの社会に存在する問題について表面的にではなく本質的に考える人が増えていけば、この閉塞状況は今すぐではなくてもいつかきっと突破されることだろう。
今回の問題でぼくが感じた違和感に似たことを指摘している記事があったので紹介しておこう。
「都議会ヤジの問題で大はしゃぎする人たちが軽すぎて、頭痛が痛い。」
ぼくとは全く立場や考え方の違う人だし、別にこの文章の全てに賛同するわけではないが、今回の問題の本質を突いていると思う。
都議会ではこの問題に関する三つの提案があった。自民系、みんな系、共産党のものである。自民の提案はようするに「まあここで幕引きにしましょう。これ以上事を荒立てるのはやめましょう」ということだ。これには結果的に全会派が賛成したようだ。
みんな系の提案は民主党と生活者ネットのみの賛成で、逆に言えば他の会派は否決にまわったと言うことだ。野次の発言者である鈴木議員の辞職を求める共産党案は共産党だけが賛成した。
この結果を見ると何だか体の中をゾワゾワしたものが駆け抜ける。なんだこれは。ようするに党派間のさや当てというか、結局政治勢力同士のいつも見慣れた対立構造でしかないではないか。ようするにこれが前に書いた「ミソもクソも一緒」ということである。誰もこの問題を差別の問題とか人権の問題とか文化の問題だとか思っていないのだ。これもこまごまある政治闘争の材料のひとつでしかないのだ。
なぜ共産とみんな・民主・生活ネットが共同歩調をとれないのか。政治的にやりたくないのだろうし、またやっても政治的なメリットがないということだ。なぜ会派を超えて賛成・反対を表明できないのか。議会が「都民」のものではなく政党のものだからだ。
このところ石原環境大臣の「金目」発言と言い、麻生副総理の集団的自衛権問題をイジメにたとえる発言と言い、自民党の失言問題がまた目立っている。政治家に緊張感が無いのだろう。政治家の仕事の最も重要な仕事は選挙に勝つことであって、あとは親分の指示通りに無批判・無反省に議会に出て議決権を行使していればよく、議場で寝ていようが遊んでいようがどうでもよいのだ。何しろ次の選挙までには期間があり、有権者はそれまでに何もかも忘れてしまうのだから。次の選挙に勝つためにはむしろ頭を低くして、なるべく目立たない方が得策でさえあるのだ。
このことを別の観点で言えば、議会が議会として機能していないと言うことを意味する。
本来、議会は論議を重ねてよりよい結論に到達するためにある。しかし多数決主義(数の暴力主義と言い換えても良いが)の下では、議会の機能は決議をとることだけになってしまった。いくら議会で議論しても最終的には多数派の意見が通る。本当に決定的な修正やすりあわせは議場の外の密室談合で全て決められる。
そんな議場の討論に本気になれないのは仕方ないことだろうなあ、と多数派の無気力議員にむしろ同情したくなるほどだ。だって最後の決議以外に仕事が何もないのだもの。政治家の質が低下するのも当然だ。
たぶん近代の初めにおいては、選挙も議会ももっと真剣で緊張感があったのだろう。代議員はまさにワタシの生存に関わるような重要な代理として選んだのだろうし、議会は政治屋のメシの種としてではなく、共同体の命運を左右する重大な方向性を決める場として、真摯な討論が行われたのだろう。
その時点では選挙も代議制も議会も民主主義も、本来の意味で機能していたのだと思う。しかしすでに近代は終盤を迎え、近代を形成していたイデオロギーもツールも劣化し機能不全を起こしている。
冒頭に紹介したネットの文章の筆者が嘆いているように、民衆・大衆も社会に対する責任感や緊張感が無く、ただ一瞬の「祭り」にうっぷんをはらすだけという劣化ぶりだ。
ただ、しかしそれでもやはり、女性差別はいけない、セクハラは許さないという「まっとうな」意見が、ともかくも、女は黙っていろ、男の論理に従えと言うまるでボコ・ハラムみたいな勢力の言葉よりも取り上げられているのは、まだ救いがあると言って良いことなのかもしれない。近代そのものが腐り始めているとしても、その到達点、果実の種は少なくともそれ以前の時代よりも確実に進化しているし、最後には時代は後戻りせず前進するのだという希望を与えてくれる。
現在の日本の国政において最も復古的、時代錯誤的な政治勢力が「次世代の党」という名称を採用せざるを得ないことが、そのことを皮肉に象徴している。
ひとりずつでもこの社会に存在する問題について表面的にではなく本質的に考える人が増えていけば、この閉塞状況は今すぐではなくてもいつかきっと突破されることだろう。