産経新聞の前ソウル支局長がソウル中央地検に在宅で起訴された問題。この人物が執筆したウェブサイトのコラムが、取材もせず事実とも違うとしてパク・クネ韓国大統領の名誉を毀損したとされた。
まずはじめに書いておくが、ぼくはこの起訴に断固反対するし、厳しく批判したい。そもそも国家権力が言論機関を起訴するのは言論弾圧であり、基本的に許されることではない。これは日本の秘密法においても同じことである。
さらに、もしこれが仮に民事だとしても、大統領という権力者が民間の言論人に対して裁判を起こすのは不当である。日本においても近年スラップ訴訟が常態化し、権威・権力を持つ者がその力を使って普通の人でしかない人の言論を封殺しようとしている。こうしたことが許されるはずがない。
しかしこうした当然の前提を踏まえた上で、あえて言うなら日本中がこぞってヒステリックに韓国批判をするのもどうかと思う。
第一にいかに不当な言論弾圧だとしても、韓国側は一応法律に則って起訴を行っている。韓国の新聞の内容を引用したのだから韓国紙も同罪だという論調があるが、しかし韓国紙は少なくとも取材をしたのであろうし、それが誤報であったと言うことなのかもしれない。それに比べて、そうした誤報記事を何も調べず安易に、しかも明らかに批判の材料として使った産経の記事は悪意があると言われても仕方ない。
さてその上でさらにこの起訴を批判する人は、他国の法律とその運用に対してそれが間違っていると言うからには、自分の国がどうなのかもよく考えてみるべきである。他人の国は批判するが自分のことは棚に上げるというのでは、全くどこにも普遍性が無い。
本年の2月、国際的なジャーナリスト団体である「国境なき記者団」は、「世界報道の自由度ランキング 2014」で日本を59位にランク付けした。日本はそれまで2009年が17位、2010年に11位であったのだが、2013年は53位、そして今年が59位にまで落ちている。ちなみに台湾は50位、問題の韓国は57位で、日本はそれより下位に位置づけられているのである。グレードとしては五段階中の三段階目「顕著な問題あり」とされた。
これは特定秘密法の成立や福島原発事故の情報の不透明さが響いたと言われている。
リポートの中ではスラップ訴訟の問題も取り上げられ、「逮捕、家宅捜索、国内情報機関による取り調べや司法手続きの脅威」や「日本独特のシステムによって、フリーランスや外国人記者への差別が増えている」ことが指摘されている。
当ブログでは何度も「批判は常に自己批判でなくてはならない」と主張してきた。それはまさに「他人の振り見て我が振り直せ」ということであり、他者を批判する以上、自分も同じ過ちを犯していないか、犯す危険はないかを自己批判的に検証しなければ、何の意味もないし説得力もないという意味である。韓国に言論の自由がないと批判するのはけっこうだが、そういう以上、国際的にはっきり指摘されている日本自身の問題と真正面から向き合うべきだろうと思うのである。
もうひとつ、言論弾圧は許せないとしても、産経新聞も産経新聞だということがもっと指摘されても良い。
産経は日本国内の感覚で気楽に記事を書き、それをインターネットで拡散したのだろうが、そもそも記事の内容が下劣で品がない。先日の参議院予算委員会で民主党の野田国義議員が山谷えり子国家公安委員長に対して放った「ねんごろ」発言について、安倍首相は「聞くに堪えない侮辱的で下品なやじ」とネット上に書いたそうだが、産経の記事はそれと同等か、細かく念入りではっきり書いている分、より悪質なのではないだろうか。
おそらく多くの人が触れていない重要な点は、パク・クネ大統領が政治家であると同時に国家元首であるという点である。日本では戦後の新憲法下で元首の規定が無くなったので、元首というものの尊厳について理解しづらいのかもしれないが、たとえば日本の天皇や皇族について外国メディアが同じようなデマ記事を書いたら、いったいどういうことになるか想像してみたらよい。それはもう大騒動であろう。
これが韓国だから在宅起訴になったが、国によっては即時逮捕、処分と言うこともあり得るのである。
産経がそうした問題があると認識しなかったのは、現状の日本のマスコミのあまりにひどい状態があり、感覚が麻痺しているからではないのか。今や週刊誌の暴言は度を超している。マスコミが2ちゃんねる化しているのである。こうした日本の「当たり前」の感覚で記事が書かれ、ネットに掲載されてしまったのではないのか。
日本国内においては、それはいよいよ危機的状況にまで強まっている。うち続く「朝日新聞バッシング」の中で、朝日の元記者が教員を務める複数の大学に、元記者を辞めさせなければ学生に危害を与えるという脅迫状が届けられた。
これに対して朝日バッシングの最先頭に立ってきた産経や読売も社説で、言論の自由に対する攻撃として批判をしたが、こうした状況を自分たちが作ってきたのだということを認めて自己批判するべきである。
そもそもなぜ日本のマスコミはこんなに右傾化してしまったのか。体制寄り、国家寄り、さらには現実の国家指導者よりずっと右サイドに走って、より極右的政治へと牽引するような存在になってしまったのか。
それは彼らがジャーナリストとして敗北してきた結果である。当コラムでも何度か触れているが、戦後の自由な言論解禁の空気の中で、多くのメジャー・ジャーナリズムは進歩的、開放的な論調であった。ところが「風流夢譚」事件などの幾度かの右翼の暴力的言論封殺攻撃にあい、また国家権力・自民党のカネと力による圧力に屈して、主要メディアがぐんぐんと右傾化してきたのである。大学への脅迫状事件は、ようするにマスコミが自ら蒔いた種なのだ。屈し続けてきた結果、やがて自分自身が攻撃の対象になっていくのである。数年前に起こったフジテレビへの韓流ドラマ排斥デモを思い出すと良い。
もとより言論は自由であるべきだ。権力は弾圧してはならないし、また権力に屈してもならない。しかしまた同時に言論には責任が伴う。言いたい放題であることも許されない。今回の産経前ソウル支局長起訴問題はそのことを考える良い機会だ。皆が冷静かつ真摯にこの問題の根っこのところを見据えるべきだと思う。
まずはじめに書いておくが、ぼくはこの起訴に断固反対するし、厳しく批判したい。そもそも国家権力が言論機関を起訴するのは言論弾圧であり、基本的に許されることではない。これは日本の秘密法においても同じことである。
さらに、もしこれが仮に民事だとしても、大統領という権力者が民間の言論人に対して裁判を起こすのは不当である。日本においても近年スラップ訴訟が常態化し、権威・権力を持つ者がその力を使って普通の人でしかない人の言論を封殺しようとしている。こうしたことが許されるはずがない。
しかしこうした当然の前提を踏まえた上で、あえて言うなら日本中がこぞってヒステリックに韓国批判をするのもどうかと思う。
第一にいかに不当な言論弾圧だとしても、韓国側は一応法律に則って起訴を行っている。韓国の新聞の内容を引用したのだから韓国紙も同罪だという論調があるが、しかし韓国紙は少なくとも取材をしたのであろうし、それが誤報であったと言うことなのかもしれない。それに比べて、そうした誤報記事を何も調べず安易に、しかも明らかに批判の材料として使った産経の記事は悪意があると言われても仕方ない。
さてその上でさらにこの起訴を批判する人は、他国の法律とその運用に対してそれが間違っていると言うからには、自分の国がどうなのかもよく考えてみるべきである。他人の国は批判するが自分のことは棚に上げるというのでは、全くどこにも普遍性が無い。
本年の2月、国際的なジャーナリスト団体である「国境なき記者団」は、「世界報道の自由度ランキング 2014」で日本を59位にランク付けした。日本はそれまで2009年が17位、2010年に11位であったのだが、2013年は53位、そして今年が59位にまで落ちている。ちなみに台湾は50位、問題の韓国は57位で、日本はそれより下位に位置づけられているのである。グレードとしては五段階中の三段階目「顕著な問題あり」とされた。
これは特定秘密法の成立や福島原発事故の情報の不透明さが響いたと言われている。
リポートの中ではスラップ訴訟の問題も取り上げられ、「逮捕、家宅捜索、国内情報機関による取り調べや司法手続きの脅威」や「日本独特のシステムによって、フリーランスや外国人記者への差別が増えている」ことが指摘されている。
当ブログでは何度も「批判は常に自己批判でなくてはならない」と主張してきた。それはまさに「他人の振り見て我が振り直せ」ということであり、他者を批判する以上、自分も同じ過ちを犯していないか、犯す危険はないかを自己批判的に検証しなければ、何の意味もないし説得力もないという意味である。韓国に言論の自由がないと批判するのはけっこうだが、そういう以上、国際的にはっきり指摘されている日本自身の問題と真正面から向き合うべきだろうと思うのである。
もうひとつ、言論弾圧は許せないとしても、産経新聞も産経新聞だということがもっと指摘されても良い。
産経は日本国内の感覚で気楽に記事を書き、それをインターネットで拡散したのだろうが、そもそも記事の内容が下劣で品がない。先日の参議院予算委員会で民主党の野田国義議員が山谷えり子国家公安委員長に対して放った「ねんごろ」発言について、安倍首相は「聞くに堪えない侮辱的で下品なやじ」とネット上に書いたそうだが、産経の記事はそれと同等か、細かく念入りではっきり書いている分、より悪質なのではないだろうか。
おそらく多くの人が触れていない重要な点は、パク・クネ大統領が政治家であると同時に国家元首であるという点である。日本では戦後の新憲法下で元首の規定が無くなったので、元首というものの尊厳について理解しづらいのかもしれないが、たとえば日本の天皇や皇族について外国メディアが同じようなデマ記事を書いたら、いったいどういうことになるか想像してみたらよい。それはもう大騒動であろう。
これが韓国だから在宅起訴になったが、国によっては即時逮捕、処分と言うこともあり得るのである。
産経がそうした問題があると認識しなかったのは、現状の日本のマスコミのあまりにひどい状態があり、感覚が麻痺しているからではないのか。今や週刊誌の暴言は度を超している。マスコミが2ちゃんねる化しているのである。こうした日本の「当たり前」の感覚で記事が書かれ、ネットに掲載されてしまったのではないのか。
日本国内においては、それはいよいよ危機的状況にまで強まっている。うち続く「朝日新聞バッシング」の中で、朝日の元記者が教員を務める複数の大学に、元記者を辞めさせなければ学生に危害を与えるという脅迫状が届けられた。
これに対して朝日バッシングの最先頭に立ってきた産経や読売も社説で、言論の自由に対する攻撃として批判をしたが、こうした状況を自分たちが作ってきたのだということを認めて自己批判するべきである。
そもそもなぜ日本のマスコミはこんなに右傾化してしまったのか。体制寄り、国家寄り、さらには現実の国家指導者よりずっと右サイドに走って、より極右的政治へと牽引するような存在になってしまったのか。
それは彼らがジャーナリストとして敗北してきた結果である。当コラムでも何度か触れているが、戦後の自由な言論解禁の空気の中で、多くのメジャー・ジャーナリズムは進歩的、開放的な論調であった。ところが「風流夢譚」事件などの幾度かの右翼の暴力的言論封殺攻撃にあい、また国家権力・自民党のカネと力による圧力に屈して、主要メディアがぐんぐんと右傾化してきたのである。大学への脅迫状事件は、ようするにマスコミが自ら蒔いた種なのだ。屈し続けてきた結果、やがて自分自身が攻撃の対象になっていくのである。数年前に起こったフジテレビへの韓流ドラマ排斥デモを思い出すと良い。
もとより言論は自由であるべきだ。権力は弾圧してはならないし、また権力に屈してもならない。しかしまた同時に言論には責任が伴う。言いたい放題であることも許されない。今回の産経前ソウル支局長起訴問題はそのことを考える良い機会だ。皆が冷静かつ真摯にこの問題の根っこのところを見据えるべきだと思う。
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