斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

41 【悪夢より怖い現実】

2018年02月24日 | 言葉

 現実味のある夢
 夢には荒唐無稽な内容が多いし、大半は寝覚めると同時に忘れてしまう類(たぐい)だ。ところが妙にオリジナリティーがあって、かつ現実味もあり、感心させられる夢が稀(まれ)にある。昨夜の夢など、その一例かもしれない。

「おーい、待ってくれよ、脱げちゃったよ!」
 家の前の児童公園で小学生くらいの男児の声がした。公園内は雪解けの泥ばかりで、元気な数人の子が真ん中あたりを駆けて行く。断わるまでもなく夜の夢、たぶん明け方近くに見た夢で、昼寝しながら窓越しに聞いた会話ではない。
「靴かよ、ちゃんとヒモを結んでおけよ、マッタク!」
 先頭を走る子供が、呆れたように叫んで振り返る。
「ちがうよ、パンツだよ。パンツが脱げたんだよ!」
「なんで? どうしてパンツなんだよ!」
 ついに先頭の子が怒り顔になる。
「ズボンの中でパンツが脱げたんだ!」
 半分泣きべそをかきながら「脱げちゃった」子供。

 先頭を走っていた子供同様、筆者も夢の中で事態を理解することが出来ない。泥道で靴が脱げたのなら分かりやすいが、脱げたのはパンツの方だって? ここで目が覚めて夢の内容を再び思い返した。するとツジツマの合う解釈も出来るような気がしてきた。おそらく古くなっていたパンツのゴム紐が、急に走り出したせいで切れたか緩んだかしたのだろう。ゴム紐の利かなくなったパンツは、ずり落ちて股間で止まった。こうなると確かに走りにくい――。
 大方の夢だと目覚めた途端に理屈が通らない馬鹿馬鹿しさに気づく。ところが、この夢のように目覚めてから理屈が通っていたことを知る場合もある。脱げたのが靴でなくてパンツという点にも意外性があり、それが面白く思えて紹介してみた。もっとも面白がっているのは筆者ばかりかもしれない。

 楽しい夢、不快な夢
 夢の中には繰り返し見るので忘れられなくなる夢もある。楽しい夢は少なく、不快な夢の方が覚えている率が高い。筆者がかつて繰り返し見た唯一楽しい夢は空を飛ぶ夢だ。地上から羽ばたくと人家の屋根や巨木のテッペンぐらいまでなら軽々と浮かび上がることが出来た。しかし羽ばたきを止めるとすぐ落下してしまう。悠然と大空を滑空するワシ・タカ類のようには行かない。それでも「自分はその気になれば、いつでも空を飛べるんだ!」という気持ちになれたので、寝覚めの気分は上々。40代の頃によく見た夢で、さすがに今では見なくなった。

 これとは反対に不快な方の代表格は大学受験の夢である。還暦を過ぎる頃まで時折見た。第一志望の受験に失敗して第二志望の大学へ入学したものの、大学卒業が間近になってなお第一志望を受験し直そうかと迷っている、という内容。大学生になると遊んでばかりで再受験の勉強はしていないから、夢の中の自分も「受かるわけがない」と悟っている。第一志望校への再受験は新聞や雑誌の人生相談欄でしばしば見かける平凡な悩みであるし、夢の中でさえ非現実性を承知しているというのに、なぜ繰り返し見るのか。不快さの理由の正体は未練がましい自分への苛立ちなのだ。
 さて、もう1つの不快な夢はゴルフ中のロストボール探し。打ったボールを見失うが、潔く2打付加のロストボール宣言をするのが惜しくて、執念深くボールの行方を探す。一緒にプレーする仲間たちは呆れて「ゆっくり探してくれ。オレたちは、お先に」とかなんとか言って、次のホールへ行ってしまう。結局夕方までボールを探したので1ホールもホールアウト出来ず、その日のゴルフは終わりに。かくて、まる1日と高額なプレー料金とが無駄になった。内容もさることながら繰り返しこんな夢を見ている自分が腹立たしくてならない。こちらはゴルフをやめた今でも見る。

 これも「自己意識の反映」だろうか。精神分析を持ち出すまでもなく人格が透けて見えるが如き夢でもある。卑近な瑣事ばかりで天下国家の夢など見たこともない。見ても、すぐ忘れる。あ~、やはり夢の中より現実の世界がいいのか。

 現実の悪夢にもご注意!
 年金受給者のご同輩ならご承知のことと思うが、偶数月の年金支払日前に日本年金機構から「年金払込通知書」なるハガキが届く。今月分のハガキの記載内容が、いつもと違っていた。取られないはずの所得税の欄に、2月と4月の分として各「2万5503円」の数字があった。今年度分の本の印税は雀の涙ほどで所得税徴収の対象規定額に達していない。「年金支給制度が変わったのか?」と首をかしげつつ、問い合わせの『ねんきんダイヤル』へ電話をかけてみた。
「去年9月、受給権者様あてに『扶養親族申告書』をお送りいたしましたが、OO様からは返送されて来ませんでした。それで扶養親族ナシと判断しまして、新たに課税させてもらうことになりました」
 れ、れ、れッ! そのような『申告書』など送られて来なかった。時間がたっぷりあるので郵便物には必ず目を通すし、返事や書類返送の早いことも筆者のひそかな自慢の1つだ。郵便事故で届かなかったか、それとも年金機構側の手違いなのか、どちらかだろう。さっそく再送付をお願いし、届いた『申告書』を見てナットクした。やはり書類記入の体裁は初めて見るもので、以前このような書類を受け取った記憶はない。
 お役所仕事にミスがないと思っていたら大変な間違いである。記載内容の変化に気づかず、あるいは気づいても「制度が変わったのだろう」と、そのまま済ましてしまう人は多いに違いない。こうした形で以後課税され続ければ、これ以上の“悪夢”はない。扶養親族の有無は国税当局の知るところだし、こんな時のためのマイナンバー制度である。年金受給者に二重の手間をかけるお役所仕事も“悪夢”であるに違いない。